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ジョセフ・ヒース「ナオミ・クラインの気候問題論」(2015年3月6日)

Joseph Heath, “Naomi Klein: This Changes Everything“,  In Due Course, March 6, 2015.

(…前略…)

私のブログの読者であれば知っているかもしれないが、アンドリュー・ポッターとの共著『反逆の神話』を出版して以来の10年以上にわたって、私はナオミ・クラインに対して実に一方的な議論を行ってきた(ただし、『反逆の神話』ではクラインを批判するのに5ページかそこらしか割いていない。その批判は、『ブランドなんか、いらない』への”返答”であると多くの人から思われた)。クラインが書くような本をカナダの他の人々が書いてしまうことを阻止しようとするために、人生のうちのかなりの年数を費やしてしまったことは自分でも認めざるをえない。クラインの新刊『すべてを変える物語』がベストセラーになっているという事実は、結果として、私の人生の中でも重要なプロジェクトの一つが失敗してしまったということを本質的に表しているだろう。このため、『すべてを変える物語』を分析するうえで私情を挟まないようにするのは私にとってはかなり難しいことになる。

また、この10年で何か発見したことがあるとすれば、それはナオミ・クラインを批判することはJ・K・ローリングを批判するのと同じようなことであるという事実だ。たとえあなたが正かったとしても、あなたが言うことは何一つ世界の軌道を変えない。 …すべての物事は、あなたが存在していなかったり何も書かなかったりした場合とまったく同じように展開し続けるのだ。

では、本筋を見失わないために焦点をきわめて狭く定めて、『すべてを変える物語』で提起された問題のなかでも中心的な主張に密接に関連した一つの問題だけを取り上げることにしたい。残念なことに、『すべてを変える物語』の主張を正確に見極めることは、本の副題(「資本主義 vs 気候問題」)が示唆しているほど簡単にはいかない。彼女が以前から用いているレトリックと同じように、この副題は、資本主義的な経済システムを維持しつつ気候変動の問題を解決する方法は存在しないとクラインは論じるつもりであるかのように思わせる。つまり、ジョエル・コヴェルが2007年の著書『エコ社会主義とは何か(自然の敵:資本主義の終焉か、世界の終焉か?)』で行ったのと同じような主張をクラインも行おうとしているのだとこの副題は思わせるのだ。しかしながら、実際にはクラインはそれを主張していない。彼女は市場を撤廃したいと思っていないし、利益追求的な企業を撤廃したいとすら思っていないのだ(本の中のある箇所では、彼女は「無炭素経済においても利益を挙げられる余地は充分に存在している」[252]と言い切っている)。

さらに、クラインが「資本主義 vs 気候問題」の争いを描写する時、彼女は「気候問題」に対して厳密に「資本主義」を対立させることを決してしない。クラインはこんなことを言う:「今こそ、この現状を引っ繰り返すべき時である。それは可能なのか?全くもって可能だ。だが、規制の無い資本主義の根本的な論理に対して挑戦せずにそれを行うことは可能なのか?その場合には全く望みは無い」[24]。あるいは、「束縛の無い資本主義に対抗するための最も強力な議論を、気候科学は彼らにもたらしたこと」[157]を理解していない「大半の左派やリベラル」を彼女は批判する。しかし、言うまでもなく、「規制の無い資本主義」や「束縛の無い資本主義」や「自由市場原理主義」は、資本主義そのものと同一ではない。そして、市場に対する何らかの規制を実施しなくても気候変動の問題を解決することはできる、と考えている左派やリベラルや環境主義者を見つけ出すのは相当難しいだろう。残念なことに、気候危機を解決するためには市場に対する制限が求められるという実に明白で議論の余地がない主張と気候を救うためには資本主義の撤廃が求められるという全くもって明白でなくかなりの議論を呼ぶであろう主張との混同が、『すべてを変える物語』全編を通じて莫大な数で存在しているのだ。

では、クラインは何を論じているのか?彼女はどのような肯定的な主張を行っているかは見極めるのが難しい一方で、クラインは一つの否定的な主張を明確に行っている。標準的な方策は資本主義システムの枠内で気候問題を解決しようとするがそれは機能しないのであり、そのため、問題を解決するためには私たちの経済的組織のパターンの根本的な構造変革を熟考しなければならない、と彼女は論じているのだ。したがって、気候変動は「社会主義者の陰謀」だと主張したり左派に対する「宇宙からの贈り物」だと主張する極右の方が主流派の左派よりも気候問題に関して正しい理解を抱いているのだ[43]、とクラインは繰り返し論じる。…なので、以下で私が行う議論では、資本主義を超えた次の世界はどのようなものになるであろうかということについてのクラインの見積りには焦点を当てずに、なぜ彼女は資本主義経済の枠内で気候危機を解決しようとする標準的な方策を否定するのか、ということについて焦点を当てることにする。特に、クラインはなぜ炭素価格付けを否定するのか、ということを取り上げよう(彼女が炭素価格付けを否定したことは、一部の人々に不愉快な驚きを与えたものだ)。

比較的狭い範囲に議論の焦点を当てるということもあり、『すべてを変える物語』の中でも最も議論の的となる箇所である第一部について主に論じることにしよう(第二部以降には、この本は基本的には気候変動版『貧困と不正を生む資本主義を潰せ』になってしまう。つまり、『すべてを変える物語』の後半250ページかそこらの内の大半はレポタージュであり、彼女は世界を飛び回って、近年に抵抗運動が行われた場所を訪れて、抗議運動家たちの英雄性や警察の横暴や企業の不誠実さを読者に報告する。この種の文章はクラインが最も得意とするものであるし、彼女が本の後半部分で示していることの大半は、議論の的にもならなければ大した驚きもないことである。経営者のリーチャド・ブランソンは信用に値しない人物であり、遺伝子工学は危険であり、農家の人々は自分たちの土地の下をパイプラインが通ることを好まない、などなどのことを読者は知らされる。後半部分の文章には議論は大して含まれていないし、その大半は、価値のある目標に向けて行動するように人々を奮い立たせたり既に行動を開始している人をさらに励ますという目的のために書かれているように思える)。

後半に比べて議論の的となる第一部について論じるうえで、『すべてを変える物語』が参入しているのは既に多くの人々が議論を行っている分野である、ということは記しておくべきだろう。『すべてを変える物語』は、本質的には政策に関する議論への貢献を行おうとしているのであり、広い意味では科学的事実を所与の前提として扱い、「私たちは何をするべきであるか?」という問題に対して答えを出そうとしている本なのだ。気候変動の問題は20年以上にわたって論じれられてきたので、この分野の議論は既に成熟している。主張し得る主要な立場はすべて主張されてきたし、全ての立場の人々は相手側の立場の人々が行う議論についてもかなり精通している。つまり、環境主義者たちの間の”主流派”な見解は既に登場しているのであり、仮にその見解は気候政策に関する合意を反映していないとしても、少なくとも多数派の意見は反映されているのだ。この見解は、炭素価格付けの適切なシステムが必要である、と主張している。そして、これこそがクラインの否定する見解であるのだ(実際、彼女は本の中の様々な箇所でこの主流派の見解を積極的に貶している。たとえば、「最小限の炭素税を求めて闘うことは、たとえば最低限所得保証を求めるための同盟を結成することなどに比べて、ずっと少ない成果しかもたらさないだろう」[461])。

主流派の環境主義的見解に挑戦する議論は『すべてを変える物語』以前にも行われてきた。たとえば、以前には標準的な見解では炭素税はCO2排出1トン当たり30ドル前後であるべきだとされていた。(英国のブレア政権に委嘱された)気候変動の経済学に関するスターン報告がやがて発表されたが、その報告は炭素税は1トン当たり30ドル前後ではなく300ドルに近付けるべきだと論じていた。そして、スターン報告は明らかに多くの人々の注目を集めた。従来の見解を支持していた人は、「何が違うんだ?スターンの議論の基となっている事実は他の全ての議論の基となっている事実と同じはずなのに、どのようにして彼はここまで過激に異なる結論に辿り着いたんだ?」という疑問に集中しながら700ページもの報告書に目を通した。スターンが主流派の見解とこれ程までに異なる結論に辿り着いたからには、彼の分析には他の人々の分析とは異なる何かが含まれているはずだった…予測のシステムが異なるか、経済成長のモデルが異なるか、また別の何かがことなるのか。やがて、核心的な違いがあることが明らかになった。スターンは、現在のコストと将来のコストとの間にバランスを付ける(将来のコストを割り引く)という標準的なアプローチを拒否していたのだった。このことが、標準的な見解とスターンの見解との違いを説明するものだった。結果として、問題に対する正しいアプローチとは何であるかということについてのとても生産的な議論をスターン報告はもたらしたのであった。

さて、私には『すべてを変える物語』にも同様のアプローチがされるべきであるように思える。大半の人々は現状を見て「炭素価格付けが必要だ」と言う。クラインは現状を見て「すべてを変えることが必要だ」と言う(または「資本主義を劇的に再構築する必要がある」とかそんなことを言う)。では、クラインはどのようにしてその結論に辿り着いたのか?彼女が物事について分析する方法と他の人々が分析する方法との間のどんな違いが、これ程までに異なる政策方針を説明することができるのだろうか?

告白すれば、当初は「どうせクラインの議論には違いなんて存在しないだろう」という疑いを私は抱いていた。単に、クラインはかつてラリー・サマーズが「現在はこれまで以上に…」主義と呼んだケースの中でも強烈なものに捉われているだけだと思っていたのだ。

「現在はこれまで以上に…」主義は以下のようにはたらく:

1・あなたには、どんな時にでもどんな状況であっても支持するお気に入りの一連の政策が存在している。減税、規制撤廃、石油をどんどん掘る、などなど。

2・あなたは、解決される必要のある何らかの問題を発見する(経済停滞など)。

3・あなたは「現在はこれまで以上に私のお気に入りの政策が実行される必要がある」と言う。

クラインが主張していることのいくつかは、「現在はこれまで以上に…」主義の印象を強くさせる。気候変動の問題についてこれまでよりも真剣に捉えて深くその問題について考え始めるようになってからも、そのことは彼女の意見に何も変化を起こさなかった、ということはクライン自身が認めている。むしろ、気候変動の問題はそれ以前から彼女が常に抱いていた信念をさらに強くさせたのであった[7]。「私は気候変動の問題についてより深く関わることへと邁進していった。その理由の一部は、気候変動の問題に関わることは私が常々信じてきた種類の社会正義や経済正義を刺激付けることになるという可能性を発見したからだ」[59]。本の中で彼女が主張している物事はそれ以前から彼女が主張し続けていた物事と全く同じであるという主張は、『すべてを変える物語』の陰謀論的な特徴を表してもいるだろう。

さて、これは物事を考える方法として望ましいものではないということは明らかであるし、彼女の主張の全ては確証バイアスを巨大に延長したものに過ぎないのではないかという疑いも生じる(私自身が辿ってきた経験はクラインのそれとはかなり異なるものだ。たとえば、費用対効果分析に基づいて政策を決定することについて、私はかなり辛辣に批判していた。しかし、気候変動の問題について真剣に考えることは、自分の主張を和らげてやがては渋々ながらも費用対効果分析を擁護することへと私を導いた要素のうちの一つだ。私の意見の詳細はこちら)。ともかく、『すべてを変える物語』は知的なインテリアや政治的ご都合主義ではないということにしておいて、この本の中で書かれていることについて見てみよう。具体的な変革ということについては、自分が望んでいることはGDPに占める公的支出の割合が拡大すること[92]、または彼女が言うところの「ケア的な経済が発展して、ケア的でない経済が縮小すること」[93]であると、クラインははっきり書いている。具体的には以下の通りだ。

 

低炭素な選択を行うことを誰にとっても簡単で手軽なものとする包括的な政策とプログラムが必要とされるだろう…。それは、安価な公共交通手段やクリーンな路面電車に誰もがアクセスできるようにすることを意味する。また、手頃な価格でありエネルギー効率が高い住宅が線路沿いに建てられることや、人口密度の高い生活に適するように計画された都市や、自転車で通っている人たちが仕事に行くたびに生命の危険を冒さなくても済むようにするための自転車専用車線や、無計画な農業の拡大を防いでローカルで低エネルギーな農業を推奨するための土地マネジメントや、交通ルートに沿っており歩行者フレンドリーでもあるエリアに学校や医療といった必要不可欠なサービスを集める都市デザインや、自分たちが電気を無駄にすることについて自身で責任を負うことを製造業者たちに要請するプログラムや、そして既存の状態に含まれている余剰や老朽化などを劇的に削減することなどを意味するのだ。[91]

 

要するに、クラインはカナダがもっとオランダのようになることを望んでいるのだ。それは構わないが、しかしオランダはかなり資本主義的な経済の国であるし、GDPにおいて政府支出が占める割合もカナダに比べて5%ほどしか高くない。では、なぜオランダの都市環境や交通システムはこれ程までにカナダと違っているのだろうか?その理由の大部分は、オランダでは燃料とエネルギーの値段が高いことにある(ガソリンと電気の両方の値段が、カナダのそれの約二倍であるのだ)。ガソンリの値段が高いことは人々が車を運転することを抑制させて、交通機関や自転車専用車線や歩行者フレンドリーなエリアへの需要を生み出したのだ。同じように、電気料金の値段の高さは電気効率が良い住宅への需要を作り出した。エネルギーの価格こそが、現在のオランダで主流となっている都市計画を生み出したのだ(あなたは都市環境について好き勝手に"計画"することはできるが、あなたが建ててている人口密度の高い住宅地に住みたいと思う人々が実際にいない限りは、その住宅地は空き家のままだ。そのような住宅地がオランダ人たちにとって魅力的に思えるのは、他の選択肢が魅力的でないからである。その理由の大部分はコストに由来している)。

経済を通じて価格が人々の行動に与える影響をふまえれば、価格をコントロールすることは政府が実施できる中でも最も強力な政策手段であることは明白だ。したがって、クラインがお気に入りリストに挙げているような環境を実現するためには、政府は化石燃料の消費によって発生する炭素の外部性に対してキャップ・アンド・トレード制度か炭素税かによって価格を付け始めるべきである、という結論が自然に導かれるはずだろう。しかし、それはクラインが支持している手段ではない。驚く程に強力なこの政治手段に我々が手を付けないことを彼女は望んでいるのであり、その代わりに、トップダウンな計画とコントロールだけによって目標を達成しようと試みることをクラインは望んでいるのだ(テクノロジーに任せることなど)。政府は価格を調整することではなく「計画と禁止」を行うことに力を入れるべきだ、と彼女は考えているのである。

クラインが辿り着いた立場は私からするとかなり奇妙なものであるように思えるし、率直に言えばあまりよく考えられていないものであるように思える。たとえば、天然ガスはそれ以上に炭素集約型の化石燃料から離れるための「架け橋」として機能するかもしれないという発想に含まれる問題の一つは、天然ガスは比較的安価であるために、それは石油や石炭だけでなく太陽光や風力などの再生可能エネルギーまで締め出してしまうことである…と彼女は論じている[128-129]。そして、このような事態が発生することを防ぐための複雑な規制構造計画を彼女は描いてみせる[129]。だが、言うまでもなく、天然ガスが化石燃料と再生可能エネルギーの両方を追いやってしまうのは炭素に対する価格付けが不在であるからだ。大規模な炭素税が実施されることは、石炭と石油のコストを劇的に増加させる一方で再生可能エネルギーの相対的なコストを低減させる。天然ガスは化石燃料と再生可能エネルギーとの間のどこかに収まるだろうし、再生可能エネルギーを締め出すこともない。エネルギーの価格の安さはそのエネルギーのクリーンさを反映することになるからだ。つまり、クラインが(少なくとも言外に)描いている世界とは、現在と同じように石油製品や石炭由来の電気が異常に安いままであるが、それらを使用することは禁止されているか規制によって厳密にコントロールされているという世界である。ここで生じる最大の疑問は「なぜだ?」という単縦なものだ。「そんなに非合理的なことを実行するための理由がまさか存在するというのだろうか?」。

考えられる説明の一つは、クラインは経済的インセンティブが持つ力を信じていないということであり、炭素の価格に対して人々は適切な反応をしないだろうと彼女が考えているということである。(実に奇妙なことだが、このような議論が真剣に主張されたのを私が聞いたことのある唯一の機会は、カナダのエネルギー企業であるサンコー・エナジーの代表者からこの議論を聞かされた時だ。炭素税の問題とはそれが機能しないことであり、「ガスの値段が上がったからといって、人々は車を運転する量を変えやしない」と彼は私に言ったのだ。もしそれが真実であれば資本主義そのものが機能していないだろう、と私は彼に伝えた。私はそれを彼の主張に対する反証として示したのだが、しかし、資本主義は機能していないはずだというのはまさにクラインの意見の特徴であるので、このことも彼女にとっては大した反証にならないのだろう)。

クラインの主張に対するこの解釈は、炭素税は『すべてを変える物語』全体を通じて二度しか言及されておらず、どちらの場合にも炭素税は化石燃料の消費を抑制させる手段ではなく国の歳入を発生させるメカニズムとして書かれている(114,400)という事実によって補強されている。このことは、税がもたらすであろうインセンティブ効果をクラインが軽視しているという可能性を示唆する(「パイプラインに対する一度きりの投資」とは違って炭素税は歳入を毎年上げ続けるだろう[400]と彼女が論じているのを見ると、疑惑はさらに深まる。炭素税のポイントは炭素の消費を抑制させることにあるのだから、歳入は上がるのではなくむしろ急激に下がり続けることが予測されるのであり、彼女はかなり妙なことを主張しているのだ)。また、クラインは「控えめな炭素価格付け」(87)や「穏やかな」経済的インセンティブの非効率性に関する軽蔑を様々に示しているが、そこでは彼女は炭素税はきわめて低い税率に設定されるであろうと(なんの証拠も示さずに)決めかかっている。だが、スターン報告が示したように、政策についての近年の議論には大規模な炭素税の実施を主張している数多くのとても真剣な人たちが参加しているのだ。クラインが主張しているような大規模な変革を実施できる程の権力と権限を持っている政府であれば炭素税も好きなように設定できるはずであるのだから、大規模な炭素税を実施することは政治的に不可能であると主張することも彼女には許されていない。

オンタリオ州が再生可能エネルギーへの投資を促進するために固定価格買取制度を実施したこと…一般的にはこの制度はかなり問題含みの制度であると認識されているのだが…についてはクラインは肯定的な言及を何度か行っているが、ブリティッシュ・コロンビア州の非常に成功した炭素税については彼女は一言も言及していないという事実は、クラインの主張に含まれる謎を解きほぐす。ブリティッシュ・コロンビア州のサンシャイン・コーストにある彼女のカントリーハウスの近くで行われる鮭の母川回帰については数ページかけて描写しているというのに、当の州が気候変動に対峙するために最も重要な政策のイニシアチブを握っていることについて、クラインは何も書いていない。…カナダが全国レベルで実行すべき計画のテンプレートとして多くの支持を集めていることが明らかな政策について触れていないのは、かなり異常なことであるだろう。

炭素税についてと比べれば、炭素取り引きについてはクラインにも言いたいことが多少はあるようだ。とはいえ、欧州の排出量取引制度に対する標準的な批判を彼女も繰り返しているだけなのだが。この制度に対してクラインが行っている批判で「エコノミスト」誌に載っていないものはない。充分に構築されていない取引制度は二酸化炭素削減を実現できずに失敗してしまう、ということには誰もが同意している。実際、欧州の排出量取引制度が失敗したことは、キャップ・アンド・トレード制度よりも炭素税を支持する人がこれ程までに多くなったことの主な理由のうちの一つであるのだ。いずれにせよ、彼女は排出量取引制度についても充分に論じていないので、このトピックについてクラインがどんな考えを抱いているのかということを読者が確認することは不可能である。しかしながら、驚くべきことに、二酸化硫黄を削減するためにアメリカにて実施されたキャップ・アンド・トレード制度について本の後半で論じる際には、このアプローチは「機能した」[208]と彼女ははっきり認めているのだ。だが、そのことは即座に疑問を生じさせる。キャップ・アンド・トレード制度が二酸化硫黄に対しては機能したのなら、同じ制度が二酸化炭素に対しても機能するはずではないだろうか?

ということで、私たちは根本的な謎に立ち戻らされ続けることになる。適切にデザインされて適切に実施される炭素価格付けシステムの一体何が問題だというのか?

私が最終的に辿り着いた答えは、価格付けシステムは大半の人々が持っている道徳的直感に反するということであり、そしてクラインはその道徳的直感を物事に対して徹底的に当てはめているということだ。彼女は「汚染者支払い」の原則を熱心に支持しているのにもかかわらず、実際にはその原則が論理的に導き出す結論の一つを拒否している。つまり、もしあなたが支払うことを嫌だと思わなければ、あなたは汚染をしてもいいということだ。この結論は、ある行為が非道徳的であるとすれば非道徳的であることそれ自体がその行為を行なわないための充分な理由となる、という道徳的直感と相反する。あなたは非道徳的な行為を止めるためのインセンティブを他人に要求することはできないのであり、それどころか、非道徳的な行為を止めない場合にはあなたを処罰する権利を他の人たちは持っている…これが、私たちの道徳的直感が教えるところだ。たとえば、市場において奴隷に価格を付けたり税金を課しても奴隷という存在を無くすことはできなかったのであり[462-463]、奴隷制そのものを撤廃することしか方法はなかったのだ、とクラインは指摘する。環境規制についても彼女は同じ考えを抱いている。たとえば、彼女は以下のようなレトリック的な質問を読者に行っている。「なぜ私たちは自分たちの未来を危険に晒すなと企業に命じているのではなく、企業に賄賂を贈ったり甘い言葉で丸め込んだりしようとしているのだろうか?」[225]。つまり、根本的にはクラインが炭素価格付けに反対しているのは単に価格付けという考えそのものが道徳的に不愉快であるからだ、と私は推測する。彼女にとっては、それは子供を取り返すために誘拐犯に身代金を払うのと同じようなことに思えるのだ。

この点については彼女のみならず多くの人々が同じ直感から思考を始めている。しかし、その直感を解体する議論は広く知られたものであるし、それは環境経済学にとって最も基本的なことですらある。"撤廃主義"的なアプローチは、対象とする物質や習慣を完全に禁止することが可能でありまたそれらが完全に禁止されなければならない時にしか機能しない…それこそ、奴隷制のように。だが、二酸化炭素やメタンガスを放出することはそれ自体が本質的に有害なことではないのであり、ゼロになるまでそれらを削減したいと望んでいる人もいない。そして、完全に禁止することが可能であるものがある一方で(たとえば、石炭採鉱を禁止することは想像しやすいだろう)、そうではないものも数多く存在するのだ。コンクリートは世界における二酸化炭素排出の5%に責任があるから(コンクリートが硬化する際に起こる化学反応の副産物として二酸化炭素が発生するのだ)、このことについて検討してみよう。コンクリートを禁止したいと思っている人がいないことは明らかだ。…クラインですらコンクリートを禁止したいとは思っていないはずだ。何故なら、彼女は「ストローベール建築(訳注:わら俵などを用いた建築)」について情熱的に語っているのであり、そして一般的なストローベール建築には積み重ねた俵をセメントで固める工程が含まれているからだ。しかし泥はコンクリートと違って大気への外部性を生じさせないのだから、コンクリートの価格を上げて新しく建てるストローベール建築の住宅の壁にセメントを使うか泥を中心とした素材を使うかで迷っている人が後者を選択するように促すことこそが、私たちが行わなければならないことなのである。

別の言葉で言えば、温室効果ガスの排出に対して私たちが行うべきなのはそれを禁止することではなく、排出を抑制させること、それも強く抑制させることである。したがって、温室効果ガスに価格を付けたり既に付けられている価格を更に上げることこそが適切な政策であるのだ。このことは、こうやってわざわざ書くのが恥ずかしいくらいに基本的なことである。しかし、クラインはこんな基本的なことも理解していないと想定することが、私が彼女の主張を最終的に理解することのできる唯一の方法なのだ(汚染はどのような時に"禁止"されるべきでありどのような時に"価格付け"されるべきであるか、という問題について真剣に興味を抱いている読者たちには、ジョン・ブレイスウェイトの記事 “The Limits of Economism in Controlling Harmful Corporate Conduct” を読むことをお勧めする。私の授業でこの問題についてのディスカッションを行う時にいつも学生たちに宿題として読ませる記事でもある)。

さて、この記事もちょっと長くなり過ぎた(しかし、『すべてを変える物語』はとても分厚い本なのだ!)。まとめとして2点だけ書いておこう。

第一に、クラインと同様に私も気候危機は非常に深刻な問題であると考えているし、現状の様々な物事に対して変化を強いる問題であるとも考えている。気候危機は「自由市場至上主義」の説得力を過去最弱にしている。しかし、同時に、気候危機は「反市場-至上主義」の説得力も弱めたのだ。特に、企業の行動を変える手段として価格付けメカニズムを用いることを極端に嫌っていた左派の人々の多くが、考えを変えて価格メカニズムに対する嫌悪感を払拭せざるを得なくなった。価格付けメカニズムに反対する議論は道徳的なものだけであるとすれば…つまり、価格付けには問題を解決する可能性があるとしても、私たちの道徳的純粋さの基準を満たすような形では解決しないということであれば…それは問題の解決方法に対する反対意見としてはかなり弱いものだ。気候危機は充分に深刻な問題なのであり、大半の人々は解決方法の形に関わらずとにかく解決されることを望んでいるだろう、と私は推測する。いくつかの大企業が正しくない動機から正しい行為を行うことを容認するための取り決めを結ぶ、などの解決方法であったとしてもだ。

第二に、そして最後に、『すべてを変える物語』は一から十まで問題の"つながり"について書かれた本である。様々な種類の闘争のそれぞれに参加しているそれぞれの人々に対して、自分たちはみんな実は一つの同じ目的のために戦っているのである、と説得させるための本なのだ。そのこと自体には何も問題はない。それに、多くの場合には、様々な要求を記したリストを提示することには(そのリストが短いものではなく長いものであったとしても)何の問題もない。しかし、政策としての価値も疑わしく実際問題として実行不可能な政策の名の下に、実行可能であり有効な政策に対してあなたが反対をし始めるとすれば、それは、巨大な害を支持するものであるとあなた自身が批判している物事を実際にはあなた自身の手で引き起こすことになってしまうのだ。『ブランドなんか、いらない』にまで遡るクラインの一連の著作に対して私が批判を行い続けているのは、彼女が間違った方向にへと読者を活気付けて動かしていることにある。風車に向かって対決したドンキホーテのような一人相撲を自分が取っているという可能性についてクラインはもっと時間を割いて考えるべきだと私は常々思ってきたし、『すべてを変える物語』にもクラインに対する私の評価を変えるようなことは何も含まれていなかった。

 

 

訳注:『すべてを変える物語』の原題は This Changes Everything: Capitalism vs. The Climate。この本はまだ邦訳されていないが、本の内容に基づいたドキュメンタリーは日本語字幕付きで公開されている。このドキュメンタリーの邦題に従い、今回の翻訳記事内でも著作の邦題を『すべてを変える物語』にした。


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