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スタンレー・フィッシャー「ユーロ圏の過去、現在、将来における課題」

Stanley Fischer “Past, Present, and Future Challenges for the Euro Area” (At the ECB Forum on Central Banking conference “Inflation and Unemployment in Europe”, Sintra, Portugal, May 21, 2015)


中央銀行に関するECBフォーラムに参加することができたのは光栄であり、嬉しく思います。ドラーギ総裁をはじめとするECB理事会の委員の方々のご招待に対し御礼を申し上げます。1 この会議のトピックはインフレと失業ではありますが、私はECBとユーロ圏が過去に直面し、将来に直面するかもしれないいくつかの過去、現在、将来の課題を議論するという別の観点からお話しさせて頂きたいと思います。

私のテーマはジャン・モネから拝借しています。彼は1976年に次のように書いています。「ヨーロッパは危機の中で鍛え上げられ、それら危機のために採用された解決策の足し合わせとなるだろう」2 この言葉は、ルイージ・ギソ、パオラ・サピエンツァ、ルイージ・ジンガレスの最近の論文によって議論されており、モネの論点に対する彼らの見解は「モネの誤り?」3) というその論文の題名から察しうるものです。同様の言葉は、2003年にジャック・シラク、2010年には元ECBチーフエコノミストのオトマー・イシングも述べています。4 私がこの効果に関する言説を聞いたのは、2011年のジャクソンホール会議におけるジャン=クロード・トリシェが初めてでした。5

モネの論点の2015年版を長くしてみると次のようになります。「ヨーロッパ連合への道の第一歩目は、1951年の石炭鉄鋼共同体の創設だった。スタートにおいて私たちはロードマップを持ってはいなかったが、ヨーロッパの国々が二度と戦争に突入しないということを確保するというゴールがあり、そしてその目標に向けて私たちはヨーロッパ戦争の再来を不可能とする制度的構造を作らなければならなかった。時折私たちはこの道のりにおいて障害とぶつかることがあった。こうした障害はしばしば危機を引き起こしたが、それら危機を乗り越え、そしてそれぞれの危機を経るごとに、一つに結びつき、繁栄を享受し、そして平和なヨーロッパという見通しが強化されて沸き起こった。そしてこれが今回の後にも起きるだろう。」

これには3つの疑問があります。ヨーロッパは主に危機を通じて発展してきたのでしょうか。今回の危機が終わった際にヨーロッパはより強くなるのでしょうか。ヨーロッパが将来に取り組むことになると見込まれる課題ないし危機とは何でしょうか。ヨーロッパ経済の構造の政治経済的側面は歴史を通じて本質的に密接な結びつきをしてきました。こういうことを言うとローマ、その次にはカール大帝が頭に浮かぶでしょう。そういう事実はありますが、私はヨーロッパプロジェクトの経済的側面、そして主にその貨幣・金融側面について焦点を当てたいと思います。6

ヨーロッパ内の貨幣・為替レートの問題は何世紀にもわたってヨーロッパ諸国とヨーロッパ内貿易に付きまとい、おそらくは何らかの条約や協定の形を通じた、あるいはさらに通貨統合を通じた為替レートの安定化を求める声に繋がりました。もちろん為替レートの安定化を求める声はほとんど世界中にあり、それは国際通貨基金の当初の協定の中にも反映されています。

ヨーロッパの独立国家間の貨幣関係を組織化しようとする現代の最初の国際的試みは、ラテン通貨同盟(LMU: Latin Monetary Union)であり、これは1866年に発行しました。設立時の加盟国はフランス、ベルギー、スイス、イタリアでした。同年のうちに教皇領が加わり、1867年にはギリシャとルーマニアが加わりました。7 加盟国は、国内の貨幣に含まれる金銀の量(重さと純度)を設定し、金銀の交換レートを5:15に規定することで、域内での為替レートを固定することに同意しました。さらに、各国が発行するそれより細かい額面の通貨の発行額は、住民一人当たり6フランを限度とするということが、「各国の相当分のシニョレッジのため」設定されました。8

LMUは複本位制の国際制度において為替レートを固定しました。キンドルバーガーは、この同盟の設立にあたってスイス、ベルギー、イタリアは金本位制への移行を支持していたものの、「フランスの抵抗が優越した」と記しています(68ページ)。「そして銀に対する打撃が次々と起こった」(68ページ)のですが、そのうちもっとも大きなものはライヒスバンクの設立後、1873年にドイツが複本位制から金本位制へと移行し、ライヒスバンクが銀を売り始めたことです。実質上、これによってLMUをして金本位制へと向かわせることになり、1878年にはそれが正式に認識されました。同年には複本位制維持のためにアメリカの提唱で国際通貨会議が開かれたのですが、これは失敗に終わったのです。

LMUによって作り上げられた為替レートは、第一次世界大戦の最中及びその後には機能を果たさなくなり、この同盟は1927年に正式に解散しました。9 キンドルバーガーは慰めを込めつつ次のように書いています。「1865年から1867年にかけて、(中略)ラテン通貨同盟はそれなりにうまく機能し、その成功は「普遍通貨」へと至るまで同盟を拡大することの望みを示唆した。」

さて、ここで第二次世界大戦後のヨーロッパについて、そしてヨーロッパはより強くなって危機から抜け出してきたのかという問題に移ることにしましょう。欧州経済共同体(EEC)の設立条約であるローマ条約は、1957年に6つの原加盟国、すなわちベルギー、フランス、イタリア、ルクセンブルク、オランダ、西ドイツによって調印されましたが、これは石炭鉄鋼共同体の設立国と同じです。その目的は、この6か国内における共同市場と関税同盟をはじめとする経済統合でした。当時は、ブレトンウッズ協定と資本規制が依然として為替レートにそれなりの安定をもたらしていました。

しかしながら、ブレトンウッズ協定は1960年代に破たんをきたし始め、為替レートが不安定化し、ドルに対する増価と減価によってヨーロッパの各通貨間の相対レートには大きな変化が起きました。それでもEECは、ブレトンウッズの枠組み内に留まり、それは同年代末から70年代初頭にかけてブレトンウッズ協定のアプローチが修正され始めても変わりませんでした。とりわけEEC加盟国が抱えた難題は、スミソニアン協定によって規定された為替レート変動幅が、特定の状況下では任意の通貨間で最大9%の変動を許したことでした10

こうした圧力に対し、EEC加盟国は1972年に「蛇」ないし「トンネルの中の蛇」と呼ばれる、各通貨のドルに対する為替レート変動を制限しようとする試みに合意しました。11 しかしながら、この制度はすぐに試練に直面することとなりました。すなわち、1970年代の石油危機において、石油価格の上昇それ自体と、それに対応するために各国ごとに取られた異なった政策の両方の影響です。デンマークと英国は加入から間もなく蛇を脱退し、イタリアは1973年に脱退、フランスは1970年代中盤に途切れ途切れで加入をつづけましたが、最初の脱退は1974年でした。

蛇は失敗、それも問題を生み出した失敗でしたが、はっきり危機だと言えるものではありませんでした。EEC加盟国間の為替レートを変動相場制という新世界において安定化させようとするならば、EECは代替策を考案しなければなりませんでした。1978年、EEC加盟国は欧州通貨制度を創設し、これは各国の国内通貨のバスケットに対する通貨の変動を制限する為替レートメカニズム(ERM I)によって始まりました。12 ERM Iには英国を除くすべての加盟国が参加しました。この仕組みでは、二国間の為替レートが許容される変動幅の限界に近づいた場合には、中央銀行が介入して支えることも決められました。さらにERM I加入国は、インフレ率を低下させる制作を採用し、利子率を近しい水準にそろえました。ERMの初期の成功は、ヨーロッパの指導者たちに資本規制の解除を促すとともに通貨統合に向かっての弾みをつけ、これは1991年合意、1992年調印のマーストリヒト条約(欧州共同体条約)にも反映されたのです。

しかしながら、ERMの下においてもひずみは生じました。すなわち、ブンデスバンクがヨーロッパにおける支配的な中央銀行として、そしてドイツマルクが支配的な欧州通貨として浮かび上がるという状況になったのです。これによってERM参加国はドイツの金融政策に従うようになりました。ドイツ統合などの余波を受け、財政政策のばらつきやドイツの金融政策引締めによる圧力が生まれ、これが1992年のERM危機につながりました。さらに、時期尚早な資本規制の解除や、結局のところ信頼性に欠けた為替レート維持のための介入によって、ペッグされたレート、されには一部のEEC加盟国間の関係には凄まじい圧力がかかりました。この危機によって英国とイタリアはEECから脱退することになり、その他一部の国(ポルトガルとスペイン)は自国通貨の切り下げを余儀なくされたのです。

ERM危機は、著しく異なる経済状況下にある国家の間で為替レートを管理しようとすることの難しさに関する際立った実例です。しかしながら、政策決定者はこの経験によって、ある程度の為替レートの柔軟さの可能性を保った制度の中で為替レートの変動を制限する試みることを諦めるというよりは、むしろ1999年初旬に単一通貨と共通の金融政策を導入するというマーストリヒト条約の計画を続けようとする思いを強くしたようでした。これはまさにヨーロッパ制度の強化につながる危機の一例です。EMU、欧州通貨同盟( European Monetary Union)ではなく経済通貨同盟(Economic and Monetary Union)、を創設しようとするプロセスは明らかにERM危機よりずいぶん前に始まったものではありますが。

マーストリヒト条約の為替レートと中央銀行に関する規程は、1991年に設定されたスケジュールに沿って導入され、1999年にECBが誕生しました。だいたい2009年まで、欧州連合(EU)の発展のための計画の貨幣的側面は大成功のように見えましたが、EUの全加盟国にECBに加盟しユーロの採用をさせるほど十分な成功ではなく、中でも英国はもっとも際立つはみ出し者となっています。

ERM危機はさらに、通貨統合の前に財政政策の協調性を強化する必要があることを認識させました。EU加盟国は、1996年に安定・成長協定に合意しました。私たち全員が知っているように、この協定の条件はEU本部による監視、強制が必ずしもされてきてはおりませんが、通貨統合の補完としての協調した財政政策の必要性の確認はそれでも一歩前進だったのであり、将来に続くものでもあるかもしれません。

過去の危機に対するヨーロッパ地域の経済的・金融的対応の歴史から、私たちは何を教訓として引くことができるでしょうか。これらの結果は、それぞれの危機が強化につながったという、モネをはじめとした人々による言説の信念を裏付けているのでしょうか。確かに、それぞれの失敗とそれぞれの危機によって、政策決定者は当時それがなかったであれば取っていなかったかもしれない歩みを取ることを促され、それらの歩みの最終的な結末は欧州通貨統合の強化となりました。次々に起こる危機によって政策決定者が経済統合という目標を断念することはなく、むしろその必要性に対する彼らの信念を強化し、その経済統合は今日過去に類を見ないほど強まっています。

振り返ってみると、第二次大戦後におけるこのプロジェクトの最初期の日々から今日までの進歩には素晴らしいものがあります。貿易統合はEU内における財の自由な流れをもたらし、経済的利得を生み出してきています。貿易統合の強化は翻って通貨統合への継続した欲求を生み出し、その通貨統合は1999年に立ち上げられ、最近に至るまで大きな成功のように見えていました。この成功が今度は極めて明瞭な財政統合の強化の必要性を生み出し、これは私たちが今後立ち戻るであろう将来における課題となっています。

ユーロ圏の現在の危機はどうでしょうか。2、3年前には、大西洋と英仏海峡の西側には通貨統合の継続可能性について懐疑心が広がっており、現在のユーロ圏の崩壊の後に何が起きるのか、一つないし二つのユーロ圏、すなわち強い国々のそれと弱い国々のそれができるのか、もしそうであればその二つの通貨圏はどの程度うまくいくのか、といった多くの議論がなされました。

一言、「何でもやる」という言葉を含むあの一言13 によって、この懐疑心は全てではありませんが大部分消え去りました。一つの決断、QEを実施するというあの決断によって、ECBにはゼロ下限、実際のところゼロ下限以下において金融政策を実施するという決定をし、その政策をうまく実施できるという両方の能力があることが明らかになりました14 。ベイズ統計で言うところの初期確率が現在のユーロ圏の原則的な生存のほうに動かなかった人はいないはずです。私たちは未だギリシャ危機の成り行きを待っており、そして現在の危機がまだ終わっていないということを承知しているところではありますが。

これはモネのアプローチの成功例でしょうか。間違いなくそうです。大金融危機の前半におけるヨーロッパの金融政策は革新的で、とりわけ全額国債買取プログラム(full-allotmen OMT)の考案がそうでした。この政策は危機によって着想を得ましたが、このことはアメリカでFEDが実施した革新的な政策と同様です。それ以上に重要なのは、危機がなかったとしたら、2014年までに欧州銀行同盟が設立されていたとはとても考えられないということです。単一監督メカニズムが危機無しでも設立されていたと考えるのも、少なくともそれと同じくらい困難です。もちろん、このような困難な決断を行う能力はECBの指導力次第であると言う人がいれば、それは正しく、そして今後も常に正しいでしょう。しかし事実として、それが必要となった時に、ヨーロッパは必要とする金融政策の指導力を作りだしたということです。

将来はどうでしょうか。どのような危機、どのような極度に困難な決断がEUを待ち受けているのでしょうか。一部は既に明らかになっています。ヨーロッパプロジェクトを前進させるために単一通貨を使用するという決断はリスクのあるものでしたので、ある段階、ないしいくつかの段階において、未だ欠けている財政枠組みを導入することが必要となるでしょう。そしてそうなった暁には、それは危機、それが現在の危機であることを望みますが、その解決策がヨーロッパ計画を強化したというもう一つの例となることでしょう。これを成功裏に実現するのは、現在の危機が終わった後にEUが直面する最も困難な経済課題の一つであるに違いありません。

現在のギリシャ危機や、その後のイギリスの脱退の可能性に関連した大問題の可能性もEUを待ち構えています。もちろん、西側世界自身が身を置く地政学情勢の悪化によって発生する危機をはじめとして、多くの異なる種類の将来における危機を想像することもできます。そうした危機が次々と起こることもあり得るでしょう。

経験から言えることは、将来における危機に対処する最善の方法は、それと対峙する経済枠組みを強化することであるというものです。そのためには、為替レート調整によって解決するのが一番簡単であるかもしれない将来の危機にどう対処するのかという試行錯誤をたくさん行う必要がありますし、加盟国が責任ある金融・財政政策を実施することを確かにするより優れたメカニズムを発展させることも必要となるでしょう。これはすなわち、多くのヨーロッパ諸国が現在直面している困難な人口問題の解決策を模索するという意味でもあります。

これはさらに、勇敢かつ効果的な金融政策と、勇敢かつ効果的な金融制度の規制・監督を継続するということでもあります。金融政策は拡張的な財政政策を伴うことで、より優れた効果を発揮するものではありますが。

これまで行われてきたあらゆる措置のおかげで、EMU、すなわち経済通貨同盟が今回の危機を生き残る可能性は非常に高くなっています。しかしより長期においては、EMUは加盟国に繁栄をもたらさない限り、生き残れないでしょう。すなわち将来における最も重要な課題は、ヨーロッパにおける生産性成長の加速を必要とするのであり、そしてこれは先進国全体が直面する課題でもあります。

ここで皆様をはじめとするECBの全職員がその短い歴史の中で成し遂げたこと、とくに過去数年におけるそれについて、祝意を申し上げたいと思います。そしてヨーロッパの建立に貢献する皆様各位の今後の御活躍をお祈りしております。願わくば将来の危機があまりに多すぎるものとならず、そしてそれらの危機がモネのアプローチが示唆するような有益なものとならんことを。

御清聴ありがとうございました。皆様の健闘を祈ります。

  1. 原注1;連邦準備制度理事会のBrian Doyle, Jane Haltmaier, Stacey Tevlin, Paul Woodの助けに感謝する。述べられている見解は私自身のものであって、必ずしも理事会や連邦公開市場委員会ないし連邦準備制度のそれではない。 []
  2. 原注2;Jean Monnet (1976), Memoires (Paris: Fayard)を参照。 []
  3. 原注3;Luigi Guiso, Paola Sapienza, and Luigi Zingales (2015), “Monnet’s Error?” NBER Working Paper Series 21121 (Cambridge, Mass.: National Bureau of Economic Research, April []
  4. 原注4;2003年のテレビインタビューにおいて、シラクは「いつであれ危機が起きた時は、我々はより強いヨーロッパと共にそこから抜け出してきた。」と述べている。TF1 and France2 (2003)”Excerpts of TV Interview by President Chirac to TF1 and France2, March 10″ を参照。2010年11月、(当時ECBのチーフエコノミスト兼理事会委員であった)イシング博士はパヴィア大学経済学部における国際経済統合に関する名誉学位授与の際にスピーチを行った。彼は「結局のところ、いわゆる「ヨーロッパ」というものは、多くの危機を潜り抜けてきており、概してその一つ一つの危機からより強くなって抜け出してきた。」と述べた。Professor Otmar Issing Address,” in “Otmar Issing: An Economist and Architect of Supranational Institutions (PDF),” Leaving the Board introduction by Guido Montani, Il Politico (University of Pavia, Italy), no. 1, p. 22. を参照。 []
  5. 原注5:一年後、2012年のジャクソンホール会議で、私は次のようにジャン=クロードを引用した。「ヨーロッパプロジェクトは進行中のプロジェクトです。これは通貨同盟に至るという特定の目標を持って立ち上げられたのではありません。私たちは開始以降次から次へと危機に見舞われれました。このプロセスの各段階において、私たちはアメリカ人から同じ話を聞いてまいりました(中略)「お前らヨーロッパ人は決断の仕方を知らないな。お前らはいつも遅い。ヨーロッパに電話したいときは何番を押せばいいんだ?この夢は失敗に終わる運命なんだよ」と。私たちは毎回この話を聞いてきましたし、私たちは遅かった。しかし結果としてみれば私たちはあらゆる危機からより強くなって抜け出してきました」最近私はジャン=クロードに話しかけ、これが2011年に彼の言ったことであるかどうかを確かめてもらった。彼は肯定したが、自分が「私たちは遅かった」と述べたことには疑いを呈した。というのも彼は大抵「私たちは大胆だった」と述べるからだという。 []
  6. 原注6:Charles P. Kindleberger (1993), A Financial History of Western Europe, 2nd ed. (New York: Oxford University Press)を参照。この本は第一章で4つの時系列を示している。すなわち「1:戦争」「2:貨幣的事件」「銀行業の転機」「金融事件」である。最も年代の古いものは「銀行業の転機」の中の12、13世紀:シャンパーニュの市場だ。 []
  7. 原注7;後になって他の多くの国がLMUの設定した貨幣の基準を受け入れたが、正式に同盟には加わらなかった。 []
  8. 原注8;Kindleberger, Financial History of Western Europe, p. 68, in note 5を参照。 []
  9. 原注9;金貨の質を落としたことで1908年にギリシャは資格を停止されたが、1910年に再加入した。 []
  10. 訳注1;スミソニアン協定ではドルに対して最大4.5%の変動幅が許容されたが、任意の2通貨が逆方向に4.5%変動した場合、その通貨間の変動は合計9%となるため。 []
  11. 原注10;蛇の合意はEECの原加盟国6か国と加盟を控えていたデンマーク、アイルランド、英国の間で行われた。 []
  12. 原注11;1978年までに、EECには原加盟国六か国に加え、デンマーク、アイルランド、英国が加わっていた。 []
  13. 訳注2;2012年7月26日のドラーギ総裁による発言。発言自体の要旨はこのあたりを参照。 []
  14. 訳注3;このあたりの解説については、この過去記事などを参照。 []

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