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タイラー・コーエン 「歯切れの悪いフリードマン ~「運」の役割はいかほど?~」

●Tyler Cowen, “Does Milton Friedman believe in free will?”(Marginal Revolution, September 29, 2003)


ミルトン・フリードマン(Milton Friedman)がつい最近のインタビュー1で次のように語っている。

「私たちはある意味では決定論者だと言えますが、かといって運命に翻弄されてばかりというわけでもありません2。しかしながら、自由意志論の正しさを申し分ないかたちで示すことはできるでしょうか? おそらくできないでしょう。」
(“In a sense we are determinists and in another sense we can’t let ourselves be. But you can’t really justify free will.”)

個人的にかねてより感じていることなのだが、このインタビューで論点となっているような(「運」の役割を巡る)話題3は成果に応じて報酬を決める市場というメカニズムに対して大きな挑戦を投げ掛けるものだと言えるだろう。仮に人々が自らの手で生み出した価値を受け取るに「値しない」ということになれば4、倫理的な観点から再分配政策に反対することは難しくなることだろう。

いつもは歯切れのよいフリードマンも「運」(luck)の役割については煮え切らない様子だ。

「妻と私のこれまでの人生を振り返った回顧録を数年前に出版したのですが、その本のタイトルはTwo Lucky People(『幸運な二人』)となっています。「運」という問題については何かしらの対処が必要だという意見があるかもしれません。平等主義(egalitarianism)を是とする議論も結局のところは運の問題を放置していてはいけないというところからきています。例えば次のような話が語られることがあります。『生まれつき目が見えない人は本人に何かしらの落ち度があってそうなったのだろうか? そんなわけはない。目が見えないのは偶然(運)以外の何物でもない。それなのにどうして苦しまないといけないのか?』。もっともな意見であり、その感情もよくわかります。」

それでは「運」は公共政策に対してどのような意味合いを持っているのだろうか?

「それは非常に難しい質問ですね。」と語ったフリードマンは運のおかげという判断がどれだけ正しいと言えるのか疑問だと続ける。「おそらく同意していただけると思いますが、たまたま運が良かっただけだと思っていても実はそうではないという場合があるでしょう。実際のところは能力が優れていたり一生懸命努力した結果として高い報酬を得ていたとしても周囲から妬まれて「運のいい奴」(lucky bastard)との評価を下されるというわけです。成果の違いのすべてが運によるものだとは私は思いません。」

  1. 訳注;「つい最近」とは言っても2003年時のもの。 []
  2. 訳注;「かといって運命に翻弄されてばかりというわけでもありません」という訳はあまり自信がない。全体的な文の流れからして自由意志論に肯定的な意見を述べているのではないかと考えてこのように訳した。 []
  3. 訳注;この点についてのフリードマンの見解はこのエントリーの最後で引用されている。 []
  4. 訳注;(通常の意味での運(幸運、不運)だけではなく、家庭環境や生まれつきの才能など本人の力ではどうすることもできない要因も含めた)「運」がその後の人生における成功・失敗を決める上で大きな役割を果たすとすれば、という意味 []

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