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ノア・スミス「ロバート・バロー:音に聞こえしニュー・ケインジアンディス」

Noah Smith “Robert Barro’s famous polemic against New Keynesians” (Noahpinion, January 24, 2014)

訳者補足;一連のロバート・バロー関連の話題に続いたもの。クルーグマンによるバローディス→保守派の反論→サムナーのクルーグマン擁護[邦訳]→コーエンのバロー擁護[邦訳]→サムナーの再反論[邦訳]→ノア・スミス(今ココ)という流れ。また、本サイトでは今のところ紹介できないが、グラスナーなども本件に関して記事を書いている


goodguy

このところロバート・バローについてブログ上でちょっとした議論があった(タイラー・コーエンスコット・サムナーを参照)。バローはハーバード大学の著名な経済学者であると同時に、いま一般に僕たちが「リカードの等価定理」の開発者でもあり、時折ウォール・ストリート・ジャーナルで財政刺激に反対するオープンエディションの記事を書いたりする。争点となっているのは、「総需要」が景気変動を引き起こすという考えをバローが支持しているか否かというものだ。この論文についてはほとんどの人が知っているところだけど、ニューケインジアンモデルに対するバローの勇敢なまでの論駁、ただし1989年のそれを取り上げてみるのにいい機会だなと思ったんだ。その題名は、「新しい古典派とニューケインジアン、あるいはいい奴らと悪い奴ら」だ。

1989年は、今よりもずっと激しく「マクロ論争」が行われていた時期で、「淡水派・海水派1 」の分類もずっとはっきりしていた。DSGEモデルは新しいモデルで、二つの特徴を醸し出していた。一つはRBCの特徴で、経済は生産性(「技術」)ショックで動いていると仮定することだ。もう一つはニューケインジアンの特徴で、価格と賃金の「粘着性」こそが景気変動を引き起こすものだとされていた。新しい古典派で一番有力だったのは、エドワード・プレスコット、ロバート・ルーカス、チャールズ・プロッサー、そしてバローだった。ニューケインジアンのほうでその当時一番有力だったのは、グレッグ・マンキュー、ローランス・ボール、ディヴィッド・ローマ―、オィヴィエ・ブランシャール、ジョン・テイラーだ。この分類に政治的なものは見えないよね。どっちの側にも超保守派がいるんだから。

この当時にはブログはなかったから、経済学者がお互いの考えをディスろうとするときにはコメント、ショートノート、ワーキングペーパー(それ以外の例としては、ラリー・サマーズによるRBCのディスを見てほしい)を書いた。バローの論駁は実のところワーキングペーパーの形をとっただけのブログ記事だ。そして最近のブロガーがよくやるように、バローはプライベートなものとして記事を書いていた(そして挑発的なあだ名をつけていた)。彼が断言するところでは、ニューケインジアンは間違った考えをしているだけじゃなく、その研究は完全に時代に逆行しているということだった。

ニューケインジアン経済学(省略してNUKE2 と呼びたい)の使命は奇妙なものだ。実証テストのための新理論による結果や仮説を生み出すのではなく、しばしばその目的はオールドケインジアンモデルを特徴づけるような基礎的な観点や政策処方のうわべを取り繕うことにあるように見える。

これを言い換えると、バローはニューケインジアンが政策決定のリバースエンジニアリングをしていると非難しているんだ。彼が言っているのは、ニューケインジアンは景気安定化政策をやりたいから、彼らの研究はそうした政策が正当化されうる理由について考えることにあるんだということ。今でもニューケインジアン研究者にこの批判をするブロガーもいて、それについてはここここを見てほしいんだけど、時折こそこそとこういうことを囁く経済学者は「淡水派」と呼んでも差し支えないよね。

バローは論駁の中で、自分が「いい奴ら」と呼ぶ人たち、つまりRBC理論家たちを褒めてもいる。おもしろいことに、彼はこんなことを言っている。

全体として、リアル・ビジネス・サイクルの領域では、マクロ経済をモデル化したり政府の政策について考えるのに資する多くの新しい知見と技術が生み出されてきた。しかし実際の景気変動(訳注;ビジネス・サイクル)を理解していくにあたって、あるいは政府が実施を望むかもしれない政策の構築について、このモデルがどれだけ貢献するかは今もって明らかではない。(強調はノア・スミスによるもの)

新しい古典派の最大の貢献は新しいモデル化手法(僕らが今「ミクロ的基礎のある合理的期待DSGE」としているもの)や、興味深い思考実験だとバローは言っているんだ。

新しい古典派アプローチの主要な成功の一部には(中略)マクロ経済分析の均衡モデル化の応用、そのモデル化の一環としての合理的期待の使用、政策評価に対するアプローチにおける革命が含まれている(略)

そしてここぞとばかりに自分の業績を褒めてもいる。

均衡アプローチが一定の成功を収めた特定の応用の一つとしては、財政政策の分析におけるそれが挙げられる(概説としては Barro, 1989bを参照のこと)。この研究の一部は、リカードの等価定理、すなわち税金の代わりに予算赤字をもってすることは何ら結果の変更をもたらさないという条件下を中心に展開された。しかし研究の更なる進展によって、政府調達と公共サービスや、歪みをもたらす税の構成とタイミング、そしてその他の要素による実物効果が明らかにされた。

「明らかにされた」というのがどういう意味なのかははっきりしない。彼は理論とデータの関係については話そうとしないで、自分の考えそれ自体の直観的なすごさについて話そうとしてるように見える。

というわけでバローが言っていることっていうのは、新しい古典派/RBC的な人たち(バロー自身もね)が「いい奴ら」なのは、彼らのモデルが事実によりうまくあてはまるからではなくて、1)景気変動についての思考方法は彼らのほうがすごそうであり、2)モデルを作るにあたっての動機が彼らのほうが優れていて、3)さらなる手法上の進展について彼らは個人的な責任感を持っているからということだ。

これは思想史上のとても興味深い瞬間だ。古いパラダイム、つまりオールドケインジアンが危機に瀕し、そして新しいパラダイムであるDSGEがそれに置き換わりつつあって、でもその中で新しいパラダイムは二つの競合的な小パラダイムに分裂している。つまり新しい古典派とニューケインジアン(もしくは「淡水派と海水派」がお気に召すならそちらをどうぞ)がDSGEの旗の下で肘を突きあってる。

全体としてみれば、ニューケインジアンはバローがやったような論駁に参入せずに押し留まって、RBCモデルがデータと合わなかった方法に集中した(ジョルジ・ガリのここここの業績、マイルス・キンボールのここここの業績を参照)。2006年、グレッグ・マンキューはバローへの時間の経った返答にも見えるブログ記事的なワーキングペーパーを発表した。その題名は「科学者及び技術者としてのマクロ経済学者」となっていて、そこで彼は2つの競合的なサブ学派は争いをやめて経済学王国を2分割して治めることができるんじゃないかといっている。オリヴィエ・ブランシャールも同じような希望を2008年に述べている。ニューケインジアンは主流派の道を歩んで、新しい古典派の景気安定化政策への懐疑的な視線はリバースエンジニアリングじゃないの?という批判は基本的に差し控えたんだ。

(でも00年代までに大体の議論は終わって、両者ともに自分の欲しがっていたものを手に入れた。新しい古典派は現代マクロ経済学の生みの親としての歴史上の地位を確保したし、彼らのDGSEモデルをみんなが使っている。その一方でニューケインジアンは政策決定者の支持を得るという戦いでは勝利を収めた。中央銀行はDSGEを分析道具の一部としてよく使うけど、彼らが使うモデルはニューケインジアンのモデルであってRBCモデルじゃない。でもRBCも生き残っている。RBCは資産価格決定や、国際金融、労働研究といった他の分野に広がっていて、これは多分ニューケインジアンのモデルと比べて使いやすいというのが理由だと思う。オリヴィエ・ブランシャールが望んだ、両者の統合でめでたしめでたしという展開が現実に起こることはなかったけれど、パラダイム同士の戦いが一段落して閉塞感に満ちた音を奏でていた。そうした中で金融危機が起こって全てを台無しにしてしまい、マクロ経済学者は金融部門が景気後退の原因となりうるケースを探すのに奔走することとなった。)

とにかくもこの知的競合がどう展開したかを見るのは楽しいことだと思う。経済学っていう分野がどう動いているのかを覗き見るのにちょうどいいからね。トーマス・クーンは、あらゆる分野は競合するパラダイムを選ぶにあたっての独自の基準を持っているいうことをおおむね言って、そこで言葉を止めた。美学、手法の華麗さ、そして(多分)その政策的示唆のせいで、どれだけ多くのマクロ経済学者たちがパラダイムに引きずられているかをバローの論駁は証明している。その一方でニューケインジアンの丁寧かつデータに基づいた、超絶成功的な反撃は、新しい古典派以外の経済学者がどれだけデータとの整合性を気にするかを示している。そして1930年代に1回、1970年代に1回、2010年にもう1回というマクロ経済学のパラダイム危機の頻度は、僕らがマクロ経済データから導き出すことのできる頑健な結論がどれだけ少ないかを示しているんだ。

追記:

コメント欄でロバート・ルーカスの1994年の発言を紹介してくれた人がいるんだけど、これは同年のマンキューによるニューケインジアン宣言についてのもので、バローよりもさらに怒りに満ちている。

なぜこれを読まねばならないのだ。この論文は意見でも信念でもなく、マクロ経済学上の本質的な課題のいずれに対しても何をももたらさない。(中略)どういった目的でこの論文が書かれたのかは想像しかできないが(the Economistへの投稿か何かだろうか)、研究戦略に関する議論を行っている他のマクロ経済学研究者たちへ加わろうという試みでないことは明らかだ。

ほら、経済学者の議論はブログ時代以前も大して違いはないでしょ。

  1. 訳注;シカゴ大学に代表される古典派の牙城が五大湖地方にあり、ケインズ派が多いカリフォルニア大学やハーバード大学が海辺の州にあったことから両学派を指す言葉として使われた。 []
  2. 訳注;”ニューKE”ynesianなので。核兵器の意。破壊的で何の意味もないものということを暗に示唆している。 []

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