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ビル・ミッチェル「明示的財政ファイナンス(OMF)は財政政策に対するイデオロギー的な蔑視を払拭する」(2016年7月28日)

Bill Mitchell, “Overt Monetary Financing would flush out the ideological disdain for fiscal policy“, Bill Mitchell – billy blog, July 28, 2016.

 

3人の金融機関系の経済学者(二人はBIS、一人はタイ中央銀行)が書いたHelicopter money: The illusion of a free lunch (2016年5月24日)という記事がある。この記事では、明示的財政ファイナンス(OMF)、つまり中央銀行の金融的キャパシティで財政赤字拡大を実現し、非金融主体への政府債務を発行しない政策について ”話がうますぎる” 、 ”大きな代償を支払うことになる” と論じられ―― ”金融政策を永久に喪失することになる” と要約されている。彼らが行っている議論は、現代金融理論(MMT)の提唱者が20年以上に渡って発表してきた研究と極めて整合的である。その研究は今、主流派の銀行システム分析の打破を始めている。

しかし、彼らが導いた結論はオリジナルのMMT提唱者たちには支持されない。MMT提唱者たちは、OMFを極めて望ましい政策方針と見なしている。政府が本来備えている金融的キャパシティをよく表現するものだからだ。さて、件の記事では、”フリーランチ”という言葉が何を意味するかのついての疑問も提示している。このフリーランチという言葉は、マネタリストであるミルトン・フリードマンによって広められた(ただし、彼の発案ではない)。経済学におけるこの言葉は、「政府の介入はコストを生ずる」という主流的見解とセットで使用されている。しかし、今一度“フリーランチというものはない”という言葉の本当に意味するところを検討すれば、我々が(実物資源制約を強調する)MMTの体系に非常に近い形で扱っているということが分かり、また、通貨発行権を持つ政府(currency-issuing governments)に適用されている金融的制約の誤謬も明らかになる。

私は以前、The Bank of Japan needs to introduce Overt Monetary Financing nextという記事で明示的財政ファイナンス(OMF)について書いた。

Voxeuの記事の目的は、――主流派の枠組みにおいてでさえ――いわゆる非伝統的金融政策(QE、マイナス金利etc)がデフレ圧力に対する効果的な治療薬として機能しなかったということと、望ましい水準まで実質GDP成長を刺激できなかったということを強調することである。

そこから話は「 ’ビッグバズーカ’ によって、中央銀行が財政赤字と協同するいわゆる ”ヘリコプターマネー” (あるいはOMF)を利用できるようになった」という風に続く。著者たちが言うには、そうした政策は:

…中央銀行の最も根源的な力に制御されている名目支出を、極めて確実に拡張する方法である:根源的な力と言うのは、わずかなコストで無金利の通貨を創造できる中央銀行固有の能力のことだ。

私ははるか昔の2012年にKeep the helicopters on their pads and just spendという記事でヘリコプターマネーについて書き、現在広く知られているOMFについて論じた

内容はタイトル(訳注:「ヘリコプターはパッドに置いておき、単に支出せよ」)の通りだ。

歴史的な話になるが、ミルトン・フリードマンの提案における’ヘリコプターマネー’への言及は、彼のエッセイ集―“The Optimum Quantity of Money and other Essays”(最適貨幣論論文集)Chicago: Aldine Publishing Company, 1969――の導入部分(page4)にある。そこでは、「デフレの慢性的発現は“ヘリコプターからお金を落とす”ことで解決可能である」と論じられている。

評論家の一部は、当初、QEをこうした考えの類似物だと考えていた。彼らの考えは間違いだった。QEは、中央銀行が準備預金(中央銀行貨幣, central bank money)と非政府部門保有債券(あるいは他の金融資産)を交換する行為に過ぎない。

そこでは、「銀行が貸し出しをしないのは、十分な準備預金を持たないからだ」という誤った前提が導入されてしまっていた。「どう治療すれば良い? 準備預金を拡張しよう。どのようにして? 中央銀行貨幣の無尽蔵な供給によって、銀行保有債券を購入して準備預金に替えよう。QED! それでいいだろう?」

間違いだ! 主流派の経済学者たちでさえ、今に至っては、銀行が融資のために準備預金を必要としているわけではないということを、着実に理解しつつあるに違いない。銀行が準備預金を気にするのは、融資の後なのであって、また中央銀行からいつだって何らかの形で準備預金を獲得できる、ということを知っている。中央銀行は、決済システムの大規模不履行(銀行が自身で発行した借入の返済を行う準備預金を持たない場合に起こる、小切手の不渡り)も含む金融不安定を防止するように行動するからだ。

QEが経済活動を拡張し得る唯一の経路があるとすれば、長期金利の引き下げる効果によってだっただろう(なぜなら、QEは長期債の需要を増やし、長期債のイールドを引き下げたからである)。しかし、このメカニズムもまた機能しなかった。なぜなら、国民の情操(sentiment)の状態がずっと悪く、そのために家計や企業が(どれだけ借入の費用が小さくなっても)借入を回避し続けているからである。

さて、Voxeuの著者たちはOMFをどのように分析しているだろうか?

彼らは以下のように書いている:

ヘリコプターマネーは、貨幣の恒久的な追加という形で経済主体の名目購入力を増やすのにベストな方法として広く認められている。機能的には、同額の無利子中央銀行貨幣の追加によって資金調達された財政赤字追加と同じになる。

言い換えると、政府(財務省サイド)は支出追加か減税を行い、その財政赤字拡大に合わせて政府(中央銀行サイド)が準備預金を追加する。

そうした追加が’恒久的’かどうかは重要ではない――このことについては後に論じる。

MMTの提唱者は、ここで”資金調達”という言葉を用いないだろう。なぜなら、我々はこうした場合に政府の二種類の活動(訳注:財務省サイドと中央銀行サイド)の両面を扱うからだ。統合政府は通貨(currency)を発行し、その支出を通じて通貨を出現させる、というのが現実だ。政府の二種類の活動は、それぞれの政策目標を実現するために、日常的に共同作業しなくてはならないのである。

話が逸れるが、(MMTでない)ポストケインジアンの一部で、まさのこの点について過去にMMTを論難してきた人々が居る(Lavoie, Rochon, Fiebiger etc)。そうした論難は、(訳注:「ポストケインジアンの一部」の中で)きちんと確立された考えがないことを反映している。

彼らは、「中央銀行と財務省の’統合’というのは状況の現実をとらえきれていない、また実際には、その二つの部分は分離しているのだから、政府が財政赤字の資金調達を行う必要がないというのは不正確である。」と主張している。

ほとんどの国における中央銀行と財務省の法的ないし政治的結びつきはさておき、こうした批判は浅薄である。

マルクスが「余剰価値の生産と民間利潤の本質を糊塗する表面上の交換関係」を明らかにしたのと同じ方法で、MMTは不換紙幣(fiat currency)システムにおいて「内在的制約と自発的制約の対立」という概念を明らかにした。他のどのポストケインジアン理論家も過去にはそれを論じていなかった。それはMMTの研究の’新奇な’特徴の一つだ。

この意味で、MMTはイデオロギーのベールを剥ぎ取るのである。

財務省から中央銀行を分離したり、財政ルールや債務上限etcを課したりする制約は、あくまで自発的なものに過ぎない。通貨発行権のある政府の基礎能力を理解すれば、財政に課されているこれらの制約が、本質的な制約ではなく、イデオロギーによるものに過ぎないということを簡単に理解することが出来る。

話が逸れるが、私はまさにこのテーマについての基調講演を、2016年9月15日~18日にカンザスシティのミシガン大学カンザスシティ校で開催されるポストケインジアン・カンファレンスで発表する予定だ。私はポストケインジアンの一部(Palleyなど)や、ニューケインジアンたちの ’MMTには何も新しいことは無い’ あるいは ’我々はそのことをはじめから知っていた’ という主張に反論するつもりだ。そうした主張はナンセンスだ。

さて、Voxeu著者たちの主張を追うと、以下のように述べられている:

…名目の拡張が物価と産出の増加にどのように分離するかは、経済の広範な性質に依存する。特に、価格がどれだけ適応的かに依存する。(’名目硬直性’)

この文章は「名目支出の増加が全て価格影響か産出(実物)影響のいずれかを生ずる」ということを意味しているだけだ。国内総生産はある期間に生産された最終財&サービスの市場価値によって定義づけられる。

市場価値は、何が生産されたか(産出)といくらで売られたか(価格)の組み合わせだ。実質GDPについて論じる場合、我々はGDP指標から価格の影響を排除(価格を一定だと仮定)し、どれだけの事実上の産出が生じたかと、その経時的変化を知ることを可能にする。

経済が既に潜在力いっぱいで働いているときは、(人口成長率etcを反映した)現在の経済成長率を越える名目支出追加は、(完全にではないにせよ)非常に大きい価格影響を齎すだろう。――つまり、そうした名目支出追加はインフレ促進的だということになる。なぜそうなるかというと、企業が利用資源からさらなる実質生産を絞り出すことが出来ないからだ。

一方で、(失業者や使われていない機械といった)遊休資源があるときは、名目支出の拡張は大部分が生産(実質産出)の拡大で吸収される可能性が高いだろう。そして企業は、他の企業から市場シェアを奪われることを恐れて、価格引き上げに消極的となるだろう。

非常に重要なことは、経済が潜在産出力をフルに活用している時でさえ、名目支出成長が生産能力の成長に適合的である限りは、名目支出成長を続けることが可能であるということと、名目支出成長が、産出成長を越える支出への反応を通じて経済の潜在産出力を痛めつけてしまう、といったことは起こらないということである。

したがって、 ‘マネーサプライ’ の持続的な増加が必然的にインフレ促進的であると想定するのは正しくない。それは状況によりけりだ。

Voxeuの著者たちは、「中央銀行貨幣を用いて財政赤字拡大を ‘資金調達’ することで、政府は(民間に対して債務を発行した場合に生じていたであろう) “増税の必要性” を回避している」と主張しているが、これは著者たちが、通貨発行権のある政府の財政的選択に関する「主流派の理論的構造の落とし穴」に嵌ってしまっていることを示唆する。

こうした考えは端的に誤りだ。この考えは、最終的には政府が債務を返済するために増税をするということを含意してしまっている。実際には、政府は債務が満期を迎えるたびに断続的に ‘返済’ している。債務返済にしても、支出にしても、その際に増税を行う必要は全くないし、これまで必要であったということもない。

この点についてのより詳しい議論はTaxpayers do not fund anything邦訳)をお読みいただきたい。

しかしながら、このことはVoxeu著者たちの議論の中心からはやや逸れる話だ。

彼らは以下のように書いている。

準備預金(銀行が中央銀行に対して行っている預金)の市場における金利決定の性質からみて、中央銀行はどうあがいても解決策が見つからないジレンマ(catch-22)に直面している。ヘリコプターマネーは金利を恒久的にゼロにする――これは財政ファイナンスの提唱者たちも含めたほとんどの人にとって受け入れがたい結果である――か、あるいは、そうならない場合は、ヘリコプターマネーは債務or税で資金調達された財政赤字と等価で、望んでいる追加的な拡張効果をもたらさないだろう。

第一に、著者たちは、アデア・ターナーやベン・バーナンキといった最近の提唱者たちより2,30年先んじてこの問題を論じてきたMMTの研究を認識していない。恒久的なゼロ金利ターゲットについて “財政ファイナンスの提唱者たちにとっても受け入れがたい” と論ずるのは正しくない。

MMTの提唱者はこれを望ましい結果だと見做す――なぜなら、金利の変化を通じて経済を安定化させようとする手法は役立たずだということがわかっているからだ。

イールドカーブをゼロに貼り付けて、投資金利を可能な限り低く保つのはとても良いことだ。その際は、財政政策を行おう。財政政策は効果が直接的かつ明瞭なので、完全雇用と価格安定を維持するのに役立つ。

この点についての詳しい議論については、The natural rate of interest is zero!邦訳)を見てほしい。

二つ目の論点だが、著者たちは「政府純支出増加による拡張効果は、それがどのように ‘資金調達’ されたかによって決まる」というお決まりの主流派的分析の落とし穴に嵌ってしまっている。それが無根拠な議論であるということをこれから示そう。

彼らの論理はどういうものだろう?

彼らが最初に “銀行は主に二つの理由から準備預金を保持する: ⅰ) 法定準備を満たすため ⅱ) 決済に関する不安定性に対する緩衝材とするため” と論じている点については正しい。

主な理由(訳注:銀行が準備預金を保持する主な理由)は、他の銀行から(決済システムを通じて)行われる日々の請求に対し、高いコストをかけて準備預金を調達することなしに対応可能な状態を確保するためである。

こうした実際の準備預金の希求(法定準備)や、支払いを予期した上での準備預金希求(これは不確実性から生ずる)を越える準備預金についてはどうだろう?

Voxeuの著者はそうした超過準備を”非常に金利非弾性的だ”と論じる。この言葉は、経済学者が使うファンシーな言葉の一つで、こうした超過準備が金利変化に対して非常に鈍感であることを意味する。

追加の所見としては、銀行システムにおけるそうした超過準備の存在は、中央銀行のオーバーナイト政策金利操作能力に影響を与えるだろう、というものがある。

中央銀行は、こうした状況に置いて、二つの選択肢を持つ。

  1. オーストラリアのシステムでは法定準備はなく、中央銀行(RBA)は商業銀行の超過準備に25ベーシスポイント(現在の政策金利以下)の付利を支払っている。

Voxeuの著者たちは、中央銀行が(政策金利以下の)超過準備付利を支払うという状態を“最もよくあるスキーム”だと主張している。

その際、中央銀行は、わずかに高い政策金利(訳注:超過準備付利に比べて、という意味)を確実に維持するために、超過準備を ‘操作’ ――つまり、削減――しなくてはならない。

なぜか?

銀行は定義上、 ’余分な’ 準備預金を持ちたがらず、いわゆる ’インターバンク市場’ (銀行が短期で資金融通を行う市場)で、その日に準備預金が不足している他の銀行へ貸し出して超過準備を処分する、ということを日常的に試みる。

こうした競争的活動は、中央銀行が提供する何かしらのサポート金利までオーバーナイト金利を引き下げるように働くだろう。(日本銀行が長らく続けている政策のように)オーバーナイト金利がゼロまで下がるということもあり得る。

中央銀行が介入しない場合、オーバーナイト金利が事実上の短期金利となり、政策金利は無意味になる。言い換えると、中央銀行は短期金利環境のコントロールを失う。

このような状況に対する中央銀行の対応策は、有利子政府債券を銀行に売って、超過準備を吸収(MMTの語法では ‘除去’ )するというものである。そうすることで、インターバンク市場で資金を融通する誘因を取り除く。

このようにして、中央銀行は短期金利のコントロールを維持し、超過準備は消失する。これは我々が“流動性管理”と呼んでいる代物である。

別の可能性として、銀行システムにおいて準備預金が枯渇している場合は、オーバーナイト金利が政策金利以上の水準へ急速に上昇するというものがある。そのときの対応策は、中央銀行が有利子金融資産(政府債券)を購入して必要な準備預金を供給し、決済システムの整合性を維持する(準備預金への欲求を満たす)ことである。

したがって、そこには論争の的になるべきものは何もない。

これは標準的な現代金融理論(MMT)で、これまで20年以上に渡り我々がはっきりと論じてきたものだ。

興味深いことに、こうしたことについて議論している主流派マクロ経済学の教科書は全く見つからない。――こうした現実のオペレーションの話題は主流派の注目から逸れてしまっており、主流派は未だに「いかに中央銀行がマネーサプライをコントロールできるか」を強調したがっている。

基本的な現代金融理論(MMT)のコンセプトを知りたい方は、以下の一連の入門記事群――Deficit spending 101 – Part 1邦訳)、 Deficit spending 101 – Part 2邦訳)、Deficit spending 101 – Part 3邦訳) ――をお読みいただきたい。

  1. それからVoxeuの著者たちは二つ目の選択肢について議論している――“中央銀行は政策金利と同水準の付利を超過準備に与える”

このことは、銀行にとって“準備預金を保持することによる機会費用”をゼロにするという意味がある。というのは、(インターバンク市場でも広く共有されているものと同水準の)短期金利を稼得するからである。

“中央銀行はその金利において好きなだけ準備預金を供給できる” 上、超過準備は、商業銀行の(中央銀行に対して開設している)口座にその分だけ留まり、 “他の短期流動性資産とほとんど変わらない代替資産” となる。

これは多くの中央銀行(FRB、BOE、etc)が金融危機以降に導入しているスキームである。

結果として、中央銀行が選好する政策金利の設定と維持が、(商業銀行が中央銀行に対して保有する)準備預金の量と無関係になったのである。

専門用語では“金利と準備預金の‘分離’”であり、このことについてVoxeuの著者たちは以下のように論じている:

…一般的な教科書や経済学的考察の中ではこうした手法はいまだ発見されていない

このことは、我々がこれまで20年以上はっきりと論じてきた標準的な現代金融理論(MMT)の範疇だ。詳細については、我々の初めてのMMTの教科書 Modern Monetary Theory and Practice: an Introductory Text にて説明している。

それよりさらに詳しく説明する予定の中級のMMT教科書は現在作成中で、完成に近づいている(この本の出版についての詳細は、8月4日ごろに明らかになるだろう)。

明白なのは、Voxeuの著者たちが、これまで数年間に出版してきた我々の研究を無視してきた(あるいは認知していない)ということである。

この点についてのさらなる議論については、Building bank reserves will not expand credit邦訳)、及び Building bank reserves is not inflationary邦訳)をお読みいただきたい。

Voxeu著者たちがこうした中央銀行の準備預金の構造を描写した目的は、以下に示す彼ら固有の論点を論じるためだ:

中央銀行は当然ながら無利子準備預金を恒久的に注入することが出来、永久にゼロ金利を受け入れることができる…このことは予算の余裕を創り出すが、金融政策を完全に放棄することになるというコストが生ずる。

この文章が意味するところを、MMTの語法を用いて以下に整理しよう。

  1. 全ての国家政府支出は、‘紙幣印刷’(printing money)ではなく民間銀行システムの銀行預金を創造する形を取る。
  2. 独自通貨(own currency)の独占的発行者である国家政府は、収入に制約されない。これは国家政府が、不換紙幣のユーザーである家計とは異なり、自身の支出の‘資金調達’を行う必要がないことを意味する。
  3. 全ての商業銀行は中央銀行に口座を開設しており、その口座では準備預金が(訳注:中央銀行によって)管理され、手形交換(決済)システムがスムーズに運用できるようになっている。
  4. 中央銀行は日を跨いで銀行の中央銀行当座預金口座に残る準備預金に対して ‘サポート’ 金利を設定している。ゼロにもなりうるこの金利は、経済における金利の最低値となる。
  5. 財政支出においては(通常)、中央銀行にある政府預金が同額引き落とされ、払い先の民間銀行預金と、当該民間銀行の中央銀行準備預金が同額分増える。
  6. したがって、財政赤字の増加は、準備預金の増加に繋がり、そのとき、上述の ‘流動性管理’ に従って中央銀行による準備預金の ‘管理’ の必要が生ずる。
  7. 言い換えると、財政赤字の進行は準備預金の追加を通じて短期金利に下方圧力をかけ、それに対し、中央銀行が介入し、超過準備に対する資産入れ替えを提示しない場合は、短期金利がサポート金利(あるいはゼロ)まで低下することになる。

MMTの重要な貢献は、財政赤字の構造と、(上述したような)銀行システムに対する財政赤字の影響に関して完全な理解を提供するところだ。あなたはこのような動態を、いかなる主流派経済学の教科書、あるいは金融経済学の教科書でも見ていないだろう。

その上、ごく最近まで、多くのポストケインジアンの研究ではこうしたオペレーションの実態が無頓着に無視されていた。現在では多くの場合、 “我々は元から知っていた” と主張されるのだが。彼らが過去にそれについて書いていたのでなければ、「彼らは元々は知らなかったのだ」とするのが正常な反応だろう。

このように、Voxeuの著者たちは、明示的財政ファイナンス(Overt Monetary Financing)が(利払いを免除することで)財務省に資金源を供給し、その一方で中央銀行が正の金利を維持できなくなるものであると考えている。

そうして彼らは、OMFアプローチに対する独自の批判点を構築するのである。

もし中央銀行が政策金利のコントロールを維持しようとする(正の金利を維持しようとする、という意味)なら、そこには“たった二つの選択肢しかない”と彼らは言う:

  1. “中央銀行は、準備預金に対して政策金利と同額の付利を行うことが出来る…しかし、これは統合政府の観点からは債務発行による資金調達と等価になる――利子分の節約が生じないからだ。”
  2. “あるいは、中央銀行は金融拡張分と同量の無金利の強制法定準備を課すことが出来る…しかしこれは租税による資金調達と同等であり、民間部門の一部がコストを負わなくてはならない。”
  3. “いずれの方法にしても、一時的な財政ファイナンスによる需要の追加的拡張は実質的な効果を生じない”

第一に、政府の財政赤字が支出されるとき、それは経済における購入力の増加(政府の行動による直接的なものか、非政府主体のさらなる所得の稼得を通じた間接的なものかのいずれか)を通じて経済全体の活動を刺激する。

この刺激は、最初の所得増加が次のさらなる支出へと反響していく消費誘導という形の支出システムを通じて倍化されていく。

財政赤字の増加は、非政府部門における金融純資産の増加も齎す――非政府主体の金融上の富が増加するのである。

金融純資産がどのような形で増えるか(銀行預金、政府債券、あるいは他の金融資産)というのはここでは傍論である。

二番目に、もし政府が増税を通じて支出増加分を満たすことを選択したら、その刺激は財政赤字追加を通じた支出増が齎す刺激よりも弱くなるだろう。これは明らかなことだが、これもまた傍論だ。

三番目の論点は、もし通貨発行権のある政府(変動為替相場制度をもつ)が全く債務を発行せずに財政赤字を創出した場合(あるいは、非政府主体の代わりに中央銀行へ債務を売却した場合、これは同等の行動であるが)何が起こるかである――つまりomfをしたら何が起こるだろうか?

あらゆる政府支出において、財務省は商業銀行が中央銀行に対して保持する準備預金口座に振込を行う。その商業銀行には、政府支出先の銀行預金口座があるだろう。したがって、銀行預金が創造されるので、商業銀行の資産と負債が両建てで増加する。(訳注:商業銀行資産は準備預金、商業銀行負債は銀行預金)

この取引は明瞭だ:新しい預金が創造されるので、商業銀行の資産と負債は両建てで増加する。その上、財政支出先は資産(銀行預金)および(負債/株式を加味した)純資産の増加を享受することになる。租税はこの逆の現象を起こす。したがって、財政赤字(租税を越える財政支出)は準備預金を増やし、民間純資産を増加させる。

このことは、(訳注:財政赤字創出の際に) ‘現金システム’ の中で超過準備が生じ、中央銀行にとって流動性管理の問題が生じている可能性が高いということを意味する。中央銀行の目的は目標金利を ‘狙い撃つ’ ことであり、したがってインターバンク市場における競争的な力がその目標に対しての譲歩を生じさせない状態を確保する必要がある。(訳注:超過準備がインターバンク金利を政策金利以下に引き下げないようにする、という意味)

超過準備が存在する場合、(銀行が金利所得機会を追い求めるために動くことで)オーバーナイト金利への下方圧力が生じている。そこで中央銀行は、超過準備を吸収し、目標金利に整合的な流動性の水準を維持するために、政府債券を銀行へ売却しなければならない。中央銀行の一部は、日を跨ぐ準備預金に対して付利を行うことで、流動性管理オペレーションにおける債務売却の必要性を減じている。

こうした債務売却が政府純支出の ‘資金調達’ と何かしら関係があるはずだと考えるのはナンセンスだ。そうした売却は、金利維持を目的とした金融オペレーションだ。こうしてM1(非政府主体の銀行預金)は財政赤字の結果、応分の負債(訳注;民間の負債)の増加なしで増加する。

この結果は、財政赤字が非政府主体の金融純資産を増やすという結論を導く。

4番目の論点だが、政府の財政赤字支出を増やした分だけ非政府主体に対する債務を発行したら、何がおこるだろう?

起こるのは、債券売却の分だけ準備預金が減るという事だが、その際、政府純支出によって創造された銀行預金は減少しない。

この場合、非政府主体の金融純資産は変化しない。変化するのは、非政府主体の資産ポートフォリオの構成だ。

財政赤字支出による刺激は影響を受けないだろう。なぜなら、非政府主体は、資産ポートフォリオを再構成して、他の金融資産(おそらく銀行預金)を減らして政府債券の保有を増やすだけだからだ。

財務省が ‘中央銀行から借入する’ 場合と非政府主体に対して債務を発行する場合の唯一の違いは、政策金利目標を追求するために中央銀行が使用する手段の違いだけだ。

もし債務が財政赤字と同額分だけ発行されない場合(訳注:財政赤字の一部を債務無発行ないし債務の中央銀行の引き受けで補う場合)、中央銀行は超過準備に付利を支払うか(ほとんどの中央銀行が現在行っている)、あるいは目標金利をゼロまで引き下げるか(日本の対応策)のどちらかを行わなくてはならない。

そこでは、非政府主体の純資産に対する財政赤字の影響の違いは生じない。

主流派経済学は、中央銀行が準備預金の吸収を行えば、貨幣乗数(マネーサプライを拡張しインフレを起こす)を通じて、銀行の融資能力を減らせると主張する。

しかしながら、事実は以下の通りだ:

・準備預金の積み増しは銀行の融資能力を増やさない。

・貨幣乗数プロセスは主流派にとても愛されているが、銀行の実際の融資方式を記述するものにはなっていない。

・インフレーションは、潜在的実質産出能力よりも速い総需要の増加によって生ずる。銀行の準備預金量は、こうしたプロセスとは機能的な関係を持たない。

・銀行は、政府純支出を伴うオペレーションとは無関係に、信用力のある顧客を見つけた際その分だけ信用創造を行うことが出来る。

こうした事実はいずれも、財政赤字がインフレーションリスクを齎さないという結論を導くわけではない。あらゆる総需要成分は、過剰である場合にインフレーションリスクを齎すし、過剰かどうかは支出と生産キャパシティの間の関係のみで定義づけられる。

しかし、財政赤字の増加と同額の政府債務所有を民間が行えばインフレーションリスクが低下するという考えは完全に誤っている。そんなことはない。

Voxeu著者たちの考えとは対照的に、民間による政府債務所有が財政赤字拡張によって発生する経済刺激の強さを減じるということもないのである。

(Voxeu著者たちが二番目の選択肢として提示している)「各日に超過準備の分だけ ‘法定準備’ を引き上げる」などという馬鹿げた選択肢は無視するとして、中央銀行が政策金利と等価のサポート金利を超過準備に支払うという行為(第一の選択肢)は、非政府主体に対する債務発行と同義なのだろうか?

ある意味、これは良い論点だ。というのは、このことは、政府債務の性質と、政府債務がどのように払い戻されるかを明らかにするからである。政府債務は中央銀行の預金口座と全く同等のものであって、その払い戻しの際は、資産保有がある預金(政府債務)から別の預金(準備預金)に移り変わるのと同じなのである。

ただ単にこのことは、公的債務に関して不安を掻き立てる論説すべてが事実無根であることを意味する。通貨発行権のある政府は、自身が発行する通貨の中に限れば、いつでも発行負債を償還することが出来る。

もし仮にアメリカ政府が、FRBに対して合法的に全ての発行債務の償却を要求したとすれば――いくつかのコンピューターで何個かキーを叩くだけで――ある預金(債務)から別の預金(準備預金)に数字が切り替わることになる。

したがって、どちらのケースでも非政府主体へ所得がもたらされるのは同様だという見方からすれば、超過準備付利と非政府主体に対する債務発行の間に根本的な違いはない、というのが事実である。

中央銀行が、いずれのスキームにおいても、利払いに影響を与えることが出来るというのも事実だ。究極的には、もし仮に超過準備付利や発行債務金利がゼロやマイナスになるとすれば、中央銀行は(日本のケースのように)ゼロ金利どころかマイナス金利を維持することも可能なのである。

しかし、それがどうしたというのだろう? こうしたことは、政府財政赤字の増加がもたらす刺激の度合いに何の影響も与えない。

このことはまた、政府財政赤字増加によって発生するインフレーションリスクを、追加することも減らすこともないのである。

そして、非政府主体における金融純資産の量も変化しない。ポートフォリオの構成が変わるだけだ。

違いがあるのは、公的な認知においてだろう。狂気じみた金融評論家たちが狂乱して叩き、財政破綻予想をどんどん創出するような公的債務の増加がない。(訳注:超過準備付利スキームにおいては、という意味)

彼らは注意の方向をインフレーションリスクに向けるだろう――しかし、それがどれだけ馬鹿げたことかはものの数十分で明らかになる。

したがって、OMFの利用には大きな政治的な優位性があるのだ。

その上、OMFは、非政府主体にリスク査定のベンチマークとして用いられる低リスク金融資産を導入させることになる。無リスク年金という形の企業福祉が行われる時代は終わるだろう。人々は、自身の不安を解消するために、政府債券ではなく無リスクの準備預金を保有するだろう。(訳注:企業年金は大抵は国債で運用されるので、そのことを言っているのかと)

 

 

 

しかし、MMTの観点から好まれる選択肢は、Voxeu著者たちが “大きな代償を支払うことになる” と主張している選択肢だ。

その “大きな代償” というのは、中央銀行が超過準備に対して一切サポート金利を払わず、短期金利がゼロに落ち込むのを受け入れるというものだ。

金融政策は実に反応が鈍く無力な政策手段であり、したがって無価値であると宣告されるべきだ。主流派は、支出サイクルの安定化に際して、金利操作が好ましく効果的な選択肢であるという説得的なケースをいまだかつて示したことがない。

世界同時金融危機の経験はむしろ逆のことを示した。あらゆる金融政策の活動はろくに効果がなかったのである。

オーバーナイト金利をゼロに設定し、長期金利(これはインフレーションリスクに影響がある)を可能な限り低くなるようにするのはまだマシとはいえるだろう。

そして、支出サイクルの管理には財政を用いるべきだ。財政は目標設定が可能だし、迅速に調整できるし、直接的な影響力がある。

Voxeu著者たちが恐れている “大きな代償” というのは、「新自由主義者が財政政策を『望まくない政策のバスケット』の中に押し込むのを可能にするためのイデオロギー的な抑止として、金融政策の強調(ないし金融政策への依存)が行われてきたに過ぎない」という事実を暴くこと以外の何物でもない。

OMFは、このようなイデオロギー的な十字軍を公衆の面前に晒し、決定的に沈めることになるだろう。


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