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ビル・ミッチェル「納税は資金供給ではない」(2010年4月19日)

Bill Mitchell, “Taxpayers do not fund anything“, Bill Mitchell – billy blog, April 19, 2010.

 

時折、誰も読んでいないし何の注意も払われていないが、不換紙幣(fiat currency)に基づく金融システム運営を行っている政府の持つ選択肢について、基礎的理解を提供している過去のいくつかの資料を発見することがある。そうした資料のうち、今でも有効なものの一つについて詳説しよう。その理解のエッセンスはこの記事のタイトルに要約されている――「納税は資金供給ではない」。したがって、評論家や政治家が”納税者のお金が無駄遣いされた”みたいなことを発言しているのを聞いたら、彼らが金融システム機能について理解していないと即座に結論付けることが出来る。この点において、彼らの主張は無視した方が良い――最初の前提がそもそも間違っているので、その結論も間違っている可能性が高いからだ。問題なのは、一般の政策議論が概してこうした誤った前提に基づいているということである。結果として、概して劣悪な政策方針が採用され、たいていの場合、恵まれない立場にいる人々の利益が著しく害されることになる。

 

週末にあった二つの報道記事は、イギリスにおいてどれほど無知な政策論議が展開されているかについての興味深い証明となっている。そしてイギリスにおける論議は、あらゆるところで行われている論議のレプリカに過ぎない。

公共政策の重要課題について経済学者その他が継続的に行っている発言は、金融システムの運用実態と当該システムが政策選択に与えている機会に関するとんでもなく誤った前提に基づいている。ゴールドマン・サックスがようやく法廷に呼び出された(どれだけ時間がかかってるんだ?)ことは喜ばしいことだが、私の告発のターゲットは、同僚の経済学者たちである。彼らは若人たちの精神に嘘・イデオロギーを永久の真実として植え付けようと拷問を働いているからだ。

 

火曜日(2010/4/15)に77人の経済学者たちがUK Timesへ書簡を出した。それによると:

案の定、選挙上の重要課題は「2010年11月にどれだけ政府支出を削減できるか」になっている。第一野党は現在、政府がすでに2010年11月に計画している削減策に加えて、さらに60億ポンドの削減を提唱している。こうした削減は、有効な貯蓄だということになっている。しかし、マクロ経済学的見解では、単なる削減に過ぎない。そうした削減は直接的に失業を齎し、スタンダードな財政乗数を通じて間接的に支出水準をさらに低下させるだろう。回復がデリケートな内は、それによって我々が不況に逆戻りする確信が強まり、雇用にさらなる悪化を齎すことになる。

今はそのような不安定化させるような行為を取るべきタイミングではない。回復はまだ脆弱なものだ。企業と家計は彼らのバランスシートを建て直すためにさらに貯蓄しようとしている。つまり、企業はあまり投資しないし、家計もあまり支出しない。回復が本格化したときのみ、政府支出のさらなる削減が安全に行えるようになる。

最初の一歩は、経済成長率の回復を確実化することだ、そうすれば税収も回復する。軽はずみな行動は、雇用だけでなく、財政赤字削減の見通しも危うくする。

 

77人の経済学者の大多数は、NAIRUの神話を延命させようとしたり(例:Lord Layard)、サプライサイド政策の策定に携わっていたり(例:OECD Jobs Study)している主流派経済学者であった(特にサプライサイド政策は数多くの人々の人生設計を失業長期化によって毀損した)。77人のうちの残りは主要なポストケインジアンだった。これはenemy within(内なる敵)の別の繰り返しの見本だ。

 

予想通り、この書簡は、現在のイギリス政府の大いなる後押しとなった。(ソース

あなたはこの書面を読んで、知らず知らずのうちに頷いていただろう。しかし、この書簡の隠れた真意は、オーソドックスな代物なのである。彼らは古いタイプのケインジアンが支持した財政ハト派主義を詳説しているだけだ。彼らは税収が”支出の資金供給になる”と論じており、たまには財政赤字を見逃そうと考えているに過ぎない。彼らは公的債務発行を懸念しており、総じて「なぜ公的債務が発行されるのか」についての理解に乏しい。財政赤字の持続可能性を考えるにあたり、彼らは公的債務残高GDP比の安定化というナンセンスなルールを持ち出す。彼らは、そうしたルールが財政赤字のサイズを制限するだろうと思っているのだ。

 

したがって”財政ハト派”が財政赤字を許容するのは、それが(後々の黒字によって平均的にゼロになるよう相殺されて)元のサイクルに戻り、公的債務GDP比が(実質金利と産出成長率の比の中で)平準化する限りにおいてのことなのだ。政府は財政制約に直面しており、慎重でなければならないという仮定に基づいた拷問じみた方程式が、学生たちに課されているのである。

重要なのは、財政ハト派が、金融システム運用に関する神話を延命させている主流派と、本質的に変わりがないというところである。かの書面は、財政ハト派の本性を完全に露わにしている。

→今は支出を削減すべき時ではないが、いつかは行うべきだ。

→回復を待って、それから政府支出を削減しよう。

→税収の増加を待って、それから政府支出削減に移ろう。

→拙速な支出削減は財政赤字を拡大するので良くないことだ。

かの書簡において、このような所感がひしめいていることが見て取れるだろう。現代金融理論(MMT)の観点から言うと、こうした所感はいずれも不換紙幣発行政府には適用できない。

「MMTも『支出削減が早すぎるので良くない結果に終わる』と考えているだろう」と言う人も居るかもしれない。それはそうだが、問題は、裏にある所感が見当はずれで不適合だというところだ。「支出削減するには早すぎるが、後々にはサイクルをバランスさせるために支出削減を行わなくてはならない」という誤った所感は、MMTからは否定される。

財政ハト派に支配的な懸念は、政府が”危険水域(wild side)”(財政赤字)にとどまれるのは限られた時間だけで、他の時点で純支出を削減して黒字を達成しなければならないというものである。財政ハト派の立場からは、一定水準の懸念が基礎にある。

彼らは、財政赤字が需要と雇用を下支えするということはわかっているが、同時に財政赤字によるインフレを恐れ、高水準の公的債務による危険と将来的な税率上昇を心配している。財政ハト派は、政府が財政的に制約されていると考えているのだ。

MMTは、政府財政赤字に対してこのような考えを示さない。MMTは、非政府部門の支出(及び貯蓄需要)によって内生的に財政赤字が決まると考えており、また適切な雇用成長率を保つために総需要を下支えするものでなければならないとも考えている。

政策目標は、特定の財政赤字水準ではなく、より重要な社会経済的福祉の指針である――例えば、完全雇用などだ。

MMTにとって、完全雇用を達成するのに必要な財政赤字がGDP比1%なのか、GDP比10%なのかは重要ではない。必要な財政規模の違いは、単に非政府部門の支出性向の違いを反映するに過ぎないのだ。

しかし、財政ハト派は、明らかに経済に対する財政赤字の規模に限界があると考えており、現在の比率が要注意だと見做している。いや、MMTも財政赤字GDP比に限界を見出してる――それは100%だ!(訳注:GDPの100%というのは、要するに全生産力という意味であり、「MMTにおける支出限度は実物生産キャパシティにのみ規定される」ということを意味している)

したがって、これら77人の経済学者は、いかにも理性的であるかのように振る舞ってはいるが、主流派経済学者たち同様、要点を掴みそこなってしまっている。

 

経済学者たちがどれだけ間違っているかについての他の目立つ例としては、イギリスのシンクタンクIFS(Institute of Fiscal Studeis)の最近のレポートがある。このレポートは、2010年4月18日付のガーディアン紙でChancellor Brown left public finances ill-prepared for the crunch” (ブラウン首相は”経済政策に対して準備不足”な公的財政状態を齎した)ということを示すものとして紹介された。私はまた別のブログ記事で、このレポートに含まれるロジックについて書くつもりだ。

ガーディアンの記事は、当該レポートが読者に提供した「神話」をそのまま載せたものとなっている。以下の通り。

IFSはゴードン・ブラウン首相が政府債務削減について他の先進国に比して努力不足であると主張している…ゴードン・ブラウンは、1990年前半の景気後退直前までの保守党に比べれば、信用収縮に一直線というほどではないものの、政府債務削減への努力がほかの先進国に比して不足しており、それによってイギリスは、金融危機による影響をコントロールするのが困難な脆弱な状況に陥っている、とIFSは報告している。

ガーディアン紙の記述によると、IFSは(レポートにおける貧困な推論を見るに、大して物事を考えて(think)いるようには見えないが)イギリス国家統計局による統計的証拠から、財政赤字支出の結果として”1997年から2007年にかけて、量および質の観点から見て、公的サービスが1/3程度のかなりの改善が生じた”ということは認めている。

しかし、彼らのメインの主張は以下だ。 ”危機的状況になりつつある高水準の債務は、イギリスが公的財政の劣化の後に2010年で最も貧弱な財政状況にある国の一つになったことを意味している。イギリス以上の財政劣化に陥った国は、三年以上前のアイルランド、およびアイスランドだけだ。”

IFSが言うには

ほとんどのOECD加盟国政府は、1997年から2007年にかけて、労働党よりも高度な構造的財政赤字削減に取り組んだ。労働党による財政状況は、金融危機の背景を形作ることになった…

これにはいくつか文を加えた方が良いだろう:ほとんどのOECD加盟国は急激な財政赤字削減を行ったが、強迫的な財政黒字追求は、高い失業率と(量・質ともに)低レベルな公共サービスを齎した。財政的責任を捨て去ろうとするのではなく、(雇用などの)指標の観点に基づいた財政戦略を取った結果として、イギリス政府ははるかに良い結果を実現した。

 

さて、以上からわかる主要な論点は、「過去の財政スタンスが現在の通貨発行権持ち政府(currency-issuing government)の財政選択の実行を阻害・制約し得る」という考えはナンセンスだ、というところだ。こうした信条は、財政ハト派や主流派の思考を下支えしている神話的代物である。

明らかなのは、昨年(あるいはより長い期間)で政府がどれだけの財政黒字or赤字を出したかということが、今必要な財政赤字を出すにあたって、良い方向にも悪い方向にも作用しないということである。。

 

 

はじめに、(自動安定化装置による)財政状況の内生性によって、民間支出の変動に応じた財政の変化が生ずるということを押さえておきたい。総需要に対するいくらかの反循環作用を持つということだ。それに加えて、通貨発行権持ち政府は、望むように純支出を裁量的な水準に選択可能である。

過去に形成した財政黒字が政府に追加的支出余力を齎すということは起こらない。

同様に、過去に形成した巨大な財政赤字が、政府の支出余力を減らしたり、その巨大財政赤字の維持余力を減らしたりすることもない。どれだけ巨大であってもだ!

イギリス政府は、経済危機に対して適切な規模の財政的介入を行うにあたり、他の通貨発行権持ち政府と完全に同等のキャパシティを持っていた。彼らは皆等しく、無限の金融的キャパシティを持っていたのである。

とはいえ、財政政策の限界というのは厳然として実在する。政府は、売買可能な実物財・サービスしか購入できない。そのうえ、そうした実物リソースに対する民間の強い需要があれば、政府による入札は価格上昇を齎すことになるだろう。

しかし、各国が全域的に恐慌に直面している場合、政府が非政府部門需要と資源競合する可能性は低いだろう。

 

 

収入のための租税は時代遅れ

導入部に書いた通り、経済学者が延命させようとしているこれら全ての神話を断固として暴く文書が時折生まれてはいるのだが、不幸なことに、こうした文書は出版当初はほとんど注目を集めず、主流派経済学者たちが通常営業を続ける中でどこかに埋没することとなってしまう。

第二次世界大戦の前年、当時のニューヨーク連銀総裁のBeardsley Rumlはアメリカ法曹協会である講演を行った。

この講演については、シカゴ大学図書館のGuide to the Beardsley Ruml Papers 1917-1960で閲覧可能だ。

歴史資料は、このスピーチが何も起こさず、”相応しい注目を集めなかった”ということを示している。このスピーチは1946年1月にAmerican Affairsの定期刊行物に掲載され、全文をここで読むことが出来る。

スピーチ(及び記事)のタイトルは収入のための租税は時代遅れ(Taxed for revenue are obsolete)というもので、これは確実にあなた方の心に響くだろう。もう一度声に出して読んでみよう――収入のための租税は時代遅れ。

American Affairsの編集者は当時、以下のように書いている:

(Rumlの)論文の主張は、(1)中央銀行システムのコントロール (2)不換紙幣という条件下においては、政府は最終的には資金の懸念から解放された状態であり、もはや政府自身の収入を目的とした徴税は必要にならないというものだ。このため、すべての租税は、社会・経済的効果の観点から評価されるべきだということになる。こうした考えを記述しているパラグラフは、テキストの中でイタリック体で見つかるはずだ。Mr. Rumlは政府がどのように費用支払いを行うのかについて精確には記述していない。考えられるのは、社会・経済的目的に基づいて徴収した税収から支出を捻出するか、あるいは必要に応じた紙幣印刷か、ということであろう。この論点は学術的なものだ。彼の論文の後半は、法人税への批判に捧げられている。

Rumlがこの論文を書いたのは、金本位制が崩壊した後であり、ブレトンウッズ協定によって通貨の兌換性と固定為替相場制度が再構築される前のことだ。Rumlは彼自身、ブレトンウッズ会議の主要なプレーヤーだったわけだが。

しかしながら、1945年では、アメリカは現在と同様の通貨発行権持ち国家だったわけだ! 間の何年間かは、ブレトンウッズ協定下において各国政府は通貨発行権を自発的に固定相場制度に譲渡していたが、この協定は最終的に1971年に崩壊した。

Rumlのスピーチの主な政治的意図は、企業に租税が悪影響を齎すと主張することであり、MMTの中心的な考えとは確かに別物である。しかし、Rumlの主張は、「もし政府は支出のための租税は必要としておらず、また租税が企業を痛めつけるのだとしたら、なぜ政府は徴税を行うのだろうか」という議論に基礎づけられている。

したがって、彼の主張する各命題は、リンクしてはいるものの、分離可能でもある。

Rumlは以下のように主張している:

民間企業に対する政府の優位性というのは、明らかに企業に対する政府の徴税力に基礎づけられている。企業は政府から多くの規則制定力を得る。政府は企業のこうした規則制定力に制限を設け、統治範囲内に限って企業運営の自由度を保障する。租税は、企業の実行力に制限を与えるために政府が課す制約の一つだ。

このプロセスに批判すべき点は何もない。課税される企業は、生身の人間、市民ではない。どれだけ抑圧されても一言も発さないし、そうあるべきだ。企業への課税の問題は、倫理の問題ではない。実際の影響に関する疑問だ:どのようにすればベストな成果を得られるか? どのように企業課税を行えば、最も公益に資することになるのか?

時にその裏に隠れている疑問を代わりに追求することが出来れば、啓蒙的になったりする。企業への課税に関する問題を理解しようとするなら、我々は以下の疑問を持たなくてはならない: ”一体なぜ、政府は租税を行う必要があるのか?”  これは簡単な質問に見えるが、そう見做してしまうと、得られる「明白な回答」が皮相的なものになる可能性が高い。もちろん、明白な回答というのは、「租税は政府にとって、費用を払うための収入である」というものだ。

第一に、租税というのは、政府が非政府部門に制約を課す方法だということは理解していただいているはずだ。Rumlは特に企業部門に対する制約に注目しているが、この議論はすべての非政府主体に一般化できる。

第二に、この文書からは、政府部門に対して制約を課すという政策決定に関して問われるべき疑問も見出すことが出来るだろう。つまり、”何が公益に最も資するのか?”という疑問である。MMTでは、公共政策決定において基礎的な目標として事前に公共目的について論じている。こうしたコンセプトと公益は近しい対応関係にある。

第三に、こうした制約は必要なのだろうか? ”一体なぜ、政府は租税を行う必要があるのか?”  既に示した皮相的回答は、主流派の基礎的主張であり、租税の目的に関する主流派の(直感的な)思考のあらわれだ。しかし、彼らが束縛されているこうした皮相的外観は全て間違いだ。重要なのは、租税が ”政府にとって、費用を払うための収入” ではないというところだ。

さらにRumlは、歴史的に見て政府が借入を通じて税収以上の支出を行ってきたことを説明した。彼が言うには、借入は ”政府の費用支出に対して税収以外の必要支払手段を補うための代替手段として用いられている”。 しかし:

…もし政府が借入支出に重度に固執するなら、金利はより高くなって、貸し手への政府からの誘導をよりいっそう強めるようになるだろう。そのような政府は最終的に、独立的統治と支払能力を両方維持する唯一の方法が、資金需要の大部分を満たすに足る重税を課すことであり、――もし支払期限の圧力の下にあるなら――資金需要を完全に満たすための租税を準備することであるということに気付く。

こうなれば、私の引用部分が――完全に主流派じみた――クラウディングアウトの話だと思うはずだ。つまり、債務の増加が将来の増税などを強いる、という話だと。

しかし、次にあなたがたは次のような一節を目にすることになる。

独立と支払能力の両立のために租税が必要だという話は、州や地方の政府においては正しい。しかし、国家政府については正しくない。

やっと合点がいった! 州政府や地方政府はこの意味で家計に似ていて、支出に際して金融的制約に直面している。それらは支出に際して資金を調達しなければならない。もちろん、州政府や地方政府は徴税権を持っていて、家計は持っていないが、それは程度の問題であって本質的な問題ではない。

一方、国家政府は不換紙幣金融システムにおいて独特な性質を持っている。Rumlは、この点について(過去25年の間に)生じた2種類の発展は、”貨幣支払需要を調達するにあたっての、国家政府の地位を大幅に変革した”と考察した。

現代的な中央銀行として機能する組織の存在下において、すべての主権国家は国内資金市場における究極の自由を獲得している。そして中央銀行の通貨は、金やその他のいかなる商品とも兌換性を持たない。

アメリカは中央銀行システム(連邦準備制度)を持つ国家であり、当該中央銀行の発行する通貨はいかなる商品とも兌換性を持たない。このことは、我々の連邦政府は、自身の資金需要を満たすにあたって資金市場から完全に自由であるということを意味する。よって、現在では、課税にあたっての第一の考慮は、それによる不可避的な社会経済的影響なのである。一般的に、すべての税は何かしらの性格の社会・経済的影響を持っているので、政府はそうした影響を考慮して租税政策を構築すべきだと言えるだろう。あらゆる連邦政府の税は、公共政策としての評価と実務上の効果の評価に耐えなければならない。租税プログラムにおいて、収入発生というマスクによって果たされるべき公共目的がにごまかされるなどという事は決して起きてはならない。

こうして、この言説がMMTによって提示された基礎的見識と完全に整合的であることが明瞭に確認できるだろう。通貨に兌換性がなく、変動為替相場制であれば、中央銀行は金融資産(貨幣)に関して完全なる創造の自由を持ち、連邦政府はあらゆる金融的制約から完全に自由になる。

この点についてのより詳しい議論は拙記事Who is in charge?をお読みいただきたい。

そして、このことは次の疑問を発生させる:もし政府に金融的制約がないのなら、どうして政府は課税を行うのだろうか?(特にそれが、経済成長等に悪影響をもたらす場合)

 

Rumlは租税の目的として四つの見解を提示してる。

『連邦税は、主に四種の社会・経済的目的のために作られている。

1. ドルの購買力を安定化させるための財政政策的装置

2. 累進所得税や相続税に見られるような、富と所得の分配に関する公共政策の表現

3. 様々な産業や業界団体に対する補助金ないし罰金といった公共政策の表現

4. 高速道路や社会保障といった、特定の国益のコストの直接的分離・評価』

 

1番目の目的はインフレ調節についてのものだ。政府が総需要の状態を管理するために課税を行うというのは、MMTの基本原則の一つである。したがって、もし名目需要が、実質産出の観点から見て経済のキャパシティを超えてしまうようなら、税を引き上げ、非政府部門の購買力を支出システムから取り上げ、支出乗数を減らす。

Rumlが言うには、 ”もし連邦税が不十分であるか、誤った形で課されたら、民衆の購買力は、購買力を十分に満たせるだけの財・サービス産出を大きく上回ってしまう可能性が高い。もし需要が過剰になれば、結果として価格が上昇し、それに釣り合うだけの商品量の増加は生じない。要するに…インフレーションが起こるということだ。一方で逆に、もし連邦税が過剰であるか、誤った形で課されたら、民衆の購買力は、生産者が作りたい全ての財・サービスを獲得するのに不十分なものとなるだろう。これは広範な失業に繋がる。”

2番目の目的は再分配についてであり、分かりやすいところだろう。3番目の目的も明瞭だ。

4番目の目的は、どうもぎこちなく聞こえる。というのは、表面的な論理のように思われるからだ。しかし、これが意味しているのはまさに「担保付き支出(hypothecated spending)」なのだ。これは政治的に継続的な支出については透明性があるべきという議論なのである。実際、租税は”需要除去”なのであり、非政府部門の支出キャパシティを減らす。この意味で、その透明性は、税がなければ家計ないし企業の手にあったはずの資源が、どこに ”需要注入” されたか(例:高速道路への支出)を非政府部門が正確に確認することを可能にする。そのことは、租税が何かの資金源になっているということを意味したりはしない。ただ、機会費用(逸失利益)の同額分だけわかりやすくするだけだ。

この点についてのより詳しい議論はFunctional finance and modern monetary theoryという記事をお読みいただきたい。

 

さて、Rumlは公共目的という概念について以下のように論じている

ここ最近、我々は連邦の租税プログラムを意識的にこうした目的にそれぞれ用いてきた。こうした目的を遂行するにあたって、租税プログラムは一つの手段に過ぎない。目的それ自体は基礎的な国家政策の問題であり、第一に、あらゆる国家租税プログラムから目的を独立させるべきである

繰り返すが、これ以上なく明瞭である。国家政策の優先順位は中心的な問題だ。そこでは、租税というのは、政府がこうした目標を進めるために最大限可能な全ての機能的財政政策パッケージの一部に過ぎない。Rumlによれば、 ”租税プログラムは一つの装置と考えられるべきであり、それが目的に対してどれだけ有効かで判断されるべきなのである。”

 

この言説は、1945年、アメリカ経済が金本位制からブレトンウッズ体制に移行するまでの間に行われたものだ。言い換えれば、当時のアメリカ政府は、今日と同じような通貨主権を持っていたのだ。

Rumlの見識は、MMTから導かれる中心的な原則と整合的だ。

こうした考えは、市井の人々が利用している直感的論理や、主流派マクロ経済学の教科書によって流布されている虚偽から見れば、全く以て風変りに思えるだろう。

納税は資金供給にならない。租税は、公共目的を追求する国家政府が政策パラメータを操ることによって、購買力が失われたり獲得されたりする事象である過ぎない。政府が(無能さetcによって)望ましい結果を達成できないことがあるという事実は、ここでは重要ではないのである。


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