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ビル・ミッチェル「赤字財政支出 101 – Part 2」(2009年2月23日)

Bill Mitchell, “Deficit spending 101 – Part 2“, Bill Mitchell – billy blog, February 23, 2009.

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さて、「私たちは財政赤字を恐れる必要がない」ということを説明するために書くシリーズの第二回だ。今回は、所謂、「財政赤字を”ファイナンスする”」ことをめぐる神話のいくつかを解消したい。とりわけ「財政赤字はインフレをもたらす」、ないしは/もしくは、「財政赤字により政府は借り入れをする必要が出てくる」という神話だ。結論としては、政府には財政制約がなく、売られているものがある限り、それらに対して好きなだけ支出できるということになる。そして、支出が常にインフレをもたらすわけではないし、必ず政府債務を増加させるわけでもない、ということだ。

まず前回のパート1の復習から。一般の個人の場合、その支出は入手可能な原資に制約されている。自分の所得や資産の売却、どこかからの借りるなどを合わせても限度がある。対して、政府の支出は容易に可能で、中央銀行に小切手を振り出せばよい。政府の支出は、政府が中央銀行に持っている政府預金の額とは基本的に無関係なのだ。政府支出の小切手の受領者(政府にモノやサービスを売った人)が、小切手を銀行に持ち込むと、小切手は中央銀行収支(準備預金)を通じて清算され、民間銀行システムを通じ、口座への振込み記帳となって現れる。言い換えれば、政府支出は、民間銀行が中央銀行に持つ口座に信用を与えることによってなされている。このプロセスは、何か先行する収入(つまり税や借入)と関係しているわけではない。また、この信用付与によって政府資産は何ら減少しないし、政府の支出能力が減じることもない。

対して納税だが、民間部門からの納税が、民間銀行への小切手振出(または銀行振込)によってなされ、中央銀行が民間銀行の口座から引き落とす記帳となる。このとき何かの実質資源が政府に移転するというわけではない。また、この記帳によって政府の支出能力が高まるということもない。

この点に関して主流経済学は、家計の予算と政府の予算の違いを区別しないゆえの誤謬に陥っている。「政府の貯蓄と貯蓄取り崩しは、ちょうど家計のそれと思って考えていい」とは、評判の高い経済学者ロバート・バローの言葉だが、このような言明は全くの誤りだ。

主流経済学では政府予算制約(GBC:the government budget constraint)という枠組みを用い、次の三形態に分けた分析を行う。(1)増税、(2)民間部門への利付負債(国債)販売、(3)利子のないハイパワードマネーの発行(貨幣創造)、だ。そして、「ハイパワードマネーによるファイナンス(債務マネタイゼーション)の場合は赤字がインフレをもたらす」、であるとか、「債務発行によるファイナンスは民間部門の支出を搾り取る」、という結論を導き出すシナリオをいくつも構築する。実際のところのGBCは「事後的」にとらえた会計の姿に過ぎないのにも関わらず、従来の経済学ではそれが政府支出の「事前の」資金的制約であると主張されている。

GBCという枠組みを教えられる学生たちは「政府支出の際には、紙幣を刷ることでインフレーションにならないよう、増税か国債発行が必要になる」と信じることになる。人々も、政府支出のための金は税や国債が賄っているという誤解を持っている。政府が赤字を増やすと(徴税より多い支出をすると)債務残高が増えるか「お金を刷る」かのどちらかになるに違いない、いずれにしても望ましくない結果だと考えている。

しかし実際の政府の財政運営は、そのような先入観とはまるで違っている。家計、すなわち貨幣の使用者(user)は、使用者であるがゆえに支出の前に第一に資金を調達しなければならない。全く逆に、政府、すなわち通貨の発行者(issuer)は、必然的にまず支出(民間銀行口座に信用を付与)することによって、後日必要に応じて民間口座からの引き落としができるようになるのだ。政府は、民間部門が支払いや納税や貯蓄(取引のための残高維持も含む)のために必要とする資源の源(the fund)そのものだ。政府は自国通貨の支払いに困ることはない。

主流経済学ではこれを「貨幣創造」と呼ぶが、正確ではない。人気のあるオリバー・ブランチャードの教科書によれば、政府は

私やあなたにはできないことをすることが出来る。政府は貨幣を刷ることによって赤字を事実上賄うことができる。ここで”事実上”と言うのは、貨幣を作るのは政府ではなく中央銀行だということだ。しかし、中央銀行の協力があれば、政府は事実上、貨幣の発行によって自ら資金を調達することができる。政府は債券を発行し、中央銀行に購入させることが出来る。その際、中央銀行は自身が発行した通貨を政府に支払い、政府はその通貨を財政赤字の調達に用いる。このプロセスは債務マネタイゼーションと呼ばれる。

これが主流経済学者が「紙幣を刷る」と言っているものだ。しかしこれは金融システムから見れば間違った認識だ。マネタイズとは、貨幣への変換という意味だ。かつて金(gold)は政府が金(gold)を購入して金証券を発行するときにマネタイズされていた。中央銀行が外貨を購入するときにもマネタイズは起こっている。外国通貨の購入は、外国通貨を自国通貨へと変換あるいはマネタイズしていると言える。このとき中央銀行は、新規発行されたドルに対して銀行システム内に利子を稼げる手段を提供するために、連邦政府有価証券を売却する。不胎化と呼ばれる処理だ。広い意味で言えば、独自通貨を持つ政府の負債は貨幣だ。赤字支出のプロセスとは何を買うのであれ、マネタイズのプロセスということになる。

確かに、あらゆる政府支出が貨幣創造を伴っているのは明らかだ。但し、これは経済学の教科書や公共の言論においての言われているところの債務マネタイゼーションとは意味が異なる。ブランシャールの概念に従えば、債務マネタイゼーションは通常、中央銀行が政府債券を財務省から直接購入するプロセスのことを指すことになっている。言い換えると、連邦政府が市民からではなく中央銀行から通貨を借入するということである。債務マネタイゼーションは通常、政府が「お金を刷る」と言われるようなプロセスを意味する。債務マネタイゼーションは、他の条件が一定なら、マネーサプライを増やして深刻なインフレーションをもたらすとされている。

しかし、債務マネタイゼーションを怖れる根拠がない。そもそも政府が支出するときに通貨を持っている必要がないのだが、さらに、中央銀行には既発国債にしろ新発国債にしろ、それらを購入する選択肢がない。Part 3で紹介するつもりだが、中央銀行に目標短期金利を維持するという任務を持たせるのであれば、中央銀行は国債購入量・売却量を任意に決定することができない。中央銀行が準備預金量をコントロールできないというこの事実は、債務マネタイゼーションの不可能性を明確に示すものだ。中央銀行は、その意のままに政府有価証券を購入して政府債務をマネタイズするというようなことはできない。なぜなら、それを行うと、超過準備の発生によって、短期金利がゼロか、サポート金利のところまで低下してしまうからだ。このことについてはPart 3で逐一考察しよう。

ここまでの分析をまとめると、次のように結論できる。政府は小切手を切ることなどで銀行口座に信用を与えるか、現金を出すことで支出(経済に金融資産を導入する)を行う。この支出は収入に制約されない。自国通貨を持つ政府は、支出に関しての金融的な制約はない。ただし自ら(政治的に)課している制約は別だ。

政府支出が収入に制約されていないとなると、徴税についてもこれまでとは別の見方ができるようになる。徴税には、民間人が納税義務を果たすための必要資金を調達するために、その財やサービスを政府に提供するように仕向ける、という機能があるのだ。

徴税は、政府が支出するために必要な収入だというのがオーソドックスな理解だ。しかし真実はその反対だ。政府が支出することが、非政府部門に収入を提供し、それによって人々が納税義務を履行することを可能にしているのだ。つまり、納税負債を決済するのに必要な資金は、政府が支出することによって非政府主体へと供給されている。このことは、納税義務を課すことが非政府主体における政府貨幣の需要を創り出しており、このことによって、政府が経済的・社会的政策プログラムを運営できるようになっている、ということを意味している。

この洞察から、主流の分析が見落としている税の別の側面が見えてくる。税を支払うために非政府部門が不換貨幣を必要とするであれば、税の賦課とはまず第一に(支出のためではなく)、非政府部門の(求職者全員の)完全雇用のために作られているものなのだ。そうであれば、非政府部門の失業者・遊休資産は、実物材やサービスを非政府部門から政府部門へ移転させる政府支出を通じた需要追加により活用され得ることになる。
裏を返せば、この移転が政府の経済的・社会的政策プログラムを促進する。実物資源が財やサービスの政府購入という形で非政府部門から政府部門に移動する時に、その資源を供給する側は、納税義務を果たすために不換紙幣を獲得する必要があるということに動機づけられている。

さらに、実物資源が移転されたとしても、徴税によって政府が紙幣を発行できる余地が大きくなるわけでもない。以上のように政府部門と非政府部門の関係を概念化してみると、政府が支出することが賃金労働を供給し、同時に、租税によって作り出される失業を消滅させているということが明らかになる。

こうして、マスとしての失業がなぜ起こるのかがわかってくる。(政府による税と支出で定義される)国家貨幣を非金融経済に導入することで、非自発的失業という亡霊が現れる。会計の事実として、総産出が売れるためには、総支出と総所得が一致していなければならない(ある期間において、生産を通じて得られた所得の同額が支出されたとしても、そうでなくても常に)。非自発的失業は、現在の価格(賃金)では買い手がつかなかった遊休労働力だ。失業が発生するのは、民間部門が全体として、他の条件を一定とした場合、労働者を欲しつつも、稼得分の全部は支払わないことで貨幣を稼ごうとするからだ。その結果、モノやサービスの売り手のところに望まない在庫が蓄積し、ひいては産出と雇用の低下につながる。こうした状況では、名目賃金(あるいは実質賃金)をカットしても、そうした賃金カットが民間部門の純貯蓄需要を取り除いて支出を増加させるのでもない限り、労働市場の失業がなくならない。

このように、国家貨幣の目的は、実物財・サービスの非政府部門(主に民間)から政府領域(公共)への移動を促すことである。政府は、まず最初に税を課し政府発行貨幣への抽象的需要を作り出すことによって、こうした移転を達成する。非政府主体は、納税と純貯蓄に必要な資金を得るため、実物財・サービスを売りに出し、必要な貨幣単位と交換する。売りに出すものには当然労働力の提供も含まれる。明らかな結論として、失業とは、政府純支出が納税需要と純貯蓄需要を満たすのに少なすぎるときに生じるのである。

この分析により、政府支出の上限も定まる。納税が可能になるためには、十分な政府支出が必要だということはすでにはっきりしているが、加えて、政府純支出は民間の貯蓄需要(金融純資産の蓄積)に合わせる必要がある。前のパラグラフで明らかだが、もし政府が租税分と非政府部門の貯蓄需要を満たすのに十分な支出を行わないと、不足の兆候として失業が現れることになるだろう。ケインジアンは「需要不足失業」という言葉を用いてきた。我々の考えでは、いかなる時も民間の支出(貯蓄)決定は所与なのだから、失業の原因とは常に政府純支出の不足だ。

政府純支出の水準が不十分であっても失業が増加しない状態が持続する場合もある。ここ数年のアメリカやオーストラリアといった国にも裏付けられる通り、その場合のGDP成長は民間債務の拡張によってもたらされていることになる。問題は、民間部門の所得は決まっているので、所得に占める債務元利払いの水準が一定割合を超えたときに、民間部門が”借入余力を使い果たし”てしまうことだ。

そうなると、民間部門は不安定性回避のためにバランスシートを再構成しようとする。結果として債務の拡張に頼っていた総需要は減速し、経済全体が傾く。ここに至り、財政の歯止め(不十分な純支出水準)の問題は、失業という形で顕在化し始める。

重要なのは、税構造は所与として、人々が雇用を希望しつつ、それまでのような消費水準(もしくは、さらなる債務形成)は望まない状況でも、政府が支出を行い、財・サービスを購入すれば完全雇用を維持することが出来るということである。そうしないと失業や不況が生じることになる。不況経済では、資本側にも労働側にも多くの遊休資源があるため、財政赤字の拡張がインフレを促進するとは考え難い。

私がずっと指摘してきた話だが、連邦政府がまず最初にすべきことは、職を望む者すべてに労働機会を提供し、すべての法的資格の付与とともに最低賃金を支払うことだ。失業者は、定義によって”市場価格”がついていない。その労働力への需要がないからだ。価格のないサービスの購入は、何らインフレ促進的な行為ではない。

Part3では、「政府借入は金融市場から貨幣を搾り取るので、財政赤字は自動的に金利上昇につながる」という議論を検討しよう。そこであなたは納得することになるだろう…これもまた、政府の活動を制限するように設計されている、もう一つのネオリベラルの神話だったのだ、と。


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