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マーク・ハリソン 「ソヴィエト経済 1917-1991: 在りし日日、亡きあと」(2017年11月7日)

Mark Harrison,  The Soviet economy, 1917-1991: Its life and afterlife,  (VOX, 07 November 2017)


ソヴィエト時代のロシアが特異であったのは、経済成長でも人的開発でもなく、国力形成における経済の使用形態のためだった。1917年ボリシェヴィキ革命の百周年を記念する本稿では、女子教育と児童生存率上昇が多くの市民に機会向上をもたらしたのはたしかだとしても、ソヴィエトロシアは、そこで生まれ、育ち、年老いてゆく者にとって、過酷で不公平な環境であったことを示す。ソヴィエトの経済体制は大量生産 (mass production)・大規模軍 (mass armies) の時代に構想された。その時代はすでに過ぎ去ったが、ソヴィエト経済の思想はいまも脈をとどめている – 古き日への郷愁とナショナリズムに支えられながら。

1980年代、ソヴィエト連邦が 「ロケットで武装したヴォルタ川上流 (Upper Volta with rockets)」 と形容されていたことは有名だ1。しかしこれは現在 「ブルキナ・ファソ」 の名で知られる国の歴史と文化を不当に軽視するものだった。またソヴィエト連邦にたいしてもあまり親切な言い方ではなかった – 国土の大きさと豊かさにおいてブルキナ・ファソとはまさに桁違いであったこの国にたいしては。とはいえ、そこには幾許かの真実もあった: ソヴィエト連邦の軍事能力はその経済規模との比例を逸していたのだ。

図1に示すのは、「一国が、影響力を自ら行使し、また影響力に対抗する目的で有する能力 (the ability of a nation to exercise and resist influence)」 を把捉するために政治学者が考案した標準的な尺度と、諸大国の関係である。この尺度によると、ソヴィエト連邦は1970年代にはすでに世界に冠たる大国と化していたことになる。だがその経済の生産高は合衆国における実質GDPの半分にも届いていなかった。人口規模は同程度であり、それが分布する領土のほうは遥かに広大だったのにもかかわらず。

図1 国力の合成指標でみた、国際システムにおける諸大国 1913-1987 (一部年度のみ)。

出典: The National Material Capabilities (ver. 4.0) のデータセット。Singer et al (1972) に解説。http://www.correlatesofwar.org/ で閲覧可能 (2016年1月7日アクセス)。

原注: 国力の合成指標は、一国が国際システムに占める相対的なウェイトを各時点において捉えた次の6個の尺度を合成したもの: 総人口・都市部人口・鉄鋼生産・エネルギー消費・兵員数・軍事出費。1918年に消滅したオーストリア-ハンガリー帝国はここでは省略している。

 

図2はソヴィエト連邦の一人あたり実質生産量に関する経済アウトカムを比較したものである。いくつかの世界的基準からみて、1913年のロシアにおける経済は平均的なものだった – 合衆国には大きな後れをとるものの、ヴォルタ川上流と比べれば遥かに進んでいる。一世紀ののち、すなわち2008年のグローバル危機が勃発するころはどうかといえば、ロシア経済はここでも平均的な位置にいたのである。

図2  一人あたり実質GDP (1885 – 2008): 合衆国・ロシア/ソヴィエト連邦・世界の比較 (国際ドル・1990年物価)

出典: 合衆国と世界に関するデータはAngus Maddison at http://www.ggdc.net/maddison; ロシア (1913年までのロシア帝国時代、ソ連、つづいて前ソ連諸国) に関するデータはMarkevich and Harrison (2011) から。

 

その間の期間に多くの事件が起きている。まずボリシェヴィキ革命 – 2017年11月7日はその百周年にあたる – が、ヴェネズエラ型の混沌に陥る。その後、経済は回復し、世界平均に復帰、そして数十年間にわたりそれを上回り続けた。しかし今振り返れば、ソヴィエトのシステムがもたらした効果というのが、もっぱら継続的な動員をとおして産出量水準を引き上げるものだったことが分かる。底にある生産性成長率は引き上げられず、ソヴィエト経済がアメリカの諸水準に収束することはいちども無かった。

ソヴィエトにおける軍事力 (power) と生産性とのあいだの不釣合いな関係は、そうした結果を仄めかすものだった。現在われわれは、全ての国が比較優位をもっていると学生に教えている。ソヴィエト経済の比較優位は世界の軍事手段生産にあった。ここに反映されているのは、ボリシェヴィキ革命において、そしてその後の政策施行ならびに制度設定において、指導者の役割をはたし権力を掌握した者達の思想である (Harrison 2017a)。

その出発から、ボリシェヴィキには崇拝と服従の対象たるふたつの経済構造モデルがあった。すなわちドイツとアメリカのモデルである:

  • ドイツモデルは近代的な戦時経済に関するものであり、ヴァルター・ラーテナウとエーリッヒ・ルーデンドルフが1915年と1916年に実施している。この戦時経済では、大規模な戦闘と大量の自己犠牲のために必要となる動員、そして固定価格での日用品配給が行われた。
  • アメリカモデルはヘンリー・フォードが始めフレデリック・ウィンスロー・テイラーが世に知らしめたモデルをさし、中央統制されたヒエラルキー的管理のもと行われる、規格化された日用品の大量生産からなる。

これらふたつのモデルを合わせたものが、西欧諸国の教科書が描き出すところの 「ソヴィエト型経済」 において鍵を握るいくつかの原理を与える。

ソヴィエトの経済制度は1917年から1934年にかけての期間に形成された (Davies 1994)。これら年度において特徴的なのは激しい政治的・社会的紛争、そして市場構造と消費者選択の領域を変化させた幾つかのUターンだ。このUターンは、もしかするとソヴィエト経済の発展にはひとつのみならずほかにも道があったのではないかという考えに、一定の信憑性を与えている。詰まるところ 「種々の共産主義」 は、今日においても死に絶えてはいないのである – 中国をはじめ、キューバそして北朝鮮にいたるまで。

この変化にもかかわらず、1917年以降にもソヴィエトの政策にはいくつかの重要な継続性があった。もっとも明らかなのは、中央集権的な一党独裁であった。独裁者のあいだでは、彼らの自己利益認識を形成する信念と、その利益の増進にかかる最善の方法とが共有されていた。すなわち彼らは世界を本質的に悪意に満ちたものと見做していたのである。そして自らの国は一個の砦であるが、あまたの敵に包囲されたうえ無数のスパイが跋扈しているのだと。そこで彼らは戦争がない時には、戦争の準備に邁進したのである。

この経済体制において彼らは、人員の選別と指令、国家の供給網の保護、情報の流通と検閲をめざし、権威主義的国家としての機能を築き上げた。これは1917年に始まる単線的プロセスであり、いくつかの政策的な揺れを後目に、背後で黙々と進行をつづけた (Harrison 2017b)。

ソヴィエトの支配者は、国境を越えて、近隣諸国を転覆させ、最終的にはそのほとんどに共産主義体制を押し付けた。周辺国を同盟者として確保したのちにも、ソヴィエトの支配者は 「革命の成果の防衛」 との名目を掲げこれらの国々にひとたびならず侵攻した。彼らの対決的行動は、彼らの信念の正しさを裏付けるかのような証拠を絶え間なく生成した。

国内経済体制としては、ソヴィエトの政策は資源の分配を大幅に変化させることで消費を抑制し、金融産業や軍事計画のための資金調達をおこなった。そのひとつの成果が巨大な軍事産業であり、これは軍用品の大量生産にむけた組織構造をもっていた。図3が示唆するように、伝統的な部門では施設の多くが設置されたのは1930年代だった。第二次世界大戦が勃発した時、ソヴィエト連邦は、世界の武器輸出二大国のうちのひとつとして、すでにドイツに並ぶ勢力をもっていた (Davies et al. 準備中)。核兵器・宇宙ミサイル・無線機器といった新たな部門は、この戦争のあいだと後に加わったものである。

図3 ソヴィエトの国防産業 (1917-1987): 部門ごとにみた生産・研究・設計に関する施設数

出典: Dexter and Rodionov (2017).

ソヴィエト国家は個人財産の大半を収用した。また雇用関係からの賃金所得を、それまでのロシアと比べても、その後のロシアと比べても、より公平に分配していたように見える。このことはNovokmet et al. (2017) による新たなデータを示す図4に示唆されている。

しかし所得データは共産主義体制における消費格差に関してはあまり良い基準ではないかもしれない。消費財とサービスの分配は、品不足と特権に特徴づけられていた。ソヴィエトの成人はみな一定額の所得をあてにできたが、所得は財とサービスへのアクセスを決定するものではなかったのである – それは政治的・社会的地位に掛かっていた。

ソヴィエトの商店の前に立ち並ぶ人々の列はかつてよく目にした映像だが、ここに描き出されているのは、金はあるのに特権がないため – あるいは待たずに済ますのに必要なコネがないため – 自分の番がくるまで待たなければ金を使うことが出来ない人々の姿だ。

図4 所得シェア 1905 – 2016 (一部年度のみ): 下から50%および下から90%

出典: Novokmet et al. (2017).

注意しておきたいのは、ソヴィエト時代には、成人に配分されていない所得のシェアがそれ以前と比べても、それ以後と比べても、遥かに大きかった点だ。なお個人所得データはもっぱら労働賃金の配分に基づき、ほとんどの郊外世帯は除外されている。

ソヴィエト体制のもと、数百万人もの生活が、周期的な飢饉、大量粛清の数々、そして社会の隅々にまでゆきわたった間断なき抑圧のために、損なわれ、あるいは失われた。他方、これと同じシステムのもとで、これとは別の数百万人の生活は高進した。その受益者は人口学的区分を用いればもっとも容易に特定できる。

恩恵があったひとつの集団は、若年層の女性だった。国力の増進をめざしたボリシェヴィキは、潜在的資源として女性に目を付けたが、識字能力と教育の欠如が足枷となっていた。大衆教育は、女性の前に事務労働の世界を開いた。そして彼女らを田畑や工場での労苦から解放し、他人に誇れる生活を営むことを可能にした。

例えば、1970年までに、政府行政および企業運営における全被用者の60%超を女性が占めるようになった (TsSU 1973: 348, 445)。もっとも、キャリアを通じて女性は職業上の住み分け (job segregation) と直面し続けた。ガラスの天井、そして賃金労働と家庭内労働の 「ダブルシフト」 である。それでもなお、女性の生活の変化は目を見張るものだった。

ふたつめの受益者集団は児童である。革命以前には、6人に1人の児童が5歳になる前に命を落とした。ソヴィエト支配初期における動乱の数年でさらに悪化したが、その後この比率は劇的な向上をむかえる。その主因となったのは、公共衛生施策、感染管理、そして分娩ならびに外科手術における殺菌消毒といった、単純だが強力な諸施策だった。

図5が示すように、1950年代までには、出生時平均余命は30歳未満から60歳超に上昇していた。以後、向上は止み、一時は逆行することさえあった。

図5 出生時および諸年齢時でみた、ロシア人男性の平均余命 1896/97 – 1989 (国勢調査年度)

出典: Goskomstat Rossii 1998: 167-168.

図5はさらに第三の集団、すなわち恩恵をまったく得られなかった集団も示唆する。それは中年の男性 (女性) だった。ソヴィエト連邦は非感染的疾病および変性疾患に関する新しい学知を用いることはほとんどなかった。大人のソヴィエト市民は喫煙し、適切なレベルを超えて飲酒し、呼吸する空気も汚れていたため、臓器疾患や癌で早死にした。1890年代から1980年代にかけて、40歳以上の男女の平均余命はほとんど変化していない。

ソヴィエト経済とは、世界戦争と20世紀初頭の思想と科学技術の産物であった。それが生まれてから死ぬまでのあいだには、他の多くの国々も同様のあるいはより大きな社会的・経済的進展をみた。しかもより多くの合意と、より少ない暴力をもって。いま百周年をむかえるソヴィエト経済。われわれはその存在を忘れてはならないが、その死を嘆くにはあたらない。

参考文献

Davies, R W (1994), “Changing Economic Systems: An Overview.” in R W Davies, M Harrison and S G Wheatcroft (eds), The Economic Transformation of the Soviet Union, 1913-1945, Cambridge: Cambridge University Press, pp. 1-23.

Davies, R W, M Harrison, O Khlevniuk, and S G Wheatcroft (in preparation), The Industrialisation of Soviet Russia, vol. 7. The Soviet Economy and the Approach of War, 1937-1939. Basingstoke: Palgrave.

Dexter, K, and I Rodionov (2017), “The Factories, Research and Design Establishments of the Soviet Defence Industry: A Guide: Ver. 18”, University of Warwick, Department of Economics.

Goskomstat Rossii (1997), Naselenie Rossii za 100 let (1897-1997). Statisticheskii sbornik, Moscow.

Harrison, M (2017a), “The Soviet Economy, 1917-1991: Its Life and Afterlife,” The Independent Review 22(2): 199-206.

Harrison, M (2017b), “Foundations of the Soviet Command Economy, 1917 to 1941,” in S Pons and S Smith (eds), The Cambridge History of Communism, vol. 1: World Revolution and Socialism in One Country, Cambridge: Cambridge University Press, pp. 327-347.

Markevich, A, and M Harrison (2011), “Great War, Civil War, and Recovery: Russia’s National Income, 1913 to 1928”, Journal of Economic History 71(3): 672-703.

Novokmet, F, T Piketty, and G Zucman (2017), “From Soviets to Oligarchs: Inequality and Property in Russia, 1905-2016”, WID.world working paper no. 2017/09.

Singer, J D, S Bremer, and J Stuckey (1972), “Capability Distribution, Uncertainty, and Major Power War, 1820-1965”, in B Russett (ed.), Peace, War, and Numbers, Beverly Hills: Sage, pp. 19-48.

TsSU (1972), Narodnoe khoziaistvo SSSR. 1922-1972. Iubileinyi statisticheskii sbornik. Moscow: Statistika.

脚注

[1] このフレーズは1987年に、当時 The Daily Telegraph のモスクワ特派員を務めていたクサン・スマイリーが造り出したもののようである; http://www.russialist.org/archives/3059.html##6を参照 (2017年9月28日アクセス)。

 


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