ラルス・クリステンセン 「カッセルの敗北 ~デンマークとノルウェーにおける1920年代の金融政策の失敗~」(2012年6月12日)

●Lars Christensen, “Danish and Norwegian monetary policy failure in 1920s – lessons for today”(The Market Monetarist, June 12, 2012)


これまでに人類が歩んできた歴史を振り返ると、金融政策の大失敗の例で溢れている。今日の政策当局者が他山の石にできる例がたくさんあるわけだが、歴史上の失敗から学ぶのであれば、あの人物に伺いを立てるのが一番だ。あの人物というのは誰かというと、スウェーデン出身の偉大なる貨幣経済学者であるグスタフ・カッセル(Gustav Cassel)だ。カッセルは、1920年代にデンマークとノルウェーの政策当局者が金融政策の大きな過ちを犯しそうなのを食い止めるために説得を試みた。そして不幸にも、その試みは失敗に終わったのだった。

第一次世界大戦が終わると、ヨーロッパ各国の政策当局者たちは、相次いで金本位制への復帰を目指した。そして、戦時中にインフレが急速に進んでいたにもかかわらず、多くの国は戦前の旧平価で金本位制に復帰することになった。デンマークとノルウェーも例外ではなかった。両国の政策当局者たちも、戦前の旧平価で金本位制に復帰することを決めた――言い換えると、通貨(クローネ)の切り上げを決めた――のである。

旧平価での金本位制復帰は、1920年代を通じてデンマークとノルウェーの両国に経済面・社会面で多大なる苦難を強いることになったが、それに伴って「自由放任的な資本主義」――両国では、自由放任的な資本主義が長らく強く支持されていた――への深い懐疑が抱かれるようにもなった。何とも逆説的な話だが、(金融・通貨政策の面での)「政府の失敗」が、経済における政府の役割の拡大に扉を開く格好になったわけだ。金融政策の失敗は、かような政治的な帰結を招く危険性があるわけだが、カッセル以上にそのことを熟知していた人物はいなかった。

デンマークとノルウェーで採用されたデフレ政策がそれぞれの国の物価水準に及ぼした影響を跡付けたのが以下のグラフである(1924年の物価水準を100とおいている)。スウェーデンの物価水準も掲げてあるが、スウェーデンは旧平価での金本位制復帰をすぐには選ばなかった。

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1920年代の後半を通じて、世界中の大半の国々は、比較的高い経済成長を謳歌したが、デンマークとノルウェーは、政府による意図的なデフレ政策のために苦難を強いられることになった。両国では失業が急増し、景気が急速な勢いで落ち込むことになったのである。「内的減価」(“internal devaluation”) [1] 訳注;名目賃金の引き下げ(=デフレ)によって実質為替レートを減価させる術を勧める声を耳にすることがあったら、1920年代のデンマークとノルウェーの経験を思い出してもらいたいと思う。両国で採用されたデフレ政策は、決して成功とは言えず、その弊害は誰の目にも明らかだった。それにもかかわらず、両国の政策当局者たちと多くの経済学者たちは、旧平価での金本位制復帰は正しい政策だと公言していたのである。

失業率の推移を跡付けたのが以下のグラフだ(縦軸が失業率。単位は%)。

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デンマークとノルウェーの政策当局者たちは、誰一人としてカッセルの忠告に耳を傾けなかった。その報いとして、両国は、1920年代の後半に不況に陥ることになり、高失業に苦しめられねばならなかった。それとは対照的に、フィンランドとスウェーデン――どちらの国も旧平価での金本位制復帰を選ばなかった――は、同じ期間に力強い経済成長と低失業を謳歌したのである。

カッセルは、デフレ政策の採用に向かうデンマークとノルウェーの政策当局者たちに強い口調で警告を発した――もしも彼が今も生きていたとしたら、ユーロ圏経済に「内的減価」を勧める声に対して同じくらい強い口調で警告を発していたことだろう――。カッセルは、1924年にコペンハーゲンにある学生会館でスピーチを行い、デンマーク・クローネを切り下げよと強く訴えた。デンマークのセントラルバンカーたちは、カッセルのそのような忠告を聞いていい気はしなかったろうが、かといって彼らには恐れるべきものは無いも同然だった。カッセルの忠告は、「我らが古き良き誠実なクローネ」(“Our old, honest krone”)を求める掛け声の前にかき消されてしまったのである。

デンマークの中央銀行は、デンマーク・クローネの切り上げと旧平価での金本位制復帰を実現するために、金融政策を急激に引き締め、公定歩合を7%にまで引き上げた(ちなみに、7%というのは、スペイン国債の現在の利回りとほぼ同じ水準である)。ノルウェーの中央銀行も同様の措置をとった。その結果として、1924年から1927年までの間にデンマーク・クローネもノルウェー・クローネも倍の水準にまで切り上がることになったのである。

デンマークにおいてと同じようにノルウェーでも、金(ゴールド)への狂気の沙汰とも思われるほどの執着がそこら中に蔓延っていた。そんな中で正気を保っていたのは、カッセルただ一人だけだった。カッセルは、1923年11月にクリスチャニア(現在のオスロ)でスピーチを行い、ノルウェー・クローネを旧平価の水準にまで切り上げようとする馬鹿げた試みを批判した。カッセルのスピーチは、その場に居合わせたノルウェー中銀総裁のニコライ・リグ(Nicolai Rygg)を激怒させたのだった。

カッセルがスピーチを終えると、それと入れ違いでリグ総裁が壇上に登った。そして、聴衆に向かって語りかけた。ノルウェー・クローネが金(ゴールド)と結び付けられた――金との兌換が打ち立てられた――のは100年前のこと。我々は、100年前と同じように、金との兌換を再び打ち立てることができるし、そうすべきなのだ。「やらねばならないのだ。必ずや立ち戻ってみせる。決してあきらめるわけにはいかないのだ」。その翌日、アブラハム・バージ(Abraham Berge)首相は、公の場でのインタビューで、リグ総裁を全力でサポートする旨を明らかにした。ノルウェー中央銀行とノルウェー政府がともに旧平価で金本位制に復帰することを決意した瞬間だった。

1920年代のデンマークとノルウェーの経験は、「国家プロジェクト」――ユーロであったり、金本位制であったり――の実現が経済合理性よりも優先されたらどういう結果が待っているかをまざまざと知らしめている。「内的減価」が強行されたら、経済面・社会面・政治面で痛ましい結果が待ち受けていることをまざまざと知らしめている。1920年代のデンマークとノルウェーでは、デフレの発生に伴って社会主義政党が台頭し、それまで成果を上げていた自由放任モデルからの離反が起きた。「内的減価」を強行した国では、社会主義の伸張と自由市場の退潮が招かれるおそれがあるのだ。自由市場の役割を重視する世のコメンテーターや政策当局者、経済学者は、そのことをよくよく記憶しておくべきだろう。カッセルはそのことをよくわかっていたし、マーケット・マネタリストの面々もよくわかっている。

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今回のエントリーは、リチャード・レスター(Richard Lester)の論文 “Gold-Parity Depression in Denmark and Norway, 1925-1928”(Journal of Political Economy, August 1937)に大きく依拠していることを断わっておく。

(追記)ドイツの政策当局者の中には、経済史や貨幣史から何も学んでいない人物がいるようだ。その例として、こちらの記事を参照されたい。

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1 訳注;名目賃金の引き下げ(=デフレ)によって実質為替レートを減価させる術
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