アレックス・タバロック「バーナンキVSフリードマン」

Alex Tabarrok “Bernanke v. Friedman” (MarginalRevolution, July 15, 2014)


ミルトン・フリードマンは、大恐慌が起こったのは銀行制度の崩壊によりマネーストックの減少と貨幣速度の減速が起こり、それが大規模な総需要の不足を招き、かつそれにFEDが対策をとらなかったからだと主張した。彼のアンナ・シュワルツとの共著の題名、「合衆国貨幣史」は的を射たものだ。ベン・バーナンキもまた、銀行制度の危機を大恐慌の筋書きの中心に据えているが、その伝播の仕組みは大きく異なっている。バーナンキによると、銀行制度の危機は信用の崩壊を招いた。大恐慌研究に関する彼の貢献もまた、「大恐慌の伝播における金融危機の非貨幣的影響」という的を射た題名となっている。

銀行制度の過熱と破綻」に収録されている素晴らしい論文において、ジェフ・ハンメルはこの2つの筋書きが政策に対して異なった含意を持つことを示している。(参考までに、この本はデヴィッド・ベックワースが編集したもので、他にもスコット・サムナー、ニコラス・ロウ、ラリー・ホワイトらの素晴らしい論文も収録されている。実をいうと私は総合編集者だった。)フリードマンの筋書きにおいて必要なのは金融政策、すなわち名目GDPの下落を防ぐためのマネーストックの増加だ。バーナンキの筋書きにおいて必要なのは財政政策(例えそれがFEDによる財政政策であっても)であり、具体的には銀行に対する緊急貸出によって信用の流れを保つことだ。この2つのアプローチは両立しえないものではないし、平時においては両者の違いはわずかなものだ。大規模な不況による強力な圧力の下においてはしかしながら、両者の違いは大きくかつ重要なものとなる。システム内に流動性を注入するというフリードマンの政策を第一に追求する代わりに、バーナンキは彼の非貨幣的処方箋に沿って信用を注入する。バーナンキのアプローチによって、FEDはハンメルが信用の中央計画者(例えばここを参照)と呼ぶものへと変わったが、これは将来的に非常に大きな結果をもたらす可能性を秘めた過去に類のない変化だ。

ハンメルの論文を今日思い出したのは、リッチモンド連邦準備銀行総裁であるジェフリー・ラッカーからのバーナンキの大不況への対応への全面砲火(レニー・ハルトムとの共著)という、この本に対しての驚くべきところからの強力な支援のためだ。ラッカーとハルトムはハンメルを引用してはいないが、彼らはハンメルの分析を支持しているし、彼らが注意深く抑えた調子で書いているとはいえ、これがバーナンキに対する直接攻撃であることを認識するのにシュトラウス派である必要はない。

中央銀行が「最後の貸し手」としての力を使って目標の企業や市場に信用を分配する場合、それは過剰なリスク負担を促すとともに、金融の不安定性につながる。またこれは分配型政治に中央銀行を巻き込むとともに、物価の安定を確保するための中央銀行の力にとり決定的に重要であるその独立性を危険にさらす。過去数十年における、緊急の貸し手としてのFEDの力の使用拡大から学ぶべき教訓は、それが金融の安定性とFedの第一の目標である物価の安定の確保の双方を脅かすということである。

しかしながらラッカーとハルトムに欠けているのは、どのようにすればFEDがそのポジションを解消できるのかということだ。危機のさなかにFEDは瓶の中から精霊を呼び出し、その精霊は感謝の声をあげる借り手たちに幾兆ものお金を授けた。しかしこの精霊はどうすれば瓶の中に戻れるのだろうか。私が思うに、問題はそもそもインフレや経済学に関するものではなく、いまや政治的なものなのだ。
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