アレックス・タバロック 「フィールズ賞は受賞者の生産性の低下を招いているか?」(2013年9月23日)

●Alex Tabarrok, “Do Awards Reduce Productivity?”(Marginal Revolution, September 23, 2013)


 Fields

ジョージ・ボージャス(George J. Borjas)とカーク・ドーラン(Kirk B. Doran)の最近の論文(pdf)によると、フィールズ賞――40歳以下の若手の数学研究者に授与される、数学界の「ノーベル賞」――を受賞した数学者の「生産性」は、賞の受賞後に低下する傾向にあるという。彼らの論文では、数学者の「生産性」を測るにあたって、新たに公刊された論文の数や被引用回数(論文が引用された回数)、指導する大学院生の人数などのデータが利用されている。フィールズ賞受賞者とライバル・グループそれぞれの公刊論文数(年間)の平均値の推移を並べて掲げたのが冒頭のグラフである。フィールズ賞受賞者の「生産性」は、賞の受賞後に公刊論文数がライバル・グループよりも年あたり1本ほど少なくなるというかたちで、低下していることがわかる(この結果は統計的に有意である。「生産性」の低下の程度は、ここで取り上げた分析結果において最も大きく、他の分析結果においては、その程度はもう少し軽微)。

ただし、「生産性」の低下のすべてが、名声に胡坐(あぐら)をかいた結果というわけではない。ボージャス&ドーラン論文によると、フィールズ賞受賞者は、賞の受賞後に他の分野に手を伸ばす傾向にあるということだ。他の分野に手を伸ばすとなると、新たに学ぶ必要があり、そのために時間がとられることになる。具体的な例をいくつかあげると、スティーヴン・スメイル(Stephen Smale)は、経済学生物学の分野で論文を書いており、ルネ・トム(Rene Thom)は、カタストロフィー理論の発展に貢献している。そして、デヴィッド・マンフォード(David Mumford)は、パターン理論の分野に手を伸ばしている。新たなトピックに関心が向いた結果として、偉大な新発見につながる可能性もあるわけで、そういった意味では、他の分野に手を伸ばことは必ずしもネガティブな効果を伴うわけではない。ボージャスらの推計結果によると、フィールズ賞受賞後の「生産性」の低下のうち、およそ半分程度は名声に胡坐をかいた結果であり、残りの半分は(フィールズ賞受賞者が賞の受賞後に)新たな分野に手を伸ばした結果として説明できるということだ。

(ちょっとした脱線になるが、ボージャス&ドーラン論文では、フィールズ賞を「prize」(プライズ)と表現しているが、個人的には、「award」(アワード)と表現したいところだ。それというのも、拙著でも述べたように、フィールズメダルやジョン・べイツ・クラークメダルといった「アワード」と、XプライズHプライズオルティーグ賞といった「プライズ」とは、目的とするところが大きく異なるからである。後者の「プライズ」は、特許の代わりといった面がある)

フィールズ賞という存在は、受賞者にとってはおそらく好ましいだろうが、数学という分野全体にとっても同じく好ましいと言えるかというと――受賞者が(賞の受賞後に)他の分野に手を伸ばす可能性を考慮に入れたとしても――、明らかではない。フィールズ賞の表立った目的は、受賞者に対して、今後も精進を重ねるよう促すことにあるわけだが、結果的にはその逆になっているわけだ。何か打つ手はあるだろうか?

フィールズ賞はあまりにも重要度が高く、賞の受賞自体が目的となっているのかもしれない。経済学の分野でフィールズ賞に相当するのは、ジョン・べイツ・クラーク賞である。経済学の分野において最も重要な貢献を果たしたと認められた40歳以下のアメリカの若手経済学者に授与されている賞だが、チャン(Ho Fai Chan)らの研究(pdf)によると、ジョン・ベイツ・クラーク賞受賞者の「生産性」は、賞の受賞後に上昇しているということだ。ジョン・べイツ・クラーク賞の獲得は、将来のノーベル経済学賞受賞を予兆するものと広く見なされているが、まさにそのために、ジョン・ベイツ・クラーク賞は、受賞者のさらなる研究意欲を刺激する効果を持っているのかもしれない。というのも、ジョン・ベイツ・クラーク賞の受賞者は、どデカイ賞が手の届く範囲にあることを意識するようになるからだ(リンク先のコラムの、特に最後の文章に注目されたい)。トーナメントにおいては、能力のレベルごとに、賞を複数の段階に分けて用意することが大事になってくるのだ。

賞が受賞者の「生産性」にどのような影響を及ぼすかを考える際には、適切な反実仮想(counter-factual)を想定することも重要だ。「フィールズ賞受賞者の生産性は、賞の受賞後に低下する」というボージャスらの発見をまごうかたなき真実として受け入れたとしても、「フィールズ賞をなくせば、(フィールズ賞を獲得していたはずの数学者の)生産性は上昇する」との結論が導かれるわけではないのだ(受賞者の生産性よりも、賞の獲得を目指して競い合うライバルたちの生産性の方が大事という状況もあり得る〔拙訳はこちら〕ことも覚えておきたいところだ)。考え得る改善策のうちでおそらく一番正当化できそうな案は、若手に賞を与えるべからず、ということになりそうだ。ノーベル経済学賞がそうであるように、フィールズ賞も、生涯を通じた成果(功績)に対して授与されるようになれば、さらなる精進が促されるようになるかもしれない。

ポール・サミュエルソン(Paul Samuelson)が述べた言葉が思い出される。

科学者は、アダム・スミスの描くビジネスマンに負けず劣らず、貪欲で、競争心に溢れる存在である。ただし、科学者が追い求めるコインは、リンゴでもなく、木の実でもなく、ヨットでもない。コイン(お金)そのものでも、(一般的に使用される意味での)権力でもない。科学者は、名声(fame)を追い求めるのだ。

最後に、コーエン(Tyler Cowen)の著書のタイトル(『What Price Fame?』)をもじって締め括るとしよう。「若くして手に入る名声の値打ちは、いかほど?」(what price early fame?)

Total
0
Shares

コメントを残す

Related Posts