ジョセフ・ヒース 「『じぶん学』の問題」(2015年5月30日)

The problem of “me” studies

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大学での「ポリティカル・コレクトネス」の問題についていろいろ言うジャーナリストは、まだたくさんいるのだが、言っていることはたいてい古臭いか、どこか的外れに思われるものばかりだ。私が見るところ、ポリティカル・コレクトネスの盛り上がりは90年代初頭に最高水位に達したが、そのあとはずっと凋落傾向にある(少なくとも教員の間での話で学生については別の問題だ)。この認知相違の一因は、不正確な語法にありそうだ。大学外の人々はポリティカル・コレクトネスという言葉の下にたくさんの別のものをまとめてしまうのだが、大学ではそれぞれ別の言葉が使われている。今日ここで書きたいのは、しばしばポリティカル・コレクトネスとされてしまうが、正確には「“じぶん”学」の問題として知られている、ある困った状況、傾向についてだ。

まず、ポリティカル・コレクトネスが凋落傾向にあるとはどういうことなのかの説明が要るだろう。ジャーナリストがこれを口にするときにたいてい思い描いているのは、あの古臭い「言葉狩り」だ。もちろん、いまだに大学の隅のあちこちでこれが発生していることは認めざるを得ない。先日も大学のある人が、私が出した本のカバーに書かれた「この二十年で、西側諸国の政治システムはますます分断されつつある。右と左にではなく、気違いと非気違いに」という文に異議を挟んできた。「気違い」という言葉を使うことを非難するのだ。これは障害者差別なんだそうだ。

とまあ,この手のことはいまもある。ただ、それはもはや深刻な問題とは受け取られていないのだ。この種の言葉狩りは大学ではバカバカしいネタで、誰もがそれをどうやればいいか知っていて、しかも、学部を終える頃までには卒業するものだ。いろいろな人がいる集団の中でこのような言葉を使えば周囲は呆れて目をパチクリさせる。そんなことをすれば「お仲間」以外の人たちからは話をまともに扱ってはもらえなくなる、ということに普通はなっている。

他方、もっと深い問題がしっかり残っている。「“じぶん”学」と呼ばれる現象だ。学生に対し私たちはしょっちゅうこう言う。「長い目で見て、成功するためには自分が深い興味を持つことができ真に情熱を持てるテーマを選ぶことだ。」当然ながら一番情熱と関心を持てるテーマとは……まさに自分自身、となる。というか,誰だって「この地球上でいまこの瞬間になにより関心をそそるものは自分の人生だ」と思うのは,圧倒的でしごく当然の傾向だ。人生は自分のためのものなのだから!

で、なかには「自分の情熱に従いなさい」との助言を受けて、「論文で自分自身に関する主題を選んでもいいのだ」と思う人たちがでてくる。一例として、モントリオールで人類学を学んでいた私の古い友人の修士論文なのだが、タイトルを正確には思い出せないが、確か「モントリオールのプラト―地区におけるケベック人-ユダヤ人カップルの違いの埋め方」というようなものだった。彼女は当時ユダヤ人若者と一緒に、ご想像通り、プラトー地区に住んでいた。そう、彼女の修士論文のテーマは自分の恋愛関係についてだった。この例は、クラシックな 「“じぶん”学」。

しかしこの例は、そんなに害のない方である。しかし若干歪んではいる。なぜなら、基本的に人文学の広い意味での目的を転倒させているからだ。人文学の本来の目的は、歴史的また文化的にすさまじいまでに多様な形をとる人間経験というものについての理解を深めることだ。基本的に、人それぞれに世界の理解や評価のしかたは根本的に違っているものだ。それゆえ自分自身を研究することに時間をかけることは、ある意味あまりよい教育を受けたことにはならないということになる。もちろんすべての人がよい教育を受けなければならないわけではない。

ただ「“じぶん”学」は、「自分自身そのもの」ではなく「自分を抑圧しているもの」を学ぼうとする場合に、問題をはらむものになりやすい。もちろん抑圧自体は完全に正当な探求テーマであるし、その形態も多様だ。実際、20世紀を通して私たちが消し去ろうとした様々な社会的不平等の問題は、努力もむなしく、非常に御しがたいものだとわかった程度に過ぎない。

なにしろ、不平等を無くすのが難しい理由を示すことだけでも驚異的にチャレンジングな冒険だ。(一例として、男女の給与格差を挙げる。この格差がどうして生まれるのかは本当にはわかっていないし、これまでに明らかになっている諸理論も問題全体のほんの一部分しか説明できていないということは少し論文に当たるだけでわかるだろう。解決が待たれる社会科学上の重要問題が居座っている。)

それにしても、多様な形をとる抑圧というものを学ぶのに最もふさわしいのはどのような人だろうか。立ち止まって考えてみるとこの問題の扱いは難しい。結局、われわれ皆、自分たちが研究している世界のなかで生きているのだ。いちばんふさわしい位置にいるのは、実際に抑圧されている人だろうか、それともそうでない人だろうか。どちらも理想的とは言えない。理論構築のどこかの水準で自己利益か自己弁護のどちらかのバイアスがかかるだろうからだ。

これに対しては、たくさんの人が同じ問題を研究し、しっかりしたディベートを積み重ねればバイアスは修正されていくだろう、という議論がある。しかし残念ながら、実際にはなかなかそうはならないのだ。抑圧についての学問は、その抑圧に関連する苦しみを負った人ばかりを過剰なまでに惹きつけてしまう面がある。 そもそも「“じぶん”学」は個人的な野心や不満に訴えかけるものであるから、そういう人はそこに強い関心を持っている。このことは、この抑圧をべつだん受けていないような人たちをみんな押し出してしまうメカニズムを生み出す。

学問の質という面で、これでは悲惨なことになる。「批判研究」といったものを専門にしている人が、批判的な思索からは驚くほど遠い人だったという経験をしたことがこれまで何回あったかわからない。彼らには、批判的な思索にとって最重要なスキルであるところの「自己批判」、自分の見方に疑問を持ったり自分のバイアスを修正したりする技術が欠落している。彼らがそうなるのは、自分の見方を深刻に揺るがす批判を受けた経験がないからだ。(最初から自己批判に長けた人はいない。上達のためのたった一つの方法とは、自分に賛成しない他人からの批判を受けることだ。)

研究対象が研究者自身の社会における抑圧の問題で、同時にその研究者が抑圧される側に属していることがはっきりわかっているようなとき、共感はするけれど意見には賛成しない人たちは批判してこない。そういう問題だ。批判することにより、共感していないかのように見えてしまうことを避けるからだ。そして特に、その研究者に共感しない多くの人々もまた何も言わないだろう。彼らだって共感していないことをわざわざ示そうとは思わない。かくして、聞こえてくる意見は次の二種類の人々からだけということになっていく。一つはあなたに共感し、かつ、あなた以上にラディカルなスタンスな人たち。もう一つは非共感的で、同時に、あれこれの理由で他人にどう思われるかを気にしない人たちだ。

これについて私は下のようなイメージを持っている。まず、その問題になっている抑圧を悪いと考える人たちと、そうでない人たちにのグループ分けをする。公平ではないかもしれないが人々の人間性に敬意を表し、多くの不平等の問題については、前者の方が多いとしよう。さらに、共感的かどうかと、その抑圧に対してどのような態度を採るかの基準を考えよう。まず、ラディカルで極端な見方を持つ人がいるだろう(例えば、この問題を改善するために社会秩序のすべてをひっくり返してしまいたいと考える)。もっと中庸的な立場の人もいるし、また他に保守的な人(改善のためにできることはあまりないし、改善しようとすることがかえって状況を悪くしかねないと考える)もいるだろう。

あなたの立ち位置は「中庸派」と「ラディカル派」の間の位置だとして、自分の見解についてプレゼンするとする。批判してくるのは誰だろうか。それは基本的にあなたよりよりもラディカルな見方をする左側の人たちと、はるか遠くの右端にいる人たちだろう。前者は、発言があなたに共感的ではないと受け取られられてしまうという心配がないゆえに自説を主張する。後者は、まさに共感的ではないゆえに、また、周囲にそう受け取られることも気にしないがゆえに。

実際、プレゼンの質問時間が次のようになったのに何回立ち会わされたからわからない。ある発表者のプレゼン内容は、会場にいる大多数の人たちが方向性が間違ってると判断するようなものだった。対して次のようなことは誰も言おうと思わない。「君が言ってることは理が通らない」、「その主張の根拠を言っていないようだが」、「その政治的提言は利己的すぎる」、というような。他方、出てくる質問は次のような二種類の質問だけだ。「その分析が、本当に持続可能な社会的解放の実践に繋がっていくのか懸念がある」(つまり「お前は左翼として甘い」)というタイプ。もう一つ、「あなたたちはいつだって自分の問題の不平をいう」(つまり「自分は無神経な “ジャーク” (訳注:言語は”jerk”。ろくでもない奴)だ」)というタイプ。

そして、多くの人はプレゼンの後、本当はどう思ったかを会場の外で語る。さまざまなタイプの理性的批評が全部ここでなされる。もしプレゼン者が彼らと交流していたら真に有意義なものになったであろうような指摘がなされる。というわけで、「“じぶん”学」の実践者は基本的に両極端の人々からだけしか真摯なフィードバックを得られないので、研究の質の向上という意味において、初めから巨大なハンディキャップを負っている。

さらに悪いことに、上のシナリオと同じ出来事が繰り返されることにより、議論はますますねじ曲がっていく。何故か。プレゼンターの右側に位置する全員のうち、大声で発言しようとするのは、言ってみれば、プレゼンターかから見て道徳的に不快なものの見方をする人々だけだ。するとプレゼンターは「自分に反対する人々は、まさに自分に反対するがゆえに、みんな道徳的にあやしい奴らだ」と感じるようになりがちになる。別の言い方をすると「“じぶん”学」の実践から見ると、時間が経過するにつれて「自分に賛成しない人々」と「道徳的に非難されるべき見方をしていると思える人たち」とが強く相関しているように感じられるようになっていく。こうして、「理性的な不同意」というものもあるという可能性を簡単に見失ってしまう。特に、おおまかに道徳的信念は共有していはいるが、それでもそれについて何がなされるべきかとか、救済のために正義はなにを要求するかとか、あるいは単にまったく 経験的・実用的な問題について、意見が一致しない可能性もあることを見失いやすいのだ。

以上のメカニズムは、なぜあれほど多くの「“じぶん”学」実践者たちの批判に対するリアクションが、あれほどまでに道徳主義的に/説教くさくなったかをかなり説明できているだろう。彼らは、自分の見解に対する「すべての」批評が、道徳的に疑問がある動機からなされていると考え始める。これはポリティカル・コレクトネスと呼ばれているところの、はっきり言えば、全ての反論に対し道徳を説かなければという傾向となり、知的な批判にも知的に対応せず、ただ応戦するようになる。

こうして全ては悪循環になる。どんな批評に対しても激怒するものだから、共感的な批評はますます得られなくなってしまい、 コメントはとうとう”ジャーク” か極端な左翼からのものだけになる。こうして、意見の不一致を道徳の問題だとしてしまった認知がさらに強化されるというわけだ。そうなると救いようがなくなる。

大学界隈で30年ほど過ごしたおかげで、このメカニズムの具体例を挙げようと思えば何十例と挙げられる。この問題にはまってしまった具体的な人たちや、あちこちで「あれってどうなのよ?」と話題にされつつも公の場では誰も批判したがらない馬鹿げた考え方のあれこれの具体例には事欠かない。でも、そういう具体例をはっきり言ってしまったら、きっとありとあらゆる人の不興を買ってしまう。たいていの場合に「じぶん学」実践者の見解にとくに賛成でも反対でもないタイプの人間として、私はたいてい口をつぐんでいる。私がどう思っているのか知りたい人は、私に尋ねてみるしかない。で、彼らはけっして尋ねてきたりなんかしないのだ。

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