ジョセフ・ヒース「移民政策について、アメリカがカナダから学べること」(2017年3月7日)

Joseph Heath, “What the United States could learn from Canada on immigration policy“,  In Due Course, March 7, 2017.

 

自国の移民政策を何らかの形で失敗させてしまい、周縁化された民族集団とネイティヴィストのバックラッシュとの不幸な組み合わせを作り出してしまった国々が世界には数多く存在する。そのような国では、人々の周縁化が様々な社会病理を生み出して(失業、犯罪など)、そのことがバックラッシュの背景にある移民に対する差別的な態度の多くを正当化してしまう、そのことがまた周縁化や排除を増させて社会病理を悪化させる、そのことがまた…といった悪循環が容易に生み出されしまう。カナダには数多くの問題があるとはいえ、少なくとも我々カナダ人はこのような形で移民政策を失敗させることはしなかった(ファースト・ネーション[訳注:カナダの先住民集団]との関係と比較しての話だ。ファースト・ネーションに関してはカナダも失敗してしまったし、上述したのとほとんど同じような悪循環を生み出してしまった…また別の複雑な要素もいくつか含まれているのだが)。

いずれにせよ、移民政策を失敗させてしまったどこかの国がその政策を改善するための何らかのアイデアをカナダから得ようとする時、彼らがほとんど反射的に注目するのは、移民を特定のクラスに分別するためのポイント制度をカナダが用いているということである。しかし、大半の専門家はポイント制度は実際には大した事柄ではないと考えているし、カナダの移民政策の成功における最も重要な要素でもないと考えている。だが、ポイント制度に人々に訴えかけるものが含まれていることは明らかだし、おそらく「望ましくない連中は国に入れるな」という主張を実践する制度に見えるがために、特にネイティヴィストたちにとって魅力的である。だから、先日に議会で行われたスピーチにて、ドナルド・トランプがカナダのポイント制度をアメリカにとっても望ましいモデルであると言及したことは意外でもなんでもないのだ。

アメリカの移民制度におけいては他にどれ程多くの要素が崩壊状態になっているかということをふまえれば、トランプの主張は滑稽である。しかし、残念なことに、多くのアメリカ人はこの事実を直視しないだろう。他の国に比べてアメリカの移民政策がいかに特殊であるかということを多くのアメリカ人は単に理解していないか、または、これまで行われてきた政策を当たり前のものとして受け入れてしまっているからだ。だから、一人の外国人として、アメリカが移民政策で犯してきた二つの大きな失敗であると私が見なしていることを以下で指摘しよう。

あらかじめ注意しておくが、私が行う二つの提案のどちらも、非常に右翼的な印象をアメリカの読者たちに与えるかもしれない。しかしながら、カナダでは私の提案は右翼的なものだとは見なされない。私の提案がアメリカでは右翼的だとされるのは、アメリカ人たちは移民問題を人種というレンズを介して見るために(もちろん、この場合の”人種”は実際には人種を意味しているのではなく、黒人と白人との間の関係を意味している)、別の問題として考えるべき数々の事象を曖昧にしたり混同させたりする傾向があるからだ。このため、道理に適っている移民政策の多くが、もしその政策がアフリカ系アメリカ人に向けられるとすれば非友好的であるか不当なものとされるような種類のものになるだろうという理由によって、左派から拒否されてしまっているのだ。

 

1:スペイン語を国語であるかのように扱うのを止めよう

 

カナダ人たちやカナダの全政党の間で満場一致に同意されている物事は数多くある。その一つが、移民たちには”地域の”マジョリティの言語(ケベックではフランス語、他の地域では英語)を習得することとその言語を使って働くことが期待されている、ということだ。この意見の背景には、カナダがバイリンガル国家であり公用語のうちの片方はマイノリティであって消失の危険に常に晒されている、という事実が明らかに影響している。だから、フランス語を習得しようと思っていること(少なくともそう宣言すること)がケベックへの移民の必須条件であることは圧倒的に明白なのだ。同時に、カナダに二つの言語が存在していることは国内の分断の大きな原因ともなってきた(ケベックの分離独立問題など)。このことは、フランス語に認められているようなマイノリティ言語としての地位を”アロフォン”移民[訳注:英語とフランス語以外を母語とする人]が彼らの母国語にも認められることを期待してはならないということを、カナダの英語州における移民政策の必須条件としてきた(この領域に関するウィル・キムリッカの研究の影響力、またキムリッカの定義による民族集団・民族言語とネイション集団・国語との区別の重要性は、この移民政策の原則的な正当化をもたらしている)。要するに、英語州のカナダ人は、自分たちがフランス語に対して行ったのと同レベルの妥協を中国語やヒンドゥー語やペルシャ語にも行うべきだと中国やインドやイランからの移民から要求されたとすれば、その移民を受け入れないということだ。

したがって、カナダへの移民に対して示される言語に関する”取り引き”は実に明白なものである。…あなたはこの国に来た、あなたはこの国のマジョリティの言語を話すことを習得する、もし自分自身はあまり上手く言語を身に付けられなかったとしても自分の子供たちが言語を習得できることを確かにする。そして、カナダ政府がこの”取り引き”を移民に伝える方法の一つは、各地域の民族グループと協力しながら、英語教育(ケベックの場合にはフランス語教育)への大規模な支援と資金を提供することである。なので、例えばロシアから移民がカナダに到着したとすれば彼らは地域のロシア系自治会に取り計られるのであり、その自治会がまず行うのは移民たちを英語学習のコースに通わせることなのである。

カナダ政府とは対照的に、基本的にはアメリカ政府は移民たちの英語学習に対するサポートを全く提供しない。そして、いつものごとく、アメリカ人たちは自分たちが望んだ通りの代償を支払うことになる…マジョリティ言語の習得という関して、アメリカへの移民たちは他の国の移民よりも成績がかなり悪いのだ。実質的には、スペイン語しか喋れない多数の人々をアメリカは国内に抱え込むことになる。移民について賛成的な人たちなら、移民たちのための英語学習にもっと多くのリソースを注ぐことがこの事態に対する当たり前の反応であるはずだ、と思うことだろう。しかしながら、実際には、アメリカのリベラルたちは自国の移民政策の失敗を美徳であるかのように扱ってきたのであり、(訳注:カナダにおけるフランス語のように)英語に与えられている全ての権利が与えられているマイノリティ国語としてスペイン語を扱いはじめたのである。これは酷いことであるし、カナダ人から見れば全くもって不当なことであるのだ。

たとえば、先述したドナルド・トランプのスピーチの後に、民主党が英語とスペイン語との二つの言語でトランプに対する返答を発表したことについて考えてみよう。なぜスペイン語なのか?アメリカでは、スペイン語には何の公的な地位も与えられていないというのに。カナダで議会開会の式辞が行われた後には、ある政党が式辞への公的な応答を英語とフランス語の両方で発表することはあるかもしれない。だが、その政党が標準中国語でも公的な応答を行うことを決定した場合について想像してみればいい。特定の有権者たちに焦点を定めて発表を行うことにはそれはそれで意味があるが、そのことで公用語の地位に関する混乱が生み出されないようにすることは大切だ(同様に、地下鉄や建物などのトロント中の様々な場所に中国語で書かれた標識や広告があらわれだしたとすれば、その場合にもカナダ人たちはひどく怯えてしまうことだろう…しかし、アメリカ人たちはスペイン語の標識や広告を何十年も見続けてきているのだ。実際、スペイン語があれ程までにそこら中にあるということが、私がアメリカに暮らしていた時に最も驚かされたことのうちの一つだ。もちろん、現実問題として情報を伝えることの必要性が他の問題を上回るために他言語の標識がある方が良い、という状況は多く存在するだろう。だが、同時に、ある国の公用語と移民たちの様々な言語との間の区別を曖昧にしないことは、原則問題として重要なのである)。

カリフォルニア、ネヴァダ、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコなどの州全体やワイオミング、カンザス、コロラドなどの州の一部はいずれもメキシコから軍事的に奪った土地であるということをふまえれば、スペイン語話者はアメリカ国内のナショナルなマイノリティ集団であるのだから、カナダでフランス語に与えられているのと同等の権利がスペイン語にも与えられるべきである…そう主張することはできるかもしれない。だが、仮にそうだとしても、それは法律によって認められるべきなのだ。言語に関するアメリカの法律に限って見れば、全ての法律は英語を唯一の公用語として見なす方向にしか書かれていない。この文脈をふまえれば、スペイン語を準-公用語として扱うことは多大な問題を生じさせてしまう。移民に対する重度の反感を生み出していることは言うに及ばないだろう。

 

2:移民たちにアファーマティブ・アクションの恩恵を受けさせるのを止めよう

 

昨年には、アーリー・ホックシールドの著書『自分たちの国の中の異邦人:右派アメリカ人たちの怒りと嘆き(Strangers in Their Own Land: Anger and Mourning on the American Right )』が話題になった。この本は、”赤い州”について数多く存在するエスノグラフィーのうちの一つだ。『自分たちの国の中の異邦人』の中で、ホックシールドは白人の憤りの根底にある”根深い物語”と彼女が呼んでいるものを以下のように表現している。

 

地平線にまで向かって伸びる長い行列の真ん中で、あなたは辛抱強く立っている。その行列の先にはアメリカン・ドリームが待っている。しかし、あなたが行列で待機していると、あなたより先に割り込んでくる人々の姿が見えてくる。割り込んでいる人々の多くはアファーマティブ・アクションや福祉の恩恵を受けている黒人たちだ。一部は、それまでには決して機会がなかったような仕事でキャリアを得ている女性たちだ。そしてあなたは移民たちを目にする。メキシコ人、ソマリ人、まだ到着していないシリア難民たち。ぴたりとも進まないこの行列に待機しているあなたは、彼らのこと全員を可哀想だと感じるように求められる。

 

この物語は真実ではない、とホックシールドは示唆している。「この根深い物語は事実であるかのように感じられる物語であって、人々の意見や投票の背景にある感情を反映したものであり、事実や判断は取り除かれているのだ」。しかし、移民に関して言えば、この物語にもある種の事実が少しは含まれている。アメリカの移民政策の最も厄介な特徴の一つは、国内の人々が直面する問題に対処するために意図されていることが明らかであるアファーマティブ・アクションの政策を利用することを、特定の移民たち…特定のマイノリティ人種に属している人や、「ヒスパニック」という無茶苦茶な人種カテゴリに属している人…に許してしまっていることである。

例えば、大学の入学に関するアファーマティブ・アクションについて考えてみよう。この政策の目的がアフリカ系アメリカ人に対して行われた特定の歴史的不正義の問題を是正することに向けられているのは明らかだ。過去の差別の遺産や現在行われている差別はアフリカ系アメリカ人が学業を達成することへの障壁となっているのであり、その障壁はアファーマティブ・アクションによってしか取り除くことができない、という事情に基づいた政策なのである。この政策は多大な困難を生じさせてきたし、政策の目的通りに適用される場合についてでさえも非常な議論の的となり続けている。とはいえ、アフリカ系アメリカ人に対して適用するという特定の場合においては、アファーマティブ・アクションを支持する議論を行うことは可能であるように私には思える。だが、政策の中心的な対象である集団から離れて、ヒスパニックもアファーマティブ・アクションの恩恵を受けることを認める議論についてはどうだろうか?なぜ、アメリカの大学にメキシコ系の移民(例えば、白人やアジア人の移民に比べてSATのスコアが低い人)を優先的に入学させるべきであり、アルゼンチンやコロンビアからのエリートには優先措置を与えるべきでない(ただし、ブラジルはまた別!)、というのだろうか?

より一般的なことを言えば、なぜクワメ・アンソニー・アッピアのようなイギリスからの移民が、ハーバード大学のアフロ-アメリカンスタディーズと哲学のチャールズ・H・カースウェル教授として任命されているのだろうか?例えてみれば、ファースト・ネーション・スタディーズの学科長を任命しようとしているカナダの大学が、その人材を国内に求めるのではなく、オーストラリアのアボリジニやポリネシアの島民を任命するようなものだ。人々は憤慨する筈だ。外国から人々を持ち込んできて、それは大学の”多様性”を増させることだとみなすのがどれ程奇妙なことなのか、進歩的なアメリカ人の多くはわかっていないのだろう。確かに外国からの教職員たちは移民が多様性を増させるのと同じように多様性を増させるが、アファーマティブ・アクションや教職員多様性イニシアチブなどの政策が意図しているような多様性を増させる訳ではないのだ。

いずれにせよ、肝心なのは、行列の割り込み問題に対して人々は極めて敏感であるということだ。移民が行列に割り込んだという非難の中には事実に基づかない虚偽のものも充分に存在しているのだからこそ、社会は移民が完全に均等に扱われることに保証しようとするべきであるし、移民たちが実際に行列を飛ばすことは一切認められないようにするべきなのだ。だが、こんな単純な忠告にもアメリカは従わない。多くの社会には、過去に起こった特定の種類の不正義や争いに対する解決策として生み出された、マイノリティ集団のための”特別な取り決め”とでも言えるものがいくつも存在している。例えば、ケベックには英語とフランス語との両方の言語の学校が存在していることは、長くて複雑な歴史を持つ争いの結果として、州内のマイノリティである英語話者への譲歩としてもたらされたものである。ケベックに表れだした移民たちが英語学校に入学し始めたことに対して、それは本来移民たちには認められていない社会的取り決めを不当に利用しようとすることだ、とマジョリティであるフランス語話者たちはまことにもっともな認識を抱いた。そして、移民たちは自分の子供をフランス語学校に通わせなければならない、という法律をフランス語話者たちは通過させたのだ。彼らにはそうする権利があった、と私は思う。同様に、アメリカにおけるアファーマティブ・アクションは奴隷制やジム・クロウ法による分離政策の遺産に対処することを意図した特別な取り決めであることは明らかなのであり、そのアファーマティブ・アクションを移民たちが利用することを認めない権利がアメリカ人たちにもあるだろう。

もちろん、アファーマティブ・アクションについて純粋に結果志向的に考えてみて、大学内における “多様性”を特定の水準にまで達成するための試みとして捉えてみれば、その目標を達成するためにアメリカの大学が多数の外国人学生や外国人教員たちを招き入れることは問題にならないかもしれない。しかしながら、ここで論じてきた政策について考える一貫した方法をこの種類の帰結主義が提供できるとは、私は思わない。自分たちが達成しようとしている目標を見てみれば、それは大抵の場合にはアメリカ国内の人口を “反映”しているということがわかるはずだ。そのことは、それらの政策の本当の目標は差別に対抗して機会への平等なアクセスを確保することであるということを示している。そして、それが本当の目標だとすれば、その目標に関係している種類の差別の被害に遭ってきたと判断できる人々だけに政策の対象を限定することは、全くもって筋が通っているのだ。

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