タイラー・コーエン「ダン・ドレズナーの新著『アイディア産業』」

[Tyler Cowen, “*The Ideas Industry*, the new Dan Drezner book,” Marginal Revolution, April 7, 2017]

副題は「悲観主義者・党派主義者・金権主義者により変貌するアイディアの市場」。本書は、有名知識人たち〔専門分野外の世間にも知られている知識人たち〕に関するリチャード・ポズナーの研究の更新版と考えるといい。ソーシャルメディアの世界やいっそう大きくなった所得格差やさらなる世論二極化によってぼくらがどこにたどりついたのかを説明しているのがいままでとちがう。賢明にも、ドレズナーはスーザン・ソンタグや『コメンタリー』誌読者大衆の時代を理想化してはいない。ただ、それでも悪化したことはいくつかあって、それは信頼されるゲートキーパーの不在による部分が大きいのだという。たとえば、いまのスーパースターの地位は短絡とおもねりを招き、思慮深い「有名知識人」を伝道者めいた「思想指導者」に変えてしまう。大局的に見れば、いまのぼくらがいる地点は、あらゆる立場が論じられ、読者の眼識による検証が疑わしく、信頼の水準が低下し続けている均衡だ。すると今度は質の低下が起こり、それによって信頼はいっそう低下することになって、それがまたフィードバックして、どんな種類のスーパースターが台頭し地位を保持し続けるのかに影響をおよぼす。

ご期待どおり、個々人の悪玉も名指しされてるよ(知りたい向きは、ぜひ本をお買い求めいただきたい。)

昨日、ダンと会話したときには、公共の知的論議の品質が最高水位を記録したのはもしかして1980年代後半じゃないか、というのが話題になった(e.g. フクヤマ、ナイ、ハンティントン、フリードマンといった面々。とはいえ、ただの仮説だし、ダンがこう考えていると言っているわけではない。) 突き詰めて言えば、80年代よりも今日の方がいいとぼくだって思っているし、アイディア投入の自由があって大量の読者をもてることに病みつきになってもいる。内容面でも、変人奇人の比率もかつてより高い。とはいえ、読者の増大(そう、あなたのことですぞ)はうれしいけれどいいことばかりではないし、読者におもねりたくなる欲求や彼らにソーシャルメディアで発言力を与えたいという欲求は、最終的にはエリートにかえされるフィードバックの品質低下につながるかもしれない。いま進行中の二極化と議論の誇張はそうそうとめられはしない。たとえば、ダンがとりあげている有名知識人のなかでも指折りに有名で高い地位にある人物は——ポール・クルーグマンは——ほんの数日前にTwitterでトランプのことを「腐敗したロシアの操り人形」と呼んだ。クルーグマンは、ダンの批判する人物たちに含まれてもいない。

ダンの本に話をもどすと、彼好みなのは——雑にまとめてしまうと——TEDトークに反駁と査読レポートを加えたものだ。このアイディアもわるくないと思うけれど、それだとなんら合意点も見出されないままに怒号まじりのコメントや立場が飛び交うばかりでしっかりした結果をもたらさないんじゃないかという気がする。ダンじしんが他の文脈で指摘しているように、大抵の場合にはまさにそうして批判されることによって、標的となったスーパースターの地位を堅固にしてしまう。他の場合と同じく、妥当な合意は後退しやすいかもしれない。理想的には、「アイディア投入」を制限するのではなく「アイディア退場」を容易にしたいとダンは思っているけれど、なんらかのかたちでアイディア投入の制限をせずにアイディア退場を容易にできるものなのか、ぼくにはよくわからない。

本書には、この新世界で他のどの社会科学でもなく(たとえば政治学ではなく)経済学者の相対的な地位がどのようにして高まったのかを論じた章がある。ダンみずからのキャリアを一人称視点で観察したパートはたっぷり書いてあって、おもしろい。

この問題をぼくなりに考えると、実践的な問題から、専門家に高い信頼が置かれる均衡の方がのぞましいと思う。ただし、専門家がそんなに信頼に値すると思っているわけではない。その点で、ここでもストラウスへの親近感をちょっとばかり覚える。高い信頼をおおむねいつまでも維持できる均衡はあるんだろうか? これは、ちょうど最適資源採掘問題みたいなもので、たいていの種類の信頼は利用され尽くしてしまうのがオチで、せめてなにかいい目的のために利用されればいいなぁと願うくらいしかできないんだろうか? (ダンの著作からまた一例を引けば、1929年の事態を繰り返さないようにベイルアウトのために公的支援を行なったり?)

もっと議論されてたらいいのになぁと思う話題が2つある。

  • a) コンサルティングの及ぼす不誠実な影響。
  • b) 多くの知識人がバイアスのかかった発言をするかわりに個別の問題に取り組む意欲にかける点。

もちろん、どちらの場合にも説明責任を実現するのはいっそう難しい。前者に関して言えば、たいてい公的な記録はないし、後者に関して言えば、特定個人〔の知識人〕がはっきりと責任をとることなんてめったにない(「ぼくはどんな物事にもちょっと一言自論を言ってみせるけれど、その話題については取り組まないよ」みたいな。) その結果として、〔知的なルールなどの〕違反をこれと同定できるような透明性が欠如し、こうした問題はいっそう蔓延することになる。

コーヒーで一服しながら(いやまあ、ぼくはミネラルウォーターで飲みながら)ダンにちょっと問い詰めてみた。「社会的信頼は実際に低下してしまっている(ただし実業界以外で、とぼくとしては付け加えるけれど)という考えは本当?」 それから、アメリカの権力の推移とジャレド・クシュナーについて逆張りの見方を提示してみた。この話については、後日もっといろいろ書くかもしれない。ともあれ、本書は今年出たなかでも指折りに思考を触発する一冊だ。みんながいまあっぷあっぷ泳いでるこの世界をもっとよく理解したいと思ってる人たちにはとくにおすすめ。

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