タイラー・コーエン「トマ・ピケティに賛成できない理由」/「大著の読み方」

(訳者補足:関連エントリがあります。)
●ピケティ本と同様のアイデアであるピケティの共著論文の紹介
クルーグマンのコメント
ノア・スミスのコメント
●デロングのコメントのhimaginary氏による紹介
クルーグマンの書評(英語)


トマ・ピケティに賛成できない理由

Tyler Cowen “Why I am not persuaded by Thomas Piketty’s argument“(Marginal Revolution, April 21, 2014)

フォーリン・アフェアーズに寄せた書評はこちら(Firefoxを使っていて開かない場合には、「新しいプライベートウィンドウで開く」を使うように)。ここではその全部には触れずに、ブログ読者のためにいくつかの点をやや異なった用語を使って言い換えてみたい。

1.収益率が経済の成長率より高くなったままならば賃金が上がる可能性が高いし、それはかなりのものになる。この考えを学術的な形で書いているものには、マット・ロムニーによるものがある。でもこれについては常識、つまり資本蓄積は賃金を釣り上げるということを持ち出すだけで十分だ。私たちが19世紀的なものに戻りつつあるとピケティは示唆している。さて、これは西ヨーロッパの平均的な労働者にとってはとっても良い時代だった。たくさんの戦争が起こったり、産業革命が不完全だった19世紀前半を過ぎた後の時代はとりわけてもそうだ。

今日においてはある種の賃金の停滞があるために、多分そうした良い結果が将来得られると感じられないのだろうし、多くのコメンテーターが良い雰囲気を退けてしまっている。でも近年の(リスク調整済み)資本収益率は高くないし、数十年間下落を続けているということも頭に入れておく必要がある。低い収益率と停滞した賃金という変数の組み合わせは、ピケティの考えを否定するものではないけれども完全にそれと整合するというわけでもない。

2.ピケティの論旨をざっくりまとめると「資本収益率は逓減しない」ということだ。これは本当にそれほどにしっかりとした予測だろうか。今後例えば50年や100年でどの要素の収益が減ってどれが減らないのかということについて、私たちには大したことは分からない。この先20年の傾向について予測をすることすら十分難しい。注意:その本の中の多くの点においてピケティは二股をかけている。つまり、たくさんの警句を連ねる一方で基本的なモデルにも立ち戻り、そして彼や彼の擁護者は都合のいい時に警句を引用する。

3.資本収益率がなぜ減らないのかというピケティの理由付けは、かなり特殊である上に資本のうちのわずかな部分に限定されている。彼は非常に豊かな人たちによるものや新興経済への海外投資における、先端金融管理技術に触れている。この二つのいずれも資本の大部分を占めてはいないし、したがって全体としての資本収益はそこまで堅調なものではない可能性がある。それに、先のどちらの技術もこの先数十年あるいはそれ以降において特に成功するかどうかも定かではない。さて、この二つの要素が、収益低減という基本論理、さらには効率的市場仮説に従っている他の要素に勝ると考える特別の理由はあるだろうか。正確に言えば、それはありうるかもしれない。でもそこまで及ばないかもしれない。いずれにせよこれは純粋な推論であって、ピケティの論旨全体はそこに依って立っている。

4.私たちが目にしている実際の所得格差は、ほとんどが労働所得についてであって資本所得ではない。これはピケティの論理とかなり整合しづらいどころか、まったく整合していないという議論さえできる。

5.ピケティは実業家を不労所得者に変換している。資本が高い収益をもたらすのは、大きなリスクがあるからだ(国債の実質リターンは、歴史の長い期間を通じて全然大きくない)。それなのにこの本の主要な論旨においてリスクの概念はほとんど考慮されていない。リスクを導入した途端、再び資本収益の長期における結末は確実とは程遠いものになる。実のところこの本は全編に渡ってリスクに関するものになるべきなのに、書いてあるのは不労所得者についてだ。

結局のところ、この本のメインの論旨は二つの(間違った)主張にもとづいている。一つは資本収益が他の要素と比較して高い上に逓減せず、r > gという論理がこの先の経済史の支配的な説明として支持するに十分なほど確かになるということ。第二に、それが実質賃金の大幅な上昇なしに起きるということ。

追記:それでもこれはとても重要な本であって、読んで勉強すべきだ。でも私はそのメインの論旨に納得していないし、この本に肯定的な書評のうちで私が読んだものは私の心配を和らげるどころか深めるだけだった。この本の政策や政治に関する部分については、別のエントリに書こうと思う。この記事の冒頭でリンクを張った私の書評では、ここでは触れていないたくさんのことが書いてあるので読んでみてもらいたい。


大著の読み方

Tyler Cowen “How to read (any book like) Capital in the Twenty-First Century?“(Marginal Revolution, April 20, 2014)

本ブログの読者であるマイクがこんなことを訊いてきた。

「21世紀の資本論」のような本にどうやって取り組みますか。僕はそこそこ賢いほうで、良い学校の経済学、電子工学の学士とMBAを持っていて、読書はそれなりによくしてます。でも、ピケティのテーマの密度、長さ、比較的主観的なところ(?)に二の足を踏んでます。

書評や他の本を読むところから始めるか、直にこの本を読み始めるか、掲示板のスレッド(たいては運よくその本を一部でも実際に読んだ人がいます)を探すか。あるいは聖書を読むみたいに、一度に一パラグラフずつ、数年かけて読むかもしれませんw

真に本格的な本については、次のように読むことを勧めるね。できるかぎり落ち着いて、最初から最後までまず一回読み通す。全く完全に行き詰ってしまった点があって、本の残りの部分がその点に掛かってくるという場合には誰かに訊いてみよう。そうでないならば頑張って最初から最後まで読み通すんだ。

そうしたら書評を書く。あるいはノートにメモするのでもいいけど、いずれにせよ文字に書き起こすことで自分の立場をはっきりとさせるんだ。

次にもう一度注意深く読み返す。この時にはもう自分が何を求めているのかを知っているからだ。そして自分の書いたことを追記・修正する。

もちろんこんな風に読む必要のある本は、(せいぜいが)年に数冊だけだ。

書評を読むところから始めるのはほとんどの人にとっては良いだろうけど、基本的に僕は好きじゃない。僕が書評を読むのは、その本(あるいは映画)を自分が読みたいかどうかを見定めるのに必要な分だけだ。それを見定め終わったら書評を読むのをやめる。書評を書いた人の見方に影響を受けたくないし、僕は大抵の場合は助けなしにその本を理解するのに十分な知識は持っていると思うからだ。書評者がどうこうってわけではないけれど、相互に影響を受け過ぎた意見の滝よりも水瓶から何らかの独立したものを汲み取るということが読書や書評のプロセス全般の中では重要なんだ。とは言うものの、この「書評とばし」の取り組み方は、たくさんの本をとても真剣に読む人にしかお勧めできない。

掲示板のスレッドを読むというのが有益な場合もある。a)そこを読んでなければ手に取ってはいなかったであろう本を読んだり、b)ある本に対する自分の立場を擁護したり、c)ある本について良く知っているというだけの場合に、その本について本当に本当に良く知るようになったり。あるいはそれよりも何よりも、d)ある範囲の人々を結び付けたりもする。全部良いことだ。でも単に「本を読む」ことにとって、読書スレッドが物凄く有益だとは僕は思わない。読書スレッドは読書に関するものではないし、さらには本に関するものですらない、とロビン・ハンセンなら言うかもしれない

一つの本を一日一パラグラフずつ読みながら、その本にずっと興味を抱いていられる人はほとんどいない。短期間で本を読むことの長所で過小評価されているものの一つは、自分の関心を保ち続けるのに十分な速度でページを捲るということで、そうすることによってさらに理解が進む場合もあるんだ。

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  1. 「これはピケティの論理とすんなり整合するものではないし、ほぼ間違いなく一切整合しない。」

    この部分ですが、日本語としても変ですよね。結局整合すんの、しないの、ということになってしまいます。

    「これはピケティの論理とかなり整合しづらいどころか、まったく整合していないという議論さえできる。」

    あたりでどうでしょうか。

    1. 御指摘頂いて恐縮です。確かにそちらのほうが日本語の文章として良いと思いますので、その通り修正しました。

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