ノア・スミス「社会科学は客観的な知識をもたらせる?」

[Noah Smith, “Can social science yield objective knowledge?” Noahpinion, June 1, 2016]

human eye

サヨクちっくな* 社会科学の友だちとかなり長いことメールで議論してる.お題は,「社会科学は世界について客観的な知識をもたらせるのか?」だ.どうやら,サヨクちっくな* 社会科学と人文学の界隈では,「人間の研究はその性質からして主観的な企てであって物理学や科学や生物学 etc. がもたらすような知識はけっしてもたらさない」って考えが受け入れられてるらしい.

これを支持する論証は本質的に3つある.大幅にパラフレーズしてまとめよう:

1) 社会科学には政策への含意がある.このため,イデオロギーによるバイアスがいつも混入してしまい,研究者の方法選択にも結論の解釈にも影響が及ぶ.

2) 社会的現象はきわめて複雑で,そのため,自然現象が理解できるようには理解できない.

3) 社会科学すなわち人間による他の人間の研究だ.それで,「反射性」(reflexivity) によって自分たちじしんの理解がさまたげられる.アリや原子[アトム]のふるまいと同じようには理解できない.

上記3点のどれをとっても,社会科学をやるさいの大事なむずかしさを強調してるけれど,その含意をとりちがえてると思う.

というか,ここ数十年で,ごく一握りだけど,こうした問題のどれにも陥らない予測的な社会科学理論が登場してきている.ぼくのお気に入りの例は4つある――オークション理論,〔国際貿易の〕重力モデル,マッチング理論,ランダム効用離散選択モデルだ.どの理論も,かなりの予測力を備えているばかりでなく,人間にとってはとても役立つ.こうした理論は,グーグル・オークションの基礎になってるし,国家間の貿易量を予測できるようにしてたり,臓器移植を改善したり,電車利用者がどれくらいになりそうか都市が予測できるようにしたりと,人間がいろんなことをできるようにしてくれてる.

こうした例を念頭において,(大幅にパラフレーズした)論証を1つ1つみていくとしよう**.

1) まずは,イデオロギーによるバイアスの存在について.たしかに,現代では金星の軌道が政策にもたらす含意について気にする人なんてめったにいないのに対し,最低賃金研究がもつ政策含意については大半の人たちが気にかけてる.それで,今日では,後者よりも前者について客観的になりやすい.でも,これまでずっとそうだったわけじゃないよ! その昔は,惑星の軌道について政治的に正しくないことを言ったせいで科学者たちが自宅監禁になった(り,もっと酷い目にあった)時代があった.

やがて,事実が勝利を収めた.支配的なイデオロギーをシカトした自然科学者たちは,ライバルたちよりもうまく惑星の運動を予測できた.そして,これがやがて事態を収束させた.原則として,似たようなプロセスが社会科学でおきない理由はなさそうだ.

ただ,起きるにしてもずっと緩慢になるかもしれない.なぜなら,ほんとに超絶な予測力のある社会科学理論は,超絶な予測力のある物理理論よりも手に入れにくいからだ.でも,予測の成功はやがてイデオロギーを駆逐するってことは,社会科学にも客観的になる見込みはあるってことだ.

こう考える人もいるだろう――「社会科学の研究者たちが手の内をぜんぶ明かすのは良い考えじゃないかな」.つまり,研究結果を報告するときに,じぶんのイデオロギーを認めるようにすればいいんじゃないか,って考える人もいるかもしれない.いけてる考えに聞こえるけど,実践するとなると,ちっとも実行可能じゃないだろうとぼくは践んでる.想像してみてほしい.どっかの経済学者がこう言ったとしよう――「この自然実験から,最低賃金上昇に対する労働供給の弾性は -0.1 だとわかりました.あと,ぜひお伝えしておきたいことがあります.ぼくはサヨクちっくなタイプでして,政策を使って労働者階級を助けたいと思ってます」

さて,この経済学者は,自己申告したイデオロギーでどれくらい自分の推計をゆがめてたんだろう? 最低賃金が労働者階級の助けになると考えてる彼は,数字が小さい方が最低賃金の実施がなされやすくなると践んで,弾性を過小評価したんだろうか? それとも,意識的にであれ無意識にであれ,じぶんのバイアスを正そうと試みて,弾性を過大評価したんだろうか? あるいは,最低賃金が労働者階級の助けになるのか害になるのかわからなくて,ただそれを見極めたく思った彼は,バイアスのない推計をえようとしたんだろうか?

そんなこと,誰にわかる? 彼にはわからない.読者にだってわからない.このとおり,よさそうなアイディアに聞こえるけれど,実践ではまったく機能しないだろうとぼくは思う.実践では,混乱と疑惑とノイズを大量にもたらすばかりだろう.

2) 2つ目は複雑性だ.さて,この点も,自然科学にとってすら大きな難題だ.量子力学や相対性理論は,任意の精度であらゆる実証的なテストを通った.だけど,こうした理論から,木の生長の仕方がわかるだろうか? もしかしたらわかるかも.でも,かりにわかるとしても,それはきっとはるか未来のお話だ.いま現在,あまりに複雑すぎて素粒子物理学に理解できない現象なんて山ほどある.だからって,素粒子物理学が客観的な知識をうみだせないって話にはならない.

ぼくには,「社会科学の扱う現象はあまりに複雑だ」って議論は,「知的設計者」を支持する論証に創造論者が利用する「還元不可能な複雑性」のお話にどこか似ているように思える.そりゃまあ,あまりに複雑すぎて既存の理論では(まだ)説明できない現象なんていつでも見つけられる.理論がどんどんよくなってくるたびに,さらに複雑な現象へと飛び移って,「あっそう,じゃあこっちを説明してみてよ科学者さん」なんて言い続けられる.だけど,それは,科学者たちがどんどん世界をうまく説明できるようになるたびにひたすらに敗北を続けるってことだ.

いっそ,いちばん複雑で研究しがたい現象にいきなり飛んでいったらどうだろう.つまり,マクロ経済学・政治学・歴史学の現象をもちだして,ずっと長いことそこに籠城を続けながら,「ほらね? いわんこっちゃない.これはまだ説明できないでしょ.ていうかぜったいにわかりっこないよ」と言ってればいい.きっと,安全だろう――こういう死ぬほど複雑で非エルゴード的なマクロ現象をついに科学が説明するその日までに,きっとお墓に逃げ込んでしまえる.

まあ,その人にとっては「おめでとう」ってところ.でも,その間にも,科学で説明できる事物の領域は広がっていくんだけどね.

3) 「反射性」について.「人間はみずからの行動を研究できない.どうにか人間の行動を予測する理論をつくれても,〔その予測を織り込んで〕人々は行動を変えるから,理論が機能しなくなる」っていうのが,その考えだ.

えっと,この話は一目瞭然にまちがってる.人間の行動に関するきわめて有用かつ頑健な法則を,人類はこれまで多年にわたって再発見してきたのですよ――「そこらにいるてきとうな人間に近寄って銃器を突きつけてやれば,きっとそいつはお金を差し出す」

もちろん,反射性が問題になる場合もよくある.経済学にはそういう例がたくさんある.たとえばルーカス批判.たとえば資産市場のアノマリーの消滅.他の社会科学にも,こういう例が山ほどあるはずだ.

でも,当然ながら,反射性が大して物を言わないだろう状況もたくさんある.「みんなが手を洗うと感染症は伝播しにくくなる」ってことを疫学者たちは発見した.そこで,彼らは規則をつくったり世間に周知するキャンペーンを張ったりして,みんなに手を洗わせようとつとめた.規則やキャンペーンは奏功して,いまや豊かな国々で感染症はいっそう伝播しにくくなっている.反射性なんぞイヌに食わせとけってんですよ.それに,経済学をみわたすと,反射性が明白な問題とならない事例がたくさんある――たとえば,課税への反応だとか,移民が労働市場におよぼす影響だとか.

というわけで,イデオロギー・複雑性・反射性はたしかに社会科学で現実の課題になっているけれど,まるっきり手に負えないようには思えない.社会科学と自然科学の根本的なちがいを代表してるようには思えない.

客観的な社会科学を否定するこうした論証は,自然科学の普遍性を否定する論証に宗教的な思想家が使う「空隙の神」論法によく似ている.世界を説明する自然科学の能力が欠けている空隙があったら,それはぜんぶ,宗教を――通例はこの論法をもちだしてる当人の宗教を――受け入れるべき理由として提示される.

こと社会科学に関しては,上記の論証を言い立てる人たちにとっての「自然の代替」は神サマじゃなくって,サヨクちっくな* イデオロギーだ.社会現象の現行の理解になにか空隙があったら,かならず「持てる者たちの権力によって持たざる者たちが抑圧されている」って確信が流れ込む.ソフトな社会学/人類学/人文学の複合体をやってるサヨクちっくな* 友だちと議論するのは,1700年の大昔に自然科学についてカトリックの坊主と議論するのにちょっと似た感触がある.「はいはい,ボールが斜面を転がるのは予測できるんだね,でも,次に嵐がいつどこで発生するか,キミにはわかるの? できないよね.ほら,自然は本質的に神秘なんだよ.聖書だけが真理を告げられるんだ!」

社会科学はクソむずかしい(上記の理由からではなくて).予測力のある社会科学理論が,景気後退とか選挙とか大国の興亡を理解できるほどのすぐれものになるのは,きっとずっと先のことだろう.もしかしたら,ついにわからずじまいになるかもしれない.でも,だからってイデオロギー的な願望ベースの世界観に降参すべき理由にはならない.世界をもっともっと客観的に理解できるように,ひたすらもがいて進むべきだ

*「サヨクちっく」(“lefty”)は罵倒を意図していない.ただ,人文学やソフトな社会科学で支配的なマルクス主義に影響された左翼がかったアイディア/イデオロギーの一式と批判理論の方法論をまとめてさす単語がないだけだ.このアイディア/イデオロギーの一式は多岐にわたり複雑でいろんな側面があって,ひとことでこれをひとくくりにする一般的な名前がない.そこで,「サヨクちっく」でさしあたり間に合わせようってわけだ.もっといい呼び名があったら教えてほしい.

**もちろん,これは一方的な練習問題だ.相手側の言い分をじぶんでまとめた要約/パラフレーズに向かって反論してるわけだから.でも,だからってこれがわら人形論法だってことにはならない.ここで述べた概念やアイディアは,読者のみんなの頭のなかで要約したりパラフレーズしたりしておいて,ここで素描した論証とそこそこ似てることを言う相手にこんど出くわしたときに,内心で要約・パラフレーズした論証を使って,相手の論証をふるいにかけて要約してパラフレーズしたバージョンについて考えることができる.ここでの目的はアイディアを提示することであって,論証に完勝したり論争を落着させることじゃあない.

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