ビル・ミッチェル「準備預金の積み上げは信用を拡張しない」(2009年12月13日)

Bill Mitchell, “Building bank reserves will not expand credit“, Bill Mitchell – billy blog, December 13, 2009.

 

ポール・クルーグマンは、彼の最新のニューヨークタイムズの記事(2009年12月10日) Bernanke’s Unfinished Missionで、マクロ経済学について本当はあまり理解していないということを露呈した。時折、誰かコラムニスト(の書いたもの)を読むときに、疑わしきは罰せずの精神で、書かれていない背後の意味を見つけようとすることが誰にでもあるだろう。クルーグマンは、他のコラムニスト同様、時々は明らかに正しいことを言ったり、現代金融理論(MMT)に整合的な議論を行ったりしてはいる。しかしそれでも、馬脚を現すような記事がいつも現れ、それによって結局「このアナリストは本当は分かってない」ということが明らかになってしまう。クルーグマンの場合、日本の”失われた10年”の政策論議に対して彼が行った悲惨な介入から何も学ばなかったようである。

1990年代後半、ポール・クルーグマンは多くのアカデミックな経済学者に混じって、「大規模量的緩和を導入して経済を復活させるべきだ」と日本銀行を責めたてた。日本銀行は不承不承に彼らの助言を聞き入れ、2001年に準備預金を5兆円から30兆円に拡大した。この行動はほとんど全く影響がなかった。実質経済活動と資産価格は負のスパイラルに嵌ったままで、インフレ率は0以下だった。

多数の経済学者は、準備預金の莫大な増加がインフレを引き起こすだろうとも主張していた。彼らもまた間違いだった。この点についてのさらなる議論については、私のブログのBalance sheet recessions and democracy (邦訳) を読んでほしい。

この日本のはまった罠についての1998年の記事で、クルーグマンは ”日本は恐るべき”流動性の罠”にはまっており、金利をゼロ以下に下げることが出来ないので、金融政策は無効になる” と主張している。これは彼が現在アメリカに対して行っている議論と似ている。

彼は、名目金利がゼロであるとき、経済を刺激できる金利に調節することがもはやできず、貯蓄と投資をマッチさせるために要求される実質金利はマイナスになるだろう、と主張している。(余談だが――このタイプの論法は、大いに欠陥のある貸付資金仮説から導かれている)

ケインジアンとして、クルーグマンは、日本は当時、財政赤字を抱えており、財政政策は有効かもしれないが”財政制約”に縛られていて、その上(訳注:財政を出すとしても)日本の政府は”どこにも繋がらない道路”のような無駄な支出ばかりするだろう、という風に認識していた。

そのため彼は金融政策こそ目指すべき最善の方法だと考えている。クルーグマンは、日本は、実質金利をマイナスに(およびフレキシブルに)するために、いくらかの期待インフレを必要としていると主張している。彼は、金融政策がそれまで無効だった理由を以下のように結論付けている:

…民間主体は…[日本銀行の]…行動が一時的であると見做している。なぜなら、民間主体は、中央銀行が長期的には物価安定にコミットすると確信しているからである。それが金融政策が無効になる理由なのだ! 日本が経済を起動させることがこれまでできなかったのは、まさに中央銀行が責任ある行動をとると市場が見做していたからであり、物価水準が上昇を始めたら中央銀行がマネーサプライを抑制するだろうと期待されていたからである。

したがって、金融政策を有効にする方法は、中央銀行が無責任になるという約束を信用できる形で行うことだ。――説得力にある形でインフレの発生の容認を行えば、それによって経済の望むマイナスの実質金利を実現できる。

このことは、奇妙かつひねくれたように聞こえるかもしれない。…[しかし]…経済を拡張する唯一の方法は、実質金利を下げることだ;そして、それを行う唯一の方法は、インフレ期待を創り出すことなのである。

このように、彼はこの分析において完全な間違いを犯している。今世紀の初期において、日本経済を再起動させた唯一の事物は、劇的な財政政策の拡張だけだったのだ。

クルーグマンは量的緩和について詳説した他の関連記事では、彼はこう言っている:

日本銀行は、このような緩和に対して繰り返し反論してきた。量的緩和は――超過的な流動性は単に銀行か、あるいは個人に保有されたままで、支出には何の影響も与えないために――無効だろうと論じてきたのである。また、日本銀行はしばしば、この論理をすべての金融政策的解決策に対する反論として印象付けてきたように見える。

我々の分析から即座に明らかになることであるが、日本銀行の議論は、直接的な意味では極めて正しい。どれだけマネタリーベースが増えても、単にゼロ金利資産同士の交換をするだけである限り、期待は何の影響も受けず、実質的な効果もない。この分析のA面の含意としては…中央銀行は広義の貨幣総量に対して文字通り何の影響力も持たないだろう: なぜなら、信用の量はとても不安定で、外部による期待を変化させない資産交換には影響されず、信用の対応物として存在するインサイドマネーによって主に構成される貨幣総量は、外部による金融拡張の影響を受けないからである。

しかし、量的緩和の効果に関するこうした議論は、金融政策の期待的側面にフォーカスした議論とは全く無関係だ。そして量的緩和は、期待の変化において重要な役割を果たす; 将来のインフレーションを約束しようとする中央銀行は、実際に(新規に印刷された)貨幣を投入することで、より信頼を得るのである。

そしてもういちど彼は「準備預金の拡張は銀行の貸出を増やす」と主張するのである。なぜかといえば、準備預金の拡張がインフレ促進的であり、実質金利をマイナスの域へと導くからなのだという。

もっと最近に、クルーグマンはIt’s the stupidity economyという記事を書いた。あなたがもう一度これを読めば、クルーグマンがどれだけ現代金融理論(MMT)の理解から遠いのかがわかる。というのは、彼は不換紙幣金融システムがどのような働きをしているのか、全く分かっていないからである。

金融政策が無効な状態に対処する方法についての彼の選択肢を、日本に関する初期の仕事を単になぞるという形で、彼の好みの順に示そう:

・First best:  “…実質金利を引き下げるために、より高いインフレーションに確実にコミットする” 。したがって彼はいまだに金融政策を続行すべき最善の方法だと考えているのである。

・Second best:  “生産ギャップに大部分到達するのに十分な、本当に大規模な財政拡張。それを行うべき経済学的な状況というのは極めて明瞭だ。しかしワシントンは財政赤字恐怖症に飲み込まれており、十分に大きい拡張を行えるチャンスは全くないように見える。”

・Third best:  “…雇用への助成金と、ワークシェアリングの推進。”

クルーグマンは、金融政策がどちらかといえば無効であるという証拠があるにも関わらず、金融政策がより好ましい経済安定化手段であると未だに明確に信じており、貸主と借主の支出性向に関する判定困難な分配上の仮定に依拠している。

彼はまた量的緩和が、実質金利に対するインフレ促進的調整の実現を通じて、借入者の借入資金を拡張するだろうと考えている。したがってこの度、インフレを起こすことによって金融政策を始動させたがっている―それは、実質金利をゼロ以下にするためだ。

 

さて、直近の記事に移ろう。クルーグマンは同じ話を繰り返しているようだ。(Krugman’s record is stuck in the groove it seems)

FRB議長バーナンキの ”来年は控えめな経済成長になるだろう。――失業率を下げるのには十分だが、我々が望むよりも遅いペースになるだろう” というアメリカ経済の予測に関して、クルーグマンは成長加速を刺激する政策手段を模索している。

彼はバーナンキよりいっそう悲観的で、実際には失業率は上昇するだろうと考えている。以下の言い分については、彼は正しい:

我々が嵌りこんでいる穴から抜け出すのに、どれだけの数の雇用創造が必要なのかについて、多くの人は分かっていないと思う。あなたがたは、不況が始まってからアメリカで800万人の雇用が失われてきたのを目撃できなかっただろう。なぜなら、増加する人口についていくために、国が雇用の追加を――1か月に10万人以上の雇用の追加を――継続的に需要していたからである。そしてそのことは、もしアメリカが完全雇用に近い状態に復帰する状態を見たければ、本当に大規模な雇用の獲得が毎月必要になるということを意味している。

こうした挑戦的な分析から、彼は以下のように主張する。 ”政治的現実として、大統領――共和党からの総力を挙げた妨害に直面し、かたや自分の政党からはささやかな支援しか受けられない――は、おそらく雇用問題の表面をごまかす以上のことをするための十分な票を議会で集めることは出来ないだろう”

このため彼は、アメリカにおいて、財政政策は限界に達してしまったと主張している。「アメリカはお金を使い果たしてしまった」というのが、大統領による一貫した主張である。このことについてのより詳しい議論は、私のThe US government has run short of moneyという記事を読んでほしい。

このような文脈から、クルーグマンはFRBに”もっとできることがある”と主張している。彼が言うには:

FRBの行動についての言説の中で私のこれまで見た限り最も明確で説得的なものは、Joseph Gagnonによるものだ。彼は元はFRB職員で、今はピーターソン国際経済研究所(PIIE)に所属している。他ならぬバーナンキその人が経済学研究者としてこれまでに結実させた先行研究についての分析に基づき、Gagnonはさらに2兆ドルの資産購入を行って信用を拡張するようFRBに促している。そのようなプログラムは、景気下降のほとんどない成長加速を大いに促すはずだ。

さて、量的緩和の話に戻ろう。量的緩和は、例を挙げると、日本において投融資刺激に失敗したし、現在のイギリスにおいても投融資刺激に失敗している。この点についての詳しい話は、私の記事であるQuantitative easing 101邦訳)をお読みいただきたい。

ポイントは、量的緩和には実際には投融資を刺激する機能などないということである。クルーグマンは明らかに、金融政策と準備預金をリンクさせる銀行業務について理解していない。このことについての理解を深めるというのが、MMTの際立った特徴である。

ただし、銀行業務の専門家はその点を理解している。BISの最近のワーキングペーパーであるUnconventional monetary policies: an appraisalは、この点の理解を進めるにあたって極めて有用だ。

その記事で議論されているのは、今回の景気下降の中で中央銀行によって用いられた非伝統的金融政策について、主流派経済学者は本当のところはきちんと考察できていないということである。

こうした政策に関して、それらの:

…特異的な性質は、中央銀行が自身のバランスシートを積極的に用いて、市場価格や市況を、短期金利(典型的には、オーバーナイト金利)を飛び越えて直接に影響を与えるところである。したがって我々は、そうした政策を”バランスシート政策”と呼称し、”金利政策”からは区別している。

こうした特徴により、これらの政策では”民間部門のバランスシートの構造”を変化させることと”特定の”市場を対象にすることによって機能するよう意図されていることをBISは示している。BISが示すこの政策の主要なポイントは以下の通りである:

最初にBISが言うには:

…やや逆説的だが、これらの政策の一部は、1960年代から1970年代にかけて行われていた金融政策の波及メカニズムについての学術的研究の中でなら、”標準的”と見なされただろう。そうした研究は、民間部門のバランスシート構造の変化を重要視していた。

このことが示しているのは、「”ケインジアン”時代においてはよく理解されていた識見」を抹消しようとしてきたマクロ経済学の近年の歴史である。例えば、もしあなたが最近のマクロ経済学の教科書を読んだなら、流動性の罠に関するいかなる言及も発見困難であろう。(私が調べたのはバロー、マンキュー、ブランシャールの教科書だ)

1980年代に始まり、近年激化した ”新しい” マクロ経済学教科書の時代の特徴は、極めてスタイリッシュな一つの “モデル” を、既存の観点と競争させることなく、学生たちに取り組ませるところにある。(ケインズとピグーの、いわゆる ”ケインズと古典派” 論争のような)歴史的な論争は、未だ今日的意義を持っているにも関わらず、首尾一貫した形で教科書に記述されることはほぼない。

学生たちは、これらの教科書の中では、教科書で示されているパラダイムを批判する何の観点も得られない。無条件で受け入れるか、完全に放棄するかしかない。問題なのは、(訳注:教科書の中で)示されているその洗練されたモデルは、学生たちが学びたがっているマクロ経済の現象とはほとんど関係がないということである。

これらすべての教科書は、現代金融システムの正確な解説に失敗しており、そのため学生たちは、金融システムがどのように運用されているか及び金融システムが現実の経済にどういう風に相互作用しているかについて間違った理解を持ったまま卒業してしまう。

 

そしてBISはこう言う:

バランスシート政策の重要な特徴は、金利水準から完全に分離独立できるというところだ。テクニカルに言うと、これらの政策が準備預金(中央銀行に対して銀行が保有する資産)の拡張を通じて金利に齎す影響に対し、それを中和するのに十分な政策手段を中央銀行は必要としている。一般的に、中央銀行はそのような手段を既に保有しているか、あるいは必要な手段を獲得可能だ。この”分離主義”が他にも含意することは、バランスシート政策とは独立に、現在のとても低い、ないしゼロの金利政策から脱却することができるということである。

“分離主義”は、中央銀行が(中央銀行による金融政策ステートメントとしてアナウンスされる)政策金利に応じて準備預金に報酬を与えるという手法に基礎づけられている。

MMTの議論に従えば、中央銀行が目標金利の管理を維持するために準備預金を利用する方法には、大きく分けて二つの方法がある。一つ目についてだが、中央銀行は政府債券を売買することで、”望む短期金利水準を実現するように準備預金量を調節する”ことができる。この手法は ”長きにわたって実務家によく知られて” きたものである。(page 3)

MMTは同じ説明をそのまま政府債券発行にあてはめる――政府債券発行は、政府純支出(税収を越える支出)の資金調達ではない。国家政府は支出の際に税収を引き上げる必要がないからだ。実際には、債券発行は、財政赤字が追加した準備預金を操作し、中央銀行の目標金利維持を可能にするための金融政策手段なのである。

マクロ経済学の教科書で、公的部門の債券に関するこうした説明を探してみると良い。(訳注:見つからないだろう、という皮肉)

二つ目についてだが、 ”中央銀行は超過準備保持に対して政策金利と同額の報酬を支払うことを決定し得る” し、そうすると ”銀行にとっての準備預金保有の機会損失がゼロになる” 。 ”中央銀行は、その政策金利において好きなだけ準備預金を供給できる” 。重要なポイントは、そのとき中央銀行によって設定されている金利水準は、最初のケース…中央銀行が政府債券の発行によって準備預金を吸収しているケースと同様に、”金融システム内の準備預金の量から分断されている”。

したがって、積み上がった準備預金は、中央銀行が明確に単独に設定している金利に対して何の含意も持たない。「財政赤字は金利を引き上げるだろう」と主張している全ての主流派は、財政赤字が準備預金に与える影響と、中央銀行が準備預金を(訳注:目標金利から)”分離された”状態で操作していることに関して誤解している。

 

さて、BISの論文では次に、現在積み上がっている準備預金の含意という論点に移っている。彼らが言うには:

…我々は、非伝統的金融政策の議論における準備預金拡張の役割への典型的な強い重視は見当違いであると論じている。我々の見解では、非伝統的金融政策の効果は、中央銀行短期債のような準備預金に近しい代替資産との交換で得られた準備預金に依る限りは、大したものにはならない。とりわけ、非伝統的金融政策に関係する準備預金の変動は、銀行融資制約を有意に緩めることもないし、インフレの触媒として機能することもない。

というわけで、準備預金の積み上げがインフレ促進的であると主張しているオーストリア学派信者や主流派経済学者たちは――少し休憩して、内部関係者があなたがたに何を伝えようとしているのか、読んでみると良い。

より大きい準備預金が銀行融資を容易にすると主張しているマーク・ソーマその他を含む主流派経済学者全員は――少し休憩して、内部関係者があなたがたに何を伝えようとしているのか、読んでみると良い。

このペーパーでBIS研究員が発展させた議論は、MMTの中核的部分だが、主流派の教育プログラムを受けているであろうマクロ経済学徒は全く理解していないだろう。それどころか、あなたがたはトップレベルのジャーナルで研究者が出版しているいかなる主流派金融研究論説においてもこのタイプの分析は読んだことがないだろう。主流派経済学者たちはこうした識見をすっかり理解し損ねている。なぜなら、彼らは間違ったモデルから研究し始めてしまっているからである。

BISのペーパーの16ページから始まるセクション―Are bank reserves special?―は、主流派のコンセプトに毒された読者によって誤解されたミスリーディングな言葉(たとえば、クラウディングアウトのような)をところどころ用いてしまってはいるけれども、それでもなお読む価値のとても高い部分だ。

BISの著者たちはおもむろにこう始めている。 ”(準備預金は)特別だとみなされているようだ…銀行融資の触媒として機能するか、あるいは市場の安定と確信に貢献するという能力によって” 。この文脈について、BISはこう結論付けている。 ”そうした見解に尤もらしい理由があったとしても、その根底にある論理は時折疑わしい根拠に基礎づけられている” 。

彼らは以下のように論じている:

…準備預金は、金融制度によって独自に価値が与えられている。というのは、準備預金は、全ての取引の最終的な決済を達成するにあたって、唯一受容される手段であるからだ。このような観点から、準備預金は金融ストレス時に特別な役割があり、そのときはシステム内での準備預金の円滑な分配が妨げられ得る。そのようなとき、金融制度は、高まる流動性リスクを制御するためにより大きい準備預金の保持を必要とするだろう。実際、こうした事態は現在の初期段階で生じ、そのとき準備預金に対する予防的需要が大いに増大した。…

金融安定の維持の必要性は、日本銀行が2001-2006年に準備預金を拡張した理由の一つだと彼らは述べている。

しかしながら、中央銀行が需要に合わせて(政府短期証券のような準備預金に似た同価値資産との交換を通じて)柔軟な準備預金供給を行えば、流動性の役割は明らかに達成される。

言い換えれば、この点において準備預金に特別なことは特にないということだ。

彼らが準備預金を”特別”と考える理由は、金融政策における準備預金の運用上の意義に依っている。中央銀行は金利を明確に設定し、一般的にはオーバーナイト金利(インターバンク金利)がそれに確実に等しくなるのを目標とする。この点において、準備預金は:

…強力で、かつユニークだ…[そして],,,金利の不当で激しい変動を回避するために、中央銀行に対して、小さい(超過)準備需要に正確に対応することを要求する…しかし、バランスシート政策の中でそのような巨大なバランスシート拡張を受け入れさせるためには、銀行にとって準備預金を他の資産より魅力的なものにしなくてはならない…実際、中央銀行は、銀行に対して、政府短期証券に対するほぼ完璧な代替物を与えている。というのは、(訳注:与えた準備預金に)同等の金利を払っているのである。そのプロセスにより、準備預金の特別性は失われている。準備預金は単に、公的部門から発行された請求物にすぎなくなる。準備預金は主としてオーバーナイトの満期があることと、参加者が限定的であることにより他の資産から区別される。

こうした記述は、我々(MMT研究者)の一員が書いたのではない――そうではなく、BISによって公式に記述されたものである。このペーパーは、準備預金の動態がどのように金融オペレーションに影響を与えるのか、及び金融政策目標金利を逸脱しつつ準備預金を維持する際にどうして中央銀行が「債務発行」か「準備預金に対する利子の支払い」のいずれかを行う必要が出てくるのかについて極めて明快に示している。

このペーパーはさらに、主流派経済学者の中で見失われているポイントとして、準備預金と公的債務発行はほとんど同じものだということを示している。

 

最後に、BISのペーパーは準備預金―銀行融資―インフレ率の連鎖関係について考察している。著者たちが言うには:

これまで行ってきた議論は、準備預金の特殊性の含意に関して幾度となく聞かされてきた2つの主張に疑問を呈するものである。1つ目は、準備預金の拡張が融資拡張のための追加資金を与え、バランスシート政策を強化するというものである。2つ目は、準備預金調達に特別にインフレ促進的な機能があるというものである

彼らが的確に指摘する通り、準備預金の拡張が融資を拡大するための追加的な資金を銀行に与えると考えている人々は ”準備預金が銀行融資に必要だ” と信じ込んでいる。そのため、(マーク・ソーマのような)主流派経済学者は、 ”銀行融資は準備預金への不十分なアクセスによって制約されており、より多い準備預金がとにかく銀行の貸出意思を押し上げることが出来るのだ” と考えている。

BISの著者たちは続けて以下のように述べている:

こうした見解の極端なバージョンは、安定した貨幣乗数という教科書的概念だ: そうした考えでは、中央銀行は、準備預金供給の外的な変化を通じて、銀行システムの融資と銀行預金の量に直接の影響を与えることができるということになっている。

MMTは「そうした考え」を完全に否定する。準備預金は融資には必要とはされず、教科書に描写されているような貨幣乗数メカニズムは働いていない。

BISの著者たちもMMTと同意見であり以下のように述べている:

実際の処、準備預金の水準は銀行融資決定にほとんど影響を与えていない。信用残高は銀行の融資供給意思によって決定している。融資供給意思は、認知されているリスクリターンのトレードオフと、ローンへの需要に基づいている。準備預金の利用可能総額は、信用拡大を直接制約しているわけではない。

なぜこれが重要なのかは明らかだろう。融資は銀行預金を創造し、それは借入者によって牽引される。融資による銀行預金創造の段階では、準備預金は必要ない。その後、BISのペーパーが言うように、 ”金利の過剰な変動を避けるために、中央銀行はシステムの需要に応じた準備預金を供給する” 。

商業銀行の融資担当部署は、彼らの日々の業務において、金融システムにおける準備預金のオペレーションとは何の関係も持たない。彼らは融資を求めており、かつ信用力のある顧客から融資申し込みを受け取り、そしてその融資を認可するか拒否するか選択するだけである。融資を認可するとき、即座に銀行預金が創造される。(金融資産取引は全体では相殺されてゼロとなっている)

銀行の融資部署が信用拡大を制約されてしまう唯一の理由は、信用力のある顧客の欠如だ。信用力のある顧客の欠如は、「銀行が悲観的な審査法を採用している」という供給要因か、「信用力のある顧客が融資希求を避けている」という需要要因のどちらかに原因があるだろう。

そしてBISの著者たちは以下のように論じている:

超過準備と銀行融資の間の関係の希薄さについての最近の顕著な事例としては、日本銀行の2001-2006年の”量的緩和”政策の間の経験があるだろう。超過準備の顕著な拡張、それに伴うベースマネーの増加にも拘わらず、ゼロ金利政策下において、日本の銀行システムにおける融資は明らかに増加しなかった。

そして当時、ポール・クルーグマンは日本銀行に対して銀行に対してより多い資金を供給するために量的緩和を実行するよう促していた。彼が言うには、そうしたより多い資金の供給によって、銀行はより容易に融資できるようになるとのことだった。明らかに彼は当時、基礎的な銀行オペレーションを理解していなかったし、今でもまだ理解できずにいる。

私はまた他のブログ記事で、準備預金とインフレーションについてのBISの議論を検討したいと思う。(訳注:続きはこちら

量的緩和が機能しないであろう理由は極めてシンプルだ――信用は、民間部門からの資金需要があれば拡張するだろう。日本には、そうした資金需要を欠いていたのだ。この点についての詳しい議論を知りたければ、Balance sheet recessions and democracy (邦訳) という私の記事を読んでほしい。

リチャード・クーは2003年出版の彼の著書 Balance Sheet Recession: Japan’s Struggle with Uncharted Economics and its Global Implications(John Wiley & Sons) (邦題:デフレとバランスシート不況の経済学) でこう述べている:

量的緩和が日本で機能しなかった理由は極めてシンプルで、それはBOJの職員や地方市場の観測者から頻回に指摘されてきた:日本の民間部門には、資金需要がなかったのだ。

中央銀行から供給された資金がインフレを起こすには、それらが借り入れられて支出されなくてはならない(訳注:この表現はここまでのミッチェルの趣旨的にはやや間違っている表現だ。おそらくミッチェルに言わせれば、これこそ「主流派のコンセプトに毒された読者によって誤解されたミスリーディングな言葉」ということになるのだろう)。それが経済に貨幣が循環して需要を増加させるための唯一の方法だ。しかし日本の長期不況においては、バブル崩壊の後に債務過剰となったバランスシートが残された企業家たちは、彼らの金融的健全度を回復することに集中せざるを得なかった。過剰な債務を保持する企業は、ゼロ金利であっても借入を拒絶した。それが、バブル崩壊後の15年に渡ってゼロ金利だけでなく量的緩和も経済を刺激できなかった理由なのである。

 

 

アメリカの政治は破滅的であり、統治政府による公共目的推進のための財政的手段の使用は制約されることになるだろう。

私の見方では――現代金融経済のオペレーションの本質への理解の上では――政府に対してイデオロギー的な制約が課され、数百万人の不幸な労働者たちを失業させ、彼らとその家族に貧困生活を強いるよう意図されているのを、我々国民が看過している、という状況は異常事態である。

十分な雇用が存在しないときの答えは簡単だ。より多くの雇用を作ればよい。国家政府はいつでも公的純支出を拡張することによって十分な雇用を創造することが出来る。雇用創造を確実にする最も直接的な方法は、公的部門自身の中に雇用を創出することだ。

しかしポール・クルーグマンのような影響力のある経済学者たちがこのような現実を避け、その代わりに、「金融システムオペレーションへの誤解に基き、政策的主導権の転換において何度も何度も無意味だと証明され続けてきた経済学的観念」を推進するようなら、そうした事態への不信感を隠せない。

もう一つ重要なポイントは、国家政府が不換紙幣金融システムの中で保有する雇用機会を、政治システム上に一層反映させる行動主義が必要である、ということである。

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