ピーター・シンガー「便利な真実」(”アシュリー治療”についての記事)(2007年1月26日)

・Peter Singer, “A Convenient Truth“, New York Times, January 26, 2007.

 

ある若い女の子の身長と体重を通常以下に抑え続けるためにホルモン治療をして、彼女の子宮や乳房が発達しないようにそれらを切除するということは倫理的であり得るだろうか?この治療はアシュリーという名前でのみ知られる重度の知的障害を持った女の子に対して行われたが、アシュリーの両親や治療を行った医者や治療を承認したシアトル小児病院の倫理委員会に対する批判を招き寄せることになった。

アシュリーは九歳( *記事の発表当時)であるが、彼女の精神年齢は生後3ヶ月のそれを超えたことがない。彼女は歩くこともできず、話すこともできず、おもちゃを掴むこともできなければベッドの中の自分の位置を変えることもできない。アシュリーの両親は、彼女が自分たちのことを認識できているかどうかにも自信がない。アシュリーは通常の寿命を過ごすことができるだろうと予測されているが、彼女の精神的な状態が発達することはないのだ。

アシュリーの両親は、彼女に治療を施したのは自分たちの都合のためではなく彼女の人生の質を上げるためだとブログで説明している。アシュリーが小さく軽いままであれば、両親が彼女を頻繁に動かすことや他の二人の子供と一緒に自分たちが行くところにアシュリーを連れていくことは可能であり続ける。子宮摘出は彼女が月経で生理痛を感じることを免れさせる。(彼女の家系では大きくなる傾向にある)乳房の成長を止めるための手術は、アシュリーがベッドで横になっている時にも胸の周りに紐をかけられて車椅子に結ばれている時にも、彼女をより快適にするのだ。

アシュリー自身の人生を改善することと、アシュリーを扱うことが両親にとって簡単になるようにすることとの境目はほとんど存在しないとしても、前述した両親の主張は妥当である。自分たち家族の生活にアシュリーが加わることを可能にすることを彼女の両親が行うことは、アシュリー自身にとっても利益となるからだ。

アシュリー治療に対する反論は、生命倫理学に携わっている人にとっては見慣れた三つの形をとっている。まず、一部の人はアシュリー治療は「不自然だ」と言う。…これは、大概の場合には「うげっ!」と嫌悪感を示すこと以上の意味を持たない苦情だ。私たちが自然のままでいる場合よりも寿命を延ばしたり健康を良くしたりする他のどんな医療処置も、不自然であると言って否定することは可能である。人類の歴史の大半において、アシュリーのような子供は捨てられてオオカミやジャッカルの犠牲になってきた。重度の障害を持つ赤ん坊にとって捨てられることは「自然」な運命かもしれないが、自然だからといってそれが善いという理由にはならないのだ。

第二に、アシュリー治療を認めることは、両親の都合のために子供に対して医学的な改造を行うことが広範に行われる世界へと続く滑りやすい坂道の一歩目を踏み出してしまうことである、と一部の人々は見なしている。しかし、アシュリー治療を認めた倫理委員会は、その医療処置はアシュリー自身にとっての最善の利益であると確信していたのだ。倫理委員会に示されてきた証拠を見聞していない人が委員会の結論を批判しようとしても、その主張の根拠は弱くなるだろう。

いずれにせよ、「最善の利益」という原則は医療処置の審査基準として正しいものである。その治療が子供たちの利益になるとすれば、アシュリーと同程度に重度の障害を持った子供たちの親たちが同様の治療へのアクセスを持つべきではない理由は存在しない。滑りやすい坂道が存在するとしても、少数の重度な障害を持った子供たちの成長を弱まらせることではなく、それよりもずっと広範に行われている、注意欠陥多動性障害と診断されて「問題がある」とされた子供たちに対する薬物の使用の方が遥かに重大なリスクをもたらしているのだ。

最後に、尊厳を持ってアシュリーを扱う、という論点が存在する。ロサンゼルスタイムス誌によるアシュリー治療の報道は、以下の一文から始まっている。「これはアシュリーの尊厳に関わる問題だ。この事例を調べている人の全てが、少なくともこの一点については同意しているようである」。より健康で発達の状況により適した身体を持っている方が彼女はより多くの尊厳を持つはずだ、とアシュリーの両親はブログに書いているが、批判者たちはアシュリー治療は彼女の尊厳を侵害していると考えている。

しかし、私たちはこの議論の前提を否定するべきである。父であり祖父である身として、三ヶ月の赤ん坊は可愛らしいと私は思う。だが、その赤ん坊に尊厳があるとは思わない。そして、その赤ん坊が大きくなって年を取ったとしても、精神の状態が同じレベルのままであるとすれば、赤ん坊の尊厳には何も変化がもたらされないのだ。

ここから、問題は哲学的に興味深くなる。人間に対しては…その精神年齢が幼児以上になることがない人も含めて…私たちはいつでも尊厳を見つけようとする。しかし、私たちはその尊厳を犬や猫には見つけようとしない。犬や猫は人間の幼児よりも発達した精神レベルを明らかに持っているのにも関わらずだ。犬猫と人間を比較するというだけでも、一部の場所では激怒を引き起こすことになる。 しかし、なぜ、尊厳があるかどうかは常に特定の生物種の一員であるかどうかということにだけ関わらなければならないのであり、個々の存在が持つ特徴には関わるべきではないのだろうか?

アシュリーの人生について重要なことは、彼女が苦しむべきでないということであり、彼女の能力で感じることが可能な楽しい経験は感じることができるようにされるべきであるということだ。また、アシュリーが大切で尊い理由は、彼女がどのような人間であるかということにはあまり関わりがなく、彼女の両親やきょうだいが彼女を愛してケアしていることにある。人間の尊厳についての高尚で高慢な語りは、アシュリーと同様の子供たちが彼らとその両親の両方にとって最大の利益となる治療を受けることを妨げるべきではないのだ。

 

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