マーク・ソーマ 「『怒りの葡萄』を教材に経済学を学ぶ?」(2011年12月8日)

●Mark Thoma, ““A Bluesy Road-Novel with a Lot of Economic Theory and Analysis””(Economist’s View, December 8, 2011)


スタインベックの『怒りの葡萄』を教材にしてミクロ経済学を教える。私にはそんなアイデアはこれまでに一度として考え付かなかったし、仮に思い付いたとしてもそれを実行する勇気は持てなかったことだろう。

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Microeconomics using “The Grapes of Wrath”” by INET:

ルーズベルト大学シカゴ校の理事であり経済学部の教授でもあるスティーブン・ジリアク(Stephen Ziliak)――彼は新経済思想研究所(INET)のカリキュラム委員会タスクフォースのメンバーの一人でもある――は自らが受け持つ入門ミクロ経済学の講義でスタインベックの『怒りの葡萄』(1939年発表)を教材に用いているという。講義のシラバスはこちら(pdf)である。

ジョン・スタインベック(John Steinbeck)の『怒りの葡萄』(The Grapes of Wrath)が出版されたのは1939年。アメリカを含めて世界中が歴史上最も過酷な経済危機に見舞われていた最中に執筆・出版されたことになる。大恐慌(Great Depression)の最中に執筆された『怒りの葡萄』は憂いを帯びたブルース調のロードノベル(旅小説)であると同時に、社会や経済に対する理論的な分析に満ち溢れた一冊でもある。この小説では家と土地を失ったオクラホマ州出身の貧しい小作農家――ジョード一家――の足取りが追われている。ジョード一家は銀行からの借金が返せなくなり、先祖代々何世代にもわたって耕し生活してきた土地から立ち退かざるを得なくなったのである。

大銀行と不在地主の手によって家を追われたジョード一家の面々。学もお金も無い中西部の農家一同は同じような境遇に置かれた大勢の人々の群れに混じってカリフォルニアを目指して旅に出る。職と食糧、そして家を手に入れるために。アメリカンドリームをその手につかむために。

ピューリッツァー賞を受賞した本書は長年にわたり検閲の対象とされ発禁処分の憂き目にもあうことになった。経済格差や農民たちの窮乏、貧民たちに加えられる抑圧を事細かに描き出した本書の記述をよく思わない勢力が政府や教育委員会の中にいたためである。

ジリアク教授が経済学の入門講義で『怒りの葡萄』を教材としてはじめて使ったのは1996年のことらしいが、『怒りの葡萄』を教材に経済学を教える過程で得られた体験についてジリアク教授本人に直接伺うことができた。

Q: ジリアク教授に質問です。貴殿が入門経済学を教える講義で『怒りの葡萄』を教材として使い始めたのは1996年に遡るという話ですが、なぜそうしようと決めたのでしょうか?

A: 私自身の話になりますが、研究を進める上では伝統的な新古典派経済学流の独白型といいますか一方的な角度からのアプローチは避けるように努めてきました。私は経済史家としての専門的な訓練を受けてきましたが、郡の社会福祉課で福祉やフードスタンプ関連の仕事を担当するケースワーカーとしても働いてきました。インディアナポリスに暮らす非常に貧しい人々の家を一軒一軒訪ねたものです。あとアマチュア詩人でもあります。1996年に経済学部の准教授に着任したのですが、その時に現実的で幅広い観点からの「会話」を可能にするような何かいい教材はないものかと探したのです。そのような教材を使うことはフェアでもあるように私には思えました。功利主義的な経済学を学生に教える従来の指導方法に私自身哲学的なレベルでの疑問を感じていたわけですから、そういう従来の指導方法を学生に押し付けるのは正しくないと思われたのです。それに加えて、私が受け持った学生の多くは労働者階級の出身でしたが、不況というものを体験したことがありませんでした。そんな彼らに経済成長やバブルは永遠に続くわけではないということを知ってもらいたかったのです。

Q: なぜ『怒りの葡萄』を選ばれたのでしょうか? なぜ他の小説じゃなかったのでしょうか?

A: いい質問ですね。まず何よりも『怒りの葡萄』は大変感動的な物語だということが挙げられます。別に隠し立てする必要もないでしょうが、『怒りの葡萄』を読むたびに今でも笑いますし泣きもします。笑いや涙は優れた教育には必要ないというのが現在の風潮です。しかし、(経済史に関する)事実に裏付けられた物語に大の大人であり経済学部の教授でもある人間を泣かせるだけの力が備わっているとすれば、そこには何かしら重要な主張が含まれているに違いありません。(市場の「見えざる手」だけではなく)階級闘争の「見える手」にも目を向ける必要があります。『怒りの葡萄』ではまさにその問題が取り上げられています。

Q: 「事実に裏付けられた」物語と仰いましたが、どういう意味でしょうか? 『怒りの葡萄』は小説です。フィクションですよね?

A: その通りです。しかし、歴史小説です。ユーゴーゾラといった先人と同様に、スタインベックは実体験や体感された事実を描き出すことに意を用いました。もちろん誇張もありますし、事実が漏れなく語られているわけでもありません。その点については経済史家や文学研究者の間で広く知られているところです。しかしながら、スタインベックは『怒りの葡萄』の中でジョード一家が生活したカリフォルニアの(日雇い労働者が集う)貧民キャンプと瓜二つのキャンプに実際に潜り込み、そこで1年以上かけて実地調査を行っています。

Q: 学生たちの反応はどうでしょうか? 『怒りの葡萄』を教材に経済学を教える過程で得られた洞察をいくつかお教え願えないでしょうか?

A: 学生たちの反応は上々ですね。少なくとも最終的にはそうですね。最初のうちは身構える学生もいます。「物語(ストーリー)は小説家のためのもの、理論(セオリー)は科学者のためのもの」という見方に慣らされてしまっているためでしょう。学習に関する「銀行型アプローチ」 [1] 訳注;この点についてはパウロ・フレイレによる「銀行型教育」論も参照されたい。――学生は教師に教えられた事実や数式をオウム返しすればよい――にどっぷりと浸かっているために、教師と学生が双方向に対話する様子や多様な意見や解釈を目の前にして慄いてしまう学生もいます。しかしながら、「この講義を受けて人生観が変わりました」と多くの学生が言ってくれます。

Q: 未来の「クオンツ」たちはどんな具合でしょうか? そういう学生も最後まであきらめずに講義についてこれていますか?

A: 先ほども申し上げましたが、皆が皆ついてこれているわけではありません。しかしながら、全般的な傾向として言うと「イエス」(ついてこれている)ときっぱり言えると思います。一例としてルーズベルト大学で私が教えた男子学生を挙げますと、彼はプエルトリコ出身でヴァイオリンの奨学制度を利用してルーズベルト大学に入学してきました。彼はプロのヴァイオリニストになるためにルーズベルト大学の音楽院にやってきたのですが、それと同時に応用数学も勉強したいという情熱の持ち主でもありました。彼はちょっとした気分転換のつもりで私の入門ミクロ経済学の講義を受講しました。『怒りの葡萄』を教材に使っている講義ですね。学期が半分過ぎたあたりだったでしょうか、彼にこう言われたのです。「教授、私の身に何か変化が起きつつあるようです」、と。『怒りの葡萄』の主人公であるトム・ジョードの変貌、つまりはジョードが利己的な前科者から貧しい労働者たちの先頭に立つ慈悲深いリーダーへと変貌していく過程に魅了されたようです。彼から「ヴァイオリンや数学はやめにして経済学に専攻替えしようかと本気で考えています」と言われました。私は 「それはやめておいたほうがいい」と伝えました。「どうしても専攻替えするつもりだとしても数学の勉強をやめる必要はない。数学と経済学は同時に学べるから」とも伝えました。大学3年生に進級した頃の彼はシカゴ連銀での職も手に入れ、大学を卒業する頃にはシカゴ連銀の研究員の地位に昇進しました。彼は今デューク大学の大学院で経済学と統計学を学んでいますが、「効用最大化オンリー」学派の誘惑にたぶらかされずに済んでいます。

Q:『怒りの葡萄』を補足するために他の小説やメディアを利用したりしていますか?

A: ええ。例えば、ウディ・ガスリー(Woody Guthrie)ブルース・スプリングスティーン(Bruce Springsteen)、そしてレイジ・アゲインスト・ザ・マシーン(Rage Against the Machine)の音楽を流しています。彼らはトム・ジョードに捧げる曲を歌っています [2]訳注;「The Ballad of Tom Joad」 by ウディ・ガスリー/「Ghost of Tom Joad」 by … Continue readingが、彼らの音楽が流れる日の講義はいつにも増して楽しいですね。スプリングスティーンは『怒りの葡萄』の中心テーマに向き合ったアルバムを発表していますね [3]訳注;この点については次の記事も参照されたい。 ●石浦 由高、“ブルース・スプリングスティーンが探し求めたトム・ジョードの亡霊”(TAP the … Continue reading

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上の引用記事でも言及されている講義のシラバスの一部を以下に抜き出しておこう。

1776年は天才の手になる偉業が3つも同時にこの世に産み落とされた年である。一つ目の偉業は『独立宣言』であり、二つ目の偉業はエドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』である。多くの学生にとってはこの二つの偉業に関する紹介はほとんどあるいは一切必要ないだろう。しかしながら、三つ目の偉業はそうではない。かといって知名度が低いというわけではなく、3つの偉業の中でも最も重要で最も影響力があるのは三つ目の偉業だという声もあるくらいだ。三つ目の偉業を物したのはスコットランドで道徳哲学の研究に従事した地味な教授であり、多彩な知識が詰め込まれた膨大なその書には『国富論』というタイトルが付けられている。アダム・スミスの『国富論』は自由な商業社会を知的な面から正当化する役割を果たすことになり、「経済学」という学問分野に新たな命を吹き込むことにもなったのであった。今でもその影響力は健在であり、世界中の経済学者や国家首脳、財務大臣たちの前に立ちはだかり、彼らの価値観の形成に一役買っているのである。

スミスの『国富論』は経済問題をめぐる「会話」において中心的な位置を占めることは確かだが、この一冊の中に経済に関する真実の精髄が余すところなく盛り込まれているわけではない。「アダム・スミスやカール・マルクス、ジョン・メイナード・ケインズ、ジョーン・ロビンソン、ミルトン・フリードマンといった偉大な経済学者たちは重商主義やロマン主義にどう立ち向かい、共産主義やファシズムの浮き沈みにどう反応したか?」 この講義の目的はそれぞれ独自のビジョンを持った経済学者たちの間で交わされる「会話」の内容を学ぶことにあると考えてもらってもあながち間違いではない。

しかしながら、この講義では視野を限定して「ミクロ経済学的な発想法」への入門を果たすことに主眼が置かれる。この講義では学生に新たな「文法」を紹介する。「稀少性」や「競争」、「相対価格」、「機会費用」、「需要と供給」、「効率性」、「均衡」といった「経済学の文法」を紹介するのがこの講義の目的である。学生たちが知識ある有権者となるだけではなくウォール・ストリート・ジャーナル紙の洗練された読者となるための手助けをすることがこの講義の最低限の狙いである。この講義に出席すれば生涯学習の種が植え付けられることになるだろう。

ミクロ経済学はウォール・ストリート・ジャーナル紙や(アイン・ランドの小説である)『Atlas Shrugged』(「肩をすくめるアトラス」)を読むだけでは学べない。グリーン・デイやレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの音楽を聴くだけでもやはり学べない。今挙げた例は経済学への関心を呼び覚ます手助けにはなるだろうが、経済学を身に付ける手助けにはならない。経済学を「語る」術を身に付ける(「経済学の文法」を喋れるようになる)ためには、宿題を解き、(テキストを含む)本を読み、講義に出席しなければならない。

経済問題をめぐる「会話」は数多くの異なるテクストや多様な体験――小説や音楽、その他のメディア――によっても形作られている。それゆえ、経済学者は経済問題をめぐる「会話」に参加している学問的な背景の異なる人々――例えば、人文学を学問的な背景とする人々――と語らう術を身に付けることも大事である。その一方で、人文学を背景に持つ人々も経済学者に言葉巧みに騙されないためには経済理論や経済上の出来事について知的に語る術を身に付けることが大事である。その手助けをするためにも(目的は他にもあるが)この講義ではアメリカ文学史上で最も有名な抗議小説であるジョン・スタインベックの『怒りの葡萄』を一緒に読むとともに、それに分析のメスを加えることにする。大恐慌の最中に執筆された『怒りの葡萄』は憂いを帯びたブルース調のロードノベル(旅小説)であると同時に、社会や経済に対する理論的な分析に満ち溢れた一冊でもある。この小説では家と土地を失ったオクラホマ州出身の貧しい小作農家の足取りが追われている。学もお金も無い中西部の農家一家は(借金を返せなかったために)余所者の大銀行の手によって長年住み慣れた掘っ立て小屋と差し掛け小屋から追い出され、同じような境遇に置かれた大勢の人々の群れに混じってカリフォルニアを目指して旅に出る。職と食糧、そして家を手に入れるために。アメリカンドリームをその手につかむために。

この講義では経済問題と深い関わりのある『怒りの葡萄』を経済理論と経済史上の事実のレンズの助けを借りながら読み解いていく。それと同時に、『怒りの葡萄』の中に潜んでいる概念や洞察を拠り所にして経済理論や経済史上の事実を批判的に検証する作業も行う。シラバスの最後に過去の講義で課題として出された宿題の例をいくつか掲載しているが、それを見てもらえればスタインベックが大恐慌時代に物した小説が「需要と供給」という「経済学の文法」と結び付けて読み解かれている様がわかってもらえることだろう。

この講義では『怒りの葡萄』の他にもティム・ハーフォード(Tim Harford)の定評のある一冊である『The Undercover Economist』(邦訳『まっとうな経済学』)も折に触れて輪読していく。この本では「ミクロ経済学的な発想法」を現実の世界に応用した有益な例が豊富に紹介されている。人間の行動を分析する際に価格やインセンティブと絡めて考えることに慣れていない学生に特に言えることだが、ハーフォードの本は「ミクロ経済学的な発想法」を身に付ける上で大いなる助けとなることだろう。

【指定テキスト】デビッド・コランダー(著)『ミクロ経済学』(第7版;未邦訳)/ ジョン・スタインベック(著)『怒りの葡萄』/ ティム・ハーフォード(著) 『まっとうな経済学』

References

References
1 訳注;この点についてはパウロ・フレイレによる「銀行型教育」論も参照されたい。
2 訳注;「The Ballad of Tom Joad」 by ウディ・ガスリー/「Ghost of Tom Joad」 by レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン。スプリングスティーンについては訳注3を参照。
3 訳注;この点については次の記事も参照されたい。 ●石浦 由高、“ブルース・スプリングスティーンが探し求めたトム・ジョードの亡霊”(TAP the POP, 2015年4月23日)
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