ラルス・クリステンセン 「政策協調、ゲーム理論、サムナー批判」(2012年8月25日)

●Lars Christensen, “Policy coordination, game theory and the Sumner Critique”(The Market Monetarist, August 25, 2012)


今回紹介するのは、アラン・ブラインダー(Alan Blinder)が1982年に執筆した論文(pdf)だ。タイトルは、「金融政策と財政政策のコーディネーションにまつわる論点整理」(“Issues in the Coordination of Monetary and Fiscal Policy”)となっているが、論文の中では次のようなたとえ話が持ち出されている。

ここで、自動車教習所の車をどう設計したらよいかという問題について考えてみることにしよう。教習車には、運転席と助手席のどちら側にもハンドルとブレーキが備え付けられている。教習生と指導員との間で「コーディネーション」を実現する方法の一つとして、(指導員が座る)助手席側の運転装置(ハンドルとブレーキ)の操作が、(教習生が座る)運転席側の運転装置の操作よりも常に優先される [1] … Continue readingようにするというのが考えられる。この例に関しては、このようにしてコーディネーションを図るのが正しいやり方だと言っていいように思える。

既にお気付きかもしれないが、この例での教習生は財政政策のアナロジーであり、指導員は金融政策のアナロジーである。教習生(財政政策)がハンドルを操作して車(経済)をある方向に向けて進めようとしても、指導員(金融政策)はいつでも教習生(財政政策)の運転に割って入って車(経済)の向きを自らの望む方向に修正することができるというわけだ。これはまさに、サムナー批判そのものだ。すなわち、金融政策は、総需要や名目GDPの水準を左右する最終的な権限を握っていて、中央銀行が名目GDP目標やインフレ目標の達成に向けて金融政策を運営する限りは、財政乗数の値はゼロになる [2] … Continue readingというわけだ――この結論は、経済が(名目価格の粘着性をはじめとした)ケインジアン的な特徴を有していても、依然として成り立つ――。

金融政策には、総需要や名目GDPの水準を左右する最終的な権限が備わっているわけだが、だからといってその権限が正しく行使されるとは限らない。再びブラインダーの言葉を引用しよう。

教習生と指導員がそれぞれどちらの席に座るかが前もってわからないようであれば、どうだろうか? あるいは、指導員は、教習生よりも運転スキルが優れているものの、視力がかなり悪いとしたら、どうだろうか? そのような状況においては、どちらか一方の席の操作が他方の席の操作よりも常に優先されるように車を設計してよいものかどうか、はっきりとしたことは言えなくなる。(どちらか一方の操作が常に優先され、そちらを操作する側が大きなミスを犯したために)どこかに激しく衝突してしまうよりは、(どちらの席も常に操作できるように設計し、2人の操作が正反対の方向を向く [3] 訳注;一方は右にハンドルを切り、もう一方は左にハンドルを切る。あるいは、一方はアクセルを踏み、もう一方はブレーキを踏む。 ことで)こう着状態に陥る方がまだマシかもしれないと考えると、どちらの席も常に操作できるように車を設計するのがベストだと言えるかもしれない。そうしておけば、2人の操作が正反対の方向を向いて互いの操作が打ち消し合うかたちになっても、その打ち消しはあくまでも部分的なものにとどまることになる。

こう語ることで、ブラインダーは次のような興味深い疑問を投げ掛けているわけだ。もしも中央銀行が金融政策を不適切なかたちで運営する可能性があるとしたら、財政政策にも出番の余地を残しておくのがよいのではないか?、と。ブラインダーの言う通り、中央銀行が常にきちんとその仕事を果たすという保証は無い。中央銀行が任務をちゃんと果たしてさえいれば、そもそも現在のような危機的な状況には陥っていないことだろう。しかしながら、財政当局が中央銀行に代わって総需要や名目GDPの水準を左右する最終的な権限を手にすることができるかというと、その答えは残念ながら「ノー」だろう。総需要に対する影響という点に関しては、どれほど愚劣な中央銀行であっても、財政当局の決定を覆せるだけの力を備えているのだ。このことは、ECB(欧州中央銀行)が連日のようにまざまざと見せつけているところだ。

細かいことはさておき、ブラインダーの論文に読者の目を向けさせることができただけでも、今回のエントリーの目的は果たされたことになる。ブラインダーの論文では、金融政策と財政政策のコーディネーション(あるいは、相互作用)の問題がゲーム理論を使って分析されている。ブラインダーは、政府の行動(財政政策)に対して私よりもずっと大きな信頼を置いていて、この点で意見が食い違うのは確かだが、この論文でブラインダーがまさに試みているように、中央銀行と政府が時に反目し時に協力し合う姿をゲーム理論を使って分析するというのは、非常に興味深いアプローチだと思われる。ブラインダーの論文は、ユーロ圏内の各国政府とECBとの間で目下進行中のゲーム――金融緩和 vs. 財政再建――を理解する上でも非常に多くの示唆をもたらすのではないかと思われるのだ。

ブラインダーの論文と同様の問題意識に立って書かれた論文としては、ウィリアム・ノードハウス(William Nordhaus)が1994年に執筆したこちら(pdf)の論文(“Policy Games: Coordination and Independence in Monetary and Fiscal Policies”)がある。ノードハウスの論文も、ブラインダーの論文と同様に、現下の政策論議に深い関わりを持つものだと言えるだろう。

金融政策と財政政策のコーディネーション(あるいは、相互作用)の問題をゲーム理論の観点から考察するアプローチは、ここのところ影を潜めているようだ。しかし、そのようなアプローチは、今こそ求められているように思われてならない。この方面での新たな研究成果を知っている読者がいたら、その旨をお知らせいただけたら幸いだ。

(追記) どうやら、まだ火は消えていないようだ。ヘルトン・ドス・サントス(Helton Saulo B. Dos Santos)の2010年の博士論文(pdf)で、金融政策と財政政策のコーディネーション(あるいは、相互作用)の問題がゲーム理論の観点から分析されている。まだちゃんと読んでいないが、非常に面白そうだ。

(追々記) ニック・ロウ(Nick Rowe)がコメント欄で教えてくれたのだが、彼もこの話題で過去に論文を書いているとのことだ。サイモン・パワー(Simon Power)と二人で執筆した1998年の論文(pdf)がそれとのこと。この論文の概要については、ロウ本人がブログで紹介している。興味深いことに、ロウは、私と同様の結論に達している。ロウらの論文によると、シュタッケルベルグ・ゲームが繰り広げられる場合――とりわけ、まず先に政府が財政赤字の規模を決め、その後に中央銀行が金融政策の運営方針を決めるケース――においては、サムナー批判と同様の結論が導かれるというのだ。サムナー批判が成り立つのは、経済の構造に関してマネタリスト的な想定を置いた――言い替えると、LM曲線が垂直であると想定した――結果としてではなく、シュタッケルベルグゲームという設定ゆえであるという点は注目に値するだろう。

References

References
1 訳注;指導員が(助手席側の)ハンドル(やブレーキ)を操作すると、教習生が操作する(運転席側の)ハンドル(やブレーキ)の機能が完全に停止する。
2 訳注;「中央銀行が名目GDP目標やインフレ目標の達成に向けて金融政策を運営する限りは、財政乗数の値はゼロになる」というのは、次のようなことを意味している。中央銀行に2%のインフレ率の達成が目標として課せられており、実際のインフレ率も2%であったとしよう。このような状況で政府が政府支出の拡大や減税に乗り出すと、総需要の拡大に伴ってインフレ率に上昇圧力がかかり、場合によってはインフレ目標の達成が危ぶまれる(インフレ率が2%を上回る)可能性が出てくる。そこで、中央銀行が金融政策を引き締め、その結果として、インフレ率が2%にとどまった場合、財政政策の効果が金融政策によって完全に打ち消されたということになる。言い換えると、中央銀行がインフレ目標の達成に向けて金融政策を運営する結果として、財政乗数の値はゼロになるというわけである。
3 訳注;一方は右にハンドルを切り、もう一方は左にハンドルを切る。あるいは、一方はアクセルを踏み、もう一方はブレーキを踏む。
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