ベン・バーナンキ「金融パニックの一例としての2008年危機」

Ben S. Bernanke “The Crisis as a Classic Financial Panic“(November 8, 2013) At the Fourteenth Jacques Polak Annual Research Conference, Washington, D.C.


スタンリー・フィッシャーを讃えるこの会議に参加することができ、大変嬉しく思っています。スタンは私の大学院時代の先生で、そうした経緯からこれまで頻繁に助言をもらっていますし、私にとっての目標であり続けています。彼は金融危機の専門家であり、その分野について多くのものを書いていますし、さらに特筆すべきこととして、1990年代の新興市場危機の際にはIMF事務次長として最前線に立っていました。彼は1980年代のイスラエルのハイパーインフレーションに対する闘いにおいても一助となりましたし、近年の金融危機にあたっては、同国の中央銀行総裁としてその影響を緩和するために巧みに金融政策を駆使しました。その後のイスラエルの住宅価格上昇に際して、彼は金融安定性を維持するためのマクロ・プルーデンス政策の擁護者かつ実施者の先駆けとなりました。

スタンはいつも、歴史的観点を持つように学生に助言をしていました。これは一般的な意味においても良い助言でありましたが、非常に長い期間続くような金融危機を理解するのにとりわけ有益でした。実際、これは他のところでもお話しさせて頂いたことですが、近年の世界金融危機は21世紀の金融システムという新たな制度的背景のもとで起こった古典的な金融危機と理解するのが一番良いと私は考えています。 [1]原注1;4月13日にニューヨークで開かれたラッセル・セイジ基金及びセンチュリー基金主催の会議 “Rethinking Finance” … Continue reading 近年の危機と歴史上の出来事の間の共通点に関する理解は、今回の金融危機へ対処するにあたって私や世界中の私の同業者たちに大きな影響を与えました。

今年は近年の危機が最も深刻であった局面から5周年であるだけでなく、連邦準備制度設立の100周年でもあります。 [2]原注2;連邦準備制度の100周年に関する情報は以下ののサイトで入手できる。www.federalreserve.gov/aboutthefed/centennial/about.htm したがいまして、連邦準備制度自身が深刻な金融危機、1907年のパニックに対処するために創設されたことを思い出してみるのには、とりわけ良い機会でしょう。このパニックがきっかけとなって国家貨幣会議(the National Monetary Commission)が創設されることとなりましたが、同会議による1911年の報告書は連銀法への大きな後押しとなり、1913年12月23日にウッドロウ・ウィルソン大統領の署名によって同法が成立しました。1907年のパニックは多くの点で標準的な金融危機の典型と呼ぶにふさわしいため、近年の危機との類似点と相違点を議論する価値があります。 [3]原注3;1907年のパニックについては、O.M.W. Sprague (1910), A History of Crises under the National Banking System (PDF), National Monetary Commission (Washington: U.S. Government … Continue reading

他の多くの金融パニックと同様に、ここには一番最近のそれも含みますが、1907年のパニックは経済が弱まっている最中に起こりました。すなわち、全米経済研究所によれば、1907年5月に景気後退が始まりました。 [4]原注4;Charles W. Calomiris and Gary Gorton (1991), “The Origins of Banking Panics: Models, Facts, and Bank Regulation,” in R. Glenn Hubbard, ed., Financial Markets and Financial … Continue reading また、FED設立以前のパニックの特徴として、パニックが巻き起こった10月の貨幣市場は、農作物の収穫と出荷と関連した大きい季節的な信用需要を反映して逼迫していました。パニックの直接の引き金は、ある投機家グループによるユナイテッド・カッパー社の株式買占めの失敗です。この失敗の首謀者たち、F.アウグストゥス・ハインツとC.F.モースは、いくつものニューヨークの大金融機関と広範囲につながっていました。投機失敗のニュースが報道された際、そうした会社の健全性に対する預金者たちの不安によって、一連の取り付け騒ぎが起きたのです。その中には、ハインツ自身が頭取であった銀行もありました。信頼を回復するために、民間借款団であるニューヨーク資金決済機構(the New York Clearinghouse)は、騒ぎの起こっている銀行の帳簿を精査して支払能力があると宣言するとともに、ハインツを始めとする経営陣の退陣等を条件とした支援策を打ち出しました。これらの取り組みによって、ニューヨークの銀行に対する取り付けを静めることに大部分成功したのです。

しかし銀行は安定しましたが、それでもいわゆる信用会社と呼ばれるもの、連邦法銀行や州法銀行よりも規制が緩く、資金決済機構にも加盟していなかったこうした金融機関の多くにおいては、その健全性に対する懸念が増大したのです。信用会社に対する取り付けが悪化するに際して、これらの会社では引き出しに応じるための現金が必要となりました。中央銀行が存在しない中、J.P.モルガンのリーダーシップのもとにニューヨークの主要な金融家たちが流動性を供給しようと考えました。しかしながら、モルガンたちは渦中の金融機関の支払い能力を算定するための十分な情報を自分たちが持っていないと判断し、貸出を諦めてしまったのです。取り付けによって、ニッカーボッカー信用会社が10月22日に倒産し、その他の信用会社に対する一般の信頼は悪化しました。

預金者の現金需要に応じるため、信用会社は株式を購入するための借入を含む資産の売却・流動化を始めました。こうした株式やその他の資産の極端な売却、今日私たちが呼ぶところの投げ売り(fire sale)は、株式市場の急落や、その他の金融市場における広範な崩壊を引き起こしました。そして懸念を強めたモルガンを始めとする金融家たち(その中には将来のニューヨーク連銀総裁であるベンジャミン・ストロングもいました)によって、資金決済機構による流動性の供給や、国内にあるコルレス銀行によるものも含む預金者による引き出しの一時的な制限を始めとした共同対応が行われることとなりました。こうした試みによって、最終的にパニックは沈静化します。しかしそこに至るまでにアメリカの金融システムの崩壊は深刻なものとなり、経済は1908年中盤まで収縮することになったのです。

近年の危機は多くの面で1907年のパニックと類似しています。ほとんどの危機がそうであるように、近年のそれは特定の出来事が引き金となりました。すなわち今回においては、サブプライム住宅ローンに代表される特定の貸出しが、その引き受けと情報公開について深刻な欠陥を抱えていることに市場関係者が段々と気が付き始めたことがきっかけとなったのです。経済が減速するとともに住宅価格が下落し、最も大きく国際活動も活発な企業の多くを含む様々な金融機関が貸出の焦げ付きに見舞われましたが、その被害が甚大であることは明らかであるものの、外部から評価することは困難でした。損失の規模と発生率に関する不確実性の蔓延によって、多くの金融機関が短期融資の急激な引き上げに見舞われました。こうした資金圧力は投げ売りを招き、それが資産価格の急落とさらなる損失につながったのです。過去一世紀の間の制度的変化は、引き上げられる資金の種類に表れていました。預金保険のなかった1907年では個人預金で取り付けが起きる傾向がかなり強かったのですが、2008年においてはほとんどの引き出しは、コマーシャル・ペーパーや現先契約、証券貸し付けといった無保証のホールセール・ファンディングへと向かいました。興味深いことに、ホールセール・ファインディングの一形態である銀行間貸し付けの急落は、双方のケースにおいて重大でした。もう一つ興味深いことには、1907年のパニックは、比較的規制の緩い金融機関である信用会社に対して起きましたが、そうした規制の緩さがおそらくは危機に先立つ数年間における彼らの急成長の一因と思われます。それと似たように、近年の危機においては、パニックの大部分は従来の銀行規制の外側、シャドー・バンキング・セクターと呼ばれるところで起きたのです。 [5]原注5;Bernanke “Some Reflections on the … Continue reading

パニックへの対応についても、1907年と2008年を比較するのは有益です。両者ともに、初期における流動性の供給が非常に重要でした。1907年のアメリカには中央銀行がありませんでしたので、流動性の供給能力は企業やモルガンのような民間の個人に依っていました。近年の危機においては、連邦準備制度が流動性を供給する役割を果たしましたが、これはウォルター・バジョットの古典的な処方箋とも整合的です。 [6]原注6;原注1にあるBagehot, Lombard Streetを参照。 FEDはホールセール・ファンディング市場のパニックを静めることを目的として、投資銀行やマネー・マーケット・ファンドなどの非銀行機関や、コマーシャル・ペーパーや資産担保証券などの重要な金融市場を支援するために、その最後の貸し手としての機能を銀行以外へも広げたのです。

双方の出来事において、しかしながら流動性の供給は最初の一歩に過ぎませんでした。完全な安定化のためには人々からの信頼の回復が必要なのです。信頼回復のための三つの道具とはすなわち、一時的な公的ないし民間保証、金融機関のバランスシートを強化するための方策、そして金融機関の状態の一般への開示です。少なくともある程度まで、1907年のモルガンとニューヨーク資金決済機構は、問題を抱えた企業を支援し、個々の銀行の状態について人々に対し保証を行うことでこれらの道具を用いました。近年の危機においてこの三つの道具は大々的に用いられました。アメリカにおいては、連邦預金保険公社(FDIC;Federal Deposit Insurance Corporation)による銀行債務の保証、財務省によるマネー・マーケット・ファンドの保証、より健全な企業による相対的に弱い企業の買収を通じた民間保証を始めとする保証が行われました。公的あるいは民間資本の注入によって銀行のバランスシートは強化されました。そして最後に、2009年にFEDが主導した銀行のストレステストや、その結果の公表がアメリカの銀行システムに対する信頼回復につながりました。こうした方法の総合によって、金融危機の重大な局面に終止符を打つことができましたが、それでも5年が経過した今なお経済的な影響は残っています。

危機が鎮火すると、人々の注意はどのようにシステムの安全性を高めるかということに向かいました。ここにおいて、その背景と対応に関して1907年と近年の危機の間には違いが見て取れます。先ほどお話しさせて頂いたように、1907年の危機の後に連邦準備制度が設立され、パニックの防止と「伸縮的な通貨」の供給による利子率の季節変動の平準化をその任務としました。それとは対照的に、2008年以降の改革は、危機によって明らかとなった重大な法規制格差が焦点となっています。とりわけ、シャドーバンキングシステムの監視については、FEDによる監督を強化することを目的とする、新設された金融安定監視評議会(Financial Stability Oversight Council)によるシステム上重要なノンバンク金融機関(SIFIs;nonbank systemically important financial institutions)の指定によって強化されましたし、マネー・マーケット・ファンドやトライパーティー・レポの市場改革を含む、ホールセール・ファンディングの潜在的な不安定性に対処するための取り組みが進行中です。 [7]原注7;規制枠組みの近年の変化に関するより包括な議論については、Daniel K. Tarullo (2013), ” Evaluating Progress in Regulatory Reforms to Promote Financial … Continue reading

金融システムをより安全なものにするにあたっては、モラル・ハザードの問題と向き合うことは避けられません。短期のパニックを安定化させようとする中央銀行やその他当局の行動は、長期の安定性を損なう方向に働きうるものであり、それはそうした行動によって企業が、過剰なリスクを取ったとしても自分がその全ての結果を負うことはないと推測する場合に起こります。1990年代後半の世界的な危機の後にスタン・フィッシャーが述べたように、モラル・ハザードに完全な解決策はありませんが、それを順次抑止する方法はあります。 [8]原注8;Stanley Fischer (1999), “On the Need for an International Lender of Last Resort,Journal of Economic Perspectives, vol. 13 (Fall), pp. 85-104を参照。 まず、資本や流動性基準の引上げや、特定の活動に対する制限のような規制・監督の改革によって、リスクの引き受けを直接的に制限することが出来ます。次に、アメとムチを適切に使うことで、規制当局はリスク引き受けの監視について民間部門を参加させることが可能です。例えば、FEDの包括的資本分析及びレビュー(CCAR;Comprehensive Capital Analysis and Review)、これは2009年の銀行ストレステストの後継ですが、これにより大規模金融機関が極度のショックを耐えきるために十分な資本を保有することだけでなく、内部のリスク管理システムが効果的であると証明することも求められています。 [9]原注9:例えば、連邦準備制度理事会 (2013), Capital Planning at Large Bank Holding Companies: Supervisory Expectations and Range of Current Practice (PDF) (Washington: Board of … Continue reading さらに、CCARのストレステスト部分の結果は公表され、銀行の金融的な健全性を評価するために必要となる情報を投資家やアナリストに提供しています。

もちろん、債務や株式の保有者が、難事の際に自分たちはそのコストを負担するだろうと信じる場合に限り、市場の規律はモラル・ハザードを制限することが出来ます。昨今の危機においては、破たんの淵にあるSIFIに対処するための適切な解決手続きが存在しなかったため、政策決定者には財政援助による救済か、不安定化に繋がりかねない破産という選択肢しか残されていませんでした。ドッド・フランク法は、その第二章の整然清算機関 (Orderly Liquidation Authority)において、モラル・ハザードを避けるために破たん機関の債権者にコストを負担させる必要性と、金融安定性を保護する必要性の両者を考慮に入れた、SIFIのための代替的な解決機関を創設しました。連邦預金保険公社はFEDの協力のもとに、この機関を具体化するために奔走しています。 [10]原注10;より詳細な議論については、ワシントンで10月18日に行われたFRB主催の会議”Planning for the Orderly Resolution of a Global Systemically Important … Continue reading システム上重要な企業のための信頼性ある解決機関は、不確実性を減らし、市場の規律を強化し、そしてモラル・ハザードを減らすために重要なものとなるでしょう。

金融危機の可能性をぐっと引き下げ、それが起こった場合のコストをずっと小さくするために私たちは取り組み続けています。あらゆる金融危機には、個々の歴史的経緯と制度背景に依存したそれぞれの特徴があるという現実から、この取り組みは複雑なものです。しかし、スタン・フィッシャーが彼の優れた能力を駆使してそのキャリアを通じて取り組んできたように、個々の危機の特異な側面を取り除くことで、共通する要素を明らかにすることが望めます。1907年には資産担保証券など誰も聞いたことありませんでしたし、銀行システムを救済するために必要な資金を民間人一人が振るうことも可能でしたが、それでも根本的なところでは1907年のパニックと2008年のパニックは、本日お話しさせて頂いた通り同じ現象の事例なのです。政策決定者の課題は、危機に共通する要因を特定・抽出し、ひいては可能であればそれを抑止し、それが出来ない場合においては効果的な対応を行うということなのです。


(訳注;このスピーチに対してスコット・サムナーがエントリを書いている。以下はその訳。なお、引用部は上記スピーチ訳から)
Scott Sumner “Bernanke on the 1907 crisis“(November 9, 2013 TheMoneyIllusion)

マルカス・ニューンズがバーナンキのとても面白いスピーチを送ってくれた。1907年の銀行危機に関するものだ。

しかし銀行は安定しましたが、それでもいわゆる信用会社と呼ばれるもの、連邦法銀行や州法銀行よりも規制が緩く、資金決済機構にも加盟していなかったこうした金融機関の多くにおいては、その健全性に対する懸念が増大したのです。信用会社に対する取り付けが悪化するに際して、これらの会社では引き出しに応じるための現金が必要となりました。中央銀行が存在しない中、J.P.モルガンのリーダーシップのもとにニューヨークの主要な金融家たちが流動性を供給しようと考えました。しかしながら、モルガンたちは渦中の金融機関の支払い能力を算定するための十分な情報を自分たちが持っていないと判断し、貸出を諦めてしまったのです。取り付けによって、ニッカーボッカー信用会社が10月22日に倒産し、その他の信用会社に対する一般の信頼は悪化しました。

預金者の現金需要に応じるため、信用会社は株式を購入するための借入を含む資産の売却・流動化を始めました。こうした株式やその他の資産の極端な売却、今日私たちが呼ぶところの投げ売り(fire sale)は、株式市場の急落や、その他の金融市場における広範な崩壊を引き起こしました。そして懸念を強めたモルガンを始めとする金融家たち(その中には将来のニューヨーク連銀総裁であるベンジャミン・ストロングもいました)によって、資金決済機構による流動性の供給や、国内にあるコルレス銀行によるものも含む預金者による引き出しの一時的な制限を始めとした共同対応が行われることとなりました。こうした試みによって、最終的にパニックは沈静化します。しかしそこに至るまでにアメリカの金融システムの崩壊は深刻なものとなり、経済は1908年中盤まで収縮することになったのです。

近年の危機は多くの面で1907年のパニックと類似しています。

バーナンキは正しい。二つの危機は似ている。バーナンキは1907年以降に起こった政策の進展についても語っている。預金の取り付けを防いだFDIC(訳注;連邦預金保険公社)や、膨大な量のベースマネーを供給したFEDなんかがそれだ。そうしたことが2007年4月から2009年2月にかけて実質GDPが4%少しという、僅かな減少しか見せなかった理由の部分的になるのかもしれない。1907年2月から1908年1月にかけては12%も落ちたというのにだ(ゴードンとバルクによる数字)。しかし1907年の危機は回復もとても速かった(これは金融危機の後の回復が必ずしも遅いわけではないということを示している)。1909年4月までに実質GDPは1908年の底と比べて19%近くも伸びた。

1907年危機からの回復はなぜそんなにも速かったんだろうか。直接的原因は明らかだ。1908年から1909年にかけての金融政策は、2009年から2013年の間のそれと比べてはるかに拡張的だったからだ。1908年1月から1909年4月にかけて名目GDPは28%近くも跳ね上がった。

1908年から1909年にかけての急速な回復を説明するのには、金本位制が役に立つと思う。国際的な金本位制は、非常に粗い「水準目標」レジームの一種だ。この制度は、金の実質価値に対する国際的なショックがあった際には、金の供給もしくは需要が変化するため、必ずしもうまくはいかない。価格水準はランダム・ウォーク的な動きをする傾向にある。1907年危機の後にも、かなり長い期間のデフレは起こりえた。1870年代や1890年代、そして1930年代のように。しかし国際金市場が比較的安定的であったために、価格と産出は本来のトレンドラインへと戻り、価格と産出を強力に押し下げた急激な国内ショックはすぐに反転したのだと思われる。それと対照的に、FEDは2009年に本来のトレンドラインへと戻る代わりに、より低い新たなトレンドラインを作る決断を下した。これが名目GDP成長が遅い理由であり、さらには実質GDPの回復が遅い理由でもある。

不換紙幣が金本位制よりも優れているという考えを変えてはいないが、不換紙幣制度下の政策決定者は国際金本位制の循環的性質を研究することで学べることがあっただろうというのも確かだ。

[マルカス・ニューンズのエントリでは、両者のエピソードをいくつかのグラフとともに比較している。]

References

References
1 原注1;4月13日にニューヨークで開かれたラッセル・セイジ基金及びセンチュリー基金主催の会議 “Rethinking Finance” において行ったスピーチ、Ben S. Bernanke (2012) “Some Reflections on the Crisis and the Policy Response“を参照。金融パニックと中央銀行による適切な対応に関する古典的な議論については、Walter Bagehot ([1873] 1897), Lombard Street: A Description of the Money Market (New York: Charles Scribner’s Sons)を参照。
2 原注2;連邦準備制度の100周年に関する情報は以下ののサイトで入手できる。www.federalreserve.gov/aboutthefed/centennial/about.htm
3 原注3;1907年のパニックについては、O.M.W. Sprague (1910), A History of Crises under the National Banking System (PDF), National Monetary Commission (Washington: U.S. Government Printing Office)を始めとする多くの文献があり、貨幣的影響に焦点を当てたものとしてはMilton Friedman and Anna Jacobson Schwartz (1963), A Monetary History of the United States, 1867-1960 (Princeton, N.J.: Princeton University Press)が挙げられる。この危機に関する簡潔な議論としては、Jon R. Moen and Ellis W. Tallman (1990), “Lessons from the Panic of 1907 (PDF),” Leaving the Board Federal Reserve Bank of Atlanta, Economic Review, May/June, pp. 2-13があり、本スピーチもこれに多くを依っている。
4 原注4;Charles W. Calomiris and Gary Gorton (1991), “The Origins of Banking Panics: Models, Facts, and Bank Regulation,” in R. Glenn Hubbard, ed., Financial Markets and Financial Crises (Chicago: University of Chicago Press), pp. 109-74を参照
5 原注5;Bernanke “Some Reflections on the Crisis(原注1を参照)”で議論したように、シャドーバンキングシステムは通常の定義によれば、様々なグループの金融機関や市場を含み、全体としてみれば従来の銀行機能を果たしている。しかし、それを規制下にある預金受入機関の従来的なシステムの枠組みの外、あるいはそこに緩やかにだけ繋がった形で行っている。シャドーバンキングシステムを構成するもののうち重要なものとしては、証券化ビークル、資産担保コマーシャル・ペーパー・コンディット、マネー・マーケット・ファンド、現先市場、投資銀行、住宅ローン会社などが挙げられる。
6 原注6;原注1にあるBagehot, Lombard Streetを参照。
7 原注7;規制枠組みの近年の変化に関するより包括な議論については、Daniel K. Tarullo (2013), ” Evaluating Progress in Regulatory Reforms to Promote Financial Stability,” speech delivered at the Peterson Institute for International Economics, Washington, May 3を参照。
8 原注8;Stanley Fischer (1999), “On the Need for an International Lender of Last Resort,Journal of Economic Perspectives, vol. 13 (Fall), pp. 85-104を参照。
9 原注9:例えば、連邦準備制度理事会 (2013), Capital Planning at Large Bank Holding Companies: Supervisory Expectations and Range of Current Practice (PDF) (Washington: Board of Governors, August)を参照。
10 原注10;より詳細な議論については、ワシントンで10月18日に行われたFRB主催の会議”Planning for the Orderly Resolution of a Global Systemically Important Bank,”で行われたスピーチである、Daniel K. Tarullo (2013), “Toward Building a More Effective Resolution Regime: Progress and Challenges,” を参照。
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