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Archives for 8月 2015

タイラー・コーエン 「身体的な特徴と政治的な見解とのつながり ~利き腕の太さと再分配政策に対する賛否との間にはどんな関係がある?~」

●Tyler Cowen, “Does physical strength influence male political views?”(Marginal Revolution, October 21, 2012)


エコノミスト誌が興味深い研究結果を紹介している。

各人が抱く政治的な見解とその人の身体的な特徴との間には何らかのつながりが見られるだろうか? まさにこの疑問の調査に乗り出しているのがピーターセン(Michael Petersen)氏とシュナイサー(Daniel Sznycer)氏が率いる研究チームである。彼らの調査では一般のボランティアを募った上で富裕層から貧困層への再分配を支持するかどうかを一人ひとりに尋ねている。そして再分配政策に対する賛否とその人の利き腕の太さ(利き腕の力こぶに力を入れた状態で測った腕周りの太さ)との間に何らかの関係が見られるかが探られているのだ。

肉体の逞しさ如何にかかわらず、その人物が(経済的に)貧しければ再分配政策を支持し、(経済的に)裕福であれば再分配政策に反対する。そうなりそうなものである。ピーターセン氏らの調査によると、女性に関しては確かにその通りだが、男性に関しては肉体の逞しさの違いが政治的な見解の違いを生む傾向にあることが見出されている。

・・・(中略)・・・

出生国の違いやどのイデオロギーを支持しているかにかかわらず、(腕周りが太いという意味で)逞しい男性は自己利益を追い求める傾向にあった。肉体的に逞しくて経済的に貧しい男性は再分配を支持しがちである一方で、肉体的に逞しくて経済的に裕福な男性は再分配に反対しがちであることが見出されたのだ。このことは特段驚くような結果でもないだろう。しかしながら、ピーターセン氏らの調査によると、(腕周りが細いという意味で)ひ弱な男性は逞しい男性に比べると自己利益を主張する傾向がずっと弱い1との意外な結果も得られているのだ 。その一方で、男性のケースとは対照的に、女性に関しては肉体的な逞しさと政治的な見解との間には何の相関も見出されなかった。裕福な女性は肉体的に逞しかろうとそうでなかろうと再分配に反対しがちであり、貧しい女性は肉体的に逞しかろうとそうでなかろうと再分配に賛成しがちであるとの結果が見出されているのだ。

上の引用文で紹介されている論文はこちらである。ピーターセンとシュナイサーが別のチームを率いて実施しているこちらの研究(pdf)では福祉政策(社会保障政策)に対する人々の態度の違いの源泉が探られている。シュナイサーのこちらの有益なホームページでは他にもいくつかの研究論文が閲覧できる。

  1. 訳注;腕周りが細くて経済的に貧しい男性は腕周りが太くて経済的に貧しい男性に比べると再分配を支持する傾向が弱く、腕周りが細くて経済的に裕福な男性は腕周りが太くて経済的に裕福な男性に比べると再分配に反対する傾向が弱い []

マーク・ソーマ 「『マルクス主義者と保守主義者は両者が認めたがらない程多くを共有している』 」 (2015年8月15日)

Mark Thoma, ‘Marxists and Conservatives Have More in Common than Either Side Would Like to Admit’ (Economist’s View, August 15, 2015)


 Chris Dillowがマルクス主義者と保守主義者の共通基盤について語っている:

公平・脱集権化・資本主義: マルクス主義者と保守主義者は両者が認めたがらない程多くを共有している。Andrew Lilicoの素晴らしい小論を読んでいると、この考えに思い至った。

彼は、ケーキを公平に – つまり確かに 『恨みっこなし (envy-freeness)』 にして置くという意味だが – 切り分ける為に用いるBrams-Tylar手法を説明した上で、この様に、国家などの集権的仲介者が無くても公平の確保が可能なのは明らかであると述べるのだ: …

本小論がいうところの適切なメカニズムでは、力関係に一定のバランスが保たれているので、何人たりとも 「その値段に不満なら、買わなくて結構」 などといった言葉を吐くことは出来ないことになる。

ここでマルクス主義者のご登場となる。彼らは主張する、資本主義においては、かくなる適切なメカニズムなど在りはしないのだ、と。マルクスその人が強調したところによれば、労働市場とは或る種の闘技場であり、しかもそれは力関係のバランスを欠いた闘技場なのである。…

マルクス主義者はこの状況が国家によって是正されるとも期待していない。何故なら国家は資本家の手の内にあるからだ – 国家とは、「ブルジョア階級全体が共有する関心事を滞りなく処理するが為の、一委員会に過ぎない」 のだ…

代わってマルクスが考えたのは、公平の実現は、ただ資本主義と国家、この双方を廃止し – これは、高度の経済的発展段階に至って初めて実施可能となるものであるが -、続いてそれを何らかの脱集権化された意思決定手段と挿げ替えることによってのみ、達成され得るというものだった。…

この意味では、マルクス主義者もAndrewと意見を共にしている。すなわち、集権的仲介者が居なくとも、人は自ら公平な分配を見出すことが出来るのである。…

 

マーク・ソーマ 「『労働の未来: 賃金上昇が停滞しているのは何故か』」 (2015年8月13日)

Mark Thoma, ‘The Future of Work: Why Wages Aren’t Keeping Up’ (Economist’s View, August 13, 2015)


 

Robert SolowがPacific Standardに執筆したものから:

労働の未来: 賃金上昇が停滞しているのは何故か: ここ数十年の間にますます不可解かつ有害の度を強める諸般の特徴をアメリカ労働市場は抱えてきたが、その中の1つは、生産性の向上に伴った実質 (すなわち、インフレ調整をした) 賃金および諸給付の確保が蔑ろにされてきた点にある。…

慣習的に、一企業 (或いは、経済全体) への付加価値は、労働への対価と資本への対価の総計と等しいものと考えられてきた。しかしこれは正しい考え方とは言えない。というのは、この他に第三の要素が存在するからである。この要素を 『独占レント』 としよう。いや、単純に 『レント』 と呼ぶべきか。こちらの方がいっそう適切だろう。…

ここで私が示唆したいことは何か。それは、ここ数十年のあいだに産業間で目に付くようになってきた、レント分配の労働者側に不利な方向への移行、これこそ生産性に伴った実質賃金の確保が蔑ろにされている重大な理由の1つなのだということ、これである。これは、直接の計測データが存在しない為、検証の難しい仮説ではある。しかし、労働組合や団体交渉の腐敗凋落、事業姿勢の明白歴然たる硬化、働く権利に関連した諸法の人気高騰、さらに、賃金停滞はどうもレーガン政権とほぼ時を同じくして現れたようであるという事実、これら全てが指し示す方向はただ1つである。すなわち、国内の付加価値に対し賃金分が占めるシェアが低下してきたのは、労働者側の社会的交渉力が減少した為であるかもしれないということだ。…

さてここで私としては、この仮定をいま労働市場で姿を現し始めたもう1つの変化と関連付けてみたいのだ …、すなわち、労働のカジュアル化のことである。パートタイムで働く人の割合はここのところ上昇の一途を辿っている … 同じことが有期契約の下で働いている者や契約社員 (independent contractors) の数についてもいえる …

臨時労働者 (casual workers) には、企業が獲得した付加価値のレント部分に対する請求権が殆ど無い、或いは事実上皆無であるといって良い … もし本当に、企業レントの分配が労働側に不利な方向へと移行してきているならば、ますますカジュアル化が進む労働者層にとってこの傾向を逆転するのは極めて困難となるだろう。

マーク・ソーマ 「経済的成功も遺伝する?」 (2015年8月14日)

, “Is Economic Success Inherited?” (Economist’s View, August 14, 2015)


以下の文章はAbdul Alasaadによるもの:

財政的成功は遺伝のおかげ?. INET: 家族の資産は子供の財政的展望に対して、どれほど決定的なのだろうか? … 彼の … 小論 『トップ1%を擁護する』 でグレゴリー・マンキューは人びとの収入と、その親の収入の間に見られる相関を遺伝的要因と結び付けた。…

この強い連関を遺伝的要因に結び付けるマンキューは、果たして正しいのだろうか? そこで、… 四人の経済学者が或るNBER (全米経済研究所) 調査報告書の中で、養子縁組を受けた子供の資産と、彼らの養子縁組上の親・生物学的な親の資産の比較を試みた。…

養子縁組を受けた子供の資産ランキングと、彼らの養子縁組上の親に関する同ランキングの間にはハッキリとした正の連関が在る。しかもそれは、親とその生物学的子供の間のそれと殆ど同じくらい強いものなのだ。…

さらに決定的なのが …、子供の資産は、生物学的な親の資産よりも、養子縁組上の親のそれと、いっそう強い相関を見せているという事実だ。資産に関するかぎり、氏より育ちの方が遥かに重要だといえよう。

しかし全体的にみたとき、44歳の時点で、一切の相続に先立って、より多く正味の資産を保有していたのはどんな人物だったのだろうか? 生物学的な子供か、それとも養子縁組を受けた子供だろうか? … 結論から言えば、確かに、生物学的子供の方がより多くの正味資産を蓄積していた。しかしその差は逼迫しており、殆ど無意味なものだ。…

並んで興味深いことに、同研究者らは、養子縁組を受けた子供・生物学的な子供の間での教育レベルの変化も調査している。もし遺伝的要因が開かれた機会より物を言うなら、裕福な親の生物学的子供は、その親が養子とした子供に比べて、より高度の教育レベルに達しているはずである。これは事実であるか? 豈図らんや、データは別様を示唆している。…

人生における大概の物事と同様、資産についてもまた、遺伝的要因よりも環境的要因の方が重要なのである。…

タイラー・コーエン 「規制・不完全競争・合衆国の中絶市場」 (2015年8月6日)

Tyler Cowen,  “Regulation, imperfect competition, and the U.S. abortion market” (Marginal Revolution, August 6, 2015)


Andrew Beauchampの新しい論文が公開された:

多くの州が妊娠中絶関連法規を厳格化しており、合衆国における中絶市場は最近ますます一部地域への集中を見せている。本論文では中絶施行者に関するデータを用いて、需要・価格競争・中絶産業への参入撤退についての均衡モデルを推定し、以て規制が業産業の動きに対しいかなる影響を与えているのか把握を試みる。推定値が示したのは、諸規制は中絶市場の構造と変容を決定付ける重要な役割を果たしていたことだ。一方、反事実シミュレーションは、最近の中絶事例の減少傾向を説明するにあたって、需要を標的とする規制の増加こそが観測されているファクターとしては最も重要なものであったことを明らかにしている。ユタ州の規制レジームを合衆国全土でシミュレーションしたところ、中絶規制の厳格化はかえって均衡における中絶の値を増加させる恐れがあり、それは主として、このリジームが市場勢力図を低価格での人工中絶施行者に有利に傾けてしまう為に生じることが示された。

入手の簡単なungated版はこちら。そして、教えてくれたexcellent Kに感謝。

タイラー・コーエン 「学級規模はそれほど重要ではない」(2003年9月19日)

●Tyler Cowen, “Class size doesn’t matter much”(Marginal Revolution, September 19, 2003)


学級規模(1クラスあたりの生徒の数)を縮小しても(クラスの少人数化を推し進めても)生徒の成績は大して改善されない。つい最近の(2003年に実施された)OECD(経済協力開発機構)の研究でそのような結論が導き出されている(教育問題を専門とするブロガーのジョアン・ジェイコブズ(Joanne Jacobs)1もこの研究についてコメントを加えている)。学級規模は生徒の成績に影響を及ぼす要因としてはそれほど重要なものではないという結果はこれまでにも得られている2が(この点についてはこちらのサーベイ(doc)とこちらのノートも参照されたい3)、ダグラス・ウィルムス(J. Douglas Willms)(pdf)が率いる今回のOECDの国際比較調査はそのような過去の研究結果を裏付ける格好となったわけだ。もし仮にアメリカで学級規模の縮小が推し進められることになれば教師の質の悪化という「意図せざる結果」がそれに伴うことだろう4。〔というのも、学級規模が縮小すればそれに伴って必要となる教師の数が増えることになるが、必要な教師の数が増えるにつれて(新たに採用される)教師の質も徐々に低下する可能性があるからである〕。

どうにかして生徒の成績を高めたい(教育の質を高めたい)。そう考えるのであれば、学級規模を縮小することよりも大きな効果を秘めている以下のような方法を試してみた方がいいだろう。

・・・教師と生徒との関係改善を図る(よりよい人間関係の構築を図る)、読み書きの専門家(literacy specialist)を学校に雇い入れる、文字を読む能力がなかなか身につかないでいる(学習障害の傾向のある)小学2年生以下の児童に対して早めに特別な支援を行う、学級経営(classroom management)の充実を図るために教師にそのための術を教え込む、家庭での本の読み聞かせを推奨する、幼児教育プログラムの充実を図る

ジェイコブズが語るところによると、学級規模の縮小によって最大の恩恵を被る可能性があるのは幼稚園児や小学校に入学したばかりの1年生(その中でも様々な面で不利な立場に置かれている児童)ではなかろうかということだ。

  1. 訳注;該当エントリーはリンク切れ。その代わりに「学級規模」(class size)というタグがついている一連の記事に飛ぶように訳者の側でリンクを張り替えてある。 []
  2. 訳注;ナショナル・ポスト紙(カナダの新聞)の“Class size overrated, research suggests”(by Heather Sokoloff, September 18, 2003)というタイトルの記事にリンクが張られているが、こちらもまたリンク切れ。その代わりにこの記事を全文引用しているブログエントリーにリンクを張り替えてある。 []
  3. 訳注;学級規模の縮小が生徒の成績に及ぼす影響について検証した先行研究のサーベイとしては次の記事も参照されたい。 ●畠山勝太, “「35人学級見直し議論」を大人の茶番ですませてはいけない”(synodos, 2014年11月11日) また、学級規模の縮小が生徒の成績に及ぼす影響を日本のデータを用いて実証的に検証した試みとしては次の記事で紹介されている研究を参照されたい。 ●赤林英夫, “少人数学級政策の教育効果の不都合な真実”(synodos, 2015年2月4日) []
  4. 訳注;学級規模が縮小しても生徒の成績が大して改善されないのは(学級規模の縮小に伴って)教師の質が悪化する可能性があるからだ、ということをこの一文でおそらく言いたいのだろう。 []

マーク・ソーマ 「”市場は生きている — あなたの腸の中にさえ!?”」 (2015年7月31日)

Mark Thoma, “There May be a Complex Market Living in Your Gut” (Economist’s View, July 31, 2015 )


 

これはとても興味深い:

市場は生きている — あなたの腸の中にさえ!?: クレアモント大学院大学、ボストン大学およびコロンビア大学にそれぞれ所属する研究者らの調査によれば、社会が商品やサービスを売り・買い・交換する様態を説明する為に経済学者が過去150年に亘って用いてきた伝統的な理論は、もしかしたら、地球に生息する微生物の生態にまつわる摩訶不思議をも解き明かしてくれるかもしれないという。

7月29日、オープンアクセスの科学誌PLOS ONEで公開された本発見は、この地球上最も古く、最も小さな生命体の生態に関する新たな知見をもたらした。それだけでなく、生物の進化・繁殖といった一層大きな問題の解明に役立つ新たな枠組みの創出にも成功している。

クレアモント大学院大学で経済学の教授をしているジョシュア・タソフ氏は、ボストン大学生体医用工学部のマイケル・ミー氏およびコロンビア大学システム生物学部のハリス・ワン氏と共に本研究を行った。…

微生物 (microbes) は至るところに存在するが、彼らが相互に影響しあう入り組んだ過程は未だ十分に解明されていない。微生物の大半は複雑な構造を持つ集合体の中で生活しているが、そこでの分子や蛋白質の交換が彼らにとって死活問題となる。こういった大切な資源の交換を通して、自らの成長を図るのであるが、その様は近代的経済市場において商品を交換する諸国の在り方を思わせる。

この類似性に触発されてタソフ、ミー、ワンの三氏が応用を試みたのが経済学の一般均衡理論だ。複雑な経済活動における資源の交換を説明するこの理論を用いて、微生物集合体内部での資源交換の様子を解明しようというのだ。…

研究結果は当チームの予測を裏付けるものとなった。交換が盛んになるにつれ、細菌の集合体は成長速度を増したのである。しかし全ての微生物が交換から恩恵を受けている一方で、輸出量を増加させてゆく細菌株 (a bacteria strain [訳注1]) は、それとは別の、輸入する側の細菌株と比較して、成長速度を落としてゆく傾向が見られた。

「つまり生物の種は、自らが属する集合体の成長を優先させるのか、それとも交換の相手方と呼応した形で自らの個体数を増加させてゆくのかという二者択一の問題と直面することを意味しているのです」 とタソフ氏。

微生物に留まらぬ、様々な生物の集合体について、我々の理解を深めてくれるだろう経済学のコンセプトは他にも在る。本発見はそういったコンセプトの更なる応用の道を開くもの、そうタソフ氏は伝えた。

 

 

訳注1. 細菌株とは、”1つの種類の細菌の中で、分離培養された一定の性質を共有する小グループ…” のこと。 (http://www.atopic-better.pw/species/, 2015年8月4日) から引用。

マーク・ソーマ 「宿題に備わる多大なる恩恵 ~君はもう十分な罰を課されている~」

●Mark Thoma, “Enough Punishment for One Day”(Economist’s View, July 16, 2009)


大学や大学院で講義を受け持つ機会があるようなら、成績評価の基準をうんと厳しくして宿題(課題)をたんまり出してやるといい。そうすれば学生たちに多大なる恩恵がもたらされる可能性がある。

The rigors of the USC Masters in Real Estate Development Program” by Richard Green

私の講義に出席している学生の一人から次のようなメールをもらった。

「先生にどうしてもお伝えしておきたいことがあってメールさせていただきました。先生の講義で課題として出された宿題のおかげで反則切符(交通反則切符)を切られずに済んだのです。

今朝のことです。大学に向かうために車でラ・シェネガ通りを走っていると交通事故で道路が封鎖されており、先に進むことができませんでした。そこで中央分離帯の切れ目を見つけて車をUターンさせたのです。すると白バイ警官がやってきて道路の脇に車を寄せるように言われました。そしてここはテキサスではなく(私の車のナンバーはテキサスナンバーです)、「カウボーイじみた運転」(具体的にどういう意味かと言いますと・・・まあそれはいいでしょう)はこの地では到底受け入れられるものではないとちょっとした講義を開いてくれたのです。その講義が終わるのを待って私はこう伝えました。『中間試験があってすぐにも大学に行かないといけないんです。それに課題として出された宿題も済ませないといけません。時間が無いんです。』 自分の発言に信憑性を持たせるために表紙に「Assignment #3」との文字が刻み込まれている課題を取り出し、それをその警官に差し出しました。するとその警官は課題を受け取ると白バイのある所まで一旦戻っていきました。

しばらくして再び私のもとに戻ってくるなりその警官はこう告げました。『どうやら君はもう十分に罰を受けているようだ。その課題は罰として十分なようだしね。』 こうして私は反則切符を切られることもなく大学に向かう許しを得たのです。」

ジェフ・シシク & パスカル・クーティ 「スポーツのドーピング規制は何故必要なのか」 (2015年7月15日)

・Jeff Cisyk, Pascal Courty, “Why it is necessary to regulate doping in sports” (VOX, 15 July 2015)

 


 

競 技スポーツが始まってこの方、運動能力を強化する薬物をめぐっての議論が絶えることはなかった。本稿では、規制の三大根拠 – アスリートの健康・公正の確保・観客側の損失 – の中では、観客側の損失が規制の根拠として最も説得力を持つものであるとの主張を試みる。検証結果は、ドーピングの惹き起す経済的損失は相当なものである と示している。更なる観客の吸引に向けて相争う諸々の競技チーム・競技連盟には、ドーピングにまつわる全ての外部性を内部化することは望めないかもしれ ず、加えて、チームや連盟がドーピングを発見した時には、時間的不整合性問題 (time-inconsistency problem) と直面することにもなると考えられる。

「 [大リーグ野球] にとって、ステロイドの時代は大いなる汚辱であった一方で、確かに天恵ともいうべきものでもあった。[…] 1995年から、ボンズがマグワイアの本塁打記録を更新する2001年にかけて、ゲーム観客数は44%も上昇し […] 大リーグ野球の年間収益は概そ115%も増加した」John-Erik Koslosky (2014)

何故ドーピングは規制されるべきなのか
競技スポーツが始まってこの方、ドーピングをめぐる争論が絶えることはなかった。古代のギリシア人やローマ人が薬物を使用した証拠さえ発見されているの だ。ドーピングに対する近代的規制の嚆矢が1928年に現れて以来、運動能力強化薬物を理由とする追放処分は常にメディアの注目を集めてきた。多くの人が ドーピングは規制されるべきだと考えている一方で、その理由やさじ加減、また規制の方法についての見解が一致を見るのは稀である。

  • 医学会や、スポーツ専門家ならびに倫理学者の一部からの出される主要な根拠は、選手の健康を保護する為にはドーピングの制限が必要であるというものだ。

しかしスポーツの中には、それ自体が内在的に危険を孕んでいるというものも多い。文字通りに解するなら、保護論はこの種の薬物の規制に留まらない、安全性を重視した介入を要求することになるだろうが、これは誰もが支持するものではないだろう。

  • 他にも、スポーツ競技は一定の均一な地盤を必要とするものであると主張する者もいる。

しかしドーピングは運動能力を強化するテクノロジーの一つに過ぎず、その上で、勝利を獲得する為に競技者に何が許され、何が許されないのかについてのルールが定められているのである。

  • 残る根拠は、ドーピングは一般大衆に損失を与えると説くものだ。

こ れは広く解せば、ドーピングは負の外部性を課すものであるとの趣旨だと取れる。一般論として、一つスポーツには様々な利害関係者が存在し (アスリート・チーム・競技連盟・広い意味でのスポーツ組織・スポンサー・一般大衆)、それぞれが組織的に取り行われる競技に対する既得権益を有してい る。多くのファンが特定のスポーツにコミットし、特定のチームを支援する為に特定の投資を行っているのである。そしてその時ファンが気に掛けているのは将 来開催されるイベントの質であり、従ってファンは、アスリートがドーピング規則を順守しない場合にはそのスポーツの価値が低下するという考えならば、負の 外部性を被ることにも成り得る。
ドーピングが勝利の可能性を高めてくれる限り、相当大きなリスクと引き替えにではあるが、アスリートとチームにはドーピングの利益がある。ドーピングが競 技のエンターテイメント的価値を増してくれるのならば、競技連盟も利益を得られる。つまり、一般大衆に発覚しない限りは、ということだ。薬物使用規制を是 とする本経済的根拠も、アスリートが薬物を使用した場合、ファンはそのスポーツに対する評価を低下させるとの想定に基づくものである。

検証結果が示すドーピングがスポーツに損失を与える様態
一般大衆が、薬物使用はスポーツを脅かし、それを貶めるものであると感じていることを示す調査結果は多い (Solbergら2010、 Engelbergら2012)。さらにテレビ視聴者の反応の検証結果も幾つか得られている (Van Reeth 2013)。ドーピングがスポーツに損失を与えるとの見解は、プロスポーツ選手の多くや立法者およびメディアの間で共有されている。最後に、ドーピングの 発覚以来、ライブ放送局がイベントの放送に以前ほど乗り気でなくなり、スポンサーも支援を渋りがちになってきているという、ツール・ド・フランスの現状も こういった考えを裏付ける状況証拠となっている (Buechelら2014)。
我々は最近の研究で、スポーツイベントに対する需要が薬物使用に関するニュースによって負の影響を受けることを、初めてはっきりと証明した (CisykとCourty 2015)。検証結果は (調査で取材されきた無作為抽出の回答者ではなく) チケットの売り上げに基き、消費者の意見の代わりに、実際に見られた需要の反応を計測したもの。我々は2005年に大リーグ野球界が導入した薬物使用に対 する一連の新たな無作為テストを上手く利用することが出来たが、この新たな施策の下ですぐに一つのテスト陽性反応が公表され、該当選手がチームから除籍さ れている。本施策は、薬物違反が観客数に対して与える影響を調査する上で、またとないデータを提供してくれた。
これらのデータを使用し、我々は27名の選手に課された29の薬物使用による出場停止事例を特定し、続いて、同選手らについて、公表された負傷事例にも目 を向けた。図 1aに示されているのは、ホームチーム側の選手一名がテスト不合格となって出場停止処分を課される前後の、ゲーム観客数の比較である。右のパネル (図 1b) は、負傷事例を用いて、選手がチームから除籍されたこと自体から生じているかもしれないゲームの質の変動分の調整を出来る様にしたもの。もし一般公衆が薬 物使用を気に掛けているのなら、出場停止処分の後には観客数の落ち込みが予測されるだろうが、まさにこれがハッキリと例証されたのである。また興味深いこ とに、負傷の公表による観客数の落ち込みは全く見られなかった。

図1. 観客数に対する上記事例の影響

baseball1

図が既に示唆しているが、出場停止処分は野球のゲーム観客数を、当該選手の喪失と結びついたゲームの質への影響分を調整しても、なんと8%も減少させている事実を発見することとなった。
出場停止処分と結びついた観客数の低下は、続く12日以内には治まりを見せている。この8%という数字は、実際の影響の下限に過ぎないと考えられる。何故 ならシーズンチケット保持者や、薬物使用による出場停止処分の公表以前にチケットを購入したファンは、既に観戦料の支払を済ませてしまっているので、公表 後にいかなる反応をしても、全く反映されていないからである。
経済効果の方はどうなるかというと、運動能力強化薬物の違反のコストは、該当出場停止選手への給与分が浮くのを考慮しても、違反チームの年間収益の 1.1%、言い換えれば45万1千ドルとなる概算だ。我々は他に、大リーグでプレイしているどの選手が違反した場合でも、当該競技連盟全体の需要に対する 影響が生ずることも証明している。この付随的影響は小さいものではあるが、経済的重要性は高い。何故なら当該競技連盟が抱えるチーム数は30にも上るから だ。違反が、一つの競技連盟内部の諸チームに亘って負の外部性を課すことは、この点からして明らかである。
薬物の使用が、所謂稀に見るような好ゲームを生み出すことも考えられなくはないだろうが、生じ得る消費者側の反発も無視出来るものではない。運動能力強化薬物の使用規制が強制力を欠くならば、市場の破綻を引き起こしかねないのである。

結論
ドーピング規制を施行すべき理由の一つは、消費者の利益保護である。しかし、ドーピング規制に乗り出すのは一体誰になるのだろうか? 個々のチームには一般大衆の利益に沿う為の動機が欠けている。自己規制、またファンの利益の尊重へのインセンティブには限りがある。それは、繰り返しにな るが、様々な競技連盟は更に観客を吸引しようと争っており、ドーピングと結びついた外部性の全てを内部化することは出来ないかもしれないからだ。競技連盟 はまた、ドーピングの事実を発見した時には、時間的不整合性問題と直面することにもなる。我々の研究は、ドーピングがファンの利益を減少させること、お よび選手やチームまた競技連盟がこれらの損失を十分に内部化するのは困難であるかもしれないということを示した。

参考文献
Buechel, B, E Emrich, and S Pohlkamp (forthcoming), “Nobody’s innocent: The role of customers in the doping dilemma”, Journal of Sports Economics.
Cisyk, J and P Courty (forthcoming), “Do Fans Care about Compliance to Doping Regulations in Sports? The Impact of PED Suspension in Baseball”, Journal of Sports Economics.
Engelberg, T, S Moston, and J Skinner (2012), “Public perception of sport anti-doping policy in Australia.” Drugs: education, prevention, and policy 19(1), pp. 84–87.
Koslosky, J-E (2014), “How the Steroid Era Saved Baseball”, The Motley Fool, 14 January.
Solberg, H A, D V Hanstad, and T A Thøring (2010), “Doping in elite sport–do the fans care?: public opinion on the consequences of doping scandals”, International Journal of Sports Marketing & Sponsorship 11(3).
Van Reeth, D (2013), “TV demand for the Tour de France: The importance of stage characteristics versus outcome uncertainty, patriotism, and doping”, International Journal of Sport Finance 8(1), pp. 39–60.

 

 

 

タイラー・コーエン 「宿題の量と学力との間にはどんな関係がある?」(2005年6月21日)/ マーク・ソーマ 「宿題なんてまっぴら御免だ」

●Tyler Cowen, “I always hated homework”(Marginal Revolution, June 21, 2005)


レテンドル(Gerald K. LeTendre)とベーカー(David P. Baker)が率いる研究チームの分析では、40カ国を超える国々の小学4年生、中学2年生、高校3年生の生徒を対象として1994年に実施された教育に関する国際比較調査の結果1に加えて、その5年後の1999年に調査対象国を50カ国に拡大して実施された追跡調査の結果2もあわせて検証されている。

その分析結果はというと、(学校から出される)宿題の平均的な量と学業成績との間には何の相関も見出されなかった3のであった。例えば、ベーカー教授が指摘しているところによると、日本やチェコ、デンマークといった生徒の成績が高い国(TIMSSの成績上位国)の多くでは宿題はそれほど出されていない一方で、タイやギリシャ、イランといった生徒の平均的な成績が極めて低い国(TIMSSの成績下位国)では宿題の量はかなり多いということだ。

1994年~95年度にアメリカの学校で数学の宿題がどのくらい出されていたかと言うと週当たり2時間を超える分量に及んでいたが、日本の学校では(数学の宿題の分量は週当たり)1時間程度に過ぎなかった。1980年代にアメリカの学校では宿題の量が増加の一途を辿ることになったが、それとは対照的に1980年代の日本では学校から出される宿題の量は減少する方向に向かった。

レテンドルらが率いる研究チームの分析結果によると、1980年代にアメリカと日本でそれぞれ進められた(宿題の量を巡る)以上のような教育改革はどちらの国においても生徒の全般的な学業成績に対してこれといって何の影響も及ぼしていないようだとのことである。

以上の文章はリチャード・モリン(Richard Morin)がワシントン・ポスト紙で連載しているUnconventional Wisdom欄のコラムから引用したものだ。上の引用文で紹介されている研究についてはこちらの記事でも内容にもう少し深く踏み込んだ上で手際よくその中身が要約されているが、学校が生徒に課す宿題は貧困層の家庭(の親)にとってとりわけ重い負担となる可能性が指摘されている4

宿題を多く出したからといって生徒の学力向上につながるわけでは必ずしもない(あるいは宿題の量と学力との間にはこれといって明確な関係は見出せない)のではないかとかねてから薄々感じてはいたのだが、とは言ってもごく限られた一部のデータを用いて得られた結果を基にしてあまりに性急な結論を導かないように気を付けるべきだろう。教育現場が抱える問題としてはグレード・インフレーション(grade inflation)の問題もあるが――通知表の評価が甘くなればその評価が持つ(一人ひとりの生徒の能力の程度を仄めかす)シグナルとしての価値が低下し、それと引き換えに生徒たちによる課外活動への過大投資が引き起こされる可能性がある――、個人的にはその問題よりも(アメリカにおいて)宿題の量が増えているにもかかわらずそのことが学力の向上に役立っていない可能性の方が気になるところだ。
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●Mark Thoma, ““Against Homework””(Economist’s View, September 23, 2010)


以下の文章はサイエンティフィック・アメリカン誌の1860年10月号からの引用である。

Against Homework” by Scientific American

子供たちは学校で6時間に及ぶ勉強漬けの時間を過ごす。学校が終わって家に戻ると彼らを待っているのは宿題の山。宿題を済ますためにさらに4時間が勉強に費やされるのだ。しかしながら、子供たちの知性(intellect)がそのようにして育まれることなんてあり得ない。自然の摂理を人間の手で好き勝手に変えることなどできないのだ。痛ましいまでの努力を尽くした末に子供たちは(まるでオウムのように)数多くの単語を復唱する術を身に付けるに至るかもしれない。しかしながら、宿題の山を片付けた後の子供たちの脳はすっかり消耗しきっている。そんな子供たちが学問を真の意味で理解して自分のものにする(学問の蘊奥を極めるに至る)ことなどあり得ない。現状の教育システムは子供たちの肉体ばかりではなく、いやそれ以上に彼らの知性を衰弱させる効果しか持っていない。本の山を抱えて足をふらつかせながら家に戻る幼き少女。時計の針が夜の8時を打ったにもかかわらず眉間にしわを寄せながら本の山と格闘する幼き少女。そんな姿を目にする度にこう不思議に思わずにはいられない。どうして世の大人たちは彫刻刀や火かき棒やゴルフクラブや敷石やともかく近くにある武器になりそうな物を急いで手に取り、(子供たちをむさぼり食おうとしている獣を目にした場合と同じように)コモン・スクール(公立学校)の管理者たちを追い払おうと立ち上がらないのだろうか?

  1. 訳注;第3回国際数学・理科教育調査(TIMSS)の調査結果 []
  2. 訳注;第4回国際数学・理科教育調査(TIMSS)の調査結果 []
  3. 訳注;宿題が多いほど学業成績が高いといった関係(正の相関関係)は見出されなかった []
  4. 訳注;この研究を紹介している日本語の記事としては例えば次の記事を参照されたい。 ●湯木進悟, “情報格差が学校の宿題に!? 多く宿題を出しても学力は上がらないとの分析発表”(マイナビニュース、2005年6月3日) 次の記事(英文)もあわせて参照するといいかもしれない。 ●Karl Taro Greenfeld, “My Daughter’s Homework Is Killing Me”(The Atlantic, October 2013) []