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マーク・ソーマ 「『保険』としての社会保障制度」(2005年4月5日)/「『自動安定化装置』としての社会保険」(2009年8月1日)

●Mark Thoma, “Social Security is about insurance, not savings”(Economist’s View, April 5, 2005)


(以下の文章はレジスター・ガード紙に“Social Security is about Insurance, not Savings”(「社会保障制度は貯蓄のための手段ではない。その役割は保険を提供することにある」)というタイトルで寄稿した記事(2005年2月24日付)を転載したものである)

1929年10月にアメリカを襲った大恐慌は経済や社会に大混乱を巻き起こし、それに伴ってごく普通の庶民たちは(経済面での)生活の安定(economic security)を脅かされる事態となったのであった。

自分の家族を養うために日々仕事に追われる労働者たち。そんな彼らが突如として職を失い、失業者に転落してしまうことも十分あり得る話である。労働者が失業する理由は様々だ。新たに発明されたばかりの機械に取って代わられることもあれば、消費者の購買行動に変化が生じたために勤め先の経営が悪化して首切りの憂き目にあうこともあるだろう。生産拠点が別の場所に移されるのに伴って職を失うこともあれば、経済全体が景気後退に陥ったために失業に追いやられることもあるだろう。

工業化の波が押し寄せるまでは(経済面での)生活の安定を求める欲求はそれほど強いものではなかった。農業を主体とする社会では自分の農場で育てた農作物で自給自足していくことが可能だったということもあるが、拡大家族を通じた相互扶助に頼ることで生活の安定を確保できたからでもある。

工業化は社会に経済面で多大なる恩恵をもたらすことになった。しかしながら、それと同時にごく普通の家族が直面する経済面でのリスクを大幅に高めるような変化も随伴することになった。都市化(農村から都市への移住)や拡大家族の解体、賃金所得を生計の資とする層の拡大、長寿化(平均余命の伸長)等々である。家の外で働いて得られる賃金だけを収入源とする労働者にとっては失業は単に辛い経験を意味するだけにとどまらない。職を失うことは収入源が一切絶たれてしまうことをも意味しているのだ。

他人からの援助に頼ることもできず、貯蓄が豊富なわけでもない。それに加えて、社会保険制度も整っていないとしたらどうなるだろうか? そういう状況で失業でもしようものなら餓死の可能性も決して排除できないことだろう。また、退職後に備えてせっせと貯蓄を蓄えた労働者も突如として生活苦に追いやられる可能性がある。突然の病気や予想していたよりも長生きすることで貯蓄を使い果たしてしまう恐れがあるからだ。

失業保険をはじめとした社会保障制度は社会全体の資源(それもできるだけ少ない資源)を使って経済面のリスクを和らげるための仕組みであり、その創設のきっかけは大恐慌にある。

社会保障制度は国民一人ひとりが貯蓄を蓄えるための預金口座のようなものとして創設されたわけではない。一家の大黒柱が職を失った家庭や退職者に対してセーフティーネットを提供し、国民一人ひとりが各自で経済面のリスクに備える場合よりも少ない費用で保険を提供することにその目的がある。

国民一人ひとりが各自で退職後への備えをしなければならないとするとかなりの額の貯蓄を蓄えておく必要に迫られることだろう。退職後も長く生き、少なくない医療費を賄おうとすれば当然そうなることだろう。しかしながら、そのようなやり方は最適な方法とは言えない。というのは、一人ひとりが用意すべき蓄えの額を抑えた上で同じ目的を達成できる方法が別にあるからである。国民が全員でお金を出し合ってそれをプールすれば、一人ひとりが拠出すべき金額は国民全体の平均的な余命と平均的な健康寿命を送る上で必要なだけの額で済むのだ。

火災保険と同じである。火災保険という仕組みが無ければ一人ひとりは火事で家が燃えた場合に備えてかなりの額の(家を補修するために十分なだけの)貯蓄を蓄えておく必要があるだろう。火事のリスクをすべて自分一人で負担しなければならず、火災保険という仕組みを通じて大勢でお金を出し合う場合よりもずっと多額の資金を前もって蓄えておかねばならないだろう。中には火事への備えが一切できていないという人もいることだろう。その一方で、火災保険という仕組みを通じて大勢でお金を出し合えば、自分一人だけで備える場合よりもずっと少ないお金を用意すればよく、運悪く家が火事で燃えてもプールされたお金を引き出して家の補修に充てることができる。払い込まれる(保険料の)総額と支払われる(保険金の)総額とが必ず一致しなければならないわけでもない。社会保障制度を通じて提供される保険にしても同様である。

どうして政府が保険の提供に関与する必要があるのだろうか? 民間部門にその仕事を一任することはできないのだろうか?

社会保障制度を通じて提供されているタイプの保険は民間部門では十分に提供されないのではないかと疑うに足る理由がいくつかある。(アメリカで社会保障制度が創設された)1935年以前には民間部門でそのような保険は提供されていなかったが、この事実はその理由の一つである。企業年金の現状は満足いくものとは言えないが、この事実もまたもう一つの理由である。

経済理論的には「市場の失敗」の例だと言えるかもしれない。「市場の失敗」というのは民間部門で最適な量の財やサービスが提供されないケースを指している。「市場の失敗」を是正するためには政府の介入が要請される(必要とされる)ことになる。

仮に民間部門で(失業保険や年金といった)保険が提供されたとしても、多くの国民は退職後に備えて十分な貯蓄を蓄えられるとは限らない。社会保障制度は民間部門に保険の提供が委ねられた場合に生じる数々の問題を解決することを意図して創設された仕組みなのだ。

社会保障制度の民営化をめぐる議論では社会保障制度に備わる「保険」としての側面に十分な注意が払われているとは言えない。社会保障制度は貯蓄のための手段ではなく社会保険を提供するための仕組みである。国民一人ひとりが各自で経済面のリスクに備えるよりも政府による社会保険の提供を通じて社会全体でそれ(経済面のリスク)に備えた方がどうして望ましいと言えるのかをきちんと認識しておくことが大事である。

1935年よりも前の時代には(現在社会保障制度を通じて提供されているタイプの)保険の提供は民間部門に委ねられていたがうまくいかなかった。今でもうまくいかないだろうと疑うに足るもっともな理由はいくつもあるのだ。

現状の社会保障制度を手直しする必要があるのかどうかそれ自体も意見が分かれる問題である。手直しされた結果として社会保障制度に備わるセーフティーネットとしての機能が損なわれるようなことにでもなれば――社会保障制度の民営化はそのような方向に向けた一歩だと言えるが――、(経済面での)生活の安定を保障するために政府が国民と結んだ「社会契約」が揺らぐことにもなりかねないだろう。

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●Mark Thoma, “Social Insurance and the Severity of Recessions”(Economist’s View, August 1, 2009)


にわかに注目を集め出している問いがある。「(このたびの世界的な金融・経済危機の過程で)仮に財政刺激策も金融機関の救済策も採用されていなかったとしたら景気の現状はどれほど酷い有様になっていただろうか?」というのがそれだ。その確実な答えを知る手立てはないが、財政刺激策も金融機関の救済策も採用されていなかったとしたら景気の現状はずっと深刻なものとなっていたことだろうというのが私の考えだ。しかしながら、現状と比較するための仮想的なシナリオを実際に試してみないことには――そうすることは不可能なのだが――確実な答えを知ることはできない。

私にはかなり判然としているものの、世間からは十分な注目を集めているとは思えないことが一つある。景気後退に伴って個々の家計や経済全体が被る痛みを和らげる上で「自動安定化装置」(automatic stabilizer)1が果たした役割がそれだ。

「自動安定化装置とは何か?」という点から説明せねばなるまい。自動安定化装置というのは財政制度に埋め込まれた仕組みの一つであり、景気の変動に応じて税金の支払いや移転支出の一部(例. 失業保険やフードスタンプ)が自動的に増減するに任せることを通じて景気の安定化を図ることを狙いとした仕組みのことである。例えば、景気が悪化するとフードスタンプの受給者が増える(あるいは受給資格が緩和される)のに伴ってフードスタンプ向けの政府支出(歳出)が自動的に増えることになる。その結果として不景気の痛みが和らげられることになるのはフードスタンプを受給できた個人だけではない。フードスタンプを使った買い物が増えるおかげで企業とそこで働く従業員にも(不景気の痛みが和らぐという)恩恵が及ぶことになる(それだけではない。その恩恵は乗数効果が働くことでさらに広い範囲に行き渡ることになる)。また、景気が悪化して失業者が増えると失業保険の支給も増えることになり、これもまた総需要を下支えすることになる。さらには、景気が悪化すると対GDP比で測った所得税の支払いが減少することになるが、これもまたGDPを下支えする役割を果たすことになる。

コテコテの右派のアドバイスが聞き入れられて福祉国家プログラム――自動安定化装置として有効に機能しているプログラム――が取り除かれでもしていたら景気の現状はどれほど酷い有様になっていただろうか? (1930年代の)大恐慌の再演というところまではいかないだろう。それはどうしてかと言うと、当時に比べるとだいぶ豊かになっており、民間部門には緊急時に当てにできる資源(資産、財産)が(大恐慌当時よりも)豊富に蓄えられているからだ。とは言え、誰もが緊急時に備えて十分な財産を蓄えているわけではない。社会保険は現在では当たり前の存在と思われているが、アメリカに社会保険の仕組みが導入されたのは大恐慌以降のことである。仮に大恐慌以降に社会保険の仕組みが導入されることなく今日にまで至っていたとしたら、景気後退はずっと身近な存在として実感されることになっていただろうし、景気後退に伴ってアメリカ国民が被る痛みはずっと過酷なものとなっていたことだろう。だからといって社会保険のおかげで景気が悪化しても痛みを被らずに済んでいると言いたいわけではないし、社会保険制度の縮小を訴えたいわけでもない。(景気の悪化に伴って)痛みは今でも厳然として生じているし、その痛みを和らげるためにも社会保険制度を今よりももっと手厚いものにすべきだというのが私の意見だ。また、現状の社会保険制度には何の問題も無いと言いたいわけでもない。問題はある。しかしながら、これだけは切に訴えたい。景気後退の最中に社会保険が果たしている重要な役割(自動安定化装置としての役割)を見過ごしてはならない、と。

社会保険の給付水準やその具体的な形態については色んな意見があることだろう(私の個人的な意見としては、社会保険制度は今よりももっと手厚いものにすべきだと思うし、医療費も社会保険でカバーすべきだとも思う)。しかしながら、景気の悪化に伴って生じる痛みを和らげる上で社会保険が果たす「自動安定化装置」としての重要性と有用性については意見が割れることはあり得ないというのが私の考えだ。

景気後退への対処を意図した政策介入の有効性を評価するためには比較対象となる仮想的なシナリオを想定する必要があるが、そのような仮想的なシナリオとしては(一通りでなく)二通り考えられるだろう。「財政刺激策も金融機関の救済策も採用されていなかったとしたらどうなっていただろう?」というのが一つ目のシナリオであり、「財政刺激策も金融機関の救済策も採用されず、さらには社会保険に頼ることもできなかったとしたらどうなっていただろう?」というのが二つ目のシナリオである。一つ目のシナリオでも十分悲惨な結果が待ち構えていたことだろうが、二つ目のシナリオではさらに輪をかけて悲惨な結果が待ち構えていたことだろう。

  1. 訳注;「ビルト・イン・スタビライザー」とも呼ばれる []

Simeon Djankov:通貨が崩壊するとき

Simeon Djankov: When Currencies Collapse, (PIIE Realtime Economic Issues Watch. December 30th, 2015)

12月の終わり頃、アゼルバイジャンの通過であるマナトは1日でその3分の1の価値を失うことになった。それは、中央銀行が米ドルに対し固定相場制を取っていたマナトを変動相場制に変更する、と決定した後に起こったことだ。この一連の動きは国民を怒らせることになったが、それに止まらずコーカサス地方にまたがって波紋を広げることとなった。その直後に、隣接するグルジアで首相が辞任することとなり、通貨価値の変動はその突然の辞任の一因である、として引き合いに出された。これはコーカサス地方における痛みを伴う金融改革期の始まりに過ぎないのかもしれない。

 

2月初頭の平価切り下げと合わせて、アゼルバイジャンはその通貨価値を2015年中に対ドルで55%下げることとなった。その最大の原因は、主要な輸出品である石油とガスの価格の下落である。国家予算のこれらの産品への依存度は非常に大きいため、2015年における財政赤字はGDPの10%近くに達する見込みだ。アナリストたちはアゼルバイジャンの銀行部門における混乱を予想している。多くの企業及び一般家庭は、米ドルで多額の借り入れをしており、それをマナトを基準とした収入から返すことになるからだ。

 

他の国々もまた、同様の問題を抱えている。カザフスタンの通貨であるタンゲは2015年に対ドルで47%価値を下げ、グルジアの通貨価値は25%、ロシア通貨ルーブルは24%、トルクメニスタン・マナトは19%、それぞれ価値を下げた。これらの国々はどこも過去10年にわたる高い経済成長を享受しており、それは燃料の輸出とその運輸税に依っている。そして幸運な時代は終わりを告げた。

 

通貨価値が崩壊したとき、政府は何をすべきか。短期的には、過去の計画に沿った政府支出が可能である。たとえそれが大幅な財政赤字状態であったとしても。実例を見るならば、グルジアとロシアの2015年における財政赤字はGDPの3%を超え、アゼルバイジャンではそれよりもさらに大きい。そして長期的には、公共支出の削減による赤字の解消という難しい決断が迫られる。

 

通常では、公共部門の給与及び年金の凍結が最初に発効される。多くの消費者向け製品が海外からこれらの国々に輸入されることを考え合わせるならば、この凍結は国民が貧しくなる方向へといきなり方向転換することを意味する。二番目に行われることが、教育及び医療といった公共部門への支出の削減である。これらの部門では、以前と同等の業務水準が求められるのに、少ない予算でやりくりせねばならないことになる。そして三番目に、公共設備投資の削減が求められる。ロシアでは2018年のワールドカップ予算は据え置かれるものの、以前に計画されていた設備投資計画の60%の削減がすでに発表されている。さらに同様の発表がロシア以外の政府からも出されることが予想される。

 

民主主義社会では上記のような公告は政権交代、そしてしばしば選挙へとつながる。上記4カ国のうち唯一の民主主義国家であるグルジアではすでに政府内部の入れ替えが見られる。その他の国々では、個々の大臣が政府の支持率を上げるための犠牲となっている例が見受けられるものの、政権そのものは維持されている。ただし、それが維持できるのも通貨価値が下落し続けない限り、だ。

 

マーク・ソーマ 「社会保険の無い世界」(2005年3月16日)

●Mark Thoma, “Lest We Forget: Life After the Great Depression”(Economist’s View, March 16, 2005)


こちらのエントリー〔拙訳はこちら(の前半の記事)〕では(経済面のリスクから身を守る上での)社会保険の必要性を抽象的な観点から論じたが、今回のエントリーでは個別具体的なエピソード(パーソナルストーリー)に焦点を合わせる。アメリカに社会保険の仕組みが導入されたのは1935年のことだが、まずはじめに紹介する「失業に関する事例研究」(Case studies of unemployment)サイトでは社会保険が導入される前のアメリカ社会における庶民の生活実態について数多くのエピソードが集められている。今回はその中の一つを引用するが、他にも保険の私的供給が「市場の失敗」に陥った事例も多数報告されていることも付け加えておこう。

食費の切り詰め(Cutting Down on Food)

日々の暮らしを襲う逆風がその勢いを増すにつれ、市井の人々は自らの身を守るための自衛策により一層本格的に乗り出し始めることになる。ニューヨーク市に住む主婦のカルダニ氏は語る。「詳しく語らなくてもおわかりになりますよね? 家賃を払うと手元にお金はほとんど残りません。となると、私たちがどういう生活をしているかおわかりになりますよね? 真っ当に生きる1つもりであればどういう生活を送らざるを得ないかおわかりになりますよね?」。母親の言わんとしていることがはっきりと伝わっていないかもしれないと思ったのだろう。カルダニ夫人の幼い娘が口を挟む。「ご飯の量を減らしているのよ。私たちはそうしているの」。ボストン市に住むツォーシス一家は「(空腹感を紛らすために)ベルトをきつく締めて」(食費を切り詰めて)対応しており、マディソン市に住むジャイモス一家の食卓ではポテトとパン、そして豆くらいしか子供に振舞う余裕がないという。ニューオーリンズ市に住むモントレー家の子供たちは市場(いちば)で廃棄された肉や野菜の残りを漁って食べている。アトランタ市に住むバートリー家には子供が4人いるが、1週間の食費を5ドル以下に抑えて一冬を過ごしたという。バートリー家の食卓を飾るのはトウモロコシパンに塩漬け肉、そして乾燥豆。それも1日2食が限界だという。バートリー夫人がたびたび失神の発作に襲われるため仕方なく病院に連れて行くと「栄養失調」と診断されたという。

フィラデルフィア市に住む二つの家族が置かれた状況については両夫人に直接語ってもらうことにしよう。

まずはホワイト夫人の言。「ハリーとジョアンが飢え死にしかかっている姿をただ見ているだけでした。夫が週給25ドル2の職を失って新たな職(週給21ドルの職)を探している最中に二人が通う学校から『栄養失調』と書かれたカードを受け取りました。この前の冬に夫は再び失業してしまったのですが、その時にもまた学校から『栄養失調』と書かれたカードを受け取りました。どうにかしようと頑張っても日曜日に子供たちに食事を用意できる機会は滅多にありませんでした。デザートなんてとてもとても・・・」。

次にカーク夫人の言。「子供たちは食事抜きの生活に慣れていました。そのため、食事を前にしてもそれほどたくさんは食べられませんでした。彼らは多くを語りませんでしたが、家には何もないことはわかっていたんだと思います」。

個々の家庭レベルでとり得る自衛策の一つが「食費の切り詰め」だったというわけだが、聞き取り調査をした対象世帯の3件に1件はあまりの過酷さのためにその実状をあえて紹介する必要を感じたほどだ。次々に語られる「栄養失調」のエピソード。抵抗力が弱まっているために病気がちな生活を送らざるを得ない例も枚挙に暇がない。失業を防ぐためには貧窮や空腹といった痛みも必要だという意見3があるが、このたびの聞き取り調査を通じて集められた実例はそう軽々しく考えてはいられないことを物語っている。

社会保険の必要性に疑問を感じる人もいるかもしれない。そういう人は「失業に関する事例研究」サイトを細かくチェックしてみるといい。胸を刺されるような多数の実例を通じて「社会保険の無い世界」(社会保険制度が創設される前の時代の生活)というのがどういうものかを詳しく知ることができるだろう。 [Read more…]

  1. 訳注;犯罪に手を染めないという意味も込められているものと思われる。 []
  2. 訳注;原文では「25ドル」としか言及されていないが、大恐慌当時の週給に関するデータの一つ(pdf)を踏まえて「週給25ドル」としておいた。 []
  3. 訳注;「失業すると貧しくてひもじい生活が待っている」という可能性があると、それが一種の脅しとなって自ら失業を選ぶことを躊躇させる(あるいは、一旦失業してもすぐに職探しに乗り出すように駆り立てる)効果があるという考え。 []

タイラー・コーエン「テレパスっぽくなる方法」

[Tyler Cowen, “How to seem telepathic,” Marginal Revolution, January 20, 2016.]

Cerebro2-XM

もしかしたら,これは本ブログを1年通して読んでえられるいちばん有益なことの1つかもしれない.Maria Konnikova の新著 Confidence Game(『瞞し瞞され:詐欺の心理,毎度まんまと引っかかる理由』)の一節から:

2010年に,ベン=グリオン大学のニコラス・エプリーとタル・エヤルが一連の実験結果を公表した.実験の目的は,対人・知覚知覚スキルを改善することだ.論文の題名は:「テレパスらしく振る舞う方法」(How to Seem Telepathic).エプリーとエヤルの発見によれば,私たちがみずからを分析する方法と他人を分析する方法に基本的なくいちがいがあることから,我々がおかす錯誤の多くが生じているという.自己分析するとき,わたしたちは精細かつ文脈をとりこんで細部まで考える.ところが他人について考えるとき,私たちはもっと一般的で抽象的な水準で思考する.たとえば,「どれくらい魅力的か?」という質問でも,自分じしんについて問うときと,他人について問うときには,利用する手がかりがおおきく異なる.じぶんの外見について考えるとき,「朝おきて鏡をみたときの髪の様子がどうだったか」「じゅうぶんに睡眠はとれているか」 「今日の肌つやにシャツがどれくらい合っているか」といったことを考慮に入れる.他人の外見について考えるときには,全体的な印象に基づいて判断する.つまり,ここには2つの食い違いがある:1つは他人がじぶんをどう見ているかについてよくわかっていないということ,もう1つは他人がその人じしんについてどう思っているか私たちは正確に判断していないということだ.

だが,分析の水準を調整してやれば,もっとずっと直観がするどくて正確なようにみせかけられる.ある研究では,他人が自分をどう認識するかの判断精度がある要因で高まった.判断する当日ではなくて,数ヶ月後にじぶんの写真が評価されると被験者に考えてもらったのだ.また,自己紹介の録音を数ヶ月後に聞いてもらうと考えてもらったときにも,同様の精度の変化が生じた[TC: ロビン・ハンソンのいう近距離モードと遠距離モードを想起].数ヶ月後に判断されると想像するだけで,他人がなにげなく使いがちなのと同じ抽象的レンズに突如きりかわったわけだ.(…)

この一節を読んだとき,長年ずっとこういう観点でじぶんが考えてきたのに気づいた.ただ,ここまではっきりと言葉にして自覚したことはなかった.

ここから1つの含意がでてくる:朝起きて気分がよくなかったときには,そのまま落ち込んで自信をしぼませないこと.他人は,きっとこちらの問題には気づかないはずだ.

含意はまだある:その日の調子について自分がその瞬間に抱いている印象から距離をとっているフリをしてみると気持ちが上向くのも〔上記の研究から〕わかる.あたかも一週間放置していた原稿のように我が身を眺めるんだ.一週間たって見返してみると,原稿も我が身も新鮮に見える.

3つ目の含意:他人の気分をうまく読み取るには,相手から受ける全体の印象を一部無視して,じぶんの状況・外見・ストレスレベルのちょっとした変化だと相手が知覚していそうなところに注意を向けるといい.

もとの研究はこちら,一読の価値はある (pdf).Konnikova の新著にはいろんな書評がでている

マーク・ソーマ 「『ポール・クルーグマン: 医療制度改革の現実』」 (2016年1月18日)

Mark Thoma, “Paul Krugman: Health Reform Realities“, (Economist’s View, Monday, January 18, 2016)


単一支払者制 [single-payer] 医療制度の制定に取組むべき価値は在るか?:

医療制度改革の現実: ポールクルーグマンの論考 (ニューヨークタイムズ): …オバマケアは…忙しなく働く可動部分が山ほど付いた、幾分ごたごたぎこちない制度である。だから費用は本来あるべきところより高くついてしまっているし、そのせいで制度の隙間に落ち込んだまま見過ごされてしまう人が将来にも常に相当数出て来るだろう。

そこで進歩派にはこの問いが突き付けられることとなる。いまや民主党予備選挙の中心的論題ともなっているその問いとはすなわち、以上のような欠点が故に、進歩派は自らが成し遂げた、ほぼ半世紀に亘る期間中で最大の政治的成功を一から検討し直し、何らかのより優れた制度の確立に向け取り組む必要が在るのか、それとも無いのか、これである。

私の答えは…否、その必要は無い、進歩派は医療制度の漸次的変更を目指すべきである (公的医療保険 [public option] を復活させよ!)、そして他の問題への取組みに専ら力を割くべきである、となる…

仮にまた一から始めることとなれば、医療経済学者の多く、いやきっとその殆どが、単一支払者制度の採用を推奨するだろう。つまりメディケア型の制度であらゆる人をカバーする方が良いという訳だ。しかし [アメリカにおいて]、単一支払者制度は政治的に実現可能な目標ではない。それには3つの大きな理由が在る…

第一に、好むと好まざるとに関わらず、既存勢力が大きな権力を握っているという事実が在る。…

第二に、単一支払者制度を採用すればかなり大きな追加的税収が必要となる – したがって中間層の租税を議論の俎上に載せねばならぬこととなろう。…

最後に、またこれが最も重要な点ではないかと疑っているのだが、単一支払者制度への切り替えは、現在すでに雇い主を介して良好な保険適用を確保している何千万もの世帯に大きな混乱を生じさせることになりそうなのだ。…

これが意味するのは、医療政策の専門家Harold Pollackも指摘している点だが、全くの純然たる単一支払者制度はどうにも実現しそうもないということである。…

そこでアフォーダブル・ケア・アクトの話になる。というのも、同制度は前述の障碍を回避できるように設計されたのだった。…それでもなお、本改革の実現は際どいもので、民主党員は合衆国議会の主導権を握ったのほんの束の間に辛うじて同法案を通過させることが出来たに過ぎない。したがって、何か抜本的な改革案をそう遠くない時期までに、例えば続く8年以内にでも、制定させる現実的見込みが幾らかでも在るかと訊かれれば、 否と答える他無い。

やってみるだけの価値はあるのでは、そう仰る方もいるかもしれない。だが政治というものも人生と同じで、何かを得る為には何かを犠牲にしなければならないのだ。

進歩派の政策課題事項は多い。効果的な気候変動政策をはじめ、大学を誰もが手の届く所にする事、失われた労働者交渉力を幾らかでも回復させる事にも取り組まなくてはならない。これら事項の何れを進展させるにせよ、道のりは辛く険しい。この点はもし仮に民主党員がホワイトハウスを手中に収め、さらに、可能性は低くなるが合衆国上院までも再び自らのものとした場合でも、変わらないのである。…

したがって、進歩派は幾つかの優先事項を設定してゆかねばならない。そして、こういった情勢の下では、せっかくの政治的資本を一旦やり終えた事項のやり直しそうというドン・キホーテ的試みに費やすべき理由を見出すのは困難といわざるを得ない。それも失政を挽回しようというでなく、医療制度改革を、民主党の久方ぶりの大成功をやり直そうというのだから、尚更だ。

 

 

 

 

 

 

 

マーク・ソーマ 「スタインベックの回想 ~激動の1930年代を振り返る~」(2009年4月19日)

●Mark Thoma, “John Steinbeck: A Primer on the ’30s’”(Economist’s View, April 19, 2009)


『怒りの葡萄』の著者である)ジョン・スタインベック(John Steinbeck)が1930年代を回想して書いた文章1が知人からメールで送られてきた。

●John Steinbeck(1960), “A Primer on the ’30s’”(in America and Americans and Selected Nonfiction, pp. 17-31):

1930年代の記憶はしっかりと脳裏に焼き付いている。過酷な30年代。トラブル三昧の30年代。意気揚々たる30年代。上り調子の30年代。・・・(中略)・・・1929年の記憶は鮮明そのものだ。・・・(中略)・・・株価の高騰のおかげで普通に働いていればおそらく手に入れることなど思いもよらなかった大金を紙の財産のかたちで稼ぎ出し、意識も虚ろに幸せそうな顔を浮かべる人々の群れ。・・・(中略)・・・私が住んでいた小さな町では、銀行の頭取も保線作業員もブローカーと連絡をとるために我先にと公衆電話に駆け込む姿が当たり前の光景だった。誰も彼もが多かれ少なかれブローカーだったのだ。昼飯時になると、お店の店員も速記者もサンドウィッチをほおばりながら株価ボードをにらみつけ、ピラミッド式に膨らむ財産の勘定に忙しい。カジノのルーレット盤のあたりに足を運べば似たような光景を目にすることができるだろう。

・・・(中略)・・・

そうこうしているうちに株価の暴落が始まった。・・・(中略)・・・事情通のその世界の大物たち(Big Boys)がメディアの取材に繰り返し応じていた姿を思い出す。破産の瀬戸際に立たされた百万長者たちを安心させるためにわざわざ新聞に次のような広告を出した大物もいた。・・・(中略)・・・「恐れる必要はありません。買いです。買い続けるのです」。その間に大物たちはまんまと売り抜ける。株価の下落は止まらない。

パニックが到来し、しばらくすると世間にはどんよりとしたムードが漂い始める。・・・(中略)・・・通りには頭を強打された後かのようにそこら中をのろのろと徘徊する人々の群れ。・・・(中略)・・・人々はふと思い出す。「そう言えば銀行の預金口座にいくらかお金が残っていたはずだ」。何も信じられない世界で唯一頼りになる確実なもの。人々はわずかな預金を引き出すために銀行に殺到する。そこら中で殴り合いや暴動が頻発し、大量の警察官が出動する。倒産する銀行も現れ、(「あそこの銀行も倒産間近らしい」との)噂が街を駆け巡る。

・・・(中略)・・・

権力の座に就いていた人々はどうだったか? 当時の私の感覚では米政府も自信を失って恐れ戦いていたかのようだったし、今振り返ってもそう思う。ホワイトハウスの周囲には厳重な警備体制が敷かれ、その様子は大統領が同胞(国民)のことを恐れている何よりの証拠のように見えた。・・・(中略)・・・ ホワイトハウスを取り巻く当時の状況を長々と語ってきた理由は政治の世界だけでなくその他の世界のリーダーたちの姿勢もそこによく表現されているからだ。ビジネス界のリーダーたちも銀行家たちもパニックに陥っていた。労働者たちは工場を閉鎖しないでくれと懇願した。・・・(中略)・・・リーダーたちは恐怖で震える声で語り続けた。深刻な不況など起きるはずがない、と。しかし、現実はその方向に向かって着実に歩を進めている最中だった。

・・・(中略)・・・

他人の家に侵入して盗みを働く必要はなかった。・・・(中略)・・・WPA(公共事業促進局)が国中で仕事を提供していたからだ。・・・WPAは働き手たちを一箇所に縛り付けた。というのは、WPAが用意した仕事というのはシャベルにもたれかかることくらいだったからだ。私の叔父はWPAに救済された人々がシャベルにもたれかかっている姿を見て苛立ちを募らせている一人だった。「シャベルにもたれかかることも必要なんです」。私がそう主張してもその叔父は嘲るばかり。そこで賭けを申し出た。「叔父さんは15分間一度も休まずに砂をすくい続けられますか? 5ドル賭けてもいい。絶対にできませんから」(正直なところ、その時は5ドルなんて大金は持ち合わせていなかったけれど)。叔父は近くにあったシャベルをつかんで砂をすくい始めた。砂をすくい始めてから3分も経つと叔父の顔は真っ赤になり、6分経つ頃には足元がふらつき出した。叔父に卒中でひっくり返られてはたまらないということで叔父の奥さんが割って入ったのは叔父が砂をすくい始めてからまだ8分も経っていない頃だった。それ以降、叔父の口からシャベルもたれの話題が出ることは一切なかった。頭脳労働は肉体労働よりも大変だという意見を耳にするたびに笑いが込み上げてくるものだ。デスクを離れてシャベルを手に取ることを好き好んで選ぶ人なんて果たしているだろうか?

・・・(中略)・・・

しかしながら、ヒトラーがのし上がり、ムッソリーニが鉄道を時刻表通りに走らせた30年代はアメリカでもツァー(独裁者)の成り手が続々と名乗りを上げた時代だった。ジェラルド・スミス(Gerald L.K. Smith)カフリン神父(Charles Coughlin)ヒューイ・ロング(Huey Long)フランシス・タウンセンド(Francis Townsend)。社会不安や社会の混乱、民衆の憎悪を利用して権力をその手につかもうと画策した面々だ。

クー・クラックス・クラン(KKK)も少なくとも構成員の数に照らす限りではその勢いを増した。・・・(中略)・・・共産主義者たちもアクティブに動き回り、誰とでも共同戦線を張る意向を打ち出していた。・・・(中略)・・・生活のすべてをかけてストライキにのめり込んだタフな連中は別だが、私が実際に会った「いわゆる共産主義者」の大半は中流層で中年の人間によって占められており、夢心地な気分で政治活動に参加していた。経済的に恵まれていたとある女性が自分よりも裕福な同志の女性にこう語りかけていたことを思い出す。「革命が成就した暁には今よりもっと裕福な生活が待っている。そうですわよね?」。

・・・(中略)・・・

とある晩にはマディソン・スクエア・ガーデンで開かれた親ナチス組織の集会の様子をラジオで聴いた。訓練が行き届いた様子の茶色の服を着た大勢の聴衆を前にして憎悪を煽る金切り声が響き渡る。しばらくすると壇上で語る男の口から見過ごせない発言が飛び出たようだ。床に叩きつけられて壇上から引き摺り下ろされる男。拳で体を殴る音が聞こえる。その男の口から出たのは「アメリカ最優先」を訴える主張だった。ラジオの前にいる人間にはナチスの姿勢と瓜二つに聞こえたものだ。

・・(中略)・・・

繁栄が再び訪れる。暗い日々を彩った温かみのある友好的な交わり――デトロイトでの凶暴なストライキとそれに対する使用者側の報復、シカゴでの人種暴動、催涙ガスに警棒、ピケットラインを挟んで交わされるヤジの応酬、ひっくり返された車――も最早過去のものだ。獰猛さは恐怖の裏返しだ。男というのは怯えると残忍に振舞わずにはいられない生き物なのだ。

・・・(中略)・・・

奇妙な出来事が目白押しの30年代も終わりを迎えようとしていた。それから後は時間の流れが早まったように思われたものだ。アメリカ国家もアメリカ国民も知らず知らずのうちに密かな変化を遂げていた。正真正銘の革命が成し遂げられていた。しかし、その最中にはそのことにうっすらとしか気付かれていなかった。

・・・(中略)・・・

数週間前のことだ。ニューヨークのミッドタウンで働く友人を訪問したのだが、昼飯を食べるために連れ立つと「君に見せたいものがある」とその友人。連れて行かれたのはブローカーの事務所。株式の取引状況をびっしりと記録した木製のボードが壁一面を覆い尽くす。・・・(中略)・・・そのオーク材のボードの背後にいるのは立錐の余地もなく立ち並ぶ市井の人々だ。事務員に速記者、笑顔を浮かべるビジネスマン。彼らの大半は昼飯時にサンドウィッチをほおばりながら株式市況を確認するのに余念が無い。・・・(中略)・・・恍惚の表情で目が据わっている。カジノのルーレット盤のあたりでよく目にする光景だ。

  1. 訳注;私自身は現物を確認していないが、スタインベックのこの文章は『「エスクァイア」で読むアメリカ(上)』の中に「パニック、繁栄、そして戦争」(宮脇孝雄訳)というタイトルで訳された上で収録されているようだ。 []

マーク・ソーマ 「『石油価格・中国・株式市場のハーディング現象』」 (2016年1月17日)

Mark Thoma, ‘The Price of Oil, China, and Stock Market Herding’, (Economist’s View, Sunday, January 17, 2016)


オリヴィエ・ブランチャード (Olivier Blanchard) の記事から:

石油価格・中国・株式市場のハーディング現象: 株式市場の動向はここ2週間のところ全く不可解だった。

中国原因説からみていこう。実際、中国の成長率衰退は世界を一変する大事件にもなるかもしれない。だが、それほどまでの衰退を示す実証データは実は全く存在しない。…

では石油価格説はどうか。こちらはいっそう不可解だ。従来は、石油価格の低下は、例えば合衆国といった石油輸入国にとって当然グッドニュースとなると考えられていた。…[つまり、消費者は使えるお金が増えれば消費を増やし、アウトプットを増加させる、そしてエネルギー消費企業も生産コストが減れば投資を増加させる、だろうという訳だ]…しかし我々が昨年学んだところだが、短期的にみれば、エネルギー生産企業に対する投資に負の影響がたちどころに現われ、一時的に同効果を遅らせてしまうことも在り得るのである。とはいえ、勿論これは結論の大勢を覆すほどのものではない。しかし現在新聞等の見出しでは低石油価格が低株価につながったとの説が盛んである。…

市場コメンタリーを信用すべきではないのかもしれない。或いは、問題は石油でも中国でもないのかもしれない。それとも我々が目にしているものは世界経済の低迷に対する遅れた反応に過ぎないのかも…云々…

私の考えでは、説明因子は専ら他の所に在る。思うに、ハーディング現象がかなり大きく作用しているのだ。他の投資家が売りに出るならそれはこっちの知らない何かを知っているからに決まっている、だからこちらも売りに出るべきだ、じゃあ売りに出よう、と、斯くして株価の低落が生まれる訳である。しかし何故いまなのか? 恐らく、恐らく我々はさらなる不確実性の時節に突入したということなのだろう。…

それで結局、我々はどれくらい警戒しているべきなのか? 経済学からの解答は…ここでついにあの悪名高い二刀流的容貌を帯びるのである。曰く、数日或いは数週間の内に、ファンダメンタルズの状態が実際にはそうひどくなっていないことが判明する場合、株価は復活するだろう… しかし、株価市場の不調がもっと長引くなり悪化するなりした場合には、株式市場は 『自己実現的 [self-filling]』 なものとも成り得る、と。長引く低株価は低消費や低需要に、さらに潜在的には不況にまでつながり得る。Fedの需要低迷に対する迎撃力は、心機一転してゼロ金利下限を脱したばかりという状況もあり、依然として限られている。したがって、第一のシナリオとなるよう祈りつつ、第二シナリオにも警戒してゆく必要があるのだ。

 

マーク・ソーマ 「『ポール・クルーグマン: 巨大格差は必要か?』」 (2016年1月15日)

Mark Thoma, “Paul Krugman: Is Vast Inequality Necessary?“, (Economist’s View, Friday, January 15, 2016) 


ランプの魔ジニ係数よ、もう元に戻る時だ:

巨大格差は必要か? : ポール・クルーグマンの論考 (ニューヨークタイムズ): 富裕層にはどのくらい富裕になってもらう必要があるのか?

ふざけているのではない。真面目な質問である。それどころか合衆国の政治は実質的にこの問いをめぐって繰り広げられているのだとの立論さえ在り得る。つまり一方でリベラル陣営は高所得を対象とした増税と、その収益を用いたソーシャルセーフティネットの拡充を目指しているが、他方の保守陣営の目指すのはまさにその逆で、その主張も 『富裕層に課税せよ』 政策は富の創出へのインセンティブを減じることであらゆる人に害を与えるものだ、という具合になる。

さて、近時の情勢は保守陣営の立場にとって安楽なものではなかった。…だがもっと長期的な視点からみるならば、巨大格差を是認させるような事例も存在するのだろうか?…

極端な格差を生じさせるかもしれない状況を定式化した3つのモデルが在るのだが、これに依りつつ議論を進めてゆくのが有益だと思う。なお、実際の経済 [the real economy] は同3モデル全ての要素を含むものである。

第一に、個人の生産能力に甚だしい差が有るせいで、大格差が生ずる場合が考え得る。..

第二に、運不運を専らの原因とする大格差が生じる場合も在り得る…、ジャックポットを射止めた者が…然るべき時に然るべき席に着いていたのは全くの偶然である。

第三に、権力が原因となって大格差が生じる場合も在るだろう。例えば自分の得る報酬を決定できる大企業の重役や、内部情報の恩恵で、或いは不慣れな素人投資家から不相当に大きな料金を徴収したりとかで大いに儲けている辣腕金融業者がこれに当たる。

先ほど述べたように、実際の経済にはこの3つの筋書き全ての要素が含まれているのだ。…

しかし何れにせよ真の問題は、現在少数のエリートの下へと向かう所得の流れからその一定部分を、経済発展に深刻な影響無しに、他の目的へと再分配することが可能か否かという点に在る。

再分配そのものが本質的に正しくないなどとは言わないで欲しい。たとえ高所得が生産能力を完璧に反映するものであったとしても、市場での帰趨は倫理的正当性と同一ではない。そのうえ、富が幸運ないし権力の何れかを反映するものであることのままある現実を顧みれば、そういった富の一定部分を徴収し、全体としての社会の力を増す為にこれを用いるというのも十分説得的な議論となろう。尤も、それが富の創出を継続すべきインセンティブを破壊しない範囲での話ではある。

さらに、そんな風にしてインセンティブが破壊されるだろうと信ずるべき理由もじつは全く無いのだ。歴史を振り返れば、アメリカが最も急速に成長し、テクノロジー上の発展を遂げたのは1950年代から1960年代の時期という他ない。この時期にはしかし、今日と比べてトップ層への税率は遥かに大きく、格差の方も遥かに小さかったのである。

今日の世界では、スウェーデンのような高税・低格差諸国はさらに、高いイノベーション性と、スタートアップ企業にとっての本拠地の性質を共に兼ね備えている。その理由の一部には、確かなセーフティネットのおかげでリスクテイキングが大いに促されているところも有るだろう。…

ここで今一度初めの問いに立ち返れば、答えは 『ノー』 となる。つまり富裕層が現在ほど富裕である必要は無いのである。格差は不可避だ。しかし今日のアメリカにみられる巨大格差は、不可避でない。

 

 

 

 

 

 

 

マーク・ソーマ 「『怒りの葡萄』を教材に経済学を学ぶ?」(2011年12月8日)

●Mark Thoma, ““A Bluesy Road-Novel with a Lot of Economic Theory and Analysis””(Economist’s View, December 8, 2011)


スタインベックの『怒りの葡萄』を教材にしてミクロ経済学を教える。私にはそんなアイデアはこれまでに一度として考え付かなかったし、仮に思い付いたとしてもそれを実行する勇気は持てなかったことだろう。

———————————(引用ここから)———————————

Microeconomics using “The Grapes of Wrath”” by INET:

ルーズベルト大学シカゴ校の理事であり経済学部の教授でもあるスティーブン・ジリアク(Stephen Ziliak)――彼は新経済思想研究所(INET)のカリキュラム委員会タスクフォースのメンバーの一人でもある――は自らが受け持つ入門ミクロ経済学の講義でスタインベックの『怒りの葡萄』(1939年発表)を教材に用いているという。講義のシラバスはこちら(pdf)である。

ジョン・スタインベック(John Steinbeck)の『怒りの葡萄』(The Grapes of Wrath)が出版されたのは1939年。アメリカを含めて世界中が歴史上最も過酷な経済危機に見舞われていた最中に執筆・出版されたことになる。大恐慌(Great Depression)の最中に執筆された『怒りの葡萄』は憂いを帯びたブルース調のロードノベル(旅小説)であると同時に、社会や経済に対する理論的な分析に満ち溢れた一冊でもある。この小説では家と土地を失ったオクラホマ州出身の貧しい小作農家――ジョード一家――の足取りが追われている。ジョード一家は銀行からの借金が返せなくなり、先祖代々何世代にもわたって耕し生活してきた土地から立ち退かざるを得なくなったのである。

大銀行と不在地主の手によって家を追われたジョード一家の面々。学もお金も無い中西部の農家一同は同じような境遇に置かれた大勢の人々の群れに混じってカリフォルニアを目指して旅に出る。職と食糧、そして家を手に入れるために。アメリカンドリームをその手につかむために。

ピューリッツァー賞を受賞した本書は長年にわたり検閲の対象とされ発禁処分の憂き目にもあうことになった。経済格差や農民たちの窮乏、貧民たちに加えられる抑圧を事細かに描き出した本書の記述をよく思わない勢力が政府や教育委員会の中にいたためである。

ジリアク教授が経済学の入門講義で『怒りの葡萄』を教材としてはじめて使ったのは1996年のことらしいが、『怒りの葡萄』を教材に経済学を教える過程で得られた体験についてジリアク教授本人に直接伺うことができた。 [Read more…]

タイラー・コーエン 「経済学を学ぶ上でもってこいの小説は何か?」(2007年5月9日)/「政治について学ぶ上でもってこいの小説は何か?」(2007年1月26日)

●Tyler Cowen, “What are the best novels for teaching economics?”(Marginal Revolution, May 9, 2007)/【訳者による付記】関連エントリーとして本サイトで訳出されているタイラー・コーエン 「文学作品で学ぶ経済学」タイラー・コーエン 「金融政策を扱った小説にはどんなものがある?」もあわせて参照されたい。


エズラ・クライン(Ezra Klein)から次のような質問を頂戴した。

経済学を理解する(経済学的な考え方を学ぶ)上でもってこいのフィクションは何だと思いますか? 政治的に左寄りでも右寄りでもどっちでも構いませんが、私の政治的な立ち位置からするとスタインベックの『怒りの葡萄』を挙げたいところです。この点について貴殿のお気に入りの作品は何でしょうか? どういうお考えか興味があります。

平等主義への批判を学ぶためにカート・ヴォネガット(Kurt Vonnegut)のSF短編『Harrison Bergeron』(「ハリソン・バージロン」)を読めばいいという声もあれば、アイン・ランド(Ayn Rand)のアナルコ・キャピタリズム(無政府資本主義)をテーマとするSF小説を読むべきだという声もあるだろう。経済学と文学の融合を試みたラッセル・ロバーツ(Russell Roberts)の一連の作品も勿論外せない1。西洋の古典文学から選ぶとなると――政治的な傾向云々はひとまず脇において――(経済学的な考え方を学ぶ上では)何がいいだろうか?

個人的には1660年~1775年あたりのイギリス文学に目がいく。デフォーにはじまりスウィフトボズウェル、その他諸々と続く流れだが、いずれの作品も経済学者流の「合理的選択」の発想に立って書かれているように私の目には映る。ただし、承認欲求(他者からの賞賛を追い求める心性)や自己欺瞞、個人の行動に伴う負の側面(個人の行動が社会全体によからぬ帰結をもたらす可能性)への着目といった独特のひねりが効いてはいるが(この点について詳しくは私の『In Praise of Commercial Culture』の中の文学を扱った章を参照してもらいたい)。彼らの作品はアダム・スミスの『道徳感情論』のまごうことなき源泉ともなっているのだ。ディケンズバルザックもいいだろうが、私にはあまりに一本調子なように感じる。ハリエット・マルティーノにしてもそうだ。とは言え、18世紀の文学作品は相変わらず時代の先を行っている面があり、基本的な経済学を学んだり政策問題について深く考える助けにはきっとならないだろう。

読者の皆さんのお薦めは何だろうか?

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●Tyler Cowen, “What are the best novels about politics?”(Marginal Revolution, January 26, 2007)


エコノミスト誌のDemocracy in Americaブログで「政治について学ぶ上でもってこいの芸術作品は何だろうか?」という問いが投げ掛けられている。私としては本に話を絞りたいところだ。それも哲学書は除いてフィクションに限定すると、以下の5冊が頭に浮かぶ。

1. シェイクスピアの(一連の歴史劇である)『ヘンリアード2:筆頭に挙げるべきはこれだ。一冊じゃないじゃないかという意見もあるかもしれないが、全部挙げようとするとそれだけ余分にスペースを使ってしまうことになるだろう。内面の心理描写が中心であり、そういう意味では政治よりも人間心理の話題が前面に出ているところはある。既成の道徳に縛られずに奔放な生き方を貫く立場(libertinism)も権力とは決して無縁ではないことが学べるだろう。

2. ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』:政治の世界(政治的な行動)を理解するためには虚栄心やプライド、自己欺瞞の役割をおさえておくことがキーとなるが、この本ではそのあたりのことが学べる。スウィフトは「ゲームのルール」についても深く理解していることがわかる。

3. モンテスキューの『ペルシア人の手紙』:ところで、モンティ・パイソンの寸劇「Summarize Proust」(プルースト要約選手権)はもうご覧になっただろうか?

4. ソポクレスの『アンティゴネ』:「家族の掟」と「国家の掟」との対立は今もなおイラクをはじめとして多くの地域を悩ませている問題だ。

5. ホメロスの『オデュッセイア』と『イリアス』:『オデュッセイア』は物語としても優れているが、比較体制論の深遠な研究としても読める。『イリアス』を読めば戦争に関する冷酷な真実を学べるだろう。

上で挙げた作品はどれも普通の意味での小説には括られないところは個人的に興味深く感じる。カフカの『審判』は世俗の出来事を扱っているというよりは神学の分野に括られる作品だというのが私なりの読み方だ。冒頭で触れたエコノミスト誌のブログでは「職業としての政治」について学べる小説として『プライマリー・カラーズ: 小説アメリカ大統領選』とチャールズ・パーシー・スノー(C.P. Snow)の『Corridors of Power』(「権力の回廊」)、そしてロバート・ペン・ウォーレン(Robert Penn Warren)の『すべて王の臣』の三冊が推薦されている。

アメリカン・エンタープライズ研究所(AEI)が発行しているアメリカン誌で「ビジネスをテーマとした小説10選」が掲げられている3が、「ビジネスについて学べる小説は何だろう?」と考えてみることは「政治について学べる小説は何だろう?」と頭を巡らすことに比べるとそれほど有益でもなければそんなに楽しい営みでもないだろう。それはどうしてかというと、ビジネスの世界における真実はフィクションの枠組みの中では陳腐なものに見えてしまうためなのだろう。

  1. 訳注;この点については本サイトで訳出されている次のエントリーも参照されたい。 ●アレックス・タバロック 「ロマンティックな経済学者」(2016年1月14日) []
  2. 訳注;『リチャード二世』/『ヘンリー四世 第1部』/『ヘンリー四世 第2部』/『ヘンリー五世』の四部作。 []
  3. 訳注;リンク切れ。代わりに件の話題を取り上げている次の記事を参照されたい。 ●Nick Gillespie, “The 10 Best Business Novels. Or Not.”(reason.com, January 25, 2007) []