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Archives for 2月 2017

ラルス・クリステンセン 「キューバ危機の痕跡はどこ? ~キューバ危機時の米国株式市場の反応は何を物語っているか?~」(2014年4月17日)

●Lars Christensen, “The Cuban missile crisis never happened (or at least the stock markets didn’t care)”(The Market Monetarist, April 17, 2014)


歴史書を紐解くと、冷戦時代の最中に起こった最も戦慄的な出来事の一つとして「キューバ危機」(キューバミサイル危機)が挙げられているのがよく目に付く。キューバ危機、それは全世界が核ハルマゲドン(核戦争という名の最終戦争)の瀬戸際に立たされた瞬間。歴史書ではそのように語られている。

しかしながら、歴史書は間違っているかもしれない。少なくとも当時の米国の株式市場の反応に照らす限りではそのように言えるかもしれない。第三次世界大戦の一歩手前まできていたのが本当だとすれば、株価はキューバ危機の最中に――石が坂を転げ落ちるように――急降下していてもおかしくないはずである。

実際のところはどうだったか? S&P500指数(株価指数の一つ)は急落なんてしなかった。1962年10月のあの13日間――米国とソ連との間で緊迫したにらみ合いが続いたあの13日間――を通じてS&P500指数には何の波風も立たなかった。あともう少しのところで第三次世界大戦にまで発展していたかもしれないことを踏まえると、この事実は何とも驚くべきことであるように思える。

米国とソ連との間でにらみ合いが続いていた間に株価には何の変調も見られなかったのはどうしてなのだろうか? その理由としてはいくつか候補が考えられる。キューバ危機はいわゆる「相互確証破壊」(MAD)の実例であり、そのことが関係しているというのがそのうちの一つだ。どちらか一方が先制的な核攻撃を仕掛ければその先には核兵器の撃ち合いが待っている。そうなってしまえばもう勝者などいない。米国(の上層部)もソ連(の上層部)もそのことをよくよくわかっており、核戦争を本気で始める気などどちらの国も持ち合わせていなかった。投資家たちはそのことを見抜いており、世界中のメディアが「第三次世界大戦勃発の危機迫る」と騒ぎ立ててもパニックなんかに陥らずに平静さを保っていた、というわけだ(世間一般に流布している通説とは違い、株式市場は政策当局者に比べるとずっと冷静でパニックに陥りにくいのだ)。

あるいはこういう可能性も考えられるだろう。株式市場は米国の上層部(ケネディ政権)よりも地政学的なリスクに通じており、キューバ危機が発生するリスクを米国の上層部よりも先んじて察知していた、という可能性である。その証拠にケネディ政権が国民に対して「どうやらソ連がキューバに核ミサイルを持ち込んでいるようだ」と打ち明ける数ヶ月前の段階で株価は20%以上も下落していたのだ。

結局のところは株式市場の見立て通りになった。第三次世界大戦は起きなかったし、キューバ危機は13日間に及ぶにらみ合いを経て終息に向かったのだった。

キューバ危機は米国内の消費者や投資家たちの目を逃れるわけには当然いかなかったわけだが、キューバ危機のような地政学的なリスクは(総消費や総投資といった総需要に対するショックというよりは)総供給ショックとしてまずは捉えるべきだろう。地政学的なリスクは(ロバート・ヒッグス(Robert Higgs)の表現を借りると)「レジーム不確実性」を高める効果を持っており、教科書的なAD-ASモデル(総需要・総供給モデル)の枠組みの中ではAS曲線(総供給曲線)を左方にシフトさせる効果がある(「負の総供給ショック」)と考えられるのだ。金融政策のスタンスに変化が無い限りは、AS曲線の左方シフトに伴って実質GDP成長率は低下する一方でインフレ率は上昇に向かうことになる。1962~63年の段階では「レジーム不確実性」の高まりの効果はまだ表れずにいたが、1960年代後半に入って徐々にその効果が表れ出して実質GDP成長率を押し下げる力として働いたのだった。

株式市場のパフォーマンスを考える場合におさえておくべき大事なことがある。株価それ自体は(貨幣単位で測られる)名目値(名目的な現象)である、というのがそれだ。それゆえ、(地政学的なリスクの高まりに伴って)「負の総供給ショック」が生じても中央銀行による金融政策の舵取りを通じて名目需要(名目支出)の安定が保たれているようであれば株価は下落するとは限らない。「負の総供給ショック」に伴ってリスクプレミアムが高まれば株価の下落圧力となることは確かだが、(株価を左右する要因の一つである)企業収益の伸び率にどういう影響が及ぶかはわからない(企業収益の伸び率は「負の総供給ショック」に伴って必ず低下するとは限らない)。

つまりはこう言えるだろう。地政学的なリスクが株価に及ぼす影響を理解するためには地政学的なリスクに対して金融政策がどう反応するかを考慮に入れる必要があるのだ。この点は目下のウクライナ情勢(ウクライナとロシアとの間でのいざこざ)の意味合いを理解する上でも大いに関係してくる話でもある。 [Read more…]

ノア・スミス「人的資本の資本たるゆえんは」

[Noah Smith, “Why human capital is capital,” Noahpinion, February 25, 2017]

human capital

経済学者は,「資本」という単語をゆるく使いがちだ.「資源を費やして構築でき,長期にわたって持続し,価値を生み出すのに使えるもの」ならなんでも資本とされる.なんとも広義だ.たとえば,社会そのものだって資本に該当しうる.また,典型的に,資本と言えば「人的資本」も含まれる.人的資本とは,人がもつ技能・才能・知識を指す.
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タイラー・コーエン 「水爆の原料は何だ? ~アーメン・アルチャンが手掛けた世界初の(そして歴史の闇に葬り去られた)『イベントスタディ』をここに再現~」(2014年5月12日)

●Tyler Cowen, “Nuclear science, event studies, and the other side of Armen Alchian”(Marginal Revolution, May 12, 2014)


この話は知らなかった1

舞台は1954年のランド研究所(RAND Corporation)。その当時ランド研究所に籍を置いていたアーメン・アルチャン(Armen A. Alchian)は世界で初めての「イベントスタディ」に挑んだ。その目的は当時開発中だった水素爆弾の原料に何が使われているかを推測することだった。アルチャンは一般に公けにされている金融データ(株価)だけを頼りにして原料は「リチウム」だと見事に言い当てることに成功したものの、国家の安全を脅かす恐れがあるとの理由から「イベントスタディ」の結果をまとめた覚え書きはたちどころに没収されて破棄されてしまった。アルチャンが世界初の「イベントスタディ」に挑んだ当時は水爆の製造工程は機密扱いだったが、その後一部については機密解除されるに至っている。1950年代初頭における水爆の開発実験はマーケットの効率性――インサイダーしか知り得ない私的な情報を誰もが知る公開情報として素早く普及させるマーケットの効率性――がいかほどのものかを試す格好の機会を提供している。本論文ではアルチャンが手掛けた「イベントスタディ」の再現を試みたが、結論を先取りしておくとアルチャンが辿り着いたのと同様の結果が得られた。アルチャンが手掛けた「イベントスタディ」ではマーシャル諸島で行われた一連の核実験(水爆の爆発実験)――1954年3月1日にビキニ環礁で行われたブラボー実験(これまでにアメリカが行った核実験の中でも最大規模のもの)を手始めとするいわゆる「キャッスル作戦」――に対する株式市場の反応が対象となっている。「キャッスル作戦」は重水素化リチウムを燃料とする水爆の爆発実験としてはアメリカ初の試みであり、爆撃機でも持ち運びが可能な高出力の核兵器の開発に道を開くきっかけとなったものである。当時の株価のデータを詳しく調べると、1954年3月にリチウム・コーポレーション・オブ・アメリカ(LCA)社の株価がその他の企業の株価やダウ・ジョーンズ工業株価平均(DJIA)と比べてもかなり大幅な上昇を記録していることがわかる。ブラボー実験が行われたのは1954年3月1日。水爆の製造工程については国家機密であり、ブラボー実験の成否については科学者の間でも意見が割れ、国民の間では混乱が見られたが、それにもかかわらずブラボー実験が行われて以降の3週間の間にLCA社の株価は(1954年2月26日時点での一株あたり8.875ドルから1954年3月23日時点での13.125ドルへと)48%以上もの上昇を見せ、月最終日の3月31日時点(一株あたり11.375ドル)でも2月26日時点の株価を28%も上回ることになったのである。LCA社の株価は1954年の1年間で(1953年12月31日時点での一株あたり5.125ドルから1954年12月30日時点での28.75ドルへと)実に461%もの上昇を記録したのであった。

以上はジャーナル・オブ・コーポレート・ファイナンスに掲載されたばかりのジョゼフ・ニューハード(Joseph Michael Newhard)の論文のアブストラクトだ(「切れ者」のケヴィン・ルイス(Kevin Lewis)経由で知ったもの)。論文の草稿はこちら(pdf)だ。

  1. 訳注;ちなみに、アルチャン本人はこの件について次のように回想している(“Principles of Professional Advancement”(in 『The Collected Works of Armen A. Alchian(vol. 1)』), pp. xxv~xxvi)。「ひょんなことから1946年にUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の経済学部に籍を置くことになった。その前年の1945年にUCLAの近くのサンタモニカにたまたまランド研究所が設立されたばかりだった。そしてUCLAの同僚のアレン・ウォリスが(ランド研究所の設立に奔走していた)ヘンリー・「ハップ」・アーノルド元帥とどういうわけだか非常に仲がよかった。私が(アレン・ウォリスにそそのかされて)ランド研究所で働くに至るまでにはこういった偶然の積み重ね――ゴルフでバーディーがとれる場合と引けを取らないだけの偶然の積み重ね――があったのだ。・・・(中略)・・・ちょっとばかり自慢させてもらいたいことがある。話は1950年代~1960年代に遡るが、コーポレート・ファイナンスの分野で初めての「イベントスタディ」を手掛けたのだ。水爆が完成する前年のことだ。ランド研究所の経済部門に集った面々は水爆の原料にどんな金属が使われているのだろうと興味津々だった。リチウムだろうか? ベリリウムだろうか? トリウムだろうか? それともそれ以外? ランド研究所で一緒に働いていたエンジニアや物理学者の連中に聞いても何も教えてくれなかった。それももっともである。彼らは機密を保持する義務を負っていたのだから。そこで私は言ってやったものだ。「自力で答えを見つけ出してやるぞ」、と。そこで早速米商務省が発行している会社年鑑を引っ張り出してきて水爆の原料となりそうな金属を製造している会社を何社か選び出した。そして選び出しておいた会社の株価が水爆の実験が成功する前年の下半期を通じてどういう動きを見せるかじっと眺めたのだ。未公開の情報には一切頼らなかった。いやはや驚いたの何のって。記憶の範囲での話になるが、ある会社の株価が8月の時点では一株あたり2ドル~3ドルくらいだったのが12月の時点になると一株あたり13ドルくらいにまで急上昇することになったのだ。その会社というのはリチウム・コーポレーション・オブ・アメリカ社だ。年明けの1月に早速その結果を覚え書きとしてまとめ、“The Stock Market Speaks”(「株式市場は語る」)というタイトルをつけてランド研究所内に配布して回った。それから2日後のことだ。配った覚え書きを残らず全部回収しろと上からのお達しがあったのは。」 []

アレックス・タバロック「価格差別の倫理(小ネタ)」

[Alex Tabarrok, “The Ethics of Price Discrimination,” Marginal Revolution, February 20, 2017]

デリーにあるインド国立博物館から,価格差別の一例を.議論の呼び水に疑問を1つ書いておこう――「これって,公正だろうか.倫理的だろうか」「アメリカでは,これは合法だろうか?」

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インド国民:20ルピー
外国人:650ルピー(補足的な音声ガイドつき)
7年生までの学生:無料(I-カード提示)

ダグ・バンダーワーケン, ヤツェク・ローター, ブライス・ングエリファク 『フットボールにおける反則行為への出場停止処分の影響: プレミアリーグの事例研究 』 (2017年2月9日)

Doug VanDerwerken, Jacek Rothert, Brice Nguelifack, “The impact of suspension rules on fouls in football: Case study from the Premier League” (VOX, 09 February 2017)


 

殆どのフットボールリーグでは、イエローカードを一定数累積した選手に対し出場停止処分が課されるようになっている。本稿では、イングリッシュプレミアリーグにおいて選手達が犯した反則行為 [fouls] 数にこのルールがどの様な影響を及ぼしているのか論述する。出場停止処分上限に差し掛かった選手達は、シーズン開幕時と比べ反則行為数が33%も少なくなる。またシーズン開幕後初試合においても、出場停止ルールの抑制効果により反則行為数が15%減少している。

フットボール試合の最中の違反行為のうち深刻なものは、反則選手に対するイエローカード提示を以て罰される。ともにボールを我が物にしようとするフットボール選手二名が衝突するような時、一方の選手が、あまりに無謀なため相手選手を負傷させてしまう例も比較的多いだろうし、行き過ぎたフィジカルが行使される場合もあるだろう。さらに、審判に対する不服申立てや意図的にプレイを遅らせるなどの不適切な振舞を通し、自らのチームがアンフェアなアドバンテージを得るよう画策する選手もいるかもしれない。

イエローカード一枚のみでは試合中に罰則を課すまでには至らないとはいえ、それは当該選手の懲戒記録に響いてくる。そのため、ここから執拗な違反行為者に対する付随的影響が生ずる可能性がある。例えばイングリッシュプレミアリーグでは、或る選手が8月のシーズン開幕から12月31日までの間にイエローカードを五枚受領した場合、同選手は五枚目のイエローカードを受領した次の試合について、出場停止処分を受ける。4月の第二日曜日より前にトータルで十枚のイエローカードを累積した選手は、十枚目のカード受領に続く2試合の出場停止となる。もしシーズン末までに十五枚のカードを受領したら、即座に3試合分の出場停止となる。

フットボールに関しては詳細な統計が利用可能となっており、その斐あって様々な研究者がカードの試合への影響や (Ridder et al. 1994, Bar-Eli et al. 2006)、どの様なファクターがチームのカード受領確率に作用しているのか (del Corral et al. 2010) を研究している。

今回の研究 (VanDerwerken et al. 2016) では、前記プレミアリーグの2011-2012年シーズンにおける、試合レベル、プレイヤー毎の統計値を利用し、出場停止ルールが選手達の反則行為行動に及ぼす影響を調べた。

我々が調査したのは、選手達の反則行為は出場停止上限が近づくにつれが少なくなってゆくのか、出場停止上限に近い選手達はイエローカードを受領する傾向が小さくなるのか、そして出場停止ルールが存在しない場合反則行為が為される数は変わってくるのか、これらの点である。

初めの2つの問いに対しては一般的な計量経済学手法を用いて回答を与え、最後の問いと取り組むにあたっては、最適なイエローカード累積を扱う構造モデルを構築した。

前記プレミアリーグにおける出場停止制度の類型は数多くのフットボールトーナメントで利用されている。これらはみな処罰を先送りする体制 [delayed punishment schemes] を取っており、合衆国における一部の州の所謂 『三振制 [three strikes]』 法制に類似する。同法制は執拗な違反者に対し厳罰を課すもの (Greenwood et al. 1994, Zimring et al. 1999)。個人の行動にこうした制度が及ぼす影響を分析する際には、ツーストライク状態にある個人による犯罪活動の減少のみを計測しないようにすることが重要 (Shepherd 2002) である。もしそうしてしまうと、同法制の真の影響が過小評価されてしまう。というのは、潜在的違反者全てに行動を変化させた可能性が有るからだ。我々のケースでは、出場停止ルールがただ存在するだけで、選手達は出場停止上限に近づくのを嫌うため、第一試合にしてすでに攻撃的なプレーが抑制される訳である。

結局のところ

先ず最初に、現行ルールのもとでイエローカード累積が反則行為数に及ぼす影響を実証的に検討した。ポワソン回帰1を用いて反則行為数の予測を行うが、その際にはペナルティカード累積の効果を分離するため、反則行動への影響が疑われるその他の変数を調整している。例えば、我々は選手に対する固定効果の影響も取り入れている。これは内在的な攻撃性レベルやポジションまた競技熱といった属性を組入れたものである。さらにインターセプト数やタックル成功数またドリブル失敗数といった、試合レベルでのパフォーマンス変数も取り入れた。最後に、累積上限到達までの時間、試合会場 (ホームかアウェイか)、出場停止処分の深刻性、および試合終了時の得点差についても調整を行った。

以上全ての潜在的影響源の分を修正すると、予想通り、イエローカードの累積は反則行動を減少させていた。イエローカードあと一枚で一試合出場停止処分となる様な時、選手の反則行為は、イエローカードあと二枚で出場停止の場合と比べると12%、あと五枚の場合 (例えばシーズン開幕時など) と比べると33%、少ないのである。反則行為数の減少は選手が2試合出場停止処分に直面した時さらに大きくなる。下の図1には反則行為の推定期待数を、出場停止処分までイエローカードあと何枚かの関数として示してある。

さらに、所与の試合において選手が何らかのカード一枚 (イエローカード、ないしより深刻なレッドカード。後者は試合からの即刻退場と自動的な出場停止処分を意味する) を受領する確率も、ロジスティック回帰を用いて予測した。驚くには当たらないが、同確率は該当選手が累積上限に近づくにつれ減少した。例えば、イエローカードあと二枚で二試合出場停止処分となり、次試合でのカード一枚受領確率が10%であるような選手を仮定したとしても、この仮定的選手があと一枚で同出場停止処分になる状況に陥れば、イエローカード一枚を受領する確率は低くなる (3%) ことになる。イエローカードあと二枚で一試合出場停止処分となる場合、同選手のカード一枚受領確率は25%に上昇することになる2

一つひとつの試合を大事に

出場停止ルールが無かったとしたら、選手達の反則行動はどれ位増えていたのだろうか? 素朴に考えれば、該当シーズン中未だ一枚もイエローカード累積が無い選手一名の犯した反則行為数につき期待値を算出し、それを全試合に関する選手あたり反則行為数期待値と見做すという形でこの問いに答えられそうである。しかしこの手法はルーカス批判を (Lucas 1976) を無視している。我々の推定値は出場停止ルールの在る環境において得取された。こうした環境にあっては、選手達の反則行為はシーズン初試合において既に少なくなっているかもしれない。何故なら早い時期にイエローカード一枚を受領すると、後に出場停止処分を受ける確率が高まるからだ。

そこで我々は最適イエローカード累積に関する動学構造モデルを開発し、この 『ファーストストライクの恐怖』(Shepherd 2002) に取り組んだ。本モデルは標準的な動学プログラミングモデルであり、次の様な特徴を持っている。まず累積イエローカード数を状態変数とした。選手は試合開始時に自らの努力量を選択する。努力量が多いほど選手の所属するチームがその試合に勝利する確率も高まる。活動量はさらにイエローカード一枚の受領確率も高める。均衡状態において、選手はイエローカード五枚で出場停止処分となる旨を知悉したうえで、このトレードオフを衡量しなくてはならない。本モデルは幾つかのパラメータに依拠しているが、その中には我々のデータからカリブレート可能なものもあれば、これが不可能なものもある。カリブレート可能なものについては、イエローカード五枚の上限に差し掛かった選手に関わる反則行為数の減少が、モデルにおいてもデータ中のそれと同一になるようにしている。その他のパラメータ値にはアドホックな当て嵌めが必要となった。

以上の下準備ののち、本モデルから出場停止ルールを取り除く反実仮想実験を行った。実験中の選手達は、一試合中にイエローカード一枚を受領したところで将来の出場停止処分には何ら影響が無いことを知悉しており、初期の試合でもプレイを調整する必要がない。我々の選択したパラメータ値を利用したかぎりでは、前記プレミアリーグにおける出場停止ルールの存在により第一試合における反則行為期待数が約15% (ファーストストライクの恐怖に関する我々の推定値) 減少させていることが判明している。シーズン期間全体では、同出場停止ルールにより期待反則行為数が33%も引き下げられている。図1にはさらに、一試合中に選手一名が犯す期待反則行為数を、同選手はイエローカードあと何枚で出場停止となるかとの観点からみた関数とし、我々の理論モデルの予測値を示している。

図1

本モデルのおかげで、審判の厳しさをはじめとする様々なファクターが出場停止ルールにどの様な影響を与えているのか分析する手立てが得られた。審判があまりに甘い場合、出場停止ルールにはあまり痛みが感じられない。選手達は自分がイエローカードを突き付けられることはあまりないと知悉しているからだ。審判があまりに厳格な場合も、出場停止ルールにはあまり痛みが無い – 少々攻撃的といった程度のプレイにしてすでにイエローカードが出されるなら、選手は、何れにせよイエローカードを受領するはめになるのだろうと、目下の試合のみにフォーカスする可能性もあるのだ。

試合レベルでの統計値の利用可能性が高まってきた所に、シンプルな経済理論が組み合わさり、フットボールにおいて出場停止ルールが攻撃的プレイに及ぼしている影響の定量化が可能となった。より一般的に言えば、先送りされた処罰に個人がどの様に応答するか、この点に関する知見が得られたのであるが、これはプロスポーツ以外の研究領域にも新たな洞察をもたらすものだ。

参考文献

Bar-Eli, M, G Tenenbaum and S Geister (2006), “Consequence of Players’ Dismissal in Professional Football: A Crisis-Related Analysis of Group-Size Effects”, Journal of Sport Sciences, 24:1083–1094.

del Corral J, J Prieto-Rodriguez and R Simmons (2010), “The Effect of Incentives on Sabotage: The Case of Spanish Football”, Journal of the American Statistical Association, 11:243–260.

Dawson, P, S Dobson, J Goddard and J Wilson (2007), “Are football referees really biased and inconsistent? Evidence on the incidence of disciplinary sanction in the English Premier League”, Journal of the Royal Statistical Society – Series A, 170(1):231–250.

Greenwood, P, C Rydell, A Abrahamse, J Caulkins, J Chiesa, K Model and S Klein (1994), “Three Strikes and You’re Out: Estimated Benefits and Costs of California’s New Mandatory- Sentencing Law”, Technical Report MR-509-RC, RAND Corporation.

Lucas, R (1976), “Econometric Policy Evaluation: A Critique”, Carnegie-Rochester Conference Series on Public Policy, 1(1):19–46.

Nevill, A, N Balmer and A Williams (2002), “The influence of crowd noise and experience upon refereeing decisions in football”, Psychology of Sport and Exercise, 3(4):261–272.

Ridder, G, J S Cramer and P Hopstaken (1994), “Down to Ten: Estimating the Effect of a Red Card in Football”, Journal of the American Statistical Association, 89:1124–1127.

Shepherd, J (2002), “Fear of the First Strike: The Full Deterrent Effect of California’s Two and Three-Strikes Legislation”, Journal of Legal Studies, 31:159–201.

VanDerwerken, D N, J Rothert and B M Nguelifack (2016), “Does the Threat of Suspension Curb Dangerous Behavior in Football? A Case Study From the Premier League”, Journal of Sports Economics, OnlineFirst. DOI:10.1177/1527002516674761.

Zimring, F, S Kamin and G Hawkins (1999). Crime and Punishment in California: The Impact of Three Strikes and You’re Out. Institute of Government Studies Press, University of California, Berkeley.

原註

[1] ポワソン回帰は最小二乗法に似たものだが、前者ではカウント値が正規分布ではなくポワソン分布に従うものと想定されている。

[2] 本分析の副産物として、アウェイに対するホームでのプレイには、ペナルティカード受領確率に、僅かではあるが認識可能な影響が有ることも明らかになった。我々の実施シナリオでは、ホームでのプレイは選手のカード受領確率を10%から8%に引き下げる。その存在が疑われる潜伏変数分を修正すると、この緩やかな減少の大部分は選手の行動ではなく審判に帰するのが合理的な様で、他の研究者 (例えば Dawson et al. 2007 and Nevill et al. 2002) が明らかにしてきた所を裏付けている。

 

タイラー・コーエン「実際のところスウェーデンの秩序はどれくらい乱れているの?」

[Tyler Cowen “How disorderly is Sweden really? ” Marginal Revolution, February 21, 2017]

Here is the latest, which is in the media but not being plastered all over my Twitter feed:
最新ニュースはこちら.メディアには出ているけれど,いまのところぼくのツイッターフィードをびっしり埋め尽くすほどの話題にはなっていない:
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タイラー・コーエン「移民同化の真のジレンマ」

[Tyler Cowen, “The real assimilation dilemma,” Marginal Revolution, February 23, 2017.]

移民をめぐる議論は,ラテン系移民の第2世代・第3世代の同化率に関心を集中させていることが多い.だが,いったんこれを脇に置いて,ラテン系以外でアメリカにやってくる人たちを考えてみよう.彼らがいかに急速に同化するかを見ると,ぼくは目を見張る.ここで言ってるのは,カナダ系だけの話じゃない(「このブログの著者2人のどちらが国境の北側出身でしょう」と出し抜けに聞かれて当てられます?) ラテン系以外の移民には,ロシア系もいればイラン系,中国系,インド系などなどいくとおりもある.ムスリム系移民の大半もそうだ.こうした人たちは,アメリカ生まれアメリカ育ちの人と文化的にそっくり同じになりはしない.でも,経済的・社会的な指標で見ると,これ以上望めないほどの実績を示している.

それどころか,同化問題をもたらしているのは,ずっと昔からのアメリカ人たちの方だ.しかも,おうおうにして伝統的なアメリカ人だったりする.彼らの暮らす国は,急激に変わってしまった.そのおかげで,彼らは新しい現実の事情にあまりうまく同化していない.さらに,べつに自ら選んで移民になって「きっと困難が待ち受けているだろう」と思っている人間でもないので,「そういうもんだからしかたない」と受け入れる態度を内面化する方にいつでもかたむくわけでもない.彼らの多くは不平をこぼし,また,職業生活で落伍したり冴えないニッチに落ち着いたりする.

この点で見て,みずから進んでやってくる移民たちにもっとうまく・早く同化するよう促しても,かえって現実の同化問題を悪化させてしまいかねない.自国〔アメリカ〕の文化をいっそう急速に変えることになるからだ.

移民の真の影響は,賃金や選挙結果に表れないこともよくある.むしろ,昔ながらのアメリカ生まれアメリカ育ちの人々の一部に同化の負担がかかることになる.そして,移民たちがいっそう生産的に首尾よくやればやるほど,こうした問題はいっそう深刻になるかもしれない.

この点の議論につきあってくれたケイトー研究所のリバタリアングループに感謝.議論でのやりとりから,Will のものも含めて発言を使わせてもらった.

ジョセフ・ヒース『反リベラリズムの解剖学』(2017年02月19日)

The anatomy of anti-liberalism
Posted by Joseph Heath on February 19, 2017 | Canada, multiculturalism

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金曜日(17日)、カナダ市民は、醜悪な見世物に直面させられた。トロントにあるモスクのすぐ外で、ムスリム系移民の停止と、カナダにおけるイスラム教の禁止を訴える抗議活動が行われたのだ。報道によると、抗議活動の参加者は、総計でわずか15人だったようだ。なので、わざわざ騒ぎ立てることではない。しかしながら、この件が、103号動議1 に関してウソを付き続けている、あるいは馬鹿騒ぎを続けている、カナダ保守党の構成員全員に、自制を促す事にはなるべきだろう。

この件にこれ以上言及する必要は感じないが、CBCラジオによる、抗議活動の参加者の1人である、女性へのインタビュー(オンラインでは聞けないようだ2 )は、グレートですよこいつはァ、という感じであった。多くの人が、党派性に縛られないリベラル3 な社会認識を共用している、との今日の一般的見解がある。この見解は、まったく実情にそぐわない事を、私は多くの事例から知っている。ただそれにしても、反リベラル的見解が、ここまで簡潔で要を得て意思表示されているのを、見聞きできることは滅多にない。インタビュアーが、女性に「あなた方の抗議活動と、シナゴーグ4 前で反ユダヤ主義の抗議活動を行っている人との、違いは何ですか?」と根源的な問いを行っている。女性の返答は、おおよそになるが「ユダヤ主義は邪悪じゃないが、イスラムは邪悪」だった。

完璧な返答だ。彼女らはもはや信教の自由すら認めていない。単純に宗教をひとつづつ見比べた後に、『善』と『邪悪』を判別し、『善』だけを認めよう、というわけである。誰か、ケリー・レイッチ5 に教えてやるべきだ。 移民を『選別』する、よりよい方法として『善』なる人と『邪悪』なる人を単純に分けた上で、『善』なる人だけを残すのである。邪悪に仕える人を除けば、この選別政策に反対する人なんていないだろう?

この件は、人は本当に『リベラリズム』をどの程度受け入れているか、どの程度自分のものにしているかどうか、を測定する良いテストとして出題されている。[反イスラームの]抗議者達の主張を聞いた時の、あなたの率直な反応が「馬鹿馬鹿しい。イスラム教は邪悪じゃない」のようなパターンだったら、あなたはインタビューに答えていた女性とだいたい同じくらいリベラルだ。もし反応が「馬鹿馬鹿しい。個人の自由に関する問題群が、『善悪』かどうかだけの皮相的な判定に収まるわけがないだろう」のようなパターンだったら、主流派エリートの見解へようこそ!

※※訳注
訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。

  1. 訳注:去年のカナダでのモスク襲撃事件を受けて与党・自由党の議員によって提出された、人種・宗教差別を批判する国会動議。カナダ保守党は、言論の自由の見地等を理由にこの動議に反対している。このブログ記事で詳しい日本語による解説を読むことができる。 []
  2. 訳注:現時点では、CBCの報道記事でインタビュー動画を見ることが可能。 []
  3. 訳注:ここでのリベラルは、「他者への寛容」といった意味で使われていると思われる。 []
  4. 訳注:ユダヤ教の教会。正式には『会堂』と呼ばれる []
  5. 訳注:「『反カナダ的価値観』を持った移民を排斥すべきである」と唱えている、去年、ヒースが批判した、カナダ保守党の政治家。 []

ピーター・シンガー「倫理学と進化:『輪の拡大』出版から30年」(2011年5月18日)

⚫︎ Peter Singer, “Ethics and evolution: The Expanding Circle, thirty years on“, (ABC.net, religion & ethics, May 18, 2011)

 

「社会生物学」という単語はE・O・ウィルソンが1975年の著書『社会生物学:新たな統合』で造語したものだが、幾つもの専門分野を組み合わせた彼の画期的な研究は、社会的な行動の進化についての理論を人間について当てはめたために、議論の嵐を巻き起こすことになった。

人間の本性の理解についてウィルソンは多大な貢献を行ったが、倫理学について書いた際には、この分野について興味を持った科学者が犯しがちな誤謬をウィルソンも行ってしまった。

彼自身の研究は倫理学にとってはどのような意味を持っているか、ということについてウィルソンが間違った理解を持っていたことは、30年前の私に『輪の拡大』を書かせるきっかけとなった。『輪の拡大』では、ウィルソンが行っていた誤謬を説明することと、その誤謬にも関わらずウィルソンのアプローチが倫理の起源について理解するのに役立つということを示すことを行った。そのため、『輪の拡大』は他のどんな科学者の研究よりも綿密な審査の対象となったウィルソンの研究に従って書かれたものである。

社会生物学の内で人間について関係している部分は、現在では「進化心理学」と呼ばれている。社会生物学を人間に適応することは一部の研究者からは猛烈に反対されたのだが、それに比較すると進化心理学の発展に対する反応は穏やかなものであった。

その限りでは、社会生物学から進化心理学へと名前を変えるという戦略は目覚ましい成功を遂げたと言える。進化心理学への許容が拡大したことは名前の変更に由来するのではなく、進化心理学という学問分野が行ってきた業績そのものに由来するのだ、とより皮肉っぽくなく言うこともできるだろう。

30年前には、多くの道徳哲学者たちは科学者たちが倫理学について書く内容について軽蔑していた。哲学者たちの軽蔑の原因は、『輪の拡大』の第三章にて私が「乗っ取り宣言」と名付けた事態にあったかもしれない。…自分たちが主張している科学的な突破口は哲学者たちが倫理について思考していることに関係するのみならず、哲学者たちの思考の代替物となるものである、と一部の科学者たちは主張していたのだ。

科学的な研究結果が哲学者たちが行っているような種類の思考の代替物となると考えているのは間違っているし、それは倫理学についても同じことだ。なぜそのような試みは失敗する運命にあるのか、倫理学や道徳哲学を着服しようとする試みを哲学者たちが拒否し続けることは正しいことである、人間に関する現象としての倫理の起源や本性を理解することについては科学による助けを哲学者たちも歓迎するべきではあるのだが…これらの論点を明白にすることについて、『輪の拡大』の新版が(再び!)貢献することを望んでいる。

だが、私たちの進化や文化の歴史に影響された道徳判断と合理的な根拠に基づいた道徳判断とを区別することはできるか、という問題については今のところは脇に置かせてもらおう。その代わり、道徳判断はどれ程まで合理的な根拠に基づくことができるか、という問題についてさらに追求させていただこう。

『輪の拡大』を再読していると、客観的な真実であり合理的な根拠に基づいた倫理という考えについて私自身がかなり曖昧な気持ちを持っていたことに気が付く。私は理性が道徳の進歩を導くと書いており、理性とは慣例を権威の源と見なすことを拒否するなどの否定的なタスクに限定されるものではないとも書いていた。

対照的に、理性は「ある人自身が持つ利益は多くの利益の集合の中の一つなのであり、他の人が持つ同様の利益よりも重大ではない」という原則を導く、と私は論じていた。更に、この真実は「恒久的で普遍的であり、人間や選好を持つ他の生物の存在に依存していない」(ただし選好を持つ存在がいなければこの原則が適用されることもないのだが)、とも書いていた。

しかし、ある人自身の利益は他の人々の利益よりも重大ではないことをふまえると、正しいこととは私たちの行動によって影響を受ける全ての選好について最大限に満たす行為をすることである…という考え方とは異なる考え方を支持するために「客観的な価値」や「客観的な道徳的真実」という概念を用いることは、あまりに「奇妙」であり問題に満ちている、とも私は書いていた。

そのため、上述のものとは異なる考え方…たとえば、罪の無い人間一人を殺さないことによって他にどれ程多くの罪の無い人間が死ぬとしても、罪の無い人間を殺すことは常に不正である、という考え方…は、その考え方を抱いている人の主観的な選好であると見なされるべきだ、と私は主張していた。

もちろん、異なる考え方を選好であると見なすことにより、全ての選好を最大限に満たす行為とは何であるかを決定する際にそれらの考え方も考慮の対象となる場合がある。しかし、選好の充足を最大化しようとすることを求める人々…つまり選好功利主義者が用いる用語によって考慮されることになるのだ。

現在では、私は上述した議論が成功するとは考えていない。「ある人自身が持つ利益は多くの利益の集合の中の一つである」という判断を世界における私たちの状況についての記述的な主張であると見なすことはできるが、ある人自身の利益は「他の人が持つ同様の利益よりも重大ではない」と加えることは規範的な主張を行うことであるのだ。

もし私が規範的な主張は真か偽となり得るということを否定したならば、私は上述した主張は真であると言うことができなくなる。選好の集まりの中の一つの選好としてこの主張が取り扱われることはあるかもしれないが…しかし、私たちは選好の充足を最大化するべきであると主張する根拠はもはや失われてしまっているのだ。

更に、もしある人が自分の利益は他の人々の利益よりも重大ではないということを認めたとしても、それだけでは、我々は全ての人の選考を可能な限りに最大限に満たすべきであるという結論を正当化するには足りていない。

このようなことを言う上で、私は自分の利益が他の人々の利益よりも重大だと考えている訳ではないし、道徳判断は普遍化可能でなければならないという広く認められた必要条件に違反している訳でもない。

このように、客観的な事実を否定することは、私が試みたような主張…形而上学的に問題のないデフォルトな立場としてのある種の選好功利主義を導くのではない。そうではなく、私たちは何をするべきであるかということについてそもそも何らかの意味のある結論にたどり着く可能性を疑うような懐疑主義を導いてしまうのだ。

私たちがたどり着くことのできる結論は主観的なものとなる。私たち自身の欲求や選好に基づいているために、他の欲求や選好を抱いている他人にとっては受け入れる理由が全く無いような結論だ。

1981年には、私はこのような主観主義的な見方を支持することに乗り気ではなかったし、30年という時間も私の乗り気のなさを解消しなかった。

では、代わりとなる考えはあるだろうか?ヘンリー・シジウィックは著書『倫理学の方法』にて倫理的な直感と原則の範囲について研究し、それらの中から三つの「本当の明白さと確かさのある直観的な公理」を選び出した。この三つの公理について短く示すことは、道徳的真実とはどのようなものであるかという可能性の例を私たちに示してくれるので、有益であるかもしれない。

(1)公平と平等の公理:「ある種類の行動が私にとって正しい(または不正である)が誰か別の人にとっては正しくない(または不正ではない)のなら、(訳注:その違いは)私とその人が違う人であるからという事実ではなく、二つの事例の間にある何らかの違いに基づいていなければならない」

(2)自愛の公理:我々は「我々の意識的な生活の全ての部分に対して偏らずに配慮しなければならない…将来を現在よりも少なくも多くも見積もってはならない」

(3)普遍的な善の公理:「各々の人は、自分以外の他人にとっての善を自分自身にとっての善と同等に見積もることを道徳的に義務付けられている…偏りなく見た結果ある善の方が少ないと判断された場合や、彼がその善を知ることや得ることの確実さが少ない場合に限り、例外であるが」

シジウィックは、これらの「合理的な直観」の公理は数学における公理が真であるのとほぼ同じ様に真である、と主張した。倫理学においてこの様な真実が存在し得るという考え方は当時では広く受け入れられていたものであり、G. E.ムーアやW.D.ロスなど、シジウィックの後の時代の哲学者たちにも支持され続けていた考え方である。

しかし、1930年には英語圏の言語哲学では論理実証主義が支配的となった。そして、論理実証主義者たちにとっては、真実とはトートロジー…つまり、その単語が使われている意味のために真実であるか、または経験的な真実でなければならなかった。

論理実証主義者にとっては、数学的な真とはトートロジーである。使われている用語や、それ自体は真でも偽でもない一部の公理の意味を明らかにするものであるのだ。

だが、(訳注:行動などについての)本物の指示を提供する倫理的な公理は、トートロジーでは有り得ない。とはいえ、倫理的な公理は経験的な真実でも有り得ないし(その理由については『輪の拡大』の第三章で論じている)、いずれの場合でも、もし真実が経験的なものであるなら、それを実証するための方法があるべきだと論理実証主義者たちは考えている。

ある主張がトートロジーではなく、そしてその主張を実証するための方法が原理的にすらも無いのであれば、その主張は無意味であると論理実証主義では考えられる。そして、シジウィックの公理はこのカテゴリーに収まってしまっている。

論理実証主義の時代は去ったとはいえ、道徳的真実はトートロジーでも無いが経験的なものでも無いという考えは、未だに奇妙に聞こえるものだ。しかし、最近では、デレク・パーフィトが規範的な真実を擁護した注目すべき文章を書いている。

『On What Matters』にて、私たちが知識ついての懐疑主義や倫理についての懐疑主義に陥らない限りは、私たちが信念を抱くための理由についての規範的真実が存在することや、望むための理由や行動をするための理由についての規範的真実が存在することを私たちは認めなければならない、とパーフィトは主張している。

例えば、次の主張について考えてみよう。「ある議論は正当であると私たちが知っており、その議論が正しい前提を持っているなら、その議論の結論を受け入れることについて決定的な理由が私たちにはある」。この主張はトートロジーでもないが経験的な真実でもない、とパーフィトは論じる。この主張は、私たちが信念を抱くための理由についての真の規範的な主張なのである。

『輪の拡大』の第四章にて、私は「従われること(to-be-pursuedness)や「行なわれないこと(not-to-be-doneness)」の可能性が物事の本性に埋め込まれ得ることについてのマッキーの懐疑主義を持ち出している。世界についてのある信念が、その人が持っている望みや欲求にもかかわらず、その信念を抱く人を動機づけることがなぜそもそも可能なのか、ということを理解することにマッキーの議論の難点があるとパーフィトは主張している。

このことは私にとっても問題であった。オックスファムに募金することは私の人生をはっきり悪くするほどの影響を私には与えず、募金することによって10人の子供の生命を救うことができて彼らの家族が感じている苦しみを大きく軽減することもできる、という信念を私は抱いているかもしれない。だが、この信念は、募金を行うように私を動機付けないかもしれない。なぜなら、私は他人の子供なんて気にもかけないかもしれないからだ。

だが、パーフィットによると、ある信念が私たちに特定の行動をするための理由を与えるかどうかは規範的な問題であり、その信念が私たちを行動するように動機付けるかどうかは心理的な問題である。

この例については、オックスファムが援助している人々について私が気にかけないとすれば私にはオックスファムに寄付する理由は何もない、と多くの人々が反論するかもしれない。だから、私がその行動を行うための理由はあるがその行動を行う欲求を私は持っていない、ということを否定するのが更に困難な事例を示そう。

私はいま歯痛の初期徴候を感じたところであるが、私はこれから歯医者のない離島に行って一ヶ月ほどそこで過ごす予定である。過去の経験に基くと、もし私が今日歯医者に行かないとするならば私は次の一ヶ月間は激しい歯痛に苛まれ続けられる可能性が非常に高いのであり、島の自然美を眺めながらリラックスして過ごすという貴重な機会によって得られる楽しみが妨げられることになるだろう、という信念を私は抱いている。私が今日歯医者に行けば、私は穏やかな不快感を一時間以下味わうことになる。私が今日歯医者に行かないとすれば私は次の一ヶ月間激しい苦痛に苛まれ続けるであろう、という私の知識は、今日歯医者に行くための理由を私に与える。私が歯医者に行かないことによって感じる苦痛を無視することは、非合理的であるのだ。

この例は、ある人の意識的な生活における全ての部分について偏りなく配慮しないことは非合理的である、というシジウィックによる自愛の公理にも一致している。また、この公理をより弱くした形でも…より離れた未来に対してはいくらか少なめに見積もることを認めるとしても、私が今日歯医者に行かないとすれば私は非合理的であると宣告するのに十分な根拠となるだろう。

しかし、私が現在抱いている欲求については何も言われていないことについて注意をしてほしい。もしかしたら、私は明日や来週に自分に降りかかる出来事よりも、現在や数時間後に自分に降りかかる出来事の方により影響を受けてしまう種類の人であるかもしれないのだ。

そうすると、もし現在の私が歯医者の診療所の前に立っているとして、私が最も望んていることとは今日受けるほんの僅かの苦痛でも避けることであるかもしれない。来週の私は苦痛に苛まれて島への滞在が台無しになってしまい、今日私が下した決断を後悔するであろうことを、知識としては私は理解している。だが、この瞬間には、来週に関する事実は私の欲求に何の影響も与えないのだ。しかし、来週私が苦痛に苛まれることはそのことを予防するための手段を行うように私を動機付けないという事実は、私には予防するための手段を行う理由があるという主張を無効にしないのだ。

その理由が存在することを十分に理解している人であっても必ずしもその行動を行うように動機付けられるとは限らないということを認めなければ、ある行為を行うための客観的な理由が存在するという主張への理解が得られないとすれば、私たちは多大な犠牲を払う勝利しか得られないのであろうか?

私たちには、あなたにはオックスファムに募金する客観的な理由があると言うことができるかもしれないが、もし私たちが募金するようにあなたを動機付けることができないとすれば、貧しい人たちの状況は全く改善されないことになる。しかしながら、客観的な規範的真実という概念を私たちが認めることができるなら、私たちには日々の道徳的直感とは違ったものに頼ることができるようになるのだ。現時点での最良の科学的理解によると、私たちの道徳的直感とは感情に基づいたものであり、進化における歴史の特定の時代において適応的であった反応であると証明されている。

客観的な道徳的真実が存在することは、私たちの直感的な反応と客観的な道徳的真実を区別することが出来るかもしれない、という望みを抱くことを認めてくれる。…客観的な道徳的真実とは、全ての合理的で感覚のある存在が持つであろう行動をするための理由であり、私たちが暮らしている状況とはかなり異なる状況の中で進化してきた合理的で感覚のある存在でさえも持つであろう理由のことだ。

タイラー・コーエン 「『チューリングの大聖堂』」(2012年3月8日)

●Tyler Cowen, “*Turing’s Cathedral*”(Marginal Revolution, March 8, 2012)


今回のエントリーのタイトルはジョージ・ダイソン(George Dyson)の新著(邦訳『チューリングの大聖堂: コンピュータの創造とデジタル世界の到来』)から拝借したものだ。副題は「デジタル宇宙の起源」。最上級のあっぱれな一冊だ。コンピュータシステムの起源、初期のコンピュータと核兵器システムとのつながり、天才にやる気を出させる術、そしてジョン・フォン・ノイマンの経歴。本書を読むとそういった一連のあれこれについて考え直さざるを得なくなる。ほんの少しだけだが、内容の一部を引用しておこう。機会があればまた話題にするかもしれない。

ビゲロー(Julian Bigelow)は1943年にMIT(マサチューセッツ工科大学)を去り、その後はウォーレン・ウィーバーからの誘いもあって国家防衛研究委員会(NDRC)に設置された応用数学パネル統計研究グループの一員に加わることになる。コロンビア大学の後援を受けたそのグループには全部で18名の学者(数学者および統計学者)―――何名か名前を挙げると、ジェイコブ・ウォルフォウィッツハロルド・ホテリングジョージ・スティグラーエイブラハム・ワルド、そして(しばらくして経済学者に転身することになる)ミルトン・フリードマン――が集った。このグループは戦時下で巻き起こる様々な問題に取り組んだが、例えば次のような質問とともに議論が開始されるのが常だった。「戦闘機に12.7ミリ重機関銃(ブローニングM2重機関銃、通称「キャリバー50」)を8丁搭載するか、それとも20ミリ機関砲を4丁搭載するか。どちらにすべきでしょうか?」

フランシス・スパフォード(Francis Spufford)による書評はこちらだ。お薦めだ。