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マーク・ソーマ 「リバタリアンの面々がマルクスを読むべき理由」(2017年6月28日)

●Mark Thoma, “Why Libertarians Should Read Marx”(Economist’s View, June 28, 2017)


クリス・ディロー(Chris Dillow)のブログ記事より。

Why libertarians should read Marx” by Stumbling and Mumbling

「わざわざマルクスを読む気にはなれない」と語るのはクリスティアン・ニーミエッツ(Kristian Niemietz)。そんな彼を説き伏せてみようと思うが果たしてうまくいくかどうか。

本題に入る前に指摘しておくべきことがある。それは何かというと、ニーミエッツも含めたリバタリアンの面々はマルクスの意外な面を知って驚かされることが多いに違いないということだ。例えば、マルクスは計画経済について驚くほどわずかしか語っていない。計画経済を是とする議論を聞きたければむしろ右派のヒーローたるロナルド・コースにお伺いを立てるべき(pdf)なのだ。また、マルクスはある面で資本主義を讃えてさえいる。『共産党宣言』の中から引用すると、資本主義は「商業の計り知れない発展」を支え、「エジプトのピラミッド、ローマの水道、ゴチック式の大聖堂をはるかにしのぐ驚異を成し遂げた」というのだ。まだある。マルクスが「事実」に対して大いに注意を払っていることを知ればきっと驚くに違いない。『資本論』第一巻の最初の何章かを読み終えればその後には膨大な量の実証研究の山に出くわすことだろう。さらには、マルクスと社会民主主義者との間には多くの違いがある――その中でも特に重要な違いはマルクスは(社会民主主義者とは違って)国家統制主義者ではないという点だ――ことにも触れておくべきだろう。

次に指摘しておくべきはマルクスと結び付けられるアイデアの多くは先人の思想を精緻化したものという面が強いということだ。例えば、ポール・サミュエルソンはマルクスを指して「地味なポスト・リカーディアンの一人」と呼んでいる。労働価値説にしても、階級間の所得分配だとか利潤率の長期的な低下傾向だとかに対する関心にしても、マルクス主義的であると同時にリカード主義的とも形容できるのだ(利潤率の低下傾向(pdf)は近年の低成長や設備投資の低迷を説明する格好の要因の一つだと思われるが、今回はこの点については深入りせずに済ませるとしよう)。

リバタリアンの面々がマルクスを読むべき理由をまとめると以下の三点に集約されるのではないかというのが私の考えだ。

まず一つ目の理由。マルクスは経済の歩みを歴史的なプロセスとして捉えようとした。マルクスにとっての重大問題の一つは「世に蔓延るあれやこれやは一体どこからやってきたのか?」というものだった。

・・・(中略)・・・

リバタリアンの面々がマルクスを読むべき二つ目の理由は所有権の形態と技術進歩との関係に関するマルクス流の考えにある。

・・・(中略)・・・

リバタリアンの面々がマルクスを読むべき三つ目の理由は「自由」に対するマルクスの姿勢にある。

・・・(中略)・・・

まとめるとこう言えるだろう。リバタリアンの面々がどうしてマルクスを読むべきなのかというと、己の考え(リバタリアニズム)を磨き上げる助けになるに違いない疑問をマルクスから引き出すことができるからである。一部の層の所有権を侵害する(否定する)結果として成り立つに至った資本主義というシステム。そのシステムを擁護すると同時に(資本主義というシステムの内側で暮らす)一人ひとりの所有権を守れと訴える。そんなことって可能だろうか?(辻褄が合っていると言えるだろうか?) 「自由」に対する世人(一般大衆)の支持を取り付けるにはどのような物質的な生活環境(下部構造)が必要となるだろうか? 新しいテクノロジーは世人の思想(信念)の形成にいかなる影響を持つだろうか? 現状の市場構造(その具体的な有り様は政府によって規定されることは言うまでもない)は経済成長の促進につながるだろうか? その答えが仮に「ノー」だとすれば、現状の市場構造を変えるにはどうすればいいのだろうか? 現状の市場はあくまで「形式的な自由」を保障するに過ぎないのだろうか? それとも市場は「実体的な自由」――マルクスが追い求めた自由――1の拡張にも貢献しているのだろうか? 市場を「実体的な自由」により一層親和的な方向に持っていくことは可能だろうか? 市場は「自由」の享受を約束する舞台なのだろうか? それとも一方の階級が他方の階級を搾取して抑圧する道具に過ぎないのだろうか? 等々。

論敵の立場を劇画化して嘲るような党派心から距離を置きさえすれば、マルクスの残した仕事にじっくりと向き合うことでリバタリニアニズムの彫琢という対価が得られるに違いないと思われるのだ。

*『資本論』第一巻の読み方としてはまずは10章からスタートしてそこから順番に読み進め、最後まで目を通したら1章に戻る(1章から順に9章まで読む)というのがお薦めだ。

  1. 訳注;「実体的な自由」が保たれている状態=一人ひとりの人間が己の潜在的な能力を高められる機会(あるいは自己実現や自己表現の機会)が保たれている状態、という意味で使われている。 []

マーク・ソーマ 「マルクス vs. コース」(2012年11月21日)

●Mark Thoma, “Marx vs Coase”(Economist’s View, November 21, 2012)


今日は車を長時間運転せねばならないのだが、出発するのに手間取ってしまった。というわけでブログに時間を割く余裕はないので目に付いた記事をいくつか足早にパパッと紹介するとしよう。今回のエントリーではクリス・ディロー(Chris Dillow)のブログ記事を紹介しておくとしよう。

Marx vs Coase: experimental evidence” by Stumbling and Mumbling

企業は不確実性に対処するための効率的な制度。ロナルド・コースはそのように考えたが、別の見方もある。マルクス主義者の信じるところでは、企業というのは資本家が労働者を搾取するための道具ということになる。一体どちらの見方が正しいのだろうか? エルンスト・フェール(Ernst Fehr)率いる研究チームが最新の論文でこの問題に対する実験を通じた証拠を提供している。

・・・(中略)・・・

フェールらによる実験結果によると、雇用契約を結んだ被験者間でのやり取りが一回限りである場合にはプリンシパル(雇い主)役を務めた被験者のうち51%がエージェント(従業員)役を務めた被験者を搾取するに至った(搾取の発生率は51%)という。「(雇い主が手にする)権力1は労働者(従業員)を搾取するために行使され得るというマルクス主義者のアイデアは絵空事ではない」というのが彼ら(フェールら)の結論だ。

・・・(中略)・・・

ところが、雇用契約を結んだ被験者間でのやり取りが何度も繰り返される場合には搾取の発生率は21%にまで落ち込んだという。その理由は? 雇い主(の役を務めた被験者)が「私(我が社)は公平な人間(会社)です」との評判を打ち立てたいと願ったからである。そのような評判を打ち立てることができれば働き手が「この相手(会社)となら雇用契約を結んでもいい」と乗り気になってくれる可能性があるのだ。

フェールらの論文は至ってシンプルな内容ではあるものの、次のような疑問に取り組むための枠組みを提供してくれてもいる。「マルクス的な企業の代わりにコース的な企業が蔓延りがちなのは一体どのような状況だろうか?」2という疑問がそれだ。

公平性を追い求める強固な規範が社会に広く行き渡っている状況というのが考え得る答えの一つ(一つ目の答え)。・・・(略)・・・企業が「善良な」雇い主という評判を打ち立てたいと駆り立てられている状況というのが他に考え得る答え(二つ目の答え)だ。労働市場が完全雇用に近い状態にあるほど企業は「善良な」雇い主という評判を勝ち取りたいと願うことだろう。というのも、労働市場が完全雇用に近い状態にあると人材を確保するために他の企業と争わねばならなくなるからだ。

労働組合の力が強いというのが三つ目の答えとして考え得る状況だ。・・・(略)・・・このことは強力な労働組合は一国経済に好ましい影響を及ぼす可能性を秘めているという私見を補強してくれることにもなる。

四つ目の答えというのも考え得る。労働者が搾取的な雇用契約を撥ね付けることを可能にする外部機会――(生活保護などの)福祉給付がその一例――が確保されている状況というのがそれだ。

資本主義の擁護者の多くは福祉給付のような制度(四つ目の答え)には批判的な様子だが、その様を眺めていると彼ら(資本主義の擁護者)はコース的な企業が蔓延することよりも資本家の権力(労働者の搾取を可能とする権力)を維持することに心惹かれているのではなかろうかと思われてならないものだ。

  1. 訳注;従業員に対してどの職務を割り当てるかをある程度裁量的に決めることができる権限 []
  2. 訳注;「労働者(従業員)が搾取されずに済むのは一体どのような状況だろうか?」とも言い換えられるだろう。 []

マーク・ソーマ 「『白衣の男』と計画的陳腐化」(2014年10月9日)

●Mark Thoma, “‘The Light Bulb Cartel and Planned Obsolescence’”(Economist’s View, October 09, 2014)


今日は忙しくてブログまでなかなか手が回らないのだが、とりあえず目に留まった記事をいくつか急ぎ足で紹介しておくとしよう。今回取り上げるのはティモシー・テイラー(Timothy Taylor)のブログエントリーだ。

The Light Bulb Cartel and Planned Obsolescence”:

1951年に製作された『白衣の男』(主役を演じたのはアレック・ギネス)は愉快なSFコメディ映画というにとどまらず、テクノロジーや「計画的陳腐化」についてのよく練られた物語でもある。アレック・ギネス演じる主人公の研究員(シドニー)はまったく新しい画期的な繊維の開発に成功する。汚れもしなければ擦り切れもしない究極の繊維。この繊維のおかげで今後は洋服代や洗濯代が節約できるようになるに違いない。そんな未来像を心に描くシドニー。シドニーが発明した繊維は当初のうちこそ世間から驚きをもって迎えられたものの、瞬く間に風向きが変わってシドニーに対する風当たりは強まる一方に。「シドニーが発明した繊維を素材とする衣服が商品化されてしまったら倒産待ったなしだ」と恐れる繊維・衣服業界の重鎮たち。繊維会社の工場で働く労働者たちも「我々の職が失われてしまう」と戦々恐々。「我々の職も失われる」と洗濯(クリーニング)を生業とする面々も追随する。エンディング間近の場面で登場人物の一人がしかめ面で指摘する。製品の出来が良すぎると商売はうまく回っていかない。曰く、「あれやこれやの発明はその後どうなったと思う? 切れ味が落ちないカミソリの刃だとかほんのわずかの燃料で水上を疾走する車だとかはどうなったと思う?1
 
企業の経営陣が売り上げを伸ばすために製品の質をあえて落とす決断を下した(「計画的陳腐化」に手を染めた)「これぞ」という例を現実の中から探すとなるとなかなか難しい。現実の市場に出回るのは「低品質で低価格」の製品かあるいは「高品質で高価格」の製品かのいずれかというのが通例であり、企業による商品化の決定には消費者の声(世間の人々が何を買いたいと思うか)が大いに反映されるものなのだ。しかしながら、「計画的陳腐化」の実例もないわけではない。マルクス・クライエフスキー(Markus Krajewski)がIEEE Spectrum誌の2014年10月号でその一例を詳しく取り上げている。題して “The Great Lightbulb Conspiracy: The Phoebus cartel engineered a shorter-lived lightbulb and gave birth to planned obsolescence”(「白熱電球をめぐる大陰謀:ポイボス・カルテルによる計画的陳腐化の試み ~『白熱電球の寿命を縮めよ!』~」)。〔以下続く

  1. 訳注;そんな夢のような発明はどれもこれも結局のところは(消費者が買い替えをする必要がなくなりそのために会社の業績悪化を招くと懸念されて)商品化されずに終わったんだよ(そして君が発明したその繊維も同じく商品化されないことだろう)、という趣旨のコメントが後に続く。 []

マーク・ソーマ 「iPodってどこ製?」(2007年6月28日)

●Mark Thoma, “Hal Varian: Who makes the iPod?”(Economist’s View, June 28, 2007)


iPodはどこで作られているのだろうか? iPodを作っているのは誰なのだろうか? ハル・ヴァリアン(Hal R. Varian)がニューヨーク・タイムズ紙に寄稿した論説の中でかような問いに対する答えを探る試みを紹介している。

An iPod Has Global Value. Ask the (Many) Countries That Make It.” by Hal R. Varian, Economic Scene, NY Times:

アップル社のiPod(アイポッド)を作っているのは誰なのだろうか?・・・(略)・・・アップル社ではない。というのも、アップル社はiPod本体の製造をアジアに本社を構える数ある企業――例えば、Asustek(エイスーステック)にInventec Appliances(インベンテック・アプライアンシズ)にFoxconn(フォックスコン)――に外注しているからだ。

しかしながら、今しがた列挙した三社だけでiPodの製造に関わる企業のリストが埋め尽くされるわけではない。・・・(略)・・・Asustek(エイスーステック)にしてもInventec Appliances(インベンテック・アプライアンシズ)にしてもFoxconn(フォックスコン)にしてもiPodの最終的な組み立てを受け持っているに過ぎないのだ。iPodは全部で451種類の部品から構成されているが、個々の部品の製造は一体どうなっているのだろうか? 個々の部品はどこ(どの国)で製造されているのだろうか? 一体誰(どの企業)が製造しているのだろうか?

原価計算の手法を使ってこの問いの調査に立ち上がったのがカリフォルニア大学アーバイン校に籍を置く三名の研究者(pdf)――グレッグ・リンデン(Greg Linden)、ケネス・クレイマー(Kenneth L. Kraemer) ジェイソン・デドリック(Jason Dedrick)――だ。

・・・(中略)・・・

iPodの生産プロセスを細分化された工程の連なりとして捉えることにしよう。それぞれの工程ではインプット(例えばコンピューターチップとまっさらな電子基板)がアウトプット(チップが実装された電子基板)に変換される。インプットの価格(費用)とアウトプットの価格(価値)の差がそれぞれの工程で生み出される「付加価値」であり、それぞれの「付加価値」はその工程を受け持つ企業が立地する国に割り振られることになる。

ねじやボルトといった汎用品は競争が熾烈な産業で製造されており、世界中どこででも製造可能だ。それゆえ、その利幅(付加価値)は極めて小さく、iPodの最終的な価値(小売販売価格)への貢献もごく些細なものにとどまる。その一方で、ハードディスク(HDD)やコントローラチップのような特製品(特化部品)の付加価値はねじやボルトのような汎用品のそれよりもずっと大きい。

リンデン&クレイマー&デドリックの三人の推計によると、(一台のiPodに内蔵されている)東芝製のハードディスク(HDD)は73ドルの価値を備えており、その製造には総額およそ54ドルの部品(インプット)と労働が投下されている。つまりは、東芝はアウトプットたるハードディスクに19ドルの価値(+人件費)を付け加えているわけだ。東芝は日本を拠点とする企業なので東芝製のハードディスクに備わる19ドルの「付加価値」の帰属先は日本ということになる。

リンデン&クレイマー&デドリックの三人は他の部品に関しても同様の計算を繰り返し、・・・(略)・・・iPodの生産プロセスの個々の工程でどれだけの「付加価値」が生み出され、それぞれの「付加価値」がどの国に帰属するかを逐一追跡しようと試みた。決して簡単な作業ではないが、・・・(略)・・・極めてはっきりしていることがある。iPodに備わる「付加価値」の最大の帰属先は米国(米国内で販売されるiPodに関しては特にそう)ということだ。

iPodの小売販売価格(最終的な価値)は299ドル。そのうち163ドル(の「付加価値」)は米国企業(およびそこで働く労働者)に帰属するというのがリンデン&クレイマー&デドリックの三人の推計結果だ。163ドルのうち(米国内の)流通・小売業者が生み出す付加価値が75ドルでアップル社が生み出す付加価値は80ドル。残りの8ドルは米国内の部品メーカーに帰属する。iPod本体の価値(299ドル)のうちで日本が生み出す付加価値は26ドル(そのうちの大半は東芝製のハードディスクによるもの)で韓国が生み出す付加価値は1ドルに満たない。

リンデン&クレイマー&デドリックの三人の調査ではiPod一台の生産に要する部品がすべて捕捉されているわけではなく、補足し切れていない部品の費用に(iPod一台の生産に要する)人件費を加えると合計でおよそ110ドルになるという。リンデン&クレイマー&デドリックの三人はiPod一台の生産に要する人件費を国別に割り振る試みにも乗り出す心積もりのようだが、・・・(略)・・・どうやらそう簡単にはいかなそうだ。

(iPodの生産プロセスのような)国境を越えた複雑な生産プロセスの実態を従来の貿易統計を使って要約しようとすると無理が生じる可能性がある。「付加価値」という観点からすると中国はiPodの価値のうちでわずか1%程度しか寄与していないとしても、中国で組み立てが完了したiPodが米国に輸出されると従来の貿易統計では二国間(米中間)での貿易収支でおよそ150ドル分の貿易赤字(対中赤字)が発生することになるのだ。

突き詰めると、「iPodを作っているのは誰なのだろうか?」「iPodはどこで作られているのだろうか?」という問いへの簡潔な答えなんてないということになろう。・・・(略)・・・iPodの真の価値は個々の部品に宿っているわけでもなければ、個々の部品を寄せ集めることによって生み出されるわけでもない。iPodの価値の大部分はその概念(発想)とデザインにある。iPodに備わる(299ドルの)価値のうちで80ドルもの付加価値――iPodの製造・販売を支えるサプライチェーンのうちで単独で生み出す付加価値としては群を抜いて最大の数値――がアップル社に帰属するのもそれゆえなのだ。

451種類の部品(そのうちの大半は汎用品)を組み合わせて一つの価値ある商品にまとめ上げるアイデアを思い付いたのがアップル社であり、アップル社に集った切れ者集団だ。彼らはiPodを製造してはいないかもしれないが、思い付きはした(生み出しはした)。 結局のところ肝心なのは新たなアイデアを思い付くかどうかなのだ。

マーク・ソーマ 「完全雇用の政治的側面」(2010年7月17日)

●Mark Thoma, ““Political Aspects of Full Employment””(Economist’s View, July 17, 2010)


「時は巡る」といったところか。メールで教えてもらったのだが、カレツキ(Michal Kalecki)の1943年の論文の一部を以下に引用しておこう。

“Political Aspects of Full Employment”(「完全雇用の政治的側面」) by Political Quarterly, 1943:

【IV節】3. ・・・(略)・・・不況(スランプ)下においては、大衆からの要求もあって(あるいはそのような要求がない場合でさえも)、大量失業の発生を防ぐことを意図して国債を財源とした公共投資(市中からの借り入れを通じた財政出動)が試みられることだろう。しかしながら、スランプが去ってブーム(好景気)が到来した後もなお高水準の雇用を保とうとして公共投資が続けられる(そのために国債の発行が続けられる)ようであれば、産業界のリーダー(経営陣)たちの間から強い反対の声が上がることだろう。1

・・・(中略)・・・

かような状況下では大企業と金利生活者との間で強力な同盟関係が築かれる可能性があるし、「ブームが到来してもなお公共投資を続けるというのは明らかに不健全だ」と公言して彼ら(大企業と金利生活者)の後ろ盾となってくれるような経済学者も何人か出てくることだろう。公共投資の継続に抵抗する勢力(とりわけ政府に対して強い影響力を持つ大企業)の圧力もあってやがて政府は十中八九の確率で「財政赤字の削減」という伝統的な政策へと舵を切ることになるだろう。その結果として再びスランプがやってくることだろう。・・・(略)・・・

このような政治的景気循環の発生は単なる可能性の話にとどまるわけではない。1937~38年のアメリカで瓜二つの事態が起きているのだ。アメリカでは1937年の下半期に入ってそれまで続いていたブームが一気に冷え込むことになったが、その原因は政府が財政赤字を急速に削減しようと試みたことに求められるのだ。・・・(略)・・・ [全文はこちら(pdf)]

  1. 訳注;この後に次のような文章が続く。「前にも指摘したように、完全雇用がいつまでも続くというのは産業界のリーダーたちの好むところではない。というのも、完全雇用が当たり前の状況となると労働者たちは〔強気の姿勢で賃上げや労働条件の改善を求めるなどして〕『手に負えなくなる』だろうし、『産業の統率者たち』(産業界のリーダー)の生きがいでもある『労働者に規律を教え込む』という機会が〔クビにするという脅しの効力が薄まるために〕失われることにもなるだろうからである。さらには、景気が上向くとそれに伴って物価も上昇することになるが、そうなる(インフレが生じる)と大小の金利生活者は損を被ることになる。そのため金利生活者たちは『ブームを煙たがる』ことだろう」。この直後に(中略)以下の文章(「かような状況下では大企業と金利生活者との間で強力な同盟関係が築かれる可能性があるし、~」)が続くことになる。 []

マーク・ソーマ 「ミスター・ベイルアウト」(2009年8月5日)

●Mark Thoma, ““Mr. Bailout””(Economist’s View, August 5, 2009)


Economics of Contemptブログでデイビッド・ウェッセル(David Wessel)の新刊が話題にされている。

Quotes/Revelations from Wessel Book”:

昨日は一日中旅行の移動に費やさねばならなかったのだが、これ幸いと(移動の合間に)デヴィッド・ウェッセルの新刊である『In Fed We Trust』(邦訳『バーナンキは正しかったか? FRBの真相』)に目を通した。ほぼ読み終わったところだ。大変優れた(そしてそれと同じくらい大事なことに、内容も正確な)一冊だと思う。本書の中で個人的に強く興味を惹かれた引用なりすっぱ抜きなりをいくつか列挙しておこう。

  • リーマン・ブラザーズの(公的資金の注入を通じた)救済(ベイルアウト)に乗り出すべきかどうかが俎上に載せられる中、ヘンリー・ポールソン(当時、財務長官)はガイトナー(当時、ニューヨーク連銀総裁)とバーナンキ(当時、FRB議長)に対して次のように語ったという。「『ミスター・ベイルアウト』。(ベアー・スターンズを救済したことで)私のことをそう呼ぶ声が世間でちらほら出てきているんです。もうできませんよ(リーマン・ブラザーズの救済にゴーサインを出すことはできませんよ)。」
  • ハーバード大学に籍を置く経済学者のマーティン・フェルドシュタイン(Martin Feldstein)はAIG(アメリカン・インターナショナル・グループ)の役員を務めていたが、FedによるAIGの救済に反対の意向を示した。ウェッセルによると、フェルドシュタインは「民間企業を強制的に買収するというのは政府の役割ではない」と語ったという(AIGの株主のために尽くすよりも自らが信じる経済哲学に忠実であろうとするべきだ。フェルドシュタインはそう考えたわけだ。何たる馬鹿ちん!)。
  • (連邦預金保険公社(FDIC)の総裁を務めていた)シーラ・ベア(Sheila Bair)はダメダメだ。おっと、ちょいとお待ちを。そんなことは前からわかっていたというのはその通りだが、ウェッセルの本はベアが規制監督官としてマジでダメダメだということを痛いほど再認識させてくれる。バーナンキにガイトナー、そしてポールソンが金融システムの救済に向けて努力している中、ベアは機会を捉えては三人の努力を踏みにじろうとした。さらには、ベアはワシントン・ミューチュアル絡みでも大失敗――パニックの絶頂の最中にワシントン・ミューチュアルへの債権者に巨額の損失を背負わせるという大失敗――を犯している。他の規制監督官の面々が(金融機関の)救済計画を立案するあらゆる現場からベアをどうにかして締め出そうと必死になったのも驚くにはあたらない。ベアが銀行業の分野で経験を積んだ年数は合計で何年かというと・・・0年だ(ずぶの素人だ)。彼女が気にしているのはたった一つのこと。自分のイメージ(自分が世間からどう思われるか)のことだけだ。シーラ・ベアという名の歩く難破船が連邦預金保険公社から立ち去ってくれる時期が早まれば早まるほどいいのだ。
  • ハリー・リード(Harry Reid)上院議員はバーナンキとポールソン(さらには、ペロシ、ベイナー、マコーネルといった大物議員)に対して不良資産救済プログラム(TARP)はそう簡単には上院を通過しないかもしれないと警告を与えた。曰く、「この件は簡単じゃない。・・・・(略)・・・ヒアリングの機会も設ける必要がある。上院のことはよく知ってるんだ。トイレの流れをよくするためのこの法案を通すには2週間はかかる」。

ウェッセルの新刊から見繕った優れもののネタはこんな感じだ。激しくオススメの一冊だ。

マーク・ソーマ 「トーマス・シェリング×マイケル・スペンス ~『核抑止』をめぐる師弟の対話記録~」(2007年2月17日)

●Mark Thoma, “Thomas Schelling on Nuclear Deterrence”(Economist’s View, February 17, 2007)


マイケル・スペンス(Michael Spence)とトーマス・シェリング(Thomas Schelling)の二人――いずれもノーベル経済学賞を受賞した経済学者――が核兵器の拡散や核兵器の使用を防ぐための戦略を論じ合うために顔を合わせたようだ。スペンスがその時の模様を報告している。 [Read more…]

マーク・ソーマ 「キューバ危機と『寛大なしっぺ返し戦略』」(2007年2月13日)

●Mark Thoma, “Generous Tit-for-Tat”(Economist’s View, February 13, 2007)


「寛大なしっぺ返し」戦略は壊滅的な軍事衝突を避ける上でキーとなる役割を果たす。ジェフリー・サックス(Jeffrey Sachs)がそう語っている1

Threats of War, Chances for Peace” by Jeffrey D. Sachs, Scientific American

気候変動に森林破壊、地下水の枯渇。いずれも世界経済の持続可能な発展に対する深刻な脅威であることは間違いないが、今後の人類の福祉にとって一番の脅威といえばやはり相変わらず戦争の脅威ということになるだろう。1962年のキューバ危機(キューバミサイル危機)時に世界は核戦争の瀬戸際に立たされることになったが、今でも南アジアや中東、朝鮮半島といった紛争地帯で再びあれよあれよという間に似たような事態に追いやられる可能性は残されている。核戦争の一歩手前までいったキューバ危機。しかし、キューバ危機は軍備管理に向けた最初の一歩(1963年に締結された部分的核実験停止条約)へと道を開くきっかけともなった。それもこれもジョン・F・ケネディ大統領の政治的なヴィジョンと熟練した手腕の賜物であり、歴史に名を残す画期的な成果だと言える。キューバ危機から部分的核実験停止条約の締結へと至る顛末は今日の世界にも時宜を得た教訓を与えてくれている。

1962年後半から1963年中頃にかけて立て続けに起こった一連の出来事についてはよく知られているところだ。・・・(略)・・・戦争開始まで残りあと数時間というギリギリのところまで追いつめられたと思いきや、その数ヵ月後には米ソ間で核実験の禁止に向けた合意が取り付けられるに至ったわけである。

わずか1年の間に戦争の瀬戸際から平和の実現に向けた画期的な条約の締結へと事態が大きく動いたわけだが、一体全体どうしてそんなことになったのだろうか? その答えはソ連に対するケネディの姿勢にあった。・・・(略)・・・敵を悪者と断じるなかれ。ケネディはそのような発想を出発点に据えてソ連との交渉に臨んだ。ソ連は(時に間違った行動を選択することはあるにしても)合理的である。ケネディはどの場面でもそのように想定した。ソ連は戦術的に少しでも有利な立場に立とうと画策しはするだろうが、・・・(略)・・・自殺行為を意味しかねない戦術からはすぐにも手を引くだろう。ケネディはそう想定した。

ケネディは「寛大なしっぺ返し」(generous tit-for-tat;GTFT)戦略を採用していたのだ。現代のゲーム理論家であればそう語ることだろう。一方の側のプレイヤー(プレイヤー1)は相手の側(プレイヤー2)が「協調」する限りは「協調」を貫く。しかしながら、プレイヤー2が「裏切り」に手を染めるやいなやプレイヤー1もプレイヤー2を真似て「協調」路線を見直す。裏切ると手痛い結果が待っているぞ。裏切り者にそう知らしめるためにである。・・・(略)・・・・しかしながら、裏切り者が改心する気があるなら再び「協調」路線に転じてやってもいい。プレイヤー1は「心の広さ」を示してそのような可能性を匂わせておく。・・・(略)・・・そしてプレイヤー1は「寛大にも」自分の側から率先して「協調」路線に転じる可能性さえある。そうすれば一度裏切った相手(プレイヤー2)から再び「協調」を引き出す(裏切り者を改心させる)ことができるかもしれないと見越してである2。「寛大なしっぺ返し」戦略は極めて実り多くてたくましい(頑健な)戦略として知られており、人間の本能に深く埋め込まれている基本的な戦略なのではないかというのが多くの進化生物学者の見立てである。

ケネディは・・・(略)・・・(1963年6月にアメリカン大学の卒業式に招かれて行った「平和のための戦略」演説の中で)敵を侮辱するようなことがあってはならないと強調している。「核を保有する国々は互いの重要な国益を守り抜きつつも、敵対する相手国に屈辱的な撤退か核戦争かの二者択一を迫るようなことだけは避けねばなりません。核の時代にそのような対立関係を煽るかのような路線を選択するというのは政策の破綻を示す証拠かあるいは全世界を巻き込んでの自殺願望を示す証拠でしかないでしょう。」

ケネディの発想は当時はラディカル(革新的で新奇)なものだったが、同じ人類という共通項ゆえにソ連と協調関係を構築することも可能だというのがケネディの考えだった。「煎じ詰めるとこう言えるでしょう。米国とソ連を結び付ける共通の絆の中でも最も根本的なもの、それはどちらの国の国民もこの小さな地球に共同で暮らしているという事実です。私たちは誰もが同じ空気を吸って生きています。誰もが子供たちの未来を気にかけています。私たちは命に限りがある同じ人間なのです」。あちら側(敵)もこちらと同じように生きたいと願っており子供たちの未来のことを同じように大切に想っている。何らかの挑戦や脅威が目の前に立ちはだかった時に是非ともしっかりと思い出したい洞察である。45年前(のキューバ危機時)にもそうだったように、この重要な洞察は我々が今後も無事に生き抜き安全に暮らし続けていく上でキーとなる役割を果たすことになるかもしれない。

  1. 訳注;サックスはこのテーマ(キューバ危機への対応を含めたケネディ大統領の世界平和の実現に向けた奮闘)で一冊物している。次の本がそれである。 ●Jeffrey D. Sachs(著)『To Move the World: JFK’s Quest for Peace』(邦訳『世界を動かす-ケネディが求めた平和への道』) []
  2. 訳注;キューバ危機前後の米ソ間のやり取りに当てはめて考えると次のようになる。ケネディ大統領率いる米国(プレイヤー1)はソ連(プレイヤー2)が挑発的な行動に出ない限りは「協調」路線(軍拡を控える)を貫く姿勢をとっていたが、ソ連がそれまでの(キューバ国内に持ち込むのは防衛用の兵器だけに限るという)約束を翻してキューバに攻撃用の核ミサイルを持ち込んだ(「裏切り」に手を染めた)ために「協調」路線を見直して海上封鎖に乗り出すとともにキューバに空爆を仕掛ける脅しもかけた。米国側の強気の姿勢を前にしてソ連は態度を軟化させ、結果的に全面核戦争の危機は回避されることになる。それから数ヵ月後のこと、米国は「寛大にも」自分の側から率先して「協調」的な行動に打って出ることになる。核実験を禁止する条約を結ばないかとソ連側に話を持ち掛けたのである。そしてソ連もその提案に乗っかる(「協調」で応じる)ことになり、1963年に部分的核実験停止条約が締結されるに至ることになる。 []

マーク・ソーマ 「世間における経済問題へのあやふやな理解とその背後にあるもの ~メタファーと『善は善を呼ぶ』型ヒューリスティック~」(2015年10月30日)

●Mark Thoma, “‘On Misunderstanding Economics’”(Economist’s View, October 30, 2015)


クリス・ディロー(Chris Dillow)が興味深い研究を紹介している。

On misunderstanding economics”:

世間における経済学への無理解を嘆く声があちこちで聞かれるようになって久しいが、この問題に対して新しい角度から光をあてる興味深い研究が現れた。デビッド・レイザー(David Leiser)とゼエヴ・クリル(Zeev Kril)の二人の手になるこちらの論文がそれである。レイザーとのクリルの二人は語る。人間の精神は「経済学(ないしは経済問題)を考るのに格好なようにはできていない」。

・・・(中略)・・・

レイザーとクリルの二人によると、世間の人々はその代わりにメタファーに頼る傾向にあるという。一番悪名高い例は国の財政を家計に喩えるあれである。単にメタファーに頼るというだけではない。自信満々でそうする(メタファーに頼って経済問題を語る)ことが多いというのだからさらに始末が悪いのだ。

・・・(中略)・・・

世間の人々が頼りにするヒューリスティックは他にもある。そのうちの一つはレイザーが「善は善を呼ぶ」(「善は善を呼び、悪は悪を呼ぶ」)型ヒューリスティック(good begets good heuristic)(pdf)と名付けているものだ。「良いこと」は別の「良いこと」を呼び(「良いこと」は別の「良いこと」を呼び込む原因となり)、「悪いこと」は別の「悪いこと」を呼ぶ(「悪いこと」は別の「悪いこと」を呼び込む原因となる)。世間の人々は直感的にそう考える傾向にあるというのだ。例えば、世間の人々は「失業率の上昇」には「インフレ率の加速」が伴う(pdf)と考える傾向にある。どちらも「悪いこと」だからである1。・・・(略)・・・さらに厄介に思えることもある。世間の人々は「政府支出」を「悪いこと」だと見なし、その結果として「政府支出」の増加(という「悪いここと」)には「失業率の上昇」(という「悪いこと」)が伴うと考える傾向にあるというのだ。

レイザーとクリルの二人の研究から個人的に受け取ったことを3点ほど指摘しておきたいと思う。世間における経済問題へのあやふやな理解の背後にはメタファーやヒューリスティックに頼りがちな一般人の傾向が控えている可能性があるわけだが、そのことが結果的に右派か左派のどちらか一方に有利に働くことになるかというとそういうわけではないというのがまず一点目だ。メタファーやヒューリスティックに頼って経済問題を理解しようとする結果として世間の人々の間で反市場的な態度が培われることになる場合もあれば反ケインジアン的な態度が培われることになる場合もあるのだ。

メタファーやヒューリスティックに頼って経済問題を理解しようとする世間一般の傾向は我が国(イギリス)だけに限られる話ではない(他の国でも事情は変わらない)ということが二点目だ。

・・・(中略)・・・

我が国の政治制度にしても社会制度にしてもこの傾向(メタファーやヒューリスティックに頼って経済問題を理解しようとする世間一般の傾向)にうまく対処できていないというのが三点目だ。むしろその傾向を後押ししている可能性さえある。政治家にしてもメディアにしても世間一般の(メタファーやヒューリスティックに頼って経済問題を理解しようとする)傾向に抗ってそれを矯正しようとするよりは迎合しがちな面があるのだ。・・・(略)・・・経済学者だけではなく、民主主義の質を高めるにはどうしたらいいかと常日頃から心を砕いている面々も一緒になってこの状況を嘆くべきなのだ。

  1. 訳注;「善は善を呼ぶ」型ヒューリスティックに頼る結果として、世間の人々は「失業率の上昇」という「悪いこと」が「インフレ率の加速」という別の「悪いこと」を招き寄せると考える傾向にある、という意味。 []

マーク・ソーマ 「保護主義の本能」(2010年10月7日)

●Mark Thoma, “The Protectionist Instinct”(Economist’s View, October 07, 2010)


講義の合間での即席になるが、燃料を少々投下しておこう(以下の引用では省略してあるが、ハイエクの洞察にも負っているとのこと)。

The Protectionist Instinct” by Paul H. Rubin, WSJ:

失業率の高止まりが続く中で選挙の投票日が近づいているが、多くの政治家たちは例のごとく自由貿易(および海外へのアウトソーシング)に反対するキャンペーンを展開中である。いくつかの世論調査の結果によると、一般の有権者の間では自由貿易の恩恵を疑問視する見方が強まっているようだ。国際貿易の話題ほど一般人と経済学者との間で意見が食い違う話題はないだろう。

・・・(中略)・・・

国際貿易に関する一般人の見方(信念)は進化心理学的な観点から説明をつけることが可能だが、具体的には進化の過程で培われることになった二通りの心理的な傾向が関わってくる。まず一つ目は「ゼロサム思考」に傾きがちな傾向である。経済が成長する(パイが拡大する)可能性であったりそのこと(経済の成長)に国際貿易が役立つ可能性だったりというのは直感的には理解しにくいところがあるのである。

我々の遠い祖先が生きた世界は静的な世界であり、異なる集団の間で交易が行われることもほとんどなければテクノロジーの進歩もほとんど見られないような世界だった。我々の思考(精神)はそのような(静的でゼロサム的な1)世界を理解するべく進化を遂げてきたのである。とは言っても、人間には「交換(ないしは貿易)は双方の利益になる」(交換はポジティブサムの結果をもたらす)との概念は決して理解し得ないというわけではない。「学ぶ」という経験を積まなければ理解できないのだ。

「ポジティブサム思考」は何もせずとも自然と身に付きはしない。(学校等で)誰かに教えられなくとも「話す」ことは次第にできるようになるが、「読む」こととなるとそうはいかない。比喩を使わせてもらうなら、交換には相互利益が伴うという考えを理解する(「ポジティブサム思考」を身に付ける)ことは文字を読めるようになることと似ていると言えるだろう。

次に二つ目の傾向に話を移そう。我々の遠い祖先が生きた世界は敵意に満ちた世界でもあった。我々の祖先は近隣の集団とひっきりなしに拳を交えており――チンパンジーがそうであるように――、そのような日常を送るうちに「ウチ」(内集団、「我ら」、仲間)と「ソト」(外集団、「彼ら」、敵)に差別を設ける強力な本能(「内集団ひいき」)が培われるようになっていった。「ウチ」をひいきする傾向は今日にまで受け継がれ、数多くの場面でその頭をもたげてくることになる。

地元のスポーツチームに肩入れするといったようなかたちで「内集団ひいき」が現出するのであれば害はないが、「内集団ひいき」が国際貿易の場面で頭をもたげてくるようであればそうも言っていられない。「内集団ひいき」が最も有害な帰結をもたらすのは戦争を誘発する要因となる場合だ。「貿易戦争」と比喩的に語られることがあるが、このことは(「貿易」に関わる本能であったり「戦争」に関わる本能であったりといった)有害な本能が互いにいかに似通っているかを物語っていると言えよう。

「ゼロサム思考」と「内集団ひいき」という二通りの心理的な傾向が手を取り合う結果として国際貿易に対する世間一般の常識的な見方(というか誤解)が導き出されることになる。職の数は固定されている(「ゼロサム思考」)にもかかわらず、海外との貿易なんかに乗り出せば「仲間」(同胞の労働者)の職を「敵」(海外の労働者)に奪われてしまうことになる(「内集団ひいき」)ではないか。ついそう考えてしまうのである。正しい見方とは言えないが、自然な見方に感じられてしまうのだ。・・・(略)・・・

  1. 訳注;この点は昨日訳出したばかりの記事(アレックス・タバロック 「進化とモラルコミュニティー ~進化の名残としての『ゼロサム思考』~」)を参照されたい。 []