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マーク・ソーマ 「チンパンジーが物々交換に応じたがらないのはなぜ?」(2008年1月30日)

●Mark Thoma, ““Why Don’t Chimpanzees Like to Barter Commodities?””(Economist’s View, January 30, 2008)


チンパンジーは「自分にとって非常に価値のある物品(リンゴの薄切り)」を手放さなければならない場合にはそれと引き換えに「自分にとってもっと価値のある物品(ぶどう)」が手に入るとしても物々交換にはなかなか応じたがらない。以下に引用する研究ではその理由が探られているが、それだけにとどまらず人間社会で物々交換がいかにして発展してきたかについてもいくらか光を当てようと試みられている。

Why don’t chimpanzees like to barter commodities?” by EurekAlert:

人類は何千年もの歴史を通じて「物々交換」に頼って生きてきた。物々交換は日々の暮らしにとって欠かせない一側面だったし、職業の分化(分業)を推し進める要因ともなった。それぞれ異なる作業に従事する二人が自らの労働を通じて得たモノの一部を相手と交換する。その結果として二人がともに利益を得る。物々交換はかように重要な意味を持っているわけだが、物々交換がいかにして進化し発展してきたかについてはほとんどわかっていないのが現状である。

我々人類の祖先はどうにかこうにかして物々交換を自分のものにしたに違いないわけだが、今回取り上げる研究(2008年1月30日にPLoS ONEに掲載された研究)は人間に一番近い親戚にあたるチンパンジーがそれ自体として高い価値を備えている物品(リンゴとぶどう)同士の物々交換に応じるのはどのような状況であるかを詳しく検証している世界初の試みである。物々交換は分業を可能にする最も基本的な前提条件の一つだというのが経済学者の間で信じられている説だが、分業が観察されるのは霊長類の中では人間くらいのものだ。研究結果を先取りするかたちで簡潔にまとめると次のようになる。チンパンジーが食べ物同士の物々交換に応じるようになるためにはある程度の訓練が必要であり、チンパンジーが何の訓練もなしにいきなり物々交換に応じることは滅多にない。チンパンジーも訓練を積めば信頼を寄せる人間を相手に(食べ物同士の)物々交換に応じるようになるが、そこまでの訓練を積んだ後でも自分にとって非常に価値のある物品(リンゴの薄切り)を手放さなければならないとなるとそれと引き換えに自分にとってもっと価値のある物品(ぶどう)が手に入るとしても物々交換にはなかなか応じたがらない。

従来の研究ではチンパンジーに「お金」(に見立てたモノ)を渡してチンパンジーがその「お金」と何らかの(チンパンジーにとって価値のある)物品との交換に応じるかどうかに焦点が当てられているのが大半である。しかしながら、「お金」は自然界には存在せず、「お金」それ自体には何の価値(使用価値)も備わっていない。それゆえ、チンパンジーが自分にとって価値のある物品(例えばぶどう)を手に入れるために「お金」を進んで手放したとしても実験室の外の世界におけるチンパンジーの行動についてはほとんど何も語っていない可能性がある。

件の研究では(二箇所の研究所から集められた)チンパンジーに(「お金」ではなく)食べ物を渡し、その食べ物と他の食べ物とを交換する機会が与えられた1。何度も実験を繰り返した結果としてどういうことがわかったかというと、チンパンジーも訓練を積めば人間を相手に食べ物同士の物々交換に応じるようになるということである。ただし、それは交換を通じて手に入る食べ物がそれと引き換えに手放さなければならない食べ物よりもずっと価値が高い場合(例えば、ニンジンを手放すのと引き換えにぶどうを手に入れる場合)に限られる。それ以外の場合(例えば、リンゴ(の薄切り)を手放すのと引き換えにぶどうを手に入れる場合)はチンパンジーは物々交換には応じずに渡された食べ物をそのまま自分の手元に持っておく傾向にあるのだ。

かような2チンパンジーの行動は理に適ったものである可能性がある。そう言える理由はいくつかあるが、チンパンジーの世界には「取引」の履行を支える社会制度が欠けている――言い換えると、相手からモノを受け取っておきながら代価(引き換えに渡すと約束していたモノ)も払わずにとんずらする裏切り者を罰する仕組みが欠けている――というのもそのうちの一つだ3。チンパンジーの社会では「所有権」の規範が欠けており、そのためモノ(財産)を溜め込むということがない。その結果としてモノ同士を交換する(物々交換する)機会も滅多にないわけだが――それとは対照的に、従来の研究でも明らかにされていることだが、チンパンジーの社会では「サービス」の交換は非常に活発な現象である――、これもまた別の理由と言えるだろう4。自然界ではたった今自分の手元にあるモノだけが「所有」されていると言えるのであり、そのモノも誰かに奪われてしまう可能性が極めて高い。そのため、チンパンジーは(モノを溜め込まないために)相手に差し出せるモノ(交換できるモノ)を何も持っていないことが常態なのだ。

件の研究を取り仕切った一人であるジョージア州立大学のサラ・ブロスナン(Sarah Brosnan)は次のように語る。「物々交換への拒絶感はチンパンジーの心理の奥深くに埋め込まれているように感じられますね。チンパンジーも物々交換を行えるだけの能力は十分に持っているんです。でも、その能力を最大限の利益を引き出すような仕方では使っていないわけですね」。

カリフォルニア大学ロサンゼルス校の「法と経済学」センターでディレクターを務めるマーク・グラディ(Mark F. Grady)――件の研究を取り仕切ったもう一人の人物――は次のように語る。「チンパンジーが物々交換に応じたがらない主たる理由は所有権の規範が欠けているためではないかというのが私の考えです。所有権の規範を確立するというのはかなり難儀な仕事ですが、チンパンジーとしてはそんな大変な思いをするだけの気はない(割に合わないと思っている)ようですね。幸いにと言いますか、(『モノ』とは違って)『サービス』は所有権の規範によって保護される必要はありません。そのため、チンパンジーも『サービス』であれば交換し合える可能性がありますし、実際に交換し合っていますね5。しかし、チンパンジーの社会が露にしていますが、(『サービス』の交換に依拠する)『サービス経済』では人間社会ほどには分業は進まないようですね」。

人間も交換から得られる利益を最大限に引き出せずに終わることが時としてあるが、チンパンジーの物々交換実験はその理由を解明する役にも立つ可能性がある、とはブロスナンの弁だ。

  1. 訳注;実験で使用された食べ物はニンジン、リンゴ、キュウリ、ぶどうの四つ。実験では四つの食べ物に対するチンパンジーの「好み」も調査されており、その結果は「①ぶどう(一番好き)、②リンゴ、③キュウリ、④ニンジン」という順番になっている。 []
  2. 訳注;交換を通じて手に入るモノ(食べ物)がそれと引き換えに手放さなければならないモノ(食べ物)よりもずっと価値が高い(手放すモノの(自分にとっての)価値とそれと引き換えに手に入るモノの(自分にとっての)価値の差が大きい)場合に限って物々交換に応じる []
  3. 訳注;それゆえ、仮に相手にとんずらされてしまってもそれほど痛手にならない場合くらいしか交換に応じない。ニンジンくらいならどうってことないが、相手にリンゴを渡してそのままとんずらされるとかなり悲しいので、(ニンジンとぶどうとの交換には応じても)リンゴとぶどうとの交換には応じない。 []
  4. 訳注;チンパンジーは実世界での物々交換の経験が少ない(慣れていない)ために「交換の利益」をみすみす見逃してしまうことがある、ということが言いたいものと思われる。 []
  5. 訳注;例えば、互いの体を毛づくろいし合う。 []

マーク・ソーマ 「『アニマルスピリッツ』という語の来歴」(2009年3月15日)

●Mark Thoma, “Animal Spirits”(Economist’s View, March 15, 2009)


「アニマルスピリッツ」という語の来歴について少々。

・・・(略)・・・何よりも求められているのは「アニマルスピリッツ」が息を吹き返すことだ。そう語る変わり者がいる。その名はロバート・シラー(Robert Shiller)。シラーといえばノーベル経済学賞受賞者でもあるジョージ・アカロフ(George Akerlof)との共著本――『Animal Spirits』。気が滅入るほど長たらしい副題付き――が出版されたばかりだが、そんな彼が数週間前のニューヨーク・タイムズ紙に論説を寄稿している。・・・(略)・・・シラーは件の論説の中で次のように述べている。「ここ最近の経済論争の様子を眺めていると1930年代の大恐慌が引き合いに出されている例をよく見かけるが、そのような『大恐慌物語』への注目こそが目下の低迷を後押しする原因の一つとなっている。どういうことか? そのような『物語』が広く語られることで大恐慌が今後の先行きを占う参照基準となってしまい1、その結果としてジョン・メイナード・ケインズが『アニマルスピリッツ』と呼んだものに冷や水が浴びせられる格好となってしまっているのだ。『大恐慌物語』があちこちで語られるおかげで消費者の購買意欲や企業の(雇用の拡大や事業の拡大に向けた)攻めの姿勢を背後で支える『アニマルスピリッツ』が萎えてしまっているのだ。『大恐慌物語』は『自己成就的な予言』となる資格を備えているのだ」。

1936年に出版されたケインズの『一般理論』(“The General Theory of Employment, Interest and Money”)が「アニマルスピリッツ」という語を広める上で大きな役割を果たしたことは間違いない。ケインズが『一般理論』の中で述べているところによると、経済がたびたび動揺にさらされるのは・・・(略)・・・「投機」の結果であったり、あるいは次のような事実のためでもあるという。「企業による投資の決断は将来収益の期待値を事細かに計算した結果に基づくというよりは内から湧き上がってくる楽観論によって左右される面が強い。・・・(略)・・・人々が何か積極的なことをやろうと決心するに至るのは大抵の場合アニマルスピリッツ――何もしないでいるよりは何かやらなきゃと駆り立てる内から湧き上がってくる衝動――に突き動かされた結果としか言いようがないのであり、何かすることで得られると予想される(数値化された諸々の)便益に(これまた数値化された)確率を掛け合わせた加重平均(予想便益の期待値)を計算した結果なんかではないのだ」。

たった今引用したばかりの箇所ではアニマルスピリッツが人をして自信過剰にしてしまう傾向に警鐘が鳴らされているわけだが、別の箇所ではアニマルスピリッツの好ましい面(リスクテイクを促す面)に目が向けられている。「アニマルスピリッツが萎えるのに伴って内から湧き上がる楽観論が鳴りを潜めてしまい、予想便益の期待値の数字以外に何も頼れるものがない。そんなことになってしまえば事業も衰退しやがては死に絶えてしまうことだろう」。うん。個人的にはこっちの方が好きだ。

ケインズが経済学の世界で有名にした「アニマルスピリッツ」という語には実は長い歴史がある。バーソロミュー・トラヘロン(Bartholomew Traheron)が1543年に海外のとある外科医(イタリアの医師であるジョヴァンニ・ダ・ヴィーゴ)の著作を翻訳しているが、その中に次のような記述が見られる。「医学を専門とする者たちの教えによると、人間のスピリット(霊気)には3種類あるという。アニマルスピリット、ヴァイタルスピリット、ナチュラルスピリットである。アニマルスピリットは脳に宿る霊気であり、魂――ラテン語では「アニマ」(anima)――の第一の手先を務める霊気であることからアニマルという語が冠されている」2

・・・(中略)・・・

イギリスの作家たちは「アニマルスピリッツ」という語に備わっている躍動感を敏感に嗅ぎ取り、自らの小説の中にも熱意を込めて取り入れている。ダニエル・デフォーは『ロビンソン・クルーソー』の中で次のように書いている。「(刑の執行直前に刑の取りやめが決まったことを知らされた罪人たちは)あまりに驚き、そのためにアニマルスピリッツ(動物精気)が心臓で足止めを食う(心臓の外にいつまでも流れ出ないままでいる)可能性があるからである」。ジェーン・オースティンも『高慢と偏見』の中で「アニマルスピリッツ」という語を使っているが、あふれんばかりの活力(ebullience)という意味を込めて次のように書いている。「彼女(リディア)はアニマルスピリッツ(活力)に溢れる女性」。ベンジャミン・ディズレーリ(英国の元首相であり小説家としても活躍)も1844年に(『コイングスビー』の中で)オースティンと同じく「活力」という意味を込めて次のように書いている。「彼はアニマルスピリッツ(活力)に溢れる人物であり、愉楽に対する鋭い感覚の持ち主でもあった」。いい感じじゃないだろうか?

  1. 訳注;「この先に待っているのは大恐慌のように長くて厳しい不況なのではないか」との悲観的なムードを後押しする役割を果たし、という意味。 []
  2. 訳注;「アニマルスピリッツ」という語の来歴についてはアカロフ&シラー(著)/山形浩生(訳)『アニマルスピリット』でも簡潔に触れられている。その箇所を以下に引用させてもらうとしよう(注ページ pp. 24~25)。「(3)アニマルスピリットという用語は古代に生まれ、古代医師ガレノス(ca.130-ca.200)の著作が昔からその出所として引用され続けている。この用語は中世までは医学でふつうに使われており、Robert BurtonのThe Anatomy of Melancholy(1632)やRene DescartesのTraité de l’Homme(1972[1664], 邦訳『人間論』)まで続いている。スピリット(霊気)には3種類あるとされていた。心臓から生まれるとされる生命精気、肝臓から生まれる自然精気、脳から発する動物精気である。哲学者George Santayana(1955[1923], p.245)は「動物信念」の中心性をもとに哲学大系を構築したが、かれのいう動物信念とは「純粋で絶対的な精気、知覚不能な認知エネルギーであり、その本質は直感である」」。医学(ないしは生理学)の分野における「アニマルスピリット」論の盛衰の歴史についてはこちらのリンク(英語)も参考になるかもしれない。ちなみに、ケインズはデカルトないしはヒューム経由で「アニマルスピリッツ」という語を知ったのではないかという説が有力なようだ。そのあたりの詳しい話は例えば次の論文を参照のこと。 ●D. E. Moggridge(1992), “Correspondence: The Source of Animal Spirits”(Journal of Economic Perspectives, vol.6(3), pp.207-212) []

マーク・ソーマ 「『ゲームの審判』としての政府 ~『アニマルスピリッツ』と政府の役割~」(2009年4月25日)

●Mark Thoma, ““Good Government and Animal Spirits””(Economist’s View, April 25, 2009)


政府は「アニマルスピリッツ」に行動の自由を与えるべきだ。そうしてはじめて「アニマルスピリッツ」の創造性も最大限に発揮されることになる。そう語るのはアカロフ&シラーのタッグだ。

Good Government and Animal Spirits” by George A. Akerlof and Robert J. Shiller, Commentary, WSJ:

2008年の金融危機が我が国に残した何よりも重要な遺産は金融規制の質的な向上だった。後々振り返ってそう言えるように今のうちからそのための準備を始めておく必要がある。

・・・(中略)・・・

「アニマルスピリッツ」――経済活動の中心に位置する心理的および文化的な要因――の重要性がわかれば規制当局の役割を再び拡張する必要性があることに納得せざるを得なくなる。・・・(略)・・・(つい最近の出来事も含めた)歴史が示しているように、規制による抑えがないと「アニマルスピリッツ」は経済活動の行き過ぎに手を貸すに至るおそれがあるのだ。

・・・(中略)・・・

1980年代の終わり頃の時点ではアメリカの経済システムはどんな嵐に見舞われても難なく切り抜けられるだけの極めて丈夫な仕様になっていた。例えば、1980年代には貯蓄貸付組合の破綻が相次いだが(いわゆるS&L危機)、政府の働きのおかげもあってその影響をごく狭い範囲に閉じ込めておくことに成功した。納税者にはかなりの額のコストの負担が求められることになったものの、失業という名のコストは微々たるもので済んだのである。

時の移ろいに伴って経済の構造も徐々に変化を遂げ――そうなるのは世の常だ――、公的な規制の体系も従来のままでいいのかとそのあり方が問われることになった。・・・(略)・・・しかしながら、金融規制の体系には(住宅ローンの証券化をはじめとした)金融システムの構造変化に即応するように手が加えられることもなく、その結果として金融システムの奥深くにシステミックリスクの種がまかれることになったのである。

・・・(中略)・・・

金融規制の体系が時代の変化についていけなかった根本的な理由の一つに世間一般に蔓延る「規制への反感」がある。アメリカ国民は資本主義に対する新しい見方にどっぷりとのめり込んでいた。「資本主義というゲームは何でもアリのゲームだ」。そのような見方が国民の間で広がりを見せていたのである。1930年代に苦難の末に学び取られた教訓などすっかり忘れ去られてしまっていたのだ。資本主義は我々に実のある繁栄を届けてくれる可能性を秘めているが、それなりの舞台が整えられてはじめてその可能性も現実のものとなる。政府がルールを制定し、政府が審判として振る舞う。そのような舞台(競技場)が整えられないことには資本主義の潜在的な力も発揮されずに終わってしまうのだ。

「資本主義の危機」が叫ばれている昨今だが、そのような見方はあたっていない。今こそ認識し直さなければならないことがある。それは何かと言うと、資本主義には特定のルールが必要だということだ。・・・(略)・・・古典派経済学のパラダイムでは完全雇用が常態かもしれない。しかしながら、人々が「アニマルスピリッツ」に突き動かされる現実の世界では、楽観から悲観へ、悲観から楽観へと世間のムードが波打つのに伴って総需要にも大幅な変動が生じることになる。労働者に支払われる(名目)賃金の額は「公平さ」への配慮も込みで決められるため、総需要の変動は賃金(ひいては物価)の変化ではなく雇用量の変化となって表れる傾向にある。総需要が落ち込むと失業が増えるわけだ。政府が果たすべき役割がここにある。政府は総需要の変動を和らげる役目を果たさねばならないのだ。

さらには、起業家たちや民間の企業は消費者(顧客)が心の底から欲しているモノだけを売っているわけではない。消費者たちが何となく欲しいかもしれないと思っているモノも売っており、いざふたを開けてみるとその「何となく欲しいかもしれないと思っていたモノ」は「蛇の油」(インチキ薬、ガラクタ)に過ぎなかったということは往々にしてあることだ。それが特に当てはまる場所というのが金融市場だ。・・・(略)・・・その背後で糸を引いているのが「物語」だ。人々が互いに交わし合う「物語」――自己という存在(「私」)に関する物語、他者の振る舞いに関する「物語」、経済に関する「物語」――は人々の行動にも影響を及ぼすのだ。そして「物語」の内容は時とともに変わりゆく。

人々が「アニマルスピリッツ」に突き動かされる世界では政府が経済に介入することも正当化されることになる。しかしながら、政府の役割は「アニマルスピリッツ」に首輪をつけて制御することだけに尽きるわけではない。「アニマルスピリッツ」に行動の自由を与えて持てるだけの創造性を最大限に発揮させることもまた政府の役割の一つだ。才能に満ち溢れる選手も審判にいて欲しいと思うことだろう。ゲームを律する適切なルールとそのルールが守られているかどうかを監視する審判が揃ってはじめてその才能も存分に発揮できるようになるからだ。・・・(略)・・・アメリカ国内の金融規制の体系に抜本的な手直しが一向になされないまま70年の月日が経とうとしている。オバマ政権が米議会や自主規制機関(SRO)と協力して取り組むべき課題はいかにしてこれまでよりも一段と優れた新しいアメリカ版「資本主義ゲーム」を作り出すかということにある。

マーク・ソーマ 「『経済の失敗』の背後に潜む『経済学者の失敗』 ~アカロフ&シラー(著)『アニマルスピリット』の強みと弱み~」(2009年5月8日)

●Mark Thoma, ““The Failure of the Economy&the Economists””(Economist’s View, May 08, 2009)


ベンジャミン・フリードマン(Benjamin Friedman)がニューヨーク・レビュー・オブ・ブックスに書評記事を寄稿している。書評の対象となっているのはアカロフ&シラー(著)『Animal Spirits』(邦訳『アニマルスピリット』)とシラー(著)『The Subprime Solution』(邦訳『バブルの正しい防ぎかた』)の二冊だ。以下にそのほんの一部を引用しておこう1

The Failure of the Economy&the Economists;Review of Animal Spirits: How Human Psychology Drives the Economy, and Why It Matters for Global Capitalism by George A. Akerlof and Robert J. Shiller; and The Subprime Solution: How Today’s Global Financial Crisis Happened, and What to Do About It by Robert J. Shiller” by Benjamin M. Friedman:

ここ最近の歩みを振り返るとこう考えざるを得ないだろう。アメリカ国内の主要な金融機関にしてもそういった金融機関が牛耳っている金融市場にしてもアメリカ経済のために有用な働きをしているとは到底言えない、と。今となってはそのことに異を唱える人などほとんどいないことだろう。

・・・(中略)・・・

もう二度と今回のような危機に見舞われたくないという点については幅広い合意が得られているものの、それではそのために(今回のような金融危機の再発を防ぐために)どのような改革を行う必要があるかをめぐって盛んに議論が交わされているかというとそういうわけでもない。そのあまりのなおざりぶりにはやきもきさせられるほどだ。

・・・(中略)・・・

金融システムが果たすべき役割は何なのか? 金融システムはその役割をどこまでうまく果たせているか? 金融危機を巡る目下の議論ではこの一連の疑問があっさりと無視されてしまっている。今回が特別そうだというわけではなく過去においてもそうだった。

・・・(中略)・・・

金融危機を巡る目下の議論の中ですっかり無視されてしまっている重要な争点は他にもある。銀行をはじめとした(資金の)貸し手が被る損失は二つのタイプに峻別できるという点だ。銀行をはじめとした(資金の)貸し手が被る損失の中には一国の富の総額の減少を意味するものとそうでないものとがあるのだ。

・・・(中略)・・・

目下の議論において重要な争点の数々がほとんど見向きもされていないのはどうしてなのだろうか? 資本の効率的な配分を促すという目的が一方であり、金融業がその目的を果たす上で不可避的に発生するコストをできるだけ抑えるという別の目的がもう一方である。二つの目的の間でバランスをとるにはどうすればいいか? このような問いがほとんど語られずにいるのはどうしてなのだろうか? 一つ目のわかりやすい理由は政治的なものだ。「政府には果たすべき有用な役割がある」という立場が国是となったルーズベルトの時代から「政府は問題解決の担い手なんかではない。むしろ政府こそが問題を引き起こしている元凶なのだ」と説くレーガン&サッチャーの時代へと政治の世界で劇的な潮流の変化があったというのが一つ目の理由だ。二つ目の理由はイデオロギー的なものであり、一つ目の理由とも密接な関わりがある。営利の追求を原動力とする私的な経済活動には自己調整能力が備わっており、その自己調整能力のおかげで何か問題が起きても自動的に問題は解決される。そう信じて疑わない信念が広がりを見せているのだ――その信念を体現している代表的な人物がグリーンスパンだ。若い頃にアイン・ランドの小説に心酔した経験もある彼はFRB議長時代に公的な規制に頑ななまでに反対の姿勢を示したものだ――。

三つ目の理由を提示しているのがジョージ・アカロフ(George Akerlof)とロバート・シラー(Robert Shiller)の二人だ。この二人の経済学者によると、問題は知的な面にも求められるという。彼らの同僚でもある経済学者集団の従来の思考の中身に系統的な過ちが潜んでいるというのだ。アカロフとシラーの二人はジョン・メイナード・ケインズの有名なフレーズをタイトルに冠した新著の中で語っている。今の世代の経済学者たちは「アニマルスピリッツ」(”animal spirits”)に十分な注意を払っていない、と。「アニマルスピリッツ」は日常のごくありふれた選択の場面の数々でもその影響を表す心理的な(時に不合理的でさえある)因子であり、経済的な意思決定もその影響から無縁ではないというのが二人の主張だ。

アカロフ&シラーのタッグは「アニマルスピリッツ」を5つの構成要素に腑分けしている。「確信(安心)」(confidence)ないしはその欠如(弱気、不安)。「公平さ」(fairness)の希求――行動規範の一種。例えば、金物屋が吹雪の直後にお客が殺到した(雪かきスコップへの需要が高まった)のを受けて雪かきスコップの値段を引き上げようものならけしからんと不評を買うことだろう。緊急事態に乗じて商品の値段を引き上げるというのは「不公平」な振る舞いだと受け取られるからである――。「腐敗と背信」。「貨幣錯覚」――名目価格の変化と実質価格の変化を混同しがちな傾向――。そして「物語」への傾倒――「インターネットが生産性の劇的な向上を約束する『新時代』の幕が開かれた!」とかいうような活気ある「お話」についつい惹かれてしまう傾向――。以上の5つだ。従来の経済学では現状の危機をうまく理解できないのも危機への有効な対応策を提示できないのもこれら5つの「アニマルスピリッツ」の役割が無視されてしまっているためだ。アカロフとシラーの二人はそう主張する。

・・・(中略)・・・

もっと大局的な観点から問うておくべき質問がある。アカロフとシラーの二人は果たして部分の総和以上のものを生み出すことに成功しているだろうか?2 その答えはある面では「イエス」であり、別の面では「ノー」である。

まずは「イエス」と言える面から取り上げると、過去数十年を通じて形作られてきた主流派のマクロ経済学の「狭さ」を露にし、その「狭さ」ゆえに主流派のマクロ経済学には現状の危機(や類似の現象)を説明し有効な処方箋を捻り出す能力に「タガ」が嵌められてしまっている様をあぶり出すことには成功している。

・・・(中略)・・・

主流派のマクロ経済学がたびたびうまくいかなくなることがあるのは誰の目にも明らかな事実(失業であったり信用市場をはじめとした現実の制度であったり)を無視しているためであることに加えて、本書の中で取り上げられている「アニマルスピリッツ」に由来する(数値化するのが難しい)行動パターンに注意を払っていないためであること。アカロフとシラーの二人はそのことを露にするのにも成功している。確信(安心)もその欠如も明らかに重要な役割を果たしている。・・・(略)・・・

アカロフとシラーの二人も述べていることだが、確信(安心)の動揺が資産価格や実体経済に及ぼす効果が標準的なモデルに組み込まれている見慣れた要因――金融政策の変更や石油価格の乱高下など――の効果を上回る可能性も十分考えられることだ。「貨幣錯覚」もマクロ経済の振る舞い(マクロレベルの現象)の一側面に重要な影響を持っていることは疑うべくもない。

・・・(中略)・・・

「マクロ経済学を丹念に磨き上げて科学として一人前に仕上げようとする」試みにしてもそのために課された「研究上の枠組みや方法論」にしても主流派のマクロ経済学の射程範囲をどうしようもないほど狭めてしまう羽目になってしまったというわけだ。

それでは問うとしよう。『Animal Spirits』では人間の行動に重要な影響を及ぼす(主流派のマクロ経済学では軽視されている)要因に目を向けている(行動経済学方面の)一連の研究が紹介されているわけだが、アカロフとシラーの二人はそのような個々の研究の一覧以上のものを提供できているだろうか? 「我々二人はマクロ経済を分析するための『新理論』を提案する仕事をやり遂げた」。アカロフとシラーはどうやらそう信じているようだ。

・・・(中略)・・・

経済的な意思決定(ミクロレベルの意思決定)の様々な側面に光を当てるアイデアの数々を列挙するのとそのような個々のアイデアを統合してマクロ経済の変動を説明するためのまとまりのある「理論」を作り上げるのは同じことではない。「主流派のマクロ経済学のモデルにはこんな要素(パーツ)が欠けている」。そう指摘するアカロフとシラーの二人は間違いなく正しい。「こんな要素(パーツ)を主流派のモデルに組み込めば助けになるだろう」。そう指摘するアカロフとシラーの二人も間違いなく正しい。しかしながら、アカロフとシラーの二人は(ミクロレベルの意思決定にとどまらず、マクロ経済の変動も説明できるような)まとまりのある「理論」を作り上げているわけでもないしそのやり方を読者に指南してくれているわけでもない。というわけで、マクロ経済学の講義で学生が学ぶ内容を一新してみせるという彼らの目標も少なくとも今のところはまだ叶いそうにないと言わねばならないだろう。

アカロフとシラーの二人は「アニマルスピリッツ」が(ミクロレベルの)経済的な意思決定の様々な側面に重要な影響を及ぼす例の数々を収集しているに過ぎず、マクロ経済の振る舞いを説明するための首尾一貫した理論を構築するまでには至っていないわけだが、その点を考慮すると本書で提案されている(現状の危機に対処するための)処方箋の数が乏しいのも驚くことではないだろう。

・・・(中略)・・・

具体的な政策については寡黙であり、タガが嵌められた主流派のマクロ経済学に取って代わる一人前の「理論」も提示されてはいない。それにもかかわらず、アカロフとシラーの二人が語る中心的なメッセージの力が損なわれるわけではない。主流派のマクロ経済学に対する彼らの厳しい論難はもっともなものだし、彼らが「アニマルスピリッツ」と呼ぶものが主流派のマクロ経済学が抱える致命的な欠点と重要な関わりを持っているという指摘もその通りだ。『Animal Spirits』は新たな研究プログラム(アジェンダ)の道を切り開いており、その道を突き進んでみるだけの価値はあるように思われる。

  1. 訳注;以下の引用箇所ではアカロフ&シラー本だけしか取り上げられていないが、原記事ではシラー本も俎上に載せられている。 []
  2. 訳注;従来のマクロ経済学では軽視されている様々な(行動経済学方面の)研究を単に列挙(紹介)しているだけではなく、それ以上の何かを成し遂げられているだろうか?、という意味。 []

マーク・ソーマ 「今の世代のインテリたちが目の前の戦争にその身を捧げようとしないのはなぜ?」(2009年8月30日)

●Mark Thoma, ““Why Doesn’t This Generation’s Intellectuals Fight This Generation’s Wars?””(Economist’s View, August 30, 2009)


今の世代のインテリたちは戦争にその身を捧げる意思なんて持ち合わせていないと言えるかどうかはわからないが、とりあえずそうだということにしておこう。さて、その理由は何だろうか?

Cowards, every single one of us?” by Chris Blattman:

20世紀初頭に起きたスペイン内戦では西洋の知的エリート(知識人)層の面々は我先にと戦場に赴いていった。第二次世界大戦についても同じくそうだったと言えるだろう。しかしながら、今現在はどうだろうか? 今の世代の知的エリートたちが先を争って戦場に赴く姿を想像するのは難しい。一体全体何があったのだろうか?

・・・(中略)・・・

今の世代のインテリ(知識人)たちがそこにある(目の前の)戦争にその身を捧げようとしないのはなぜなのだろうか?

一人残らず「臆病者」になったから?

その可能性もあるが、その他にいくつかの仮説が思い浮かぶ。

私の中の「経済学者としての私」はこう語る。「比較優位」が関係しているのではないか、と。戦争の勝敗を左右する上でテクノロジーが果たす重要性は時とともにますます高まってきている。高い教育を受けた知的エリートの愛国者の中に戦争にその身を捧げる意思を固めた人物が仮にいたとしても賢明な政府であればその人物を戦地に送るのではなく(その人物が比較優位を持っている)軍事技術の開発や諜報活動の分野に割り振ることだろう。

理想に燃える知的エリートを獲得する上で軍隊は昔よりも激しい「競争」にさらされるようになってきている、ということもある。過去60年の間に国際的な活動を展開するNGOの数は物凄い勢いで(10,000%近い伸び率で)増えてきている。「不正義」と闘うことを志す人間が選べる選択肢の数は昔と比べて大きく増えているのだ。

軍隊は我々にとってもはや居心地のよい場所ではない。知的エリートたちの間でそのような認識が共有されるようになっているというのもある(その認識は思い込みではなくおそらく真実を捉えたものだろう)。どうしてそのような認識が広まるようになったのだろうか? 上で挙げた「比較優位」や「競争」の帰結ということなのだろうか? 

知的エリートたちは過去3世代にわたってガンジーやキング牧師の例を目撃し、非暴力主義の教えに触れてきた。これも一因かもしれない。

・・・(中略)・・・

個人的に一番しっくりくる仮説を最後に述べておくとしよう。今の戦争はイデオロギー上の対立ではなく宗教上の対立という性格が強い、というのがそれだ。スペイン内戦は「左派 vs ファシズム」という図式で争われた戦争だった。左派が搾取されている労働者階級の側に立って争われた戦争だった。西洋社会のあり方を巡って争われた戦争だった。心(ハート&マインド)を賭けた争いは今の西洋社会の内部には見られないのだ。

皆さんはどう考えるだろうか?

ベトナム戦争は宗教上の対立ではなくイデオロギー上の対立(共産主義への対抗)という性格を備えていたと言えるだろうが、知的エリートたちがベトナムにある戦場に我先にと赴くようなことはなかった。そういうわけで、ブラットマン(Chris Blattman)が最後に挙げている仮説がどこまで正しいかは疑問だ。とは言え、それに代わるような適当な仮説を持ち合わせているわけでもない。「今の世代のインテリたちは戦争にその身を捧げる意思なんて持ち合わせていない」というのは果たして正しいのだろうか? 仮に正しいとすればその理由は何だろうか? 皆さんはどう思われるだろうか?

マーク・ソーマ 「ウォルト・ロストウ ~1960年代におけるアメリカの外交政策の立案に深く関与した『テイクオフ』(離陸)理論の提唱者~」(2007年9月2日)

●Mark Thoma, ““The Paul Wolfowitz of the ’60s””(Economist’s View, September 02, 2007)


ウォルト・ホイットマン・ロストウ(Walt Whitman Rostow)は「同世代の経済学者の中でも最も論争を呼んだ一人」だったが、どうやらその理由は彼の独自の経済成長理論や経済発展観だけにとどまらず他のところにも求められるようだ。

The Paul Wolfowitz of the ’60s” by David Milne1, Commentary, LA Times:

・・・(略)・・・ジョン・F・ケネディおよびリンドン・B・ジョンソン両大統領の側近として仕えた主要メンバーの一人にウォルト・ロストウがいる。ロストウがべトナム戦争時に果たした(軍事戦略を練り上げるブレーン(参謀)としての)役割はアメリカのイラク侵攻を後押しする上でポール・ウォルフォウィッツが果たした役割と驚くほど酷似している。

ウォルト・ロストウ。イェール大学で博士号を取得した優れた頭脳の持ち主。その胸のうちに燃えたぎる崇高な理想。己に対する揺るぎなき自信。第二次世界大戦中は米国戦略情報局(OSS)の機関員として活躍し、その功績を讃えて勲章も授与されている。1950年代にはマサチューセッツ工科大学(MIT)にて経済発展理論の分野で世界的な名声を博する研究を手掛ける。アイゼンハワー大統領のスピーチライターを務めた時には大統領に対して対外援助予算の増額を辛抱強く奨励した。対外援助は(冷戦の相手側である)東側陣営に対抗する上で戦術的にも重要な意味を持っているだけではなく、アメリカのように経済的に豊かな国が他国を援助するのは道義的な観点からしても当然のことだ、というのがその理屈だった。

ロストウは言うなれば「世界規模のニューディール政策」を訴えたわけだが、アイゼンハワー大統領はその訴えには心を揺さぶられなかった。しかしながら、後任の大統領は違った。ケネディ大統領は政権発足後直ちにロストウを呼び寄せ、国家安全保障担当大統領次席特別補佐官に任命したのである。第三世界の貧しい国々がワシントン(西側世界)の側につくようにして欲しい。モスクワだとか北京だとか(東側世界)といちゃつくことがないようにして欲しい。・・・(略)・・・この経済学者にそのための手助けをしてもらいたいというのがケネディ大統領の願いだった。ロストウの登用はリベラル陣営(左派)からは歓迎されたものの、財政保守派には評判が悪かった。貧困の削減(第三世界の近代化の支援)を通じて共産主義陣営に対抗するという戦術は高くつく(お金がかかる)と思われたからである。ロストウは「どこのわらぶき小屋にも必ずテレビが一台はある」世界を思い描いているんだ。ロストウの友人の中にはそのようにからかう者もいた。

アメリカには第三世界の近代化を支援する責務がある。ロストウはそう固く信じ込んでいたが、共産主義の「病気」を根絶せねばならないという信念もそれに負けず劣らず頑ななものだった。自由な社会2は共産主義社会よりも道徳的な面で優れているばかりか、自由な社会が発展に向かうことは歴史の必然(不可避)でもある。共産主義が自由な社会の発展を邪魔するようなら欠かさず叩かねばならない。ロウトウはそう考えていたのである。・・・(略)・・・ロストウはケネディ政権ならびにジョンソン政権に仕えた文民メンバーの中でも一番のタカ派(対ベトナム強硬派)だった。

1961年の夏、ロストウはケネディ大統領に対して南べトナムに米軍の戦闘部隊を投入するように文民の中で誰よりも先に直言した。また、誰よりも先に北爆(北ベトナムへの空からの爆撃)を薦めたのもロストウだった。「ホー・チ・ミンには守るべきものがある。産業だ。ホー・チ・ミンはもはや単なるゲリラ兵なんかではない。失うものなど何も無いゲリラ兵などではないのだ」3。それゆえ、空爆で脅せば北べトナム側の気持ちも萎えるだろう。ロストウはそのように考えたのだった。第三世界の経済発展を後押しするためにアメリカに何ができるか? ロストウはそのための指南役を務めるのではなく、発展途上国(たるベトナム)に対する残忍な爆撃を推奨することを通じてアメリカを史上最悪の敗戦に引き摺り込むシナリオを書き上げてしまったのである。

ロストウは自らの判断に絶対の自信を持っていた。・・・(略)・・・戦線の段階的な拡大(エスカレーション)を指南し、CIAの報告書に手を加えもした。ジョンソン大統領に対して戦況がアメリカ側に有利に働いているかのように見せかけるためである。そして1967年から1968年にかけてはジョンソン大統領に対して北べトナムと妥協的な和平を結んではならないと直言もした。ロストウはポリアンナのごとくにどうしようもないほど底抜けの楽天家であり、敗戦が濃厚な状況になってもなおアメリカが敗れる可能性を心に思い浮かべることさえまったくできずにいた。ロストウは正真正銘のイデオローグと呼ぶにふさわしい人物だった。アメリカは他の国々を民主化する責務を負っており、そのような「善行」を施すためとあらばコストがどれだけかかろうが構わない。ロストウはそう信じていたのである。

・・・(中略)・・・

時代は下ってつい最近のこと、・・・(略)・・・国際関係の捉え方の面でロストウと瓜二つの考えを持ち合わせる集団が表舞台に登場してきた。ポール・ウォルフォウィッツをはじめとするネオコンの面々である。曰く、アメリカには世界一の大国として果たすべき責務がある。それは全世界に民主主義を広めることだ。そのような「善行」を施すために必要とあらば武力の行使も辞さない。・・・(略)・・・

しかしながら、ヒュブリス(傲慢)からネメシス(天罰)へと至る道は古代ギリシャの時代と同様に今でも切れ目の無い一直線の道である。自らが抱くアイデアの効能に絶対の信頼を寄せる人間――現実世界において偶発的な出来事が果たす役割に目を向けることのできない人間――は誰であれアメリカの外交政策を袋小路に追いやる運命から決して逃れられないのだ。

・・・(中略)・・・

・・・(略)・・・・ロストウにしてもウォルフォウィッツにしてもリチャード・パールにしてもその他の面々にしてもそうだが、自由民主主義には「贖罪」を可能にする力があるとの強い信念がある――その様はキリスト教福音派の神に対する信仰とそっくりである――。自分たちが信じる価値体系は神聖なるものであり(神の後ろ盾があり)、(その価値体系に則った)「正しい道」から逸れるものは何でも「異端」と見なす。まるでそのようなのだ。アメリカが武力で自由民主主義を押し付けるのではなく、その素晴らしさを身をもって示していたとしたらどうなっていただろうか? そうしていたら「異端者たち」も時間はかかってもゆくゆくは西洋の模倣に熱狂していたのではないだろうか? 死に体の独裁者というのは立ち向かう敵がいなくなると往々にして周囲を包む神秘的な雰囲気がたちどころに霧消してしまうものなのだ。

・・・(中略)・・・

アメリカの外交政策の行方がどうなるかは誰にも予測がつかないが、歴史がまたもや繰り返してアメリカが今よりも幾分か控え目な役割に身を引く可能性は十分にあり得ることだ。ここしばらくアメリカは国際政治の舞台で猪突猛進な積極主義(行動主義)の立場を貫いてきたわけだが、オバマ大統領(やその他の大統領候補の面々)は外交政策のアドバイスを求める相手としてロストウやウォルフォウィッツのようなイデオローグではなく、(ジョージ・ケナンやキッシンジャーのような)プラグマティスト(実際家)に白羽の矢を立てるに至るかもしれない。そのような可能性は大いにあり得るように思える。世界中に「善」を広めるというのはへとへとに疲れる重労働であり、イラクへの侵攻はアメリカ国内にも深刻な政治的波紋を投じつつあるのだ。

  1. 訳注;デビッド・ミルン(David Milne)氏はこのテーマ(ロストウがアメリカの外交政策の分野で果たした役割)で一冊を物している。次の本がそれだ。 ●David Milne(著)『America’s Rasputin: Walt Rostow and the Vietnam War』 []
  2. 訳注;自由な社会=リベラルデモクラシー(自由民主主義;経済体制としての資本主義(市場経済)+政治体制としての民主主義)という意味で使われているものと思われる。 []
  3. 訳注;北べトナム側もその他の発展途上国と同様に経済の発展を極めて重視しており、インフラや工場等を爆撃されて経済面で損害が生じればすぐにでも態度を軟化させるに違いない(経済面での損害なんてなんのそので、死に物狂いで徹底的に最後まで戦い抜こうという意思まではさすがに持ち合わせていないだろう)、という読み。 []

マーク・ソーマ 「経済モデルの意外な起源 ~戦争に起源を持つ経済モデルといえば?~」(2012年2月28日)

●Mark Thoma, ““Economics and Its Military Patrons””(Economist’s View, February 28, 2012)


ジュディ・クライン(Judy Klein)がインタビューの中で経済モデルの起源(+その他の話題)について次のように語っている1

・・・(略)・・・私が自らの研究を通じて驚かされたことは、経済学の分野で当たり前のように使われているモデルの多くが戦争にその起源を持っており、コンピュータの計算資源の稀少性が制約となってモデルの構築戦略が一定の方向に方向付けられることになったという事実です。フリードマン(Milton Friedman)やケーガン(Phillip Cagan)の名前と結び付けられることの多い「適応的期待」にしても、ボックス(George E. P. Box)とジェンキンス(Gwilym Jenkins)がその後時系列分析の分野で一般化を試みた「指数加重移動平均」(EWMA)にしても、その起源はB-17(戦略爆撃機)に搭載された(自動操縦装置(アナログ計算機)と連動していた)照準器と爆撃手との間でやり取りされる情報フローをどうにかしてモデル化しようとした第二次世界大戦中の試みに求められるのです。「合理的期待」はデジタル計算機の時代の産物です。リチャード・ベルマン(Richard Bellman)の「動的計画法」もそうですね。動的計画法は1940年代後半に空軍が抱えていた問題を解決しようと試みられる過程で磨き上げられることになりました。ソ連内にある競合する標的に向かって多段階(異時点間)にわたって核攻撃を行うとした場合に稀少な核爆弾をどのように割り振るのがベストか?という問題を解く過程で動的計画法に磨きがかけられることになったのです。  

私がLSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)で大学院生として経済学を学んだのは1970年代初頭に遡りますが、その当時学んだ最先端のモデルのあまりに多くが戦争に起源を持っていると知った時は驚いたものです。「適応的期待」然り、(線形計画問題を解く手法の一つである)「シンプレックス法」然り、「数理計画法」全般然りです。

カーネギー工科大学と政府(軍部)との間では10年にもわたる業務契約が結ばれ、そのようなかたちで政府の支援を受ける中で(カーネギー工科大学の経済学部に在籍していた教授やそこで学んだ大学院生たちの手によって)あれこれのモデルが磨き上げられることになったわけですが、その過程では政府介入に「ノー」を唱えるタイプのモデル(消費者は合理的であり、それゆえ雇用の増加を目的とした政府の介入は不必要なばかりか有害でさえある、との結論が導き出されるノーベル経済学賞受賞対象ともなった一連のモデル)ばかりが続々と生み出されることになったというのは何とも皮肉な話であり、驚きを禁じ得ませんね。

  1. 訳注;もっと詳しい話は次の論文を参照。 ●Judy Klein, “The Cold War Hot House for Modeling Strategies at the Carnegie Institute of Technology” []

マーク・ソーマ 「経済学者はいかにして第二次世界大戦でのアメリカの勝利に貢献したか? (その2)」(2011年6月12日)

●Mark Thoma, “How US Economists Won World War II”(Economist’s View, June 12, 2011)


デビッド・ウォーシュ(David Warsh)がFRB議長の候補者選びをめぐる騒動に絡めてジム・レイシー(Jim Lacy)の『Keep From All Thoughtful Men』を引き合いに出している。

———————————(引用ここから)———————————

Kept from All Thoughtful Men” by David Warsh:

先週のことだが、ピーター・ダイアモンドが・・・(略)・・・FRB議長の候補者レースから身を引く意向を示した。このようなかたちで決着がつくまでにどのような紆余曲折があったかよく御存知の方もいることだろう。話は昨年に遡る。ホワイトハウス(オバマ大統領)はダイアモンドをFRB議長に指名したが、そのような動きに対して真っ向から「ノー」を唱えたのはアラバマ州選出の上院議員であり、米上院銀行委員会の共和党側の急先鋒であるリチャード・シェルビー。ダイアモンドは・・・(略)・・・金融政策の専門家ではない、というのが反対理由だった。オバマ政権の経済政策に対して共和党側から横槍が入る例はこれまでに何度も見られたが、ダイアモンドのFRB議長指名をめぐるひと悶着もそのような小競り合いの一つだ。そんな中、昨年の秋(2010年10月)にダイアモンドにノーベル経済学賞が授与される運びとなった。・・・(略)・・・サーチ理論(特に労働市場におけるサーチ(職探し)に伴うコスト)の研究で際立った功績を残したことが讃えられての受賞だった。そしてホワイトハウス(オバマ大統領)は再度ダイアモンドをFRB議長に指名する意志を固め、残すは議会の判断待ちということになったのである。

どういう展開が待っていたか? 共和党所属の上院議員たちはダイアモンドのFRB議長就任を阻止するためにこれまで以上に頑なに抵抗したのである。

・・・(中略)・・・

今回の騒動はその道の専門家(学者)と政治権力とが真っ向からぶつかった事例の一つと言えるわけだが、過去にも似たようなエピソードがあったことを思い出す。さて、ここでようやく登場するのがジム・レイシー(著)『Keep From All Thoughtful Men: How U.S. Economists Won World War II』だ。本書では専門家と政治権力(正確には軍事権力)との間で繰り広げられたぶつかり合いの一部始終が描き出されているのだ。 [Read more…]

マーク・ソーマ 「『誘拐犯とは一切交渉しない!』 ~時間整合性問題入門~」(2010年12月8日)

●Mark Thoma, ““Barack Obama’s Time Consistency Problem?””(Economist’s View, December 08, 2010)


オバマ大統領は将来的に政治の世界で「人質事件(誘拐事件)」が起きる可能性を高める結果を招いてしまったのだろうか?

Barack Obama’s Time Consistency Problem?” by Twenty-Cent Paradigms:

大学の講義で「時間整合性」(time consistency)の問題を教える機会がやってくると、説明の導入としてきまって投げかける問いがある。「誰かが誘拐されて人質にとられ、誘拐犯が政府に交渉を持ちかけてきたとする。そのような場合に政府はどう対応するつもりだと公言しているだろうか? 誘拐犯との交渉方法に関する政府の公式の立場はどのようなものだろうか?」という問いがそれだ。その答えは学生の誰もが知っている。「誘拐犯とは一切交渉しない」というのが政府の公式の立場だ。

国の如何を問わず、どの国の政府も「誘拐犯とは一切交渉しない」との立場を打ち出しているが、それはどうしてなのだろうか? その理由はこうだ。政府が交渉のテーブルにつく気がないということになれば、誰かを誘拐して人質にとってやろうと企む輩も出てこないだろう。そうなること(誘拐の抑止)を期待してどの政府も「誘拐犯とは一切交渉しない」との立場を打ち出しているわけだ。しかしながら、誘拐事件が実際に起きてしまったらどうなるだろうか? 政府としては(「誘拐犯とは一切交渉しない」との約束(公式の立場)を反故にして)誘拐犯との交渉に応じる方向に傾くことになるだろう。というのも、政府としては(「誘拐犯とは一切交渉しない」との立場を貫いて誘拐犯との交渉に応じなかった結果として)人質が殺されてしまった場合に(すべては人質を見放した政府に責任がある、と)その責任を負わされたくはないからだ。そのあたりの事情は誘拐を企んでいる輩もよくよく承知しているところであり、その結果として「政府には『誘拐犯とは一切交渉しない』との立場を何が何でも貫く気なんてないだろう」と見透かされてしまうことになる1わけだ。

と、まあこういう具合に誘拐事件の例を使って「時間整合性」の問題を説明するのがお決まりになっているわけだが、来学期からはそれももうできなくなってしまうかもしれない。以下に引用するオバマ大統領が記者会見の席上で語った発言が(来学期以降に私の講義を受講する)学生たちの目に触れてしまえば誘拐事件の例はもう使えなくなるかもしれないのだ。

「富裕層向けの減税」もセットだと言うのであれば「中流層向けの減税」も認めるにやぶさかではないとでもいったような論調があり2、そのような論調を指して『「中流層向けの減税」が人質にとられているようだ』と発言したことがあります。人質に危害が及ばない限りは誘拐犯とは交渉する気はないというのが私なりの姿勢なのですが、そのような姿勢に一体いかばかりの知恵があるというのかと疑問に思われる方もいらっしゃることでしょう。というのも、この場合の「人質」というのは「アメリカ国民」のことであり、正直なところ私としても「人質」に危害が及ぶのを目にしたくはないのです。

誘拐犯と交渉する「裁量」を政府に持たせないようにする。そうすればよりよい結果がもたらされる。「時間整合性」の問題に関するこれまでの学術的な研究からはそのような示唆の一つが導き出されるわけだが、「完璧なコミットメント」を可能にする3ようなテクノロジーは現実のこの世の中には存在しない。そこで考えねばならないのが(約束の)「信憑性」(”credibility”)だ。言い換えるとこういうことだ。「誘拐犯とは一切交渉しない」との約束(発言)が本気だということを未来の誘拐犯(誘拐を企む輩)に信用してもらうためには政府はどういう手段に打って出ればいいか、という問題に頭を捻らねばならないわけだ。

さて、ここで質問だ。オバマ大統領が記者会見の席上で語った発言はどのような意味合いを持っているだろうか? あのように語ることでオバマ大統領は(「誘拐犯」とは交渉する気はない、との)自らの約束(姿勢)の「信憑性」を損なう結果となってしまい、将来的に政治の世界で「人質事件(誘拐事件)」4が起きる可能性を高めてしまう羽目になってしまったのだろうか? それとも単に周知の事実を暴露したに過ぎない5のだろうか? 「年収25万ドルを超える富裕層もブッシュ減税の延長措置の対象に含めろ。嫌だというならブッシュ減税の延長法案には反対するぞ6」。共和党側はそのような「脅し」をかけている(「人質」の殺害予告7を行っている)わけだが、その脅しは「信憑性のある脅し」と言えるのだろうか?8

  1. 訳注;そのため誘拐事件は根絶されないということになる []
  2. 訳注;この当時は2010年末で期限が切れる「ブッシュ減税」を2011年以降も続ける(延長する)かどうかをめぐって民主党と共和党との間で意見が対立しており、民主党側は「低中所得層(年収25万ドル以下の世帯)に限って減税措置を続けるべき」という立場、共和党側は「年収25万ドルを超える富裕層も含めて全世帯をその対象とすべき」という立場だった。 []
  3. 訳注;政府に「裁量」を許さずに何が何でも「約束」を守り通させる []
  4. 訳注;こちら側の言い分を認めないとお前の支持者が痛い目を見ることになるぞ、との共和党側からの脅し []
  5. 訳注;「誘拐犯とは交渉する気はない」との発言(約束)は口先だけのものに過ぎない(簡単に反故にされる)、ということは誰もが気付いている周知の事実(わかりきったこと)であり、オバマ大統領はそのことを明け透けにしたに過ぎない、という意味。 []
  6. 訳注;その結果として法案が否決されたら所得税が(ブッシュ減税が実施されるよりも前の)2000年の水準に戻ることになり、年収25万ドル以下の低中所得層も所得税の負担が高まることになるぞ []
  7. 訳注;「年収25万ドル以下の低中所得層(「人質」)も所得税の負担が高まることになってもいいのか?」との脅し []
  8. 訳注;最終的には共和党側の意向を汲むかたちで決着することになり、年収25万ドルを超える富裕層も含めて全世帯がブッシュ減税の延長措置の対象に含まれることになった。 []

マーク・ソーマ 「至福点との向き合い方」(2005年12月25日)

●Mark Thoma, “Dealing with Bliss Points”(Economist’s View, December 25, 2005)1


親戚一同が集まってクリスマスディナーをいただく機会があると、大叔父の一人が「食事の前にデザートをくれないか。それもたんまりとだ」と主張して譲らないのがお決まりになっている。食事の後にデザートが出るという通常の順番だと食事を全部平らげた後に果たしてあとどのくらいお腹の中にデザートを入れる余裕がありそうか事前には予測が付かない。そのような不確実性を考慮すると、その大叔父の主張は私には「合理的な」意見であるように思われるものだ。何と言ってもデザートはクリスマスディナーの中でも最も高い効用(満足)をもたらしてくれる花形であり、食事をついつい食べ過ぎてしまって(満腹のために)折角のデザートを見送らざるを得なくなるなんて事態はできれば避けたいところだ。しかしながら、他の親戚の面々は大叔父の主張を「合理的な」意見だとは見なしてはいないようだ。さて、その大叔父はと言うと、大量のデザートを無事平らげた後に食事に取り掛かり、文字通りもう限界というところまでお腹を満たした末にソファーに倒れ込む(そしてやがて寝息を立てる)というのがお決まりのパターンになっている。その様子を目にするたびに私の脳裏には(モンティ・パイソン/人生狂騒曲の)あの場面が思い出されるものだ。

ウェイター:お客様。最後のメニューになります。ミント・ウエハースでございます。

クレオソート氏:もう結構。

ウェイター:左様でございますか。こんなに薄いウエハース一枚なんでございますが。

クレオソート氏:いらん・・・。腹いっぱいだ・・・。

ウェイター:左様でございますか・・・。この薄いウエハース一枚だけなんでございますが。

クレオソート氏:見てわからんのか。もう何も入らんのだ。腹十分目なんだよ。

ウェイター:左様ですか。・・・たったこれだけ、たったこれっぽっちでございます。

クレオソート氏:わかった、わかった。 それだけだぞ。

動画はこちらだ(特に食事中の視聴には要注意)。

  1. 訳注;至福点(Bliss point)というのは効用の上限をもたらす消費の組み合わせを指しており、そこからさらに消費の量を増やすと効用は低下することになる。満腹でもう何も食べたくないという状態はその一例。 []