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マーク・ソーマ 「完全雇用の政治的側面」(2010年7月17日)

●Mark Thoma, ““Political Aspects of Full Employment””(Economist’s View, July 17, 2010)


「時は巡る」といったところか。メールで教えてもらったのだが、カレツキ(Michal Kalecki)の1943年の論文の一部を以下に引用しておこう。

“Political Aspects of Full Employment”(「完全雇用の政治的側面」) by Political Quarterly, 1943:

【IV節】3. ・・・(略)・・・不況(スランプ)下においては、大衆からの要求もあって(あるいはそのような要求がない場合でさえも)、大量失業の発生を防ぐことを意図して国債を財源とした公共投資(市中からの借り入れを通じた財政出動)が試みられることだろう。しかしながら、スランプが去ってブーム(好景気)が到来した後もなお高水準の雇用を保とうとして公共投資が続けられる(そのために国債の発行が続けられる)ようであれば、産業界のリーダー(経営陣)たちの間から強い反対の声が上がることだろう。1

・・・(中略)・・・

かような状況下では大企業と金利生活者との間で強力な同盟関係が築かれる可能性があるし、「ブームが到来してもなお公共投資を続けるというのは明らかに不健全だ」と公言して彼ら(大企業と金利生活者)の後ろ盾となってくれるような経済学者も何人か出てくることだろう。公共投資の継続に抵抗する勢力(とりわけ政府に対して強い影響力を持つ大企業)の圧力もあってやがて政府は十中八九の確率で「財政赤字の削減」という伝統的な政策へと舵を切ることになるだろう。その結果として再びスランプがやってくることだろう。・・・(略)・・・

このような政治的景気循環の発生は単なる可能性の話にとどまるわけではない。1937~38年のアメリカで瓜二つの事態が起きているのだ。アメリカでは1937年の下半期に入ってそれまで続いていたブームが一気に冷え込むことになったが、その原因は政府が財政赤字を急速に削減しようと試みたことに求められるのだ。・・・(略)・・・ [全文はこちら(pdf)]

  1. 訳注;この後に次のような文章が続く。「前にも指摘したように、完全雇用がいつまでも続くというのは産業界のリーダーたちの好むところではない。というのも、完全雇用が当たり前の状況となると労働者たちは〔強気の姿勢で賃上げや労働条件の改善を求めるなどして〕『手に負えなくなる』だろうし、『産業の統率者たち』(産業界のリーダー)の生きがいでもある『労働者に規律を教え込む』という機会が〔クビにするという脅しの効力が薄まるために〕失われることにもなるだろうからである。さらには、景気が上向くとそれに伴って物価も上昇することになるが、そうなる(インフレが生じる)と大小の金利生活者は損を被ることになる。そのため金利生活者たちは『ブームを煙たがる』ことだろう」。この直後に(中略)以下の文章(「かような状況下では大企業と金利生活者との間で強力な同盟関係が築かれる可能性があり、~」)が続くことになる。 []

マーク・ソーマ 「ミスター・ベイルアウト」(2009年8月5日)

●Mark Thoma, ““Mr. Bailout””(Economist’s View, August 5, 2009)


Economics of Contemptブログでデイビッド・ウェッセル(David Wessel)の新刊が話題にされている。

Quotes/Revelations from Wessel Book”:

昨日は一日中旅行の移動に費やさねばならなかったのだが、これ幸いと(移動の合間に)デヴィッド・ウェッセルの新刊である『In Fed We Trust』(邦訳『バーナンキは正しかったか? FRBの真相』)に目を通した。ほぼ読み終わったところだ。大変優れた(そしてそれと同じくらい大事なことに、内容も正確な)一冊だと思う。本書の中で個人的に強く興味を惹かれた引用なりすっぱ抜きなりをいくつか列挙しておこう。

  • リーマン・ブラザーズの(公的資金の注入を通じた)救済(ベイルアウト)に乗り出すべきかどうかが俎上に載せられる中、ヘンリー・ポールソン(当時、財務長官)はガイトナー(当時、ニューヨーク連銀総裁)とバーナンキ(当時、FRB議長)に対して次のように語ったという。「『ミスター・ベイルアウト』。(ベアー・スターンズを救済したことで)私のことをそう呼ぶ声が世間でちらほら出てきているんです。もうできませんよ(リーマン・ブラザーズの救済にゴーサインを出すことはできませんよ)。」
  • ハーバード大学に籍を置く経済学者のマーティン・フェルドシュタイン(Martin Feldstein)はAIG(アメリカン・インターナショナル・グループ)の役員を務めていたが、FedによるAIGの救済に反対の意向を示した。ウェッセルによると、フェルドシュタインは「民間企業を強制的に買収するというのは政府の役割ではない」と語ったという(AIGの株主のために尽くすよりも自らが信じる経済哲学に忠実であろうとするべきだ。フェルドシュタインはそう考えたわけだ。何たる馬鹿ちん!)。
  • (連邦預金保険公社(FDIC)の総裁を務めていた)シーラ・ベア(Sheila Bair)はダメダメだ。おっと、ちょいとお待ちを。そんなことは前からわかっていたというのはその通りだが、ウェッセルの本はベアが規制監督官としてマジでダメダメだということを痛いほど再認識させてくれる。バーナンキにガイトナー、そしてポールソンが金融システムの救済に向けて努力している中、ベアは機会を捉えては三人の努力を踏みにじろうとした。さらには、ベアはワシントン・ミューチュアル絡みでも大失敗――パニックの絶頂の最中にワシントン・ミューチュアルへの債権者に巨額の損失を背負わせるという大失敗――を犯している。他の規制監督官の面々が(金融機関の)救済計画を立案するあらゆる現場からベアをどうにかして締め出そうと必死になったのも驚くにはあたらない。ベアが銀行業の分野で経験を積んだ年数は合計で何年かというと・・・0年だ(ずぶの素人だ)。彼女が気にしているのはたった一つのこと。自分のイメージ(自分が世間からどう思われるか)のことだけだ。シーラ・ベアという名の歩く難破船が連邦預金保険公社から立ち去ってくれる時期が早まれば早まるほどいいのだ。
  • ハリー・リード(Harry Reid)上院議員はバーナンキとポールソン(さらには、ペロシ、ベイナー、マコーネルといった大物議員)に対して不良資産救済プログラム(TARP)はそう簡単には上院を通過しないかもしれないと警告を与えた。曰く、「この件は簡単じゃない。・・・・(略)・・・ヒアリングの機会も設ける必要がある。上院のことはよく知ってるんだ。トイレの流れをよくするためのこの法案を通すには2週間はかかる」。

ウェッセルの新刊から見繕った優れもののネタはこんな感じだ。激しくオススメの一冊だ。

マーク・ソーマ 「トーマス・シェリング×マイケル・スペンス ~『核抑止』をめぐる師弟の対話記録~」(2007年2月17日)

●Mark Thoma, “Thomas Schelling on Nuclear Deterrence”(Economist’s View, February 17, 2007)


マイケル・スペンス(Michael Spence)とトーマス・シェリング(Thomas Schelling)の二人――いずれもノーベル経済学賞を受賞した経済学者――が核兵器の拡散や核兵器の使用を防ぐための戦略を論じ合うために顔を合わせたようだ。スペンスがその時の模様を報告している。 [Read more…]

マーク・ソーマ 「キューバ危機と『寛大なしっぺ返し戦略』」(2007年2月13日)

●Mark Thoma, “Generous Tit-for-Tat”(Economist’s View, February 13, 2007)


「寛大なしっぺ返し」戦略は壊滅的な軍事衝突を避ける上でキーとなる役割を果たす。ジェフリー・サックス(Jeffrey Sachs)がそう語っている1

Threats of War, Chances for Peace” by Jeffrey D. Sachs, Scientific American

気候変動に森林破壊、地下水の枯渇。いずれも世界経済の持続可能な発展に対する深刻な脅威であることは間違いないが、今後の人類の福祉にとって一番の脅威といえばやはり相変わらず戦争の脅威ということになるだろう。1962年のキューバ危機(キューバミサイル危機)時に世界は核戦争の瀬戸際に立たされることになったが、今でも南アジアや中東、朝鮮半島といった紛争地帯で再びあれよあれよという間に似たような事態に追いやられる可能性は残されている。核戦争の一歩手前までいったキューバ危機。しかし、キューバ危機は軍備管理に向けた最初の一歩(1963年に締結された部分的核実験停止条約)へと道を開くきっかけともなった。それもこれもジョン・F・ケネディ大統領の政治的なヴィジョンと熟練した手腕の賜物であり、歴史に名を残す画期的な成果だと言える。キューバ危機から部分的核実験停止条約の締結へと至る顛末は今日の世界にも時宜を得た教訓を与えてくれている。

1962年後半から1963年中頃にかけて立て続けに起こった一連の出来事についてはよく知られているところだ。・・・(略)・・・戦争開始まで残りあと数時間というギリギリのところまで追いつめられたと思いきや、その数ヵ月後には米ソ間で核実験の禁止に向けた合意が取り付けられるに至ったわけである。

わずか1年の間に戦争の瀬戸際から平和の実現に向けた画期的な条約の締結へと事態が大きく動いたわけだが、一体全体どうしてそんなことになったのだろうか? その答えはソ連に対するケネディの姿勢にあった。・・・(略)・・・敵を悪者と断じるなかれ。ケネディはそのような発想を出発点に据えてソ連との交渉に臨んだ。ソ連は(時に間違った行動を選択することはあるにしても)合理的である。ケネディはどの場面でもそのように想定した。ソ連は戦術的に少しでも有利な立場に立とうと画策しはするだろうが、・・・(略)・・・自殺行為を意味しかねない戦術からはすぐにも手を引くだろう。ケネディはそう想定した。

ケネディは「寛大なしっぺ返し」(generous tit-for-tat;GTFT)戦略を採用していたのだ。現代のゲーム理論家であればそう語ることだろう。一方の側のプレイヤー(プレイヤー1)は相手の側(プレイヤー2)が「協調」する限りは「協調」を貫く。しかしながら、プレイヤー2が「裏切り」に手を染めるやいなやプレイヤー1もプレイヤー2を真似て「協調」路線を見直す。裏切ると手痛い結果が待っているぞ。裏切り者にそう知らしめるためにである。・・・(略)・・・・しかしながら、裏切り者が改心する気があるなら再び「協調」路線に転じてやってもいい。プレイヤー1は「心の広さ」を示してそのような可能性を匂わせておく。・・・(略)・・・そしてプレイヤー1は「寛大にも」自分の側から率先して「協調」路線に転じる可能性さえある。そうすれば一度裏切った相手(プレイヤー2)から再び「協調」を引き出す(裏切り者を改心させる)ことができるかもしれないと見越してである2。「寛大なしっぺ返し」戦略は極めて実り多くてたくましい(頑健な)戦略として知られており、人間の本能に深く埋め込まれている基本的な戦略なのではないかというのが多くの進化生物学者の見立てである。

ケネディは・・・(略)・・・(1963年6月にアメリカン大学の卒業式に招かれて行った「平和のための戦略」演説の中で)敵を侮辱するようなことがあってはならないと強調している。「核を保有する国々は互いの重要な国益を守り抜きつつも、敵対する相手国に屈辱的な撤退か核戦争かの二者択一を迫るようなことだけは避けねばなりません。核の時代にそのような対立関係を煽るかのような路線を選択するというのは政策の破綻を示す証拠かあるいは全世界を巻き込んでの自殺願望を示す証拠でしかないでしょう。」

ケネディの発想は当時はラディカル(革新的で新奇)なものだったが、同じ人類という共通項ゆえにソ連と協調関係を構築することも可能だというのがケネディの考えだった。「煎じ詰めるとこう言えるでしょう。米国とソ連を結び付ける共通の絆の中でも最も根本的なもの、それはどちらの国の国民もこの小さな地球に共同で暮らしているという事実です。私たちは誰もが同じ空気を吸って生きています。誰もが子供たちの未来を気にかけています。私たちは命に限りがある同じ人間なのです」。あちら側(敵)もこちらと同じように生きたいと願っており子供たちの未来のことを同じように大切に想っている。何らかの挑戦や脅威が目の前に立ちはだかった時に是非ともしっかりと思い出したい洞察である。45年前(のキューバ危機時)にもそうだったように、この重要な洞察は我々が今後も無事に生き抜き安全に暮らし続けていく上でキーとなる役割を果たすことになるかもしれない。

  1. 訳注;サックスはこのテーマ(キューバ危機への対応を含めたケネディ大統領の世界平和の実現に向けた奮闘)で一冊物している。次の本がそれである。 ●Jeffrey D. Sachs(著)『To Move the World: JFK’s Quest for Peace』(邦訳『世界を動かす-ケネディが求めた平和への道』) []
  2. 訳注;キューバ危機前後の米ソ間のやり取りに当てはめて考えると次のようになる。ケネディ大統領率いる米国(プレイヤー1)はソ連(プレイヤー2)が挑発的な行動に出ない限りは「協調」路線(軍拡を控える)を貫く姿勢をとっていたが、ソ連がそれまでの(キューバ国内に持ち込むのは防衛用の兵器だけに限るという)約束を翻してキューバに攻撃用の核ミサイルを持ち込んだ(「裏切り」に手を染めた)ために「協調」路線を見直して海上封鎖に乗り出すとともにキューバに空爆を仕掛ける脅しもかけた。米国側の強気の姿勢を前にしてソ連は態度を軟化させ、結果的に全面核戦争の危機は回避されることになる。それから数ヵ月後のこと、米国は「寛大にも」自分の側から率先して「協調」的な行動に打って出ることになる。核実験を禁止する条約を結ばないかとソ連側に話を持ち掛けたのである。そしてソ連もその提案に乗っかる(「協調」で応じる)ことになり、1963年に部分的核実験停止条約が締結されるに至ることになる。 []

マーク・ソーマ 「世間における経済問題へのあやふやな理解とその背後にあるもの ~メタファーと『善は善を呼ぶ』型ヒューリスティック~」(2015年10月30日)

●Mark Thoma, “‘On Misunderstanding Economics’”(Economist’s View, October 30, 2015)


クリス・ディロー(Chris Dillow)が興味深い研究を紹介している。

On misunderstanding economics”:

世間における経済学への無理解を嘆く声があちこちで聞かれるようになって久しいが、この問題に対して新しい角度から光をあてる興味深い研究が現れた。デビッド・レイザー(David Leiser)とゼエヴ・クリル(Zeev Kril)の二人の手になるこちらの論文がそれである。レイザーとのクリルの二人は語る。人間の精神は「経済学(ないしは経済問題)を考るのに格好なようにはできていない」。

・・・(中略)・・・

レイザーとクリルの二人によると、世間の人々はその代わりにメタファーに頼る傾向にあるという。一番悪名高い例は国の財政を家計に喩えるあれである。単にメタファーに頼るというだけではない。自信満々でそうする(メタファーに頼って経済問題を語る)ことが多いというのだからさらに始末が悪いのだ。

・・・(中略)・・・

世間の人々が頼りにするヒューリスティックは他にもある。そのうちの一つはレイザーが「善は善を呼ぶ」(「善は善を呼び、悪は悪を呼ぶ」)型ヒューリスティック(good begets good heuristic)(pdf)と名付けているものだ。「良いこと」は別の「良いこと」を呼び(「良いこと」は別の「良いこと」を呼び込む原因となり)、「悪いこと」は別の「悪いこと」を呼ぶ(「悪いこと」は別の「悪いこと」を呼び込む原因となる)。世間の人々は直感的にそう考える傾向にあるというのだ。例えば、世間の人々は「失業率の上昇」には「インフレ率の加速」が伴う(pdf)と考える傾向にある。どちらも「悪いこと」だからである1。・・・(略)・・・さらに厄介に思えることもある。世間の人々は「政府支出」を「悪いこと」だと見なし、その結果として「政府支出」の増加(という「悪いここと」)には「失業率の上昇」(という「悪いこと」)が伴うと考える傾向にあるというのだ。

レイザーとクリルの二人の研究から個人的に受け取ったことを3点ほど指摘しておきたいと思う。世間における経済問題へのあやふやな理解の背後にはメタファーやヒューリスティックに頼りがちな一般人の傾向が控えている可能性があるわけだが、そのことが結果的に右派か左派のどちらか一方に有利に働くことになるかというとそういうわけではないというのがまず一点目だ。メタファーやヒューリスティックに頼って経済問題を理解しようとする結果として世間の人々の間で反市場的な態度が培われることになる場合もあれば反ケインジアン的な態度が培われることになる場合もあるのだ。

メタファーやヒューリスティックに頼って経済問題を理解しようとする世間一般の傾向は我が国(イギリス)だけに限られる話ではない(他の国でも事情は変わらない)ということが二点目だ。

・・・(中略)・・・

我が国の政治制度にしても社会制度にしてもこの傾向(メタファーやヒューリスティックに頼って経済問題を理解しようとする世間一般の傾向)にうまく対処できていないというのが三点目だ。むしろその傾向を後押ししている可能性さえある。政治家にしてもメディアにしても世間一般の(メタファーやヒューリスティックに頼って経済問題を理解しようとする)傾向に抗ってそれを矯正しようとするよりは迎合しがちな面があるのだ。・・・(略)・・・経済学者だけではなく、民主主義の質を高めるにはどうしたらいいかと常日頃から心を砕いている面々も一緒になってこの状況を嘆くべきなのだ。

  1. 訳注;「善は善を呼ぶ」型ヒューリスティックに頼る結果として、世間の人々は「失業率の上昇」という「悪いこと」が「インフレ率の加速」という別の「悪いこと」を招き寄せると考える傾向にある、という意味。 []

マーク・ソーマ 「保護主義の本能」(2010年10月7日)

●Mark Thoma, “The Protectionist Instinct”(Economist’s View, October 07, 2010)


講義の合間での即席になるが、燃料を少々投下しておこう(以下の引用では省略してあるが、ハイエクの洞察にも負っているとのこと)。

The Protectionist Instinct” by Paul H. Rubin, WSJ:

失業率の高止まりが続く中で選挙の投票日が近づいているが、多くの政治家たちは例のごとく自由貿易(および海外へのアウトソーシング)に反対するキャンペーンを展開中である。いくつかの世論調査の結果によると、一般の有権者の間では自由貿易の恩恵を疑問視する見方が強まっているようだ。国際貿易の話題ほど一般人と経済学者との間で意見が食い違う話題はないだろう。

・・・(中略)・・・

国際貿易に関する一般人の見方(信念)は進化心理学的な観点から説明をつけることが可能だが、具体的には進化の過程で培われることになった二通りの心理的な傾向が関わってくる。まず一つ目は「ゼロサム思考」に傾きがちな傾向である。経済が成長する(パイが拡大する)可能性であったりそのこと(経済の成長)に国際貿易が役立つ可能性だったりというのは直感的には理解しにくいところがあるのである。

我々の遠い祖先が生きた世界は静的な世界であり、異なる集団の間で交易が行われることもほとんどなければテクノロジーの進歩もほとんど見られないような世界だった。我々の思考(精神)はそのような(静的でゼロサム的な1)世界を理解するべく進化を遂げてきたのである。とは言っても、人間には「交換(ないしは貿易)は双方の利益になる」(交換はポジティブサムの結果をもたらす)との概念は決して理解し得ないというわけではない。「学ぶ」という経験を積まなければ理解できないのだ。

「ポジティブサム思考」は何もせずとも自然と身に付きはしない。(学校等で)誰かに教えられなくとも「話す」ことは次第にできるようになるが、「読む」こととなるとそうはいかない。比喩を使わせてもらうなら、交換には相互利益が伴うという考えを理解する(「ポジティブサム思考」を身に付ける)ことは文字を読めるようになることと似ていると言えるだろう。

次に二つ目の傾向に話を移そう。我々の遠い祖先が生きた世界は敵意に満ちた世界でもあった。我々の祖先は近隣の集団とひっきりなしに拳を交えており――チンパンジーがそうであるように――、そのような日常を送るうちに「ウチ」(内集団、「我ら」、仲間)と「ソト」(外集団、「彼ら」、敵)に差別を設ける強力な本能(「内集団ひいき」)が培われるようになっていった。「ウチ」をひいきする傾向は今日にまで受け継がれ、数多くの場面でその頭をもたげてくることになる。

地元のスポーツチームに肩入れするといったようなかたちで「内集団ひいき」が現出するのであれば害はないが、「内集団ひいき」が国際貿易の場面で頭をもたげてくるようであればそうも言っていられない。「内集団ひいき」が最も有害な帰結をもたらすのは戦争を誘発する要因となる場合だ。「貿易戦争」と比喩的に語られることがあるが、このことは(「貿易」に関わる本能であったり「戦争」に関わる本能であったりといった)有害な本能が互いにいかに似通っているかを物語っていると言えよう。

「ゼロサム思考」と「内集団ひいき」という二通りの心理的な傾向が手を取り合う結果として国際貿易に対する世間一般の常識的な見方(というか誤解)が導き出されることになる。職の数は固定されている(「ゼロサム思考」)にもかかわらず、海外との貿易なんかに乗り出せば「仲間」(同胞の労働者)の職を「敵」(海外の労働者)に奪われてしまうことになる(「内集団ひいき」)ではないか。ついそう考えてしまうのである。正しい見方とは言えないが、自然な見方に感じられてしまうのだ。・・・(略)・・・

  1. 訳注;この点は昨日訳出したばかりの記事(アレックス・タバロック 「進化とモラルコミュニティー ~進化の名残としての『ゼロサム思考』~」)を参照されたい。 []

マーク・ソーマ 「市場恐怖症」(2006年1月14日)

●Mark Thoma, ““The Fetters of Ignorance, Self-Deception and Intemperance””(Economist’s View, January 14, 2006)


「消費者が十分なだけの慎重さを発揮して市場での選択に臨めるように何とかして誘導する必要性」は果たしてあるだろうか?

The aggro of the agora, Consumers fail to measure up to economists’ expectations” by The Economist

「消費者こそが最終的な判定者なり。そう見なさねばならない」(“We must accept the consumer as the final judge”)。アメリカ経済学会(AEA)の会長を務めたこともある経済学者のフランク・タウシッグ(Frank Taussig)が1912年に語った言葉だ。・・・(略)・・・つい最近開かれたアメリカ経済学会の会合で一つだけはっきりと浮かび上がってきた論点がある。市場における主権者たる消費者の意思を尊重してその一挙一動には余計な口を挟まないのが経済学者の間での長年のお決まりとなっていたが、その慣わしの妥当性に疑問を投げかける声があちこちから上がったのである。・・・(略)・・・アメリカ金融学会(AFA)の会長であるジョン・キャンベル(John Campbell)は一般的な家計による資産運用の不手際を逐一列挙した。株式への投資が十分とは言えない、もっと多様な資産への分散投資を心掛けるべきだ、住宅ローンを借り換えるのに適当な機会が見過ごされている等々。アメリカ経済学会の会長を務めるダニエル・マクファデン(Daniel McFadden)も訴える。1980年代に入ってから市場の自由化に向けて規制という名の軛(くびき)が次々と解かれているが、自由化が期待通りの効果を上げるには別の軛(くびき)も解かれる必要がある。消費者が「無知、自己欺瞞、放縦」の軛(くびき)から解き放たれない限りは市場の自由化も期待にそむく結果に終わってしまうことだろう。マクファデンはそう語る。

マクファデンのスピーチはニューロエコノミクス(神経経済学)の研究成果に裏付けられている。ニューロエコノミクスの研究成果が指し示しているところによると、はるか昔にアダム・スミスが指摘した「人間の交換性向」(“propensity to truck, barter and exchange”)は人間本性に深く根付いているという。脳スキャン技術を利用した観察結果によると、「人間の交換性向」は大脳辺縁系のあたりに潜伏しているらしいというのだ。大脳辺縁系というのは闘争本能や防衛本能、食欲といった動物的な本能を司る脳の原始的な部位にあたる。マクファデンは冗談交じりに語る。「ショッピング(買い物)とセックスは同じ神経伝達物質に同じ受容体を共有しているわけです」。

しかしながら、誰もが市場での交換に(大脳辺縁系が刺激されて)快感を覚えるわけではなく、嫌気を覚えるという人もいることだろう。現実の市場は「見通しが悪くて波乱に満ちた荒野のような場所」だ。そんな厳しい環境の中で(何を買うべきか)選択しなければならないとなると、消費者の中には自分自身の判断に自信が持てず、陳列棚に並べられた商品もそれを売り付けてくるお店も疑わしくてしょうがなく思えてくるという人もいることだろう。消費者はしくじりを犯してしまう――思いのほか買い過ぎてしまったり、いらないモノを買ってしまう(買ってから後悔する)――危険性に常に晒されているのだ。それは同時に「人格を磨く」機会が用意されていることを意味しているというのも確かだ。しくじって痛い目に合う経験を重ねることで少しずつ学習していき、市場で生きるにふさわしい「合理的な主体」へと近づいていく。そういう可能性もある。しかしながら、マクファデンには不安がよぎる。消費者はしくじりを繰り返すことで「合理的な主体」に近づいていくのではなくその代わりに「市場への嫌悪感」を募らせていってしまうおそれがあるというのだ。「『選択の機会』が『しくじりを犯す機会』と同一視されてしまうおそれがある。『ばつの悪い思いをする機会』『後悔の念に駆られる機会』と解釈されてしまうおそれがあるのです」。マクファデンは「アゴラフォビア」という表現を持ち出している。「アゴラフォビア」はギリシャ語由来の言葉であり通常は「広場恐怖症」を指す言葉として使われているが、直訳すると「市場(広場)に対する怖れ」という意味になる。・・・(略)・・・「交換にはイライラが付き纏う。消費者たちはそのように感じて・・・(略)・・・得られる利益が小さい場合には交換に応じようとしない傾向にあるのです」。

・・・(中略)・・・

マクファデンは・・・(略)・・・さらにもう一歩踏み込む。「消費者が十分なだけの慎重さを発揮して市場での選択に臨めるように何とかして誘導する必要があるかもしれない」とはマクファデンの言。タウシッグのような先達の面々にはマクファデンのこの発言は異端の説として聞こえることだろう。消費者の選択は経済学の対象となるデータ――所与の事実――であり、そのデータ(消費者が実際に何を選んだか)の観察を通じて消費者の好みを推測する。経済学者にできることはそれだけに限られる。消費者が実際に何を選んだかを観察しないうちに何が一番消費者本人のためになるかを知っているかのように語るのは選択から好みを推測するというロジックに反するだけではなく思い上がりも甚だしいと言わざるを得ない。経済理論では消費者の行動(選択)をうまく説明できないとすれば、問題は経済学(経済学者)の側にあるのであって消費者の側にはない。タウシッグのような先達たちの言い分をまとめるとこのようになるだろうが、マクファデンはそれとは正反対の結論になびいているように思える。経済理論では消費者の行動(選択)をうまく説明できない? それなら消費者を「鋳直し」て経済理論に近づけるという手もあり得るかもしれない。そのような結論になびいているように思えるのだ1

  1. 訳注;「理論と現実にズレがあるのなら現実のほうを理論に近づけようではないか」とマクファデンが訴えているかのようにまとめられているわけだが、そのまとめ方はどうだろうというのが正直な感想。マクファデンとしては(行動経済学等で明らかにされている認知バイアスのために)消費者が「しくじる」機会を減らすような工夫(その代表例はセイラー&サンスティーン流の「ナッジ」)には二重の恩恵が備わっているということが言いたかったのではないかと思われる。「ナッジ」のおかげで認知バイアスに陥らずに買い物ができれば(しくじる機会が減れば)その消費者本人のためになる(本人の利益に適う)という恩恵があるだけではなく、しくじりを原因とする「市場恐怖症」が和らげられることで市場への世間の支持も高まる(あるいは市場への嫌悪感も弱まる)という恩恵も随伴する、ということが言いたかったのではないかと思われるのだ。この記事で紹介されているマクファデンの研究を詳しく知りたいという場合は次の論文を参照されるといいだろう。 ●Daniel McFadden, “Free Markets and Fettered Consumers”(American Economic Review, Vol.96, No.1, March 2006, pp. 5-29) []

マーク・ソーマ 「資本主義を守り抜くには価格システムへの『公平感』を保つことが必要だ ~災害時の『便乗値上げ』の是非を巡る議論から得られる教訓~」(2012年11月28日)

●Mark Thoma, “Hurricane Sandy’s Lesson on Preserving Capitalism”(Economist’s View, November 28, 2012)


数週間前にFiscal Timesにコラムを寄稿したのだが、今回は以下にその一部を転載しようと思う。なぜ今になって再び取り上げる気になったかというとその理由は2つある。一つ目の理由は誤解を正したいと思ったからだ。どうやら私の意図がうまく伝わっていないようで読者の多くはあのコラムを「便乗値上げ」を禁じる法律に賛意を示すものと受け取ったようだが、それは違う。価格システムを腐してやろうというつもりであのコラムを書いたわけではない。「便乗値上げ」に対する世間の反応からは学ぶべき教訓があるということがあのコラムで言いたかった一番の要点なのだ。「価格の変動を通じた資源の配分メカニズムには『不公平な』帰結が付き纏(まと)う」。世間の人々の間でそのような疑念が抱かれてしまうようであれば価格システムに対する広範な支持など得られやしないだろう。格差の拡大や一部の富裕層への(政治的および経済的な)権力の集中が続いたとしたら資本主義というシステムに対して世間一般の人々が抱く公平/不公平の感覚に一体どのような影響が及ぶことになるだろうか? 市場原理主義者にしても資本主義を支持する立場の論者にしてもそのことをもっと真剣に気にかけるべきなのだ。資本主義というシステムに対する(世間一般の)不公平感が募り募って臨界点を超えてしまった暁には(不満を抱えた世論の意向を汲んだ結果として)その後釜として得体の知れないシステムに取って代わられてしまう可能性だってあるのだ。次に二つ目の理由だが、どちらかというとこちらの方が(一つ目の理由よりも)重要だ。いつものように色んな記事を紹介したかったのだが、どういうわけだか今日は不運にもこれはと思えるような記事に出くわせなかったばかりか、ブログ用に自分で何か書き上げるだけの時間の余裕もなかったのだ(つまりは一時しのぎの苦肉の策というわけだ)。

Hurricane Sandy’s Lesson on Preserving Capitalism”:

ガソリンスタンドの前にできた長蛇の列。ハリケーン・サンディの直撃を受けてガソリンをはじめとした生活物資の数々が品不足の状態にあり、被災民たちは不安な日々を余儀なくされている。自然災害に見舞われた直後には「便乗値上げ」の是非を巡って経済学的および倫理的な観点から議論が巻き起こるものだが、今回もその例外ではない。自然災害に見舞われた直後に売り手が品物の値段を吊り上げるのは許される行為なのか? 望ましい行為と言えるのか? こういった疑問は確かに重要だ。しかしながら、「便乗値上げ」を巡る議論からはその是非にとどまらない更なる教訓も引き出せると思われるのだ。

経済学者は「便乗値上げ」(“price-gouging”)という表現を好まない。というのも、自然災害に見舞われた後に価格が上昇するに任せることは稀少な資源(財やサービス)を配分する(割り振る)ための最善の方法でもあり、不足気味の品物の増産を促すことになるという意味でも重要だというのが経済学者の考えだからだ。店先に並べた品物が高値で売れるとなれば(増産に乗り出せば大儲けが期待できるとなれば)、生産者の面々は並々ならぬ努力を注いで需要の急増に応じようとする(増産に励む)に違いない。経済学者の考えではそう予想されるのだ。

ハリケーン・サンディのような災害に見舞われた後に価格が上昇するに任せることにそれだけの利点があるのだとすれば、「便乗値上げ」をあちこちで目にしてもよさそうなものだが、災害に見舞われた後もそれまでと同じ水準に値段が据え置かれるケースも珍しくない。それはなぜなのだろうか? 災害に見舞われた後もそれまでと変わらない水準に値段を据え置き、在庫が尽きるまでお客に先着順で売り渡すという店も珍しくない。値上げをすれば儲けも増えるにもかかわらず、そのような絶好の機会がみすみす見過ごされてしまうのはなぜなのだろうか? 「災害時の便乗値上げは法律で禁じられているからだ」という答えが頭をよぎるが、その答えは次のような更なる疑問を提起するだけに過ぎない。災害時の品不足に乗じた大幅な値上げ(便乗値上げ)が多くの州で法的に禁じられているのはその通りだが、そもそもそうなっているのはなぜなのだろうか?

その答えを追い求めてこれまでに経済学者も色々と頭を捻ってきているが、その多くは「公平感」のアイデアに訴えて説明を試みている。〔以下続く

ついでになるが、こちらの記事もあわせて引用しておくとしよう。この記事ではダニエル・カーネマン(Daniel Kahneman)の研究が紹介されている。コラム執筆時にはカーネマンの件の研究のことは知らなかったのだが、「価格システムに対して世間の人々が不公平感を募らせると価格システム(ひいては資本主義というシステム)に対する世間の支持も弱まる」との私の主張に味方してくれているようだ。

大半の経済学者の意見に従う限りでは、ハリケーンが襲来する前日に雑貨屋(食料品店)が店頭の品物の値段を引き上げるのはまったくもって理に適った行為だということになる。理に適っているというだけではなく実際にもそうなりそうでもある。というのも、近所の人々がハリケーンの襲来に備えて生活物資を手に入れようとこぞって店に殺到する(需要が急増する)一方で品物の値段がいつもと変わらない水準に据え置かれたままであればすぐにも品不足になるのはわかりきっているからだ。雑貨屋の棚が空っぽになるとすれば、それは品物の値段が低すぎる(安すぎる)証拠。普通の経済学者の目にはそう映るのだ。

ダニエル・カーネマンといえばノーベル経済学賞を受賞した学者だが、彼が他の研究者たちと共同で行った有名な研究(pdf)では一般人を対象に品物の値付けに関するエピソードをいくつか話して聞かせた後でそれぞれのエピソードについてどういう感想を持ったか(公平だと思ったか、それとも不公平だと思ったか)が問われている。その中の一つが吹雪に見舞われた翌日の金物屋の行動に関するエピソードである。A町に店を構えるその金物屋はそれまで除雪用シャベルを一本15ドルで販売していたが、吹雪に見舞われた翌日にその値段を一本20ドルに引き上げたのである。

除雪用シャベルの値上げは辺り一帯に一つのシグナルを送ることになる。「A町にシャベルを持ち込め!」というシグナルである。A町から1時間くらいの距離にある土地で金物屋を営む店主たちはトラックの荷台にありったけの除雪用シャベルを積み込んでA町に乗り込もうと思い立つ可能性がある。実際にもそのような動きが起これば、A町における除雪用シャベルの品不足は緩和されてシャベルの値段も元通りに戻ることだろう。

ところで、このエピソードを耳にした(一般人の間から選ばれた)被験者たちはどういう感想を持っただろうか? 特段驚くことでもないだろうが、被験者の80%は吹雪に見舞われた翌日に除雪用シャベルの値段を引き上げた金物屋の振る舞いを「不公平だと思う」と答えている。そう答えた面々に「ハリケーンが襲来する前日に缶詰食品の値段を2倍に引き上げる雑貨屋ってどう思う?」と尋ねたら同じく「それは不公平だよ」と返答することだろう。

実際にも多くの人々が自然災害に乗じた値上げに強い憤りを感じており、そのような世論の声を受けて多くの州で「便乗値上げ」を禁じる法律が制定されるに至っている。ハリケーンをはじめとした自然災害の発生時に品物の値段を引き上げると違法行為と見なされる州があるのだ。

マーク・ソーマ 「アロー、エッジワース、フォーセット」(2017年2月26日)

●Mark Thoma, “Arrow, Edgeworth, and Millicent Garrett Fawcett”(Economist’s View, February 26, 2017)


ラジブ・セティ(Rajiv Sethi)のブログより。

Arrow, Edgeworth, and Millicent Garrett Fawcett” by Rajiv Sethi:

先日亡くなったケネス・アローについてはもう既にあれこれと語り尽くされていてこれ以上何か言えそうなことも特にこれといって見つからないのだが、個人的な思い出であれば一つくらいは付け加えられそうだ。

過去に1度だけだがアローに会ったことがある。2008年4月にスタンフォード大学で開催されたカンファレンスに参加したのだが、そのカンファレンスのオーガナイザー(まとめ役)を務めていたのがアローとマシュー・ジャクソンだった。研究発表者の周囲を取り囲むように並べられたいくつものテーブル。聴衆はテーブルを挟んだ向こう側に腰を下ろしていたが、アローだけはテーブルの内側のスペースに入り込んで発表者の目の前に陣取っていた。当時のアローは86歳。

一番最初の発表者が私だった。異なる集団間での格差をテーマとする研究(サミュエル・ボウルズとグレン・ルーリーとの共同研究)の概要について発表したのだが、話し始めてから数分経ったところでアローが口を挟んできた。と言っても、決して強引にというわけではない。モデルの情報構造について詳しく知りたいとの質問だった。発表が終わって休憩時間に入ると、私のもとにアローがやってきて次のように尋ねられた。「ミリセント・フォーセット(Millicent Garrett Fawcett)の論文を読んだことがありますか?」。1892年のエコノミック・ジャーナル誌に掲載された論文だという。タイプミスじゃない。アローは確かに1892年と言ったのだ。「読んだことありません」。そう正直に告白したものだ。

その時にアローが語ってくれたのだが、フランシス・エッジワース(Francis Edgeworth)が1922年の(エコノミック・ジャーナル誌に掲載された)会長講演でフォーセットの一連の研究を詳しく取り上げているという。エッジワースのその講演は多くの人に広く知られているものの、その中で言及されているフォーセットの研究に自分で直接あたった人はほとんどいないという。

その後自分でも確かめてみたのだが、アローの言う通りだった。エッジワースは講演の中で何度も「フォーセット女史」と口にしており、フォーセットの論文を3本ほど引用している。エッジワースの講演は“Equal Pay to Men and Women for Equal Work”(「性別の枠を越えた『同一労働同一賃金』」)と題されているが、その中で引用されているフォーセットの論文の一つが1918年に公刊された“Equal Pay for Equal Work”(「同一労働同一賃金」)である。フォーセットの件の論文の冒頭は以下のようになっている。

Fawcett 1918

(「ジョン・ジョーンズ氏は軍服を製作する仕事に就いており、勤め先の洋服店から高給を支払われていた。ジョーンズ氏は病気に罹ってしまったが、勤め先の許可を得て自宅で服作りを続けることになった。ジョーンズ氏は自分の妻にも仕事のやり方を教えたが、ジョーンズ氏の体調が悪化するのに伴って彼の妻が助太刀する機会が増え、しばらくするとジョーンズ氏の妻が仕事をすべて引き受けることになった。しかしながら、ジョーンズ氏が生きている間は妻が製作した服もすべてジョーンズ氏製作という名目で勤め先に渡し、それまでと同額の給与が支払われ続けたのであった。

ジョン・ジョーンズ氏が亡くなり遺体が埋葬されたことが知られるようになると、『この服はジョーンズ氏が作りました』という話は最早通じなくなり、ジョーンズ氏の妻は『この服を作ったのは私です』と認めねばならなくなった。それ以降、自宅で作った服と引き替えに洋服店から支払われる給与はそれまでの3分の2に減額されることになったのであった。」)

少し調べてみてわかったのだが、フォーセット女史はエッジワースやアローにもまったく引けを取らない切れ者のようだ。さらには、経済学の分野での貢献は彼女の全業績のほんの一部でしかないのだ。アローとしては気の合う仲間を見つけたと感じていたに違いない。

マーク・ソーマ 「ケネス・アロー(1921-2017)」(2017年3月2日)/アレックス・タバロック「伯父としてのケネス・アロー ~サマーズが語るアローの思い出~」(2017年2月24日)

●Mark Thoma, “Kenneth Arrow, 1921-2017”(Economist’s View, March 02, 2017)


デブラージ・レイ(Debraj Ray)のブログより。

Kenneth Arrow, 1921-2017” by Debraj Ray:

ケネス・アロー(Kenneth Arrow)が2017年2月21日に亡くなった。享年95歳。アローは20世紀を代表する三大経済学者(三傑)の一人(残りの二人はポール・サミュエルソンとジョン・ヒックス)と目されている人物であり、私のかねてからのお気に入りの経済学者でもある。

ディパク・バナジー(Dipak Banerjee)(pdf)――私の恩師――が私にアローを紹介してくれたのは1974年のことだ。(私の母親が崇め奉っているヒンドゥー教の女神サラスヴァティー)さながらに)私の目の前に現れたアローは黄色い表紙の小さなペーパーバックの姿を借りていた。その小さな本の名は『Social Choice and Individual Values』(邦訳『社会的選択と個人的評価』)。大学通りにあるダスグプタ書店で購入し、今でも手元に持っている。当時私は大学1年生。小さな本ではあったが、その中を開くと深遠な論理的な思考がぎっしりと詰まっていた。それだけではない。ページを繰っていくとその先にはこれまでに見たことがない風景が広がっていた。政治経済学の分野における「抽象的な問い」が切れ味鋭い理論的な道具立てに読み替えられていたのだ。

その「抽象的な問い」とは一体何か? 簡単に言うとこういうことだ。みんなの意見を集計して集団としての意思決定を下す方法として「多数決」があるが、多数決にはいわゆる「コンドルセのパラドックス」(投票のパラドックス)として知られている有名な問題が付き纏っている。(複数の選択肢に対する)一人ひとりの選好(好み)は理に適ったものであったとしても「多数決」を通じてみんなの意見を集計する結果として得られる(複数の選択肢に対する)社会的な選好(集団としての選好順序)に時として循環が生じる可能性があるのだ。このことから次のような問いが浮かび上がってくることになる。一人ひとりの選好を矛盾のないかたちで集約し得る方法というのは果たして存在するのだろうか? 少し考えてみてもらえば気付くと思うが、一人ひとりの選好を集約する方法には我々がよく知っている多数決以外にも無数の候補がある。さてさてだ。先の問いに答えを出すのはおろか、先の問いを(理論的に取り扱えるようなかたちに)定式化するには一体全体どうすればいいんだろうか? アローが閃いた定式化――投票に参加する一人ひとりの選好を集約して集団としての選好(社会的な選好)を導き出す集計方法(社会厚生関数)にいくつかの公理(条件)を課す――はまさしく天才的なものだった。見た目が美しいというばかりではない。結論(答え)も得られるのだ。その結論とはこうだ。ごく限られた数の条件をすべて満たしつつ、一人ひとりの選好を集約して申し分のない(集団としての選好順序に循環が生じないような)社会的な選好を導き出せるような集計方法は存在しない。

以上の引用は冒頭のほんの一部でしかない。内容盛り沢山の続きも是非ともご覧になられたい。

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●Alex Tabarrok, “Summers on Arrow”(Marginal Revolution, February 24, 2017)


ローレンス・サマーズがケネス・アローとの思い出を回想しているが、その中で学者人生の一面を見事に捉えたエピソードが紹介されている。私も似たような経験がある。父親が機械工学を専門とする学者だったのだが、自宅に教え子を呼ぶことがあった。その時の父親の振る舞い(教え子たちと会話を弾ませている姿)を見ていて似たような感想を持ったことがあるのだ。

ノーベル経済学賞受賞者であり私の母方の伯父でもあるケネス・アローが今週95歳で亡くなった。アローは優れた人柄の持ち主であり、私(だけではなくその他大勢)にとってのヒーローだった。アローほど充実した学者人生を過ごした人物は他には見当たらない。

アローがノーベル賞を受賞したのは1972年のことだが、その時のことはまるで昨日のことのように覚えている。ポール・サミュエルソン――同じくノーベル経済学賞受賞者であり、同じく私の伯父でもある――がアローのノーベル賞受賞を祝うパーティーを催したのだが、その当時(MITの)大学2年生だった私もその場に招待されたのだ。若干オタクっぽい雰囲気に包まれてはいたが、お祭り気分に満たされた一夜だった。

夜も更けていく中、部屋の隅のところで数理経済学の定理の数々をテーマに立ち話を延々と続けるサミュエルソンとアローの二人。招待客たちは一人また一人と帰っていく。サミュエルソンの妻は「話はまだ終わらないのか」とじれったそうにしているように見えた。アローの妻(であり、私の叔母でもあるセルマ)はコートを羽織ってボタンも留め終わり、出口に向けて歩き出していた。そんなことはお構いなしに「最大値原理がどうこう、ポントリャーギン(ロシアの数学者)がどうこう」と切り出すアロー。イギリスの数理経済学者であり哲学者でもあるフランク・ラムゼイの話で迎え撃つサミュエルソン。二人の会話が終わらないことには私は帰れなかった。そのため私は二人の会話をじっくりと観察していたのだ。とは言え、(当時の私には)会話の内容は一切理解できなかったのだが。

二人の会話の様子を眺めていて吸収できたこともある。目の前にいるのはノーベル賞を受賞した二人の人物。疲れ果てた他の招待客たちが次々と家路を急ぐ中、好物の話題をネタに延々と語り続ける二人。その夜、私は二人の伯父から学んだのだ。アイデアに対する情熱を。学者という職業の重要性と刺激(スリル)を。