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ニック・ロウ「金利の「正常化」なんて試みるまでもない」

[Nick Rowe, “Don’t even try to “Normalise” interest rates,” Worthwhile Canadian Initiative, December 27, 2017]

「経済のほかの部分はみんな正常化した、そろそろ金利も正常化させる頃合いだ」と思ってるなら、まちがいだ。ほかの部分がみんな正常化してるなら、金利はとっくに正常化されてるにちがいない。
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ニック・ロウ 「世代重複モデルとメルロ=ポンティ」(2015年2月13日)

●Nick Rowe, “Teaching, OLG models, and the phenomenology of perception”(Worthwhile Canadian Initiative, February 13, 2015)


大学の経済学の講義で教える時に学生たちが「一般的な原理」を理解する手助けになればと思って具体的な数値例を使って説明することがある。こちらから一方的に解説するだけではなく、学生自身に解かせることもある。例えば、数値例を使った問題を宿題に出すとかしてだ。真に理解するためには自力で問題を解くしかない。数値例を使った問題を自分で解いてみてはじめて何がどうなっているのか得心がいくのだ。一旦得心がいけば数値例はもう必要ない。学生たちは特定の数値に左右されない「一般的な原理」が何であるかを飲み込める状態にたどり着けているからだ。

私が学部生として(イギリスはスコットランドにある)スターリング大学で学んでいた時のことだ。哲学者のメルロ=ポンティがテーマの講義を履修したことがある。メルロ=ポンティの『知覚の現象学』。講義で取り上げられたのはその一冊だけ。今振り返ってみても、メルロ=ポンティがその本で何を言おうとしていたのかちんぷんかんぷんだ。何か学びはしたとは思うのだが、それが何なのかを口に出して伝えられそうにない。

しかしながら、メルロ=ポンティが『知覚の現象学』の中で取り上げていた例の一つは今でも覚えている(あるいは覚えていると思っている)。電球が横一列にずらりと並んでいる。まずはじめに一番左にある電球が灯って消える。その直後に今度は左から2番目の電球が灯って消える。その直後に左から3番目の電球が灯って消える。その直後に・・・ということが順々に繰り返される。電球はどれ一つとして動いていない(同じ位置にとどまっている)ものの、電球が点滅する様子を傍で眺めている人間の目には光が左から右へと一直線に移動しているように見える。そんな話だ。 [Read more…]

ニック・ロウ 「市場に備わる魔力 ~市場はね、お肉を野菜に変えられるんだよ~」(2015年2月10日)

●Nick Rowe, “How markets convert meat into vegetables”(Worthwhile Canadian Initiative, February 10, 2015)


今年も冬がやってきました。季節的に食物はもう作れません。食べられるのは前もって溜め込んである分だけです。「肉食主義者が溜め込んでいる食物の一部をベジタリアンの面々にくれてやりたいものだな」。王様はそう思われました。肉食主義者に税金を課そう。そうすれば肉食主義者による食物の消費量も減るだろう。そしてベジタリアンには(肉食主義者が支払う税金を財源として)給付金を支給するとしよう。そうすればベジタリアンによる食物の消費量も増えるだろう。そうお考えになった王様は財務大臣にすぐさま行動に移るように命じました。

「肉食主義者が溜め込んでいる食物の一部をベジタリアンに分け与えよと仰るのでしょうか? 残念ながらそれはできません」と財務大臣。肉食主義者はお肉だけを溜め込んでいて野菜は一切溜め込んでいないというのです(ベジタリアンは野菜しか食べません)。そしてベジタリアンは野菜だけを溜め込んでいるとのこと。お肉を野菜に変える機械でもあればいいのですが、そんなものはありません。

しかし、王様は経済学なんてわかりもしないシンプルな頭の持ち主でいらっしゃいます。財務大臣の言うことなんかには耳を貸さずに初心を貫きました。肉食主義者には税金が課され、ベジタリアンには給付金が支給されることになったのです。そしてその結果はというと・・・、王様の仰った通りになったのでした。

一体何があったのでしょう? 肉食主義者は溜め込んでいたお肉の一部を雑食主義者1に売りました。その売上金を税金の支払いに回したのです。一方で、ベジタリアンは給付金を使って雑食主義者から野菜を買いました。さて、どういうことになったでしょう? 肉食主義者に関しては(税金を支払う必要もあって)溜め込んでいたお肉を売ってしまったために食物(お肉)の消費量は減ることに。ベジタリアンに関しては給付金のおかげで野菜を買い入れることができたために食物(野菜)の消費量は増えることに。そして雑食主義者に関しては(肉食主義者からお肉を買ったことで)お肉の消費量は増える一方で、(ベジタリアンに野菜を売ったことで)野菜の消費量は減ることになったのです。

しばらくして財務大臣も自分の間違いに気付きました。世代重複(OLG)モデルを勉強し出してから間もない財務大臣の頭の中ではこんな考えが駆け巡っていました。「王様はこうもできたはずだ。『第三世代』に税金を課して『第一世代』に給付金を支払う財源とする。『第一世代』は給付金のおかげで食物の消費量を増やせる一方で、『第三世代』は税金をとられるために食物の消費量を抑えないといけなくなる。『第三世代』がこの世に誕生した時には『第一世代』は既にこの世から去っていたとしてもそれは変わらない。ただし、それには『第二世代』が必要だ。『第一世代』とも『第三世代』とも生きている時期が重なるそんな『第二世代』2が必要だ3。『第三世代』は肉食主義者、『第一世代』はベジタリアン、そして『第二世代』は・・・雑食主義者か!」

そろそろいつもの調子に戻らせてもらうが、(世代重複モデルのアナロジーを引き続き使わせてもらうと)雑食主義者は肉食主義者とベジタリアンという二つの世代をつなぎ合わせる「環」の役割を果たしているわけだ。世代の連鎖を(「第三世代」までで終わりにするのではなく)さらに延ばしたいようであれば「環」の数を増やしさえすればその望みも叶うことだろう。

市場は魔法のような働きをやってのける力を秘めている。お肉を野菜に変えたり、食べ物を未来から現在へと運んできたり。市場にはまるでそんな働きをやってのける魔力が秘められているかのようなのだ。

  1. 訳注;雑食主義者はその名の通りお肉も野菜も嗜む人種であり、冬に備えてお肉も野菜もどちらとも溜め込んでいると想定されている。 []
  2. 訳注;「第二世代」は「第一世代」が老境に入る頃には働き盛りの真っ只中にあり、「第一世代」の面々がこの世から去って下の世代である「第三世代」が働き盛りになる頃には老境に入ることになる。 []
  3. 訳注;例えばこういうことだ。王様が「第一世代」(ベジタリアンの老人)に給付金を支給しようと思い立ち、その財源を調達するために国債を発行。「第二世代」(雑食主義者の若者)の一部がその国債を購入し、無事「第一世代」に給付金が支払われることに。「第一世代」の老人(でベジタリアン)たちは給付金を使って「第二世代」の若者たちから野菜を購入(「第一世代」による野菜の消費量が増加)。時が経つにつれて「第一世代」の面々は一人また一人とこの世から去っていきやがては全員が他界。「第二世代」も老境に入り、代わって「第三世代」(肉食主義者の若者)が社会を担う立場になる。やがて「第二世代」が若者だった時代に発行された国債の満期が到来。王様は国債を償還するために「第三世代」に課税を行って資金を捻出。「第三世代」は税金の支払いにより可処分所得が減り、それに伴い食物の消費量も減らさざるを得なくなる。 []

ニック・ロウ 「タイムトラベルも不可能じゃない? ~国債(政府債務)の負担をめぐる論争への挿話めいたもの~」(2012年10月13日)

●Nick Rowe, “How time travel is possible”(Worthwhile Canadian Initiative, October 13, 2012)


東海岸に在住する住人の手からミルクをひったくって西海岸に在住する住人にミルクを譲り渡す。あなたがそうしたいと考えているとしよう。ただし、ひったくったばかりのミルクが腐らないうちに東海岸から西海岸までの間を高速で移動できる術は持っていないとしよう。

どうしたらいいだろうか? こうすればいい。

まずは東海岸に在住する住人の手からミルクをひったくる。そしてそのミルクを携えたまま数キロほど西に移動。そしてそこに住む誰かにこう掛け合う。「このミルクとあなたが持っているミルクを交換してもらえませんか?」。無事交渉成立と相成ったら新たに手に入れたミルクを携えて数キロほど西に移動。そして先ほどと同じようにそこに住む誰かに対してミルク同士の交換を申し出る。西海岸にたどり着くまで何度も同じことを繰り返せばいい。

100年後に生まれてくる未来人の手からミルクをひったくって今生きているあの人やこの人にミルクを譲り渡す。あなたがそうしたいと考えているとしよう。ただし、100年後の未来に連れて行ってくれるタイムマシーンは持っていないとしよう。

どうしたらいいだろうか? こうすればいい。

「数年後には返すから」。そう約束した上で若者たちからミルクを借りる。そしてすぐさまそのミルクを誰でもいいからあげちゃう。数年経過。(数歳年をとった)そこそこ大人の(旧世代の)若者たちにミルクを返さなきゃいけない。どうするか? 「数年後には返すから」と約束した上で新世代の若者たちからミルクを借りてそのミルクをそこそこ大人の(旧世代の)若者たちへの返済に充てる。数年ごとに何度も同じことを繰り返せばいい。そうこうするうちに100年が経過。旧世代の若者たちにミルクを返済するために新世代の若者たちからミルクを借りる・・・なんてことはしない。無理矢理ひったくるのだ1

さて、ポール・クルーグマンの次の発言を味読されたい。

まずはじめに指摘しておきたいことがある。「将来世代」という表現は何とも曲者で『「将来世代」、「将来世代」』と口にしているうちにあれよあれよという間に罠にはまっちゃってた。そうなる可能性があるのだ。国債を財源とした財政出動はある世代の消費を増やす一方で新世代(下の世代)の消費を減らす。そうなる可能性は大いにある。ただし、そうなるのはどちらの世代も存命中の場合に限られる

  1. 訳注;税金という名で強制徴収する、という意味。 []

ニック・ロウ 「政府負債は子供世代の負担でしょう(リカーディアン均衡になると信じていないなら)」(2011年12月28日)

Debt is too a burden on our children (unless you believe in Ricardian Equivalence), December 28, 2011)
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実は外で雪かきをしながら、将来世代の負担としての政府負債に関するエントリを書こうか考えていた。それと、この問題に関するマクロ経済学者の考えが30年ほど前に静かに転換したこと。そして我々プロはある意味「記憶を改ざん」したということについて(Timur Kuranの “preference falsification” のような話。訳注:himaginary氏による関連情報)。経済学を知らない無学な田舎者だけが信じることだとかつては思っていたようなことを,今は自分たちが信じている。

そしてこう結論した。「いや、古い議論を蒸し返す意味はないな。例の「自分自身に借りている」という話はもう誰も信じていないし。」

で、屋内に戻りクルーグマンのエントリを読んだ。どうやら書かないでおこうと決めたことを書かなければならなくなった。

「高水準の負債が何の問題も引き起こさないということではない。問題は確かに起こり得る。でもそれは分配及びインセンティブについての問題で、一般に理解されているように負担になるという問題ではない。ディーンが言うように、子供たちに負担を押し付けるという言い方は特に無意味だ。我々が続く世代に残すのは、我々の子供たちのうちの誰かが別の子供たちにいくばくかの金を支払わなければならないという約束であって、それは負担とはぜんぜん違う問題だ。」

おそれながら、これは純然たる間違いだ。経済学を知らない田舎者ー国の負債は子や孫の負担になると考えるーは基本的に正しいのだ。正に「特に無意味」とは対極だ。リカーディアン均衡になると信じているのでなければ。

クルーグマンの続編エントリ

「これを肯定するのに右翼である必要はない。限界税率がとても高くなり生産性が損なわれることになるだろう。よって実質GDPは大きく落ち込む。

負債の負担の問題はインセンティブに関することで、誰かに資源を移転することではないと言ったのはそういうことだ。

……

つまり、借り過ぎた家計に喩えるのは完全に間違いということ。残念ながらこのつまらない例えが全国を覆ってしまっているが。」

いや、インセンティブの問題に過ぎないということはない。そして誰かへの資源の移転は確かにある。家計に喩えるのはつまらないことではないし、完全な間違いでもない(もちろんあらゆる喩えのご多分に漏れず、物事を完璧に描写するわけではない。)

昔、私たちは皆NB(訳注:Not burden、「負担でない」)と信じていたものだ。少なくとも、教育を受けた洗練された人々は皆NBと信じていた。B(訳注:burden、「負担である」)と信じていたのは無学で洗練されていない人だけだった。私たちは皆うぬぼれて「そのへんの人」は間違っていると見なしていた。実際、BかNBかのどちらを信じるかは、その人が教育され洗練されているかどうかのクイックテスト足り得た。教育され洗練された人々の中にもBと信じていた人や、NBであることが自明だとは本当に理解していなかった人たちもいたかもしれないが、皆それを隠していた。自分が教養がなく洗練されていないと他の人に思われたくなかったからだ。

1980年代のいつだったかに参加したチャールトンでの経済学セミナーを覚えている。招待講演者は年長の男性で、アメリカのトップ校から来たオールドケインジアンだった(名前は忘れてしまった)。セミナーの途中で彼はこう言った。「聴衆の皆さんは経済学の素養があるのでBだと信じている人はいませんね。」 そう言って彼は黙って室内を見渡した。私は顔が熱くなった(あとで院生に聞くと私の顔は真っ赤だったそうだ)。私は挙手し、自分はBと思うと言ったものだ。

ジェームス・ブキャナンは洗練されたマクロ経済理論家ではなかった。彼はマクロはやらなかった。彼は政治の経済学と公共選択をやっていた。マクロ理論の権威では全くない。ジェームス・ブキャナンはBだと論じた。彼も私と同じ田舎者だった。(そりゃ自分でもわかってるけれど、なんでそんなこと聞くの?)

ところが、ある時突然、洗練され教養のある人々が皆Bと信じるようになったようだった。とても静かな革命だった。目に見える議論は兆候すらなかった。ある日まで我々は皆(私が言っているのは教育を受けた洗練された人々)NBを信じていた。そして翌日は皆Bを信じるようになっていた。Bと信じている「そのへんの人々」を見下すのをやめた。自分が以前NBと信じていたことを口にすることすらなかった。昔の記憶から古い信念を消し去ったのだ。ソビエトの写真のように。話題にすることが恥ずかし過ぎる事柄になったのだ。

このような記憶抹消や信念の静かな反転には危険がある。「メモが回ってこない」人たちがいて、古いNBを信じ続けている。我々(洗練され教養のある人々)も皆かつてそうだったようにだ。付け加えれば、このことは信念一般について、我々はそれを信じることがファッショナブルであるものを信じるものなのかもしれない、ということを示唆している。(我々はこれをやっている。しょっちゅう。我々の信念、とりわけ教養的で洗練された信念の多くが実にくだらないのはこの理由からだ)。

ポール・クルーグマンは私よりはるかに優れた経済学者だ。ただ「メモ」が彼には回らなかった。古い箱に押し込んでいた記憶を再び開くときが来たのだろう。

BとNBの違いの核心を突くため、単純にした仮定を置こう。(そう、もちろんこれらの仮定は偽であり非現実的だ。しかし両者が合意している領域を除外することよって、合意していない領域に集中できるというわけだ。)

仮定:閉鎖経済、投資およびあらゆる実質資本はゼロ。税は歪みのない一括税で、徴収コストはゼロ。実質金利はプラスで実質成長はゼロ。完全雇用水準の生産があるものとする。生産する財はリンゴのみ。リンゴは保存できない。経済主体は同質、世代は重複。以上、おかしな仮定はない。

政府は借り入れによって得た100リンゴを現役世代に配るとしよう。このことは将来世代の負担を生み出すだろうか? イエスかノーか? BかNBか?

私の答えはイエス、Bだ。間違いなく将来世代の負担が作り出されている。将来世代の負担にならないとすれば、リカーディアン均衡が成り立つ場合だけだ。リカーディアン均衡では、人はそれが将来世代の負担になると認識するので、もらった支払いを全部利息ごと貯蓄し、遺産として子の世代に渡す。子も、将来世代の負担を無くしたいからという全く同じ理由で次の世代に渡していく。

洗練されていない無知無教養な人物は基本的に正しい。負債は彼の子や孫の負担だ。バロー=リカード風にそれを予想して遺産を増やすことによって帳消しにしようとした時のみ、負担は消える。

いやいや、私の議論にタイムトラベルは出てこない。今から100年かけてリンゴを育て、それをタイムマシンに乗せて今食べるようなことは必要ない。あたかもそれができるかのような。

私の議論は明快だ。世代重複モデルについて考えれば明らかだ。そして世代重複モデルなど一度も考えたことのないような、洗練されておらず無教養な田舎者にとっても同じくらい明らかなことだ。

政府が世代A全員から100個のリンゴを借り、全員に100個分の支払いをする。これはちょうど、政府が単純にリンゴ100個の借用証書を渡すのと同じだ。借用証書は国債だ。

ここまででAのリンゴ消費に変化はない。

世代Aは若いB世代のメンバーに債権を売る。ここで世代Aはプラス110個のリンゴを得て(金利は一世代10%とする)、これを食べる。世代Aが死ぬ。

世代Aの収支はプラス。世代Aは全員110個多くのリンゴを食べる。現在価値で見ると110個のリンゴは支払いを受けたときのリンゴ100個分の価値に等しい。

世代Bは若いうちはリンゴを110個少なくしか食べられないが、晩年に121多く食べる。そしてC世代のメンバーに債権を売る。世代Bは生涯で11多くのリンゴを食べるが、現在価値で見ればプラスマイナスゼロだ。金利は「若いころのリンゴは少なくなるけれども、晩年に取り戻せるよ」と説得できる水準である必要がある。そうでなければ彼らは世代Aから債権を買わない。と言うわけで、Bはプラスマイナスゼロ。

しかし(仮定から)負債はGDPよりも増えるのが早い。政府はこれが維持不可能と知る。結局は次の世代が前の世代から債権を買えなくなるので、永遠にロールオーバーすることができない。そこで政府は負債を償還するために、若き世代Cの人々に一人121リンゴの税を課し、これを原資に世代Cから債権を買い戻す。

世代Cのリンゴは121少ない、ということになる。

世代Aはリンゴを多く食べ、世代Cは少ない。これはちょうど、世代Cの口から世代Aの口へリンゴが時間移動するのと同じだ。(タイムマシンを通ることで利子が差し引かれる)

そう、政府負債は将来世代の負担なのだ。

場合によっては将来世代の負担を帳消しにできるだろうか。イエス。

リカーディアン均衡が意味するところでは、個人が次の世代の子供たちに債権を「売る」のではなく「贈与」することにすれば負担を帳消しにすることになる(訳注:従って余分のリンゴを食べない)。よって、リカーディアン均衡を信じる限りにおいて、国の借金は負担でないと議論してもよい。しかしそれは、各個人がそれを負担と見なし、それを帳消しする行動をとるがゆえに負担ではなくなるという話なのだ。ここでも無知無教養な人は正しい。

あるいは、この負債を子供の教育投資の原資に充てても負担を帳消しにすることができる。またあるいは、常に金利が成長率よりも低いとの仮定を加えれば「ノン・ポンジー」条件にならないので、将来世代に増税しなくても負債を永遠に利息付きでロールオーバーすることができ、よって世代Aが多くのリンゴを食べても、続く世代のリンゴが少なくなることはない(上の世代Cが現れず、Bの状況が続く)。

同様に、上の単純な仮定群はすべて、緩めても基本的な結論がほぼ同じになると示すことができるのだが、それは別の機会に。

ニック・ロウ 「『緊縮』という言葉について」(2013年6月14日)

●Nick Rowe, “Words and wartime austerity”(Worthwhile Canadian Initiative, June 14, 2013)


「言葉」というのは大事だ。財政政策の実態を含みがあって誤解を招きやすい「言葉」を使って表現しようものなら財政政策をめぐって知的な議論などできやしないだろう。

公共投資プロジェクトを中止する。あるいはその実施を予定よりも遅らせる。その決定は賢い場合もあれば愚かな場合もあるだろう。しかしながら、公共投資プロジェクトの中止(あるいは延期)は「緊縮(節制)」(”austerity”)なんかではない。

公共投資プロジェクトを決行する。あるいはその実施を予定よりも早める。その決定は賢い場合もあれば愚かな場合もあるだろう。しかしながら、公共投資プロジェクトの決行(あるいは繰り上げ)は「乱費(放蕩)」(”profligacy”)なんかではない。

「本物」の経済学者であれば財政政策を論じる時に「引き締め」(”tightening”)だとか「拡張」(”loosening”)だとかという言葉を口にすることはあっても、「緊縮(節制)」だとか「「乱費(放蕩)」だとかという言葉を口にすることはない。少なくとも「本物」の経済学者同士で語り合う時はそうだし、そう心掛けるべきなのだ。「本物」の経済学者であれば「財政刺激」(”fiscal stimulus”)というこれまた含みがあって論点先取な言葉も口にすることはない(し、口にすべきではない)。

「緊縮(節制)」にしても「乱費(放蕩)」にしても家計の消費行動を記述する言葉としては申し分のない言葉だが、政府の消費・投資行動や課税行動を記述する言葉としては不向きな言葉だ。それというのも国家財政と家政(家計のやりくり)とは別物だからだ。

経済学者であれば両者(国家財政と家政)の違いはよくわかっているはずだ。そうであれば両者の違いをぼかしてしまうような言葉は使うべきではないのだ。

しかしながら、重要な例外が一つだけある。経済学者が政府の行動を「緊縮」という言葉を使って表現しても構わない例外であり、原則がどのようなものであるかを浮かび上がらせることになる例外だ。

「第二次世界大戦中にイギリス政府は『緊縮』策に打って出た」。そう表現するのはまったくもって正しい。第二次世界大戦中にイギリス政府が手掛けた「緊縮」策の目的はぎりぎりのところまで家計の消費を抑える(切り詰めさせる)ことにあった。家計の消費を抑えてできるだけ多くの資源を戦争用にまわそうとしたのである。さて、その当時の財政収支はどうなっていたかというと、巨額の財政赤字が計上されていた。つまり、その当時のイギリス政府の財政政策は極めて「拡張的」だったのである。この例が示しているように、「緊縮」は「財政引き締め」を意味しはしないのだ。

(第二次世界大戦中にイギリス政府は様々な手段を組み合わせて「緊縮」策に乗り出した。消費財の配給制度の導入、国民に貯蓄を奨励して軍事公債を購入するよう勧誘、生産活動の直接的な統制(それまで消費財の生産を手掛けていた企業に兵器の製造に鞍替えするよう指示)等々である)。

ニック・ロウ 「『穏やかさ』の(経済的な)恩恵」(2009年1月14日)

●Nick Rowe, “The (economic) benefits of civility”(Worthwhile Canadian Initiative, January 14, 2009)


論争(例えば、経済問題がテーマの論争)で「穏やかさ」を保つことには3つの恩恵があるように思われる。

1. 人が自分の考え(意見)を変えるというのは難しいことだ。「この世は『アヒル』なり」という考えに慣れ親しんでいる人が「この世は『ウサギ』なり」という別の考えに立場を変えるのは容易ではない。自分の間違いを認める――「この世は『ウサギ』なり」という考えこそが真相を捉えた見方だということを認める――ことはそれに輪をかけて難しい(その理由としては間違いを認めることに心理的な抵抗を感じるというのもあるだろうし、一つでも間違いを認めると「こいつは間違いばかりやらかす人間だ」と思われてしまうのではないかと恐れてというのもあるだろう)。しかしながら、論争の相手の語り口が穏やかで礼をわきまえていると自説を撤回することへの抵抗感もずっと少なくなる。「そのデータは知りませんでした。なるほど、そういう理屈も成り立ちますね。何だか世界が『ウサギ』のように見えてきました」 。お互いに穏やかな語り口で意見を交わし合っていれば(比較的)容易にそのように認めてしまえるのだ。その一方で、「この不誠実な輩め!」「このステマ野郎が!(お前が○○のことを擁護しているのは○○に金で雇われているからだろう)」「正気か?」なんて口汚く罵られたらどうだろうか? 罵られた側の人間が考えを変える可能性はかなり小さい。考えを変えると相手の言葉を認めた1と見なされるおそれがあるからだ。「いや、こちらこそが正しい。この世は『アヒル』なんだ」とますます頑なになってしまう。そうなる可能性は大いにある。論争に参加している人間が自分の考えを変えることに抵抗を感じていればいるほど(論争の対象となっている)問題の正しい理解に到達するのはますます難しくなるだろう。

2. 腕力で論争に決着をつけるという手段もある(20世紀の歴史を振り返ると腕力(武力)で経済論争に決着がつけられたという例がたくさん見つかる)。しかしながら、そのような「決闘裁判」方式で経済論争に決着をつけるというのは好ましいやり方とは言えないだろう。「(主張の)正しさ」と「腕っぷしの強さ(武器の扱いのうまさ)」との間には大して相関は無いだろうからだ。そこからの類推でいくと、「(主張の)正しさ」と「口の悪さ(言葉の暴力の扱いのうまさ)」との間にも同じく大して相関は無さそうだ(これは「腕っぷしの強さ」と「口の悪さ」との間の類推に頼った推論であっていわゆる「くさび論(すべり坂論法)」とは別物だ。言葉の暴力はゆくゆくは腕力勝負に行き着くことになり、「(主張の)正しさ」と「腕っぷしの強さ(武器の扱いのうまさ)」との間には相関が無いから云々と言いたいわけではない。しかしながら、手が出る事態を遠ざけておけるというのは「穏やかさ」に備わるもう一つの恩恵とは言えるだろう)。個人攻撃(人格攻撃)に秀でているのはどちらか(あるいは個人攻撃に対する耐性があるのはどちらか)によって論争の勝敗が決められるようでは(論争の対象となっている)問題の正しい理解に到達できる可能性は低いだろう。

3. 経済問題の正しい理解に至ることは社会全体の厚生を高めたり人間の権利(尊厳)を擁護する上でも大事な条件だ(少なくとも経済学者はそう思いたがっている)。〔「穏やかさ」は「正しい」側が論争に勝つ(論争を通じて経済問題の正しい理解が得られる)可能性を高め(「穏やかさ」の第一の恩恵を参照)、そのことを通じて間接的に社会全体の厚生を高めたり人間の権利(尊厳)を擁護する後ろ盾となる。それだけではない。〕不躾に振る舞うことそれ自体が論争相手の厚生を悪化させ、その相手の尊厳を傷つけることになるのだ。

ざっとこんな感じだ。

「正しい」側が論争で勝利するのがいつにも増して大事な時というのがある。今がまさにその時だ。ということは、今現在は(論争における)「穏やかさ」の重要性がいつにも増して高まっている時でもあるということになる。一体誰が「正しい」のかは前もっては(論争がいざ始まってみないことには)わからないのだから(多くの人が「私こそが正しい」と思って論争に挑むが、議論を交わしていくうちに実は間違っていたことが判明、ということになるのだ)。

ネット上での論争の中から具体的なエピソードを一つだけ取り上げておこう(予想だにしない例であること請け合いだ)。経済学ブログをチェックするのが日課になっているのだが、それと同じくらい頻繁にチェックしているところがある。自動車愛好家が集うネット掲示板だ(誰しも独自の趣味を持っている。車のオルタネーター(発電機)の交換に戸惑っているオーストラリア人にネットで助言するというのは気持ちがよくてストレス解消になったりもするのだ)。その掲示板にどんな人種が集っているかはおそらく予想がつくことだろう。大体は若者でそれに男性だ。経済学ブログに日々出没する人種に比べれば平均すると学歴も低い。いかにも喧嘩っ早そうな人種だ。議論の対象になっている話題(車の故障を直すことだったり、できるだけ速い速度で車を飛ばすことだったり、アマチュア整備工としての腕のよさを競い合うことだったり)は彼らにとっては経済学ブログで論じられるような話題と同じくらい大事なものだ。時に喧嘩がおっぱじまりはするものの(「トルク」派 vs.「馬力」派、「VTEC(エンジン)」派 vs.「V8(エンジン)」派、走り屋の是非、この車って「ライス」に見える?、車を「ライス」を呼ぶのはいかがなものか 等々)、全体としてはそのネット掲示板も経済学ブログと同じくらいには「穏やか」な雰囲気に包まれているのだ。

私に無礼な言葉を浴びせられたことのある人がいたらこの場を借りて謝っておく。申し訳ない。

そしてもう一つ。説教臭いことをくどくどと語ってすまない。

  1. 訳注;相手の言葉を認めた=「私は不誠実でステマ野郎で精神に異常をきたしている人間です」と認めた、という意味。 []

ニック・ロウ 「土地と『流動性の罠』 ~パラレルワールドにおける金融政策~」

●Nick Rowe, “Land and the liquidity trap”(Worthwhile Canadian Initiative, January 13, 2014)


私が前回書いたエントリーに反応するかたちでビル・ウールジー(Bill Woolsey)が大変優れた思考実験を行っている。私も彼に倣って少しばかり思考実験に手を出してみようと思うが、私の話では「社債」(“corporate bonds”)ではなく「土地」(“land”)が主役を演じることになる。

我々が現在住んでいるこの世界と寸分違わぬパラレルワールドに足を踏み入れたものと想像してもらいたい。「寸分違わぬ」というのはちょっと言い過ぎで一つだけ大きな違いがある。歴史的な経緯もあって1中央銀行は国債ではなく土地の売り買いを通じて金融政策を運営しているのだ。このパラレルワールドにおける中央銀行は消費者物価指数(CPI)で測って2%のインフレ率の達成を目標として課せられており、その目標を達成するために土地を売り買い(土地オペ)するとともに、地価(土地の価格)に誘導目標を設定して1年に数回その見直しを行う。インフレが目標である2%を下回りそうだとの懸念が生じた場合には中央銀行は土地の買い入れを進めるとともに地価の誘導目標の引き上げを図る。一方で、インフレが目標である2%を上回りそうな場合には中央銀行は保有する土地の売却を進めるとともに地価の誘導目標の引き下げに動く。このパラレルワールドには優秀な経済学者たちが住んでおり、彼らが構築しているマクロ経済モデルの中身を覗いてみると、中央銀行は地価の操作を通じて金融政策を運営するものと想定されている。何でそんな変な想定を? 現実の世界(とは言ってもパラレルワールドのことだが)で中央銀行がやっていることをそのままモデル化しているまでだ。 [Read more…]

  1. 原注;その経緯(中央銀行が国債ではなく土地を売買の対象とするに至った経緯)についてもあれこれと頭を巡らせてみたのだが、どうもうまく話がまとまらなかった。そこではジョン・ロー(John Law)が一枚噛んでくるはずだったのだが。 []

ニック・ロウ 「『実存主義』と『貨幣言語の非中立性』」

●Nick Rowe, “Existentialism and the non-neutrality of money language”(Worthwhile Canadian Initiative, November 05, 2011)


あらかじめ断わっておくと、今回のエントリーはちょっと変化球気味の内容となっている。私の願いも虚しく、説得力に欠けて不明瞭な部分もあるかと思う。だが時には頭の中のモヤモヤを口に出してみる必要があり、そうすることでモヤモヤがはっきりとした輪郭をとりはじめることがあるのだ。というわけで、(念押しする必要はもう無いような気もするが)危険を覚悟の上でお読み願いたい。

さて、ここでカナダ銀行(カナダの中央銀行)の総裁が実存主義者(existentialist)だと想定してもらいたい――大丈夫。あくまで想定するだけだ――。そして誰もがそのことを熟知しているとしよう。

実存主義者たるこの総裁は自由な人間だ。毎朝目が覚めるたびに心機一転してまったく新しい一日が始まる。昨日何をしたかは一切気にならない。総裁にとって過去は永久に過去のもの(bygones are forever bygones)なのだ。さて総裁は本日の政策金利をどの水準に設定するだろうか? どうやら11%に設定すると決めたようだ。ちなみに昨日の段階では政策金利は1%だった。・・・で、それが何だというのだ? 昨日のことじゃないか。 [Read more…]

ニック・ロウ 「『過去は過去』・・・とは限らない」

●Nick Rowe, “Bygones are not bygones”(Worthwhile Canadian Initiative, November 11, 2010)


スティーブ・ワルドマン(Steve Randy Waldman)が毎度の如く深遠で独創的な洞察に溢れたエントリーを書いている(その続編はこちら)。読者の思考を刺激せずにはおかないが、以下では(彼のエントリーに触発されて)私自身の内から湧き起こってきた考えを書き下してみることにしよう。

ワルドマンは「テクノクラート」vs「モラリスト」という対立図式を立てて議論を展開しているが、私はそのことを争点にするつもりはない。ここで取り上げたい争点は「帰結主義的なモラル」vs「非帰結主義的なモラル」という問題だ。あらかじめ結論めいたことを書いておくとこういうことになる。「経済学」においては過去は永久に過去である。しかし、経済学者が研究の対象とする「経済」においては過去は必ずしも過去ではないのだ。

ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ(William Stanley Jevons)と言えば1870年代に経済学の世界に「限界革命」を引き起こした立役者の一人だが、彼は次のように語っている。

「(財の生産のために)いったん投下された労働は財の将来の価値に対して何の影響も持たないというのが事実なのである。それ(財の生産のために投下された労働)は最早通り過ぎた過去のことであり、永久に失われてしまったのだ。商業においては過去は永久に過去なのである(In commerce bygones are forever bygones)。我々は事物の価値を判断するにあたってその事物が将来的にもたらすであろう効用に思いを馳せながら前へと向かって絶えず歩みを進めていくのである。」

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