経済学101は主に皆様の寄付によって賄われています。温かい支援をお待ちしています

ピーター・シンガー「私たちが肉を食べるのを止めない限り、動物たちへの虐待は終わらない」(2015年2月11日)

・Peter Singer, “The abuse of animals won’t stop until we stop eating meat“, Guardian, 11 February, 2015.

 

1975年に『動物の解放』を出版した時には、40年後には屠殺場が存在しなくなっており、したがってイングランドの北部にある食肉処理場で行われたような残虐行為についての記事が新聞に載ることもなくなっていること私は望んでいた。人間による動物の虐待に反対する議論はあまりにも明白で反論の余地もないものであるように私には思えたし、反奴隷制運動がアフリカの奴隷貿易を終わらせたのと同じように動物虐待も歴史の遺物としてしまうような強力な運動が確かに起こることだろう、と思っていたのだ。

少なくとも、それが楽観的な時に(あるいはナイーブな時に)私が考えていたことだ。より悲観的な時には(あるいは現実的な時には)、肉を食べることなどの人々に深く根付いている習慣を変えること、また哲学的な見解を種差別主義(speciesism)のように根元的なレベルから変えることなどの課題がどれ程巨大なものであるかということは私も理解していた。奴隷貿易が廃止されたから200年経っても我々の世界にはまだ人種差別が存在しているのであり、奴隷制ですらも、全ての国で違法になっているとはいえまだ存在している。人種差別や人間を対象にした奴隷制を終わらせるよりも簡単にまたは迅速に種差別や動物を対象にした奴隷制を終わらせることはできる、ということが期待できる筈がないではないか?

上記の現実的な予測の背景には、動物たちに対する虐待は現在でも甚大な規模で行われているという事実が存在しているのであり、それに直面して嘆くことはできるだろう。しかし、絶望をしてはならない。ヨーロッパとアメリカを含む世界中の多くの国では、動物に対する人々の態度の変化は素晴らしく進んできた。それらの国では強力な動物愛護運動が登場したし、そのことは数十億もの動物たちの境遇に変化をもたらしてきたのである。

1971年のオックスフォード大学にて、自分たちが食べている卵や仔牛がどのように生み出されているかということを通行人に示すための展示を私は他の複数の学生と共に行っていた。畜産業界が持っている政治的力や経済的力に対して自分たちが勝つことができると本気で思っているのか、と人々は私たちに訊ねたものだ。しかし、動物愛護運動は畜産業界に対して挑戦してきたのであり、その挑戦は成功して、農場の動物たちがより広い空間で飼われてより良い生活状況で育てられることを命じる法改正ヨーロッパ全国で実現してきた。同様の法改正はカリフォルニア州でも行われている。無論、これらの変革が行われた後であっても、工場畜産の下で育てられる動物たちがまともな生活を過ごせるようになることを実現することからは現在はまだまだ程遠い。しかし、法改正が実効されたことは、それ以前に標準的であった習慣に対する大幅な改良をもたらしたのだ。

法改正以上に喜ばしいかもしれないのが、動物を食べることを完全に止めてしまった人々や倫理的な理由に基づいて肉の消費量を減らした人々の数が増えたことである。1970年代には、ベジタリアンであることは変人[crank]であることだった…当時のロンドンで最高の ベジタリアンレストランであった Cranks の店名は、当時の価値観を自虐的に反映したものである。もしあなたが”ビーガン”という言葉を口に出したら相手はポカンとしただろうし、あなたはその言葉の意味を説明しなければならなかっただろう。

法改正やベジタリアンの増加にも関わらず、人間の手によって苦痛を負わされている動物の数は現在が過去最大である、ということはおそらく事実である。現在の世界では豊かな生活を過ごしている人の数が過去最大であるということがその理由であり、特に中国でそうであるように、豊かになった人々の要求を満たすということは工場畜産が大規模に拡大されるということを意味しているのだ。しかし、この事実を動物愛護運動が何も成果を成し遂げてこなかったことの証拠として見ることは、現在の世界における奴隷の数は1800年よりも増えているのだから反奴隷制運動は何の成果も成し遂げてこなかった、と主張するようなものである。現在の世界人口は1800年の7倍になっていることをふまえると、数字だけで物事の全体を語ることはできないのだ。

進歩は確実なものではない。自分たちが無益に立ち往生しているように思える時は常に存在するだろうし、運動が後退しているように思える時すらも存在しているだろう。たとえば、毛皮を着用する人の数が昔のように増えていることを伝える記事は定期的に掲載される。しかし、40年前には毛皮は誰からも問題にされずに受け入れられていたものだったが、40年前と同じような扱いをまた毛皮が受けることは最早ないだろう、と私は思う。(犬や猫、あるいは馬に対する虐待についてだけでなく)食料にされるために屠殺される動物たちに対して行われている虐待について新聞が大々的に取り上げるようになったという事実それ自体が、進歩を表しているのである。

さて、動物愛護団体の Animal Aid が公開したハラール用食肉処理場の内部告発ビデオからは一つのシンプルな教訓を得ることができる。動物を人間が利用する道具にしてしまって、彼らをどう扱うかということを現場の労働者たちに全て委ねてしまったとすれば、ビデオの中で告発されているような虐待が発生するのを止めることは永遠に不可能である、という教訓だ。労働者を一人か二人クビにしたとしても、スケープゴートを作ることにしかならない(ところで、スケープゴートという単語が動物に対する私たちの伝統的な態度をいかに伝えてくれるか、考えてみてもいいだろう)。問題は一人か二人の労働者にあるのではないし、ハラール式の屠殺という習慣にあるのでもない。システムが問題なのであり、そして人々が肉を買うのを止めない限りはこのシステムを変えることはできないのだ。

ピーター・シンガー「オペラの素晴らしさか、生命を救うことか?選択するのは貴方だ」(2015年9月8日)

・Peter Singer, “Excellence in opera or saving a life? Your choice.“, Washington Post, September 8, 2015.

 

慈善団体に寄付をするアメリカ人は多いが、寄付をしようと思っているチャリティ団体について少しでも調査を行う人は少ない。寄付の大半は心理学者が「温情的寄付”warm glow” giving」と呼ぶものだ。…ある人が10ドルだか20ドルだかを慈善団体に快く寄付するとき、その理由は、慈善団体の目的を助けたいと真剣に思っているからというよりも寄付が自分の気持ちをよくするから、ということである可能性のほうが高い。

社会的な期待に応えるということも、寄付という行為の別の部分の動機となっている。私たちは慈善団体や教会やモスクやシナゴーグが私たちに対して期待していることに応じようとするし、大学の友人から彼女がどれだけ母校に寄付しているかということを伝えれられた時にも反応する。愛する誰かかが乳ガンで亡くなってしまったとすれば、ピンクリボンを買った時に大半の人は熱心に賛成してうなずいてくれる筈だ。乳ガンの研究について既にどれほどの資金が投入されているか、私たちの寄付が与える価値がより高くなるような別の寄付対象があるかどうか、それらを訊ねる人は少ないだろう。

今日では、効果的な利他主義者たちがこれらの難しい問題を訊ねている。私たちが支払う金で最大の善を行うことができる慈善団体に私たちは寄付するべきだ、と彼らは主張する。だが、その考えに尻込みする人もいる。それぞれ異なる目的を持った慈善団体が数多く存在するというのに、最善を行える慈善団体を指定することなんてできるのだろうか?発展途上国で数百万人の子供を病ませて殺しているマラリアなどの病気を予防するという目的と、動物たちの苦痛を減らすという目的と、地域のホームレスを助けるという目的と、新しいオペラハウスを建てるという目的と…慈善団体の目的はこれ程までに多様なのに、違った団体に寄付した時に生じる異なった結果を比較すること自体、本当に可能なのだろうか?

私たちがそれぞれに抱いている根本的な価値観について議論することは不可能である、と多くの人が考えている。今日の言葉で言えば、価値観は “情熱”に依存しているのだ。だが、情熱は導き手としては頼りない。反ワクチン運動家だって、人権団体で働いている人々と同じくらい情熱的であるかもしれないのだ。

しかし、特定の地域や部族的な利益を超えて普遍的な視点を採用するという考えの中には、倫理の合理的な根拠が存在している。ある人の人生には他人のそれに比べて幸福や悲惨を経験する可能性が多く含まれているという証拠が存在しない限りは、私たちは全ての人々が…そして、全ての感覚ある存在が…苦痛を避けられてできるだけ多くの幸福や充足感が得られるように、平等に配慮するべきなのだ。

この基礎的な原則からは、私たちは発展途上国にて極限的貧困の状態にある人たちのために活動する慈善団体へと寄付を集中させるべきだ、ということが導かれる。なぜなら、どんな金額であっても、最も助けを必要としている人々を助けることでより多くの善が行えるからだ。例えば、私たちが救えることのできる発展途上国の乳幼児の生命の数は、アメリカや他の先進国で救えることのできる乳幼児の生命の数よりも多い。安価な金額で予防したり治療したりすることができる病気のためにアメリカの乳幼児が死ぬということは珍しいが、同じ病気で発展途上国の乳幼児たちは未だに死に続けているからだ。

同様に、若年死を防ぐことではなく苦痛を防ぐことを目的にするとしても、アメリカにいるホームレスを助けることは、発展途上国の人々の苦痛を防ぐこと…例えば、米国の基準からすれば非常に安価な手術ができないために産科瘻を患っており、体を清潔にすることが不可能なために出産以後は一生に渡って社会から除け者にされる若い女性の産科瘻を治して彼女を助けること…に比べてコストが高い場合が多い。

動物の苦痛も重要な問題だということについては私たちの大半が同意するが、動物が感じている苦痛と人間が感じている苦痛を比較することはずっと難しい。他の豚たちと一緒に畜産工場の中に押し込まれた豚が感じる苦痛と、予防可能な様々な種類の人間の苦痛とをどうやって比較することができるのだろうか?私には答えがわからないが、しかし、動物の苦痛を減らすことは人間の苦痛を減らすことよりもずっと安価に行えるとすれば、動物の苦痛を減らすことは選択肢として正当なものであるように思え始める。特に、肉の消費量を減らすことは温室効果ガスを減らすことやその他の環境や健康に関するベネフィットももたらすのだから。

しかし、どうして苦痛を減らすことが他の物事…例えば、オペラ作品の素晴らしさ…を上回ると言えるのだ、とあなたは訊ねるかもしれない。

自分の家族の健康が危険に晒されている時にオペラ作品の素晴らしさが自分にとってどれだけ重要であるか、自問自答してみるといい。大して考える必要もないだろう。一部の物事は、より差し迫った必要性が満たされていない限りは優先順位を考慮することもできないようなものなのだ。だが、普遍的な視点からは、私たちにとっての差し迫った必要性が持つ重要度は他の人々にとっての差し迫った必要性が持つ重要度と同じである。自分が愛する人々の健康のためにはオペラによって得られる最高レベルの素晴らしさを犠牲にしてもよいと思っているが、遠く離れた人々の健康のためにはオペラの素晴らしさを犠牲にしないとすれば、私たちは行えるはずの最善を行っていないということになるのだ。

ピーター・シンガー「便利な真実」(”アシュリー治療”についての記事)(2007年1月26日)

・Peter Singer, “A Convenient Truth“, New York Times, January 26, 2007.

 

ある若い女の子の身長と体重を通常以下に抑え続けるためにホルモン治療をして、彼女の子宮や乳房が発達しないようにそれらを切除するということは倫理的であり得るだろうか?この治療はアシュリーという名前でのみ知られる重度の知的障害を持った女の子に対して行われたが、アシュリーの両親や治療を行った医者や治療を承認したシアトル小児病院の倫理委員会に対する批判を招き寄せることになった。

アシュリーは九歳( *記事の発表当時)であるが、彼女の精神年齢は生後3ヶ月のそれを超えたことがない。彼女は歩くこともできず、話すこともできず、おもちゃを掴むこともできなければベッドの中の自分の位置を変えることもできない。アシュリーの両親は、彼女が自分たちのことを認識できているかどうかにも自信がない。アシュリーは通常の寿命を過ごすことができるだろうと予測されているが、彼女の精神的な状態が発達することはないのだ。

アシュリーの両親は、彼女に治療を施したのは自分たちの都合のためではなく彼女の人生の質を上げるためだとブログで説明している。アシュリーが小さく軽いままであれば、両親が彼女を頻繁に動かすことや他の二人の子供と一緒に自分たちが行くところにアシュリーを連れていくことは可能であり続ける。子宮摘出は彼女が月経で生理痛を感じることを免れさせる。(彼女の家系では大きくなる傾向にある)乳房の成長を止めるための手術は、アシュリーがベッドで横になっている時にも胸の周りに紐をかけられて車椅子に結ばれている時にも、彼女をより快適にするのだ。

アシュリー自身の人生を改善することと、アシュリーを扱うことが両親にとって簡単になるようにすることとの境目はほとんど存在しないとしても、前述した両親の主張は妥当である。自分たち家族の生活にアシュリーが加わることを可能にすることを彼女の両親が行うことは、アシュリー自身にとっても利益となるからだ。

アシュリー治療に対する反論は、生命倫理学に携わっている人にとっては見慣れた三つの形をとっている。まず、一部の人はアシュリー治療は「不自然だ」と言う。…これは、大概の場合には「うげっ!」と嫌悪感を示すこと以上の意味を持たない苦情だ。私たちが自然のままでいる場合よりも寿命を延ばしたり健康を良くしたりする他のどんな医療処置も、不自然であると言って否定することは可能である。人類の歴史の大半において、アシュリーのような子供は捨てられてオオカミやジャッカルの犠牲になってきた。重度の障害を持つ赤ん坊にとって捨てられることは「自然」な運命かもしれないが、自然だからといってそれが善いという理由にはならないのだ。

第二に、アシュリー治療を認めることは、両親の都合のために子供に対して医学的な改造を行うことが広範に行われる世界へと続く滑りやすい坂道の一歩目を踏み出してしまうことである、と一部の人々は見なしている。しかし、アシュリー治療を認めた倫理委員会は、その医療処置はアシュリー自身にとっての最善の利益であると確信していたのだ。倫理委員会に示されてきた証拠を見聞していない人が委員会の結論を批判しようとしても、その主張の根拠は弱くなるだろう。

いずれにせよ、「最善の利益」という原則は医療処置の審査基準として正しいものである。その治療が子供たちの利益になるとすれば、アシュリーと同程度に重度の障害を持った子供たちの親たちが同様の治療へのアクセスを持つべきではない理由は存在しない。滑りやすい坂道が存在するとしても、少数の重度な障害を持った子供たちの成長を弱まらせることではなく、それよりもずっと広範に行われている、注意欠陥多動性障害と診断されて「問題がある」とされた子供たちに対する薬物の使用の方が遥かに重大なリスクをもたらしているのだ。

最後に、尊厳を持ってアシュリーを扱う、という論点が存在する。ロサンゼルスタイムス誌によるアシュリー治療の報道は、以下の一文から始まっている。「これはアシュリーの尊厳に関わる問題だ。この事例を調べている人の全てが、少なくともこの一点については同意しているようである」。より健康で発達の状況により適した身体を持っている方が彼女はより多くの尊厳を持つはずだ、とアシュリーの両親はブログに書いているが、批判者たちはアシュリー治療は彼女の尊厳を侵害していると考えている。

しかし、私たちはこの議論の前提を否定するべきである。父であり祖父である身として、三ヶ月の赤ん坊は可愛らしいと私は思う。だが、その赤ん坊に尊厳があるとは思わない。そして、その赤ん坊が大きくなって年を取ったとしても、精神の状態が同じレベルのままであるとすれば、赤ん坊の尊厳には何も変化がもたらされないのだ。

ここから、問題は哲学的に興味深くなる。人間に対しては…その精神年齢が幼児以上になることがない人も含めて…私たちはいつでも尊厳を見つけようとする。しかし、私たちはその尊厳を犬や猫には見つけようとしない。犬や猫は人間の幼児よりも発達した精神レベルを明らかに持っているのにも関わらずだ。犬猫と人間を比較するというだけでも、一部の場所では激怒を引き起こすことになる。 しかし、なぜ、尊厳があるかどうかは常に特定の生物種の一員であるかどうかということにだけ関わらなければならないのであり、個々の存在が持つ特徴には関わるべきではないのだろうか?

アシュリーの人生について重要なことは、彼女が苦しむべきでないということであり、彼女の能力で感じることが可能な楽しい経験は感じることができるようにされるべきであるということだ。また、アシュリーが大切で尊い理由は、彼女がどのような人間であるかということにはあまり関わりがなく、彼女の両親やきょうだいが彼女を愛してケアしていることにある。人間の尊厳についての高尚で高慢な語りは、アシュリーと同様の子供たちが彼らとその両親の両方にとって最大の利益となる治療を受けることを妨げるべきではないのだ。

 

ピーター・シンガー「倫理学と進化:『輪の拡大』出版から30年」(2011年5月18日)

⚫︎ Peter Singer, “Ethics and evolution: The Expanding Circle, thirty years on“, (ABC.net, religion & ethics, May 18, 2011)

 

「社会生物学」という単語はE・O・ウィルソンが1975年の著書『社会生物学:新たな統合』で造語したものだが、幾つもの専門分野を組み合わせた彼の画期的な研究は、社会的な行動の進化についての理論を人間について当てはめたために、議論の嵐を巻き起こすことになった。

人間の本性の理解についてウィルソンは多大な貢献を行ったが、倫理学について書いた際には、この分野について興味を持った科学者が犯しがちな誤謬をウィルソンも行ってしまった。

彼自身の研究は倫理学にとってはどのような意味を持っているか、ということについてウィルソンが間違った理解を持っていたことは、30年前の私に『輪の拡大』を書かせるきっかけとなった。『輪の拡大』では、ウィルソンが行っていた誤謬を説明することと、その誤謬にも関わらずウィルソンのアプローチが倫理の起源について理解するのに役立つということを示すことを行った。そのため、『輪の拡大』は他のどんな科学者の研究よりも綿密な審査の対象となったウィルソンの研究に従って書かれたものである。

社会生物学の内で人間について関係している部分は、現在では「進化心理学」と呼ばれている。社会生物学を人間に適応することは一部の研究者からは猛烈に反対されたのだが、それに比較すると進化心理学の発展に対する反応は穏やかなものであった。

その限りでは、社会生物学から進化心理学へと名前を変えるという戦略は目覚ましい成功を遂げたと言える。進化心理学への許容が拡大したことは名前の変更に由来するのではなく、進化心理学という学問分野が行ってきた業績そのものに由来するのだ、とより皮肉っぽくなく言うこともできるだろう。

30年前には、多くの道徳哲学者たちは科学者たちが倫理学について書く内容について軽蔑していた。哲学者たちの軽蔑の原因は、『輪の拡大』の第三章にて私が「乗っ取り宣言」と名付けた事態にあったかもしれない。…自分たちが主張している科学的な突破口は哲学者たちが倫理について思考していることに関係するのみならず、哲学者たちの思考の代替物となるものである、と一部の科学者たちは主張していたのだ。

科学的な研究結果が哲学者たちが行っているような種類の思考の代替物となると考えているのは間違っているし、それは倫理学についても同じことだ。なぜそのような試みは失敗する運命にあるのか、倫理学や道徳哲学を着服しようとする試みを哲学者たちが拒否し続けることは正しいことである、人間に関する現象としての倫理の起源や本性を理解することについては科学による助けを哲学者たちも歓迎するべきではあるのだが…これらの論点を明白にすることについて、『輪の拡大』の新版が(再び!)貢献することを望んでいる。

だが、私たちの進化や文化の歴史に影響された道徳判断と合理的な根拠に基づいた道徳判断とを区別することはできるか、という問題については今のところは脇に置かせてもらおう。その代わり、道徳判断はどれ程まで合理的な根拠に基づくことができるか、という問題についてさらに追求させていただこう。

『輪の拡大』を再読していると、客観的な真実であり合理的な根拠に基づいた倫理という考えについて私自身がかなり曖昧な気持ちを持っていたことに気が付く。私は理性が道徳の進歩を導くと書いており、理性とは慣例を権威の源と見なすことを拒否するなどの否定的なタスクに限定されるものではないとも書いていた。

対照的に、理性は「ある人自身が持つ利益は多くの利益の集合の中の一つなのであり、他の人が持つ同様の利益よりも重大ではない」という原則を導く、と私は論じていた。更に、この真実は「恒久的で普遍的であり、人間や選好を持つ他の生物の存在に依存していない」(ただし選好を持つ存在がいなければこの原則が適用されることもないのだが)、とも書いていた。

しかし、ある人自身の利益は他の人々の利益よりも重大ではないことをふまえると、正しいこととは私たちの行動によって影響を受ける全ての選好について最大限に満たす行為をすることである…という考え方とは異なる考え方を支持するために「客観的な価値」や「客観的な道徳的真実」という概念を用いることは、あまりに「奇妙」であり問題に満ちている、とも私は書いていた。

そのため、上述のものとは異なる考え方…たとえば、罪の無い人間一人を殺さないことによって他にどれ程多くの罪の無い人間が死ぬとしても、罪の無い人間を殺すことは常に不正である、という考え方…は、その考え方を抱いている人の主観的な選好であると見なされるべきだ、と私は主張していた。

もちろん、異なる考え方を選好であると見なすことにより、全ての選好を最大限に満たす行為とは何であるかを決定する際にそれらの考え方も考慮の対象となる場合がある。しかし、選好の充足を最大化しようとすることを求める人々…つまり選好功利主義者が用いる用語によって考慮されることになるのだ。

現在では、私は上述した議論が成功するとは考えていない。「ある人自身が持つ利益は多くの利益の集合の中の一つである」という判断を世界における私たちの状況についての記述的な主張であると見なすことはできるが、ある人自身の利益は「他の人が持つ同様の利益よりも重大ではない」と加えることは規範的な主張を行うことであるのだ。

もし私が規範的な主張は真か偽となり得るということを否定したならば、私は上述した主張は真であると言うことができなくなる。選好の集まりの中の一つの選好としてこの主張が取り扱われることはあるかもしれないが…しかし、私たちは選好の充足を最大化するべきであると主張する根拠はもはや失われてしまっているのだ。

更に、もしある人が自分の利益は他の人々の利益よりも重大ではないということを認めたとしても、それだけでは、我々は全ての人の選考を可能な限りに最大限に満たすべきであるという結論を正当化するには足りていない。

このようなことを言う上で、私は自分の利益が他の人々の利益よりも重大だと考えている訳ではないし、道徳判断は普遍化可能でなければならないという広く認められた必要条件に違反している訳でもない。

このように、客観的な事実を否定することは、私が試みたような主張…形而上学的に問題のないデフォルトな立場としてのある種の選好功利主義を導くのではない。そうではなく、私たちは何をするべきであるかということについてそもそも何らかの意味のある結論にたどり着く可能性を疑うような懐疑主義を導いてしまうのだ。

私たちがたどり着くことのできる結論は主観的なものとなる。私たち自身の欲求や選好に基づいているために、他の欲求や選好を抱いている他人にとっては受け入れる理由が全く無いような結論だ。

1981年には、私はこのような主観主義的な見方を支持することに乗り気ではなかったし、30年という時間も私の乗り気のなさを解消しなかった。

では、代わりとなる考えはあるだろうか?ヘンリー・シジウィックは著書『倫理学の方法』にて倫理的な直感と原則の範囲について研究し、それらの中から三つの「本当の明白さと確かさのある直観的な公理」を選び出した。この三つの公理について短く示すことは、道徳的真実とはどのようなものであるかという可能性の例を私たちに示してくれるので、有益であるかもしれない。

(1)公平と平等の公理:「ある種類の行動が私にとって正しい(または不正である)が誰か別の人にとっては正しくない(または不正ではない)のなら、(訳注:その違いは)私とその人が違う人であるからという事実ではなく、二つの事例の間にある何らかの違いに基づいていなければならない」

(2)自愛の公理:我々は「我々の意識的な生活の全ての部分に対して偏らずに配慮しなければならない…将来を現在よりも少なくも多くも見積もってはならない」

(3)普遍的な善の公理:「各々の人は、自分以外の他人にとっての善を自分自身にとっての善と同等に見積もることを道徳的に義務付けられている…偏りなく見た結果ある善の方が少ないと判断された場合や、彼がその善を知ることや得ることの確実さが少ない場合に限り、例外であるが」

シジウィックは、これらの「合理的な直観」の公理は数学における公理が真であるのとほぼ同じ様に真である、と主張した。倫理学においてこの様な真実が存在し得るという考え方は当時では広く受け入れられていたものであり、G. E.ムーアやW.D.ロスなど、シジウィックの後の時代の哲学者たちにも支持され続けていた考え方である。

しかし、1930年には英語圏の言語哲学では論理実証主義が支配的となった。そして、論理実証主義者たちにとっては、真実とはトートロジー…つまり、その単語が使われている意味のために真実であるか、または経験的な真実でなければならなかった。

論理実証主義者にとっては、数学的な真とはトートロジーである。使われている用語や、それ自体は真でも偽でもない一部の公理の意味を明らかにするものであるのだ。

だが、(訳注:行動などについての)本物の指示を提供する倫理的な公理は、トートロジーでは有り得ない。とはいえ、倫理的な公理は経験的な真実でも有り得ないし(その理由については『輪の拡大』の第三章で論じている)、いずれの場合でも、もし真実が経験的なものであるなら、それを実証するための方法があるべきだと論理実証主義者たちは考えている。

ある主張がトートロジーではなく、そしてその主張を実証するための方法が原理的にすらも無いのであれば、その主張は無意味であると論理実証主義では考えられる。そして、シジウィックの公理はこのカテゴリーに収まってしまっている。

論理実証主義の時代は去ったとはいえ、道徳的真実はトートロジーでも無いが経験的なものでも無いという考えは、未だに奇妙に聞こえるものだ。しかし、最近では、デレク・パーフィトが規範的な真実を擁護した注目すべき文章を書いている。

『On What Matters』にて、私たちが知識ついての懐疑主義や倫理についての懐疑主義に陥らない限りは、私たちが信念を抱くための理由についての規範的真実が存在することや、望むための理由や行動をするための理由についての規範的真実が存在することを私たちは認めなければならない、とパーフィトは主張している。

例えば、次の主張について考えてみよう。「ある議論は正当であると私たちが知っており、その議論が正しい前提を持っているなら、その議論の結論を受け入れることについて決定的な理由が私たちにはある」。この主張はトートロジーでもないが経験的な真実でもない、とパーフィトは論じる。この主張は、私たちが信念を抱くための理由についての真の規範的な主張なのである。

『輪の拡大』の第四章にて、私は「従われること(to-be-pursuedness)や「行なわれないこと(not-to-be-doneness)」の可能性が物事の本性に埋め込まれ得ることについてのマッキーの懐疑主義を持ち出している。世界についてのある信念が、その人が持っている望みや欲求にもかかわらず、その信念を抱く人を動機づけることがなぜそもそも可能なのか、ということを理解することにマッキーの議論の難点があるとパーフィトは主張している。

このことは私にとっても問題であった。オックスファムに募金することは私の人生をはっきり悪くするほどの影響を私には与えず、募金することによって10人の子供の生命を救うことができて彼らの家族が感じている苦しみを大きく軽減することもできる、という信念を私は抱いているかもしれない。だが、この信念は、募金を行うように私を動機付けないかもしれない。なぜなら、私は他人の子供なんて気にもかけないかもしれないからだ。

だが、パーフィットによると、ある信念が私たちに特定の行動をするための理由を与えるかどうかは規範的な問題であり、その信念が私たちを行動するように動機付けるかどうかは心理的な問題である。

この例については、オックスファムが援助している人々について私が気にかけないとすれば私にはオックスファムに寄付する理由は何もない、と多くの人々が反論するかもしれない。だから、私がその行動を行うための理由はあるがその行動を行う欲求を私は持っていない、ということを否定するのが更に困難な事例を示そう。

私はいま歯痛の初期徴候を感じたところであるが、私はこれから歯医者のない離島に行って一ヶ月ほどそこで過ごす予定である。過去の経験に基くと、もし私が今日歯医者に行かないとするならば私は次の一ヶ月間は激しい歯痛に苛まれ続けられる可能性が非常に高いのであり、島の自然美を眺めながらリラックスして過ごすという貴重な機会によって得られる楽しみが妨げられることになるだろう、という信念を私は抱いている。私が今日歯医者に行けば、私は穏やかな不快感を一時間以下味わうことになる。私が今日歯医者に行かないとすれば私は次の一ヶ月間激しい苦痛に苛まれ続けるであろう、という私の知識は、今日歯医者に行くための理由を私に与える。私が歯医者に行かないことによって感じる苦痛を無視することは、非合理的であるのだ。

この例は、ある人の意識的な生活における全ての部分について偏りなく配慮しないことは非合理的である、というシジウィックによる自愛の公理にも一致している。また、この公理をより弱くした形でも…より離れた未来に対してはいくらか少なめに見積もることを認めるとしても、私が今日歯医者に行かないとすれば私は非合理的であると宣告するのに十分な根拠となるだろう。

しかし、私が現在抱いている欲求については何も言われていないことについて注意をしてほしい。もしかしたら、私は明日や来週に自分に降りかかる出来事よりも、現在や数時間後に自分に降りかかる出来事の方により影響を受けてしまう種類の人であるかもしれないのだ。

そうすると、もし現在の私が歯医者の診療所の前に立っているとして、私が最も望んていることとは今日受けるほんの僅かの苦痛でも避けることであるかもしれない。来週の私は苦痛に苛まれて島への滞在が台無しになってしまい、今日私が下した決断を後悔するであろうことを、知識としては私は理解している。だが、この瞬間には、来週に関する事実は私の欲求に何の影響も与えないのだ。しかし、来週私が苦痛に苛まれることはそのことを予防するための手段を行うように私を動機付けないという事実は、私には予防するための手段を行う理由があるという主張を無効にしないのだ。

その理由が存在することを十分に理解している人であっても必ずしもその行動を行うように動機付けられるとは限らないということを認めなければ、ある行為を行うための客観的な理由が存在するという主張への理解が得られないとすれば、私たちは多大な犠牲を払う勝利しか得られないのであろうか?

私たちには、あなたにはオックスファムに募金する客観的な理由があると言うことができるかもしれないが、もし私たちが募金するようにあなたを動機付けることができないとすれば、貧しい人たちの状況は全く改善されないことになる。しかしながら、客観的な規範的真実という概念を私たちが認めることができるなら、私たちには日々の道徳的直感とは違ったものに頼ることができるようになるのだ。現時点での最良の科学的理解によると、私たちの道徳的直感とは感情に基づいたものであり、進化における歴史の特定の時代において適応的であった反応であると証明されている。

客観的な道徳的真実が存在することは、私たちの直感的な反応と客観的な道徳的真実を区別することが出来るかもしれない、という望みを抱くことを認めてくれる。…客観的な道徳的真実とは、全ての合理的で感覚のある存在が持つであろう行動をするための理由であり、私たちが暮らしている状況とはかなり異なる状況の中で進化してきた合理的で感覚のある存在でさえも持つであろう理由のことだ。

新しいパートーナーのおしらせ

すでに記事の配信は始まっているのでご存じの方も多いとは思いますが、この度、新たに3人のパートーナーが加わりましたのでお知らせいたします。Jonathan Haidt、Joseph Heath、Peter Singerの3人です。

引き続き経済学101への皆さまのご支援をよろしくお願いいたします!→寄付はこちら

Jonathan Haidt (Heterox Academy)

社会心理学者。ニューヨーク大学スターンビジネススクール教授。道徳の心理学を専門とする。異なる文化における道徳と感情について研究すると同時にポジティブ心理学の研究者でもある。ポジティブ心理学とは、人々のより良い意味ある生活を求める心理を前提として、社会を前進させる要因について科学的な研究を行う分野である。スターンでは経済学者を始めとする社会科学者と共同で、いかにして倫理システム設計によって様々な社会システムがより効率的かつ倫理的に機能するかという研究を行っている。

Joseph Heath (In Due Course)

トロント大学哲学教授。哲学部および公共政策学部で教鞭をとる。批判理論 (critical social theory) を軸に商道徳(あるいは商業倫理、企業倫理)や合理的選択など関心領域は多岐にわたる。

Peter Singer

プリンストン大学哲学・倫理学教授。専門は功利主義に立脚した応用倫理学。著書『動物の解放』が有名。タイム誌に「世界の最も影響力のある100人」に選ばれた。

ピーター・シンガー「健康保険はなぜ割り当てられなければならないか」(2009年7月15日)

Peter Singer, “Why We Must Ration Health Care“, New York Ttimes, July 15 2009

 

あなたは進行腎ガンを患っている。おそらく、一年後か二年後にはあなたはそのガンで死んでしまう。スーテントと呼ばれる抗がん剤はガンが転移するのを遅めさせて、おそらくあなたは六ヶ月余分に生きられるだろう。しかし、それには 54000ドルのコストがかかる。数ヶ月死ぬのが先延ばしになることは、それほどの金額に値するのだろうか? もしあなたに支払える余裕があるなら、より長く生きるためにあなたは54000ドルやそれ以上の金額を払うだろう。たとえあなたの人生の質が良いものにならないとしてもだ。だが、ガンを患っているのが自分自身ではなく、自分が支払っている健康保険基金の対象となっている他人であった場合について考えてみよう。もし保険会社がこの男性にスーテントを提供するとすれば…そして、彼と同じ状況にある人全てにも提供するとすれば…あなたの保険料は増加するだろう。これでもまだ、スーテントは割の良い薬であると思えるだろうか?治療には 100万ドルかかる場合のことを考えてみよう。その治療には価値があるか?1000万ドルなら?誰かの生命を六ヶ月引き伸ばす薬に対して保険会社が払う金額には何らかの制限があってほしい、とあなたは思うだろうか?どこかの時点で「駄目だね、六ヶ月余分生きることはそれほどの金額には見合わない」とあなたが言うのであれば、健康保険は割り当て制であるべきだとあなたは考えているのだ。

(……中略……)

自分と百万ドルでセックスしてくれないかと女性に訊ねる男性についてのジョークを覚えているだろうか?彼女は少しの間考えて、OKだと答える。「じゃあ」と彼は言う。「50ドルでも俺とセックスしてくれるかな?」。彼女は憮然として叫んだ。「あなたは私がどんな女だと思っているの?」。彼は答える。「取り引きはもう始まっているじゃないか。ただ値段交渉をしているだけだよ」。男性の返答は、どんな値段であったとしてもある女性が身体を売ったとすれば彼女は娼婦である、という意味を含んでいる。健康保険の割り当てについて私たちが考える方法も、同様の前提に立っているようだ。つまり、生命を救うことに対して金銭的な考慮をすることは非道徳的であるという前提だ…だが、そのような立場を主張し続けることはできるのだろうか?

(……中略……)

ワシントンに暮らすユダヤ教のラビ、ダニエル・ゼメルにワシントンポスト誌のジャーナリストがインタビューしたことがある。アメリカ政府が人命に金銭的価値を付ようとしていることについてどう思うか、とジャーナリストに聞かれたゼメルはユダヤ教の教えを引用して、秤の一方に人命を乗せた時にはもう一方にその人以外の世界中全ての人間を乗せて初めて秤は釣り合う、と言った。まさにこれこそが、健康保険について比較考量することに反対している人たちの考え方である。しかし、私たちは既に人命に金銭的価値を付けているのだ。例えば、もしアメリカ運輸局がゼメルの教えに従ったとすれば、運輸局は交通安全に予算を割きすぎてしまって破産するだろう。幸いなことに、運輸局は一人の人命を救うことに割く予算に上限を設けている。2008年にはその上限は580万ドルだった。他の政府機関も同様のことを行っている2008年、消費者製品安全委員会はマットレスの可燃性を下げさせることを提案した。その新たな基準を実施するには3億4300万ドルのコストがかかるとマットレスを製造している業界は示したが、委員会が計算したところ、新しい基準が実施されれば1年につき270人の人命が助かる筈であった…そして、委員会は一人の人命におよそ500万ドルの価値を付けていたので、マットレスの可燃性に関する新たな基準は割が良いものであったのだ。消費者の安全を守るための基準を少しでも設けるためには、金を払って買う価値のある安全とはどれ程のものであるか、ということについて何らかの考えが必要となる。健康保険に携わる官僚たちと同じく、消費者安全に携わる官僚たちも、一人の人命を救うことは支出に比べると割に合わない、と判断する場合がある。二十年前、米国科学アカデミーの一部局である国家研究会議は全てのスクールバスにシートベルトを導入するという計画について調査した。調査の結果、シートベルト導入の計画が実行されれば平均的には一年あたり一人の人命を4000万ドルのコストで救うことができる、との推計が出た。そして、その調査の結果が出てからはシートベルトの導入計画に対する支持は失われたのである。さて、消費者安全の場合には人命に価値を付けることを認めている人たちが、なぜ健康保険の場合には人命に価値を付けることを否定するのだろうか?

もちろん、一人の人命を救うことに支払う金額に限度を設けることを認めることと、その限度をどこに設定するかということは別の問題だ。官僚たちが人命一般に付ける金銭的価値は、私たちの行動に表れているような社会的価値を反映することが意図されている。それは「自分自身の生命を救うことに、あなたはどれだけの金額を支払う意志がありますか?」という質問への回答であるのだ。…無論、実際に死に直面している人の回答は例外である。死に直面している人は、自分の生命を救うためにはほとんど何でも支払うつもりだろう。なので、その代わりに、自分自身が死ぬリスクを減らすために人々はどれだけ支払うつもりがあるか、ということを経済学者たちが計算する。例えば、車にエアバッグを備えることに人々はどれだけ支払うだろうか?リスクを削減する特定の場合について人々が支払うつもりの金額を明らかにした後は、人々が支払うつもりの金額と削減されたリスクの量とを掛け合わせれば、理論上、人々が自分たちの生命に付けている金額を知ることができるのだ。 例えば、車にエアバッグを付けると10万分の1の確率で私の生命が救われることがあるとして、私は一個のエアバッグに 50ドル支払う気があるがそれ以上の金を出すつもりはない、としよう。その場合、私は自分の生命に50ドル×10万の価値を付けているのであり、つまり500万ドルの価値を付けているのだ。

この理論は上手くできているように思えるかもしれないが、実践するとなると問題が生じる。私たちは非常に小さなリスク群の間の違いを判別することが得意ではないので、100万分の1の確率で死ぬリスクと1000万分の1の確率で死ぬリスクとについて訊ねられたとしても、私たちはそれらのリスクを削減するのに同じ金額を支払うと答えるかもしれない。50万分の1のリスクと1000万分の1のリスクとの間でも同じ金額を答えるかもしれない。人命の推定価値は死のリスクを削減するのに私たちが支払う金額と削減されるリスクの量を掛け合わせることで数学的に精確に算出されるが、その計算結果は質問に対する私たちの直感的な答えに反するものとなるのだ。それにも関わらず、「全ての人命は無限大の価値を持っている」というドラマチックな宣言や「一人の人間の生命の価値と百万人の人間や世界中全ての人間を合わせた生命の価値との間に区別をつけることはできない」という主張に比べれば、少なくとも人命に価値を付けるというこのアプローチの方が私たちが実際に抱いている考え…そして、私たちが抱くべきでもある考え…に近いものである。人命に価値は付けられないという気分の良い主張(feel-good claim)は、特定の状況では象徴的な価値を持つかもしれないが、その主張を真面目に捉えて実践することは…例えば、1人を救うか10億人を救うかという判断を偶然や運まかせにすることは…非常に非倫理的な行為となるであろう。

健康保険プログラムにはどれだけの予算を使い人命を救うことを直接の対象としていない他の公共財にはどれだけの予算を使うか、という計算を政府が行っている時、政府は暗黙のうちに人命に金銭的価値を付けているのだ。健康保険に携わる官僚の職務とは、彼らに分配された予算から得ることが可能な価値を最大限まで引き出すことだ。日常的にも私たちは支出から最大限の価値を得ようとしているが、健康保険プログラムもそれと同様なのだ。場合によっては、判断をすることは比較的簡単である。ある二つの薬品があり、どちらからも同じ効果が見込めて副作用のリスクも同じであるが、片方はもう一方よりもずっと高額であるとすれば、公的な健康保険プログラムでは安い方の薬品だけが提供されるべきである。薬の効果と副作用が同様であるかどうかは科学的な問題であり、専門家が呼ばれて調査が行われて確かめられることである。これが、イギリス国立臨床研究所が行っている基本的な仕事だ。しかし、実際には薬の効果は様々であるため、直接的な比較は困難である。健康保険によって得られる善(goods, 成果)を測るための共通単位が私たちには必要であるのだ。私たちは違った種類の善についても比較を行うことになるため、単位の選択は科学的な問題や経済的な問題であるだけでなく、倫理的な問題でもある。

手始めに、健康保険によって獲得できる善とは救われる人命の数のことである、と言うことができるかもしれない。しかし、それはあまりに大雑把だ。一人のティーンエイジャーの死は一人の85歳の死に比べてより大きな悲劇であるし、そのことは私たちの優先順位にも反映されなければならない。救われた生命だけを数えるだけではなく、救われた生存年数も計算することで、私たちはティーンエイジャーと老人との死の重さの違いを調節することができる。もしそのティーンエイジャーが70年後まで生きると予測されていたとすれば、彼女の生命を救うことは70年分の生存年数の増加として数えられる。一方で、85歳の人はあと5年生きられると予測されていたなら、彼の生命を救うことは5年分の生存年数の増加としてしか数えられないのだ。このことは、1人のティーンエイジャーを救うことは85歳の人を14人救うことに等しいということを意味する。もちろん、ここで論じているのは総体としてのティーンエイジャーや85歳である。「もしそのティーンエイジャーが暴力的な犯罪者で、85歳の人はその年齢でも生産的に働いてるとしたらどうなるんだ?」と言うのは簡単だ。だが、緊急治療室では刑事司法は法廷に任せて加害者も被害者も同等に扱われるべきであるのと同じように、健康保険のリソースの割り当てに関する判断は、個々人の人格の道徳性や社会的価値などからは切り離して行われるべきであるのだ。

健康保険は人命を救うだけではない。健康保険や痛みや苦しみを削減することも行うのである。例えば、一人の生命を救うことと寝たきりの人を回復させて健康な生活を過ごせるようにすることは、どのようにして比較できるだろうか?これについても、人々から価値観を聞き出すことができる。よく行われる方法の一つは、医学的状態を人々に説明して…例えば、四肢が麻痺しているなど…、10年間その状態で生きるか、それよりも少ない年数を健康な状態で生きるかを選択してもらうことである。例えば、大半の人は障害のない人生を4年間生きることよりは四肢が麻痺した状態で10年間生きることを選択するが、障害のない人生を6年間生きられるならそちらを四肢が麻痺した状態で10年間生きることよりも優先して選択するとして、そして障害のない人生を5年間生きることと四肢が麻痺した状態で10年間生きることとの間の選択は困難であるとすれば…事実上、人々は四肢が麻痺した状態で生きることには障害のない状態で生きることの半分の価値があると査定しているのである(ここに書いているのは計算をシンプルにするための仮定的な話であり、実際の調査に基づいている訳ではない)。もしそれが全人口の判断のおおよその平均値を反映しているとすれば、治療しなければ四肢が麻痺したままでいる二人の人を治療して障害がない人生に復帰させることは一人の生命を救うことに等しい(関係者全員の余命が同様であるなら)、と結論付けることができるかもしれない。

これが、質調整生存年(quality-adjusted life-year, or QALY)の根拠だ。QALYとは、様々な形の健康保険におけるそれぞれのベネフィットを比較するために設計された単位である。30年以上前から、健康保険に関する業務を行う経済学者たちは様々な種類の医療処置の対費用効果を比較するためにQALYという単位を用いている。複数の国々では、公金が支払われるべき医療処置を決定するプロセスの一部にもQALYが用いられているのだ。改善されたアメリカの健康保険システムが割り当て制を明白に認めたとすれば…認めるべきだ、と私はここで論じている訳だが…アメリカの健康保険システムでもQALYが同様の役割を担うことができるだろう。

一部の人々は、QALYは障害者に対する差別であると否定する。四肢が麻痺した状態で一年生きることは障害がない状態で一年生きることの半分の価値しかない、という仮定的な判断について話を戻そう。障害を持たない人々の生存年数を伸ばす治療を行うことは、四肢が麻痺した人の生存年数を同じだけの期間伸ばす治療を行うことの2倍の価値がある、ということになる。これは、全ての人の生命は等しい価値を持つという考えとは衝突する。しかしながら、問題は質調整生存年という概念にあるのではなくて、四肢が麻痺した状態で10年間生きることよりも10年より短い年数を障害なしに生きることを優先するという判断に問題が存在しているのだ。そのような判断は障害を持たない人によって行われるのであり、障害を持つ人に対して障害を持たない人々が抱いている無知と偏見が反映されたものに過ぎない、と障害者の権利運動家たちは論じるかもしれない。そして、私たちは四肢が麻痺した人たち自身に四肢が麻痺した状態の人生の価値を訊ねるべきなのだ、と障害者の権利運動家たちは実にもっともな主張をするだろう。実際に四肢が麻痺した人たちに訊ねて、その障害を回復することには四肢が麻痺した状態の人生が一年失われることに見合う程の価値もないと彼らが答えたすれば、障害がない人の生存年数を伸ばす医療処置を四肢が麻痺した状態の人の生存年数を伸ばす医療処置よりも優先することはQALY方式の下では正当化されないことになる。

しかしながら、「全ての人は生きる権利を等しく持っている」という考えを維持するために上述のような方法をとることは、両刃の剣でもある。もしも四肢が麻痺した状態の人生はそうではない人生と比べて等しく良いものであるとすれば、四肢の麻痺を治療することには健康上の効果はない、ということになるのだ。間違いなく、そのような発想は一部の人々から強烈な反対を受けることになるだろう。例えば、事故によって麻痺障害を負った俳優のクリストファー・リーヴは、脊髄損傷を回復する方法を発見するための研究をもっと行うことを要求するキャンペーンを行っていた。自分たちの生存年数を伸ばすことは障害のない人々の生命を伸ばすことと等しく重要であると主張し続けるか、自分たちの障害を治療するための研究に公的な支援を行うことを求めるか、障害者の権利運動家たちは選択しなければならないようだ。

QALYは、そのベネフィットが誰にもたらされるかということに関わらず、最大の健康効果をもたらす物事を私たちに示してくれる。通常の場合、予算には限りがあるということをふまえると、最悪の状況にある人たちを助けることは他の人を助けるよりも大きな効果をもたらす。最悪の状況にある人たちは満たされていないニーズを最大に抱えているからだ。だが、時によっては、治療することが非常に難しい上に非常に高額である状態も存在する。そのような場合、QALYによるアプローチは、前述の人たち程には悪い状況ではなく治療することも前述の人たちに比べれば易しく低額である状態の人たちを優先するという結論を導くかもしれない。多少はマシな状態にある人の利害とその人に比べてずっと悪い状態にある人の利害に同等の重みを置くことは不公平ではない、と私は考える。だが、より悪い状態にある人の方を優先するべきだという社会的コンセンサスがあるとすれば、QALYアプローチを修正することもできる。QALYの基準では他の人に比べて悪い状態にあると判断される人に対して発生するベネフィットに、より多くの重みを付けるようにすればいいのだ。

健康状態そのものの改善の他に健康保険がもたらす様々なベネフィットについては、QALYアプローチはそれらのベネフィットを計測しようと試みることすらしない。感情的には、ジャック・ロッサーが若い子供の父親であるという事実は彼の生命を伸ばすことの重要さに違いを生む、と私たちは感じる((訳注:ジャック・ロッサーは記事の省略部分で紹介された人物))。だが、 抗ガン剤がジャックにもたらす健康効果のQALY査定は、ジャックが親であるかないかということとは無関係だ。健康保険リソースの割り当てを決定する際には上述のような個人的な状況も考慮の対象に含むべきであるかどうかは、判断するのが難しい問題である。考慮に入れないとすれば基準は柔軟性のないものとなってしまうが、個人的な要素を考慮の対象に含むことは、主観的な…そして、偏見を含んだ…判断の余地を増やしてしまうのだ。

QALYは健康保険によって得られる善の指標として完全であるわけではないが、ウィンストン・チャーチルが政体としての民主主義を擁護したのと同じようにQALYを擁護することができる。つまり、他の全ての分配方法を除けば最悪の分配方法である、ということだ((訳注:「民主主義は最悪の政治形態といえる。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが。」のパロディ。))。全ての人に有益な医療処置を施すことが不可能であるとすれば、人々はどのような処置を受けるべきかを決定する方法として、それぞれの処置の費用から得られるQALYを比較することよりも優れた方法があるのだろうか?

 

政府が直接的に行うにせよイギリス国立臨床研究所のように独立した機関を通じるにせよ、どの医療処置が十分な費用対効果を持っているので公費で提供されるべきでありどの医療処置がそうでないかを政府が判断することを、アメリカ人たちは認めるであろうか?アメリカ人たちもそれを認めるかもしれない二つの状況がある。第一は、公的保険が実施されたあとにも民間の健康保険という選択肢が残っているという状況だ。第二は、健康保険で割り当てを実施しない場合にはどれ程のコストがかかってしまうのか、人々が身銭を切って目の当たりにする状況である。

もし民間の健康保険が禁止されているとすれば、健康保険の割り当て制は自由な選択を制限することになる。だが、多くの国々では、無料の国営健康保険と自由に選択できる民間の保険が組み合わされている。私が人生の大半を過ごして家族も養ってきたオーストラリアも、そのような国の一つだ。アメリカもオーストラリアなどの国々と同様の制度を実施できる。それは、メディケア(高齢者向け公的医療保険)の対象を年齢に関わらず全人口へと拡大することだ。ただし、適格患者に行う医療処置について医者たちに大幅な自由裁量を認めている現在のメディケアの方針は排除する。全ての人のためのメディケア(Medicare for All)は、QALY当たりのコストがあまりに高過ぎる医療処置には支払われるべきではないのである(一方で、全ての人のためのメディケアは、費用対効果に優れた薬品については一時的な自己負担金以上の金額を求めるべきではない)。メディケアの拡大は、所得税を払える人から税の一部として少し徴収することで賄えるだろう。オーストラリアでは、健康保険のための徴収料は、課税可能な収入の1.5パーセントだ(高収入で民間の保険に入っていない人は追加で1%徴収される。収入が非常に少なくて所得税も払えない人は、自分自身では費用を払わずに健康保険に加入することができる)。全ての医療処置を自分自身で私的に選んだ医者から受けることが保証されるのを望む人は、費用にかかわらず、全ての人のためのメディケアから抜けられることができる。ただし、自分が病気になったときにもコミュニティの負担になることがないくらい充分に民間健康保険に加入していることが証明できる限りにおいてだ。別の選択肢として、全ての人のためのメディケアに加入し続けたまま、全ての人のためのメディケアがカバーしない医療処置を受けるために補完的な民間健康保険に加入することもできるだろう。全てのアメリカ人は良質な標準の医療保険を得る権利を持つことになるだろうが、割り当てされない医療保険を得る権利は誰も持たない。割り当て制ではない医療保険を選択してしまった人々は、それが自分たち自身にとってどれ程のコストになるかを知ることになるだろう。

(…後略)

 

* 訳者による補足

本記事はオバマ政権時に健康保険制度についての議論が盛んになっていた2009年に発表されたもの。記事内で省略した箇所では、当時のアメリカにおける健康保険制度の状況についての解説や、アメリカの制度と他国の制度との比較などが書かれている。記事の発表から約8年経っているので状況は大幅に変わっているであろうこと、また日本の読者にとっては興味のない情報も多く含まれているであろうことを踏まえて、訳者の判断で省略した。