スコット・サムナー 「三つの10月」

●Scott Sumner, “Three Octobers”(TheMoneyIllusion, March 8, 2009)

表題の「三つの10月」というのは1929年(の10月)、1937年(の10月)、2008年(の10月)のことを指している。いずれもコモディティ(一次産品)価格の下落を伴う株価の急落に見舞われた年だ。迂遠なようだが一歩引いて過去の例(1929年10月と1937年10月のエピソード)を振り返ることで昨今の危機をより深く理解できるようになるだろう。というのも、これら三つのエピソードの間には興味深い類似点があるからだ。

これらの三つのエピソードはいずれも広い意味での「貨幣的な」(monetary)問題を根っこに抱えていると言えるが、現代の金融理論をもってしては簡単に説明し尽くすことのできない面を持っている。その一方で、私が前回のエントリー〔邦訳はこちら〕で描写したモデルに照らして考えるなら、これら三つのエピソードを通じて経済を深刻な不況へと押しやった力が何だったのかを説明することができる。例えば、私自身のモデルに照らせば、1929年に関しては中央銀行による金(ゴールド)の退蔵(溜め込み)が問題の元凶であり、1937年に関しては民間部門による金の退蔵(溜め込み)が問題の元凶であり、そして2008年に関しては民間銀行による準備預金の溜め込みが問題の元凶であったという結論が得られるのだ。

これら三つのエピソードの間には重要な相違点もある。1929年には純然たる需要ショックが発生したが、金融システムや供給サイドではこれといって大きな問題は起こらなかった。1937年には金融システムは安定していたが、経済は強烈な賃金ショックに見舞われることになった。そして2008年は強烈なオイルショックと厳しい金融危機に襲われた。

これら三つのエピソードに関して私がとりわけ興味を惹かれるのは、金融系のメディアの当時の報道を眺めていると(株価暴落に見舞われた)10月前後の時期にいずれのケースでも劇的に期待が変化したという強い「感じ」(the strong sense)が読み取れることである。投資家たちが名目GDP成長率の向こう2、3年先の見通しを突然劇的に引き下げたという「感じ」が読み取れるのだ。もちろん今も昔も新聞で「名目GDP」について言及されることは滅多に無いが、いずれのケースでも10月にインフレ期待と実質成長期待が急落したことを示す明らかな「感じ」があるのだ。例えば、1929年の半ばにおいては経済は力強いブームの最中にあったのに、12月に入ると状況は一変して今回の不況はいつになく厳しくなるだろうという不吉なレポートがたくさん出回るようになり、鉱工業生産は第4四半期に極端な勢いで下落したのであった。1937年と2008年のケースではいずれも株価が急落し、それと同時にコモディティ市場(そこでも価格が急落していた)や債券市場(短期金利はゼロ%に近い水準にまで下落した)から非常に弱気なニュースが流れ込んできたのであった。それに加えて、1929年のケースと同様に、1937年のケースでも2008年のケースでも生産はいつになく極端な勢いで減少することになったのである。

これら三つのエピソードのいずれでも株価暴落がそれに続く不景気の引き金となったのではないかと考えたくなるかもしれない。しかし私はそうではないと思っている。1987年の10月(また10月!)にもこれら三つのエピソードに引けを取らないほどの株価暴落が発生したが、その後に不況どころか景気のマイルドな減速すら起こらなかったのである。もちろん個々の事例はそれぞれ事情が異なるとは言え、株価暴落がそれ自体として経済成長に強い影響を及ぼすだけの力を持っているのだとすれば、1987年のケースでも株価暴落の直後にちょっとくらいは景気が落ち込んでもいいはずだろう。

 

1929年10月

現在私は大恐慌をテーマとした本を執筆している最中なのだが、正直言ってその本の中でも1929年の株価暴落を完全に説明できるかどうか心許ないのだが、部分的な説明ならできると思っている。鍵は金融政策だ。当時は言うまでもなく金本位制下にあったわけだが、金本位制下で真に外生的な政策ツールと呼べるものは金準備率(中央銀行が準備として保有する金とマネタリーベースとの比率)だけである。フランスが金本位制に復帰した1926年12月から1929年10月までの間に世界全体で金準備率は年率2.5%のペースで上昇したが、これはマイルドなデフレーション政策であったと言える。実際にもこの間に世界全体の物価水準はやや下落傾向にあったのである。

金準備率はその後の12ヶ月の間にさらに9.6%もの急上昇を見せ、ほとんどの先進国は厳しいデフレーションと不況に陥ることになった。前回のエントリー〔邦訳はこちら〕を見逃した読者のために説明しておくと、中央銀行が金を退蔵する(金準備の保有量を増やす)と金の実質価値が高まることになる。金本位制下では金は価値尺度(the medium of account)の役割を果たしており、価値尺度である金の実質価値(もしくは購買力)が高まるということは物価の下落(デフレ)を意味することになるのだ。

金準備率が上昇した原因についてはここで説明するには複雑すぎる。果たしてマーケットが事態を正確に理解できていたかどうかも微妙なところだ。ただし、マーケットは金準備率に異変が起こっていることをはっきりと意識してはいなくとも、中央銀行が知らず知らずのうちに誤って非常にデフレ的な政策スタンスをとっていることを直観レベルで理解していたのではないかというのが私の意見だ。1930~38年の期間においては株式市場の動きと金融政策との間の関連を容易に見い出せるのだが、こと今回(1929年10月)のケースに関しては金融引き締めが株価暴落を引き起こしたことを示す「決定的な」証拠がなかなか見当たらないのも事実だ。しかし、大恐慌の引き金を引いた過度に緊縮的な金融政策がこの10月の株価暴落の付近で既に始まっていたように見受けられるのは興味深いことだ。金融引き締めと株価暴落との間のつながりを示す証拠を見つけ出せたとしたら私が一番乗りということになるだろう。

1929年10月の株価暴落を引き起こしたと思われる要因は4つある。重要な順に挙げると次のようになるだろう。

1.  とりわけ米国、フランス、英国において世界全体の金準備率を大きく上昇させるような金融政策のスタンスが採用されたこと。

2.  株価暴落と同じ時期にニューヨーク・タイムズ紙の見出しを賑わせることになったスムート・ホーリー法をめぐる激しい議会闘争。ジュード・ワニスキー(Jude Wanniski)もこの説を採っているが、私が考える理由は彼とはやや異なる。

3.  10月初めに ドイツの政治家シュトレーゼマンが死亡し、10月下旬に入ってドイツの政治情勢が不透明化したこと(右翼ナショナリスト政党が勢力を強め、直前に成立していたドイツの戦後賠償問題を巡る国際合意(いわゆるヤング案)に対する反対運動がドイツ国内で巻き起こることになった)。

4.  10月26日に企業間の合併に対する取り締まりを強化する方針(反トラスト法の厳格な適用)が政府によって決定されたこと。ジョージ・ビトリングメイヤー(George Bittlingmayer)によると、政府が反トラスト法の厳格な適用に動くとの噂が数日前にマーケットに伝わっていた可能性があるということだ。

これらの要因が1929年10月段階の株式市場でどの程度重要な役割を果たしたかについてははっきりとはわからない面もあるが、事が起こった後の時点から振り返って考えてみると最初の三つの要因(1~3)は非常に重要な役割を果たしたと言えるだろう。金融引き締めは1933年3月までにわたって景気の停滞をもたらすことになった。1930年の春に入って再びスムート・ホーリー法を巡る激しい議会闘争が繰り広げられることになったが、それが主な原因となってその後の5月~6月に株価の急落が引き起こされたことは疑いない。そして1931年半ばから1932年終わりまでの期間に関しては米国の株式市場の低迷をもたらした主な原因はドイツにおける政情不安にあったと思われるのだ。

 

1937年10月

1937年10月の株価暴落(1929年と2008年に関しても言えることだが、株価の暴落は(10月だけに限定されていたわけではなく)正確には9月から11月までの期間に及んでいる)も1929年とケースと同じくらい興味深いが、より複雑だ。まずは基本的な事実をいくつか抑えておく必要があるだろう。

1.  米国は1937年に金本位制に復帰した。とは言え、37年の段階では金本位制はもはや国際標準の通貨制度とは言えなくなっており(わずか数カ国だけが金本位制を採用していたに過ぎなかった)、米国内では金の個人所有が禁じられていた(建前はそうだったが、ロンドンの銀行に金を預けていた個人もいた)。しかしながら、金の国際市場に生じるショックによって米国の金融政策が翻弄された点はかつてと変わるところがなかった。例えば、1936年半ばから1937年半ばの期間は米国は不況に襲われたにもかかわらず、国際市場で金を放出する動きが強まった結果、米国の卸売物価指数(WPI)はおよそ10%も押し上げられることになった。そしてその後の1937年半ばから1938年半ばまでの間に卸売物価は同じ規模だけ下落することになった。卸売物価の動きだけを見ていると1936年末から1937年初めまでは力強い経済成長の期間であり、その後はマイルドな景気後退に移行したように見えるが、実際のところはそうではなかった。1936年には力強く成長していた鉱工業生産も拡張的な金融政策が実施されたにもかかわらず1937年春には踊り場に入ることになったのである。

2. ルーズベルト大統領(FDR)による5つの賃金ショックのうち第3のものがこの時期に発生した。この第3の賃金ショックは5つのショックの中では政府の政策と最も関係が薄いものだ。1936年の終わりから1937年の大部分の期間を通じて労働組合の加入者が急増したが、その原因は1935年に制定されたワグナー法によって労働組合の組織が容易になったことに加えてルーズベルト大統領が1936年の大統領選で圧勝したためである。ルーズベルト大統領の圧勝を目の当たりにした労働組合の指導者たちがワシントンは自分達の味方だと確信するようになったのである。こうして発生した賃金ショックは卸売物価に生じたショックとかなり似た動きを見せたが、名目賃金の動きは卸売物価の動きよりも半年だけ後ろにずれていた。名目賃金は卸売物価の後を追うようにして上昇を始め、卸売物価よりも後にピークを付け、卸売物価よりも後になって下落を始めたのである。さらには、名目賃金は卸売物価ほどには下落しなかったのであった。1937年の初頭に生産が伸び悩んだ理由もコモディティ価格の下落に端を発する景気後退が本来であればマイルドなもので済んでいたはずがⅠ920-21年の景気後退に匹敵するほどの深刻な不況にまで発展した理由もここ(訳注;実質賃金が高止まりしたこと)にある。

実質賃金(名目賃金÷卸売物価)は1930年代を通じて月次の鉱工業生産と密接に連動しており、1936-38年に関してもその例外ではなかった(実質賃金は反循環的な動きを見せているので鉱工業生産との連動を捉えるにはデータを反転させる必要がある)。(卸売物価が名目賃金よりも速いペースで上昇したために)実質賃金が低下した場合には景気は上向き、その反対に名目賃金が卸売物価よりも速いペースで上昇した(それゆえ実質賃金が上昇した)場合には景気は低迷したのである。そして実質賃金が一定の水準で変わらない期間はそれなりの経済成長が発生した。というわけで、1936-38年の期間は景気循環に関する私のモデルがよく当てはまるわけだ。さて、そこで残された問題はこの間における名目賃金と卸売物価の動きをどう説明するかだ。かつてのエントリーで論じたように、名目賃金に影響を及ぼした外生的な要因はニューディール政策を通じた5つの賃金ショックだったと思われる。そして卸売物価の動きは平価(金とドルの兌換レート)が固定されていた1929-33年および1934-40年の時期に関しては金の国際市場の動向によって説明できるし、1933-34年の時期に関しては――ジョージ・ウォーレン(George Warren)に関するエントリー〔邦訳はこちら〕で詳しく論じたように――平価の変更によって説明できるだろう。

それでは1936-37年の時期に卸売物価を押し上げた要因は何だったのだろうか? それは全部で3つある。一つ目の要因は1936年の後半に入ってフランスをはじめとした国々が金本位制を離脱し、それにあわせて金本位制を離脱した国の中央銀行が金を放出したことである。二つ目の要因はロシアによる金の輸出(販売)が増加し、今後ロシアからもっと大量の金が売り出されるのではないかとの(間違った)予想が広まったことである。そしてこの誤った予想が民間部門における金の放出を招くことになる。これが三つ目の要因である。ヨーロッパで各国が金本位制から離脱したために将来の平価切り下げに備えて金を溜め込んでおく必要が無くなったことに加えて、米国に大量の金が流入してインフレになればルーズベルト大統領もドルの切り上げを強いられるのではないかとの恐れが広がったことも民間部門における金の放出に油を注ぐ格好となったのであった。この点についてはかつてのエントリーで引用したポール・アインチッヒ(Paul Einzig)の言葉をご覧いただきたい。

色々な要因が複雑に絡み合ってこのプロセス(民間部門における金の放出に向けた動き)は1937年半ばに入って反転し始めることになる。実質賃金の上昇を受けて米国経済の減速がはっきりし始めるや、ドルが切り上げられるのではないかとの恐怖は消え失せることになり、ロシアからもっと大量の金が売り出されるのではないかとの噂も噂に過ぎなかった。米国が再び不況に戻るのではないか、ルーズベルト大統領が1933年と同じように新たなる金融「カンフル剤」を打つのではないかとの思惑が広がるにつれて、民間部門では金の放出から金の退蔵へ向けて潮目が変わり始めることになる。秋頃になるとドルが切り下げられるのではないかとの恐れが急速に広がり、金を退蔵する動きが加速することになった。そして米国への金の流入はほとんどストップすることになった。名目賃金が高止まりする一方で卸売物価の急激な下落に見舞われた米国は深い不況に落ち込み、株価とコモディティ価格は急落することになったのであった。

1937年と2008年との間にはいくつかの興味深い共通点がある。どちらの年も世界各地におけるコモディティ価格の急騰で始まり、そしてそれと同じくらい急速なペースでのコモディティ価格の急落で1年を終えたのである。相違点もある。1936-37年のコモディティ価格のブーム(高騰)は純然たる貨幣的な要因によるものだったが――その一方で実体経済は停滞していた――、2007-08年のコモディティ価格のブーム(高騰)は途上国の力強い成長に牽引されたものだった。

どちらの年も中期的な成長期待およびインフレ期待の急反転に見舞われたというかなり興味深い共通点もある。1937年の前半においては米国が保有する金準備が増大するのではないかという予想もあって金融市場もマスコミも明らかにインフレが続くと予想していた。しかしながら、1937年の終わりになるとそのような予想は180度変わって今後は長いデフレが待っているのではないかとの見方が広がるようになったのである(そしてそれは現実のものとなった)。1937年半ばから1940年半ばにかけて卸売物価は下落の一途を辿ることになったのだ。

2008年の10月にこれと似た期待の急反転が起こった時、私はすぐに1937年の出来事のことを思い出し、Fedが迅速かつ効果的な行動に打って出ない限りは名目GDP成長率がそれまでの標準的な値である5%をはるかに下回ることになってしまうのではないかと心配になり始めた。確かにFedはその後素早く行動したが、残念なことに間違った問題――金融システムの安定化――に目を奪われてしまったのである。

共通点はまだある。Fedは1936-37年の時期に三段階にわけて預金準備率を引き上げた(最終的に預金準備率はそれまでの2倍の水準に上昇することになった)。つい最近Fedが準備預金に付利を行った(これは民間銀行による準備預金の需要を増やすことになる)ことに対して私が折に触れて批判している様子を見て、「なるほど。サムナーは預金準備率の引き上げが1937-38年の不況の原因だと考えているのか」と判断する読者もいるかもしれない。しかし事はそんな簡単ではない。預金準備率の引き上げが発表された当初はFedがそれを本当に実行するとは信頼されておらず、投資家たちも当初のうちはFedのこの決定にほとんど注意を払っていなかったのだ。当時の金融系のメディアではFedは大量に流入してくる金をすべて不胎化することなどできないとの意見が大勢であり、投機家たちもFedがマネーサプライの増加を抑えることはできないと予想してコモディティの積極的な購入に回ったのである(その結果、コモディティ価格は急騰した)。

Fedが大きな過ちを犯したのは1937年の暮れのことである。金の国際市場で期待が反転した直後に十分積極的な行動を採らなかったのだ。しかしながら、1929年のケースとは違って1937年の不況に関しては金融政策(の失敗)だけにその責任があるわけではなく、賃金ショックも重要な役割を果たしたのである。

当時の財政政策についてはどう考えているのかとの意見もあることだろう。1937年に給与税が導入されることになったが、規模的には大したことはなかった。とは言え、給与税は労働者を雇用するコストの増大を意味しており、穏やかではあるが賃金ショックの一つとして働いた可能性はある。しかしながら、その点を除けば当時の財政政策は全体としてマイナーな役割しか果たさなかったということになるだろう。1937-38年の不況の原因は総需要の不足にあると考えたとして、便宜上そのうちの半分は名目賃金の高止まりのせいであり、残りの半分は物価の下落(デフレーション)のせいだとすると、どれだけ高く見積もっても財政政策はごくマイナーな役割しか果たさなかったと考えられるのだ。1937-38年の急激なデフレーションは――直前の1936-37年のインフレーションもそうだったように――明らかに世界全体の金市場の反転とリンクしている(大きな関わりがある)のだ。財政政策が不況の原因だとするにはタイミングがことごとく合わないのだ。通常のマネタリストの面々もそうなのだが、ケインジアンに共感を寄せる経済史家の面々も政策上の失敗と当時の出来事――コモディティ市場、株式市場、債券市場の値動き――とがどのように結び付いているかについて十分に注意を払っているとは言えない。その点にまで細かく配慮した上で大恐慌を包括的に分析しているのは私だけだと言うと言い過ぎだろうか。

 

2008年10月

2008年の秋に株式市場やコモディティ市場、鉱工業生産、債券利回りの急落を引き起こした原因は金融政策の失敗にあるが、それでは金融政策の失敗を引き起こした要因は何なのだろうか? その要因は数多くあるが、その中でも最も重要なものはコモディティ価格のブーム(高騰)と金融危機の二つということになるだろう。

コモディティ価格のブームや金融危機が総需要の下落を引き起こしたとは言っていないことに注意していただきたい。コモディティ価格のブームや金融危機はあくまでも金融政策の失敗を招いたのであって、総需要の下落を引き起こしたのは金融政策の失敗である。2008年の半ばまでは経済はそこそこのプラス成長を記録していた。株価もしぶとさを見せており、7月初旬の段階でも最高値から約10%の乖離幅に収まっていた。世界経済は米国経済を上回るほどの力強さで拡大を続け、それに支えられるかたちで7月まで異常なコモディティ価格のブームが続くことになったのである。大きな過ちが犯されたのは2008年の後半に入ってからのことだ。第3四半期と第4四半期をそれぞれ区別した上で政策上の失敗を2つのタイプに分けて整理するとわかりやすいことだろう。

2008年第3四半期における金融政策はラース・スヴェンソン(Lars Svensson)がお好みの尺度に照らせば最適であったという評価になるだろう。つまりは、Fed自身による名目GDP成長率の見通し(予測)がFedの目標とほぼ一致していたのである。このことは9月16日に開催されたFOMC(連邦公開市場委員会)でインフレと不況のリスクがおおむね均衡していると判断され、その判断を受けて金融政策が変更されなかった(現状維持に保たれた)事実によく表れている。しかしながら、どうやら民間部門はFedに先んじるかたちで事の次第を理解していたようである。今となっては明らかだが、名目GDP成長率は第3四半期の段階で既に急落を始めていた。住宅不況が発生してから二年間はどうにか持ちこたえてきた鉱工業生産も8月には急落し始めていたのだ。第3四半期においてFedは二つの失敗を犯した。一つ目の失敗は自らの見通し(予測)を重視し過ぎてマーケットの予測に十分注意を払わなかったこと。そして二つ目の失敗はインフレ率の動きにばかり囚われて名目GDP成長率の動きに十分注意を払わなかったことである(インフレ率よりも名目GDPの方が政策当局者に対して一貫して優れたシグナルを送っている事実はいくら強調してもしすぎることはないだろう。例えば、2004-06年の住宅バブルの時のことを思い出すといい)。

2008年の第4四半期に入ると事態は急速な勢いで悪化の一途を辿ることになった。スヴェンソン好みの(それも甘めの)尺度に照らしても10月半ばまでに金融政策は信用を失ってしまっていることが私の目には(おそらくほとんどの人にとっても)明らかだった。つまりは、Fed自身による(名目GDP成長率の)見通しでさえも政策目標をはるかに下回る状況になっていたのだ。さらに不味いことには、金利がゼロ%に近づきつつあり、米国はいとも簡単に日本のような状況に陥ってそこからしばらく抜け出せないかもしれないとマーケットが気付き始めたのである。そのような危険な状況に陥らないための唯一の方法は非伝統的な金融政策を通じて積極的な行動に踏み出すことにあっただろう。短期国債を購入する通常の金融緩和ではおそらくもう手遅れだっただろう。

残念ながらFedはこの時二つの大きな失敗を犯した。一つ目の失敗はその後5ヶ月間にわたって金利を引き下げず、そればかりか準備預金に付利を行うという極めてデフレ的な政策を採用し、ベースマネーの拡大に伴う緩和効果を打ち消すことになってしまったことである。二つ目の失敗はさらに不味い。Fedの当局者たちは金融危機こそが「真の問題」であり、金融危機が解決されない限りは総需要を刺激することはできないとの間違った前提に飛びつき、そのために「真の問題」から目を逸らすことになってしまったのだ。しかし、この失敗は理解できないこともない。というのは、2008年10月の段階で「真の問題」は貨幣的なものであり金融危機ではないと懸念を表明していたのは私を含めてごく少数の限られた経済学者だけだったからだ。確かに金融危機は今回の不況の過程で重要な役割を演じた。しかし、通常理解されているのとは異なる次の二つの経路を通じてそのような役割を演じたのである。

1.  金融危機は政策当局者の注目を「真の問題」から逸らせることになった

2.  金融危機は自然利子率の下落をもたらした

金融危機は信用に対する需要(資金の借り入れ需要)を急減させ、その結果「流動性の罠」に嵌ってしまうのではないかとの恐れが広まることになった。金融危機自体が総需要の急落を引き起こしたわけではないが、Fedの仕事を難しくしたとは言えるだろう。しかし、Fedは物価と生産の安定を図ることが自らの使命だと宣言しており、貨幣需要(あるいは貨幣の流通速度)に生じたショックを相殺するのが自らの義務だとも語っている。それだけではなく、とりわけデフレの恐れがある時には先回りして行動するのが自らに課せられた責任だと認めており、マーケットの指標は政策を決める上で有用なシグナルの一つだと語った前例もある。かつてバーナンキは短期金利がゼロ%に達しても金融政策は依然として有効であり得ると論文ではっきりと書いている。果たして今の現実はどうなっているだろうか? 今のFedは自らが掲げた尺度に照らしても失敗していると評価せざるを得ないのだ。

今回のエントリーは簡潔なまとめのようなものであり重要な細部をたくさん省略してしまっている。大恐慌をテーマとした本を執筆中であることは既に触れたが、1929-30年の時期をカバーしている章は大体40ページくらいになる予定だ。1937-38年の時期は2つの章にわたって取り上げる予定だが分量的にはずっと多い。今のところ全体で14章構成になる予定だ。今回のエントリーを読んだそこのあなたも本を買わずに済ますわけにはいかないというわけだ(あくまでも出版してもいいと名乗りを上げる出版社が見つかればの話だが)。

今後もこのブログでは大恐慌について様々な観点から話題にしていくつもりだ。

 


 

(本翻訳は以前某所にアップしたものを今回、常連翻訳者のhicksianさんに全面的に見直しいただいたものです)

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