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ビル・ミッチェル「明示的財政ファイナンス(OMF)は財政政策に対するイデオロギー的な蔑視を払拭する」(2016年7月28日)

Bill Mitchell, “Overt Monetary Financing would flush out the ideological disdain for fiscal policy“, Bill Mitchell – billy blog, July 28, 2016.

 

3人の金融機関系の経済学者(二人はBIS、一人はタイ中央銀行)が書いたHelicopter money: The illusion of a free lunch (2016年5月24日)という記事がある。この記事では、明示的財政ファイナンス(OMF)、つまり中央銀行の金融的キャパシティで財政赤字拡大を実現し、非金融主体への政府債務を発行しない政策について ”話がうますぎる” 、 ”大きな代償を支払うことになる” と論じられ―― ”金融政策を永久に喪失することになる” と要約されている。彼らが行っている議論は、現代金融理論(MMT)の提唱者が20年以上に渡って発表してきた研究と極めて整合的である。その研究は今、主流派の銀行システム分析の打破を始めている。

しかし、彼らが導いた結論はオリジナルのMMT提唱者たちには支持されない。MMT提唱者たちは、OMFを極めて望ましい政策方針と見なしている。政府が本来備えている金融的キャパシティをよく表現するものだからだ。さて、件の記事では、”フリーランチ”という言葉が何を意味するかのついての疑問も提示している。このフリーランチという言葉は、マネタリストであるミルトン・フリードマンによって広められた(ただし、彼の発案ではない)。経済学におけるこの言葉は、「政府の介入はコストを生ずる」という主流的見解とセットで使用されている。しかし、今一度“フリーランチというものはない”という言葉の本当に意味するところを検討すれば、我々が(実物資源制約を強調する)MMTの体系に非常に近い形で扱っているということが分かり、また、通貨発行権を持つ政府(currency-issuing governments)に適用されている金融的制約の誤謬も明らかになる。

私は以前、The Bank of Japan needs to introduce Overt Monetary Financing nextという記事で明示的財政ファイナンス(OMF)について書いた。

Voxeuの記事の目的は、――主流派の枠組みにおいてでさえ――いわゆる非伝統的金融政策(QE、マイナス金利etc)がデフレ圧力に対する効果的な治療薬として機能しなかったということと、望ましい水準まで実質GDP成長を刺激できなかったということを強調することである。

そこから話は「 ’ビッグバズーカ’ によって、中央銀行が財政赤字と協同するいわゆる ”ヘリコプターマネー” (あるいはOMF)を利用できるようになった」という風に続く。著者たちが言うには、そうした政策は:

…中央銀行の最も根源的な力に制御されている名目支出を、極めて確実に拡張する方法である:根源的な力と言うのは、わずかなコストで無金利の通貨を創造できる中央銀行固有の能力のことだ。

私ははるか昔の2012年にKeep the helicopters on their pads and just spendという記事でヘリコプターマネーについて書き、現在広く知られているOMFについて論じた

内容はタイトル(訳注:「ヘリコプターはパッドに置いておき、単に支出せよ」)の通りだ。

歴史的な話になるが、ミルトン・フリードマンの提案における’ヘリコプターマネー’への言及は、彼のエッセイ集―“The Optimum Quantity of Money and other Essays”(最適貨幣論論文集)Chicago: Aldine Publishing Company, 1969――の導入部分(page4)にある。そこでは、「デフレの慢性的発現は“ヘリコプターからお金を落とす”ことで解決可能である」と論じられている。

評論家の一部は、当初、QEをこうした考えの類似物だと考えていた。彼らの考えは間違いだった。QEは、中央銀行が準備預金(中央銀行貨幣, central bank money)と非政府部門保有債券(あるいは他の金融資産)を交換する行為に過ぎない。

そこでは、「銀行が貸し出しをしないのは、十分な準備預金を持たないからだ」という誤った前提が導入されてしまっていた。「どう治療すれば良い? 準備預金を拡張しよう。どのようにして? 中央銀行貨幣の無尽蔵な供給によって、銀行保有債券を購入して準備預金に替えよう。QED! それでいいだろう?」

間違いだ! 主流派の経済学者たちでさえ、今に至っては、銀行が融資のために準備預金を必要としているわけではないということを、着実に理解しつつあるに違いない。銀行が準備預金を気にするのは、融資の後なのであって、また中央銀行からいつだって何らかの形で準備預金を獲得できる、ということを知っている。中央銀行は、決済システムの大規模不履行(銀行が自身で発行した借入の返済を行う準備預金を持たない場合に起こる、小切手の不渡り)も含む金融不安定を防止するように行動するからだ。

QEが経済活動を拡張し得る唯一の経路があるとすれば、長期金利の引き下げる効果によってだっただろう(なぜなら、QEは長期債の需要を増やし、長期債のイールドを引き下げたからである)。しかし、このメカニズムもまた機能しなかった。なぜなら、国民の情操(sentiment)の状態がずっと悪く、そのために家計や企業が(どれだけ借入の費用が小さくなっても)借入を回避し続けているからである。

さて、Voxeuの著者たちはOMFをどのように分析しているだろうか?

彼らは以下のように書いている:

ヘリコプターマネーは、貨幣の恒久的な追加という形で経済主体の名目購入力を増やすのにベストな方法として広く認められている。機能的には、同額の無利子中央銀行貨幣の追加によって資金調達された財政赤字追加と同じになる。

言い換えると、政府(財務省サイド)は支出追加か減税を行い、その財政赤字拡大に合わせて政府(中央銀行サイド)が準備預金を追加する。

そうした追加が’恒久的’かどうかは重要ではない――このことについては後に論じる。

MMTの提唱者は、ここで”資金調達”という言葉を用いないだろう。なぜなら、我々はこうした場合に政府の二種類の活動(訳注:財務省サイドと中央銀行サイド)の両面を扱うからだ。統合政府は通貨(currency)を発行し、その支出を通じて通貨を出現させる、というのが現実だ。政府の二種類の活動は、それぞれの政策目標を実現するために、日常的に共同作業しなくてはならないのである。

話が逸れるが、(MMTでない)ポストケインジアンの一部で、まさのこの点について過去にMMTを論難してきた人々が居る(Lavoie, Rochon, Fiebiger etc)。そうした論難は、(訳注:「ポストケインジアンの一部」の中で)きちんと確立された考えがないことを反映している。

彼らは、「中央銀行と財務省の’統合’というのは状況の現実をとらえきれていない、また実際には、その二つの部分は分離しているのだから、政府が財政赤字の資金調達を行う必要がないというのは不正確である。」と主張している。

ほとんどの国における中央銀行と財務省の法的ないし政治的結びつきはさておき、こうした批判は浅薄である。

マルクスが「余剰価値の生産と民間利潤の本質を糊塗する表面上の交換関係」を明らかにしたのと同じ方法で、MMTは不換紙幣(fiat currency)システムにおいて「内在的制約と自発的制約の対立」という概念を明らかにした。他のどのポストケインジアン理論家も過去にはそれを論じていなかった。それはMMTの研究の’新奇な’特徴の一つだ。

この意味で、MMTはイデオロギーのベールを剥ぎ取るのである。

財務省から中央銀行を分離したり、財政ルールや債務上限etcを課したりする制約は、あくまで自発的なものに過ぎない。通貨発行権のある政府の基礎能力を理解すれば、財政に課されているこれらの制約が、本質的な制約ではなく、イデオロギーによるものに過ぎないということを簡単に理解することが出来る。

話が逸れるが、私はまさにこのテーマについての基調講演を、2016年9月15日~18日にカンザスシティのミシガン大学カンザスシティ校で開催されるポストケインジアン・カンファレンスで発表する予定だ。私はポストケインジアンの一部(Palleyなど)や、ニューケインジアンたちの ’MMTには何も新しいことは無い’ あるいは ’我々はそのことをはじめから知っていた’ という主張に反論するつもりだ。そうした主張はナンセンスだ。

さて、Voxeu著者たちの主張を追うと、以下のように述べられている:

…名目の拡張が物価と産出の増加にどのように分離するかは、経済の広範な性質に依存する。特に、価格がどれだけ適応的かに依存する。(’名目硬直性’)

この文章は「名目支出の増加が全て価格影響か産出(実物)影響のいずれかを生ずる」ということを意味しているだけだ。国内総生産はある期間に生産された最終財&サービスの市場価値によって定義づけられる。

市場価値は、何が生産されたか(産出)といくらで売られたか(価格)の組み合わせだ。実質GDPについて論じる場合、我々はGDP指標から価格の影響を排除(価格を一定だと仮定)し、どれだけの事実上の産出が生じたかと、その経時的変化を知ることを可能にする。

経済が既に潜在力いっぱいで働いているときは、(人口成長率etcを反映した)現在の経済成長率を越える名目支出追加は、(完全にではないにせよ)非常に大きい価格影響を齎すだろう。――つまり、そうした名目支出追加はインフレ促進的だということになる。なぜそうなるかというと、企業が利用資源からさらなる実質生産を絞り出すことが出来ないからだ。

一方で、(失業者や使われていない機械といった)遊休資源があるときは、名目支出の拡張は大部分が生産(実質産出)の拡大で吸収される可能性が高いだろう。そして企業は、他の企業から市場シェアを奪われることを恐れて、価格引き上げに消極的となるだろう。

非常に重要なことは、経済が潜在産出力をフルに活用している時でさえ、名目支出成長が生産能力の成長に適合的である限りは、名目支出成長を続けることが可能であるということと、名目支出成長が、産出成長を越える支出への反応を通じて経済の潜在産出力を痛めつけてしまう、といったことは起こらないということである。

したがって、 ‘マネーサプライ’ の持続的な増加が必然的にインフレ促進的であると想定するのは正しくない。それは状況によりけりだ。

Voxeuの著者たちは、「中央銀行貨幣を用いて財政赤字拡大を ‘資金調達’ することで、政府は(民間に対して債務を発行した場合に生じていたであろう) “増税の必要性” を回避している」と主張しているが、これは著者たちが、通貨発行権のある政府の財政的選択に関する「主流派の理論的構造の落とし穴」に嵌ってしまっていることを示唆する。

こうした考えは端的に誤りだ。この考えは、最終的には政府が債務を返済するために増税をするということを含意してしまっている。実際には、政府は債務が満期を迎えるたびに断続的に ‘返済’ している。債務返済にしても、支出にしても、その際に増税を行う必要は全くないし、これまで必要であったということもない。

この点についてのより詳しい議論はTaxpayers do not fund anything邦訳)をお読みいただきたい。

しかしながら、このことはVoxeu著者たちの議論の中心からはやや逸れる話だ。

彼らは以下のように書いている。

準備預金(銀行が中央銀行に対して行っている預金)の市場における金利決定の性質からみて、中央銀行はどうあがいても解決策が見つからないジレンマ(catch-22)に直面している。ヘリコプターマネーは金利を恒久的にゼロにする――これは財政ファイナンスの提唱者たちも含めたほとんどの人にとって受け入れがたい結果である――か、あるいは、そうならない場合は、ヘリコプターマネーは債務or税で資金調達された財政赤字と等価で、望んでいる追加的な拡張効果をもたらさないだろう。

第一に、著者たちは、アデア・ターナーやベン・バーナンキといった最近の提唱者たちより2,30年先んじてこの問題を論じてきたMMTの研究を認識していない。恒久的なゼロ金利ターゲットについて “財政ファイナンスの提唱者たちにとっても受け入れがたい” と論ずるのは正しくない。

MMTの提唱者はこれを望ましい結果だと見做す――なぜなら、金利の変化を通じて経済を安定化させようとする手法は役立たずだということがわかっているからだ。

イールドカーブをゼロに貼り付けて、投資金利を可能な限り低く保つのはとても良いことだ。その際は、財政政策を行おう。財政政策は効果が直接的かつ明瞭なので、完全雇用と価格安定を維持するのに役立つ。

この点についての詳しい議論については、The natural rate of interest is zero!邦訳)を見てほしい。

二つ目の論点だが、著者たちは「政府純支出増加による拡張効果は、それがどのように ‘資金調達’ されたかによって決まる」というお決まりの主流派的分析の落とし穴に嵌ってしまっている。それが無根拠な議論であるということをこれから示そう。

彼らの論理はどういうものだろう?

彼らが最初に “銀行は主に二つの理由から準備預金を保持する: ⅰ) 法定準備を満たすため ⅱ) 決済に関する不安定性に対する緩衝材とするため” と論じている点については正しい。

主な理由(訳注:銀行が準備預金を保持する主な理由)は、他の銀行から(決済システムを通じて)行われる日々の請求に対し、高いコストをかけて準備預金を調達することなしに対応可能な状態を確保するためである。

こうした実際の準備預金の希求(法定準備)や、支払いを予期した上での準備預金希求(これは不確実性から生ずる)を越える準備預金についてはどうだろう?

Voxeuの著者はそうした超過準備を”非常に金利非弾性的だ”と論じる。この言葉は、経済学者が使うファンシーな言葉の一つで、こうした超過準備が金利変化に対して非常に鈍感であることを意味する。

追加の所見としては、銀行システムにおけるそうした超過準備の存在は、中央銀行のオーバーナイト政策金利操作能力に影響を与えるだろう、というものがある。

中央銀行は、こうした状況に置いて、二つの選択肢を持つ。

  1. オーストラリアのシステムでは法定準備はなく、中央銀行(RBA)は商業銀行の超過準備に25ベーシスポイント(現在の政策金利以下)の付利を支払っている。

Voxeuの著者たちは、中央銀行が(政策金利以下の)超過準備付利を支払うという状態を“最もよくあるスキーム”だと主張している。

その際、中央銀行は、わずかに高い政策金利(訳注:超過準備付利に比べて、という意味)を確実に維持するために、超過準備を ‘操作’ ――つまり、削減――しなくてはならない。

なぜか?

銀行は定義上、 ’余分な’ 準備預金を持ちたがらず、いわゆる ’インターバンク市場’ (銀行が短期で資金融通を行う市場)で、その日に準備預金が不足している他の銀行へ貸し出して超過準備を処分する、ということを日常的に試みる。

こうした競争的活動は、中央銀行が提供する何かしらのサポート金利までオーバーナイト金利を引き下げるように働くだろう。(日本銀行が長らく続けている政策のように)オーバーナイト金利がゼロまで下がるということもあり得る。

中央銀行が介入しない場合、オーバーナイト金利が事実上の短期金利となり、政策金利は無意味になる。言い換えると、中央銀行は短期金利環境のコントロールを失う。

このような状況に対する中央銀行の対応策は、有利子政府債券を銀行に売って、超過準備を吸収(MMTの語法では ‘除去’ )するというものである。そうすることで、インターバンク市場で資金を融通する誘因を取り除く。

このようにして、中央銀行は短期金利のコントロールを維持し、超過準備は消失する。これは我々が“流動性管理”と呼んでいる代物である。

別の可能性として、銀行システムにおいて準備預金が枯渇している場合は、オーバーナイト金利が政策金利以上の水準へ急速に上昇するというものがある。そのときの対応策は、中央銀行が有利子金融資産(政府債券)を購入して必要な準備預金を供給し、決済システムの整合性を維持する(準備預金への欲求を満たす)ことである。

したがって、そこには論争の的になるべきものは何もない。

これは標準的な現代金融理論(MMT)で、これまで20年以上に渡り我々がはっきりと論じてきたものだ。

興味深いことに、こうしたことについて議論している主流派マクロ経済学の教科書は全く見つからない。――こうした現実のオペレーションの話題は主流派の注目から逸れてしまっており、主流派は未だに「いかに中央銀行がマネーサプライをコントロールできるか」を強調したがっている。

基本的な現代金融理論(MMT)のコンセプトを知りたい方は、以下の一連の入門記事群――Deficit spending 101 – Part 1邦訳)、 Deficit spending 101 – Part 2邦訳)、Deficit spending 101 – Part 3邦訳) ――をお読みいただきたい。

  1. それからVoxeuの著者たちは二つ目の選択肢について議論している――“中央銀行は政策金利と同水準の付利を超過準備に与える”

このことは、銀行にとって“準備預金を保持することによる機会費用”をゼロにするという意味がある。というのは、(インターバンク市場でも広く共有されているものと同水準の)短期金利を稼得するからである。

“中央銀行はその金利において好きなだけ準備預金を供給できる” 上、超過準備は、商業銀行の(中央銀行に対して開設している)口座にその分だけ留まり、 “他の短期流動性資産とほとんど変わらない代替資産” となる。

これは多くの中央銀行(FRB、BOE、etc)が金融危機以降に導入しているスキームである。

結果として、中央銀行が選好する政策金利の設定と維持が、(商業銀行が中央銀行に対して保有する)準備預金の量と無関係になったのである。

専門用語では“金利と準備預金の‘分離’”であり、このことについてVoxeuの著者たちは以下のように論じている:

…一般的な教科書や経済学的考察の中ではこうした手法はいまだ発見されていない

このことは、我々がこれまで20年以上はっきりと論じてきた標準的な現代金融理論(MMT)の範疇だ。詳細については、我々の初めてのMMTの教科書 Modern Monetary Theory and Practice: an Introductory Text にて説明している。

それよりさらに詳しく説明する予定の中級のMMT教科書は現在作成中で、完成に近づいている(この本の出版についての詳細は、8月4日ごろに明らかになるだろう)。

明白なのは、Voxeuの著者たちが、これまで数年間に出版してきた我々の研究を無視してきた(あるいは認知していない)ということである。

この点についてのさらなる議論については、Building bank reserves will not expand credit邦訳)、及び Building bank reserves is not inflationary邦訳)をお読みいただきたい。

Voxeu著者たちがこうした中央銀行の準備預金の構造を描写した目的は、以下に示す彼ら固有の論点を論じるためだ:

中央銀行は当然ながら無利子準備預金を恒久的に注入することが出来、永久にゼロ金利を受け入れることができる…このことは予算の余裕を創り出すが、金融政策を完全に放棄することになるというコストが生ずる。

この文章が意味するところを、MMTの語法を用いて以下に整理しよう。

  1. 全ての国家政府支出は、‘紙幣印刷’(printing money)ではなく民間銀行システムの銀行預金を創造する形を取る。
  2. 独自通貨(own currency)の独占的発行者である国家政府は、収入に制約されない。これは国家政府が、不換紙幣のユーザーである家計とは異なり、自身の支出の‘資金調達’を行う必要がないことを意味する。
  3. 全ての商業銀行は中央銀行に口座を開設しており、その口座では準備預金が(訳注:中央銀行によって)管理され、手形交換(決済)システムがスムーズに運用できるようになっている。
  4. 中央銀行は日を跨いで銀行の中央銀行当座預金口座に残る準備預金に対して ‘サポート’ 金利を設定している。ゼロにもなりうるこの金利は、経済における金利の最低値となる。
  5. 財政支出においては(通常)、中央銀行にある政府預金が同額引き落とされ、払い先の民間銀行預金と、当該民間銀行の中央銀行準備預金が同額分増える。
  6. したがって、財政赤字の増加は、準備預金の増加に繋がり、そのとき、上述の ‘流動性管理’ に従って中央銀行による準備預金の ‘管理’ の必要が生ずる。
  7. 言い換えると、財政赤字の進行は準備預金の追加を通じて短期金利に下方圧力をかけ、それに対し、中央銀行が介入し、超過準備に対する資産入れ替えを提示しない場合は、短期金利がサポート金利(あるいはゼロ)まで低下することになる。

MMTの重要な貢献は、財政赤字の構造と、(上述したような)銀行システムに対する財政赤字の影響に関して完全な理解を提供するところだ。あなたはこのような動態を、いかなる主流派経済学の教科書、あるいは金融経済学の教科書でも見ていないだろう。

その上、ごく最近まで、多くのポストケインジアンの研究ではこうしたオペレーションの実態が無頓着に無視されていた。現在では多くの場合、 “我々は元から知っていた” と主張されるのだが。彼らが過去にそれについて書いていたのでなければ、「彼らは元々は知らなかったのだ」とするのが正常な反応だろう。

このように、Voxeuの著者たちは、明示的財政ファイナンス(Overt Monetary Financing)が(利払いを免除することで)財務省に資金源を供給し、その一方で中央銀行が正の金利を維持できなくなるものであると考えている。

そうして彼らは、OMFアプローチに対する独自の批判点を構築するのである。

もし中央銀行が政策金利のコントロールを維持しようとする(正の金利を維持しようとする、という意味)なら、そこには“たった二つの選択肢しかない”と彼らは言う:

  1. “中央銀行は、準備預金に対して政策金利と同額の付利を行うことが出来る…しかし、これは統合政府の観点からは債務発行による資金調達と等価になる――利子分の節約が生じないからだ。”
  2. “あるいは、中央銀行は金融拡張分と同量の無金利の強制法定準備を課すことが出来る…しかしこれは租税による資金調達と同等であり、民間部門の一部がコストを負わなくてはならない。”
  3. “いずれの方法にしても、一時的な財政ファイナンスによる需要の追加的拡張は実質的な効果を生じない”

第一に、政府の財政赤字が支出されるとき、それは経済における購入力の増加(政府の行動による直接的なものか、非政府主体のさらなる所得の稼得を通じた間接的なものかのいずれか)を通じて経済全体の活動を刺激する。

この刺激は、最初の所得増加が次のさらなる支出へと反響していく消費誘導という形の支出システムを通じて倍化されていく。

財政赤字の増加は、非政府部門における金融純資産の増加も齎す――非政府主体の金融上の富が増加するのである。

金融純資産がどのような形で増えるか(銀行預金、政府債券、あるいは他の金融資産)というのはここでは傍論である。

二番目に、もし政府が増税を通じて支出増加分を満たすことを選択したら、その刺激は財政赤字追加を通じた支出増が齎す刺激よりも弱くなるだろう。これは明らかなことだが、これもまた傍論だ。

三番目の論点は、もし通貨発行権のある政府(変動為替相場制度をもつ)が全く債務を発行せずに財政赤字を創出した場合(あるいは、非政府主体の代わりに中央銀行へ債務を売却した場合、これは同等の行動であるが)何が起こるかである――つまりomfをしたら何が起こるだろうか?

あらゆる政府支出において、財務省は商業銀行が中央銀行に対して保持する準備預金口座に振込を行う。その商業銀行には、政府支出先の銀行預金口座があるだろう。したがって、銀行預金が創造されるので、商業銀行の資産と負債が両建てで増加する。(訳注:商業銀行資産は準備預金、商業銀行負債は銀行預金)

この取引は明瞭だ:新しい預金が創造されるので、商業銀行の資産と負債は両建てで増加する。その上、財政支出先は資産(銀行預金)および(負債/株式を加味した)純資産の増加を享受することになる。租税はこの逆の現象を起こす。したがって、財政赤字(租税を越える財政支出)は準備預金を増やし、民間純資産を増加させる。

このことは、(訳注:財政赤字創出の際に) ‘現金システム’ の中で超過準備が生じ、中央銀行にとって流動性管理の問題が生じている可能性が高いということを意味する。中央銀行の目的は目標金利を ‘狙い撃つ’ ことであり、したがってインターバンク市場における競争的な力がその目標に対しての譲歩を生じさせない状態を確保する必要がある。(訳注:超過準備がインターバンク金利を政策金利以下に引き下げないようにする、という意味)

超過準備が存在する場合、(銀行が金利所得機会を追い求めるために動くことで)オーバーナイト金利への下方圧力が生じている。そこで中央銀行は、超過準備を吸収し、目標金利に整合的な流動性の水準を維持するために、政府債券を銀行へ売却しなければならない。中央銀行の一部は、日を跨ぐ準備預金に対して付利を行うことで、流動性管理オペレーションにおける債務売却の必要性を減じている。

こうした債務売却が政府純支出の ‘資金調達’ と何かしら関係があるはずだと考えるのはナンセンスだ。そうした売却は、金利維持を目的とした金融オペレーションだ。こうしてM1(非政府主体の銀行預金)は財政赤字の結果、応分の負債(訳注;民間の負債)の増加なしで増加する。

この結果は、財政赤字が非政府主体の金融純資産を増やすという結論を導く。

4番目の論点だが、政府の財政赤字支出を増やした分だけ非政府主体に対する債務を発行したら、何がおこるだろう?

起こるのは、債券売却の分だけ準備預金が減るという事だが、その際、政府純支出によって創造された銀行預金は減少しない。

この場合、非政府主体の金融純資産は変化しない。変化するのは、非政府主体の資産ポートフォリオの構成だ。

財政赤字支出による刺激は影響を受けないだろう。なぜなら、非政府主体は、資産ポートフォリオを再構成して、他の金融資産(おそらく銀行預金)を減らして政府債券の保有を増やすだけだからだ。

財務省が ‘中央銀行から借入する’ 場合と非政府主体に対して債務を発行する場合の唯一の違いは、政策金利目標を追求するために中央銀行が使用する手段の違いだけだ。

もし債務が財政赤字と同額分だけ発行されない場合(訳注:財政赤字の一部を債務無発行ないし債務の中央銀行の引き受けで補う場合)、中央銀行は超過準備に付利を支払うか(ほとんどの中央銀行が現在行っている)、あるいは目標金利をゼロまで引き下げるか(日本の対応策)のどちらかを行わなくてはならない。

そこでは、非政府主体の純資産に対する財政赤字の影響の違いは生じない。

主流派経済学は、中央銀行が準備預金の吸収を行えば、貨幣乗数(マネーサプライを拡張しインフレを起こす)を通じて、銀行の融資能力を減らせると主張する。

しかしながら、事実は以下の通りだ:

・準備預金の積み増しは銀行の融資能力を増やさない。

・貨幣乗数プロセスは主流派にとても愛されているが、銀行の実際の融資方式を記述するものにはなっていない。

・インフレーションは、潜在的実質産出能力よりも速い総需要の増加によって生ずる。銀行の準備預金量は、こうしたプロセスとは機能的な関係を持たない。

・銀行は、政府純支出を伴うオペレーションとは無関係に、信用力のある顧客を見つけた際その分だけ信用創造を行うことが出来る。

こうした事実はいずれも、財政赤字がインフレーションリスクを齎さないという結論を導くわけではない。あらゆる総需要成分は、過剰である場合にインフレーションリスクを齎すし、過剰かどうかは支出と生産キャパシティの間の関係のみで定義づけられる。

しかし、財政赤字の増加と同額の政府債務所有を民間が行えばインフレーションリスクが低下するという考えは完全に誤っている。そんなことはない。

Voxeu著者たちの考えとは対照的に、民間による政府債務所有が財政赤字拡張によって発生する経済刺激の強さを減じるということもないのである。

(Voxeu著者たちが二番目の選択肢として提示している)「各日に超過準備の分だけ ‘法定準備’ を引き上げる」などという馬鹿げた選択肢は無視するとして、中央銀行が政策金利と等価のサポート金利を超過準備に支払うという行為(第一の選択肢)は、非政府主体に対する債務発行と同義なのだろうか?

ある意味、これは良い論点だ。というのは、このことは、政府債務の性質と、政府債務がどのように払い戻されるかを明らかにするからである。政府債務は中央銀行の預金口座と全く同等のものであって、その払い戻しの際は、資産保有がある預金(政府債務)から別の預金(準備預金)に移り変わるのと同じなのである。

ただ単にこのことは、公的債務に関して不安を掻き立てる論説すべてが事実無根であることを意味する。通貨発行権のある政府は、自身が発行する通貨の中に限れば、いつでも発行負債を償還することが出来る。

もし仮にアメリカ政府が、FRBに対して合法的に全ての発行債務の償却を要求したとすれば――いくつかのコンピューターで何個かキーを叩くだけで――ある預金(債務)から別の預金(準備預金)に数字が切り替わることになる。

したがって、どちらのケースでも非政府主体へ所得がもたらされるのは同様だという見方からすれば、超過準備付利と非政府主体に対する債務発行の間に根本的な違いはない、というのが事実である。

中央銀行が、いずれのスキームにおいても、利払いに影響を与えることが出来るというのも事実だ。究極的には、もし仮に超過準備付利や発行債務金利がゼロやマイナスになるとすれば、中央銀行は(日本のケースのように)ゼロ金利どころかマイナス金利を維持することも可能なのである。

しかし、それがどうしたというのだろう? こうしたことは、政府財政赤字の増加がもたらす刺激の度合いに何の影響も与えない。

このことはまた、政府財政赤字増加によって発生するインフレーションリスクを、追加することも減らすこともないのである。

そして、非政府主体における金融純資産の量も変化しない。ポートフォリオの構成が変わるだけだ。

違いがあるのは、公的な認知においてだろう。狂気じみた金融評論家たちが狂乱して叩き、財政破綻予想をどんどん創出するような公的債務の増加がない。(訳注:超過準備付利スキームにおいては、という意味)

彼らは注意の方向をインフレーションリスクに向けるだろう――しかし、それがどれだけ馬鹿げたことかはものの数十分で明らかになる。

したがって、OMFの利用には大きな政治的な優位性があるのだ。

その上、OMFは、非政府主体にリスク査定のベンチマークとして用いられる低リスク金融資産を導入させることになる。無リスク年金という形の企業福祉が行われる時代は終わるだろう。人々は、自身の不安を解消するために、政府債券ではなく無リスクの準備預金を保有するだろう。(訳注:企業年金は大抵は国債で運用されるので、そのことを言っているのかと)

 

 

 

しかし、MMTの観点から好まれる選択肢は、Voxeu著者たちが “大きな代償を支払うことになる” と主張している選択肢だ。

その “大きな代償” というのは、中央銀行が超過準備に対して一切サポート金利を払わず、短期金利がゼロに落ち込むのを受け入れるというものだ。

金融政策は実に反応が鈍く無力な政策手段であり、したがって無価値であると宣告されるべきだ。主流派は、支出サイクルの安定化に際して、金利操作が好ましく効果的な選択肢であるという説得的なケースをいまだかつて示したことがない。

世界同時金融危機の経験はむしろ逆のことを示した。あらゆる金融政策の活動はろくに効果がなかったのである。

オーバーナイト金利をゼロに設定し、長期金利(これはインフレーションリスクに影響がある)を可能な限り低くなるようにするのはまだマシとはいえるだろう。

そして、支出サイクルの管理には財政を用いるべきだ。財政は目標設定が可能だし、迅速に調整できるし、直接的な影響力がある。

Voxeu著者たちが恐れている “大きな代償” というのは、「新自由主義者が財政政策を『望まくない政策のバスケット』の中に押し込むのを可能にするためのイデオロギー的な抑止として、金融政策の強調(ないし金融政策への依存)が行われてきたに過ぎない」という事実を暴くこと以外の何物でもない。

OMFは、このようなイデオロギー的な十字軍を公衆の面前に晒し、決定的に沈めることになるだろう。

ビル・ミッチェル「銀行融資は―準備預金ではなく―自己資本によって制約されている」(2010年4月5日)

Bill Mitchell, “Lending is capital- not reserve-constrained“, Bill Mitchell – billy blog, April 5, 2010.

 

今日、バーゼル委員会の「自己資本比率規制を強化し、銀行規制体制強化のための新しい流動性ルールを導入するべきだ」という新しい提案文書をずっと読んでいる、全てを読み切るにはあまりにも膨大な文書だ。さて、私はこの新しい提案に関する二つの異なる見解に遭遇した。一部の評論家は「自己資本比率規制は銀行の信用創造能力を阻害するものであり、したがって規制が経済成長に歯止めをかけるだろう」と論じている。もし自己資本比率規制が強化されれば、そうしなかったときよりも成長率は低くなるだろう、というわけだ。一方で、著名な”進歩的”経済学者は、そうした見解に異議を唱えたが、同時に主流派マクロ経済学の迷宮の中で混乱状態に陥っていた。そうした混乱は、自己資本比率規制と法定準備制度がたびたび混同されてしまうという事実を明確にさらけ出すものだった。

はじめに、こうしたタイプの論争で良く見られる混乱をきちんと回避しておこう。規制体制における銀行の「自己資本比率規制」と「法定準備制度」の間には根本的な相違があるが、金融システムを知らない人々はこれらをしばしば混同している。

拙記事Bond markets require larger budget deficitsにおいて私は、BISが発展させた「自己資本比率規制に基づく銀行監督システム」について概説した。

当該記事では、バーゼルⅠに始まり現在バーゼルⅢまで移行しているBISの規制システムを検討している。私は、この銀行規制システムが、どのような方法で銀行(および他の預金機関)の資本運用についての透明性の高いフレームワークの確立を狙ったかを描出した。

バーゼルの規制枠組みのおおまかなアプローチは、リスクと関連付けた銀行資本の表記だ。銀行資本は、Tier1資本(払込資本+内部留保)とTier2資本(優先株と一部の劣後債)に分類される。

銀行のリスクは、リスクアセットの観点から表記される。リスクアセットには、現金や政府債券(これらはリスクゼロ)から、リスク100%の貸付金etcまで幅がある。

自己資本比率規制は、銀行が可能なレバレッジ比率に制限を課し、リスクテイクの制限を試みている。資本にはコストがかかるため、自己資本比率規制は銀行のサイズの制約にもなる。最終的には、金融危機時に政府が金融機関を救済する際の公的部門から私的部門への出資比率を引き下げることになる。資産に対する資本の比率を高めれば、(訳注:政府介入の水準が下がるので)株主はよりいっそう銀行破綻の影響を受けやすくなる。

銀行資本の見積もりは、それぞれの国で異なった方法で行われている。例えば、アメリカは従来バーゼルⅠを施行してきたが、2004年にバーゼルⅡに移行し、(リスク計算方法が変更された)ルールの強制を行ったところ、銀行がその対応に失敗してしまった。これは有名な規制の失敗である。

バーゼルⅢでは、世界金融危機への対応として流動性カバレッジ比率(LCR)が導入されるだろう。そしてBISは、全ての国際銀行が30日間以内に満期になる全ての負債と同額の的確流動資産の保有を提案している。(訳注:参考リンク)こうしたバッファーは、あらゆる銀行経営を補完し、全体の流動性を保全して、政府による救済の必要性を弱めるようにデザインされている。

バーゼルⅢにおけるそれ以外の主要な変更点としては、銀行が“安定調達比率”(NSFR)を100%に維持しなくてはならないというものがある。これは銀行が12か月間の資金需要(簿外契約や証券化予想を含む)と同量の長期借入ないし長期預金を保有していなくてはならないということを意味している。(訳注:参考リンク

自己資本比率規制の主目的は、銀行の融資創出能力に制限を課し、銀行に自己資本を蓄積するインセンティブを与えることである。そうしたアプローチの欠点は、リスク加重比は資本追加(分子)でも運用資産削減(分母)でも改善することが出来るというところである。後半はバランスシート再構成で達成可能であり、それはまさしく銀行が行ったことである。

資本裁定取引(例:証券化)を頼みの綱にするというのが、銀行が自己資本比率を達成するための主要な手法の一つだった。証券化とは、銀行が担保付き融資を行い、それを集めて債権プールを作り、第三者(いわゆるSPV(特別目的事業体))に売りつけることでバランスシートから除去するというプロセスのことである。証券化の後、SPVは市場で当該資産を確定利付証券として投資家に売却し、現預金を(手数料を差し引いて)銀行に返還する。

バランスシートから貸付債権を除去する(SPVに押し付ける)ことで、銀行は資本比率を改善することが出来るが、金融システム全体のレバレッジは変化していない。その上、広域のリスクウェイトの中で、銀行は高質な運用資産(リスクウェイトの中のトップ 訳注:リスクが最も低い資産ということ)を売り、代わりに低湿な運用資産(100%リスクウェイト資産の底辺)を購入していた。単純な自己資本比率では銀行の資産状況が良く見えるだろうが、リスクの観点から言えば銀行の破綻リスクは上昇する。

バーゼルの新しい提案は、こうしたタイプの回避を抑止するようデザインされている。

最も先進的な国々では、銀行資本の乗数として銀行融資を制限するバーゼルⅠとバーゼルⅡを完全に施行してきた。したがって、基本原則としては、銀行融資は(ルールを回避する不正な手法や、いくつかの国におけるルール強制の緩みはともかくとして)こうした規制枠組みの下で自己資本に制約されているということになる。

幾度も説明してきた通り、法定準備制度にはこのような融資制限機能は無い。商業銀行は、中央銀行準備預金口座を、決済システム(手形交換)の円滑化のためだけに保有している。多くの国は法定準備制度を持たず、持続的に赤字になるのが禁じられているだけだ。アメリカでは現在、プラスの準備預金要求の廃止を検討しているところだ。

法定準備制度は、いにしえの金本位制の遺物であり、現在の金融システムとは無関係だ。法定準備制度は、銀行のリスクを減じることがないだけでなく、取り付け騒ぎにおける引出バッファーとなることもない。

法定準備制度が銀行融資の制約にならない理由を理解するには、銀行の運用方法を理解しなくてはならない。銀行は、信用に足る顧客を集めて資金を融資し、それによって利益を得る。信用度の構成要素は景気循環によって変動するので、好景気においては、銀行のシェア拡大のために貸出基準は緩和される。(Minsky’s driverの一つ)

こうした融資は、銀行の準備預金量とは独立に行われる。中央銀行による商業銀行準備預金の要求方式に従って、商業銀行は会計期間内の法定準備確保のための資金を希求するだろう。商業銀行はインターバンク市場でお互いに準備預金を融通することができるが、システム全体の準備預金が不足する場合、こうした水平取引では法定準備を追加することはできない。

こうした場合、銀行は中央銀行に債権を売却するか、”割引窓口”と呼ばれる制度を通じて直接的に中央銀行から借り入れるだろう。こうした資金源の利用には、ペナルティがあるのが普通だ。個別の銀行のレベルでは、確かに”準備預金のコスト”が信用審査部の融資判断にいくらか影響するかもしれない。しかし、準備預金量それ自体は無関係だ。つまり、融資リターンと中央銀行の割引窓口融資の金利の間の利鞘が十分である限り、銀行は融資を行うだろう。

したがって、超過準備の増加を通じた銀行バランスシート拡張のために最初に準備預金を”調達”する必要があるという考えは不適当である。銀行のバランスシート拡張能力は保有している準備預金量にも、いかなる部分法定準備制度にも制約されていない。銀行は融資によって自己のバランスシートを拡張する。融資は銀行預金を創造し、事後的に法定準備で裏付けられる。新しい銀行負債を創造する融資(信用)拡張プロセスと準備預金は無関係だ。

要するに、バランスシート拡張によって法定準備が不足すると、中央銀行の割引窓口からの借入による”ペナルティ”の結果として、期待収益は影響を受けるかもしれない。しかし、バランスシート拡張それ自体は銀行の融資余力を妨げたりはしないのである。

この点についてのより詳しい議論については、Money multiplier and other myths邦訳)、Building bank reserves will not expand credit邦訳)、およびOh no … Bernanke is loose and those greenbacks are everywhere をお読みいただきたい。

しかし、自己資本規制はいかなる時でも商業銀行バランスシート拡張に制限を課す。この記事(訳注:リンク切れ)は、書いてあることすべてに同意することは出来ないが、自己資本規制については良い入門記事だ。

そうしたバランスシート拡張制限は、(バーゼルⅠ、バーゼルⅡ、および直近のバーゼルⅢといった)バーゼル委員会の規制枠組みの目的だった。その規制枠組みは、実際に銀行業のリスクを減らし、金融システムをより一層安定化させるだろう。(生産的な資本への)より安定した投資環境は、より高い経済成長率に繋がり得るだろう。

銀行のメルトダウンが現在生じている危機を引き起こし、急速に実体経済に波及して所得創出や福祉に重大な影響を齎したことは明らかだ。実体経済は、不況が引き起こしたダメージから回復するのに長い年月を必要とするだろう。

いくつかの国、例を挙げれば、ラトビアでは、GDPが20%近く縮小し、2010年の予測では、回復の兆候が表れる前で4-5%の成長低下が続くだろうとされている。銀行システムにおける過剰金融投資の結果として、実体経済の5分の1が棄損してしまったのである。

したがって、将来的な金融メルトダウンのリスクを減らす改革が大きな経済利益を齎さない、と論じるのは難しいと思う。

しかし、Andrew Ross Sorkinは先週の(2010年3月29日)ニューヨークタイムズのコラムでThe Issue of Liquidity Bubbles Upと題し、アメリカにおける自己資本比率を引き上げるあらゆる動きは経済繁栄を抑圧するだろうと論じている。

彼は、自己資本比率引き上げとそれがアメリカの銀行に与え得る影響に関するガイトナー米財務長官との先週の会話について詳しく書いている。

ガイトナー氏の疑問に対する回答は、ウォール街に多大な影響を齎すだろう。――特に、銀行が彼らの準備預金口座にどれだけのお金を保持しておかなくてはならないかという点においてだ。銀行が資金をため込もうとすればするほど、成長事業への融資ができなくなっていくという問題が生ずる……もちろん、不定期的な危機に対してさえも防御するなら、彼らの”賭け”が悪い方向に転がるのに備えて、銀行に大量の資金を手元に保持するようを強制することになるだろう。しかしそうすると銀行融資が減り、経済成長を犠牲にすることになる。

ガイトナー氏は、リーマン・ブラザーズの命を奪ったハイリスクな銀行運用から銀行システムを守るのに必要な変化は、自己資本比率の引き上げしかないと固執している。

Sorkinは自己資本比率の引き上げが銀行の融資能力を変化させると主張している点では正しい。とにかく我々は、銀行融資が準備預金ではなく自己資本に制約されているということを理解しなくてはならない。

しかし、自己資本比率規制が経済成長を引き下げるだろうという彼の考えは間違っていると私は考えている。BISの提案文書では、こうした疑問についてイントロダクションからたくさんの文字を費やして検討しようとしている。この文書からもはっきりとした結論は浮かび上がってこないが、その理由の一つとして、これまで銀行は資本裁定取引を通じてルールを回避することができていたことがあるだろう。。

(訳注:文書には)限られた決定的でない証拠はあって、銀行がポートフォリオ全体のリスクを引き上げるようなより資産の入れ替え(よりハイリスクな運用資産への)をしていたのは確かだ。

尤もらしい根拠があるのは、“銀行は自己資本比率の圧力に対して”、景気循環に応じて”最もコストパフォーマンスが良いと信ずる方法で対応するだろう”ということと、”不景気においては融資の削減が最もコストパフォーマンスに優れるものの、好景気においては新しい資本の追加や内部留保の拡張の方が容易である”ということだ。(ソース:BIS

このことは自己資本比率規制が通常、経済がとにかく不調で信用需要が小さい時にあまりうまくいかないという見方とも整合的だ。したがって、信用が自己資本規制に制約されていると論ずるのは難しいだろう。信用も、自己資本規制も、総需要の不安定性に影響を受けているからだ。

上記で引用したBISのペーパーでも”固定的最小自己資本比率規制が、実体経済に悪影響を与える信用収縮を起こす”かどうかについて考察している。

検討した後の結論として:

ある国のある時期において、銀行が固定的最小自己資本比率規制を満たし続けるのが困難と判断し、融資の削減を強いられることはあり得るだろう。自己資本に比したリスク量を制限するために銀行に課すのが固定最小自己資本比率規制の目的なのだから、その時期にこの規制が発動しなかったらむしろおかしな話だ …

この疑問を検討する上での困難なポイントの一つは、銀行が深刻な自己資本制約にあるときは大抵銀行が大規模な債務償却やspecific provision(自己資本削減)を行っている時であり、そうしたときは借入需要も弱い可能性もあるということである、銀行の融資削減の理由が、自己資本制約ではなく、特定のリスキーな部門への融資の懸念であった可能性もあるのである。

ところで、固定的最小自己資本比率規制を生産の減少と関連付けて考えるとき、あなた方は“銀行融資の不足は、他の資金仲介業や証券市場へのアクセスによる資金調達では完全にはカバーできない”ということを押さえておく必要がある。実際の証拠となると混合しておりはっきりしないが、小さい会社は典型的には銀行融資により依存しているために困難に陥りやすい。

BISはまた、”銀行の最小自己資本比率規制と金融安定(及びそれに基づく生産)の関係”について論じている。これは私が先の方に論じたポイントだ。

BISが言うには:

銀行の自己資本比率規制は、資本に比した過剰なリスクテイクを抑制するという狙いがあり、それによって破綻可能性を減じている。もしそれが成功すれば、トータルで見て、自己資本規制は生産に正の効果をもたらすだろう。

したがって、よりタイトな自己資本比率規制は信用拡張をいくらか制限するかもしれないが、投機バブルの回避を通じてより安定した成長を提供するだろう。

その上、現代金融理論(MMT)の見地からすると、全体の成長と民間信用の制限との間には何の関係もないのである。もし自己資本比率規制の強化が民間信用を抑圧するなら、そのとき政府の財生産やインフラ供給の余地があることになる。

繰り返しておこう。銀行融資は自己資本に制約されているのであり、準備預金には制約されていない。どのように金融システムが動いているかの理解から導かれる基本的なポイントだ。

その次の日(2010年3月30日)、アメリカのいわゆる”進歩的”評論家のディーン・ベーカーがSorkinをSorkin is Wrong: There Is No Tradeoff Between Growth and Bank Capital Requirementsで攻撃したのを読んで驚いた。

うーむ、私が上述したような進歩的な主張、つまり、自己資本比率規制はシステムをより安定化することを通じて、甚大かつ有害なブームとバーストなしに持続可能な経済成長を可能にするという主張を読むことになるという風に予想していた。(そうした場合、長い目で見た自己資本比率規制の影響はポジティブなものになる)

私はがっかりすることとなった。

以下がSorkinに対するベーカーの言及である。

NYTコラムニストのAndrew Ross Sorkinは読者に対し、自己資本比率規制を安全確保のために強化すれば、”銀行が貸出を控えてしまい、経済成長が犠牲になるだろう”と警告している。これは事実ではない。

FRBは、経済活動の水準に合わせて金融システムに注入する準備預金の量を決定する。もし経済活動が減速しすぎているなら、システム内により多くの準備預金を投入して、銀行が融資量を追加できるようにさせる。Sorkinの主張とは裏腹に、事業のためのより多くの融資のために同じ量の準備預金からのレバレッジを拡大する必要はないのだ。

おやおや、ディーンは私たちの週末クイズ(訳注:ミッチェルのブログで週末に行っているクイズ)を見に来た方が良いと思わないかい? きっとひどい成績を残すと思う!

最初のパラグラフでSorkinが言及しているのは自己資本比率規制なのに、ディーンが後段で論じているのは法定準備制度だ。初歩的な論法ミスだろう。

しかしさらに悪いのは、中央銀行がシステムへの準備預金追加を通じて銀行の信用拡大能力に影響を与えることが出来るという彼の考えだ。これは初歩的な誤解だ。

この点についてのより詳しい議論のためには、Building bank reserves will not expand credit邦訳)とBuilding bank reserves is not inflationary邦訳)を読んでほしい。

もし”経済活動が減速し過ぎている”なら、中央銀行は利下げ以外で民間信用拡張のためにできることはほとんどない。準備預金の利用可能量は銀行融資を引き上げない。ディーンの見解は「”マネーサプライ”が、(中央銀行の提供する)マネタリーベースからの乗数倍で決まる」という、銀行業に関する古びた貨幣乗数理論の見解だ。

主流派経済学が主張するようなこうした”乗数”の(誤った)計算によれば、中央銀行はマネーサプライをコントロールすることができることになっている。これは完全なる間違いだ。なので、”進歩的”といわれているベーカー博士がこのような出鱈目をいまだに信じていることに私は大変驚いた。こうしたナンセンスな議論が進歩的なコメントだとされているアメリカはそれだけひどい状況なのだと言う事ができるだろう。

自己資本比率規制に従う銀行が融資能力を拡張する明確な方法は、自己資本を追加することだ、――それこそが、規制枠組みが導入したデザインだろう。

少しだけSorkinの主張に立ち戻ろう。記事の後半で彼は、銀行と規制当局との緊張関係を論じている。彼の先の主張は、銀行のレバレッジ比率に対するいかなる制限も、銀行の収益性を減じてしまうというものだ。確かにそうだが、何か問題があるだろうか?

彼は、現在では完全に信用を失ったアラン・グリーンスパンを以下のように引用している:

銀行、あるいはあらゆる金融仲介機関は、競争的であるために多大なレバレッジを必要としている……十分なレバレッジがなくては、市場は金融資産運用に資本を引き付けるだけの十分に高い収益率を実現しない。但し、大きすぎるレバレッジは、銀行決済をリスキーにする。

これが正しい間はそれが良い公的銀行システムということになるだろう。しかし、我々はどれだけの期間の収益率を計算するだろう? その計算に我々はどんな要素を含めるだろう?

もし収益計算にあたって、全世界の金融システムの崩壊を防止するために必要な莫大な損失や政府救済のコストなども含めるなら、長期的なリターンは負になるだろう。公的銀行システムは金融安定を齎し、安定した収益(社会的)を全体的なリスクの大幅削減と共に実現することができるだろう。

しかし、バランスシートの資産面を通じた民間銀行規制、および自己資本比率規制の枠組みに対して採用される戦略について配慮する必要がある。自己資本比率規制の強化と、”簿外”取引へのさらなる注意が現在必要とされていることも明らかだ。

自己資本比率規制の水準が低すぎるシステムでは、公に晒される銀行破綻の危険度は非常に高くなり、モラルハザードが高度に生ずる。最高の方法は、銀行システムを国家化し、100%公共目的に集中することなのだが、より現実的な方法は、パニック時にシステムから一時退避するのが可能なだけの十分なバッファーを民間銀行に確保させることである。

それは(狭義の)収益性を損なうが、社会的収益を強化する。

違う角度から言えば、民間の投資家は、よりタイトな自己資本比率規制が施行されるなら、(リスクに晒される危険度が低下する分だけ)低い収益を受け入れることになるのである。つまり、自己資本比率が強化されるとき、民間投資家に課される総コストは上昇する。

 

驚くべきことに、著名な進歩的評論家でさえ未だに伝統的なフレームワークにとらわれており、金融システムに関する初歩的な誤解を抱え続けている。このことは、一連の議論における我々の主張を蔑ろにするように機能している。

だからディーン――分かっていないなら、何も書かないでくれ、頼む! もしあなたが自分の話している話題について理解しているつもりなら――基本に立ち返って、あなた自身が専門であると宣言している金融実務のシステムについてきちんと理解していただきたい。

 

今日はここまで。

 

ビル・ミッチェル「準備預金の積み上げはインフレ促進的ではない」(2009年12月14日)

Bill Mitchell, “Building bank reserves is not inflationary“, Bill Mitchell – billy blog, December 14, 2009.

 

今日私は仕事でDubboにいる。Dubboはニューサウスウェールズ州の西部で、州の中でも外れた辺鄙なところにある。普通の人々はしばしば通り過ぎてしまうこのオーストラリアの田舎では、美しい景観が楽しめる。私のこの実地見学は、この地域の土着のコミュニティについて私が継続的に行っている研究と関係がある。この研究についてはいつか報告しよう。さて、今日の記事は、私が昨日に準備預金について展開したテーマの続きだ。昨日の記事―Building bank reserves will not expand credit邦訳)では、準備預金の動態について検討したが、時間が無かったので、いくつかの論点を残してしまっている。一つの論点は、準備預金拡張がインフレーションに与える影響の可能性についてだ。これは、危機に対する金融政策の効果に関する時代遅れな考えについての主流派たちの病的熱狂の核心的部分だ。結論については安心してほしい――金融政策についての唯一の問題は、それが無効であり、より大きい財政政策の努力が必要だというところだ。

この記事の目的は、昨日からスタートさせた準備預金についての2パートに渡る記事のシリーズの結論を下すことだ。この記事は――他の表現法によって――現代金融理論(MMT)の重要な原則の一部をよりいっそう明らかにするだろう。MMTの原則については、Deficit spending 101 Part 1 (邦訳|Deficit spending 101 Part 2邦訳)|Deficit spending 101 Part 3邦訳) および他の記事にて展開している。MMTの最重要原則を網羅した記事の総集編が見たければ、Debriefing 101をご覧いただきたい。

昨日の記事―Building bank reserves will not expand creditでは、BISの最近のワーキングペーパーであるUnconventional monetary policies: an appraisalを、金融システムのオペレーションの各側面を説明するために利用した。金融システムオペレーションは、MMTの核の部分であり、主流派マクロ経済学が首尾一貫した形で描写できていないものでもある。

具体的な論点は、ポール・クルーグマンが現在実行している「量的緩和が融資刺激に必要だ」という政策提案についてだった。私は量的緩和が融資刺激に関しておおよそ不能であるということと、融資は準備預金に制約されていないが故にそれが驚くべくもない当然のことであるということを示した。クルーグマンは、金融政策と準備預金を関連付ける銀行オペレーションについて明らかに理解していない、という結論が得られた。こうした理解を発展させていくのがMMTの際立った核心的特徴である。

このBIS研究ペーパーを用いるのにはわけがあって、というのは、このペーパーは、銀行の専門家たちもまた、(主流派の論説に出てくる言語慣習を利用してはいるものの)MMTの重要部分を理解していることを示しているからだ。このことをさらに示すために、準備預金が金利政策とインフレ実現可能性に与える影響について、このBISワーキングペーパーをさらに検討していくつもりだ。

通常(現在のような顕著な経済危機でない間)は、金融政策は”短期金利に関するものだけだと定義される”。その場合、中央銀行は”政策金利”を設定するというシグナルを出す―この政策金利は、中央銀行の政策目標を達成するよう計算された金利である。しかし、同時に中央銀行は流動性管理オペレーションに従事しなくてはならない:

…金利が有効なものになるのを手助けするために: 中央銀行は、市場の”参照金利”、典型的にはオーバーナイト金利が、望ましい金利水準の近傍を確実に至るようにする。そのために、流動性管理オペレーションは、純粋に技術的で支持的な役割を果たすことになる

MMTを理解するためには、金融政策領域における流動性管理オペレーションのアイデアと、財政政策分野における政府支出と税収発生の影響とを結び付けることが重要だ。主流派経済学のいかなる教科書を読んでも、これら二つの領域を首尾一貫した形で結び付けているものはないだろう。実際、主流派経済学のパラダイムはこの二つの領域に対して誤った説明を行っているため、間違った結論を導いている。(例えば、主流派経済学者は財政赤字が金利を引き上げると主張している)

政府が支出を行うとき、銀行の準備預金口座への記帳が行われる(あるいは、銀行間決済システムに対する小切手を発行する)。そして、全ての取引が完了されたのちには、準備預金は拡張しているのである。逆に、政府が徴税を行うときは、銀行の準備預金口座が引き落とされ(あるいは現金or小切手を受け取って)、結果的に同額の準備預金が減少する。

こうした取引は政府と非政府部門との間の垂直取引であり、上記のように準備預金の創造と破壊を生ずるのである。必然的に、政府が財政赤字(徴税を越える支出)を計上したら、準備預金に与える影響は全体では正になる――全体では準備預金は拡張するのである。逆に、政府が財政黒字(徴税未満の支出)を計上したとき、準備預金に与える影響は全体では負になる――全体では準備預金は縮小するのである。

こうした財政的影響を理解することは重要だ。なぜなら、中央銀行による流動性管理オペレーションがどのような方法で行われているかを理解する手助けになるからだ。そうしたオペレーションは財政政策からは分離されているが、本質的に財政的影響とリンクしている。

そのリンクが形成される理由は、支出する際に”資金調達する必要がある”からではない。それは主流派経済学の教科書が作り上げているよくある誤解だ。自国通貨(own currency)を発行できる統治政府は、自身の支出に対する資金調達を必要としない。こうしたことは明白な事実なので、コメンテーターたちが逆の主張に固執しているという現実は私を絶えず驚かせている。

(政府債務発行や、租税といった)全ての財政的企図は、表面的には”資金調達オペレーション”だとみられているかもしれないが、実際にはそうした類のものではない。以下に続く議論で、政府債務発行が金融システムの中で果たす役割を明らかにするつもりだ。政府のレトリックに従えば(政府債務発行は資金調達オペレーションであるという)違う結論を出してしまうかもしれないが、日常的な流動性管理オペレーションの厳密な現実は(理解できれば)真実を明らかにする――政治的スタンスを現実から引き剥がすのである。

BISが言うには:

準備預金を通じて金利政策を実行する際の支点は市場だ。しかも特定の市場である。準備預金に対する支配力を通じて、中央銀行は準備預金の量とその(マージナルな)供給期間を設定できる。そうして、中央銀行は準備預金の機会費用(”価格”)であるオーバーナイト金利を自由な水準で設定できる。その唯一の理由は、中央銀行は自ら望めば、選択した価格で無制限に売買する用意があるからである。この事実は、中央銀行の出すシグナルの信頼性の源となっている。

重要なことだが、このシステムの中では金利は準備預金量から完全に独立して設定することができる。同じ準備預金量であっても、全く違う金利水準との共存があり得る。裏を返せば、同じ金利であっても、全く違う準備預金量との共存があり得るのである。重要なのは、政策金利に応じて準備預金に報酬を発生させる手法である。我々はこの手法を”分離主義”と呼称している。これは残りの分析において広範に渡る含意を持つものである。

彼らが参照している「シグナル」とは、アナウンスされた政策金利・ターゲット金利のことである。あなたがたもご存知の通り、中央銀行(財務省と合同で統合政府部門を構成する不可分要素)もまた収入制約を持たない――中央銀行は、準備預金を好きな価格で無制限に売買できる。

分離主義については昨日のブログ記事―Building bank reserves will not expand creditにて検討した。以下の議論では、”重要なのは、政策金利に応じて準備預金に報酬を発生させる手法である”という文言について明らかにしていく。

BISはこの議論を進めるために以下の図を用いている。この図は彼らのペーパーの4ページにあり、金融政策と商業銀行の利益追求目標との関係の中でどのような異なる準備預金付利スキームが運用されるかを理解するのに役に立つ。

図の中の様々なパラメータについては以下の通りに定義されている:

・rp=中央銀行の金融政策金利――中央銀行が自らの政策目標に近づくと信じている金利

・ro=インターバンク市場における準備預金の需給で決定されるオーバーナイト金利。インターバンク市場では、商業銀行がオーバーナイトで準備預金を貸し出したり獲得したりすることができる。システム全体で準備預金の超過がある場合は、インターバンク市場の取引は準備預金超過を解消することが出来ない。こうした場合は、中央銀行による吸収オペ(政府債務売却)のみが超過準備を解消する唯一の手段となるだろう。同様に、システム全体で準備預金の不足がある場合は、個別の商業銀行の保有量に関係なく、中央銀行による準備預金注入だけが不足を埋め合わせることが出来る。

・rE=オーバーナイトでシステムに残存する超過準備に対して、中央銀行から商業銀行へと支払われる金利(訳注:超過準備付利のこと)

・Rmin=決済目的に必要な準備預金の最小量。準備預金の移動を必要とする全ての日常的取引の決済を整然と実行するために、銀行はその量を保持する。

・R*=準備預金の均衡量。この均衡量は、銀行が決済目的に必要な最小量の準備預金と、競争的金利で所得を得られる超過準備を保有するときに達成される。均衡は、インターバンク市場でそれ以上の取引が無いという事を含意する。

この図をどう理解したらよいだろう?

ここでは2つのスキーム(Scheme1とScheme2)が示されている。Scheme1では、中央銀行が、政策金利を下回るサポート金利(rE)をオーバーナイト準備預金に支払うという通常の状況が示されている。オーストラリアでは、サポート金利は基本的に目標金利を25ベーシスポイント下回る。ニュージーランドでは、ニュージーランド準備銀行がrE=rEと設定してきた。(訳注:おそらく誤記? 政策金利=サポート金利ということが言いたいのではないかと) 最近まで、日本銀行とFRBはrE0として設定していた。

Figure1で記述されている金融システムでは、平均残高でみた必要準備が課されていない。(訳注:法定準備は普遍的な制度ではなく、カナダ、イギリス、オーストラリアなど、法定準備の存在しない国は多い。参照)したがって、BISの著者によれば:

…銀行がオーバーナイトで保有する必要のある準備預金量、すなわちRminは、完全に銀行の決済ニーズで決まる。決済ニーズには、予備的なものも含む。こうした決済需要は実施された全ての決済取り決めに依存し、事実上金利からは独立である

ペーパーによれば、銀行の超過準備需要(DD)は垂直(短期金利(オーバーナイト金利)とは無関係)である。なぜなら、銀行は確実の決済需要を確実に満たすだけの最小の準備預金(Rmin)だけを保持しようと望むからである。その水準は金利によって決定するものではない。中央銀行は、超過準備に適用される付利アプローチとは関係なく、上記の必要最小量の準備預金が常に利用可能な状態を確保しなくてはならない。もし中央銀行がその水準の準備預金の供給に失敗したなら、”オーバーナイト金利の著しい変動”が結果的に生じてしまうだろう。

BISは以下のように詳説している:

あらゆる超過準備は、オーバーナイト金利を、超過準備付利(ゼロ、あるいはスタンディング・ファシリティの金利)(訳注:スタンディング・ファシリティについて)が設定する底辺にまで導くだろう。というのは、銀行は不必要な準備預金をオーバーナイト・インターバンク市場に貸し出して処分しようとするからである。あらゆる準備預金不足は潜在的な決済困難につながり、オーバーナイト金利は許容不能なレベルまで上昇するか、一日貸出ファシリティが設定する天井にまで到達するだろう。ひとたび準備預金需要が満たされれば、中央銀行は、望む金利水準を示すことによってあらゆる水準のオーバーナイト金利を設定することができる。

さて、付利スキームはどのように重要なのだろうか? Scheme1では、利潤追求型の銀行は、決済用の最小量を超える超過準備を縮減しようとするだろう。なぜなら、”サポート金利”がオーバーナイト金利より低いからである。

もし(Rminを越える)準備預金がある場合:

準備預金保持による機会費用(ro– rE)の存在は、Rminを越える超過準備が存在するとき、銀行がこの超過分を貸し出そうとするだろうという事を含意する。そうすると、銀行はオーバーナイト金利をrEまで押し下げてしまうだろう。そうして機会費用は除去される。

したがって、決済用に必要な最小量を超える準備預金が存在するときはいつでも、銀行はrE(中央銀行から付与されるサポート金利)を越えるリターンを求めてインターバンク市場に準備預金を貸し出そうとするのである。もしrE=0なら、中央銀行が野放しにする限りは、オーバーナイト金利はインターバンク市場の融資競争によってゼロまで下がるだろう。

こうして得られる明白な含意は、中央銀行はそのとき目標短期金利のコントロールを失うという事である(rp>ro)。こうしたケースでは、中央銀行はインターバンク市場の動きを締め付けるために介入しなければならないし、そのために中央銀行は、商業銀行に対してrpに見合うリターンの代替的類似資産を準備預金の代わりに提示する。それは政府債券である。故に、政府債務発行は、正しくは、中央銀行が政策目標金利をコントロールするための手段であると理解されるのである。

Scheme2では、中央銀行は商業銀行の超過準備(決済用に必要な最小量を超える分)に対して政策金利に等しい付利を支払っている。この場合では:

…超過準備保持による機会費用は存在せず、決済用の最小量が満たされている限り、銀行は準備預金量を気にしなくなるだろう

したがってこの場合は商業銀行に対して公的債務を売りつける必要はない。サポート金利を政策金利に等しい値に設定することによって、中央銀行は政府債務に等しいものを商業銀行に提示しているのである。そうした支払い(訳注:中央銀行による超過準備付利)は、商業銀行が超過準備保有を削減する必要性を完全に解消し、銀行は代替有利子資産(例えば公的債務)を求めることなく巨大な準備預金を喜んで放置するだろう。

関連付けられるその他の重要ポイントは、準備預金における財政政策の影響についてである。我々が知っているように、財政赤字は超過準備を創造する。このケースでは、財政赤字は流動性システム(あるいは現金システム)にダイナミクスをもたらし、それによって金利は(上述のように)インターバンク市場の競争を通じて大いに低下してしまう。これにより中央銀行は、もしその特定の金融政策スタンスを維持するのであれば(訳注:政策金利を維持するならば)、(準備預金を吸収するために)債務を発行して商業銀行に売るか、政策金利に見合うサポート金利を支払うかのどちらかを行わなくてはならなくなる。

こうした状況では、政府債務発行は財政赤字によって生じる金利の(サポート金利への)下落を防ぐ。財政赤字それ自体は金利に対する上昇圧力を齎さない。流動性管理オペレーションに関する金融オペレーションが金利の下落を防ぐのであって、それは全く別物なのである。

全てを理解すれば、主流派経済学の教科書の関連チャプターや金融財政政策について精通しているとされている解説のほとんどが何故甚だ間違っているのかについても把握できるだろう。

準備預金とインフレーション

BISペーパーの後半で、著者たちは次の疑問を検討している: ”準備預金によるファイナンスは特別にインフレ促進的なのか?” 昨日の記事――Building bank reserves will not expand creditを思い出してほしい。ポール・クルーグマンは、現時点において再び量的緩和が望ましい政策であると提唱した。量的緩和が民間部門に将来的なインフレーションを予想させるからだという。彼はQEを準備預金の拡張と定義づけた。

次に、インフレ予想は、(ゼロ金利、あるいは非常に低い名目金利になっている状況下において)実質金利がマイナスになると”貯蓄者と投資者”に判断させるだろう。クルーグマンによれば、このことは銀行融資需要を刺激して経済を始動させるのだという。

したがって、この議論の重要な部分は、「準備預金の積み上げがインフレ促進的である」というところなのである。

BISの著者たちが言うには:

準備預金を通じたファイナンスによるインフレ促進を強調する主張は、最初の疑問に極めて密接に関係している。もし準備預金が融資追加に貢献せず、短期政府債務の近似代替物であるなら、インフレ加速効果の発端を見ることは困難だ。総需要、およびそれによるインフレに対する効果は、中央銀行がどのようなバランスシート政策を選択するかに関わらず、極めて似通っている。例えば、銀行システムにおいて、銀行が一週間満期の中央銀行債あるいは財務省証券を保有する場合に比して、オーバーナイト準備預金という形で中央銀行に流動性資産を保持することがどのようにしてより一層インフレ圧力を高めるかは明らかではないのである。

同じ議論が政府債務の”マネタイゼーション”に関しても適用できる。マネタイゼーションというのは、中央銀行が政府債券をプライマリーマーケットあるいはセカンダリーマーケットで購入することだ。ここでの問題は、準備預金創造を通じた政府支出のファイナンスが、(財政拡張による総需要のブーストはさておいて)インフレーションを齎すか否か、というところである。

第一に、BISの著者たちは銀行システムにおけるオペレーションは理解しているが、MMTのパラダイムには則していないことがわかるだろう。”資金調達手段”(financing medium)といった用語法からそれがわかる。こうした用語法は、このペーパーに見るように銀行家たちにとっては通例ではあるものの、極めてミスリーディングだ。中央銀行は、準備預金の創造によって政府支出の”資金調達”を行ったりはしない。準備預金は政府支出によって創造されるのであり、既に論じたように、中央銀行の金融政策スタンスに応じていくつかの選択肢を中央銀行に与える。中央銀行によって遂行される金融オペレーションは、”資金調達”オペレーションではなく、正しくは流動性管理オペレーションであると理解される。

その上、中央銀行が公共支出をマネタイズしつつプラスの目標金利を維持する(そして政策金利を下回るサポート金利を支払う)という考えは不可能である。もし中央銀行はそれを実行しようとしたら、銀行は超過準備を削減しようとし、そうして生じるインターバンク市場の競争によって中央銀行は政策金利のコントロールを失うだろう。中央銀行は、超過準備を吸収するために公的債務を売却するか、超過準備に支払うサポート金利を政策金利と同じ水準まで引き上げなければならなくなる。主流派経済学の教科書や研究記事ではこのような論理への理解を得ることはできないだろう。

第二に、Building bank reserves will not expand creditにおいて、我々は準備預金の拡張が銀行融資を増加させないことを示した。準備預金の拡張が銀行融資を増加させるというアイデアは、銀行が融資の前に準備預金を必要とするという誤った理解に基づいている。そんなことは疑いなく絶対にないのだ。この点において、主流派マクロ経済学の教科書は完全に間違っている。

この論点について、インフレーションの分析は生産キャパシティに対する総需要の状態と関係しているということを理解するのが肝心だ。信用拡張は支出増加を示すが、それ自体はインフレ促進的ではない。名目支出成長は、もし企業が利用可能な生産キャパシティを保持しているなら、企業からの実物的反応――生産と雇用の拡大――を刺激するだろう。企業は、彼らの製品やサービスの需要増大に対して、値上げで反応することには消極的だろう。なぜなら、そうした反応は企業にとって高コストである(カタログを改訂しなくてはならないetc)し、企業は市場シェアを保持したいし、競争相手が値上げに追随しないことを恐れるからである。

したがって、(特定の資産区分に生じる価格バブルではなく)普通のインフレーションは、利用可能な生産キャパシティがある間は問題にはなりにくい。高い需要があるときでさえ、企業は通常、需要急騰に対応可能にするために予備の生産キャパシティを持っている。経済がかなりの期間の高い需要圧力を受けたときにのみ、インフレ圧力は明確になり、需要を引き下げるような政策が必要になる。(例えば、支出カットや増税など)

その上、支出成長は、名目需要成長の前に生産キャパシティ拡張を後押しする。生産キャパシティに対する企業の投資はその例であり、政府による生産的インフラ(人的資本育成も含む)への支出も同様である。したがって、全ての支出が名目支出成長と利用可能な生産キャパシティの間のギャップを縮めるわけではない。

さて、BISの著者たちは、インフレーションの問題を、中央銀行が商業銀行に提示している付利の点から考察している。

超過準備付利が政策金利を下回っているケースでは、準備預金注入は預金ファシリティ付利によって出来た底辺にまでオーバーナイト金利を引き下げるだろう。ゼロにもなり得る(Scheme1)。これは金利政策の緩和と同等だ。結果として、発生するあらゆるインフレ圧力は、金利変動に伴う通常の総需要拡張におおよそ起因するだろう。

したがって、金融政策設定ではなく生産キャパシティを越える最終的な支出がインフレーションを起こすのである。しかし、こうした議論はどれだけ総需要が金利の動きによく反応するかに依存している。主流派経済学では、支出が金利に対して比較的敏感に変化すると想定されており、彼らがインフレーション・プロセスを実現するためにインフレ目標を提唱する理由はそれである。

MMTにおいては、通常の範囲での政策金利変化が劇的に支出を変動させるという確信はあまりない。理解しておかなくてはならないことは、そこに二つの考慮すべき側面があるということである。資金調達のコストの側面――この側面においては、金利の上昇は(所与の投資収益期待において)おそらく資金調達需要を引き下げるだろう。そして所得の側面――この側面においては、金利の上昇は債券保有者の所得を上昇させ、次に支出を上昇させるだろう。この影響は投資にも帰ってくるだろう。なぜなら、投資家は、借入コストの上昇に直面しているだけでなく、将来の所得への信頼の強化も感じ取るからである。

したがって、そうした分配上の複雑性は、金利の変化が総需要を操作する効果的な方法であるかどうかを明確に結論付けるのを難しくしている。金利変化はまた、とにかくもっとゆっくりと間接的に働くのであり、需要における他の影響の中から金利変化の影響を抽出してくるのは極めて難しい。

Scheme1において、公的債務の売却が超過準備を吸収しオーバーナイト金利が政策金利以下に下がるのを防ぐというのは重要なポイントだ。この意味では、(どれだけ総需要が金利変化に敏感であっても)何のインフレ促進効果もないだろう。

Scheme2(サポート金利=政策金利)について、BISは以下のように述べている:

超過準備が政策金利分の付利を受けているか、あるいは金利が既にゼロ制約に嵌っている場合は、超過準備の機会費用がゼロなので、超過準備の拡張はオーバーナイト金利に何の影響も与えない(scheme2)。インフレに対する何かしらの追加的な影響が存在した場合は、それは主に、擬制債務管理オペレーションが誘発するであろうイールドカーブ平坦化による総需要への影響に起因するだろう。例えば、もし仮に中央銀行が長期国債購入によって準備預金を注入したとすると、イールドとインフレに与える全体の影響は政府の資金調達を長期から超短期にリバランスしたのと全く同じになるだろう。実際、そうした”オペレーション・ツイスト”は財政当局それ自体で達成可能である。

これは複雑に聞こえるかもしれないが、要するに長期金利の変化が投資を刺激し、実物キャパシティの吸収力を越えて迅速な名目支出成長を導くだろう、ということだ。

言い換えると、起こりうるインフレ効果は支出サイドから生じるのであり、中央銀行が行う流動性管理オペレーションに起因するものではないということである。

BISはいわゆるマネタイゼーションについても考察している:

より一般的に言って、マネタイゼーションによるインフレの可能性は、大部分は、金融当局によって対応される財政政策(=利上げの手控えを伴う財政政策)を通じた総需要的影響に起因する。中央銀行の対応というのは、インフレ促進的な政府支出の資金調達(準備預金という形であれ、短期政府証券という形であれ)それ自体ではなく、長期にわたる不適切に低い金利設定である。批判的に言えば、これらの二つの側面は政策論議において一般的に区別されていない。なぜなら、一般のパラダイムは金利とバランスシート政策の区別に失敗しているからだ。通常の準備預金需要に関して普及している想定では、一方が見られたらその片割れも見られる:より多い準備預金はより低い金利を含意する。しかし、我々がずっと強調してきたように、これは事実とは異なる。そして今回の危機における金利とバランスシート政策の分離は、そのことを再び分かりやすく裏付けた。

マネタイゼーションに関する既述の私のコメントを見てほしい。このことは、政策金利が既にゼロであるか、サポート金利が政策金利と一致しているときにのみ起こり得るだろう。その場合、準備預金の積み上げは全体での純粋な財政的注入に伴うだろうが、既に論じた通り――経済の実物キャパシティに対する支出成長が起こす事象とは本質的に無関係だ。

もし総需要が金利設定に対して比較的非感応的であるなら、このポイントはいずれにせよ無関係になる。しかし、仮に金利の変化が、「低金利が高い金利より拡張的である」という風に支出に対する影響を持つなら、そのときゼロ金利政策を伴う財政拡張は経済刺激的なものになるだろう。重要なのは、マネタイゼーションが(主流派が主張するような)本質的にインフレ促進的な代物であるというわけではないということだ。

そうしたマネタイゼーションは生産キャパシティのフル活用を達成するために必要な財政注入の程度が小さくなることを意味するに過ぎない。(訳注:つまり、マネタイゼーションを行えば、基本的にその分だけ低金利になるので、需給ギャップを埋めるために必要な追加的財政政策の量が少なくて済む、という意味) 政府はいかなるときでも、総支出を経済キャパシティにマッチさせる能力を持つのである。

 

私がこの記事と昨日の記事を書いたのは、MMTのメインの考えのいくつかについてより深い議論を提供するためだ。BISのワーキングペーパーを用いることで、”彼らの言語”を利用しつつMMTの重要な支柱を表現することが出来た。違う言語を用いることは、時には、思い込みを克服して複雑な事例に対する理解を広めるのに役に立つ。

しかし、誰にとっても明らかであるだろうが、主流派経済学の教科書の金融システムの描写、及び財政政策による金融システムの利用法と金融システムにおける影響の描写は完全に間違っている。これらの教科書およびこれらの教科書を使った授業だけで勉強している学生は、自身の学識の中に金融システム機能の間違った印象を残すことになってしまうだろう。

彼らのうちの一部は政府の政策決定部門に職を得て、そこで金融システムに関する間違った見方を採用することになるだろう。乏しい政策成果に甘んじ、政治的リーダー用にばかげたスピーチが書かれたとしても、何の不思議もない。

主流派経済学を修めた他の人々はジャーナリストになり、それによって生じる問題をあなたがたは目の当たりにしている。

 

追伸

一夜明けて、我が友人のMarshall Auerbackからメールを受け取った。彼は最近ニューカッスル大学にて訪問講義を行っており、執筆しているNew Deal blogがRoosevelt Instituteから出版された。彼はこのBIS研究ペーパーが重要な寄稿だと考えている。なぜなら、それがMMTでない経済学者たちによって書かれたものであり、彼らは(金融用語の利用法から見て)明らかに主流派経済学のパラダイムの中で議論を行っているにもかかわらず、現実世界の金融システムを統治する金融オペレーションを理解しているからである。

Marshallは私がBISレポートから行った以下の引用部分に言及していた:

資金(銀行が保有する準備預金)がインフレ促進的になるためには、それが借り入れられ、支出されなくてはならない。

以下に示す彼の反応は、全て引用するに足る価値があると私は思う。私がほんとうに興味深いメールを受けたことがこれを見れば分かるだろう。(-:

Marshallは以下のように書いている:

これは、私がオーストリア学派、財政ハト派、それ以外の人々に対して明らかにしようとしてきたポイントである。財やサービスがマネーストックの変動によって価格改定される、という風ないかなる魔術的メカニズムも存在しない。貨幣(money)は財に追随するものではない。それはごまかしだ――貨幣はそれ自体で機能する代物ではない。そこには(訳注:貨幣の)”市場”は存在しない――そこにいるのは市場メカニズムの制約の中でふるまい、活動する人々だ。貨幣を借り入れ支出する人々は、財やサービス(及び金融資産や有形資産)に代価を支払う。もし(準備預金としての)貨幣が借入・支出されるのではなく、創造されるのであれば、そこにはすべての価格を自動的かつ神秘的に変化させる市場メカニズムなど明らかに存在しない。貨幣の相対供給量変化はあるかもしれないが、それが生産市場自体と無関係に自動的に相対価格の変動を起こすような市場は存在しない。市場では、売り手が財やサービスの価格を提示し、買い手が入札するのである。

BISは、金融バランスおよび金融安定性について明確に思索し、著述し、提案を行おうとしている数少ない公式組織の一つであり続けている。このことは、私の同僚であるカナダ人William Whiteの遺産であり、Claudio Bolioその他によって運営されていることと大いに関係がある。この文書を見ての通り、BISは現在主流派マクロの幻想を公然と粉砕している。とても大きな一歩だ…しかし、クルーグマンの「不発」を止めることは出来ないだろうし、BISがMMTに既に賛同しているというわけでもない…しかしBISは真実にかなり近づいてきている。

ここで終わらせて、Dubboへ向かう飛行機を捕まえに行くとしよう。Dubboはニューカッスルからいくには辛い場所だ。シドニー空港に向かう片道三時間の電車にのってから、西へ飛ぶ飛行機に乗らなくてはいけない。

ビル・ミッチェル「準備預金の積み上げは信用を拡張しない」(2009年12月13日)

Bill Mitchell, “Building bank reserves will not expand credit“, Bill Mitchell – billy blog, December 13, 2009.

 

ポール・クルーグマンは、彼の最新のニューヨークタイムズの記事(2009年12月10日) Bernanke’s Unfinished Missionで、マクロ経済学について本当はあまり理解していないということを露呈した。時折、誰かコラムニスト(の書いたもの)を読むときに、疑わしきは罰せずの精神で、書かれていない背後の意味を見つけようとすることが誰にでもあるだろう。クルーグマンは、他のコラムニスト同様、時々は明らかに正しいことを言ったり、現代金融理論(MMT)に整合的な議論を行ったりしてはいる。しかしそれでも、馬脚を現すような記事がいつも現れ、それによって結局「このアナリストは本当は分かってない」ということが明らかになってしまう。クルーグマンの場合、日本の”失われた10年”の政策論議に対して彼が行った悲惨な介入から何も学ばなかったようである。

1990年代後半、ポール・クルーグマンは多くのアカデミックな経済学者に混じって、「大規模量的緩和を導入して経済を復活させるべきだ」と日本銀行を責めたてた。日本銀行は不承不承に彼らの助言を聞き入れ、2001年に準備預金を5兆円から30兆円に拡大した。この行動はほとんど全く影響がなかった。実質経済活動と資産価格は負のスパイラルに嵌ったままで、インフレ率は0以下だった。

多数の経済学者は、準備預金の莫大な増加がインフレを引き起こすだろうとも主張していた。彼らもまた間違いだった。この点についてのさらなる議論については、私のブログのBalance sheet recessions and democracyを読んでほしい。

この日本のはまった罠についての1998年の記事で、クルーグマンは ”日本は恐るべき”流動性の罠”にはまっており、金利をゼロ以下に下げることが出来ないので、金融政策は無効になる” と主張している。これは彼が現在アメリカに対して行っている議論と似ている。

彼は、名目金利がゼロであるとき、経済を刺激できる金利に調節することがもはやできず、貯蓄と投資をマッチさせるために要求される実質金利はマイナスになるだろう、と主張している。(余談だが――このタイプの論法は、大いに欠陥のある貸付資金仮説から導かれている)

ケインジアンとして、クルーグマンは、日本は当時、財政赤字を抱えており、財政政策は有効かもしれないが”財政制約”に縛られていて、その上(訳注:財政を出すとしても)日本の政府は”どこにも繋がらない道路”のような無駄な支出ばかりするだろう、という風に認識していた。

そのため彼は金融政策こそ目指すべき最善の方法だと考えている。クルーグマンは、日本は、実質金利をマイナスに(およびフレキシブルに)するために、いくらかの期待インフレを必要としていると主張している。彼は、金融政策がそれまで無効だった理由を以下のように結論付けている:

…民間主体は…[日本銀行の]…行動が一時的であると見做している。なぜなら、民間主体は、中央銀行が長期的には物価安定にコミットすると確信しているからである。それが金融政策が無効になる理由なのだ! 日本が経済を起動させることがこれまでできなかったのは、まさに中央銀行が責任ある行動をとると市場が見做していたからであり、物価水準が上昇を始めたら中央銀行がマネーサプライを抑制するだろうと期待されていたからである。

したがって、金融政策を有効にする方法は、中央銀行が無責任になるという約束を信用できる形で行うことだ。――説得力にある形でインフレの発生の容認を行えば、それによって経済の望むマイナスの実質金利を実現できる。

このことは、奇妙かつひねくれたように聞こえるかもしれない。…[しかし]…経済を拡張する唯一の方法は、実質金利を下げることだ;そして、それを行う唯一の方法は、インフレ期待を創り出すことなのである。

このように、彼はこの分析において完全な間違いを犯している。今世紀の初期において、日本経済を再起動させた唯一の事物は、劇的な財政政策の拡張だけだったのだ。

クルーグマンは量的緩和について詳説した他の関連記事では、彼はこう言っている:

日本銀行は、このような緩和に対して繰り返し反論してきた。量的緩和は――超過的な流動性は単に銀行か、あるいは個人に保有されたままで、支出には何の影響も与えないために――無効だろうと論じてきたのである。また、日本銀行はしばしば、この論理をすべての金融政策的解決策に対する反論として印象付けてきたように見える。

我々の分析から即座に明らかになることであるが、日本銀行の議論は、直接的な意味では極めて正しい。どれだけマネタリーベースが増えても、単にゼロ金利資産同士の交換をするだけである限り、期待は何の影響も受けず、実質的な効果もない。この分析のA面の含意としては…中央銀行は広義の貨幣総量に対して文字通り何の影響力も持たないだろう: なぜなら、信用の量はとても不安定で、外部による期待を変化させない資産交換には影響されず、信用の対応物として存在するインサイドマネーによって主に構成される貨幣総量は、外部による金融拡張の影響を受けないからである。

しかし、量的緩和の効果に関するこうした議論は、金融政策の期待的側面にフォーカスした議論とは全く無関係だ。そして量的緩和は、期待の変化において重要な役割を果たす; 将来のインフレーションを約束しようとする中央銀行は、実際に(新規に印刷された)貨幣を投入することで、より信頼を得るのである。

そしてもういちど彼は「準備預金の拡張は銀行の貸出を増やす」と主張するのである。なぜかといえば、準備預金の拡張がインフレ促進的であり、実質金利をマイナスの域へと導くからなのだという。

もっと最近に、クルーグマンはIt’s the stupidity economyという記事を書いた。あなたがもう一度これを読めば、クルーグマンがどれだけ現代金融理論(MMT)の理解から遠いのかがわかる。というのは、彼は不換紙幣金融システムがどのような働きをしているのか、全く分かっていないからである。

金融政策が無効な状態に対処する方法についての彼の選択肢を、日本に関する初期の仕事を単になぞるという形で、彼の好みの順に示そう:

・First best:  “…実質金利を引き下げるために、より高いインフレーションに確実にコミットする” 。したがって彼はいまだに金融政策を続行すべき最善の方法だと考えているのである。

・Second best:  “生産ギャップに大部分到達するのに十分な、本当に大規模な財政拡張。それを行うべき経済学的な状況というのは極めて明瞭だ。しかしワシントンは財政赤字恐怖症に飲み込まれており、十分に大きい拡張を行えるチャンスは全くないように見える。”

・Third best:  “…雇用への助成金と、ワークシェアリングの推進。”

クルーグマンは、金融政策がどちらかといえば無効であるという証拠があるにも関わらず、金融政策がより好ましい経済安定化手段であると未だに明確に信じており、貸主と借主の支出性向に関する判定困難な分配上の仮定に依拠している。

彼はまた量的緩和が、実質金利に対するインフレ促進的調整の実現を通じて、借入者の借入資金を拡張するだろうと考えている。したがってこの度、インフレを起こすことによって金融政策を始動させたがっている―それは、実質金利をゼロ以下にするためだ。

 

さて、直近の記事に移ろう。クルーグマンは同じ話を繰り返しているようだ。(Krugman’s record is stuck in the groove it seems)

FRB議長バーナンキの ”来年は控えめな経済成長になるだろう。――失業率を下げるのには十分だが、我々が望むよりも遅いペースになるだろう” というアメリカ経済の予測に関して、クルーグマンは成長加速を刺激する政策手段を模索している。

彼はバーナンキよりいっそう悲観的で、実際には失業率は上昇するだろうと考えている。以下の言い分については、彼は正しい:

我々が嵌りこんでいる穴から抜け出すのに、どれだけの数の雇用創造が必要なのかについて、多くの人は分かっていないと思う。あなたがたは、不況が始まってからアメリカで800万人の雇用が失われてきたのを目撃できなかっただろう。なぜなら、増加する人口についていくために、国が雇用の追加を――1か月に10万人以上の雇用の追加を――継続的に需要していたからである。そしてそのことは、もしアメリカが完全雇用に近い状態に復帰する状態を見たければ、本当に大規模な雇用の獲得が毎月必要になるということを意味している。

こうした挑戦的な分析から、彼は以下のように主張する。 ”政治的現実として、大統領――共和党からの総力を挙げた妨害に直面し、かたや自分の政党からはささやかな支援しか受けられない――は、おそらく雇用問題の表面をごまかす以上のことをするための十分な票を議会で集めることは出来ないだろう”

このため彼は、アメリカにおいて、財政政策は限界に達してしまったと主張している。「アメリカはお金を使い果たしてしまった」というのが、大統領による一貫した主張である。このことについてのより詳しい議論は、私のThe US government has run short of moneyという記事を読んでほしい。

このような文脈から、クルーグマンはFRBに”もっとできることがある”と主張している。彼が言うには:

FRBの行動についての言説の中で私のこれまで見た限り最も明確で説得的なものは、Joseph Gagnonによるものだ。彼は元はFRB職員で、今はピーターソン国際経済研究所(PIIE)に所属している。他ならぬバーナンキその人が経済学研究者としてこれまでに結実させた先行研究についての分析に基づき、Gagnonはさらに2兆ドルの資産購入を行って信用を拡張するようFRBに促している。そのようなプログラムは、景気下降のほとんどない成長加速を大いに促すはずだ。

さて、量的緩和の話に戻ろう。量的緩和は、例を挙げると、日本において投融資刺激に失敗したし、現在のイギリスにおいても投融資刺激に失敗している。この点についての詳しい話は、私の記事であるQuantitative easing 101をお読みいただきたい。

ポイントは、量的緩和には実際には投融資を刺激する機能などないということである。クルーグマンは明らかに、金融政策と準備預金をリンクさせる銀行業務について理解していない。このことについての理解を深めるというのが、MMTの際立った特徴である。

ただし、銀行業務の専門家はその点を理解している。BISの最近のワーキングペーパーであるUnconventional monetary policies: an appraisalは、この点の理解を進めるにあたって極めて有用だ。

その記事で議論されているのは、今回の景気下降の中で中央銀行によって用いられた非伝統的金融政策について、主流派経済学者は本当のところはきちんと考察できていないということである。

こうした政策に関して、それらの:

…特異的な性質は、中央銀行が自身のバランスシートを積極的に用いて、市場価格や市況を、短期金利(典型的には、オーバーナイト金利)を飛び越えて直接に影響を与えるところである。したがって我々は、そうした政策を”バランスシート政策”と呼称し、”金利政策”からは区別している。

こうした特徴により、これらの政策では”民間部門のバランスシートの構造”を変化させることと”特定の”市場を対象にすることによって機能するよう意図されていることをBISは示している。BISが示すこの政策の主要なポイントは以下の通りである:

最初にBISが言うには:

…やや逆説的だが、これらの政策の一部は、1960年代から1970年代にかけて行われていた金融政策の波及メカニズムについての学術的研究の中でなら、”標準的”と見なされただろう。そうした研究は、民間部門のバランスシート構造の変化を重要視していた。

このことが示しているのは、「”ケインジアン”時代においてはよく理解されていた識見」を抹消しようとしてきたマクロ経済学の近年の歴史である。例えば、もしあなたが最近のマクロ経済学の教科書を読んだなら、流動性の罠に関するいかなる言及も発見困難であろう。(私が調べたのはバロー、マンキュー、ブランシャールの教科書だ)

1980年代に始まり、近年激化した ”新しい” マクロ経済学教科書の時代の特徴は、極めてスタイリッシュな一つの “モデル” を。既存の観点と競争させることなく、学生たちに取り組ませるところにある。(ケインズとピグーの、いわゆる ”ケインズと古典派” 論争のような)歴史的な論争は、未だ今日的意義を持っているにも関わらず、首尾一貫した形で教科書に記述されることはほぼない。

学生たちは、これらの教科書の中では、教科書で示されているパラダイムを批判する何の観点も得られない。無条件で受け入れるか、完全の放棄するかしかない。問題なのは、(訳注:教科書の中で)示されているその洗練されたモデルは、学生たちが学びたがっているマクロ経済の現象とはほとんど関係がないということである。

これらすべての教科書は、現代金融システムの正確な解説に失敗しており、そのため学生たちは、金融システムがどのように運用されているか及び金融システムが現実の経済にどういう風に相互作用しているかについて間違った理解を持ったまま卒業してしまう。

 

そしてBISはこう言う:

バランスシート政策の重要な特徴は、金利水準から完全に分離独立できるというところだ。テクニカルに言うと、これらの政策が準備預金(中央銀行に対して銀行が保有する資産)の拡張を通じて金利に齎す影響に対し、それを中和するのに十分な政策手段を中央銀行は必要としている。一般的に、中央銀行はそのような手段を既に保有しているか、あるいは必要な手段を獲得可能だ。この”分離主義”が他にも含意することは、バランスシート政策とは独立に、現在のとても低い、ないしゼロの金利政策から脱却することができるということである。

“分離主義”は、中央銀行が(中央銀行による金融政策ステートメントとしてアナウンスされる)政策金利に応じて準備預金に報酬を与えるという手法に基礎づけられている。

MMTの議論に従えば、中央銀行が目標金利の管理を維持するために準備預金を利用する方法には、大きく分けて二つの方法がある。一つ目についてだが、中央銀行は政府債券を売買することで、”望む短期金利水準を実現するように準備預金量を調節する”ことができる。この手法は ”長きにわたって実務家によく知られて” きたものである。(page 3)

MMTは同じ説明をそのまま政府債券発行にあてはめる――政府債券発行は、政府純支出(税収を越える支出)の資金調達ではない。国家政府は支出の際に税収を引き上げる必要がないからだ。実際には、債券発行は、財政赤字が追加した準備預金を操作し、中央銀行の目標金利維持を可能にするための金融政策手段なのである。

マクロ経済学の教科書で、公的部門の債券に関するこうした説明を探してみると良い。(訳注:見つからないだろう、という皮肉)

二つ目についてだが、 ”中央銀行は超過準備保持に対して政策金利と同額の報酬を支払うことを決定し得る” し、そうすると ”銀行にとっての準備預金保有の機会損失がゼロになる” 。 ”中央銀行は、その政策金利において好きなだけ準備預金を供給できる” 。重要なポイントは、そのとき中央銀行によって設定されている金利水準は、最初のケース…中央銀行が政府債券の発行によって準備預金を吸収しているケースと同様に、”金融システム内の準備預金の量から分断されている”。

したがって、積み上がった準備預金は、中央銀行が明確に単独に設定している金利に対して何の含意も持たない。「財政赤字は金利を引き上げるだろう」と主張している全ての主流派は、財政赤字が準備預金に与える影響と、中央銀行が準備預金を(訳注:目標金利から)”分離された”状態で操作していることに関して誤解している。

 

さて、BISの論文では次に、現在積み上がっている準備預金の含意という論点に移っている。彼らが言うには:

…我々は、非伝統的金融政策の議論における準備預金拡張の役割への典型的な強い重視は見当違いであると論じている。我々の見解では、非伝統的金融政策の効果は、中央銀行短期債のような準備預金に近しい代替資産との交換で得られた準備預金に依る限りは、大したものにはならない。とりわけ、非伝統的金融政策に関係する準備預金の変動は、銀行融資制約を有意に緩めることもないし、インフレの触媒として機能することもない。

というわけで、準備預金の積み上げがインフレ促進的であると主張しているオーストリア学派信者や主流派経済学者たちは――少し休憩して、内部関係者があなたがたに何を伝えようとしているのか、読んでみると良い。

より大きい準備預金が銀行融資を容易にすると主張しているマーク・ソーマその他を含む主流派経済学者全員は――少し休憩して、内部関係者があなたがたに何を伝えようとしているのか、読んでみると良い。

このペーパーでBIS研究員が発展させた議論は、MMTの中核的部分だが、主流派の教育プログラムを受けているであろうマクロ経済学徒は全く理解していないだろう。それどころか、あなたがたはトップレベルのジャーナルで研究者が出版しているいかなる主流派金融研究論説においてもこのタイプの分析は読んだことがないだろう。主流派経済学者たちはこうした識見をすっかり理解し損ねている。なぜなら、彼らは間違ったモデルから研究し始めてしまっているからである。

BISのペーパーの16ページから始まるセクション―Are bank reserves special?―は、主流派のコンセプトに毒された読者によって誤解されたミスリーディングな言葉(たとえば、クラウディングアウトのような)をところどころ用いてしまってはいるけれども、それでもなお読む価値のとても高い部分だ。

BISの著者たちはおもむろにこう始めている。 ”(準備預金は)特別だとみなされているようだ…銀行融資の触媒として機能するか、あるいは市場の安定と確信に貢献するという能力によって” 。この文脈について、BISはこう結論付けている。 ”そうした見解に尤もらしい理由があったとしても、その根底にある論理は時折疑わしい根拠に基礎づけられている” 。

彼らは以下のように論じている:

…準備預金は、金融制度によって独自に価値が与えられている。というのは、準備預金は、全ての取引の最終的な決済を達成するにあたって、唯一受容される手段であるからだ。このような観点から、準備預金は金融ストレス時に特別な役割があり、そのときはシステム内での準備預金の円滑な分配が妨げられ得る。そのようなとき、金融制度は、高まる流動性リスクを制御するためにより大きい準備預金の保持を必要とするだろう。実際、こうした事態は現在の初期段階で生じ、そのとき準備預金に対する予防的需要が大いに増大した。…

金融安定の維持の必要性は、日本銀行が2001-2006年に準備預金を拡張した理由の一つだと彼らは述べている。

しかしながら、中央銀行が需要に合わせて(政府短期証券のような準備預金に似た同価値資産との交換を通じて)柔軟な準備預金供給を行えば、流動性の役割は明らかに達成される。

言い換えれば、この点において準備預金に特別なことは特にないということだ。

彼らが準備預金を”特別”と考える理由は、金融政策における準備預金の運用上の意義に依っている。中央銀行は金利を明確に設定し、一般的にはオーバーナイト金利(インターバンク金利)がそれに確実に等しくなるのを目標とする。この点において、準備預金は:

…強力で、かつユニークだ…[そして],,,金利の不当で激しい変動を回避するために、中央銀行に対して、小さい(超過)準備需要に正確に対応することを要求する…しかし、バランスシート政策の中でそのような巨大なバランスシート拡張を受け入れさせるためには、銀行にとって準備預金を他の資産より魅力的なものにしなくてはならない…実際、中央銀行は、銀行に対して、政府短期証券に対するほぼ完璧な代替物を与えている。というのは、(訳注:与えた準備預金に)同等の金利を払っているのである。そのプロセスにより、準備預金の特別性は失われている。準備預金は単に、公的部門から発行された請求物にすぎなくなる。準備預金は主としてオーバーナイトの満期があることと、参加者が限定的であることにより他の資産から区別される。

こうした記述は、我々(MMT研究者)の一員が書いたのではない――そうではなく、BISによって公式に記述されたものである。このペーパーは、準備預金の動態がどのように金融オペレーションに影響を与えるのか、及び金融政策目標金利を逸脱しつつ準備預金を維持する際にどうして中央銀行が「債務発行」か「準備預金に対する利子の支払い」のいずれかを行う必要が出てくるのかについて極めて明快に示している。

このペーパーはさらに、主流派経済学者の中で見失われているポイントとして、準備預金と公的債務発行はほとんど同じものだということを示している。

 

最後に、BISのペーパーは準備預金―銀行融資―インフレ率の連鎖関係について考察している。著者たちが言うには:

これまで行ってきた議論は、準備預金の特殊性の含意に関して幾度となく聞かされてきた2つの主張に疑問を呈するものである。1つ目は、準備預金の拡張が融資拡張のための追加資金を与え、バランスシート政策を強化するというものである。2つ目は、準備預金調達に特別にインフレ促進的な機能があるというものである

彼らが的確に指摘する通り、準備預金の拡張が融資を拡大するための追加的な資金を銀行に与えると考えている人々は ”準備預金が銀行融資に必要だ” と信じ込んでいる。そのため、(マーク・ソーマのような)主流派経済学者は、 ”銀行融資は準備預金への不十分なアクセスによって制約されており、より多い準備預金がとにかく銀行の貸出意思を押し上げることが出来るのだ” と考えている。

BISの著者たちは続けて以下のように述べている:

こうした見解の極端なバージョンは、安定した貨幣乗数という教科書的概念だ: そうした考えでは、中央銀行は、準備預金供給の外的な変化を通じて、銀行システムの融資と銀行預金の量に直接の影響を与えることができるということになっている。

MMTは「そうした考え」を完全に否定する。準備預金は融資には必要とはされず、教科書に描写されているような貨幣乗数メカニズムは働いていない。

BISの著者たちもMMTと同意見であり以下のように述べている:

実際の処、準備預金の水準は銀行融資決定にほとんど影響を与えていない。信用残高は銀行の融資供給意思によって決定している。融資供給意思は、認知されているリスクリターンのトレードオフと、ローンへの需要に基づいている。準備預金の利用可能総額は、信用拡大を直接制約しているわけではない。

なぜこれが重要なのかは明らかだろう。融資は銀行預金を創造し、それは借入者によって牽引される。融資による銀行預金創造の段階では、準備預金は必要ない。その後、BISのペーパーが言うように、 ”金利の過剰な変動を避けるために、中央銀行はシステムの需要に応じた準備預金を供給する” 。

商業銀行の融資担当部署は、彼らの日々の業務において、金融システムにおける準備預金のオペレーションとは何の関係も持たない。彼らは融資を求めており、かつ信用力のある顧客から融資申し込みを受け取り、そしてその融資を認可するか拒否するか選択するだけである。融資を認可するとき、即座に銀行預金が創造される。(金融資産取引は全体では相殺されてゼロとなっている)

銀行の融資部署が信用拡大を制約されてしまう唯一の理由は、信用力のある顧客の欠如だ。信用力のある顧客の欠如は、「銀行が悲観的な審査法を採用している」という供給要因か、「信用力のある顧客が融資希求を避けている」という需要要因のどちらかに原因があるだろう。

そしてBISの著者たちは以下のように論じている:

超過準備と銀行融資の間の関係の希薄さについての最近の顕著な事例としては、日本銀行の2001-2006年の”量的緩和”政策の間の経験があるだろう。超過準備の顕著な拡張、それに伴うベースマネーの増加にも拘わらず、ゼロ金利政策下において、日本の銀行システムにおける融資は明らかに増加しなかった。

そして当時、ポール・クルーグマンは日本銀行に対して銀行に対してより多い資金を供給するために量的緩和を実行するよう促していた。彼が言うには、そうしたより多い資金の供給によって、銀行はより容易に融資できるようになるとのことだった。明らかに彼は当時、基礎的な銀行オペレーションを理解していなかったし、今でもまだ理解できずにいる。

私はまた他のブログ記事で、準備預金とインフレーションについてのBISの議論を検討したいと思う。(訳注:続きはこちら

量的緩和が機能しないであろう理由は極めてシンプルだ――信用は、民間部門からの資金需要があれば拡張するだろう。日本には、そうした資金需要を欠いていたのだ。この点についての詳しい議論を知りたければ、Balance sheet recessions and democracyという私の記事を読んでほしい。

リチャード・クーは2003年出版の彼の著書 Balance Sheet Recession: Japan’s Struggle with Uncharted Economics and its Global Implications(John Wiley & Sons) (邦題:デフレとバランスシート不況の経済学) でこう述べている:

量的緩和が日本で機能しなかった理由は極めてシンプルで、それはBOJの職員や地方市場の観測者から頻回に指摘されてきた:日本の民間部門には、資金需要がなかったのだ。

中央銀行から供給された資金がインフレを起こすには、それらが借り入れられて支出されなくてはならない(訳注:この表現はここまでのミッチェルの趣旨的にはやや間違っている表現だ。おそらくミッチェルに言わせれば、これこそ「主流派のコンセプトに毒された読者によって誤解されたミスリーディングな言葉」ということになるのだろう)。それが経済に貨幣が循環して需要を増加させるための唯一の方法だ。しかし日本の長期不況においては、バブル崩壊の後に債務過剰となったバランスシートが残された企業家たちは、彼らの金融的健全度を回復することに集中せざるを得なかった。過剰な債務を保持する企業は、ゼロ金利であっても借入を拒絶した。それが、バブル崩壊後の15年に渡ってゼロ金利だけでなく量的緩和も経済を刺激できなかった理由なのである。

 

 

アメリカの政治は破滅的であり、統治政府による公共目的推進のための財政的手段の使用は制約されることになるだろう。

私の見方では――現代金融経済のオペレーションの本質への理解の上では――政府に対してイデオロギー的な制約が課され、数百万人の不幸な労働者たちを失業させ、彼らとその家族に貧困生活を強いるよう意図されているのを、我々国民が看過している、という状況は異常事態である。

十分な雇用が存在しないときの答えは簡単だ。より多くの雇用を作ればよい。国家政府はいつでも公的純支出を拡張することによって十分な雇用を創造することが出来る。雇用創造を確実にする最も直接的な方法は、公的部門自身の中に雇用を創出することだ。

しかしポール・クルーグマンのような影響力のある経済学者たちがこのような現実を避け、その代わりに、「金融システムオペレーションへの誤解に基き、政策的主導権の転換において何度も何度も無意味だと証明され続けてきた経済学的観念」を推進するようなら、そうした事態への不信感を隠せない。

もう一つ重要なポイントは、国家政府が不換紙幣金融システムの中で保有する雇用機会を、政治システム上に一層反映させる行動主義が必要である、ということである。

ビル・ミッチェル「貨幣乗数、及びその他の神話」(2009年4月21日)

Bill Mitchell, “Money multiplier and other myths“, Bill Mitchell – billy blog, April 21, 2009.

 

最近ニュースになっている量的緩和のような政策は、銀行システムの運用法や、非政府セクターと政府セクターの関係についての誤った思い込みに基づいている。主流派経済学の核の部分の1つであり、学生に対して早い教育段階で打ち込まれ、しばしば永久に学生にとって不利益に働く代物として、貨幣乗数(money multiplier)というコンセプトがある。それは、学生の記憶に永久にしつこく生き残り続ける(ないしそう見える)ので、極めて有害なコンセプトだ。また、貨幣乗数は、不換紙幣(fiat currency)&変動為替の現代金融経済における銀行の運用法の描写として、全く不正確である。それがなぜなのかを解説していこう!

 

教科書的には、貨幣乗数mはマネタリーベース(MB)(準備預金と発行通貨(currency at issue)の合計)の変化をマネーサプライ(M)の変化へと波及させるということになっている。学生たちは、彼らの学習レベルに合わせた様々な複雑さの代数学の計算をさせられてmを導出する。(学生たちは、典型的な経済学学位の過程で、このように無意味に何度も虐げられる) mは、最も簡単な形では、法定準備率の逆数で表現される。だから、もし中央銀行が民間銀行に対し、預金総額の10%を準備預金として保持しなければならないと指示したら、そのときの法定準備率は0.10であり、mは1/0.1=10となる。人々が銀行預金を一部現金で持とうとした場合は、求められる公式はもう少し複雑になる。しかし、そうした複雑化は話の大筋には影響しない。

マネーサプライを決定する公式はM=m×MBとなる。したがって、もし銀行が新たに1ドルの準備預金を得たら、マネーサプライは(乗数倍されて)増加して、10ドルに増えることになる。(法定準備率が0.10の場合) 貨幣乗数がどのように働くと主張されているかについては、以下に説明した。(預金総額の10%を準備預金として持つように銀行が要求された場合)

・ある人が銀行に100ドルを預ける。

・貨幣(money)を創造するために、銀行はそのうちの90ドルを顧客に貸し出す。

・その貨幣は支出され、受け取り手が自身の銀行にその90ドルを預金する。

・その銀行は、90ドルのうち0.9倍の81ドルを貸し出す。(法定準備率0.10を維持するため)

・融資がゼロになるほど小さくなるまで続く…

以下の表とグラフは、その一連のパターンが意味するところを示したものだ。説明不要だろう。このケースでは、私は20期だけを示した。実際、この例は、連続的な融資を示すグラフで見られる通り、94回の反復を説明できる。このとき、部分準備預金はどんどん小さくなり、最終的にはゼロになる。

貨幣乗数の概念は見ての通り極めてシンプルだ。しかし、シンプルであると同時に根本的に間違っているのである! 一連の説明は、銀行がまず最初に預金を得て、それを資金として貸出を行うということを含意している。一方、プルーデンシャル規制は少量の預金準備を要求する。こうして、部分法定準備制度のおかげで信用創造プロセスを膨張させることが出来るというわけだ。

ところが、そうした説明は現実世界とは似ても似つかない。それはスタイリッシュな教科書的なモデルだが、実際の運用とは程遠いのである。銀行の実際の運用法は、資金を貸して儲けを生むことができ、信用力のある顧客の獲得を追求するというものである。何が信用力を決めるかは景気循環に左右され、好景気においては、銀行はマーケットシェアを追求するので、貸出基準はより緩くなる。

こうした貸出は、銀行の準備預金保有額からは独立に行われる。中央銀行による商業銀行準備の要求により、商業銀行は要求された準備を適切な会計期間に確保するよう資金を調達しようとするだろう。商業銀行は、銀行間市場でお互いに資金を借りることが出来るが、システム全体で準備預金が不足していれば、そうした”水平”取引では要求された準備預金を追加調達できない。このようなケースでは、銀行は保有する債券を中央銀行に売ったり、”割引窓口”(discount window)と呼ばれる機構を通じて資金を借入したりする。この財源の利用には基本的にはペナルティがある。

個別の銀行のレベルでは、もちろん”準備預金の価格(訳注:準備預金の借入金利)”は信用部門の資金貸出の判断に影響力を持つだろう。しかし、準備預金保有額それ自体は無関係である。貸出による収益と、割引窓口を通じて中央銀行から資金借入する際の金利の差が十分に大きければ、銀行は融資を行うだろう。

したがって、「銀行がバランスシートを拡大するためには超過準備の引き上げを通じて準備預金を”調達”することががまず必要である」という考えは不適当だ。銀行のバランスシート拡大能力は、保有する準備預金の量にも、法定準備率にも制約されてはいない。銀行は、融資によって自身のバランスシートを拡張する。融資は銀行預金を創造し、その銀行預金は事後的に準備預金に裏付けられる。銀行の新しい負債(訳注:銀行預金のこと)を創造する融資(信用)の拡張プロセスは、銀行の準備預金保有とは何の関係もない。

主流の見方では、バランスシート拡大は、準備預金の不足をもたらし、割引窓口を通じて中央銀行から資金を借り入れた際の”ペナルティ”によって貸出期待収益に影響を及ぼすだろうとされている。しかし、割引窓口のペナルティは、そもそも銀行の融資への影響力に対して何の妨げにもならないだろう。

公開市場操作について考えてみよう。公開市場操作は、教科書的には、中央銀行によるマネーサプライの増加あるいは減少だとされている。したがって、中央銀行がマネーサプライを増やしたいと思うとき、中央銀行は市場の債券を購入し、銀行システムに準備預金を追加すると考えられている。その次に銀行は、無駄な預金を遊ばせておきたくないので、それらの準備預金を貸出に回し、オーバーナイト市場の競争の結果、オーバーナイト金利は低下する。当然のことながら、もし中央銀行がオーバーナイト金利を一定値に維持しようとするなら、超過準備を除去しなくてはならず、そのためにオーバーナイト金利に釣り合う有利資産を銀行へ売り出さなくてはならない。つまり、公開市場操作で債券を売りに出さなくてはならないのである。債権売却によってマネーサプライを減らそうとした場合は、この逆のことが起こる。債券売却は現金システムから準備預金を除去し、それによって銀行の一部で法定準備の不足が生じるだろう。準備預金の全体での不足に対する唯一の対処法は中央銀行の介入なので、マネーサプライを減らそうという目論見は失敗に終わる。(訳注:もしあるオーバーナイト金利を保とうとするなら、準備預金不足によるオーバーナイト金利上昇を買いオペによって相殺しなければならないという話)

明らかなことだが、中央銀行は、金融政策設定を通じて金利を操作することは出来ても、システム内の貨幣量をコントロールすることはできないのである。貨幣乗数は、現実を説明するにあたって瑕疵のある概念だ。マネタリーベースがマネーサプライを決定するのではない。実際は、その逆が真実だ。準備預金は、いかなるときであっても、銀行が準備預金量とは独立に行った融資によって決定するのである。

したがって、現在の政策論議に照らし合わせつつこのことを考える際は、コメンテーターの話は話半分に聞かなくてはならない! 例えば、「信用収縮は銀行の貸与資金不足で生じたのであり、量的緩和は”印刷した紙幣”を銀行に渡すことで銀行を貸出可能にする」といった言説はナンセンスである。銀行は、信用力のある顧客が訪れたとき、銀行の望む条件でいつでも貸し出しを行えるだろう。

 

内生的貨幣とウィクセリアンの神話(Wicksellian myths

金融システムの運用法について間違った説明をしている集団は、主流派経済学者だけではない。進歩的と言われる経済学者の中にすら、そうした間違った説明をする人々は大勢いる。彼らは、我々が”商品貨幣”(本質的に価値のある実物)ではなく不換紙幣(無価値なもので作られた明細書)を用いているということは分かっているが、通貨(currency)がどのようにその価値を得るかという仕組みや、非政府セクターの相互取引における紙幣の役割をまだ誤解している。信用サイクルについてのいわゆる循環モデル(あるいはウィクセリアンモデル)は、政府セクターの包摂に失敗しており、瑕疵のあるアプローチの典型例である。要するに、これらのモデルは貨幣乗数神話を否認してはいるが、また別の神話を置き換えてしまっている。――金融システムにおいて政府が果たしている重要な役割を理解することなく、資本主義を理解することが出来る、という神話だ。

そのモデルによれば、経済は家計(生産要素を供給し、消費を行う)、企業(生産を行う)、そして銀行(生産の前段階で、生産資金を企業に融資する)で構成される。そして彼らの分析する”生産の回路”(circuits of production)では、企業が銀行から借入して、生産のために労働者を雇い、給料を払う。労働者は自身の賃金を消費に用い、それによって企業は銀行に返済を行う。そのとき”信用貨幣”は消滅する(そして資産と負債が対応して相殺される)。”回路”の最終地点において、家計貯蓄は、企業が家計に”債券”を売りつけて貯蓄を吸収する場合を除けば、常に未返済の銀行融資を反映することになる。

したがって、ウィクセリアンの見方では、”貨幣”は大まかに言って経済主体の信用の需要に応じて銀行が創造するものになる。信用による回転資金の調達が、民間セクターの経済活動の成長に応じて拡張可能なのは明らかだ。その成長率は、自己資本の準備比率と、内部留保のうちレバレッジ融資に利用可能な割合に対して比例的な関係を持つ。まさしくこの理由から、民間セクターは政府が財政的保守主義を通じて作る不景気をいくらか吸収することができるということになる。しかし、ここが現代金融理解の肝なのだが、全体の金融純資産は、償却されるか、不十分な量しか作られないので、民間の貯蓄需要を満たせず、この成長は維持不可能になってしまうだろう。金融純資産の減少に並行して、民間の債務レベルは上昇しているだろう。(訳注:財政黒字が生成されるときは、その背景に民間債務膨張があるだろう、という意味) さて、本題に戻ろう!

こうした分析で無視されてしまう”見て見ぬふりされている問題”(elephant in the room)が「通貨単位(currency unit)の謎」である。こうした相互作用的な回路において、どうして政府が法的に認可した単位が利用されるのだろう? なぜ人はその支払単位を受容するのだろう? もし分析から政府セクターを排除してしまうと、こうした基礎的な疑問にも答えることが出来なくなる。政府を排除した既述のモデルは、銀行の準備預金における財政の重要な影響について明らかに何も論ずることができないのではないだろうか?

MMT論者は、信用創造プロセスを”ハイパワードマネーのレバレッジ”(訳注:レバレッジとは)と考える。なぜすべてのこうした非政府主体の”レバレッジ活動”(借入、返済etc)が実行可能なのかを理解する唯一の方法は、政府が第一にこなす役割を考えることである。それはマクロ経済学理論の中心部分だ。銀行は明らかにマネーサプライを内生的に拡張している。それは、中央銀行のコントロール能力の埒外にある。しかしこの活動はすべて、政府と非政府セクターの間の相互取引から作られるハイパワードマネー(HPM)のレバレッジングなのである。

HPM、あるいはマネタリーベースは、政府が発行した通貨(紙幣+硬貨)と銀行の準備預金(中央銀行の負債)の合計である。HPMは統治政府の借用証書である。それはあなたが10オーストラリアドルを払ったときに、10オーストラリアドルを払い戻してくれることを約束しているのである!(訳注:HPMがいかにして政府の借用証書なのかについての、より詳しい説明はこちらを推奨→MMP BLOG #8: TAXES DRIVE MONEY) すべての政府支出は同じプロセスを持つ――商業銀行が中央銀行に開設している準備預金口座に、HPMが記帳されるのだ(借用証書が創造される) 。この事実は”紙幣を刷れ”という要求がどれだけ無知なものかということの理由にもなる。逆のことは税が払われるときに起こる――HPMのうちの準備預金が引き落とされ、資産がシステムから除去されるのだ(借用証書は破壊される)。このことを覚えておいてほしい。

HPMは垂直取引と呼ばれる取引を通じて経済に導入される。Deficit spending 101 Part 1邦訳)、Deficit spending 101 Part 2邦訳)、 Deficit spending 101 Part 3邦訳)に詳細と解説用の図があるので参照願いたい。

つまり、HPMは政府支出を通じてシステム内に入り、租税を通じてシステム外へ出ていく。政府が財政赤字支出を行うときに、金融純資産(HPM)が銀行システムの中に導入されるのである。そのため、財政政策は、HPMの供給に直接的な影響を与える。中央銀行もまた、商業銀行との資産売買と通じてHPMを創造・除去している。そうした資産売買は、中央銀行の望む金利ターゲットに整合的な準備預金額を確保するという形で行われている。政府・中央銀行は、為替介入や金(gold)売買といった他の手段でもHPMの創造・破壊を行っている。

会計的な意味では、非政府セクターが保有する富は、垂直取引の累積合計を反映しているということがわかる。政府が財政赤字を発生させたとき、非政府セクターに富が(オーストラリアドルで)積み上がる。逆も然りで、財政黒字は、これまでの財政赤字によって蓄積してきた民間セクターの富を”縮小”させることになる。

政府と非政府部門との間の取引を理解すると、非政府部門における信用創造プロセスを考察できるようになる。重要なポイントは、非政府部門レベルにおけるすべての取引はバランスする――”全体では±0になる”ということだ。創造された全ての資産(訳注:金融資産)には、対応する負債がある(ドル建て資産には、対応するドル建て負債がある)。 このため、信用拡大は常に全体では±0なのである! これまでのブログ記事で私は、そうした信用創造プロセスを”水平”レベルの分析と呼び、政府と非政府セクターとの間の関係を示す垂直取引から区別してきた。

垂直取引は、経済に通貨(currency)を導入し、水平取引はこの垂直取引成分を”レバレッジ”している。民間投資企業(銀行を含む)は、負債(訳注:銀行なら銀行預金)の創造を通じていわゆる資産ポジションを取り、利益を得ようとする。その負債は、HPM(我々にとってはオーストラリアドル)で定義される計算単位によって表記される。そのため、銀行にとってこうした活動(いわゆる信用創造)は、垂直取引によって創造されたHPMのレバレッジングだ。なぜなら、銀行が負債(訳注:銀行預金のこと)を発行するとき、それは必要に応じて容易にHPMへ交換可能でなくてはならないからだ。

銀行がオーストラリアドル建て貸出債権を作る際、同時に同額のオーストラリアドル建ての銀行預金が創造される。つまり、銀行は、資産(借入者の借用証書)を購入し、銀行預金(銀行負債)を創造するのである。借入者にとっては、借用証書が負債であり、銀行預金は資産(貨幣)である。銀行の信用創造は、借入者がHPMを需要して(銀行預金を引き出して)支払いを行うだろうという予想の下で行われる。支払いは、銀行間での準備預金の移動を生じさせる。これらの銀行の負債(銀行預金)は、非政府セクターの中では”貨幣”となる。しかし全体では何も生み出されてはいない。

垂直取引だけが、対応する負債なしに資産(訳注:金融資産)を創造/破壊する。我が友人であり、時折共著者となるRandy Wray(ランダル・レイ)は、このように説明している。

信用貨幣(つまり銀行預金)は、発行者(銀行)の借用証書であり、資産として保有されている貸出債権との相殺になる。逆に貸出債権は借入者にとっては借用証書であり、預金者から見れば信用貨幣は資産として保有される。(訳注:当然、預金者から見ても、負債としての貸出債権、資産としての信用貨幣は相殺になる) この観点からは、貨幣は(金貨のような)実物ではないし、’不換紙幣’(負債と対応しない資産)でもない

それにしても、政府によって選択された計算単位に最上位の価値を与えているのは何なのだろう。なぜすべての銀行、顧客はそれを需要するのだろうか? 国家貨幣(state money)(我々の場合はオーストラリアドル)が需要されるのは、租税負債を償却するのに使える唯一の手段として政府が認めているからだ、というのが答えである。租税負債は、政府の借用証書(例えばオーストラリアドル)の持ち込みのみによって支払い可能なのである。その上、我々がその支払い手段を獲得する唯一の方法は、政府に対する財・サービスの供給であり、それを見返りに政府は支出を行う。政府支出が、我々に税金を払うための資金を提供するのである! ほとんどの人々が思っている構造とは全く逆なのだ。

このプロセスは、政府がどのようにして、自身の社会経済政策上の役割を遂行するだけの十分な量の民間資源を確保しているかを説明するものだ。こうしたプロセスによって、労働力や他の資源を調達し、公的なインフラやサービスを提供しているのである。我々は、そうした政府支出に対して、オーストラリアドルの獲得のために、熱心に財・サービスを供給する。

したがって、多くの先進的なモデルの中心にある民間信用創造活動は、重要なポイントを見逃している。そのポイントとは、信用創造活動がHPMのレバレッジングである、ということである。そして、HPMは、政府に対する租税負債を償却するための唯一の手段であるという理由だけで、民間負債の償却(貸出債権の返済)にあたって受容されるのである。

 

参照

Graziani, A. (1990) ‘The Theory of the Monetary Circuit’, Economies et Societes.

Mosler, W.B. and Forstater, M. (2002) A General Analytical Framework for the Analysis of Currencies and Other Commodities.

ビル・ミッチェル「納税は資金供給ではない」(2010年4月19日)

Bill Mitchell, “Taxpayers do not fund anything“, Bill Mitchell – billy blog, April 19, 2010.

 

時折、誰も読んでいないし何の注意も払われていないが、不換紙幣(fiat currency)に基づく金融システム運営を行っている政府の持つ選択肢について、基礎的理解を提供している過去のいくつかの資料を発見することがある。そうした資料のうち、今でも有効なものの一つについて詳説しよう。その理解のエッセンスはこの記事のタイトルに要約されている――「納税は資金供給ではない」。したがって、評論家や政治家が”納税者のお金が無駄遣いされた”みたいなことを発言しているのを聞いたら、彼らが金融システム機能について理解していないと即座に結論付けることが出来る。この点において、彼らの主張は無視した方が良い――最初の前提がそもそも間違っているので、その結論も間違っている可能性が高いからだ。問題なのは、一般の政策議論が概してこうした誤った前提に基づいているということである。結果として、概して劣悪な政策方針が採用され、たいていの場合、恵まれない立場にいる人々の利益が著しく害されることになる。

 

週末にあった二つの報道記事は、イギリスにおいてどれほど無知な政策論議が展開されているかについての興味深い証明となっている。そしてイギリスにおける論議は、あらゆるところで行われている論議のレプリカに過ぎない。

公共政策の重要課題について経済学者その他が継続的に行っている発言は、金融システムの運用実態と当該システムが政策選択に与えている機会に関するとんでもなく誤った前提に基づいている。ゴールドマン・サックスがようやく法廷に呼び出された(どれだけ時間がかかってるんだ?)ことは喜ばしいことだが、私の告発のターゲットは、同僚の経済学者たちである。彼らは若人たちの精神に嘘・イデオロギーを永久の真実として植え付けようと拷問を働いているからだ。

 

火曜日(2010/4/15)に77人の経済学者たちがUK Timesへ書簡を出した。それによると:

案の定、選挙上の重要課題は「2010年11月にどれだけ政府支出を削減できるか」になっている。第一野党は現在、政府がすでに2010年11月に計画している削減策に加えて、さらに60億ポンドの削減を提唱している。こうした削減は、有効な貯蓄だということになっている。しかし、マクロ経済学的見解では、単なる削減に過ぎない。そうした削減は直接的に失業を齎し、スタンダードな財政乗数を通じて間接的に支出水準をさらに低下させるだろう。回復がデリケートな内は、それによって我々が不況に逆戻りする確信が強まり、雇用にさらなる悪化を齎すことになる。

今はそのような不安定化させるような行為を取るべきタイミングではない。回復はまだ脆弱なものだ。企業と家計は彼らのバランスシートを建て直すためにさらに貯蓄しようとしている。つまり、企業はあまり投資しないし、家計もあまり支出しない。回復が本格化したときのみ、政府支出のさらなる削減が安全に行えるようになる。

最初の一歩は、経済成長率の回復を確実化することだ、そうすれば税収も回復する。軽はずみな行動は、雇用だけでなく、財政赤字削減の見通しも危うくする。

 

77人の経済学者の大多数は、NAIRUの神話を延命させようとしたり(例:Lord Layard)、サプライサイド政策の策定に携わっていたり(例:OECD Jobs Study)している主流派経済学者であった(特にサプライサイド政策は数多くの人々の人生設計を失業長期化によって毀損した)。77人のうちの残りは主要なポストケインジアンだった。これはenemy within(内なる敵)の別の繰り返しの見本だ。

 

予想通り、この書簡は、現在のイギリス政府の大いなる後押しとなった。(ソース

あなたはこの書面を読んで、知らず知らずのうちに頷いていただろう。しかし、この書簡の隠れた真意は、オーソドックスな代物なのである。彼らは古いタイプのケインジアンが支持した財政ハト派主義を詳説しているだけだ。彼らは税収が”支出の資金供給になる”と論じており、たまには財政赤字を見逃そうと考えているに過ぎない。彼らは公的債務発行を懸念しており、総じて「なぜ公的債務が発行されるのか」についての理解に乏しい。財政赤字の持続可能性を考えるにあたり、彼らは公的債務残高GDP比の安定化というナンセンスなルールを持ち出す。彼らは、そうしたルールが財政赤字のサイズを制限するだろうと思っているのだ。

 

したがって”財政ハト派”が財政赤字を許容するのは、それが(後々の黒字によって平均的にゼロになるよう相殺されて)元のサイクルに戻り、公的債務GDP比が(実質金利と産出成長率の比の中で)平準化する限りにおいてのことなのだ。政府は財政制約に直面しており、慎重でなければならないという仮定に基づいた拷問じみた方程式が、学生たちに課されているのである。

重要なのは、財政ハト派が、金融システム運用に関する神話を延命させている主流派と、本質的に変わりがないというところである。かの書面は、財政ハト派の本性を完全に露わにしている。

→今は支出を削減すべき時ではないが、いつかは行うべきだ。

→回復を待って、それから政府支出を削減しよう。

→税収の増加を待って、それから政府支出削減に移ろう。

→拙速な支出削減は財政赤字を拡大するので良くないことだ。

かの書簡において、このような所感がひしめいていることが見て取れるだろう。現代金融理論(MMT)の観点から言うと、こうした所感はいずれも不換紙幣発行政府には適用できない。

「MMTも『支出削減が早すぎるので良くない結果に終わる』と考えているだろう」と言う人も居るかもしれない。それはそうだが、問題は、裏にある所感が見当はずれで不適合だというところだ。「支出削減するには早すぎるが、後々にはサイクルをバランスさせるために支出削減を行わなくてはならない」という誤った所感は、MMTからは否定される。

財政ハト派に支配的な懸念は、政府が”危険水域(wild side)”(財政赤字)にとどまれるのは限られた時間だけで、他の時点で純支出を削減して黒字を達成しなければならないというものである。財政ハト派の立場からは、一定水準の懸念が基礎にある。

彼らは、財政赤字が需要と雇用を下支えするということはわかっているが、同時に財政赤字によるインフレを恐れ、高水準の公的債務による危険と将来的な税率上昇を心配している。財政ハト派は、政府が財政的に制約されていると考えているのだ。

MMTは、政府財政赤字に対してこのような考えを示さない。MMTは、非政府部門の支出(及び貯蓄需要)によって内生的に財政赤字が決まると考えており、また適切な雇用成長率を保つために総需要を下支えするものでなければならないとも考えている。

政策目標は、特定の財政赤字水準ではなく、より重要な社会経済的福祉の指針である――例えば、完全雇用などだ。

MMTにとって、完全雇用を達成するのに必要な財政赤字がGDP比1%なのか、GDP比10%なのかは重要ではない。必要な財政規模の違いは、単に非政府部門の支出性向の違いを反映するに過ぎないのだ。

しかし、財政ハト派は、明らかに経済に対する財政赤字の規模に限界があると考えており、現在の比率が要注意だと見做している。いや、MMTも財政赤字GDP比に限界を見出してる――それは100%だ!(訳注:GDPの100%というのは、要するに全生産力という意味であり、「MMTにおける支出限度は実物生産キャパシティにのみ規定される」ということを意味している)

したがって、これら77人の経済学者は、いかにも理性的であるかのように振る舞ってはいるが、主流派経済学者たち同様、要点を掴みそこなってしまっている。

 

経済学者たちがどれだけ間違っているかについての他の目立つ例としては、イギリスのシンクタンクIFS(Institute of Fiscal Studeis)の最近のレポートがある。このレポートは、2010年4月18日付のガーディアン紙でChancellor Brown left public finances ill-prepared for the crunch” (ブラウン首相は”経済政策に対して準備不足”な公的財政状態を齎した)ということを示すものとして紹介された。私はまた別のブログ記事で、このレポートに含まれるロジックについて書くつもりだ。

ガーディアンの記事は、当該レポートが読者に提供した「神話」をそのまま載せたものとなっている。以下の通り。

IFSはゴードン・ブラウン首相が政府債務削減について他の先進国に比して努力不足であると主張している…ゴードン・ブラウンは、1990年前半の景気後退直前までの保守党に比べれば、信用収縮に一直線というほどではないものの、政府債務削減への努力がほかの先進国に比して不足しており、それによってイギリスは、金融危機による影響をコントロールするのが困難な脆弱な状況に陥っている、とIFSは報告している。

ガーディアン紙の記述によると、IFSは(レポートにおける貧困な推論を見るに、大して物事を考えて(think)いるようには見えないが)イギリス国家統計局による統計的証拠から、財政赤字支出の結果として”1997年から2007年にかけて、量および質の観点から見て、公的サービスが1/3程度のかなりの改善が生じた”ということは認めている。

しかし、彼らのメインの主張は以下だ。 ”危機的状況になりつつある高水準の債務は、イギリスが公的財政の劣化の後に2010年で最も貧弱な財政状況にある国の一つになったことを意味している。イギリス以上の財政劣化に陥った国は、三年以上前のアイルランド、およびアイスランドだけだ。”

IFSが言うには

ほとんどのOECD加盟国政府は、1997年から2007年にかけて、労働党よりも高度な構造的財政赤字削減に取り組んだ。労働党による財政状況は、金融危機の背景を形作ることになった…

これにはいくつか文を加えた方が良いだろう:ほとんどのOECD加盟国は急激な財政赤字削減を行ったが、強迫的な財政黒字追求は、高い失業率と(量・質ともに)低レベルな公共サービスを齎した。財政的責任を捨て去ろうとするのではなく、(雇用などの)指標の観点に基づいた財政戦略を取った結果として、イギリス政府ははるかに良い結果を実現した。

 

さて、以上からわかる主要な論点は、「過去の財政スタンスが現在の通貨発行権持ち政府(currency-issuing government)の財政選択の実行を阻害・制約し得る」という考えはナンセンスだ、というところだ。こうした信条は、財政ハト派や主流派の思考を下支えしている神話的代物である。

明らかなのは、昨年(あるいはより長い期間)で政府がどれだけの財政黒字or赤字を出したかということが、今必要な財政赤字を出すにあたって、良い方向にも悪い方向にも作用しないということである。。

 

 

はじめに、(自動安定化装置による)財政状況の内生性によって、民間支出の変動に応じた財政の変化が生ずるということを押さえておきたい。総需要に対するいくらかの反循環作用を持つということだ。それに加えて、通貨発行権持ち政府は、望むように純支出を裁量的な水準に選択可能である。

過去に形成した財政黒字が政府に追加的支出余力を齎すということは起こらない。

同様に、過去に形成した巨大な財政赤字が、政府の支出余力を減らしたり、その巨大財政赤字の維持余力を減らしたりすることもない。どれだけ巨大であってもだ!

イギリス政府は、経済危機に対して適切な規模の財政的介入を行うにあたり、他の通貨発行権持ち政府と完全に同等のキャパシティを持っていた。彼らは皆等しく、無限の金融的キャパシティを持っていたのである。

とはいえ、財政政策の限界というのは厳然として実在する。政府は、売買可能な実物財・サービスしか購入できない。そのうえ、そうした実物リソースに対する民間の強い需要があれば、政府による入札は価格上昇を齎すことになるだろう。

しかし、各国が全域的に恐慌に直面している場合、政府が非政府部門需要と資源競合する可能性は低いだろう。

 

 

収入のための租税は時代遅れ

導入部に書いた通り、経済学者が延命させようとしているこれら全ての神話を断固として暴く文書が時折生まれてはいるのだが、不幸なことに、こうした文書は出版当初はほとんど注目を集めず、主流派経済学者たちが通常営業を続ける中でどこかに埋没することとなってしまう。

第二次世界大戦の前年、当時のニューヨーク連銀総裁のBeardsley Rumlはアメリカ法曹協会である講演を行った。

この講演については、シカゴ大学図書館のGuide to the Beardsley Ruml Papers 1917-1960で閲覧可能だ。

歴史資料は、このスピーチが何も起こさず、”相応しい注目を集めなかった”ということを示している。このスピーチは1946年1月にAmerican Affairsの定期刊行物に掲載され、全文をここで読むことが出来る。

スピーチ(及び記事)のタイトルは収入のための租税は時代遅れ(Taxed for revenue are obsolete)というもので、これは確実にあなた方の心に響くだろう。もう一度声に出して読んでみよう――収入のための租税は時代遅れ。

American Affairsの編集者は当時、以下のように書いている:

(Rumlの)論文の主張は、(1)中央銀行システムのコントロール (2)不換紙幣という条件下においては、政府は最終的には資金の懸念から解放された状態であり、もはや政府自身の収入を目的とした徴税は必要にならないというものだ。このため、すべての租税は、社会・経済的効果の観点から評価されるべきだということになる。こうした考えを記述しているパラグラフは、テキストの中でイタリック体で見つかるはずだ。Mr. Rumlは政府がどのように費用支払いを行うのかについて精確には記述していない。考えられるのは、社会・経済的目的に基づいて徴収した税収から支出を捻出するか、あるいは必要に応じた紙幣印刷か、ということであろう。この論点は学術的なものだ。彼の論文の後半は、法人税への批判に捧げられている。

Rumlがこの論文を書いたのは、金本位制が崩壊した後であり、ブレトンウッズ協定によって通貨の兌換性と固定為替相場制度が再構築される前のことだ。Rumlは彼自身、ブレトンウッズ会議の主要なプレーヤーだったわけだが。

しかしながら、1945年では、アメリカは現在と同様の通貨発行権持ち国家だったわけだ! 間の何年間かは、ブレトンウッズ協定下において各国政府は通貨発行権を自発的に固定相場制度に譲渡していたが、この協定は最終的に1971年に崩壊した。

Rumlのスピーチの主な政治的意図は、企業に租税が悪影響を齎すと主張することであり、MMTの中心的な考えとは確かに別物である。しかし、Rumlの主張は、「もし政府は支出のための租税は必要としておらず、また租税が企業を痛めつけるのだとしたら、なぜ政府は徴税を行うのだろうか」という議論に基礎づけられている。

したがって、彼の主張する各命題は、リンクしてはいるものの、分離可能でもある。

Rumlは以下のように主張している:

民間企業に対する政府の優位性というのは、明らかに企業に対する政府の徴税力に基礎づけられている。企業は政府から多くの規則制定力を得る。政府は企業のこうした規則制定力に制限を設け、統治範囲内に限って企業運営の自由度を保障する。租税は、企業の実行力に制限を与えるために政府が課す制約の一つだ。

このプロセスに批判すべき点は何もない。課税される企業は、生身の人間、市民ではない。どれだけ抑圧されても一言も発さないし、そうあるべきだ。企業への課税の問題は、倫理の問題ではない。実際の影響に関する疑問だ:どのようにすればベストな成果を得られるか? どのように企業課税を行えば、最も公益に資することになるのか?

時にその裏に隠れている疑問を代わりに追求することが出来れば、啓蒙的になったりする。企業への課税に関する問題を理解しようとするなら、我々は以下の疑問を持たなくてはならない: ”一体なぜ、政府は租税を行う必要があるのか?”  これは簡単な質問に見えるが、そう見做してしまうと、得られる「明白な回答」が皮相的なものになる可能性が高い。もちろん、明白な回答というのは、「租税は政府にとって、費用を払うための収入である」というものだ。

第一に、租税というのは、政府が非政府部門に制約を課す方法だということは理解していただいているはずだ。Rumlは特に企業部門に対する制約に注目しているが、この議論はすべての非政府主体に一般化できる。

第二に、この文書からは、政府部門に対して制約を課すという政策決定に関して問われるべき疑問も見出すことが出来るだろう。つまり、”何が公益に最も資するのか?”という疑問である。MMTでは、公共政策決定において基礎的な目標として事前に公共目的について論じている。こうしたコンセプトと公益は近しい対応関係にある。

第三に、こうした制約は必要なのだろうか? ”一体なぜ、政府は租税を行う必要があるのか?”  既に示した皮相的回答は、主流派の基礎的主張であり、租税の目的に関する主流派の(直感的な)思考のあらわれだ。しかし、彼らが束縛されているこうした皮相的外観は全て間違いだ。重要なのは、租税が ”政府にとって、費用を払うための収入” ではないというところだ。

さらにRumlは、歴史的に見て政府が借入を通じて税収以上の支出を行ってきたことを説明した。彼が言うには、借入は ”政府の費用支出に対して税収以外の必要支払手段を補うための代替手段として用いられている”。 しかし:

…もし政府が借入支出に重度に固執するなら、金利はより高くなって、貸し手への政府からの誘導をよりいっそう強めるようになるだろう。そのような政府は最終的に、独立的統治と支払能力を両方維持する唯一の方法が、資金需要の大部分を満たすに足る重税を課すことであり、――もし支払期限の圧力の下にあるなら――資金需要を完全に満たすための租税を準備することであるということに気付く。

こうなれば、私の引用部分が――完全に主流派じみた――クラウディングアウトの話だと思うはずだ。つまり、債務の増加が将来の増税などを強いる、という話だと。

しかし、次にあなたがたは次のような一節を目にすることになる。

独立と支払能力の両立のために租税が必要だという話は、州や地方の政府においては正しい。しかし、国家政府については正しくない。

やっと合点がいった! 州政府や地方政府はこの意味で家計に似ていて、支出に際して金融的制約に直面している。それらは支出に際して資金を調達しなければならない。もちろん、州政府や地方政府は徴税権を持っていて、家計は持っていないが、それは程度の問題であって本質的な問題ではない。

一方、国家政府は不換紙幣金融システムにおいて独特な性質を持っている。Rumlは、この点について(過去25年の間に)生じた2種類の発展は、”貨幣支払需要を調達するにあたっての、国家政府の地位を大幅に変革した”と考察した。

現代的な中央銀行として機能する組織の存在下において、すべての主権国家は国内資金市場における究極の自由を獲得している。そして中央銀行の通貨は、金やその他のいかなる商品とも兌換性を持たない。

アメリカは中央銀行システム(連邦準備制度)を持つ国家であり、当該中央銀行の発行する通貨はいかなる商品とも兌換性を持たない。このことは、我々の連邦政府は、自身の資金需要を満たすにあたって資金市場から完全に自由であるということを意味する。よって、現在では、課税にあたっての第一の考慮は、それによる不可避的な社会経済的影響なのである。一般的に、すべての税は何かしらの性格の社会・経済的影響を持っているので、政府はそうした影響を考慮して租税政策を構築すべきだと言えるだろう。あらゆる連邦政府の税は、公共政策としての評価と実務上の効果の評価に耐えなければならない。租税プログラムにおいて、収入発生というマスクによって果たされるべき公共目的がにごまかされるなどという事は決して起きてはならない。

こうして、この言説がMMTによって提示された基礎的見識と完全に整合的であることが明瞭に確認できるだろう。通貨に兌換性がなく、変動為替相場制であれば、中央銀行は金融資産(貨幣)に関して完全なる創造の自由を持ち、連邦政府はあらゆる金融的制約から完全に自由になる。

この点についてのより詳しい議論は拙記事Who is in charge?をお読みいただきたい。

そして、このことは次の疑問を発生させる:もし政府に金融的制約がないのなら、どうして政府は課税を行うのだろうか?(特にそれが、経済成長等に悪影響をもたらす場合)

 

Rumlは租税の目的として四つの見解を提示してる。

『連邦税は、主に四種の社会・経済的目的のために作られている。

1. ドルの購買力を安定化させるための財政政策的装置

2. 累進所得税や相続税に見られるような、富と所得の分配に関する公共政策の表現

3. 様々な産業や業界団体に対する補助金ないし罰金といった公共政策の表現

4. 高速道路や社会保障といった、特定の国益のコストの直接的分離・評価』

 

1番目の目的はインフレ調節についてのものだ。政府が総需要の状態を管理するために課税を行うというのは、MMTの基本原則の一つである。したがって、もし名目需要が、実質産出の観点から見て経済のキャパシティを超えてしまうようなら、税を引き上げ、非政府部門の購買力を支出システムから取り上げ、支出乗数を減らす。

Rumlが言うには、 ”もし連邦税が不十分であるか、誤った形で課されたら、民衆の購買力は、購買力を十分に満たせるだけの財・サービス産出を大きく上回ってしまう可能性が高い。もし需要が過剰になれば、結果として価格が上昇し、それに釣り合うだけの商品量の増加は生じない。要するに…インフレーションが起こるということだ。一方で逆に、もし連邦税が過剰であるか、誤った形で課されたら、民衆の購買力は、生産者が作りたい全ての財・サービスを獲得するのに不十分なものとなるだろう。これは広範な失業に繋がる。”

2番目の目的は再分配についてであり、分かりやすいところだろう。3番目の目的も明瞭だ。

4番目の目的は、どうもぎこちなく聞こえる。というのは、表面的な論理のように思われるからだ。しかし、これが意味しているのはまさに「担保付き支出(hypothecated spending)」なのだ。これは政治的に継続的な支出については透明性があるべきという議論なのである。実際、租税は”需要除去”なのであり、非政府部門の支出キャパシティを減らす。この意味で、その透明性は、税がなければ家計ないし企業の手にあったはずの資源が、どこに ”需要注入” されたか(例:高速道路への支出)を非政府部門が正確に確認することを可能にする。そのことは、租税が何かの資金源になっているということを意味したりはしない。ただ、機会費用(逸失利益)の同額分だけわかりやすくするだけだ。

この点についてのより詳しい議論はFunctional finance and modern monetary theoryという記事をお読みいただきたい。

 

さて、Rumlは公共目的という概念について以下のように論じている

ここ最近、我々は連邦の租税プログラムを意識的にこうした目的にそれぞれ用いてきた。こうした目的を遂行するにあたって、租税プログラムは一つの手段に過ぎない。目的それ自体は基礎的な国家政策の問題であり、第一に、あらゆる国家租税プログラムから目的を独立させるべきである

繰り返すが、これ以上なく明瞭である。国家政策の優先順位は中心的な問題だ。そこでは、租税というのは、政府がこうした目標を進めるために最大限可能な全ての機能的財政政策パッケージの一部に過ぎない。Rumlによれば、 ”租税プログラムは一つの装置と考えられるべきであり、それが目的に対してどれだけ有効かで判断されるべきなのである。”

 

この言説は、1945年、アメリカ経済が金本位制からブレトンウッズ体制に移行するまでの間に行われたものだ。言い換えれば、当時のアメリカ政府は、今日と同じような通貨主権を持っていたのだ。

Rumlの見識は、MMTから導かれる中心的な原則と整合的だ。

こうした考えは、市井の人々が利用している直感的論理や、主流派マクロ経済学の教科書によって流布されている虚偽から見れば、全く以て風変りに思えるだろう。

納税は資金供給にならない。租税は、公共目的を追求する国家政府が政策パラメータを操ることによって、購買力が失われたり獲得されたりする事象である過ぎない。政府が(無能さetcによって)望ましい結果を達成できないことがあるという事実は、ここでは重要ではないのである。

ビル・ミッチェル「自然利子率は「ゼロ」だ!」(2009年8月30日)

Bill Mitchell, “The natural rate of interest is zero!“, Bill Mitchell – billy blog, August 30, 2009.

 

メディアでは、オーストラリア準備銀行(RBA)が2009年末に利上げするだろうということがやかましく報じられている。失業と不完全雇用がまだ増加しており、雇用成長率が利上げ時点でゼロを超えるかどうか不透明な中では、利上げはナンセンスだと思われる。理論的な観点から言って、こうした全ての推論の道筋は(ジャーナリストたちが本当に理解しているかどうかはともかく)、”中立利子率”と呼ばれるコンセプトであり、これは新自由主義的偽装の一つだ。今回のブログ記事では、これについて論じていこう。

 

メルボルンの日刊紙「The Age」で、Why rates are on the way back upというタイトルの記事が掲載された。The Ageの経済担当記者であるPeter Martinは、銀行エコノミストの報告の後に同じ内容を自身のブログでも発表しており、この記事は読む意味がある。

(Ageの記事によれば)いわゆる”市場心理”は、以下のようなものなのだという。

ほとんどんの実務エコノミストによると:

…2010年の終わりまでにオーストラリア準備銀行が金利を4.25%まで引き上げるだろうと予想されている。それは今よりも1.25%高い値だ。

エコノミストらが皆このように考える根拠は、オーストラリア準備銀行総裁であるGlen Stevensの最近の発言だ。2009年8月14日金曜日のシドニーの経済常設委員会における代議員議長からの質問に対し、Stevensは以下のように答えた(全文はこちら

尤も、我々は今すぐ金融政策を引き締めようとしているわけではありません。金利をいつ底から浮上させるかという議論において多少は考慮に入れていいただきたい観点があるのですが、我々は緊急時の設定のままでいるのです。ここ40年で最も低い金利設定になっていますが、これは、経済は深刻なまでに弱いままだろう、とか、我々が経験したことのないような世界情勢による経済低迷のリスクがまだある、という予想に基づいたものです。。… 直面していると思われるリスクが変化しはじめたなら、それに対応して緊急時体制を脱さなくてはなりません。… もはや現在の経済情勢には何の不安もありません。緊急的状況が十分過ぎ去ったとおおよそ考えられる時期になっているなら、我々はもはや緊急時体制を維持しなくてよいのです。我々が緊急時体制を解除するのは、世界のどこかに問題があるという確たる証拠がない限り、緊急時体制をあまりに長く維持してはいけないと考えるからです…

The Ageは、ある実務エコノミストの以下の発言を引用しながら、この主題に同意を示している:

…現在の3%という金利は、今世代で最も低い――1960年代後半以来、このような低金利は見たことがない

実際、我々オーストラリア国民もここまで低い金利を1960年代後半以降見たことはないが、同時に、1960年代後半以降完全雇用に近づいたことも見たことがない。この二つの事実は無関係ではない。

とにかく、こうした憶測の背景には、主流派経済学者がたびたび言及する”中立利子率”という名前の欺瞞に満ちた概念がある。

The Ageの記者はこう書いている。

オーストラリア経済においては現在、5%の金利が中立的であろうと一般的に考えられている―中立的というのは、経済を刺激もせず、減速もさせないということだ … したがって、3%の金利は過剰に経済刺激的だということになる。中央銀行が加速器を床に置くような真似をしたら、オーストラリア経済は世界金融危機の泥でスリップして転倒してしまう。

こうした実証的根拠に欠くコンセプトを夢見ている主流派経済学とは異なり、現代金融理論(MMT)は事物を(あなた方読者は驚かないだろうが)違った方法で考察する。

しかし、最初は議論の背景について説明しよう。

中立利子率という考えは重要だ。というのは、それが景気安定化装置の優先的選択肢は金融政策であるという信仰を反映したものだからだ。そうした信仰に基づき、今日のほとんどすべての経済学者(私は違う!)は、中央銀行が物価安定の達成によって実質経済成長率を最大化できると信じている。こうした見方に対応して、中央銀行の目標金利が”中立利子率”を下回るとやがてインフレに帰結し、その逆もまた然りである、と信じられている。

このため、中立利子率は時に均衡利子率とも呼ばれる。これは労働市場における自然失業率概念とそっくりな概念である。自然失業率もまた新自由主義的な偽装の一つだ。

こうした考えの構造はどこからやってきたのだろう? 我々はこのアイデアをイギリスの古典派経済学者ヘンリー・ソーントン(1760-1815)の著作の中に最初に見出すことが出来る。しかし、最もよく知られている解説は、スウェーデンの金融理論家クヌート・ヴィクセル(1851-1926)の1898年の本に書かれており、ヴィクセリアンの考えは中央銀行家たちに大きな影響を与えている。

彼の古典的著作―Interest and Prices(1936年版がMacmillanとその共著者により出版されている)―において、ヴィクセルは”自然利子率”を以下のように定義している(102ページ)

商品価格を上げもせず、下げもしない特定の中立な貸出金利が存在する。この中立な貸出金利は、もし仮にあらゆる貸出が貨幣(money)ではなく実物的資本財によってなされるのであれば、需給によって決まる金利と必然的に同じものになる。つまり、当該中立金利は、資本の自然金利の現在価値と同一になるということだ。

こうした考えに基づき、当時は、貯蓄者と投資家を接続する貸付資金市場において、実物的投資資金と実物的貯蓄供給が一致する金利が自然金利であると考えられていた。

ヴィクセルはまた、金融市場において貨幣(money)の需給で決定する金利と、貨幣のない世界で”実物的異時点間取引”を介して決定する金利を区別した。つまり、”貨幣”は”自然金利”に何の影響も持たず、”自然金利”は実物的(非名目的)因子のみによって決まるとされたのである。

彼はこう書いている(104ページ)

今もし貨幣が同じ金利で貸し出されるなら、形式的に見れば、貨幣なしで行われたであろうプロセスに、ただ外套を着せただけのものになるだろう。経済の均衡状態は完全に同様に満たされることになる。

こうした論理は、貨幣が”現実経済に対するヴェール”であり、物価水準にしか影響しないとする古典派的な考えに合致する。ヴィクセリアンの考えでは、金融市場の利子率と自然利子率の間の差が、物価水準に影響を及ぼすことになる。

したがって、金利が自然利子率より低いとき、(貯蓄に比して)投資超過となり、(総供給に比して)総需要超過となる。銀行融資は投資ギャップを埋めるために新しい通貨を発行し、インフレをもたらすことになる(金利が自然利子率より高いときは、その逆が起こる)。

こうした考えが現代金融経済にいかに不適合的かを長々と説明することも出来るが、それはこのブログ記事の目的ではない。

自然金利は観察不能な想像上の構造物なのだが、ヴィクセルは物価水準変動と2つの利子率のギャップの間のリンクが政策決定者に手がかりを与えると主張した。

彼は以下のように書いている(189ページ)。

このことは、銀行が自然利子率を本当に確認してから自身の金利の決定するべきだということを意味しているわけではない。そんなことはもちろん非現実的だし、全く必要ではない。商品価格の現在の水準は2つの利子率の差を示す信頼性の高いテストになる。そのプロセスは以下に示すようなシンプルなものだ: 物価が変化しない限り、銀行は金利を変化させずにとどめる。もし物価が上昇したら、金利は引き上げられる; もし物価が下落したら、金利は引き下げられる; 金利はその後、さらなる物価変動が金利の何かしらの変更を必要とするまで、新しい水準で維持されることになる。

以上より、原初の形の自然利子率概念を中央銀行家たちが未だに保持していることがわかるだろう―しかし、今ではどちらかというと ”中立利子率” と呼ばれている。

この文脈で重要なスピーチとして、前FRB議長のアラン・グリーンスパンの1993年のスピーチがある。そのスピーチによって、この自然利子率コンセプトが主流の政策検討の場に復活することになったからである。

1980年代の中央銀行家たちは、物価安定の維持のためにはマネーストックをコントロールする必要があるというミルトン・フリードマンの考えに毒されてしまっていた。マネタリーターゲット政策が追求され、それは結果的にすぐさま完全なる失敗へと陥った。

マネーストックは信用需要によって内生的に決まるのだから、中央銀行がマネーストックをコントロールすることが出来ないことは明らかであった。現代金融理論(MMT)は貨幣が外生的に決まるなどとは全く考えないが――貨幣外生説は主流派マクロ経済学の教科書の主要な前提となっている。

とにかく、中央銀行家たちはギャップを埋めるための考え方を変えた。1993年7月20日、グリーンスパンのStatement to the Congress(1993年に出版されたFederal Reserve Bulletinの849-855ページ)にて、彼は以下のように論じた:

実質利子率を考えるにあたっての中心的な問題は、それと均衡利子率との関係である。均衡利子率とは、維持されることによって長期的に経済を潜在産出水準に維持する実質利子率のことだ。実質利子率が均衡利子率より高い状態が続けば…ディスインフレーション…に直結するし、低い状態であれば、やがて資源のボトルネックに到達し、インフレーションが加速し、最終的には景気後退を生み出す。

このスピーチは、マネタリーターゲットの時代からの離脱として重要であり、インフレ目標の始まりを意味した。インフレ目標とは、中央銀行が目標インフレ率をアナウンスないし暗示し、総需要の操作(中央銀行家たちはそれが可能だと思っていた)を通じて物価を操作するために、金利を上下に調節するという枠組みである。このアプローチでは、インフレーションを抑える政治的手段として、明示的に失業を用いた――かの時代を通じて、”インフレ・ファースト”のマクロ経済学的戦略の一部として、総需要を抑制するために、失業率は高い水準に維持された。

グリーンスパンの”均衡利子率”は、大恐慌以前まで支配的であったヴィクセルの”自然利子率”理論の焼き直しだということがわかるだろう。しかしながら、ヴィクセルの理論を提唱するなら、その理論構造をすべて包摂しなくてはいけない――その空虚さと矛盾についてもだ。

当該理論によれば、物価調節を通じた市場均衡を想定しなければならず、経済は完全雇用に向かう傾向を持っているということになる(総需要の欠乏が起き得ないという意味だ)。したがって、もし(貯蓄の増加によって)消費が下落すれば、(貸付資金市場における)金利が(貸出供給の過剰によって)下落し、投資が増加することによって、消費減少による需給ギャップが満たされることになる。これはセーの法則であり、複数市場を導入する際はワルラスの法則と呼ばれる。

したがって金利は、完全雇用水準を満たす貯蓄と投資の一致があり、すべてがうまくいく自然金利へと調節されることになる。投資プロジェクトが不足することはなく、投資の是非は資金調達コストで判断される。そこには全く失業は存在しないのだ!

マルクスはすでに資本論においてこうした考えのナンセンスさを分解していたのであり、彼の議論を辿ってみることを勧めたい。そしてある意味、その追従者(ケインズとカレツキ)の発生は、マルクスによって予想されていたわけである。

さて、まさにこうした問題に対して、ケインズは一般理論で批判している。チャプター14で、ケインズはこう言っている(189ページ):

ここで言ってるのは、古典派の話だ; というのも、新古典派の橋渡しの試みは、最悪の混迷に陥ったからである … このことから、”自然”、”中立” … ないし ”均衡” 利子率が存在するという考えが導かれる。こうした利子率はつまり、”強制貯蓄”による一切の追加なしで古典的な貯蓄と投資を一致させる利子率だ … しかしこの点で我々はすでに深みにはまってしまっている。 “野生のアヒルは水底に――アヒルが潜れる限りの深さへ――潜り、そこにある雑草や海藻、ないしゴミに、しっかりと噛みついた。そしてそれの後を追って潜り、アヒルを再び引き上げるには、並外れて賢い犬が必要になる”

このように、伝統的な分析は失敗に終わっている。なぜならそうした分析は、システムの中の独立変数を正確に特定できていないからだ。貯蓄と投資はシステム内で決まる結果であり、決定要因ではない。それらはシステム内の決定要因(引用者註:総需要)で決まってくる双子の結果なのである。 … 伝統的な分析は、貯蓄が所得に依存することには気づいていたが、所得が投資に依存するという事実は見過ごしていた。それを考慮すると、投資が変わると、所得はちょうど貯蓄の変化と投資の変化を等しくする度合いだけ変わらなければならないのである。

言い換えれば、金利が何らかの形で投資と貯蓄をバランスさせるとか、投資が事前の貯蓄を必要とするとか、そういった正統派の考えはどちらも間違いだということだ。我々がきっちりと理解したのは、投資が所得の調節を通じて自ずと貯蓄を生み出すということである。こうした働きのすべては、有効需要に基づく――有効需要とは、現金に裏付けられた支出のことだ(マルクスは剰余価値理論の中でこのことについてはっきりと書いている)。1930年代は、ヴィクセリアンの、経済の動態に関するの考え方、金利調節を経済安定化政策の主役に据えるという考え方が完全に信用を失った時代だったのである。

しかし、こうした失墜したパラダイムが1970年代に復活し、1990年代まで再び支配的となった。こうした中立利子率的考えは、その重荷も完全に過去から受け継いでいる。

政策における中立利子率の有用性とは何か? これは然程馬鹿げた質問ではない。中立(自然)利子率が存在すると延々と主張する人々は、それをはっきりと計測する術を持っていないのだ。

このため彼らはヴィクセリアンの方法を採用し、物価が上昇しているなら金利が中立利子率より低いのであり、逆も然りだと主張する。言い換えれば、彼ら自身の価格調整理論に基づいた概念を作り出しただけなのだ。彼らは、金利変動とインフレーションの関係は疑う余地のないものとした上で、その理論が正しいのだから、自然利子率は測定すらできなくても、この概念に照らして我々がいまどのような状態にあるかを判定することができると言っているだけなのだ。

これまで、我々は皆、こうした(新自由主義的)コンセプトがあまりに抽象的で、かつメディアが延々とそれらを推奨するがゆえに、完全に欺かれてきた――そのため、中立利子率や自然失業率といった(両者は本質的に関係している)が、完全なるたわごと(total crock of sh.t)であるかどうかを疑うことすらできなかった。

さて、その疑問を今解き明かそう。

そうするにあたって、カンザス連銀の2004年のワーキング・ペーパー  Estimating equilibrium real interest rates in real timeを読むのが良いだろう。この論文はとりわけ以下のように結論付けている:

我々の結果は、定式化の不確実性が大きいこと、一方的フィルタリング処理の問題が大きいこと、データの不確実性による不正確さがあることを明らかにした。さらに、成長率トレンドと均衡利子率の間の関係は極めて弱いということも明らかにした。全体の分析を通じて我々は、均衡利子率の統計的算出を実際の政策適用で信頼して用いることは難しいだろうということを結論付けた。

中立利子率を計算するために用いられたテクニックについての精密な議論に入ろう。そうしたテクニックはうまくいかず、ある程度長期の実際の金利の平均を用いるのと大差なかった。1991年の不況によりインフレ期待がまさしくパージされてしまっていた1994年3月に、オーストラリア準備銀行は公式にインフレ目標を採用した。この1994年3月以降について考察すれば、中立利子率という概念がいかに馬鹿げているかが目に見てわかるグラフを書き上げることが出来る。

その時期(2008年12月にかけて)を通じた平均短期金利(政策金利)は5.67%だった(いわゆる中立利子率とそこまで乖離はない)。

最初のグラフは、「政策(目標)金利と”中立”利子率(1994年からの平均で、5.67%)との間の差」についてのもので、左のパネルでは「単年のインフレ率」と比較しており、、右のパネルでは「単年インフレ率の変化」と比較している。Hodrick-Prescottフィルターを用いても、Kalmanフィルターを用いても、Marlboroフィルターを用いても、得られる結果は同じになる! 最初の二つは、実証研究において中立(均衡)利子率を算出するのによく用いられる手法だ。

利子率差がゼロ以上であるとき、その時期の(政策)金利が、自然利子率を上回っているため、デフレ促進的であり、利子率差ゼロを下回る場合は、その時期の金利が自然利子率を下回りインフレ促進的であることを意味している。自然利子率の理論では、物価水準の一次導関数(インフレ率)に対応しているのか、物価水準の二次導関数(インフレ率の変化、あるいはインフレ加速度変化)に対応しているのかは明らかではない。したがって、グラフでは両方の情報を掲載している。

ヴィクセルの予見に合致するような関係は全く何も描出されていないことがわかるはずだ。

二つ目のグラフは散布図だ。左のパネルは利子率差とインフレ率の散布図で、右のパネルは利子率差とインフレ率変動の散布図である。(訳注:もし自然利子率理論が正しければ)我々は左上と右下の象限への集中を観測できるはずだ。しかしそうなっていない。このことは、現代金融理論(MMT)の研究者からすれば全く驚くべきものではない。そのことについては次に詳説していく。自然利子率理論は、間違った理論によって政府に劣悪な金融政策を取らせた例の一つなのである。

 

なせ”自然”利子率はゼロなのか

現代金融理論(MMT)の研究者は、金融政策を景気安定化手段として貧弱な代物だと考えている。それは間接的で、効果が鈍く、不確実な分配行動に依拠している。それは機能するとしてもラグがあるし、物価圧力と無関係な地域や集団にペナルティを課すことになってしまう(例えば、シドニーの不動産価格が急上昇する一方でオーストラリア全域がそうでもないというときでも、金利引き上げを強いられることになる)。債務者、債権者、及び彼らの支出パターンにどういう影響を与えるかについての強力な実証研究もまた存在しない。借り手は貸し手より消費性向が高いと暗に想定されているが、定かではない。

現代金融理論(MMT)の研究者にとっては、財政政策は直接的で、非政府部門の金融純資産を確実に創造or破壊できるという点で強力な政策である。そうした政策は、分配に関する仮定にも依存しない。

その上、現代金融理論(MMT)の研究者にとっての経済の自然状態というのは、完全雇用、つまり、2%以下の失業率および潜在失業と不完全雇用がゼロであることだ。完全雇用からの乖離こそが財政政策設定の失敗を反映する――巨大財政赤字ではなく(他の条件が同じなら)。

財政赤字のサイズは、非政府部門の発行通貨貯蓄需要に基づいて決定されなくてはならない。したがって、もし財政赤字が不十分で失業が発生するなら、政府純支出が支出ギャップを埋めるのに不十分だということがわかるのである。

我々は、財政赤字が準備預金を追加し、システム全体の準備預金の余剰を創造するという事も知っている。

超過準備はインターバンク市場において、中央銀行の提示するサポート金利よりも高い利子を求める銀行同士の競争を刺激する。つい最近まで、日本やアメリカといった国々のサポート金利はゼロだった。オーストラリアでは、政策金利から25ベーシスポイント低いサポート金利が設定されているが、こうした設定には何の理論的裏付けもない。

サポート金利を全く提供しない方がはるかに好ましいだろう。この場合、政府純支出はオーバーナイト金利をゼロに引き下げる。なぜなら、銀行間競争は、システム全体の余剰を取り除くことができないからだ(銀行間取引は全体ではプラスマイナスゼロになり、金融純資産は一切破壊されない)。

したがって、完全雇用という”自然”な政策目標を追求するなら、財政政策は短期金利をゼロに引き下げる随伴効果を持つだろう。この意味で、現代金融理論(MMT)の研究者は、ゼロ金利が自然だと結論付けるのである。この観点については、Warren MoslerとMathew Forstaterのこの記事が有用だろう。

もし中央銀行が何らかの理由でプラスの短期金利を望むなら(我々はそれに断固反対するが)――中央銀行は超過準備付利を提供するか、債券売却を通じて超過準備を除去するしかない。我々が望ましいと考える政策ポジションは、自然金利であるゼロ金利を保ち、債券売却を行わないことだ。そして財政政策にあらゆる調節を担わせる。そうした方がはるかに明瞭な方法である。

そして、中央銀行に居る全ての秀才たちは、転向させて(再教育して)、ガン治療の研究やその他の有用な何かに従事させることができるだろう。

ビル・ミッチェル「赤字財政支出 101 – Part 3」(2009年3月2日)

Bill Mitchell, “Deficit spending 101 – Part 3“, Bill Mitchell – billy blog, March 2, 2009.

Part 1 の翻訳はこちら

Part 2 の翻訳はこちら

 

この記事は財政赤字101のPart 3だ。このシリーズは、財政赤字を恐れるべきではない理由の説明のために書いている。この記事では、銀行システムにおける財政赤字の影響を考察することを通じて、「財政赤字が政府借入需要を増やし、金利を引き上げる」という既存の神話を蹴散らすつもりだ。この二つの議論には関係がある。重要な結論は、(a)財政赤字は金利に対して下落圧力をかける動態を持つ、ということと(b)政府債務発行は政府支出の”資金調達”をするものではない、ということだ。そうではなく、債務発行は、(オーストラリア中央銀行(RBA)の目標金利維持志向としての)金融政策をサポートするために行われるものだ。

 Deficits 101 Part 1 (訳注:邦訳はこちら)では、政府と非政府部門の間の垂直関係と、そこでの経済内の金融純資産の出入りについて描写した図を提示した。こうした政府-非政府部門間垂直取引は一体どのようなもので、それを理解することが経済理解にどう重要なのだろうか? こうしたことをつなぎ合わせる手助けになる関連図として、以下のものを提示しておこう(私の最も最近の著書であるFull Employment Abandoned: Shifting sands and policy failuresからの引用)。画像はクリックして別ウィンドウで見てもらって、ここから先のテキストについては印刷して読んでもらった方が良いかもしれない。

金融的垂直関係・水平関係

この図は、政府と非政府部門の本質的な関係を垂直的に示したPart 1のに、さらなる詳細を加えたものだ。

最初に垂直面に注目すると、納税義務が、通貨(currency)の垂直的・外生的な構成部分の最下部となっているのがわかるはずだ。統合政府(財務省+オーストラリア中央銀行)は垂直連鎖のトップにあたる。なぜなら、統合政府は通貨の独占的発行者であるからだ。グラフの中間セクションは民間(非政府)部門に占められている。民間部門は財・サービスを国家貨幣単位と交換し、納税し、残余(会計的には政府赤字支出にあたる)を蓄積させる。蓄積形態は、流通現金、準備預金(商業銀行がオーストラリア中央銀行に対して保有する)、政府(財務省)債券、証券(オーストラリア中央銀行を通じて提供された銀行預金)といった形を取る。

納税に用いられた通貨単位(the currency units)は、支払プロセスにおいて消費(破壊)される。国民政府は任意に紙幣を発行するか、オーストラリア中央銀行に会計情報を発行することが出来るので、納税が政府に対して支出余力を追加(還流)させたりすることはない。

政府の二つの部門(財務省と中央銀行)は非政府部門の金融資産ストック蓄積及び資産構成に影響を与える。(財務省が司る)政府赤字は、民間部門における金融資産ストック累積量を決定する。そして中央銀行は、こうしたストックの組成を、紙幣や硬貨(現金)、ないし(交換尻決済に用いる)準備預金、および政府債券の中で組み替える。

上で示した図では、ストック累積が、我々が「非政府部門のブリキ小屋」(Non-government Tin Shed)と名付けた不換紙幣・準備預金・政府債券の蓄積によってなされるということを示している。「キャンベラのどこかに備蓄地域があって、国民政府がそこにすべての余剰物資を後の利用のために備蓄しているのだ」という大衆の思い込みを解除するために、「ブリキ小屋」(Tin shed)というアナロジーを用いている――それは過去の政府体制における重大主張だったのだ。実際には、そこに備蓄などない。なぜなら、余剰のある限り、購買力は永久に損なわれているからだ。しかし、非政府部門は確かに金融システムのいたるところで「ブリキ小屋」を所有している。

政府部門から非政府部門へ流れるあらゆる支出は、非政府部門に現金・準備預金・債券の形で残っている税負債(the taxation liabilities)を取り上げるものではない。したがって、「ブリキ小屋」に積み上げられている金融資産の蓄積は、累積財政赤字を反映したものであるということが分かる。

垂直の線の一番下は税で、ごみ箱に繋げることで、何かをファイナンスしているのではないことを強調している。税は民間部門の金融収支を減じるが、何ら政府のプラスになるわけではない――その減少分は請求されるものの、どこかへ流れるわけではないのだ。

このように、不換紙幣発行政府による自国通貨貯蓄というコンセプトは、不適切な代物なのだ。

政府が蓄積資産の購入に純支出を用いることもあるかもしれない(例えば、金の余剰分を買い入れたり、オーストラリアの場合なら、オーストラリア未来基金に貯蓄されている民間部門の金融資産を買い入れたり)が、そうした行為は、政府による財政黒字形成(支出を上回る徴税)によって未来のための資金が貯蔵される、ということを意味するものではない。こうした考えは誤りだ。つまるところ、債券売却は、流動性の除去になるのだが、同時に流動性の解体を生じることになるのである。

民間信用市場は(水平矢印で描写されたような)関係を表し、商業銀行、企業、家計(海外含む)による信用レバレッジ活動が行われている。多くのポストケインジアン系経済学者は、これを内生的貨幣循環として考察している。垂直取引との決定的な違いは、水平取引では金融純資産を創造しないということだ――全ての資産創造は同量の負債と一致するので、取引全体ではプラスマイナスゼロになる。このことが示す含意については、政府純支出が流動性に与える影響と、債券発行の役割について考える際にすぐに触れよう。

別の重要なポイントとしては、民間のレバレッジ活動は、全体ではプラスマイナスゼロなので、「ブリキ小屋」の話における通貨(currency)・準備預金・政府債券の役割を担えないという点がある。標準的な教科書には大抵逆のことが書いてあるが、商業銀行は信用を生み出す際に準備預金を必要とはしない。

中央銀行は銀行システム内の流動性を管理することを通じて、短期金利をその時点の金融政策を決めている公式目標に合致させる。こうした目的を達成するため、中央銀行は(a)日常的な資金需給を管理するためにインターバンク市場(例えば、アメリカではフェデラルファンド市場)に介入し、(b)商業銀行から金融資産を現価で購入し、(c)緊急資金を求める銀行にペナルティ的貸出金利を課している。実際、ほとんどの流動性管理は(a)を通じて達成されている。要するに、中央銀行のオペレーションは、準備預金・現金・証券の組成を変更することを通じてシステム運用上のファクターを埋め合わせるものであり、非政府部門の金融純資産を変化させないのである。

金融市場では商業銀行(及びその他の金融仲介機関)は法定準備を満たしたり他の商業目的上の資金獲得を行うために、短期金融商品を相互に取引する。図に従えばこうした取引はすべて水平的なもので、全体ではプラスマイナスゼロになる。

商業銀行は中央銀行に準備預金口座を保持することで、準備預金を管理し、手形交換決済を円滑に行っている。中央銀行は、貸出金利(公定歩合)の設定に加えて、商業銀行が中央銀行に対して保有している準備預金へのサポート金利も設定している。オーストラリア、カナダ、ユーロ圏といった多くの国々では、超過準備に既定金利が支払われる(例えば、オーストラリア中央銀行では、余剰為替決済勘定にかかるオーバーナイト金利に比してより低い25ベーシスポイントの超過準備付利を支払っている)。他の国、例えば日本では、超過準備に付利を行わず、過剰な流動性がそこに留まっていれば、政府による債券売却(あるいは増税)がない限りは、短期金利をゼロまで引き下げることになる(2006年半ばまでの日本のように)。こうしたサポート金利は、経済において金利の底になる。

短期的ないし運用上の目標金利は、現在の金融政策スタンスを示すものだが、中央銀行によって公定歩合とサポート金利の間に設定されることになる。こうした構造は事実上、短期金利が流動性変動と共に変化できる範囲としての回廊(corridor)ないし幅(spread)を作り出す。このspreadこそが中央銀行が日常業務で管理しているものだ。

ほとんどの国では、商業銀行は、ある特定期間の累積で、中央銀行に対する準備預金保有をプラスに保たなければならないと法律で定められている。商業銀行は各日の終わりに準備預金口座の状態を査定する必要がある。準備預金口座が赤字なら、中央銀行から公定歩合で必要資金を借入することが出来る。一方、超過準備を持つ銀行は、何の行動も起こさない場合は、オーバーナイト資金に対する現在の市場金利を下回るサポート金利の稼得に直面する。明らかなことだが、この場合銀行は超過資金を市場金利でほかの銀行に貸し出した方が利益が出る。超過準備を抱えた銀行同士の(慣習に則った)競争によって、短期金利(オーバーナイト金利)には下落圧力がかかり、全体的な流動性の状態に基づいてインターバンク金利は、オペレーション上の目標金利より低い水準まで低下することになる。システム内の流動性が全体で見て過剰である場合、こうした競争が金利をサポート金利まで引き下げるのだ。

資金市場における短期資金需要は、インターバンク金利に対して逆向きに動く。というのは、インターバンク金利が高くなると、予想不足量を他の銀行から借りようとする銀行が減るからだ(準備預金量予想の失敗をカバーするために、中央銀行から末日に資金を借りるはめになるリスクと比較して、の話ではあるが)。公開市場オペレーションを通じた流動性管理のための主要な手段は、政府債務の売買である。オーバーナイト資金市場における競争的圧力によってインターバンク金利が望ましい目標金利より低くなってしまう場合、中央銀行は政府債務売却によって流動性を取り除く。このような公開市場介入はオーバーナイト金利を引き上げる。重要なポイントだが、債務発行は、金利維持を実現するために作られた金融政策手段だと位置付けられているのである。こうした理解は、債務発行が財政の一側面であり、赤字財政支出の資金調達のために必要なものだと主張するオーソドックスな理論と全く以て対照的なものである。

後にさらに発展させていくこうした議論における重要なポイントは、クラウディングアウトが神話であるということを暴くことだ。政府支出(財政赤字)は、中央銀行による流動性管理を考慮しない場合は、商業銀行が中央銀行に対して保有する(準備預金の)精算後差額で見て、超過準備(現金供給)を発生させることになる。我々はこれを「システム全体の余剰」と呼ぶ。この場合、商業銀行は、他の(資金不足の)銀行に貸し出して利益を得ようとしない限り、超過準備に支払われる低いサポート金利に甘んじることになる。事後的に生じる超過準備の押しつけ競争によって、オーバーナイト金利は下落圧力を受ける。しかし、そうした取引は水平取引であり、必然的に総和はプラスマイナスゼロなので、銀行間取引は、システム全体の余剰を解消できない。よって、もし中央銀行が現在の目標オーバーナイト金利を維持しようとするなら、流動性余剰を政府債務売却によって除去しなくてはならない。これは垂直取引だ。

 

神話としてのクラウディングアウト

我々は今、「通貨発行権のある政府(currency-issuing government)に金融的制約がある」という考えを永続化させようとする神話の存在を知っている。この神話は、マクロ経済政策における政府の行動主義に対抗する正統派経済学者の議論を支えているものだ。消滅させる必要のあるしぶとい神話は他にもある――「政府支出が金利影響を通じて民間支出をクラウディングアウトする」という神話だ。

これまで見てきたように、中央銀行は必要に応じてリスクフリー金利を管理するのであり、直接的な市場圧力に従属したりはしない。正統派経済学のアプローチでは、永続的財政赤字は国民貯蓄を減らし、金利を引き上げ、投資支出を引き下げると論じられる。2日前に私が書いた 7.30 Report transcriptという記事を思い起こしてほしい。不幸なことに、「財政赤字が債務発行を増やし金利を引き上げる」というロジックの提唱者は、金利がどのように設定されるか、及び債務発行が経済においてどのような役割を担っているかについて理解できていない。明らかのことだが、長期投資金利にとって好ましいかどうかは度外視して、中央銀行がゼロ金利を設定・維持することは可能である。

政府支出はどこからか資金調達しているわけではないし、また集められた税金がどこかに向かって支出されているわけでもない、ということを確認してきたが、それと同時に、政府純支出には流動性面での実体的な影響があるということも議論してきた。債券を購入する資金は、会計的には政府支出によって供給されるので、「政府支出が民間投資用の有限な貯蓄を制限してしまう」といった考えは無価値である。アメリカの金融エキスパートであるTom Nugentは以下のように要約している:

『政府赤字支出の全影響を織り込むと、連邦政府による財務省証券発行は、常に新規発行資金と等しいので、財政赤字拡大による金利上昇への警戒というのは、ほとんど意味がないということも分かる。全体での影響は常に織り込まれ、金利は連銀が常に操作することになる。日本について考えてみればよい。日本は有史以来最大の公的債務を抱えており、繰り返し格下げもされているが、日本の政府証券金利は0.001%なのだ! もし財政赤字が本当に金利上昇を起こすなら、とっくの昔に日本は破綻していないといけない!』

これまで説明してきた通り、連邦政府と民間部門の取引は、システム全体の収支バランスを変化させるだけだ。政府支出や、中央銀行による政府証券(財務省債券)購入は流動性を追加するし、租税や政府証券売却は流動性を除去する。こうした取引は日常的にシステム内の現金量に影響を与え、当該取引による公的部門からの資金流出入の水準に応じて各日におけるシステム全体の黒字(赤字)が決定することになる。システムにおける現金量は、中央銀行の金融政策に関する決定的な暗示である。中央銀行による公開市場オペレーション(債券売買)の決定を反映するものだからだ。

この議論の理解の手助けのため、別の図を用意した。新しいウィンドウで開き、印刷して参照すれば、これまでの議論が分かりやすくなるだろう。

政府のそれぞれの部門の機能は以下のように要約される:(a)財務省による財政政策は、各日における政府支出と租税として要約され、経済全体に対して黒字(政府支出G>租税T)か赤字(G<T)の影響を与える。(b)オーストラリア中央銀行は金利目標の設定を通じて金融政策を遂行する。オーストラリア中央銀行はまた、目標金利を維持するためにシステム全体の現金量を管理する。これは政府債務の売買によって、商業銀行の準備預金を変化させることで行われる。では、政府債務の発行は、政府支出の資金調達に用いられないのに、なぜ行われているのか? 要するにそれは、中央銀行による(特定のオーバーナイト金利の保持を目的とした)準備預金操作のために行われているのである。図のように、政府支出Gは準備預金を加え、租税Tは準備預金を除去する。したがって、各日においては、もしG>T(財政赤字)であれば、準備預金は全体で増加することになる。

特定の銀行が準備預金不足になることはあり得るが、全体で見た準備預金の総額は過剰である。オーストラリアでは、オーバーナイトで残存する準備預金には目標金利以下の付利しか発生しない(いくつかの国では、付利すらない)。したがって各日において商業銀行は不要な準備預金を処分したがる。準備預金の余剰のある銀行は超過準備をインターバンク市場で貸し出そうとする。一部の準備預金不足の銀行はそうした貸出を受け入れて準備預金を補い、オーストラリア銀行の貸出窓口(discount window)で割高な準備預金借入を強いられる事態を回避しようとする。

結局は、準備預金余剰の銀行が自身の超過準備を処分しようとする競争によって短期金利は下落する。しかし、もしあなたが上記で議論した水平取引(全体ではプラスマイナスゼロ!)を理解したなら、非政府銀行システムがそれ自体(インターバンク市場における貸借といった、商業銀行同士の水平取引の遂行)によって(財政赤字によって創造された)システム全体の超過準備を処分することができないということが分かるはずだ。

必要なのは垂直取引――政府と非政府部門の間の相互作用だ。示した図に見る通り、債券売却によって、銀行に対して超過準備を処分できる魅力的な有利子証券(政府債務)を提示することで、準備預金を除去することが出来る。

このように、債券売却(債務発行)によってオーストラリア中央銀行は現金システム内の超過準備を除去し、金利への下落圧力を縮小させることができる。そうすることで、金融政策のコントロールが保たれる。重要なことは:

・財政赤字は金利に対して下落圧力をもたらす;

・債券売却はオーストラリア中央銀行の目標金利水準に金利を維持させる;

 

以上より、債務マネタイゼーションというコンセプトは全く不合理だ。一旦オーバーナイト金利が設定されたら、中央銀行はその目標を維持するのに必要な流動性変化の分だけしか政府証券を取引しない。中央銀行は準備預金をコントロールできないので、債務マネタイゼーションは全く不可能だ。中央銀行が財務省から政府証券を購入し、同時に政府支出が増加した場合を想像してほしい。超過準備の存在によって、中央銀行が同量の政府証券の売却を強いられるか、オーバーナイト金利がサポート水準まで下落するのを看過するかのどちらかになる。金利設定型金融政策のロジックから鑑みると、これはマネタイゼーションというより、単に中央銀行が仲介者として働いたに過ぎないのだ。

究極的には(訳注:政府支出が十分以上に増加した場合)、民間主体はそれ以上の現金・債券の保有を拒絶するかもしれない。債務発行がなければ、金利は中央銀行の設定するサポート下限(ゼロかもしれない)まで下がることになるだろう。これも明らかなことだが、民間部門がミクロレベルで政府証券なしに不要な現金を解消したかったら、民間部門の消費レベルを引き上げるしかない。現在の租税構造においては、このことは全体での貯蓄需要を減らし、民間支出を拡張し、財政赤字を減らし、最終的には、貯蓄需要が低い水準であり続ける限り、民間雇用レベルの上昇と必要な財政赤字の低下という形でポートフォリオがリバランスすることになるだろう。政府にとって、実物の限界を超えて経済を拡大する動機がないことは明らかだ。政府支出がインフレを起こすかどうかは、名目需要増加を満たすような経済の実物産出拡張能力に依存している。財政赤字の大きさそれ自体で決定するのではない。

 

この記事の主要な結論についてまとめておこう。

・中央銀行は自身の政策志向に基づき短期金利を設定する。実務的には、(マクロ経済学の教科書でクラウディングアウトとして描かれている神話とは対照的に)財政赤字は金利に下落圧力をかける。中央銀行はこの圧力に対して、政府債券を売却することで対抗でき、これを行うと政府が国民から借入を行ったのと同じことになる。

・借入を行わない(訳注:国債売りオペを行わない)ことのペナルティとしては、その国の回廊(corridor)の底への金利下落が生じる。回廊の底は、中央銀行が準備預金付利を行わない場合は、ゼロである。例えば日本は、国民からの借入(訳注:国債売りオペ)以上の支出によって形成した財政赤字を通じて、何年もの間ゼロ金利政策を維持することが出来た。このことは、政府支出が国民からの借入から独立して政府支出が可能であることと、国民からの借入というのは政府支出より順番的には後に発生するのだ、ということも示すことになる。

・政府債務発行というのは、財政政策固有の行為というよりは、金融政策手段である。

・会計的観点から見ると、財政黒字が示すのは、政府が何を行ったかであり、何を受け取ったかではない。(訳注:財政黒字は単に民間の金融純資産の除去を行っただけであり、それを通じて政府が何かを獲得することはないということ)

 

端的に言うと、我々は「連邦政府の赤字創出は有害であり、将来世代に負債を残す」という考えを否認する必要があるのだ。政府はあるプラスの短期金利の維持を選択してきているし、現金システムから生じる金利下落圧力に対して債務発行を必要としている。このシリーズの次の記事であるDeficits 101 Part 4ではなぜ短期金利が(現在の日本やアメリカのように)ゼロあるいはその周辺に維持されるべきかについて議論するつもりだ。(訳注:part 4という形ではないが、この論点についてミッチェルはThe natural rate of interest is zero!という記事を書いている。経済学101での邦訳はこちら

 

サイモン・レン=ルイス「非伝統的金融政策vs財政政策」(2014年9月6日)

Unconventional Monetary Policy versus fiscal policy(mainly macro, 6 September 2014) Posted by Simon Wren-Lewis

 

前回のエントリ(拙邦訳はこちら)では、極めて単純な設定から、利下げで需要刺激するのがベストであること、減税と政府支出も同様の役割をこなせること、減税と政府支出の場合は需要不足のコストに比してはたいしたことのない厚生コストしか発生しないことを説明した。

したがって、少々専門用語を交えて言うと、利下げはファーストベストだが、もし名目金利がゼロに達してそのファーストベストが利用不可能になってしまったら、財政政策を用いるべきである。もし財政刺激のサイズに資金的制約があるなら、一般的に減税よりも政府支出の方がより効果的である。

では、非伝統的金融政策についてはどうだろうか? 非伝統的金融政策には主に二種類ある: 将来のインフレ目標(およびプラスの産出ギャップ)に対するフォワード・コミットメントと、貨幣発行によって様々な種類の資産を購入すること(QE)だ。それぞれのケースについて、その政策にかかる厚生コストと、財政政策利用の厚生コストの比較を行いたい。しかしながら、効果の不確実性という問題もある: 我々は、どれくらい利用できる政策なのかを知りたい: 不確実性の問題は、前のエントリでは重要ではなかった。なぜなら、我々は伝統的金融政策と財政政策の影響について多くのエビデンスを保有していたからだ。だから次はそれぞれの非伝統的金融政策について考察しよう。

金利がゼロに嵌ったときの需要刺激策の一つとしては、理想水準より高いインフレと産出の組み合わせを将来に約束するというものがある。(これは明示的ないし暗示的に、名目GDPのような何かしらの名目水準を目標として用いることで可能である。このことについてあまり知らない方々は、こちらをご覧になると良い。) この政策のコストは明確だ: 理想水準より高い将来インフレ・産出である。繰り返しになるが、名目金利がゼロに嵌る理由となった現在の不況の深刻さを考えれば、こうしたコストは受け入れるに値する。こうしたコストが政府支出の変更のコストより大きいか小さいかは議論の余地がある。私がここで議論したWerningのペーパーによると、どちらも含んでいるものが最適政策になり得るのだという。

この特定の政策において生ずる問題の一つに、時間的不整合性の問題がある。中央銀行が将来のインフレ目標を引き上げると約束し、今日の不況を和らげるのに役立ったとして、不況が終わったときその約束を守るだろうか? 国民はそれを許すだろうか? 人々がそうならないと考えたとき、政策の有効性は弱まり、政策効果の不確実性は増加する。これは、何らかの名目目標に政策を紐づけるのが有用になり得る理由の一つだ。1

もう一つの非伝統的金融政策はQEだ: これは通貨発行によって資産購入を行うものである。この政策は将来の金利を引き下げるというフォワード・コミットメント以外の何物でもないと見做すことが出来、先ほどの議論に我々を引き戻すことになる。この政策について、それ以上の問題も想定してみよう。未解決の大問題としては、この政策がどれだけの歪みを齎すかという問題があると考えられる。

例えば、Mark GertlerとPeter KaradiによるQEの効果の研究におけるもっともポピュラーなモデルの一つでは、中央銀行が融資を行うか、政府債務を購入する。これによってリスクプレミアムが減少し、厚生が改善する。このことは、QEがなぜ永久的でないかという明かな疑問を提起する。著者たちは、中央銀行が民間銀行よりも「どんな資産を買うべきか」を知るにあたって比較的非効率であると想定することで、この問題を回避している。しかしながら、著者たちを含めて、こうした効率性コストがどんなものか少しでも知っている人がいるのかどうかについては、定かではない。

おそらくこうした歪みは極めて小さいだろう。しかしながら、この議論は、QEに関するさらなる深刻な問題を浮き彫りにしている。それは、我々がQEの効果、あるいは実際にその効果が線型なのかどうか、そしてどの市場で施行するのがベストなのかということについてはっきりした考えを未だに持っていないということである。QEについてのアナウンスメントは明らかに市場に影響を与える。しかし、それはMichael Woodfordが議論したように、シグナリング装置として機能するからかもしれない。Jim Hamiltonもまた懐疑的だ。このことが強烈に示唆するのは、QEの効果についての不確実性が、伝統的金融政策や財政政策に関する不確実性よりはるかに大きいという事だ。

こうして考えると、一部の人々が「非伝統政策が財政政策よりも常に好ましい」と断固主張する理由がわからないのである。最近のNick Roweのエントリへのコメントで、Scott Sumnerはこう書いている。”私の考えは「一度中央銀行が地球上のすべての資産を買い占めてから話を聞こう」というものだ。そうなってから、我々は財政刺激について論ずることが可能になる。” この言明の実質的な意味は、政府の片腕(中央銀行)が莫大な量の貨幣を発行して大量の資産を購入することが、政府のもう一方の腕(財務省)が消費者の支出・貯蓄できる貨幣を減らすことよりも優れているというものである。こうした選好は実に奇妙に思えるが、レーニンなら気に入ったかもしれない!

 

 

  1. もし一時的な政府支出が実際には恒久的だと信じられた場合、政府支出の経済刺激効果は大いに失われる。しかし、このことは時間的不整合性の問題ではない。他の違いとして挙げられるのは、政府支出が通期的に支出を増やしたり減らしたりている一方、先進的な経済における中央銀行がわざと好況を作るのは極めて稀であることである。 []

サイモン・レン=ルイス「需給ギャップを埋めるには:金融政策か、減税か、政府支出か」(2014年8月27日)

Filling the gap: monetary policy or tax cuts or government spending (mainly macro, 27 August 2014) Posted by Simon Wren-Lewis 

 

資本のないシンプルな閉鎖経済で非自発的失業の増加を伴う総需要の不足があるとしよう。我々は、民間消費(C)と政府消費(G)のどちらかの引き上げを試みるだろうか? 仮に前者を試みるなら、なぜ減税より金融政策をより好むのだろうか? その理由は?

もし民間生産財と公共生産財に対する選好が安定的なら、理想的にはC/Gの比を最適な水準に保ちたい。したがって、もし総需要の減少がCの急減で生じるなら、何とかしてCを引き上げたいと考える。実質利子率は将来消費に対する現在消費の価格なので、明らかな第一の最善政策は、Cの価格が変化して消費不足が取り除かれる実質金利を達成するよう、名目金利を設定することである。こうした考えは、金融政策を景気安定化装置として好む現代の選好の背後に入る基礎的な直観である: 私が政策割り当てのコンセンサス(the consensus assignment)と呼んでいるものの一部だ。

古典派モデルあるいは実物的景気循環モデルでは、こうした金利調節は魔法のようにひとりでに起こる。そうした調節は通常、 ’価格伸縮性’ という用語を当てにしているが、総需要の不足がどのようにしてより低い実質金利に変換されるかについてあまりよく説明できないので、やはり魔法に過ぎない。現実の世界では、「魔法使い」は中央銀行だ。注意してほしいのだが、私は金融政策と財政政策に関する実施ラグについては一切言及していない。実施ラグは、教科書において政策割り当てのコンセンサスの理由の一つとして挙げられているが、金融政策を選好する理由として私が挙げたものは、それよりもいっそう本質的な代物だ。

もし総需要の不足が技術進歩を通じた ’供給’ の増加によって 起きた場合はどうだろう? この場合でも、第一の最善政策は消費を増やす金利引き下げである。しかし、我々はまた、最適なC/G比を保つために、公共消費も増やしたいと考える。

最後に、より複雑なショックについて考察しよう――フィリップス・カーブに影響を与え、ある水準の産出・総需要に対するインフレ率を引き上げる ’コストプッシュ’ ショックについてだ。既に知られている通り、この場合我々は(負の総需要ギャップを作って)産出を減らし、インフレーションをある程度抑制する政策を求める。産出ギャップにもインフレーションにもコストがあると考えるからだ。しかしながら、こうした場合において金融政策がファーストベストなのかどうかについてはさほど明らかではない。Fabian Eser、Campbell Leith、そして私が執筆したこの論文では、ここでも金融政策がファーストベストなのであると示した。我々はいくつかの方法で(ただし、それ以外の方法は使わずに)モデルを複雑化して、金融政策だけで社会厚生が最大化されるという結果を得た。

消費下落による需要ギャップに話を戻すと、名目金利がゼロ下限で行き詰まり、金融政策が使えなくなったとしよう。民間消費を引き上げたいなら、明らかな代替手段は減税だ。もし定額税(人頭税のような、所得と無関係な税)を用いることが出来るなら、仮に消費者が減税に反応するとして、減税は極めて有効に機能するだろう。そこには二つの問題がある。リカード等価性の問題と、定額税が存在しないという問題だ。

リカード等価性が完全に成り立つ場合は、減税は消費を全く刺激しない。しかしリカード等価性が成り立たないという首尾一貫したエビデンスがある。ただ、こうしたエビデンスは、少なくとも半分、あるいはそれ以上の減税が貯蓄に回されることを示しており、このことは、消費ギャップに比して額面の点で大きい減税が必要だということを意味する。また、減税の効果の不確実性も付加される。何かしらの刺激政策パッケージのサイズにある程度の資金的制約がある場合は(しばしばそうであろう)、それによって所得効果に依存する税の変更政策に深刻なデメリットが生じる。もし資金的制約がないとしても、減税の消費刺激効果の相対的な弱さは、他の理由で問題になる。

定額税は存在しないので、ある程度歪みを齎す税(インセンティブに影響を与える税)を用いなくてはならない。これは、減税は租税の平坦化を侵害することを意味する。最善の政策は、税の歪みを一貫してキープすることだと考えられている。ある年で税率10%、他の年で税率50%とするよりも、税率30%をキープする方が好ましい。したがって、所得税減税(後には増税を行う)で消費ギャップを満たすのにはコストがある。より多くの減税が貯蓄に回されるほど、そうしたコストは大きくなる。こうしたコストのせいで消費ギャップを満たすのをやめるという可能性は極めて低い。なぜなら、失業コストはそうした不公平な税の歪みよりもはるかに重要だからだ。しかしながら、コストの存在により、実質金利変更のようなファーストベストの政策とはかけ離れたものとなる。

対照的に、あらゆる需要ギャップ埋め合わせにおいての公共支出の利用は、はるかに直截的だ。その需要面での影響と雇用面での影響が比較的予想しやすいからだ。しかし、それにもコストがある: CとGのバランスが崩れるのだ(Cに比してGが過剰になる)。Chris Houseの最近のエントリは、代替的財政刺激手段としての減税と政府支出の対立を扱っている(ノア・スミスがそれに続いてエントリを書き 、Chrisはそれに反応している )。彼の提案によれば、政府支出は、その社会的便益が社会的コストを上回るときにのみ刺激手段として用いるべきなのだという。私はそうした考えがこの問題を考えるにあたって大して有用とは思われない。私の考えでは、もっと良い考えは、需要ギャップは必ず埋め合わせられないといけないということを受け入れて(なぜなら、何もしないことのコストは極めて大きいからだ)、付帯的損害を最小化する方法を見つけ出すという事だ。それは減税ではなく、Gの追加だろう。もし財政刺激のサイズに資金的制約があるなら、そのことはほぼ確実だ。

同じような論理が、非伝統的金融政策についても当てはまるが、そのことについては別のエントリで論じよう。