経済学101は主に皆様の寄付によって賄われています。温かい支援をお待ちしています

ジョセフ・ヒース「ナオミ・クライン、追記その1」(2015年4月4日)

Naomi Klein postscript no. 1
Posted by Joseph Heath on April 4, 2015 | economy, environment, public policy

ナオミ・クラインの新書『これが全てを変える』を読んでいた際、書籍内の多くの言説に驚かされた。ただそれらの内のいくつかは、主な批評対象から若干逸脱していたので、2週間前に書いた書評からは割愛させてもらった。しかし、それら割愛箇所は言及する価値のあるものでもある。特にこの新著と過去著作(『ショック・ドクトリン』『ブランドなんかいらない』を含む)との論理的整合性についてである。(我々アカデミアの住人が好むかなり面倒なやり方の1つがある。それは研究対象該当者の著作を全て読み込み、「全著作がどのように関連しているのか?」という疑問にしつこく煩悶するのだ。「ノンアカデミシャンの著作を扱う際には、そのやり方はアンフェアだ」と何人かの人に指摘された。しかし我慢できないのでやってしまおうかと思う。

『これが全てを変える』について、クラインのファンの多くが最初に気付くのが、前著『ショック・ドクトリン』との間に存在する、巨大な対立的矛盾だろう。実際、一般読者には、クラインは過去の自著で語っている内容のほとんどを前言撤回しているように見えるかもしれない。この問題点はハッキリ明白になっているので、実際クラインは、正反対の立場を表明してしまっていることに、「私は矛盾していない」と言い訳を試みて疑いを晴らそうと、序章のかなり部分を浪費している。ただ驚くまでもないが、私が見る限り、この弁明部分は説得力ゼロである。

ともかく、まずは『ショック・ドクトリン』に話題を戻してみよう。『ショック・ドクトリン』の発売時、私はこの本について何も言及していない。大まかな理由を挙げるなら、書籍は困惑させるようなものでしかなかったからだ。実のところ、私は、この本の修辞表現の構造[著者が執筆・文章化することで意図等を適切表現すること]がどのように混乱してるのかまでは把握することができなったのである――私が見ることができたのは、クラインが何かを試みてていることであり――クラインの立ち位置が混乱していることだけは端的に見いだすことはできた。基本的に、クラインは右派批判を行っている。右派は(ハリケーン、インフレーション、金融危機のような)様々な危機を悪用し、通常の状況下にある人々には受け入れがたい社会への急進的な変革を強要した、との理由からである。今から見れば、彼女が批判する「ショック・ドクトリン(ショック療法)」には2つの要素がある。まず最初の要素は、「戦略」だ。「戦略」とは以下のようなものである。ショック・ドクターは、まず前もって「青写真」を策定する。それから人々を脆弱化させたり、呆然とさせたり、パニックにさせるような様々な危機の到来まで待つ。この時点で抵抗者達は最も弱体化しているので、ショック・ドクターは、自らのプランを強要する機会として悪用するわけである。2つ目の要素は、右派が推進していた特殊な「アジェンダ」だ。財減税、貿易自由化、公共サービスの民営化、市場インセンティブ導入による非市場部門の再編成、等々である。

この「ショック・ドクトリン」実施の最適事例として挙げられているのが、ハリケーン・カトリーナ後のニューオリンズの学校制度の再編成である。ニューオリンズの学校群は多くの近隣住民の支援と共存していたが、ハリケーンで破壊されることになった。なので、ほぼ全ての制度が再編成の必要性に迫られ、急進的な変革を行う機会が立ち上がることになっている。この機会は、チャーター・スクールの支持者によって好機として捉えられ、多くの伝統的な学校を撤去するやり方で制度の再編成が実地されることになった。

このハリケーン後の学校の再編成や他の事例等に、クラインは「アジェンダ」と「戦略」の双方をもってして不可としていたのは、今や明白であろう。ところが、クラインは、「ショック・ドクトリン」を批判するのに際し、ほとんでアジェンダ批判よりも、戦略批判に費やしているのである。ショック・ドクターの戦略を、特筆すべき悪行であり、公明でなく、邪悪であるかのように批判している。しかし、このように考えると奇妙な事になる。それはこの手の戦略は、本来政治的価値を持ちえないことにあるのだ――左派がこのような戦略を行わない、と夢想してしまうのはありえないだろう。それどこか、この手の戦略は、左派によって発明されているのだ――それは「ボルシェヴィズム」と呼ばれ、共産主義政党が20世紀を通じて行ったきたものだ。青写真を作成し、それからなんらかの危機がやって来るまで潜んで(あるいは「機が熟す」まで)待ち、権力奪取のための大義名分を用意しておく。これが共産主義政党の戦略の本質だったのだ。同様の戦略は、穏健左派によって、大恐慌への対応として、現代福祉国家の土台を作る際にも「非常に効果的」に実施されている。いずれの場合も、市民が以前は受け入れる用意があるもの以上のラディカルな変革が、危機が利用されることで成立しているのだ。

『ショック・ドクトリン』について驚くべきことに、(私の見た限り)クラインは、左派がこの戦略を効果的――ないし悪用してきてことを、まったく認識していないことにある。描かれているエピソードは、おそらく全て左派によって生み出された戦略であり、それを右派が採用した上で使用することを学んだ事例なのだが、彼女は認識していないのだ。それどころか、クラインは、右派によって独自に企まれ実行された戦略であるかのように提示すらしている。これは顕著な自明的誤りとして私を驚かさせ、この本への関心を霧散させることになった。思うに、クラインは右派のアジェンダに関して不平を述べたいなら、戦略批判に数百ページも費やすよりも、単にアジェンダに不平を言うだけにすべきだったのだ。私が見る限り、[こういった戦略は]左右どちらのイデオロギー側によっても普遍的に使用されているのだから。

ともかく、こういった見解に基づいて、気候変動に関するクラインの取り組みが示されている。彼女の中心的な主張は、「気候変動は巨大で、急を要し、惑星的危機である。そして、それに効果的に対応する為に、我々は、通常時には肯定できないような、根元的な社会変革を広範囲に渡って行わなければならない」そうである。オーケイ。[危機の鳴らし方が過去のクラインのものと]お馴染みでしょう? ただクラインの名誉のために言っておくと、彼女は現在の推奨事項と以前酷評していた「ショック・ドクトリン」との類似性には気づいているのだ。実際、彼女は自身が行おうとしているものを「逆向きのショック・ドクトリン」の一種であるとさえ主張している。

気候変動に対処する活動家達はまた、人民による逆向きショック・ドクトリンのようなものの従事者でもあります。活動家達は、災害(特に気候に関する災害)の直後は、新たな経済を構築する最適機会の一つであることを既に学んでいるのです。何千万もの死者を出し何十億ドルもの被害をもたらした『ハリケーン・サンディ』や台風『海燕』のような大災害が繰り返されることは、私たちの今日のシステムへの甚大なコストにかかわることとなり、公衆の劇的な教訓へと至らしめるのです。そして、公衆を、気候変動危機への単なる対処療法ではなく、根本に立ち向かうラディカルな変革へと駆り立てることになります。(p.405-6)

「良き危機」には誰であれ抵抗できないようじゃないか! クラインは、深刻な危機を巧みに利用し、ラディカルな変革を達成する能力は、「革新派がどのように使用すれば良いか馴染んでいたのに…」と嘆いてさえいるのである。

大規模な危機のさなかに、社会・経済的正義に関して大きな成果を勝ち取ってきた民衆運動の豊富な歴史があるのです。そのなかでも最も目を引くものに、1929年の市場崩壊後のニューディール政策と、第二次世界大戦後の数え切れない社会政策を挙げることができるでしょう。(中略) 私は確信しているのです、気候変動は、これらより大きな規模の歴史的機会として再び具現化することに。(中略) ショック・ドクトリンの究極的発現(「[搾取層による]新資源の強奪と抑圧の狂乱)などとは違う、「人民によるショック」、つまりは下層からの吹き上げを、気候変動は可能とするのです。(p.10)

なるほど。で、クラインが批判している「ショック・ドクトリン」と、今や彼女が推奨するに至った「逆向きのショック・ドクトリン」との違いは正確には何なのだろうか? クラインに言わせると最初の違いは、「ショック・ドクトリン」は、独裁的な手法を課されたものであり、彼女が推奨している一連の変革は、大規模な民衆の動員を通じて全て民主的に達成されるものである、とのことらしい。

以下より詳細読み説いてみよう。2番目の(そしてより根本的な違い)は、単純なものだ。前者はクラインが悪いと考えるアジェンダに適応しているものであり、一方で後者は彼女が良いと考えるアジェンダに適応しているものである。

(右派の「ショック・ドクター」は緊急事態(本物であろうと、捏造であろうと)につけ込んで、より危機をもたらす政策を私たちに強要するのに対して、ここまでページを割いて議論してきたような種類の変革はまさに正反対な結果となるはずなのです。それは、私たちが一義的に直面している深刻な危機の原因の根本を取り除くことになるでしょう。そして、私たちに降り懸かるであろうものよりも暮らしやすい気候をもたらすでしょうし、現状よりはるかに公正な経済をもたらすはずです。(p.10)

このような言及方法は「良きショック・ドクトリンは私が賛成する物事を支持するものであり、一方の悪しきショック・ドクトリンは私が賛成しない物事を支持するものである」といった端的な気まぐれでしかないと私には思える。クラインが推奨するアジェンダの内容に目を瞑り、百歩譲ってアジェンダをまあありとするなら、[彼女が批判しているショック・ドクトリンの]戦略、要するに戦略の横暴さややり口をもってして争点化できるだろうか? 言い換えるなら、クラインの新刊の核心は何なのだろう?

つまり、「悪いショック・ドクトリンは権威主義的」であり、「良いショック・ドクトリンは民主的である」と定義付けて考える事は可能だろうか? この定義も、(ニューオーリンズの学校制度改革は、選任された公務員に着手されており、同じようにニューディール政策も、選任された公務員によって実行されていると考えると)出発点から、曖昧なものでしかない。しかも、本の後半部では、彼女はこの事を完全に失念しているのである。そこではジオエンジニアリングを、気候変動への対策として提唱している人達を、「自分勝手なショック・ドクトリン推奨者」として断固批判している(p.276-7)。この項目では、クラインは、大衆が実際に正しい位置にいることを気にしているようだ。

「もしジオエンジニアリングが実行されれたなら、冷静に考える十分な時間もないままに、集団パニックを騒擾することはほぼ確実なのです。 (中略) 深刻な緊急事態の渦中では、誰もが集団パニックの思考に捕らわれると考えるしかないでしょう? 私にはとんでもないことに思えます。(中略) ショック・ドクトリンは、このように作動するのです。深刻な危機による絶望下においては、あらゆる種類の理性的な反論を霧散しさせ、万事のハイリスクな言動を一時的であれ許容されてしまうように思えるのです。急激な変化の渦中にも、私たちは自身で価値判断を行わねばなりません。ジオエンジニアリングによって生じるであろう将来の倫理的問題やリスクを理性的に評価することは、危機的な雰囲気においては範疇外にあります」(p.276-7)

私は、ここにおいて奇しくもクライン同意することになるのである――たしかにジオエンジニアリングの支持者が提案しているものは、信じられないくらいリスキーなのだ。相違点を挙げるなら、クラインの支持しているものも同様に信じられないくらいリスキーなことだ。なので、クラインが大衆へ自説の押しつけを試み、「危機を悪用している」という点では、彼女は、他のショック行商人とまったく同じである。(注視すべきは、クラインは自身の見解を「人民のショック・ドクトリン」と呼称しつつも、端的にそうなっていないことだ。現時点で「人民」の圧倒的多数は、クラインの提唱しているものをまったく支持していない。なので、少なくとも現時点では、クラインの提唱しているものは、エリートや前衛主義者の見解と同じでしかない。)

クラインが推奨している気候変動問題の解決策は、どんな趣旨でリスキーなのだろうか? 私が考えるに、彼女の提唱は二つの様相において、リスキーな解決策となっている。まず最初に、クラインは気候変動問題に間接的に取り組もうとしている点だ。結果的に、クラインが提唱する改善案の有効性は、間接的な長く曲がりくねった因果関係に依存することになってしまっている。このことは前回のエントリでも触れたが、詳しく言及してみよう。以下のクラインの論旨を検討してみてほしい。

すると、なんらかの世界観や自明とされているイデオロギーを変革するのはどうすればよいのだろうか? ひとつは、根源的な政策論争によって正しい選択を相乗することです――単に法律を変えるのを目的にするのでなく、人々の思考パターンを変革するのです。つまり考え方を根本から変えるよう変革です。これが意味するのは、例えば、最小限の炭素税を勝ち取るのは過少な価値でしかないでしょう。最低所得補償の要求のために大連合を形成べきなのです。これまで議論してきたように、最低所得補償は、労働者に環境汚染エネルギーの仕事を拒否する言明を可能するだけではないのです。ユニバーサルな社会的セーフティネットを求める議論の過程そのものが、価値を巡る声高の討論空間を開くことになるのです。価値とは、私たちが共有する人間性に基づいて互いに何を負っているかであったり、経済成長や企業利益などよりも私たちの全体を尊重するようなことにあるのです。

ここでのクラインの言及内容に着目されたい――環境保護の達成のために究極的に行うべきこととして、我々はしばらくの間、環境対策を一時停止してでも、貧困層の収入の増加に集中しなければならない、とのことらしい。ただツッコませてもらうなら、クラインが提唱している「最低所得補償」から「気候変動の緩和」へと至る因果関係の連鎖は、信じられないくらい間接的で紆余曲折しているのだ。私的見解だが、この箇所で仮定されている因果関係の連鎖は、純粋かつ100%希望的観測である。私の評価に同意しない人でも、最低所得補償を課す政策に、気候変動の対策を関連付けるには、多くの物事が悪化する可能性があり、非常にハイリスクなアプローチであることは、認めるに違いない。(例えば、最低所得補償で新しい収入を得た人は、SUVを買うかもしれない――これは、過去に行われていた「汚染エネルギーの仕事」に、その人が従事することとほとんど一緒である。)

ただ、これは最悪事ではないのだ。二つ目だが、彼女が推奨している「脱成長(p.88)」政策は、気候変動危機への信じられないくらいリスキーな対処方法だ。これはつまるところ、GDPの規模を縮小させる婉曲表現の一種にすぎない。意味するところは、(おそらくだが)経済を、実質的にゼロ成長に均衡するように抑え込むようにデザイン調整された手段に従事させることで、長期の不況を引き起こすような政策の実行にある。今や、クラインは、数百万の労働者を低生産性セクターに移動させることを(p.126-7)計画している。そしておそらくだが、労働時間を削ること(p.93)で、この「脱成長」政策は失業を産まずに実行可能である、と夢想しているのだ。クライン計画絵図によるなら、一般的な一個人は、緩慢で絶え間のない(10年以上にわたっておおよそ年率2%の)実所得の低下を経験することになる。(こういった政策の推奨者は誰も具体的な数字を提供しないので、私は、彼らの想定像を推察させてもらった)。さらに引き続いて、永続的な所得の停滞となるだろう。(おそらく、技術変化も起ることになり、その生産性向上を受けて、総生産を増加させないことを確保する必要も生まれるだろう。なので脱成長政策は、労働時間の削減を履行するような方法によっても、達成せねばならないことになるだろう。)

所得の縮小ないし停滞状態の継続に並行して、クラインは、民間セクターの消費を、公的セクターの消費に大規模に移行させることも提案している。この政策の資金調達に、個人所得税の大幅な増加を手段として想定しているようだ。またもや、クラインは具体的な数値を示さないのだが、彼女の話しぶりからは、脱成長政策後の残りGDPの1/4ほどを移行するのを欲しているように読めるのである。加えて、彼女は貧困層への巨額の再分配も夢想している。ここでも、大雑把な概算が行われているが、平均的な人がおおよそ20%の賃金をカットを容認することを、クラインは欲しているように読めるのである。しかも二度と賃金上昇が起こらないことを確約し、平均的な所得税率を約25%上げる合わせ技によってである。(なので、カナダの平均所得税率は30%から55%になる)。さらに、忘れてはならないのが、これらクラインの提案の全ては、「民主的に達成される」と想定されていることにある。有権者がこういった政策に、一度だけでなく、何度も投票するであろうと、想定されているのだ。

「脱成長」の提唱者達――クラインだけでなく、ピーター・ビクターも同様だが――に関して私を驚かせてきたものに、彼らが、このような平均所得の減少願望と、経済的不平等の縮小願望との間に、対立や葛藤関係をいっさい見出していないことがある。彼らは、人々が再分配の増加に同時して、自身の収入の低下を支持するのを期待しているのだ。これは、私を形容できない困惑に至らせるのである――このような主張への根源レベルでの不審を表す言葉を探して苦闘することになる。このような主張が実現した世界は存在するのだろうか? 可能なのだろうか? かつて実現したことがあるのだろうか?

現実世界において、経済不況は、政治的混乱の非常な増大に強く関連している。他方において、経済成長は、再分配を非常に容易にするのである。端的な理由を挙げるなら、経済成長下における所得移転は、所得を移転拠出することになる人には純粋な損失として現れず、(はるかにより抽象的な)亡失利益として現れるからなのだ。福祉国家が経済成長を背景に創り出されたことは、偶然ではないのだ。(政治政策における経済成長の効果の一般的見解に関しては、ベンジャミン・フリードマンの『経済成長とモラル』を参照してほしい。)

私にとって自明に思えるものに、(経済に負の総和を作り出すことによる)脱経済成長戦略は、徴税と再分配の両面において、巨大な抵抗を拡大するであろうことがある。このような抵抗の拡大による限定条件下では、脱経済成長政策は、極右政党への支持増大という危険な形のでの反動を産むかもしれないのである。

結果的に、この本でクラインが推奨しているものと、ジオエンジニアリング1 の熱狂的支持者が推奨しているもの間には、端的に何の道徳的違いもないように私には見えるのである。後者は工学万能主義であり、一方クラインは社会主義的ユートピアにすぎない。しかしながら、両者共に、気候変動問題の解消に関して、冒険的で、実証されておらず、潜在的に危険な政策に、自らの希望を賭けようとしている。おまけに、クラインが、自身のアジェンダが民主的に達成されるであろうと考えていることには、非現実的なものとして驚かざるをえない。左派が保守政党を権力から追い出す方法が、皆目分からない国に未だにいるのにだ。

  1. 訳注:地球規模の工学手法で人為的に地球温暖化に対応する政策。空気・大気中の二酸化炭素を人工的に貯蔵して大気中のCO2濃度を低下させる、二酸化硫黄を大気中に放出し太陽光の放射を減少させるといった政策が代表的。 []

ジョセフ・ヒース「なぜ炭素税は非常に低価格なのだろう?」(2016年07月30日)

Why are carbon taxes so low?
Posted by Joseph Heath on July 30, 2016 | environment, public policy

カナダの環境大臣キャサリン・マッケンナは、国内炭素価格の予測値を年末までに決めると最近告知した。大変歓迎すべきニュースだ。炭素価格付け政策に関して、基礎の理論的根拠の衆知化に、多く時間を費やしてきた(ココココココそしてココ)私にとって、本件は想定しうる限り、ほぼ勝利に近づいたと言えるだろう。事が成る事を、そうここに願う!

炭素価格付け政策に関して過去に執筆に当ててきた時間のほとんどで、私は政策の最も基礎的な特徴について説明するのに腐心してきた。([人や政府機関等が]共同で行動する際の問題は何かであるのかとか、価格付け制度はどのように作用するのかとか、なぜ[炭素だけでない]全ての財に課税してはいけないのか、等々である。)このエントリは、まずは右派の読者、その内で特に気候変動問題に関して何もすべきでないと、なんとなく思っている人を想定させてもらっている。相対的にではあるが、左派や環境保護論者への説明――『気候変動問題』において、『価格付け』がなぜ適正な政策基準であるかといった説明――にはあまり時間を割いていない。(詳しく知りたい場合は、ココココ [訳注:本サイトでの邦訳版はココ]を参照して欲しい)。
(一般的な議論において、我々が[公共政策としてなんらかの財に]『価格付け』を扱わねばならない場合や、環境政策で「義務を課すような」アプローチを選好する場合、ずっとお勧めしているのが、ジョン・ブレイスウェイトの論文『有害な企業活動を規制する際の経済学上の限界について』である)。

炭素価格付けの政策に関しては、あまり言及されていない論点だが、非常に妥当な疑問がある。炭素価格付けを支持する主流派は、炭素1トン当たり米ドルでおおよそ30ドルの税金を課すべきとする見解を示している。(この『炭素1トン当たり』という単位基準は、あらゆる温室効果ガスを測定する時に一般的に使われる単位だ)。このことで、ガソリン価格は1リットル当たりおよそ10セント上昇する事になる。明白な疑問が生じる。たったこれだけのガソリン価格の上昇で、気候変動問題への効果的な解決策になるのだろうか、と。

この疑問を議論する際のパターンの1つに、[炭素価格等の財の]限界余地による価格変更で、[経済主体の]行動に影響を与える考えが理解できないままに議論を続けてしまう事例がある(この件は個人的にはココで議論済みである)。ひとまずこの価格の変更余地の議論に関しては脇に置いておいて、今派生している事実をだけを検討してみたい。2年前になるが、邪悪なるハーパー政権下において、ガソリン価格がリッター当たり1.2ドルに高騰した事がある。今現在、ガソリン価格はリッター当たり1ドルだ(ここオハイオ州では)。よって、リッター当たり1.1ドルにガソリン価格を上昇させるような措置は、環境にとってのユートピアに至るのだろうか? 本当に気候変動が大きな脅威であると結論付けるのなら、ガソリン価格はリッター当たり3ドルか4ドルになると考えるべきではないだろうか?

疑問をわかりやすく言い換えるなら、「炭素税は提案される場合や、ブリティッシュコロンビア州のような管轄区域で採用された時、なぜこんなに『安く』設定されているのだろう?」となる。(ここでEcofiscal Commission1 による、カナダの州ごとの炭素政策の厳密な比較を参照することができる)。

以上[リッター当たり3ドルか4ドルになるべきではないのか]は非常に重要な質問だ。やや込み入ってはいるが、1つの納得が行く答えがある。(厳密には「1つ」というより集合的な答えになるが…)。技術的だが、あまり知られていない答えは、炭素1トン当たり30ドル(正確には33ドルほど)が、『SCC:”social cost of carbon”(炭素の社会的費用)』による最適見積もり価格との結果が出たのである。SCCとは、炭素1トンの排出によって、経済にどれだけ負の効果を与えるのかを示す数値である。つまり[SCCに応じた炭素税を課すことで]、排出炭素1トン当たりを適応範囲とした炭素価格で「外部性を内部化」させることが可能になる。つまりは、化石燃料由来の民間使用のエネルギーコストを、おおよその社会的コストとして同一化させることができるのである。2

しかしながら(これは本当に大きな「しかしながら」なのだが)、この社会的コストの計算は、我々の様々な社会活動の成果を膨大な仮説・仮定した上での数値化に基いているのだ。以下にこの件での、私のいくつかの考察を、簡単に箇条書きして示させてもらった。示したのは、我々の炭素の排出の痕跡を、最大限可能な限り減少させる、私が支持する様々な手段である。
(ついでに、気候変動問題に関しては、議論が非常に複雑化してしまっていることで、様々な論者が相互理解から遠い状態でやり取りしてることに気づいたのである。なので、泥沼に陥っている議論基盤を、共通な議論が行われるように、簡単な概略図を示させてもらったつもりでもある。)

1.「将来の人類はより豊かになるのである」
環境保護論者は、経済成長がどれくらい力強く、成長によって将来世代がどのくらい利益を得る事になるのかを、見極めることにしばしば失敗している。気候変動のダメージは、幾何学関数的に正確とまでいかないまでも、数十年間かけて段階的に増加する。一方で、経済成長は、毎年、指数関数的に増加する。なので発展途上国の過去の成長率を検討し、社会や経済や政治制度の要素が適正に整備されると想定すれば、現行の予測では、10年以内に[途上国の]1人当たりのGDPが2倍になる可能性があるのだ。これは、気候変動政策に関して以下の2つの帰結を産むことになる。

1つ目に、現役世代が、気候変動の沈静化・改良コストの一部を将来世代に繰り延べる事が適正であると見出すのが可能になる。なぜなら、人類が将来においては、この問題にを向き合うためにはるか多くのリソースを持つと予測できるからだ。(さらには、今より豊かになる事で、[気候変動等の政策の]負担が、経済厚生に与える影響も少なくなるだろう。たとえ、気候変動が、年代を経るにつれ悪化したとしても、[人類]の経済状況は、(最も可能性が高い予測に基づけば)それより早く改善する。なので、いくつかの政策行動を遅らせるのは合理的なのだ。例示すると、京都議定書が交渉されていた1996年には、中国経済は今のたった1/4に過ぎなかった。京都議定書交渉時に、中国は条約義務からの免除を求めて、以下のように主張している。
「1996年の今、我々は貧しい。なのになぜ、我々はこの義務を課せられねばならないのだ? 20年後には我々は4倍豊かになっている、その時には、非常に容易に[温暖化緩和の]義務を履行することができる」。過去を振り返ると、この論拠は妥当と見なすことが可能だ。そしてもちろん、発展途上国の人達は、今も同様の主張を行う妥当性を保持している。

2つ目に、経済成長にマイナスの影響を与えるような政策を行うには、その政策の機会費用を正統化する為に、将来世代への巨大な便益が提供されている必要性を見出さねばないということである。例えば、もし中国の平均寿命や乳幼児死亡数を仮想数値化し、GDPとの相互関係を考えてみてほしい。そして、将来を見積もれば、あなたは成長率の低下を予測することができるだろう。今、大胆で徹底的な炭素排出量の減少政策(例えば、新規の火力発電所の建設停止処置等)を採用すれば、経済成長率の低下を招くかもしれない。この大胆で徹底的な炭素排出量の減少政策を実行することは、全世界での平均寿命を低下や、乳幼児死亡数の減少の鈍化を推察されることになる。なので、この[大胆な炭素削減]政策を実行することは、一定の人を「殺害する」事になるだろう。一方で、この政策を実行し、気候変動を沈静化することで、別の多数の人を「救う」事にもなる。つまりは、極端な気象変動や、穀物の不作による悪影響を減らす事になるわけである。どれだけの量の人を「救う」事で、概算で最低限どれだけの量の人を「殺害する」事になるべきかによって、気候変動に関する政策は正統化されねばならない。不幸にも、気候変動の沈静化の恩恵はそれほど大きくないのだ、発展途上国における経済成長と比較した時には。
(これはもちろん、先進国には正しくない。先進国における成長はさして違いを産まない。しかし、気候変動はグローバルな問題なので、大きな絵図を見る必要がある。)

2.「技術変化」
気候変動を巡っては、政策の「終結点」をどう想定するかでしばしば意見が異なっており、水面下での対立となっている。一部の人々は、気候変動政策を、水路への水銀廃棄のような平凡な汚染問題と同一視するような見解を保持している。以上の見解に立った場合、対処方法は、「汚染してはいけない」と謳う法案を通す事になる。すると企業は、[汚染物を廃棄する]インセンティブを抱えたままに、廃棄を止める事になる。なぜなら、[廃棄する事は]違法であり、罰金等で脅かされているからである。以上を[気候変動政策に]適応するには、「私の見解」では非現実的だ。端的な理由として、気候変動のグローバルな性質と、国際的な[法や罰則の]強制施行体制の不可能性を理由に挙げることができる。全ての化石燃料は地中に単に手付かずの状態で眠っている事実を考えてみて欲しい。さらにはこれは驚嘆すべきありえない安価なエネルギー源でもある。なので、世界中の国が化石燃料を地中に手付かずのままにすることで歩調を合わせるようになるのは、まったくもって信じられないのである。よって他の多くの人達と同じく、「負の外部性」を単純に修正し、「負の外部性」が作り出した「価格の歪み」を取り除き、それから政府と市場参加者が共に努力し、技術的な解決策を模索するように至るような政策を、「終結点」と私も考えている。この技術的解決策によって、化石燃料を燃やす事による水面下のインセンティブを取り除く事になるだろう。

以上観点に立つと、[気候変動の]基礎的な問題は、(外部性によって)化石燃料が安すぎる事にある。これはエネルギー研究への顕著な投資不足を産んでいる。緑のエネルギーは、褐色のエネルギーと競争することができていないのだ。なぜなら後者は、(気候変動を犠牲に払って)暗黙下の助成を受けているからである。20世紀の電子機器分野における、我々が経験した技術的イノベーションの発達度合いを考えてみて欲しい。そして次に、エネルギーシステムの技術的イノベーションの発達度合い(実質的にゼロである。我々は未だに19世紀に有力だった技術を使用しているのだ)と、比較検討してみて欲しい。炭素消費ゼロのエネルギー源を発見できる可能性を楽観視できるはずだ。この世界には、結局のところエネルギーが満ちているのである。常時、地球は15000テラワット以上の太陽エネルギーを受け取っている。常時の、人類使用の総エネルギーは、おおよそ17テラワットである。おまけに、人類使用のエネルギーの大部分は、人類が直接太陽から補足したものではない。それは植物によって、何百万年も前に補足され変換された太陽エネルギーなのだ。我々は、今より良い方法を行うことができるはずだ!

以上により、炭素価格付け政策の最終目標は、大量の炭素[排出]の減少を実現させることではない。価格の歪みを訂正することにあるのだ。人間の創意工夫の方向を、この問題の解決に大きく比重するように導くにある。

3.「カナダは行うべき鎮静・削減の大部分を行っていない」
持続可能なレベルでの1人当たりの炭素排出量を概算すると、炭素2トンとなる。(もちろん、全世界人口に左右される数値である)。知っての通り、カナダでは今のところは、炭素排出量は1人当たり約20トンとなっている。(しかしながら、アルバータ州とサスカチュワン州では、平均して1人当たり80トンないしそれ以上を排出しており、我が国の排出量の平均値を嵩上げすることになっている)。ともかく、カナダの排出量が現実に1人当たり2トンまで低下するシナリオは、見込みもなさそうだし、望ましくもない。我々は、北方の国であり3 、裕福な工業国でもあるので、自身で炭素を削減するより、他国と排出量の削減で取引を行う事が効果的である可能性が常にありえる。ただ、今のカナダは、排出権取引を行うには適正ではない4 。炭素価格が設定されていなくても、[炭素の]限界削減費用がゼロだったりマイナスですらある、経済分野(例えば照明分野)も存在する5 。なので、炭素税の導入意図は、低吊りの果実を摘み取るようなものなのである6

ただもちろろん、炭素税の導入は、我々の1人当たりの炭素排出量を2トンまで引き下げる事を意図した政策ではない。さらには、我々には、炭素税を導入する道徳的要求は必要とされていない。道徳的要求とは、「我々は生成する排出量の全ての費用を支払わねばならない」との見解である。理想的な政策体制下において、温暖な気候に暮らす多くの人達は、十全に炭素を排出しても[排出枠に]2トンも必要としなくなる(屋内暖房を必要としないこと等で)。一方で、我々は[理想的な政策体制下でも2トン]より多くの炭素排出が必要になる。よって、我々は温暖地の人達から[炭素排出]スペースを「買う」事ができる。7 (言い換えるなら、我々は名目上のノルマを超過した時、その影響を賠償しても良いのである)

4.『将来世代を助けるためのその他の多くの方法』
気候変動問題だけを特別視しない事は何よりも重要である。つまりは、多くの政策課題から、気候変動だけを切り離して見てしまってはならないということだ。例えば、人によっては、「気候変動の公平性」の観点から、第一義的かつ最優先されるべき再分配上の公平命題であるかのように言及している。豊かな世界が貧しい世界を傷つけているからだ、と。この手の主張において、気候変動の沈静化は、公平性の命題として提示されているわけだ――「我々は貧しい世界に何らかの借りがある」とのように。しかしながら、気候変動の緩慢さ(現行の政策の実行と、その政策の影響の享受に80年のラグがある)を考えれば、我々が採用するであろう(いかなる政策も)、公平性の命題からは、大変非効率的なものとなるだろう。例示するに、バングラディッシュが、海面上昇によって被る被害は、非常に不当であり、これを改善するために、我々は大胆で徹底的な炭素減少プログラムを採用せねばならないと、人によっては主張するかもしれない。しかしながらこれが何を意味するのを考えてみようではないか。80年後にバングラディッシュの人々に利益をもたらすために、カナダが文字通り何十億ドルもの大胆な炭素削減政策に予算を当てるとしよう。カナダの政策とは別途に、現行の成長率を考えれば、バングラディッシュの平均的市民は80年後には今の6倍豊かになっている。遠い未来の人々を助けなければいけないという思想[に基づいた政策]は、現世界が直面している公平性の命題への対応としては最善な方法と思えない場合があるのだ。バングラディッシュの人々を助ける、もっと良い方法はないだろうか?
(想定すべきは、[カナダ]連邦政府により表明されているカナダの先住民の生活環境改善のための処置である。[この政策処置]の最初の便益が得られるようになるのは、おそらく22世紀の初頭になるだろう。)
[途上国の]人々の助ける、より良い方法が存在するはずであると、単純に考える事は可能だ。今だと、純粋な再分配はどうだろう? あるいは、安全な飲料性が確実に確保できるようにするのは? この一連の文脈下で「命題」を見てみれば、すぐにでも人は、[途上国の]人々を助ける多くの異なった政策手段が存在することに気づき始めるはすだ。そして、気候変動の沈静化は、[途上国への処方箋として]特効薬でない事も自明である、と。マラリア撲滅研究への投資なんてのはどうだろう?

ただここで、ビヨン・ロンボルグの路線、「気候変動と闘う代わりに、我々は他の多くの政策課題に取り組まねばならない」のような主張を取らない事は明示しておきたい。私が単に言いたいのは、政策空間には、多くの競合する選択肢があり、どれを行うのが最適なのかには不確実性が存在するとのことである。しかしながら、我々が確信を持てる事の1つが「正しい炭素価格はゼロでない」という事実だ。化石燃料の消費(その他の極少数の[人為的]減少)に起因する、空気・大気への外部性が存在する限り、我々はそれを内部化しないといけないのだ。そしてその時に見出される炭素価格は、SCCによる最新の推定値に基づいたものになる。以上事実により、我々は、[温暖化沈静化政策に]なんらかのチップを置くことができるのだ。将来世代を最善化するようななんらかの政策を具体的に決定せずとも。8

5.「現役世代への適正な優遇」
最後に、最も賛否両論ある問題がある。我々は、将来世代よりも、今日生きている人々をどの程度まで優遇するのを表明する事が許されているのだろうか、ということである。[世代間の利益配分問題に関して]、我々が実行可能で、せねばならない事を検討した、長い論文を書いた事がある。(論文収録雑誌はココ、論文だけだとココ)。私が考えるに、我々が最適に現役世代への『優遇』を実行できないのは、人々を魅了するいくつかの種類の見解があり、それらは高い道徳的見解に見えるからなのだ。しかしながら、[高い道徳的見解を]考え過ぎることは、総合的にクレイジーな結論に至ることになる。今を生きる人や現役世代と、将来世代に、平等な道徳性を負荷してしまう事の大きな問題は、将来世代は、現役世代より遥かに人口が多いことにあるのだ。今存在している人々(ないし、今を生きる人)に対して、なんらかの「優遇」を表面するのを拒否する事は、あらゆる種類の不条理なシナリオの生成をも可能にしてしまう。こうした[過度の道徳的見解を]想定をしてしまうと、今存在する人々以上に、存在していない[将来の]人々への優遇が常時継続して続く事になる。(なぜなら将来世代は非常に多勢だからなのだ)。このことは、結果的に、採用された政策の便益を、現役世代でない人達が得続ける不条理に至ることになる。

なので、炭素税が低価格である理由の大部分は、SCCの計算によって、適正な割引率9 が適応され――そのことで、他の全ての公的投資や支出プログラムは割引率に応じた実際上の行動に至り――これによって、現役世代への「適正な優遇」の測定結果も表明されることになるのである。

結論:「なぜ炭素価格は非常に低価格なんだろうか?」
理由は、気候変動に関するコスト―それは何を行っても、何も行わなわなくとも―は、少なくとも200年間に渡って拡散する。なので、我々は、今すぐこれら負担を穏健な[政策]割当以上に引き受ける義務はないという、複数の理由からなのである。

※訳注:以下は、本エントリのコメント欄で行われた、気候変動の専門家と思われるサム・テイラー氏とヒースとのやり取りである。

サム・テイラー:2016年07月31日の投稿

私は、全面的に『炭素価格付け政策』に賛成してますし、さらに[現行の]与えられた条件下では、[この問題で]正しい方向へ向かう唯一の方法であると考えています。ただ、このエントリは、いくつかの件で若干のどっち付かずの要素がありますし、議論のいくつかには大きな欠陥があるように思えます。

まず最初に。特定の炭素価格を決定する際に、重要視し可能とあなたが導出している『割引率』に不信感があります。実際、被害要素の数値化の仮定において、[あなたの導出した]『割引率』は、炭素価格を設定する際に、単一の決定要因に顕著に依存しています。『割引率』には異なる試算があり、一般的には『スターン価格』と、『ノードハウス価格』の違いとして説明されています。この2つの価格は、大きく異なった数値仮定となっています。さらには、ノードハウスの率は、ネイティブアメリカンがマンハッタン島を24ドルで[オランダ人に]売却した事実を彷彿させます。つまり島を売った部族にとっては、その時点では「良い取引」だったのです。特定の『割引率』を支持するには、強い説得力がある論拠が必要になります。しかし、深く納得できるような見解の表明をほぼ見ることができていません。

また、あなたは「[経済及びエネルギー]消費の最大化」を争点化し主たる論拠として表明しているようですが、[この問題に取り組む]他の人によっては「リスクマネジメント/保険買い取り」として争点化する事をより重要視しているかもしれません。あなたは、経済と気候をスムーズな変動システムとして扱っており(このあなたの仮定や数値入力に依存する限り)成長を通じて人を豊かにするために、炭素は排出しても、最終的には理にかなうことになるでしょう。このあなたの見解は、気候システムが強い非線形的なシステムであり、極めて急速に状態変化を起こしてしまうという強固な地質学的な証拠を無視しているように思えます。現状、我々は、極端なまでに限定された温度領域においてでしか、大規模な集約的農業(一つの事例です)が行えない、との確定事実しか持っていないのです。だから、想定できる甚大な状況を避けるに、我々は、誇大なまでのリスクプレミアムを支払わねばならないかもしれません。例えば、気温3-4℃の上昇はなんらかの[甚大な]危険性を産む可能性があります。気候変動による被害要素[の設定]は”fat tail(太った尻尾)”10 になっている可能性があります。[気候変動による被害要素の設定によっては]あなたが想定しているリスク因子を相当大幅に改定してしまう可能性です。気候変動がシリアの崩壊の要因となったかもしれないと、いくつかの分析は示しています。この事実は、少なくとも、物事を慎重に考えねばならないことになるでしょう。

エネルギーに関して、[地球の常時受取太陽エネルギーと、使用化石燃料の比率である]15000対15の比率は、表層的な楽観主義として喧伝されているだけであり、精査に耐える事実ではありません。[地球が常時受け取っている太陽エネルギーの数値]から、海面、山間部、農業エリア、雲による反射を差し引く事を始めてみれば、あっという間に桁が減り、比率が圧縮されていくでしょう。それこそが緻密な比率です。現実的な数字を適用すると、必要な太陽光発電パネルの面積は、非常に巨大な国々のサイズに等しくなってしまいますから、この引き算は簡単な作業ではないでしょう。追記するに、電力に由来する炭素排出量はおおよその20%にすぎません。他の工業過程(鉄鋼の生成や、ハーバー・ボッシュ法)はおそらく簡単に代用できません。土地利用変化や農業からの炭素排出は言うまでもないでしょう。物理学をバックグラウンドに持ち、エネルギー分野で働くことに少なからず時間を費やしている我が身から見れば、たしかにこの分野には多くの希望的観測があります。ご指摘の通り、太陽エネルギーは膨大です。そして我々は吹き荒れる風を存分に浴びて生きています。しかしながら、これらは、本質的に低品質のエネルギー源なのです。これらは、断続的で、拡散しやすく、低い温度状態にあります。対照的に、石炭や石油や天然ガスは、ずば抜けて優秀なエネルギー運搬手段なのです。容易に保存でき、エネルギー密度が高く、要求に応じて利用可能です。現役世代の再生可能エネルギーと貯蔵技術は、[化石燃料からは]はるかに後方にあります。なので、すぐに追いつけるとの自明性を見出すのは、非常に困難です。さらに、再生核融合研究は数十年に渡って金銭を浪費しており、現役世代の核エネルギーは狂気じみて高価で不人気なものとなっています。なので、これら[核エネルギー]をグローバルに[現役]世代で大規模に共有するのも、非現実的に思えます。

他にも沢山の未解決な問題があります。中国は今も急速に石炭生産量を増やしています。中国が石炭を使用する際の、石炭火力発電所を半分にする方法を想定するのは非常に困難です。イギリスは、天然ガスの採掘をさらに増やすようにジワジワと近接しています。なぜなら我々英国はライトが消える前に何かする必要にかられているからです11 。そして、アメリカ合衆国はすぐにでも大量の老朽化している発電所を建て替えねばなりません。その上、これら老朽資産は完全に減価償却されるようです。低炭素代替社会を目指す説得力がある変更処置のシグナルがなければ、様々な国が炭素集約型インフラの建設に持続的に数十年間も従事する危険性を孕むことになるでしょう。

ジョセフ・ヒース:2016年07月31日の投稿

思慮深いコメントに感謝します、サム。

あなたの最初の指摘ポイントに関して。私のエントリの「理由」の1~5のうち、1と5が、あなたの指摘している社会的『割引率』を決定する際の理由となっており、特に1が最重要です。なので、私は『割引率』の一義的な特徴を提示しただけです。私は、このことだけ[を根拠にする事]で『割引率』を導出したのではありません。

あなたの2つ目の指摘ポイントに関して。気候変動問題に、外部性の社会コストを計算するよりも、『保険』観点のアプローチを優先させても、得るべきものは何もありません。『保険』は、似たようなリスクに直面している多くの人々による、リソース/基金のプール作成の同意に基づいた『協定』です。この『協定』によって、損失を被った人は、『補償』が利用可能になります。これは、気候[変動]の件には適応できません。なぜなら、[地球は]惑星単位では1つだけしか存在しないからです。なので、誰であれ何であれ「プールする領域」は存在しません。よって、炭素削減に伴う費用を、保険買い取り政策と類似して考えるアイデアは、私には適正に思えません。我々が現に行う事は、炭素削減に取り組んでいる時に、有害な気候変動の可能性を減らす事にあるのです。具現化している確実な大惨事シナリオの可能性を減らす事です。(保険とは異なり、今不確実に起こっている事態からの損失に保険をかけても[大惨事の]可能性を減少させることはできないのです)。ここにおいて問題になっているのが、最適なリスク削減の一種です。例えば、今確実に起っている大惨事の可能性を減らす為に、どこまで政策を拡張すれば、どのくらい道理にかなっているのか、といったことになります。私が考える限り、以上を包括した計算数値は、SCCの決定に基づいたコスト・ベネフィット計算数値と同じとなるでしょう。なので、2つのアプローチ(最適な[エネルギー]消費と保険を比べる事)にどのような違いがあるのかは、私には意味がないと思うのです。

サム・テイラー:2016年8月1日の投稿

ジョー。

あなたの『割引率』の導出方法に関しては、理解していましたよ。私が単に考えているのは、炭素価格においてなんらかの『率』を選択する際に、巨大な過敏性が見出される事を、非常に深刻に考慮する必要があるという事です。なぜなら、[過敏性を考慮の入れない方法では]、あなたが好むように、炭素価格の計算は簡単になってしまいます。特に『率』は、様々なパラメータに応じる極僅かな仮定によっても、影響を受ける事が見出されています。我々がなんらかの『率』を決める際の「不確実性」や、『計算式』を決める際の確率分布的な形における「不確実性」は共に巨大な影響を持ちます。つまりは「太った尻尾」の支配が始まるのです12 。これは、安い炭素価格を導いていた仮定群などを帳消しにしかねません。低い炭素価格が必然的に簡単である、との考えは、私には非現実的に思えます。

ハッキリさせましょう。ゼロの『割引率』は、なんらかの異常な状況に導く可能性がある事に、完全に同意します。この件で、私が支持する最近の事例はこのリンク先にあります。

上記に従って、将来において皆が豊かになる(おそらく正しい)であろう論拠に関して。自然が生み出す気候変動による多量のダメージの蓄積という別の事実も存在します。この多量のダメージのうちの一部は、生態系の安定性への影響として、我々には感じられる事になるでしょう。[このダメージの]一部は、生物多様性の減少としても我々には感じられるかもしれません。私の知る限り、以上の[生態系への影響]事象のどれも、炭素価格の数値化においては、必要な考慮事項として補足されていないのです。これらによって、どんな仮定であったとしても、意味の有る価格付けとなっていないと思われます。可能な限り経済的に中立な方法を取ったしても、多くの[生態系]が失われる事になると、私にはまだ思われるのです。自然資本アプローチのようなものがあるとも認識していますが、これらは未発達であり、生態系の多くが非線形で急速な状態変化受けることを考慮すると、炭素価格付け制度は、この[自然の非線形な]挙動を補足するには不十分なメカニズムではないでしょうか?

[前回の投稿で]私が保険と消費を対立させた論拠を提示したのは、あなたとのコンセプトの違いを強調することを試みたのです。しかしながら、議論構築においてベストな方法ではなかったかもしれません。私が理解する限り、我々は最適な炭素価格を算出するのに、様々な平均的な予測に基づいた価格を使用する傾向にあります。しかしながら、人は保険を購入する際、その動機として、早すぎる死亡、家屋の火災のような、人生の生活結果において可能性が最も低い最悪の出来事を改善するのを優先しています。人は、これらリスクに保険をかける際、予測以上の損失を支払う事に明らかに満足しています。(保険産業が存在しない場合は、誰も利益を上げる事はありません)。一般的に人は、最悪の結果を避ける為に、顕著なまでの保険料を支払う用意があるように思えるのです。なので、[行うべき]政策は、予想価格の最大化ではなく、最悪の結果を避ける事に焦点を絞るべきなのだ、という論拠がおそらく導かれるでしょう。

※訳注:訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。

  1. 訳注:カナダの環境に関する調査を行っているNPO法人 []
  2. 訳注:SCCに関しては、ココで日本語での詳しい解説を読むことが可能。 []
  3. 訳注:寒冷地は暖房等で一般的に炭素排出量が地球上の他地域より多くなる事が多いため、排出量が世界平均より多くなることが認められている事が多い。 []
  4. 訳注:今のカナダは炭素税の導入等で、自国内で炭素排出量を削減する余地があるとヒースは考えている為、排出権取引を行う状況にないと考えての文章と思われる。 []
  5. 訳注:照明をLEDに切り替える事等は、炭素排出量を減らしつつ、経済的にも利得がある事を指していると思われる。 []
  6. 訳注:炭素税は簡単に導入でき、簡単に小規模の排出削減の蓄積を実現できる、を意味する文章と思われる。 []
  7. 訳注:排出権取引のこと []
  8. 訳注:炭素価格や炭素税を設定すれば、具体的な温暖化対策を想定せずとも、経済主体は半ば自動的に炭素削減の為の行動を取り始めることを可能となる。つまり政策内容いかんに関わらず、炭素削減を目的にした政策に踏み出すことが可能となる(つまりチップを置くことができる)、との意味の言い回しと思われる。 []
  9. 訳注:炭素価格を設定する際の、世代間の負担割合や経済成長を根拠にした「率・レート」のこと。日本語ではココ等で解説を読むことが可能。 []
  10. 訳注:統計グラフ等が太った尾のように横に広がっている状態、つまり正規分布とは違い、不確実性が多く予見が困難な状態。 []
  11. 訳注:イギリスは、規格電圧が高く、照明インフラが高コストになっている事実への言及と思われる。 []
  12. 訳注:上でも説明したが『太った尻尾』とは、統計グラフが左右に大きく分布してしまう現象を指しており、不確実性が大きくなり初期リスクを大きく見積もる可能性が高くなることである。 []

ジョセフ・ヒース「講義『気候変動問題』のシラバス」(2015年6月23日)

Climate change syllabus
Posted by Joseph Heath on June 23, 2015 | Uncategorized

今秋学期開始のこの講義では、環境倫理学を教える予定です。特に「気候変動問題」に焦点を当てています。本コースは3学年向けのものであり、2学年時の一般環境倫理学を既に履修していることを前提にしています。なので、このコースで基本分野を扱うことは義務付けられておらず、扱うことは少なくなる予定です。エリック・ポズナー (Eric A. Posner) とディヴィッド・ワイスバッハ (David Weisbach)1の本”Climate Change Justice“『気候変動対策の公平性』を基本の教科書として使用し、授業の進行に応じて副読本を追加する予定です。指定資料が全てではありません。私が賛成しそうなものや、議論を呼ぶような資料も追加する必要があるでしょう。ついでに、[本講義は]純粋な環境「倫理」というより、環境における「公平性」や「政策」を重視した内容となっています。

いずれにせよ、どんな追加書籍・論文であろうと、[学生からの]提案を歓迎します。ヘンリー・シュー (Henry Shue)2 、ステファン・ガーディナー (Stephen Gardiner)3 、カレン・マッキノン (Karen McKinnon)4 、ダレル・メレンドルフ (Darrel Moellendorf)5 、その他らは、お馴染みかもしれませんが、私もまだ一部しか読んでいませんので、見逃している良い事例があれば、お知らせください。あと、私はポズナーとワイスバッハの本の内容に従って講義の項目を作成しており(彼らのこの問題への体系化は非常に優れていると考えています)、この本を読んでいない場合、このシラバスは無意味なものとなるでしょう。

PHL373F:環境倫理の諸問題6
気候変動への対処:この講義では、人由来の気候変動問題に対処するための効果的な政策手段を立案するときに直面する、規範的な難問のいくつかを、学生に説明する予定です。
まず、問題の制度的な側面と主な政策手段を説明するところから始めます。そこでは、[人や政府機関等が]共同で行動する際の問題の分析、『炭素価格付け』の理論的根拠、炭素排出の削減を達成する為の主要な制度的メカニズム、等が含まれています。私たちは、そこで具現化した2つの規範的論題に焦点を合わせることになるでしょう。「環境保全はどの程度までなされるべきなのか?」と「『便益』と『負担』をどのように配分するのか?」と言った論題です。
対処するには非常に難しい問題群もあります。それは「現役世代と将来世代との、利益の調整をどのように決定すればよいのか?」とか「将来世代の排出権を決定する際に、『過去の排出量』や現時点での経済的な不平等が果たす役割をどう位置づければよいのだろう?」といったものになります。

1.総括的導入

2.コモンズの悲劇
ギャレット・ハーディンThe Tragedy of the Commons,” 『コモンズの悲劇』 Science 192号(1968年)
トーマス・シェリングミクロ動機とマクロ行動』”Micromotives and Macrobehavior”(1978年)第7章

3.規制についての理論
アフメド・フッセン (Ahmed Hussen)7Principles of Environmental Economics”『環境経済学の原則』(London: Routledge, 2000) 第5章
ロナルド・コース  “The Problem of Social Cost,”『社会的費用の問題8 Journal of Law and Economics, 3 (1960): 1-44.

4.気候危機についての序論
エリック・ポズナー&ディヴィッド・ワイスバッハ “Climate Change Justice”『気候変動対策の公平性』第1章
ジョン・ブルーム (John Broome)9Climate Matters”『気候の諸問題』(New York: W. W. Norton, 2012),第2章

5.政策手段
エリック・ポズナー&ディヴィッド・ワイスバッハ “Climate Change Justice”『気候変動対策の公平性』第2章

6.義務論的アプローチ
サイモン・キャニー (Simon Caney)10Climate Change, Human Rights and Moral Thresholds,”『気候変動、人権と道徳による限界』in Stephen Gardiner et. al. (eds.) Climate Ethics (Oxford: Oxford University Press, 2010), pp. 122-145.
キャス・サンスティーン恐怖の法則 予防原則を超えて』“Beyond the Precautionary Principle,” University of Pennsylvania Law Review, 151 (2003): 1003-1058.

7.実質よりもスタイルが大事
エリック・ポズナー&ディヴィッド・ワイスバッハ “Climate Change Justice”『気候変動対策の公平性』第3章
エリノア・オストロムA Polycentric Approach for Coping With Climate Change,”『気候変動に対処するための多面的アプローチ』 World Bank Policy Research Working Paper 5095 (2009)

8.気候変動と再分配の公平性
エリック・ポズナー&ディヴィッド・ワイスバッハ “Climate Change Justice”『気候変動対策の公平性』第4章

9.悪事を成敗する
エリック・ポズナー&ディヴィッド・ワイスバッハ “Climate Change Justice”『気候変動対策の公平性』第5章
ウォルター・シノット・アームストロング (Walter Sinnott-Armstrong)11   “It’s Not My Fault,”『それは私の責任じゃない』in Stephen Gardiner et. al. (eds.) Climate Ethics (Oxford: Oxford University Press, 2010), pp. 332-346.

10.1人あたりの排出権
エリック・ポズナー&ディヴィッド・ワイスバッハ “Climate Change Justice”『気候変動対策の公平性』第5章
サイモン・キャニー“Justice and the Distribution of Greenhouse Gas Emissions,”『温室効果ガス排出における公平性と再分配』Journal of Global Ethics, 5 (2009): 125-146.

11.将来世代
エリック・ポズナー&ディヴィッド・ワイスバッハ “Climate Change Justice”『気候変動対策の公平性』第7章
デイヴィッド・ピアース (David Pearce)12  、ベン・グルーム (Ben Groom) 、キャメロン・ヘプバーン (Cameron Hepburn) 、フィービー・クローンドリィ (Phoebe Koundouri) “Valuing the Future,”『将来世代を評価する』World Economics, 4 (2003): 121-141.

12.結論と総括
エリック・ポズナー&ディヴィッド・ワイスバッハ “Climate Change Justice”『気候変動対策の公平性』第8章

※訳注:訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。
※訳注:”Justice”は「公平性」と訳している。
※訳注:指定書籍・論文で、邦訳があるものは、邦訳タイトルをまず記載した後に、原題を記載している。邦訳がないものは、原題の記載後に、暫定の邦題を『』で囲った上で続けて記載している。指定の書籍・論文で、ウェブ上で確認できたものにはリンクを貼っている。
※訳注:挙がっている人名で、邦訳された人名がある場合はその記載に従っている。人名が日本で一般的で無い場合は、暫定の邦訳人名を記載した後に、アルファベット表記の人名を続けて記載している。
※訳注:書籍・論文の著者で日本語版のウィキペディアに項目がある人物は、ウィキペディアにリンクを張ることで説明を割愛している。

  1. 訳注:共にシカゴ大学ロースクールの教授。エリック・ポズナーは、「法と経済学」で有名なリチャード・ポズナーの息子である。 []
  2. 訳注:オックスフォード大学教授。政治学が専門 []
  3. 訳注:ワシントン大学教授。哲学者 []
  4. 訳注:レディング大学教授。公共政策と気候変動の研究が専門 []
  5. 訳注:ゲーテ大学フランクフルト・アム・マイン教授。政治倫理学が専門 []
  6. 訳注:PHL373Fは講義の管理コード []
  7. 訳注:経済学者。カラマズー大学経済学部教授。環境問題が専門。同名の政治家との混合に注意。 []
  8. 訳注:有名な『コースの定理』が始めて提唱された論文。邦訳書籍『企業・市場・法』の第5章に収録 []
  9. 訳注:オックスフォード大学教授。哲学および経済が専門 []
  10. 訳注:オックスフォード大学教授。政治理論が専門 []
  11. 訳注:デューク大学教授。哲学者 []
  12. 訳注:経済学者。元ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン教授 []

ジョセフ・ヒース『ナオミ・クラインについての最終論考』(2015年9月22日)

Final thoughts on Naomi Klein
Posted by Joseph Heath on September 22, 2015 | environment, politics

このブログの読者ならお気付きと思われるが、今年、ナオミ・クラインの気候変動本『これがすべてを変える 資本主義VS.気候変動』について言及したのを皮切りに、私は少なからずの時間クラインに浪費している。読者の何人かから、直接、ないしやんわりと、クラインへの妄執が過ぎることを指摘されたのである。よって少し弁明しておきたい。まずは、過去に数年にわたっての言説を総括し、幾つか提供してみる。

以下に過去の論考を並べてみた。
ナオミ・クライン:『これがすべてを変える』[本サイトでの邦訳版はココ]
ナオミ・クライン、追記1[本サイトでの邦訳版はココ]
ナオミ・クライン、追記2

次に以下は、私の『気候変動』についての過去のエントリである。
『税を税たらしめるものとは何か? 炭素税vs.炭素価格付け』
『炭素税/価格付けにおいて、2つの賢明で無い論点』
『ホッブズの難解な概念』

以上に追加して最後は、私の気候変動政策についての授業のシラバス[本サイトでの邦訳版はココ]である。(シラバスは、気候変動について感心がある人は読む価値があると思われる)。

個人的に、クラインの本についてこうも長期間にわたって言及してきた理由に、端的に近年は『気候変動問題』について考えるのに時間を割いてきたからなのだ。私が読んできた本の中には、この件についての悪書も多く含まれていた。しかしながら、クラインの本は詳細に論ずるに値する本でもある。理由の一つは、彼女が『世界の知識人』ランキングのトップ100やトップ50に定期的にリストアップされており、多くの場合はトップ10に入っていることにある。つまり、多くの人々が彼女の著作や話す内容を、とても真面目に読んでいる訳なのである。これは、クラインが、左派でいうところのノーム・チョムスキーや、右派でいうところのアイン・ランドと同じタイプの人になってしまっている事を示す理由の一端にもなっている。クラインやチョムスキーやランドは、高校生や大学の学部生からは異様に人気があるが、より高度な教育を受けた人(特に、私のような大学教授)らからは、ほとんど無視されているような人達である。しかしながら、これらの人々を無視している人で、「なぜ」彼女らの意見を真面目に相手にしないのかを、わざわざ説明する人は滅多にいない。クラインらが学者らから無視されている事で、彼女らの著作に関心している人々は、著作や思想を、もろもろの陰謀論や、政治イデオロギーの源泉にしてしまっている。もちろん、それは端的に間違えているのだ。

学部生の頃の、私の「ノーム・チョムスキーの時代」は今でも思い出すことができる。当時チョムスキーの意見が誰からも相手にされていないことにとても戸惑ったものだ。チョムスキーの主張には、他の人が同意しかねる要素がいくつも含まれている、ということには当時の私も理解していた。しかし、彼の政治的意見がここまで完全に無視されている理由は理解できなかったし、その理由を説明してくれる人も見つけられなかった。もちろん、大学院を終える事には、私もその理由を理解できるようになっていた。そして、私も「チョムスキーの政治的意見の何が間違えているのか、わざわざ説明してくれない人々」の一員となっていた。私がわざわざ説明しないのは、チョムスキーが世界に特に強大な影響力を保持していると思っていないからだ。彼の著作に影響された人がその考えを発しても、個人的にも特に困ってもいない。

アイン・ランドに関しては、チョムスキーと違って非常に有害であると考えている。事実、一般向けの自著の何箇所かで、ランドについて言及し、彼女の見解の問題点を指摘してきた。(特徴的なのは、彼女の主要な小説に通底している強固なニーチェの哲学思想だ。彼女がニーチェの哲学の影響下にある事例を挙げさせてもらうなら、『レイプ』は単に許容されているだけではなく、[既成の倫理や利他行動に縛られる俗物と、『善悪の彼岸』に達したエリート間の]両陣営を分かつ教化体験とされている事にある)。今のクラインは、[アイン・ランドのような選別思想の]同調者では明確に無いだろう。それでも、私は、クラインは世の中に対して、本質的には悪影響を与える存在であると考えている。クラインの最大の問題は、彼女の見解が「とにかく意味をなしていない」ということ尽きる。彼女はあらゆる社会問題につきまとって、それら社会問題の『バイブル』になるような本を書いて出版しようとする。それでいて、彼女の本は、社会運動家達を不毛の地に放り出してしまうことにしか成功していない。

労働組合でクラインとルイス1 の[書籍を元にしたドキュメンタリー]映画『全てをかえる物語』見た後に、私がそこで主張した事がある。クラインとルイスは催涙弾を嗅ぎ回る時間を減らして、図書館での読書時間を増やすべきだ、と。以上主張は、使い古された教訓に聞こえるかもしれない。それでもこれは重要な観点なのだ。クラインが本を書く際のやり方の大部分は、私と完全に真逆なのである。私は、『見解』が何であるかの把握に、時間と労力の90%近くを使っている。私は費やす時間のほとんどで、読書ないし、友人や大学の同僚と議論を行うことになる。そして『見解』が固まってから、『素材』の収集に残りの10%を使うことになる。そこで必要とされる『素材』、すなわち『データ』は、具体的な主張であったり、議論を具体化するための小話や逸話や、持論を補強するインタビューや報道記事となる。以上言及した私のやり方と、クラインのやり方は全く正反対となっている。彼女のやり方は、『素材』の収集に少なくとも90%の労力使った後、後付の『見解』が適当に付け加えられている。こういったクラインの仕事やり方が、私にクラインを理解することを困難にさせているのだ。

事例を挙げると、彼女の新著のサブタイトルは「資本主義VS.気候変動」である。しかし、この本から、「資本主義」や「環境と資本主義の関係性」に対するクラインの『見解』が何であるのかに説明するのは、非常に困難だ。この本について言及したこのブログの最初のエントリでは、私は慎重かつ好意的に、クラインの言わんとする事の謎解きを試み、彼女を理解しようとした。該当エントリは私なりの努力の記録となっている。容易ではなかったし、私以外の人もそうであったようだ。

クラインの愛読者に会った時、「クラインは、様々な事案についての何か具体的な『見解』を持っているのか?」と私はいつも尋ねている。良い返答を貰えたことはいまだない。愛読者達が、彼女の著作内容が間違えていることを理解している事実に遭遇することすらある。クラインが、なんらかの常識や、実用的な見解(例えば、『炭素価格付け政策』を補強するような見解)を持っているとか、逆に何の見解も持っていないかもしれないと、想定する自体が間違えているかもしれないのである。私がしばしば遭遇してきたのが、雰囲気や気分の連想的な物である。つまり[クラインを愛読する]人々は、クラインの漠然とした関心――環境問題は切迫しており、企業は悪意を持っており、資本主義はなにがしかの責務を追うべきである――を共有しているのだ。

社会変革の飽くなき支持者であるはずのナオミ・クラインが、どのような変革をもたらすべきかということの判断や説明をすることに、なぜこれ程までに僅かな知的労力しか払っていないのか、ということに私は長い間困惑してきた。社会正義の運動家になるつもりなら、社会正義とは何であるかということについてのコンセプトを明らかにすることから始めるべきだ、と私には思えたのだ。社会正義とは何であるかを他人に説明して、その理念から現在の制度の状況がいかに外れているかを示すべきだろう。しかし、ある時点で、このアプローチには私にとっては当たり前に思えても(そもそも私は理論家なのだ)、他の人にとっては当たり前ではないのだということに思い至った。特に、このやり方は、クラインによる社会問題へのアプローチとは異なっているのである。クラインの新著の一節は、私に以上の説の理解を促すことになった。以下は、新著の中ほどになるが、彼女がギリシャに旅行に出かけて、そこでの[市民の]抗議活動を描写している一節である。

イェリッソス2 では、地元住民たちが村の出入り口にバリケードを建設しました。住人を追ってきた200人を超える重武装の凶暴な警官たちは隊を組んで街の狭い通りを練り歩き、催涙弾を全方向に発射したのです。催涙弾の一つが、学校の敷地内で破裂することになりました。結果、学校で授業中の子供たちが窒息に苦しむことになったのです。(298p)

以上一節を読んだ時、校庭に催涙弾が打ち込まれたという些細な事実に、個人的には驚かされることになった。具体的に言うと、少なくとも気象変動についての本と私は見なしていたので、気候変動とまったく関係ない催涙ガスの描写に、非常に戸惑ったのだ。ギリシャにおける金・銅山の開発計画への地元の抵抗が取り上げられているわけだが、気候変動との関係は何も示されないままに話が進んでいる。(鉱山開発は、[自然ないし弱者階級からの]「搾取」だとクラインは朧げに考えており、気象危機を生成している[搾取・陰謀を行っているなんらかの存在の動機と]同質のものとして仄めかされて、提示されているのだ)。なんにせよ、クラインが、金鉱山の開発計画と気候変動を関連付けているとしても、学校内に催涙弾が打ち込まれた観察事例を持ち出すのが、奇妙な事に変わりない。そもそも、彼女の著述内容から、何が起こったのかを理解するのが困難なのである。この箇所を読む読者は、登場する警官がどんな目的を持ってこういった行為を行っているかを知りたいと思うわけである。通りを練り歩いた「重武装」の警官たちが、左右構わずに無秩序に催涙弾を発射した理由等である。クラインは、抗議者達がどこにいるのかに関して何も書いていないので、描写されている警官たちの行動がとりわけ意味不明なのだ。もしかしたら、抗議者達は[警官と]向かい合っていて、暴走した警官たちによって、学校内に催涙弾の一つが投げ込こまれることになったのだろうか? クラインが何を言わんとするかを理解するのは困難である。

しかしながら、この一節を読んだ私が最も直面させられた疑問は、クラインはこのようなルポを本に収用する必要性をなぜ見出したのだろうか、ということである。この本は566ページの大著なので、特段引き伸ばす必要はないと思われるのだ。ギリシャの学校で子供たちが催涙ガスに直面するような事故は、ギリシャ政府が自国市民への危害意図を持っていることを意味するのかもしれない。どっちにせよ、(「誰かが、どこかで、なんらかの悪意に相対している」のような抽象的レベルの見解の遥か以前に)、具体的なレベルで、この本は気候変動について本であるのに、こんな事例が描かれているの事が気にかかるのである。

クラインの見解では、(ギリシャで抗議デモに催涙ガスが使われて子供達が被害を受けたことは)気候変動と結びついているのだ。これは私の推測であるが、このようなエピソードは彼女の道徳的指向を示している。何が善くて何が悪いかということについての、彼女の感覚が示されているのだ。高潔な抗議運動家たちがファシストな警察と対決するというドラマが提供するものこそが、暴力的な抗議活動にクラインがここまで執着している理由だ(彼女にとっては、世界における善の追求と悪との戦いが、抗議運動に催涙ガスが使われることに最も具現化されている、と考えるわけである。要するに、このことは彼女にとって「明白な道徳」を示しているのだ。誰が正しい側に立っていて、誰が間違った側に立っているのかということを、彼女は疑うことなく自明視している。彼女にとって、全ての物事は自身の自明視された道徳見解に従属しているのだ。

要するに、社会正義についてのクラインの意見は、二つの自明な命題から始まっている。[体制への]抗議者は善であり、警察(または「抑圧の暴力」)は悪である、と。これが、学校の校庭に催涙ガスが着弾したという話が[気候変動と]関係があるとされている理由でもある。「警察は悪である」ということを読者が前提としていなかったり、納得していない場合に備えて、「警官は悪である」と読者に想起されるために書かれているのだ

クラインは抗議運動に参加している時に、文字通りの善と悪との戦いを目撃している訳である。そして、抗議運動は善であり警察は悪であるという命題に基づきながら、彼女はより幅広い世界観や社会正義についてのより精巧な意見を構築しようとする。その世界観や見解のかなり多くは寄せ集めにすぎない。基本的には、クラインは抗議運動家が要求していることの全てを取り上げ、繋ぎ合わせてから、なんらかの形の一貫した一つの見解や、一連の要求としてまとめあげようとする。ここで問題となるのは、言うまでもなく、抗議者達は実に様々なことについて要求しているということだ。一部の要求は理に適ったものであるし、別の要求はそうではない。全ての要求が矛盾なく共存する訳ではないし、全ての要求が『善』であることはあり得ない。だから、最終的には、クラインの見解には矛盾を避けるための大げさなごまかしが含まれることになる。そのごまかしが、私のような人々を苛立たせるのだ。

一方で、クラインの論じ方をこのように認識することで、なぜ彼女が抗議運動家たち(また、自分で時間を割いてまで抗議に行くことはないが、抗議運動家を応援している人たち)からこれ程までに支持されているのかということを理解する助けになる。まず第一に、抗議運動家たちはクラインの描く物語の中では常に英雄である。抗議運動家たちが間違いを犯すことは有り得ない。第二に、クラインは抗議運動家たちの見解を受け入れ、少しだけ知的で整った一貫した見解に編み出してくれる存在でもある。同時に、全ての抗議運動には一貫性があるのだとクラインは保証もしてくれる。全く異なった抗議者達が、全く異なった物事を求めて闘っているように見えても、それは正しい社会実現への要求において通底しており、彼らの努力は共通していることになるのだ。[愛読者から見れば]クラインは具体的なビジョンを何も語っていないように見える。しかし、なんらかのビジョンに至る大まかな目標を知っているかのようにも見える。なのでクラインの著作活動を追いかければいつか『見解』を示してくれるかもしれない…。

以上が、私のナオミ・クライン解釈学だ。私の思いつく全てであり、これで終了だ。

※訳注:訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。
※訳注:本エントリはデビット・ライス氏の部分訳を元にWARE_bluefieldがライス氏の許可の元、全訳している。
※訳注:”view”は基本的に『見解』と訳している。

  1. 訳注:アヴィ・ルイス。映像ジャーナリスト。クラインの公私におけるパートナー。 []
  2. 訳注:ギリシャ北部の都市 []