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ジョセフ・ヒース「社会構築主義:基礎編」(2018年5月26日)

Social constructivism: the basics

Posted by Joseph Heath on | philosophy

筆者の同僚のジョルダン・ピーターソンがこれほどの有名人になった理由の一つは、彼の批評の多くがあまりにも難解だからだ。ピーターソンの論争は、(このようなたとえ話が許されるなら)ナイフでの白兵戦に銃を持ち込む奴のように見えることが一度ならずあった。このことは、ピーターソンの社会構築主義に関するさまざまな議論で特に顕著であり、その中には「樽の中の魚を撃つ」(訳注:アホらしいほど簡単な、という意味の慣用的比喩)ような質の議論もあった。その主な理由は、何かが「社会的に構築された」と言うことが何を意味するのか、そして、それが政治的に何を意味するのかについて、学者や運動家を含む多くの人たちが実際に混乱していることにある。

筆者は哲学者かつ批判理論家として、このことに多少の責任を感じている。というのも、このような概念を飯のタネにしている筆者たちは、その意味を十分に説明してこなかったからだ。とりわけ筆者たちは、ジェンダーや人種のような何らかの性質や属性が「社会的に構築された」のなら、それは簡単に変えられるということだ、という印象を与えることを許してきた。この思想こそが、多くの人々の心の中で、「社会正義を守る」ということと「すべてが社会的に構築されたものだ」(あるいは「すべてが社会的に構築されたと信じたい」)ということを、密接に結びつけてきた。そして、学者たちが社会構築主義のテーゼを、有力な証拠に基づいてというより、政治的理由で信じたいから支持したため、社会科学には無視できない歪みが生じた(筆者の「規範的な社会学の問題について」という以前の記事を参照)。

実際問題として、社会的に構築されたものの多くは、簡単に変えることはできない。だが、それを説明するには、社会構築主義者の主張の基礎と、それがどうして政治色を帯びたかを理解する必要がある。世の悲惨の多くが、人間同士が互いをどのように扱うかから生じる、というのは一般的に見られることだ。ゆえに、このような悲惨をなんとかしたいと願う人は、人々の行動パターンを変えられるかどうか、という疑問にはまる。場合によっては、その答えは明らかにイエスだ。例えば、その行動が他者から学んだものであるなら、それを教えないだけで変えられるし、社会規範によって押し付けられたものであるなら、そのような社会規範の押し付けをやめればよい。だが、それ以外の場合には、答えがノーであることも十分にありうる。なぜなら、人間性の中には、体質的な「生物学的に決定された」ように見える側面もあるからだ。読者がもし、自分の子供を贔屓しないような人たちのユートピアを構想しているとしたら、それはおそらく失敗する。

これが基本的に20世紀の遺伝対環境の大論争、つまり、私たちが目にする「人間性」のうちのどの程度が学習の結果であり、どの程度が生得的なのか、のテーマであることは言うまでもない。この論争の最終的な結果として、「すべてどちらでもある」という結論が幅広く受け入れられた。より厳密に言えば、「生物学的」と「社会的」の間に線を引く理論的な基準はない、ということだ。なぜなら、人間は環境(他の人間を含む)の中で成長するが、そこでは常に、発生予定と環境条件の間のフィードバックが起こっているからだ。たとえば、人間には明らかに、言語学習や会話のための生物学的な適応がある(喉頭の位置のような肉体的適応もあれば、領域に特化した高速学習のような認知的適応もある)。生後18か月の幼児と交流した人にとって、人間の脳には言語学習の能力が「組み込まれている」、という印象を持たないことは難しい。だが。言語は生物学的ではなく、文化的な人工物であり、社会環境の一部だ。さらに、そこには明らかに慣習的な要素(語彙や文法の相)も含まれているので、異なる社会環境で育った子供は互いに理解できない言語を学ぶことになる。そしてもちろん、孤独や極端なネグレクト状態で育った子供は、(たとえば、孤独の中で育った蜘蛛が、それでも複雑な蜘蛛の巣を作ることができるのとは異なり)自分で言語を再発明することはない。

このような遺伝・環境論争の解決は、不幸なことに、両陣営をやや満足させすぎた。というのも、「遺伝」側は「すべてどちらでもある」を事実上「なんでも生物学的なものとして扱ってよい」と解釈したし、「環境」側は「なんでも社会的なものとして扱ってよい」という意味に解釈したからだ。むしろ正しい結論は、両者の間には連続性があって、より生物学的なものもあれば、より社会的なものもある、というものだった。あるいは、少し厳密に言えば、人間の発達経路には、他よりより強く「水路付け」されており、社会や環境によって変えにくいものがあるということだ。(たとえば、地球上の他のあらゆる哺乳類と同様に、人間は生物学的に、「生得的」な食べ物の好き嫌いを持つが、それは他の多くの哺乳類ほど確固としたものではない。つまり、社会的学習や慣れによって変えることができる。人間の味覚は「獲得味覚」なのだ。だが、味覚の中には、他よりも獲得の難しいものもある。たとえば、「食糞」は通常、自己超越ではなく精神病の症状として扱われる。だからこそ、獲得味覚の開拓に社会的エネルギーを注いできた文化は、生物学的なデフォルトの設定に近いメニューに行きつく代わりに、多かれ少なかれ「構築された」メニューに行きつく。)

もちろん、特定の性質の発達がどの程度「水路付け」されており、ゆえに、その経路をずらすにはどの程度の社会化の努力が必要になるか、というのは科学の問題だ。不幸なことに多くの人には、この問題に対する公平な判断を妨げるような強い政治的動機がある。なんらかの不正義に関わるような性質があるときは常に、多くの人はその性質が変わって欲しいと願うがゆえに、その性質が「生物学的」ではなく「社会的」なものであると信じたがる。このことはさまざまな帰結を生む。おそらく、そのうちより目立つのは、社会科学に蔓延するとんでもなく不公平な立証責任の割り当てだが、日常的な議論においても、「生物学的」な説明の支持者は常に、自分たちの主張を立証するため「社会的」な説明をすべて排除するし、「社会的」な説明の支持者は通常、「生物学的」説明の可能性をすべて排除するのはおろか、自分たちの主張に証拠を提示する義務があるとすら考えない。たとえば、子供のジェンダーの差の観察結果に関しては通常、観察された差は社会化の結果であるという純粋に仮説的な説明によって、生物学的な説明は論破されたと見なされる。(この種の哲学文献に関しては、ジェシー・プリンツの「Beyond Human Nature(人間性を越えて)」という本を参照。哲学者は特に変な仮説的な例を思いつくように訓練されており、その結果、生物学は私たちの生活とはさまざまな側面とは完全に無関係だと自分自身を納得させることは簡単だと思っている。ついでに言えば、これが正しい自己認識の方向への一歩であることはめったにない)。

その結果、教育のある人たちの典型的な思想では、政治的動機による手の込んだ希望的観測に基づいて、人間の行動に対する社会的な影響(学習、制度など)を過大評価するという事態になった。これが「政治的に正しい(訳注:『ポリコレ』な)」科学の台頭につながった。これこそが、ピーターソンが存分に指摘して論破している相手だ。たとえば、ピーターソンはまず、性差別だけでなく「性自認」に基づく差別も禁ずると言う、カナダ人権法の拡張に関する論争に加わることで注目を集めた。「性自認は生物学的な性とは違うし、生物学的な性では決まらない」みたいなことをよく言われるが、この文の中の「決まる」という言葉が何を意味するのかは、立ち止まって考える価値がある。

社会科学者は、相関係数0.3~0.4程度の関係に注目することが珍しくない。ジェンダーの場合、人口の99%以上の性自認は、そのまま生物学的性に対応している。これで生物学的に「決ま」らないというなら、何が生物学的に決まると言うのか? とピーターソンは問う。生物学的決定論とは、特定の遺伝子型が常に、100%の事例で、特定の表現型を生み出すという意味ではありえない。たとえば、私たちの指の数には発生的な側面があって、6本指になる人もいれば、指を何本か切り落として5本より少なくなる人もいると言う事実にも関わらず、両手には5本の指があるという事実は「生物学的に決定された」と見なされている。だから、上の文で援用されている生物学的決定論の暗黙の定義(相関係数1が必要)にしたがえば、生物学的に決定されたものなどないことになる。このことは、性とジェンダーとの間には極めて強い関係があるという明白な事実から、注意を逸らす役割を果たす。

同時に、「ジェンダー」は社会的構成概念だが、「性」は違う、ということもまったく矛盾していない。シモーヌ・ド・ボーボワールが「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と言ったとき、彼女が見ていたのは、「女」や「男」に関する私たちの一般的な理解には、大量の学習行動が関わっているらしいということだった。通常、子供の時に起こるのは、生物学的性を利用して人口を2つの分類(「男性」と「女性」)に分け、その後、それぞれを異なる方法で社会化して、2つの異なる社会的役割(「男」と「女」)を占めるようにする、ということだ。少女は座った時に足を組むように教わるが、少年は教わらないかもしれない。その結果、男女は異なる行動をするようになる。だが、このことは、生物学的性ではなくジェンダーロールの帰結として正しく説明される。その行動を簡単に変えられるとか忘れられるとかいう事実は、それが生物学的性質ではなく社会的役割によることを強く示唆する。

性とジェンダーを区別することに意味がある理由の一端は、二分類間の強い相関関係から、社会的な役割の諸相は生物学的に決まっているとみなしてしまう人が多いことにある。(言い換えれば、人々が、実際には社会的な役割による社会的行動のさまざまな側面を説明するために、生物学的性に訴えることにより、ジェンダーが見えなくなってしまうということだ。まさに性とジェンダーとのほぼ完全な相関関係のおかげで、反例に直面することは滅多になく、この誤りは気付かれない)。また、「男性」や「女性」に分類することが難しい生物学的状態で生まれてきて、歴史的にどちらかのジェンダーに恣意的に割り振られてきた人たちもいるし、ベースとなる生物学的な曖昧さはないものの、割り当てられたジェンダーに不満をもって、ジェンダーロールを切り替えようとする人もいる、ということも注目する価値がある。

大きな問題は、もちろん、この役割の内容を変えることができるか、変えられるとすればどの程度変えられるか、ということだ。期待を変えることはできるか? 新たな役割を作ることはできるか? 役割を完全に捨てることはできるか? 社会構築主義のテーゼが正しいとすれば、その答えは「イエス」である、と多くの人が誤って見なしている。何かが「発達上水路付けされていない」と証明されるということは、私たちは何でもやりたいことができ、変化に対する抵抗があるとすれば、それは人間性ではなく、社会の「保守的」「反動的」な要素から来ているはずだ、ということを意味している。

この問題点を理解するため、宗教のアナロジーを考えてみよう。宗教は明らかに文化的なものであり、そして明らかに作られたものでもある。(もし誰もが、つまり有神論者と無神論者の双方が同意できることがあるとすれば、それは、宗教的信仰は一般に虚偽であるということだ。この点に関する有神論者と無神論者の唯一の違いは、有神論者はこの一般化に一つの例外(この場合は自分自身の信仰)を認めるが、無神論者は例外を認めないということだ)。ともあれ、宗教が作られたものだという事実から、新たな宗教を作ることは簡単だと結論する人もいるかもしれない。そして実際に多くの人がそれに挑戦した。だが、彼らが気づいたのは、新たな「啓示」をでっち上げたり、新たな儀式の体系を発展させたりすることはそれほど難しくないが、幅広く普及させることはほとんど不可能だということだ。

言い換えれば、やっかいなのは社会への普及なのだ。その理由の一端は、人間の注意や記憶には、生物学的起源の強力なバイアスがかかっていて、特定の種類の物語に他より説得力を感じてしまうことにある。(パスカル・ボイヤーは「神はなぜいるのか(Religion Explained)」の中で、新たな「迷信」をでっちあげて広めようとすることで、より「定着」する迷信と、無視されてすぐ忘れられる迷信の差がどこにあるかを理解しようとする、魅力的な実験について説明している)。

児童書にも同じような構造がある。児童書は文字通り毎年何千点も出版される(自分の子供のためにこのような単純な本を読むことに時間を費やした人たちは、ある時点で、「こんなのなら自分にも書ける」と思うようになる)。だが、児童書の市場は競争が激しい。実際に成功するのは一握りだ。それを選ぶシステムは、実質的に自然選択の一種だ。では、(訳注:この自然選択にとっての)「環境」とは何か? 人間の認知、特に社会化されていない人間の脳の変幻自在なバイアスだ。児童書の「フロイト的」な読み方にあれほど説得力があるのはそのためだ。それは著者が心の中で密かに思っているからではない。このようなテーマこそが、特定の物語が共感を呼び、記憶され、語り継がれる原因だからだ。

これは奇しくも、世界の偉大な宗教や聖典に、まだ完全に解明されていない深い真実が含まれている、とピーターソンが考える理由でもある。このような特定の物語は共感を呼び、生物学的な深いレベルで私たちに訴えかける。だからこそそのような物語は成功し、時を越えて語り継がれる。このような物語がそれほど強い共感を呼ぶのはどうしてか、実際にはわかっておらず、それを追求することによって、私たち自身について学ぶ余地が大いに残っている。(筆者はむしろ、このような物語には、深遠な知恵というより、他のコンテキストに適応した学習ヒューリスティックスへの「誤射」が関わっている、と考えることが多い。つまり、ある人にとっての深い真実は、別の人にとっては恣意的な認知バイアスである、ということ)。

このようなことのすべてが、社会制度をどの程度簡単に変えられるかについて、著しい制約を課している。たとえば「家族」は、ある面では極めて柔軟な社会制度だ。家族は、社会によって極めて違う構成で存在し、養子のような慣習によってかなり恣意的に拡張することができる。そして、社会改革者たちは、文字通り何千年もの間、折に触れて家族を廃止しようと試みてきたが、それでも成功しなかった。それは制度が、哺乳類の心理学に深く根差した、極めて覆すことの難しい性質である感情と行動の素因のセットを、組織化し水路付けしているからだ。実現できたのはせいぜい(カトリックの司祭や中国帝室の宦官のような)「不妊のカースト」を作ることだけであり、それは不安定なことが多かった。対照的に、プラトンの「国家」に出てくる「守護者」のような仕組みは、数え切れないほど試されてきたが、決してうまくいかなかった。

この点に関して、1960年代の反体制文化であるコミューン運動は、ためになる教訓を残している。アメリカでは一時、5千を超えるコミューンが活動しており、多かれ少なかれ過激なさまざまな「生活の実験」を行っていた。筆者の友人の一人は、「共同子育て集団」の一員として数年を費やした。これは、男性5人と女性5人が、生物学的な親を区別することなく、子供を作ることを決めて集団で育てる団体だ。(その計画の中には、誰が生物学的な親かを子供に教えず、10人全員を親として扱い、全員が子供一人一人の世話や教育に関与するということも含まれていた)。これはすべて屈辱的な失敗に終わり、数年のうちに喧嘩別れした。彼らの多くは家庭裁判所のやっかいになる羽目になり、親権や面会権を求めてお互いを訴えた。

おそらくコミューン運動に関して最も衝撃的なのは、やろうとしたことのほとんどすべてが失敗したという事実だ。彼らが行った文字通り数千の実験、実質的に生活のあらゆる側面における社会関係を組織するさまざまな方法の、ほぼすべてが崩壊した。情けないことに、数年以上存続できることが実証されたコミューンは、強い宗教志向を持つコミューン(つまりカルト)と、官僚化することを選び成文法や形式的な意思決定手続きを導入したコミューンとの、2種類だけだった。言い換えれば、コミューン運動が実証することになったのは、人々がお互いを信頼して仲良くできる方法は、すでに社会の本流で採用されている方法だけだった、ということだ。

では、これらを全部ひっくるめた結論は何か? それは、人類は多くの面で極めて柔軟な種であり、社会的学習に強く依存し、行動規範を押し付けることにより社会的相互関係を大幅にコントロールできるが、同時に、社会関係に対し特定の方向にバイアスをかけている進化心理学や生物学的に継承された素因のセットによって、ときにはむしろ驚くほど強い制約を受けている、ということだ。だからこそ、私たちが素朴に「人間性」だと思うことの多くは、実際にはまったく生まれつきではなく社会起源であるにもかかわらず、多くの場合、変化には驚くほど強い抵抗があるのだ。

繰り返すに耐える点はもう一つある。この分析は、「進歩的左翼」が、なぜどのように危険になりうるかを理解するのに役立つ。左翼を自認する人たちの多くは、自分たちを道徳的に立派な人だと思っているので、自分たちに何か悪いことができるとは想像することすら難しい。だからこそ、左翼、あるいは、少なくとも左翼に幅広く支持された政府が、20世紀の歴史の中で7千万~1億人の自国民を殺したということは思い出す価値がある。その原因の大部分は、彼らの追求した政治的なユートピア計画が、ほとんどの人たちの能力を超えたレベルの向社会的行動を示すことを個人に求めたという事実にあった。このような計画が失敗したり抵抗に直面したりし始めたとき、政府は「人間性」の限界に直面したということを認める代わりに、「反革命」「ブルジョワ」「反動的」要素のようなスケープゴートを探し、計画の邪魔をしたという責任を押し付けた。その結果は悲劇的だった。

これこそが、「社会構築主義」の話題が一部の人をピリピリさせる理由だ。問題は、私たちは、一方で正義を求め、他方で人間性に制約されているということだ。この両者の関係を原理的に考える方法を、あるいは、前者を後者に合理的に統合する方法を、私たちはまだ定式化できていない。この問題を、ジークムント・フロイトはきわめて明確に認識しており、「文化への不満」という著作の結論の中で、彼が「文化の超自我」と呼んでいるものに対して次のような批判を展開している:

文化の超自我も人間の心の構成という事実に十分に配慮せずに命令するだけで、人間がその命令に従うことができるかどうかは、考えてみようともしないのである。超自我は、人間の自我は、命じられたことは心のプロセスとして何でも実行できるし、自我は自分のエスに無制限な支配を及ぼすことができることを前提としているのである。しかしこれは間違った考え方であり、いわゆる正常な人間においても、エスを無制限に支配することはできないのである。もしもエスを無制限に支配するように求めるならば、個々の人間は反抗するか、神経症になるか、それとも不幸になるしかないのである。『隣人を汝みずからのごとくに愛せよ』という命令は、人間の攻撃欲動の拒絶としてはもっとも強いものである。これは文化的な超自我がいかに人間の心理を理解せずにふるまっているかを示す傑出した実例なのである。この命令は実行できない。このような形で愛を<水増し>することは、愛の価値を引き下げるだけで、苦難を取り除くことにはならないのである。しかし文化はこうしたすべての状況を無視してしまう。命令にしたがうのが困難であればあるほど、その命令を実行した者は称賛に値すると訴えるだけなのである。
(「文化への不満」ジークムント・フロイト著、中山元訳)

この問題に関する思想が、前世紀の間に多少なりとも進歩したとは、筆者には思えない。

ジョセフ・ヒース「なぞなぞ:リバタリアンとペドフィリア(小児性愛者)の共通点ってなーんだ?」(2014年4月22日)

What do libertarians and pedophiles have in common?
Posted by Joseph Heath on April 22, 2014 | political philosophy

答え:インターネット登場前には、こんなに沢山いると誰も知らなった。

オーケー。このなぞなぞは、読者の注意を引くために即興で創り上げたちょっとしたジョークだ。このジョーク、今回の議論の調子を伝えるためにをやらかさせてもらった。要は、今回の議論、リバタリアニズムの批判を行うが、教義や主義そのものに言及しない感じの批判になっている。はっきり言ってしまえば、理性より感情に訴えたリバタリアニズム批判をやってみたい。もっと正確に言わせてもらうなら、信者の典型例の観察を行うことで、リバタリアニズムを間接的に批判したいわけだ。

この批判を達成するために、新しいコンセプトを紹介したい。ぶっちゃけるに、『自制心(セルフ・コントロール)貴族』と私が呼んでいる特定集団の人々について話したい。

この考えは非常にシンプルだ。一部の人は、他の人達よりも「自制心」に優れているのである。私の例を挙げてみたい。私は妻を心から愛しているのだが、時に妻は私を恐怖の存底に叩き込むことになる。数か月前のことだ。妻は、市販の統計分析ソフトに料金を支払うのが嫌になったので、代わりにオープンソースソフトウェアのを学ぶことを決心した。妻は、いくつかの無料のオンラインのコースに申し込み、それから毎日、仕事後の晩に、Rのプログラミングの細かい仕様を講師が解説するチュートリアルビデオの視聴に1時間ほど費やすようになった。妻は、多量の問題一式に取り掛かり、月末にはそれを基本的にマスターしてしまった。

私を畏怖させたもの、それは妻の「自制心」の行使量である。仕事場での長い1日を終えてから帰宅し、それから統計ソフトのプログラミングの自習に1時間費やすのである。こんなことをするのは、私には到底無理だ。端的に私には妻のような凄い自制心がないからである。ただこう言っておいて何だが、私も平均的な人よりは強い自制心を持っているはずなのだ。何せ、私は大変な労力を割いて本を書いており、完成に至るまでの何年もの忍耐力を必要としている。

なので、妻と私は共に自制心の行使に関しては、人口の上位10%帰属にある、とおそらく断言できる。この上位10%に帰属する集団のことを、私は『自制心貴族』と呼んでいる。この貴族クラブメンバーであることは、社会において巨大な便益を得ることになっている――有名な「マシュマロ・テスト1 」によっても示されている通りだ。この巨大な便益は、「自制心」が、社会の諸領域に普遍的に適応する非常に安定的な個人性質として発現することに由来している。(例えば、妻と私は、25年以上もクレジットカードを、限度額未満の金額しか使用したことがない。)我々の社会において、「自制心」は、その能力の保持者に、単に富を与える以上に、多くの実利をもたらしているだろう――自制心は、人生の非常に多くの領域(健康、教育、ダイエット、財テク、人間関係、キャリア開発、犯罪の自己抑止、等々…)で利点をもたらすからである。

博士課程を修了した大抵の人は、この自制心では最高水準にある。大学に留まり続けることは、〔人生における〕満足感を延期するための強い忍耐力を必要とするからだ。人文科学のようにあまり形式化されていない分野の博士号を持っている人は、確実にこの自制心を持っている。
(学部の院生が博士号取得試験2 に合格した後、私はいつも彼らに「ほの暗い下宿に今すぐに戻るのだ! そして二年後に自著を抱えて帰還したまえ!」と声掛けしている。冗談のようだが、あながち冗談ではない。哲学の博士論文執筆には基本的に総計でこのくらいはかかるのだ。もちろん、このような種類の仕事は、皆に適性があるわけではない。ただ博士課程を完遂できないとすれば、それは「知性の欠如」によるものではない、「自制心の欠如」によってのみ起こりうるのである。)

『自制心貴族』の一員であることを自覚しているが故であるが、社会における「個人の自由」に関する諸問題について考える際には、ある種の特権階級の話だと想定するとピンとくるのである。私は非常に強い「自制心」を持っているので、「個人の自由」領域の拡張によって、平均的な人よりも、非常に多くの便益を得る立場にある。なので、24時間営業の酒屋は、私にとっては素晴らしいが、他の人にとっては良し悪しがあることを、私的には認識している。また、私は新しいTFSA3 プログラムについて熱心な関心を寄せているが、その関心が一般的に共有されていないことも認識している――TFSAの主な便益は、富裕層ではなく、『自制心貴族』に流れ込むからだ。

ここまでの話が、リバタリアニズムとどう関係するかだって? (漫然かつ暗黙裡に、個人の自由を他の政治的権利より優先するような教義に基づいている)リバタリアニズムの学問的支持者達全ては、『自制心貴族』の一員であることが、重要な論点なのだ。現に、この手のリバタリアニズムの支持者が推奨している政治概念は、他者よりも、自身に非常に広範に便益をもたらすものとなっている。それでいながら、ほとんどの事例で、彼らは自身がエリートであり社会の支配的なグループの一員であることで〔自身の推奨政策から〕偏って利益を得る立場にあることを認識していない。なので、彼らは非常に無邪気に自身の政治概念を推奨している。リバタリアン想定だと、「自由」は、全ての人に平等に便益を与えるものとなっている。(もしくは、リバタリアン想定では、「自由」の拡張が一部の人に便益を与えない場合は、その人が、十分な自制心の行使に失敗したことになっている。つまり完全なる自己責任である。)

経済学を背景に持つたぐいのリバタリアンは、この観点では最悪の傾向を示している。経済学者が方法論的仮定として導出している「合理的エージェント」モデルは、絶対的完全な自制心を保持しているエージェントの明示化に寄っているからだ。(例えば、ミルトン・フリードマンの恒常所得仮説。この仮説では、銀行の貯蓄残高とか、信用限度がどのくらいなのかというような事象は、影響を与えないはずだと明示されている。そうだったらいいののだけどねぇ!)

結果的に、経済学の薫陶を受けた人がなんらかの政策問題について考えると、誰もが完全な自制心を持つことを前提条件にした概要分析をよく挙げることになる。このような観点だと、生活保護給付が月単位になっているような制度は、不思議に思えるかもしれない。なぜ生活保護給付を税制度に組み込むことで一元化しないのだろうか? とか、単に年度始めに一度だけ総額を高額給付しないのだろうか? とか不思議に思えるようである。
(現実世界に住んでいる人なら誰でも、この質問には容易に答えられるでしょう? しかしながら、確実にある種の経済学者――「合理的エージェント」入り毒々ジュースを常時ラッパ飲みしている人――にとっては、答えは正真正銘の謎に思えるようである。)

生活保護の給付を単年度の一括支払いに変更することを、真剣に検討してる人はさすがにいない。しかしながら、確定給付型年金制度を、拠出ベースの年金制度や定期貯蓄に置き換えるような事案は、人によっては検討している。そしてこういった事案の検討時に、(完全な自制心を前提条件に置いている)経済学者のバイアスは、深刻なまでに議論を歪めているように見える。

自制心の不平等な分配に注意を向けることを始めると、すぐにリバタリアニズムのある特徴が見いだされる。私は長年に渡って、リバタリアン達の、国家権力による単一ないし複合的な規範の押しつけへの批判や、個人の自由余地のさらなる拡大を目的とした国家権力の抑圧を縮小する要求を聞くことに、少なからず時間を浪費してきた。しかしながら、彼らの批判を聞いてきた長い年月全てにおいて、この手の〔国家による規範や権力の〕縮小によって自身が便益を得るのを想定していない事案を要求するリバタリアンにはついぞ出会ったことがない。

例えば、銃の所有権を擁護する類のリバタリアンは、銃を所有していたり、銃の所有を欲するような類の人である傾向がある。本物のリバタリアンであるなら、銃所有の要求如何によらず所有権を擁護するだろうし、ことによると銃犯罪の犠牲者になる可能性が平均以上になろうとも所有権を擁護するはずだ。本物のリバタリアンであることは、自己利益の促進のために単なる修辞的なカモフラージュとして「自由」という言葉を使用することにあるのではない。純粋な価値として「自由」を掲げることを意味しなければならないはずだ。

毎度の経済に関してだと、リバタリアンの議論は常に同じ趣をまとっている。例えば、公的保険制度を嫌うリバタリアンは、自前の民間健康保険制度を自由に選択できるように望んでいる。しかしながら、この手の議論を行う類のリバタリアンは、常に民間の健康保険を既に購入してる類の人である。この手の事例は枚挙にいとまがない。

ここまでの見解を適切に表している優れた風刺がある(どこで見たまではちょっと思い出せないが、たしかニューヨーカーに掲載されていた風刺漫画だったはずだ)。風刺漫画ではマンハッタン在住の富裕層の女性が、貧しい人に対して不平を述べていた。

富裕層の女性曰く:
「貧乏な人がお金がないことについてしょっちゅう文句を言ってるのが、私には不思議なのよね。私なんて、まったくお金を使わないで何日も過ごすことがしょっちゅうあるのよ」
ここで、彼女の夫が突っ込んで言う:
「マイハニー。それはね、君の運転手が全て支払っているからだよ」

この話の教訓。それは人は一度十分なお金を所有してしまえば、それは見えなくなってしまうことにある。つまり、人は一度富裕になると、お金で困っている人の視点で世界を見る能力を失ってしまうのだ。「自制心」に関しても同じだ。『自制心貴族』のメンバーは、自身が「自制心」を多量に保持しているのを当然視している。その結果、彼らは「自制心」を欠いている人の視点で世界を見るのが非常に困難になっている。故に、彼らは多くの事例で、自身帰属の狭い社会階層だけに便益をもたらすであろう政治的概念の推奨に日々費やすことになる。しかしながら、そのことに決して気が付かないのだ。

※訳者による補足・注釈文章は基本的に〔〕で囲っている。

  1. 訳注:子供時代の「自制心」の強さが、将来の成功の多くの要素に強い相関があることが示された研究。当初の実験では、子供にマシュマロを見せた上で、一定時間食べるを我慢させて「自制心」の強さを計測したことから、このような名称が付いている。 []
  2. 訳注:英米の大学等で博士課程を経た後に受ける試験。試験に合格すると授業に出席せずに博士論文を書く権利がもらえる。 []
  3. 訳注:カナダにおける個人の金融投資収益の税免除制度のこと。日本のNISAとほぼ同じ制度である。 []

ジョセフ・ヒース『トランプ大統領の省察』(2016年11月10日)

Thoughts on President Trump
Posted by Joseph Heath on November 10, 2016 | political philosophy, United States

トランプの当選については、多くの論点が言及済みだが、まだ大きな関心が払われていない幾つかについて指摘しておきたい。

まず最初に。この結果に本当に驚いたことを表明するのを許して欲しい。数週間前から正解を予言していたアンドリュー・ポター1 には祝福を! 昨夜までは思っていたのだ、ポターは間違えていると。有権者の投票行動においては、「政党の地方支部活動」の重要性がほぼ全てだと信じていた。トランプが選挙キャンペーン組織をまとめあげられなかったことで、受けた打撃は、個人的に思っていたほどではなかった。

この[トランプの当選]結果は、政治学による評論家への偉大な勝利である事も記さねばならない。選挙時のディベートにおける立ち振舞やそこでのヘマのような事象は、大した事象ではない、と政治学は教えてくれる。政治学においては、選挙結果は、極少数の『マクロ』要因に「左右される」――この要因の最重要要素は、政権与党を変更させたいという[有権者の]要望であるとされている。2

火曜日のニューヨーク・タイムズで、トランプとロブ・フォード3 の類似性に私は言及した。トランプとフォードの2人が、選挙戦を行うのに際してとった行動は、従来のメディアの知見からみれば、行いうる限りにおいてほぼ全て間違えていた。にも関わらず彼らは勝利を収めたのだ。(ただ、トランプは総投票数では敗北し、選挙人制度においてのみ勝利を収めたことで、彼の勝利は価値を持たないことを私は示唆しておきたい)。トランプとフォードの強い類似を鑑みた時に、私が推察するのは、選挙戦におけるトランプの変遷が、フォードのそれと多くの点で似通っていた事だ。選挙の初年度、トランプは自らの意思で有権者を威圧しようとしていた。しかし時が経つにつれて、トランプは、自らの掟破りの言動の蓄積によって、自縄自縛に陥ることになっていった。

ただ、私がここで言及したいのは上記の件ではない。それよりも以下の2つの事項について省察を行いたい。

[1つ目はこの現象が]どのように起こったのかだ。

トランプの当選結果は、多くの異なる要素の集約によって出来上がっている。人種や経済的要因のような特徴的な要素を過小評価しないなら、個人的に追加言及しておきたいのが、トランプの支持者達が皆一様に表明していた一つの動機である。トランプの支持者達が希求していたのは、『腐敗した』現行政治制度への『チェンジ』だった。この点において、2人の候補者間には明らかな対照性が存在した。ヒラリー・クリントンの(自身が確実に行ってきた過去の事例に基いている)特化された専門性は、連邦政府の政治構造に居座っている様のような周知事実によっても、彼女が年期を経た政治的インサイダーであることを知らしめていた。『Citizens United(シチズンズ・ユナイテッド)4 』への不満を言うのを少し控えると、アメリカの統治形態が多様化しすぎている事に対して、ヒラリーが全く関心を持っていないことは明白だった。ヒラリーは現状在り方の推進に強く関心を持っていたのだ。正確に言うなら、彼女が主に売り込んでいた主張は、現行制度の複雑な回路を操作する能力だった。ここにヒラリーとトランプの対照性が現れている。この対照下において、トランプに投票するのは、雑貨屋に猛り狂った雄牛を送り込むような事だった。トランプは、既存の政治構造に、可能な限りにダメージを与えることが予測できたのだ。

ここで疑問が生じる。なぜこれほど多くのアメリカ人が、ここまで極端な方法でもって、自国の政治制度にダメージを与えることを欲したのだろう? 私が考える答えは、アメリカの政治制度には、極端なバクチ要素が内包されているということだ。これは、根本[制度]を改良できないという事実に起因している。以上の観点に立てば、アメリカは極めて異常な政体だ。過去数十年に遡って西洋民主主義国家を参照すれば、ほとんどの国では、顕在化した様々な[政治・社会的]問題や病理に、構造上の改良処置を立法化することによって、継続して解決策を見出してきた。(例えば、イギリスにおけるスコットランドへの自治権委譲や、上院の改定。他にはオーストラリアやニュージーランドの投票制度の変更が挙げられる)。

合衆国政府への私の見解は、長期の政治の衰退に陥っているということだ。(この見解は、他の論者も提唱している。特にフランシス・フクヤマが有力な論者だ)。ただ、だからといって、アメリカの崩壊を予言することは、無益な作業ではあるのだが…。私が発見した[アメリカの]今日の状況を突き動かしている物がある。それはアメリカが衰退に陥っている理由でもある。私が発見したのは、アメリカにおいて、現行の問題や政治的病理の進行に対処する、(広義の意味での)政治制度の自己改革能力が欠けてしまっている事だ。

カナダにおける選挙制度改革に関する近年の議論と、アメリカにおける選挙人制度を巡る状況は、非常に対照的だ。繰り返しになるが、ヒラリー・クリントンは総投票数では勝利を収める一方で、選挙人制度では敗北している。従って、アメリカの政治制度は、大統領選挙において、多数派の指名に失敗した事になる。これは、2000年のアル・ゴアとジョージ・W・ブッシュとの大統領選挙時に起こった出来事が本質的に繰り返された事になる。カナダ国民なら、多数決による選挙制度に基いている立法府において、もし政党与党が総獲得票数で過半数を下回っている事態になれば、不平を言うに違いない。しかして、カナダにおいて、国会に選任されることになった全ての議員は、選挙区での最高得票を得るルールの勝者であることが求められる。つまり(議員に選任される)いかなる老若男女も、対抗議員より多数の票を得ねばならないと問われる事実が、現として存在しているのだ。[カナダとは]対照的に、合衆国政府の大統領選出制度は、この[対抗候補より得票数で上回っていないといけないという]原則に反する事になっている。ドナルド・トランプは50%を超える投票数を得るのに失敗しただけでなく、選挙戦で最高得票数を得る競争の勝者ですらない。ヒラリー・クリントンは[当然トランプより]多くの票を獲得することになっている。

これは[アメリカの]政治制度に非常に大きな欠陥があると見なすことができる。そして、トランプの勝利後では、もはや驚くべきではないが、選挙人制度が崩壊していると公然と語られるようになってしまっている。カナダでは対照的だ、誰もここまで深刻に捕らえていない。[アメリカにおいて選挙人制度の変更に]言及することが、不可抗力的で無益であるという感覚が存在する事が、この論文で言及されているのは興味深い。この論点について尋ねられた人々は、皆一様にこう言う。「その通りだ。それは愚かで、非民主的だ。でも、それについて何とかする方法は存在しないじゃないか!」

似たような諦めの態度を他にもいくつか見つけることができる、ゲリマンダー5ロビー活動、選挙資金集めのような問題は、この問題[大統領選挙の投票制度]に比較して相対的に小さな『問題』だろうし、同じような大きな『問題』では、議会の構造や、選挙制度そのものを例示できる。実例を挙げて考えるなら、アメリカは、多数決制度の深刻な病理の酷い症状に侵されている。この病理は、(デュヴォルジェの法則によって)二大政党制の生成に向かわせ、有権者を大きく区分するという巨大な不満を産むに至っている。にもかかわらず、アメリカの投票制度の変更に関する議論は、全く存在しない。なぜだろう? この件について私が問いただしたアメリカ政治の理論家は、皆同じことを言う。「この事について話すのは不毛だ。なぜなら何も変えることができないからだ」と。一方、カナダはこのような問題(多数決による多数派専横の病理)を抱えてはいない。もちろんカナダでも、しばしば選挙制度改革についての深刻な議論に従事することがある。(ただ、私はその『カナダの選挙制度』について言及しておかねばならない。カナダでは議論が明後日の方向に行ってしまうのを心配することはないし、制度の変更が成し遂げられないかもしれないとか、制度が変更不可能かもしれないと疑う事はありえない。もちろん今のカナダでは選挙制度の変更は必要ないので、変更は起こらないと考えているが…。)

改革が不可能という答えが存在する状況では、アメリカの制度は、スティーブン・テレスが『Kludgeocracy(バグ取り主義)』と呼んでいるモノにゆっくりと巻き込まれる事になっている。改革を立法することより、アメリカ人は、ルールを捻じ曲げて解釈すような方法で、現制度への対処療法を施してきた。アメリカ人は皆、この方法がルールの変更より容易である事で受け入れてきた。(というわけで、ついでながら言っておくと、アメリカ人は皆、『権力の分立』が、自身をバカにしてるかのようなトランプ大統領を抑制することを望んでいる。ただ合衆国において『権力の分立』は、対処療法やバグ取りによる数十年にも及ぶ毀損の蓄積によって、激しく品位が低下している。)

ここまで述べたことに基づくなら、合衆国政府は、“output legitimacy(市民の公的政策結果への評価)”の圧倒的な欠乏に陥いっている。この欠乏によって、合衆国政府は、他の豊かな先進国住民なら自国政府に期待して良いであろう公共政策を行う事に、一貫して失敗している。(他の西洋民主主義国家における市民の受難とは、全く別の恐ろしい受難をアメリカ市民が抱えている事を、合衆国の統治について研究した者なら皆知ってる。)この立法部門の機能不全は、市民に満足な解決策を何も提示できない事にもなっており、アメリカ人は皆、多くの緩慢なバグ取り[対処療法的な問題解決]の蓄積に直面している。(例示しておくと、安価な医療制度や、再生可能エネルギー政策などである。)

ほとんどのアメリカの人々は、制度についてはもはや思考放棄している。彼らは政府による悪いパフォーマンスを見た時、手近の[悪いパフォーマンスを演じているように見える]役者に不満を溜める。そして、アメリカの人々は、物事を変えると約束している新しい役者を送り込む事で対応することになる。何十年もアメリカの人々はこれを続けてきた。そして、未だに何も変えることができていない。なぜだろう? それは、現法下の個人行動では変更不可能な、構造的問題であるからだ。アメリカの人々は、この変更不可能な問題に、どう対応しているのだろう? 多くの人は、硬直した[政治]状況に自身が送り込んだ役者が、懐柔されたか、十分にタフでなかったか、役割に相応しくなかった、と結論づけることになる。そして、物事をチェンジすると約束した、より過激で絶叫する人物を送り込む事になる。それでも[送り込んだ人物が]仕事を果たせずにいる[ように見える]と、さらにより過激な人物を送り込んできた。

ドナルド・トランプに投票することが、この過程の最終到達点だ。少なくとも、我々はこれが最後になることを望みたいものだ…。いずれにせよ、トランプが目立った失敗をしでかすことや、ポジティブな変化を起こせない事、そしてそれらが破滅的な悪循環の継続へと至ることは、既に予測可能だ。何よりもまず、トランプは、プロセスを積み重ねることや、組織的な観点について考えることができない。トランプは、悪い政策結果を目にした時、関係者が「愚かだ」と推定するだろう。そして代わりに「頭が良い」人物を起用すれば、良い結果を生むと考えるだろう。このやり方は、失望を生む処方箋となる。続いて、特効性のあるチェンジを(主に議会の会期中には)約束する事なり、これも単により悪い結果に至るだけだろう。一方で、彼が約束している裁判官人事は、憲法上の制約をより強化することになる。それによって、選挙資金集めの改革や、ゲリマンダーを終わらせることも不可能になるだろう。

[2つ目は]トランプの当選が意味する物である。

アメリカ人は、「トランプの当選がアメリカ人にとって何を意味するのか」という問題に夢中になっている。私はアメリカ人でないので、「トランプの当選は世界にとって何を意味するのか」という問題に興味がある。以下は過剰な心配かもしれない、しかし、昨日[のトランプの当選]は、ベルリンの壁崩壊のような世界文明の方向性が変わった瞬間の1つであるように、私には感じられた。ドナルド・トランプが合衆国大統領になった事は、西洋民主主義の信用を深く毀損する事になるだろう。この事実に沿って個人的に考えるなら、火曜の[大統領]選挙の国際的な大勝利者は、中国式の権威主義ではないだろうか。なので、ソ連の崩壊が共産主義の破滅を導いたのと同じように、トランプの当選は、自由民主主義からの世界的な離反に至るターニングポイントに相当するかもしれない。

アメリカ人がトランプについてどう考えようとも、グローバルな見地で観察する限り、最も重要な事実は、世界中の人々がトランプを無能な道化と見なしている事だ。言及せねばならないが、中国の人々は、トランプが任命された小事でもって既に祭り状態だ。中国は過去にジョージ・W・ブッシュが大統領である事で巨大なプロパガンダを貼る利益を得ている。当時の中国のプロパガンダは「我々の政治制度の方が優れている。なぜなら、我が国ならこのような無能者を国家元首にする事は許されていない」だった。トランプ大統領の任期中にも同じようなプロパガンダが貼られるだろう。(追加するに、この道化の狂った男は、ジュリアーニ、ギングリッチ、ペイリン、ボルトンのような内輪の人事を行うだろう)。中国への民主化圧力が不可能になることは確実だ。

より重要な事に、気候変動のような問題でグローバルな指導的地位に何が起こるか考えねばならない。この件でヨーロッパ諸国は、気まぐれで、自己中心的だ。その上、気候変動の件では、重要な国際的地位を占めていない。合衆国政府は、破滅的な統治の失敗を被っている。そしてその元首[トランプ]は、この問題を完全に否認している。よって[世界の]人々は、[気候変動問題で]指導的地位を探索することになる。その探索の自然なる集結地は、中国になるだろう。ざっくり考えるなら、人類の未来が中国にあるように見える出来事の始まりとなる。より憂鬱なことに、([合衆国と同じく]限定的な改良統治に従事しているにすぎない)中国の政治制度が、安定と繁栄を保証するような1つ[の政治制度の選択肢]として見え始めている。中国が地球上で最も進歩していなかった300年はだんだんと例外に見え始めており、今では伝統的な[国際社会における]支配的地位に返り咲きつつある。

自由民主主義政体の在り方は[アメリカの]他にも多数存在し、そのほとんどはアメリカより優れていることから、以上の結論は確定された見解ではない。(私が過去に何度も指摘してきたように、アメリカは、海外では自身の制度[大統領制]を再設計しようとはしていない。例えば、イラクに侵略した後、アメリカは議会制民主主義を押し付けている――議会制民主主義は大統領制より優れていることを、アメリカ人の一部は暗黙裡に認めているのだ)。にもかかわらず、合衆国政体は世界で最も名声ある民主主義政体なので、合衆国の統治の失敗は、民主主義理念の失敗として広く認識されることになる。アメリカという一国家の失敗にすぎないのだが…。

だからたとえ、トランプが『孤立主義』でなかったとしてしても(例えば、彼がTPPをぶち壊さなかったり、NATOを軽視しなかったりしても)、今回の選挙は中国にとって巨大な勝利であり、中国の政治制度を賞賛し擁護する人々にとっての巨大な景気づけにもなっているのだ。

※訳者による補足の単語等は基本は[]で括っている
※訳注:初訳時に、誤訳を指摘してくれたoptical_frog氏に強く感謝を!

  1. 訳注:ヒースと『反逆の神話』等の共著があるジャーナリスト []
  2. 訳注:ディベート等で両候補者の立ち振舞いを見て「ヒラリーの勝ち」等を断定していた評論家への、ヒースの嫌味と思われる。 []
  3. 訳注:トロント市長(2010-2014年期)。トランプと同じく奇矯な振る舞いで話題を集めた。 []
  4. 訳注:右翼団体シチズンズ・ユナイテッドによるヒラリー・クリントンを排撃する偽ドキュメンタリーと、その放映の是非を巡る最高裁での裁判。さらには該当ドキュメンタリーの放映の合法判決によって、プロパガンダ的なTV番組によるキャンペーンが可能になった現象全般を指していると思われる。リンク先で詳しい解説を日本語で読むことが可能。 []
  5. 訳注:政治家が、自身や自政党に都合が良いように選挙区の区割りを行う事。最初に問題視された政治家の名称がゲリーであったことと、区割りした地域が想像上の怪物『サラマンダー』に似ていたことで、『ゲリマンダー』と呼ばれるようになった。 []