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ジョセフ・ヒース『ナオミ・クラインについての最終論考』(2015年9月22日)

Final thoughts on Naomi Klein
Posted by Joseph Heath on September 22, 2015 | environment, politics

このブログの読者ならお気付きと思われるが、今年、ナオミ・クラインの気候変動本『全てをかえる物語』について言及したのを皮切りに、私は少なからずの時間クラインに浪費している。読者の何人かから、直接、ないしやんわりと、クラインへの妄執が過ぎることを指摘されたのである。よって少し弁明しておきたい。まずは、過去に数年にわたっての[クラインについての言及が含まれる]言説を総括し、幾つか提供してみる。

以下に過去の論考を並べてみた。
ナオミ・クライン:『全てをかえる物語』[訳注:本サイトでの邦訳版はココ]
ナオミ・クライン、追伸1
ナオミ・クライン、追伸2

次に以下は、私の『気候変動』についての過去のエントリである。
『税を税たらしめるものとは何か? 炭素税vs.炭素価格付け』
『炭素税/価格付けにおいて、2つの賢明で無い論点』
『ホッブズの難解な概念』

以上に追加して最後は、私の気候変動政策についての授業のシラバス[訳注:本サイトでの邦訳版はココ]である。(シラバスは、気候変動について感心がある人は読む価値があると思われる)。

個人的に、クラインの本についてこうも長期間にわたって言及してきた理由に、端的に近年は『気候変動問題』について考えるのに時間を割いてきたからなのだ。私が読んできた本の中には、この件[気候変動]についての悪書も多く含まれていた。しかしながら、クラインの本は詳細に論ずるに値する本でもある。理由の一つは、彼女が『世界の知識人』ランキングのトップ100やトップ50に定期的にリストアップされており、多くの場合はトップ10に入っていることにある。つまり、多くの人々が彼女の著作や話す内容を、とても真面目に読んでいる訳なのだ。これは、クラインが、左派でいうところのノーム・チョムスキーや、右派でいうところのアイン・ランドと同じタイプの人になってしまっている事を示す理由の一端にもなっている。クラインやチョムスキーやランドは、高校生や大学の学部生からは異様に人気があるが、より高度な教育を受けた人(特に、私のような大学教授)らからは、ほとんど無視されているような人達である。しかしながら、これらの人々を無視している人で、『なぜ』彼女らの意見を真面目に相手にしないのかを、わざわざ説明する人は滅多にいない。クラインらが学者らから無視されている事で、彼女らの著作に関心している人々は、著作や思想を、もろもろの陰謀論や、[反アカデミア的な]政治イデオロギーの源泉にしてしまっている。もちろん、それは端的に間違えているのだ。

学部生の頃の、私の『ノーム・チョムスキーの時代』は今でも思い出すことができる。当時チョムスキーの意見が誰からも相手にされていないことにとても戸惑ったものだ。チョムスキーの主張には、他の人が同意しかねる要素がいくつも含まれている、ということには当時の私も理解していた。しかし、彼の政治的意見がここまで完全に無視されている理由は理解できなかったし、その理由を説明してくれる人も見つけられなかった。もちろん、大学院を終える事には、私もその理由を理解できるようになっていた。そして、私も「チョムスキーの政治的意見の何が間違えているのか、わざわざ説明してくれない人々」の一員となっていた。私がわざわざ説明しないのは、チョムスキーが[政治的見解に関しては]世界に特に強大な影響力を保持していると思っていないからだ。彼の著作に影響された人がその考えを発しても、個人的にも特に困ってもいない。

アイン・ランドに関しては、チョムスキーと違って非常に有害であると考えている。事実、一般向けの自著の何箇所かで、ランドについて言及し、彼女の見解の問題点を指摘してきた。(特徴的なのは、彼女の主要な小説に通底している強固なニーチェの哲学思想だ。彼女がニーチェの哲学の影響下にある事例を挙げさせてもらうなら、[彼女の思想において]『レイプ』は単に許容されているだけではなく、[既成の倫理や利他行動に縛られる俗物と、『善悪の彼岸』に達したエリート間の]両陣営を分かつ教化体験とされている事にある)。今のクラインは、[アイン・ランドのような選別思想の]同調者では明確に無いだろう。それでも、私は、クラインは世の中に対して、本質的には悪影響を与える存在であると考えている。クラインの最大の問題は、彼女の見解が「とにかく意味をなしていない」ということ尽きる。彼女はあらゆる社会問題につきまとって、それら社会問題の『バイブル』になるような本を書いて出版しようとする。それでいて、彼女の本は、社会運動家達を不毛の地に放り出してしまうことにしか成功していない。

労働組合でクラインとルイス1 の[書籍を元にしたドキュメンタリー]映画『全てをかえる物語』見た後に、私がそこで主張した事がある。クラインとルイスは催涙弾を嗅ぎ回る時間を減らして、図書館での読書時間を増やすべきだ、と。以上主張は、使い古された教訓に聞こえるかもしれない。それでもこれは重要な観点なのだ。クラインが[なんらかの事象の]本を書く際のやり方の大部分は、私と完全に真逆なのである。私は、[事象が]何であるかの『見解』の把握に、時間と労力の90%近くを使っている。私は[『見解』を得るための]時間のほとんどで、読書ないし、友人や大学の同僚と議論を行うことになる。そして『見解』が固まってから、『素材』の収集に残りの10%を使うことになる。そこで必要とされる『素材』、すなわち『データ』は、具体的な主張であったり、議論を具体化するための小話や逸話や、持論を補強するインタビューや報道記事となる。以上言及した私のやり方と、クラインのやり方は全く正反対となっている。彼女のやり方は、『素材』の収集に少なくとも90%の労力使った後、後付の『見解』が適当に付け加えられている。こういったクラインの仕事やり方が、私にクラインを理解することを困難にさせているのだ。

事例を挙げると、彼女の新著のサブタイトルは『資本主義vs環境』である。しかし、この本[を読むこと]で、『資本主義』や『環境と資本主義の関係性』に対するクラインの『見解』が何であるのかに説明するのは、非常に困難だ。この本について言及したこのブログの最初のエントリでは、私は慎重かつ好意的に、クラインの言わんとする事の謎解きを試み、彼女を理解しようとした。該当エントリは私なりの努力の記録となっている。容易ではなかったし、私以外の人もそうであったようだ。

クラインの愛読者に会った時、「クラインは、様々な事案についての何か具体的な『見解』を持っているのか?」と私はいつも尋ねている。良い返答を貰えたことはいまだない。愛読者達が、彼女の著作内容が間違えていることを理解している事実に遭遇することすらある。クラインが、なんらかの常識や、実用的な見解(例えば、『炭素価格付け政策』を補強するような見解)を持っているとか、逆に何の見解も持っていないかもしれないと、想定する自体が間違えているかもしれないのである。私がしばしば遭遇してきたのが、雰囲気や気分の連想的な物である。つまり[クラインを愛読する]人々は、クラインの漠然とした関心――環境問題は切迫しており、企業は悪意を持っており、資本主義はなにがしかの責務を追うべきである――を共有しているのだ。

社会変革の飽くなき支持者であるはずのナオミ・クラインが、どのような変革をもたらすべきかということの判断や説明をすることに、なぜこれ程までに僅かな知的労力しか払っていないのか、ということに私は長い間困惑してきた。社会正義の運動家になるつもりなら、社会正義とは何であるかということについてのコンセプトを明らかにすることから始めるべきだ、と私には思えたのだ。社会正義とは何であるかを他人に説明して、その理念から現在の制度の状況がいかに外れているかを示すべきだろう。しかし、ある時点で、このアプローチには私にとっては当たり前に思えても(そもそも私は理論家なのだ)、他の人にとっては当たり前ではないのだということに思い至った。特に、このやり方は、クラインによる社会問題へのアプローチとは異なっているのである。クラインの新著の一節は、私に以上の説の理解を促すことになった。以下は、新著の中ほどになるが、彼女がギリシャに旅行に出かけて、そこでの[市民の]抗議活動を描写している一節である。

イェリッソス2 では、地元住民たちが村の出入り口にバリケードを建設しました。住人を追ってきた200人を超える重武装の凶暴な警官たちは隊を組んで街の狭い通りを練り歩き、催涙弾を全方向に発射したのです。催涙弾の一つが、学校の敷地内で破裂することになりました。結果、学校で授業中の子供たちが窒息に苦しむことになったのです。(298p)

以上一節を読んだ時、校庭に催涙弾が打ち込まれた件が極めて適当に描写されている事に、個人的には特に驚かされることになった。[クラインの本は]少なくとも気象変動についての本と私は見なしていたので、気候変動とまったく関係ない催涙ガスの描写に、非常に戸惑ったのだ。ギリシャにおける金・銅山の開発計画への地元の抵抗が取り上げられているわけだが、気候変動との関係は何も示されないままに話が進んでいる。(鉱山開発は、[自然ないし弱者階級からの]『搾取』だとクラインは朧げに考えており、気象危機を生成している[搾取・陰謀を行っているなんらかの存在の動機と]同質のものとして仄めかされて、提示されているのだ)。なんにせよ、クラインが、金鉱山の開発計画と気候変動を関連付けているとしても、学校内に催涙弾が打ち込まれた観察事例を持ち出すのが、奇妙な事に変わりない。そもそも、彼女の著述内容から、何が起こったのかを理解するのが困難なのである。この箇所を読む読者は、登場する警官がどんな目的を持ってこういった行為を行っているかを知りたいと思うわけである。通りを練り歩いた『重武装』の警官たちが、左右構わずに無秩序に催涙弾を発射した理由等である。クラインは、[鉱山開発への]抗議者達がどこにいるのかに関して何も書いていないので、描写されている警官たちの行動がとりわけ意味不明なのだ。もしかしたら、抗議者達は[警官と]向かい合っていて、暴走した警官たちによって、学校内に催涙弾の一つが投げ込こまれることになったのだろうか? クラインが何を言わんとするかを理解するのは困難である。

しかしながら、この一節を読んだ私が最も直面させられた疑問は、クラインはこのようなルポを本に収用する必要性をなぜ見出したのだろうか、ということである。この本は566ページの大著なので、特段[助長なエピソード等を含めて]引き伸ばす必要はないと思われるのだ。ギリシャの学校で子供たちが催涙ガスに直面するような事故は、ギリシャ政府が自国市民への危害意図を持っていることを意味するのかもしれない。どっちにせよ、(「誰かが、どこかで、なんらかの悪意に相対している」のような抽象的レベルの見解の遥か以前に)、具体的なレベルで、この本は気候変動について本であるのに、こんな事例が描かれているの事が気にかかるのである。

クラインの見解では、(ギリシャで抗議デモに催涙ガスが使われて子供達が被害を受けたことは)気候変動と結びついているのだ。これは私の推測であるが、このようなエピソードは彼女の道徳的指向を示している。何が善くて何が悪いかということについての、彼女の感覚が示されているのだ。高潔な抗議運動家たちがファシストな警察と対決するというドラマが提供するものこそが、暴力的な抗議活動にクラインがここまで執着している理由だ(彼女にとっては、世界における善の追求と悪との戦いが、抗議運動に催涙ガスが使われることに最も具現化されている、と考えるわけである。要するに、このことは彼女にとって『明白な道徳』を示しているのだ。誰が正しい側に立っていて、誰が間違った側に立っているのかということを、彼女は疑うことなく自明視している。彼女にとって、全ての物事は自身の自明視された道徳見解に従属しているのだ。

要するに、社会正義についてのクラインの意見は、二つの自明な命題から始まっている。[体制への]抗議者は善であり、警察(または『抑圧の暴力』)は悪である、と。これが、学校の校庭に催涙ガスが着弾したという話が[気候変動と]関係があるとされている理由でもある。「警察は悪である」ということを読者が前提としていなかったり、納得していない場合に備えて、「警官は悪である」と読者に想起されるために書かれているのだ

クラインは抗議運動に参加している時に、文字通りの善と悪との戦いを目撃している訳である。そして、抗議運動は善であり警察は悪であるという命題に基づきながら、彼女はより幅広い世界観や社会正義についてのより精巧な意見を構築しようとする。その世界観や見解のかなり多くは寄せ集めにすぎない。基本的には、クラインは抗議運動家が要求していることの全てを取り上げ、繋ぎ合わせてから、なんらかの形の一貫した一つの見解や、一連の要求としてまとめあげようとする。ここで問題となるのは、言うまでもなく、抗議者達は実に様々なことについて要求しているということだ。一部の要求は理に適ったものであるし、別の要求はそうではない。全ての要求が矛盾なく共存する訳ではないし、全ての要求が『善』であることはあり得ない。だから、最終的には、クラインの見解には矛盾を避けるための大げさなごまかしが含まれることになる。そのごまかしが、私のような人々を苛立たせるのだ。

一方で、クラインの論じ方を[全てを乱雑に関連付けるものであると]認識することで、なぜ彼女が抗議運動家たち(また、自分で時間を割いてまで抗議に行くことはないが、抗議運動家を応援している人たち)からこれ程までに支持されているのかということを理解する助けになる。まず第一に、抗議運動家たちは[クラインの描く]物語の中では常に英雄である。抗議運動家たちが間違いを犯すことは有り得ない。第二に、クラインは抗議運動家たちの見解を受け入れ、少しだけ知的で整った一貫した見解に編み出してくれる存在でもある。同時に、全ての抗議運動には[正義の]一貫性があるのだとクラインは保証もしてくれる。[クラインの見解に従うと]全く異なった抗議者達が、全く異なった物事を求めて闘っているように見えても、それは正しい社会実現への要求において通底しており、彼らの努力は共通していることになるのだ。[愛読者から見れば]クラインは具体的なビジョンを何も語っていないように見える。しかし、なんらかのビジョンに至る大まかな目標を知っているかのようにも見える。なのでクラインの著作活動を追いかければいつか『見解』を示してくれるかもしれない…。

以上が、私のナオミ・クライン解釈学だ。私の思いつく全てであり、これで終了だ。

※訳注:訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。
※訳注:本エントリはデビット・ライス氏の部分訳を元にWARE_bluefieldがライス氏の許可の元、全訳している。
※訳注:”view”は基本的に『見解』と訳している。

  1. 訳注:アヴィ・ルイス。映像ジャーナリスト。クラインの公私におけるパートナー。 []
  2. 訳注:ギリシャ北部の都市 []

ジョセフ・ヒース『何が人を陰謀論者にするのか?』(2016年12月5日)

What makes someone a conspiracy theorist?
Posted by Joseph Heath on December 5, 2016 | politics, United States

多くの人が、ドナルド・トランプに指摘している事の1つに、トランプが顕著なまでに陰謀論にハマりやすいように見える事がある。陰謀論について議論される時、「『陰謀論』とは正確に何であるのか」とか、「どのような精神的特徴が、人を『陰謀論者』に陥らせてしまうのか」、といった問題点が明確にされることは滅多にない。私は、自著『啓蒙思想2.0』で、陰謀論の説明を試みている。よって、この自著から、一部抜粋して再掲載するのが、タイムリーかもしれないと考えた次第である。

基本的に、一般的な陰謀論者は、『確証バイアス』の罠にハマっている。どんな男女であれ人は、まず外界にパターンを見る。そして、そのパターンに原因を見出してしまう習性を持っている。ただ一方で、原因を否定する数々の証拠に対しては、はなっから検討しようとしないので、物事を体系だって考えることを失敗してしまうのだ。[反証の検討に]代わって、人は、自身の見たパターンに沿う、より多くの事例が単に目に入るようになってしまう。そして、[目に入った]おのおのの事例を(誤信して)、見出した原因の証拠と扱う事になってしまう。

陰謀論者達は、キース・スタノヴィッチ1 が『合理性障害(dysrationalia)』と呼ぶ現象の最適の事例として見ることができるだろう。陰謀論者達は、おおむね平均以上の知能の持ち主だ。この高い知能によって、彼らは、外界にパターンを発見し、そのパターンに対応する原因、すなわち『理論』を見出してしまう。陰謀論者が欠いているのは、合理的な『反証能力』、すなわち、もしかしたらの矛盾した証拠を意図的に考える能力である。(因みに、陰謀論者達の幾人かは、熟考する質である。その具体的理由を挙げるなら、非常に多くがエンジニアであるからなのだ。彼らは、技術的な教育を受けている故に、非常に複雑な理論を理解し、生成する能力を得ている。そして、それでいながら、「反証事例の重視」といった科学的な思考方法の教育を欠いてもいるのだ)。

『確証バイアス』という現象の詳細に関して、個人的に強く推奨したいのが、レイモンド・ニッカーソンの『確証バイアス:一知半解の積み重ねによる普遍的現象』(“Review of General Psychology (1998)”掲載)である。
という事で、以下が『啓蒙思想2.0』からの一部抜粋(助長な部分は削った編集版)となっている。
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哲学者であることの否定的側面の一つを、私は日々見知ることになっている。それは、カルトの信者からの望まないメールを、大量に受け取る事にある。カルトの信者達は、自身の「哲学」についての、私との議論を望んでいるのだ。最近の、私のメール受信箱には、法輪大法(法輪功)からのメールがやたら並んでいる。法輪功は、ほとんど無害な組織であるにも関わらず、([教団が]組織化された事で)、中国政府を脅かす失態を行ってしまい、それによって、まがうことなき弾圧を被っている。この中国政府による弾圧は法輪功を、結果的に本来よりも有名にしてしまっている。法輪功のコア思想は、伝統仏教の瞑想の実践に、精緻な宇宙人のマインドコントロール理論を融合したものだ。創始者・李洪志によれば、科学とテクノロジーの発展は、宇宙人の策略であるとのことらしい。策略とは、人類間に戦争と破壊を扇動することであり、それによって宇宙人は、我々の身体を奪い、地球人に成り代わろうとしているそうな。こうして詳細を見てみれば、まさしく文字どおりトンデモだ。しかし全てのカルトがそうであるように、問題とすべきは、何千もの(あるいはこの場合は何百万もの)トンデモでない常人がこのようなカルトを、どのようにして信じるようになるか、ということである。

法輪功に関して驚嘆させられる事の1つが、まったくもって平凡であることだ。あらゆる面からみてもそうなのだ。世界のどこの誰が見てもすぐにわかるくらい平凡なのである。中国的な特徴を持ったトンデモさもまったくない。精神感染における平凡な風邪に例えても良いであろう昔ながらの特徴の無いトンデモさなのである。彼らの文章を読むと、カルトをどのように創設するのかといった、世界共通の指示マニュアルに従っているのではないのか、との錯覚に捕らわれる。信者をどうやって魅了するのか? 選択肢の1番手は、奇跡的なヒーリングの小話だ! 個人的には十全に予測していたが、以下のような推薦文が含まれたメールを、私は法輪功の信者から受け取ることになった。

「法輪大法は良きことなり」と演唱することで現前した多数の奇跡を、私は見聞してきました。リュウ女史は唐山市の村に住む69歳の女性です。去年、リュウ女史は大腸癌と診断されました。医師からは「あなたは、高齢で血圧が低すぎます。安静にするしかないでしょう。自宅に帰って、好きなものを食べましょう」と言われました。彼女3つ目の妹は、法輪大法の実践者でした。妹はリュウ女史を訪問して、「法輪大法は良きことなり」と演唱する法輪大法の実践を教えました。すると10日後には、リュウ女史は完治し、末期癌は消え去っていました。何よりの奇跡的事実に、リュウ女史は若い女性のような見かけとなり、とても美しくなったのです。これこそが、法輪功の神聖なる力なのです。李大師はイエス・キリストより圧倒的に優れているのです! 法輪功は人々を救っています。法輪功はすべてを解決するのです。

この種の話を、お馴染みで聞きなれていると感じたら、それはいたるところで見聞きするからだ。人に誤った信念を持たせる、世界共通の実践マニュアルのようなものが存在する。パスカル・ボイヤーが明らかにしたことによると、いくつかの非現実的な創作話の中には、他の創作に比べて、人が信じやすいものがあるそうな。人間の推論能力には、特殊な先入観バイアスがいくつか備わっている。何かを信じてしまうような信念システムは、こういったいくつかの先入観バイアス利用しながら[信念を]拡張していき、そしてさらに信念を自己増殖・強化することになっていく。この増殖・強化プロセスによって、カルトに信念を持たせるようなシステムは働いている。カルトの『教義』は、こういったシステムを作動するような普遍性を持っているのだ。我々をうんざりさせるほどお馴染みの『教義』ではあるが…。これら[陰謀論やカルトを信じてしまうような信念システム]は皆、生態学的ニッチ(隙間ポジション)と同じようなものだ。非合理的な信念の中には、普通の人間が実行可能な警戒心のほとんどから、逃れていることに成功しているものがある。生物の免疫システムによる探査から逃れているウィルスのようなものである。

唐山市のリュウ女史の話に戻ろう。このメールには多くのツッコミどころがあるが、最も目立った特徴は、心理学者が『確証バイアス』と名付けている現象を利用していることである。人間は仮説を立てる時、仮説に適合する肯定的な証拠だけを目にする一方で、仮説に不適合な証拠を確認することは見逃してしまう性質を持っている。人間は「否定的な事について考える」のに失敗してしまうのだ。リュウ女史の回復と法輪大法の神聖なる力を関連付けるには、[このメールだけで判断するには]2つの情報が欠けている。まず1つ目は、女史が「法輪大法は良きことなり」を演唱していなかったら、どうなっていたのだろう? という事である。例えば、ガンが単に誤診であった可能性である。あるいは、女史が本当にガンにかかっていたとしても、自然治癒したり、端的に長期間生存した可能性もある。2つ目は、末期ガンにかかっている患者で、「法輪大法は良きことなり」と演唱したどのくらいの人が回復しなかったのだろう? ということである。多くの人がこういった疑問を尋ねないものである。単に思いつかないだけの事もあれば、この話だけでは必要な情報を欠いており仮説を補強するのがまったくもって不可能なので、気づかない事もある。これらの事象を正しく認識することに失敗してしまうのは、『迷信』を信じてしまう特質の一つでもあるのだ…。

こういった認知バイアスについて見知ると、他人が愚かであることを説明していると、考えたい誘惑にかられる。愚かであるかどうかの自己診断を行うのは、非常な困難を伴う。ダニエル・カーネマン2 は、この件を「心理学を教えることの無益さ」と説明している。[カーネマンが教えた]学生たちは、致命的なエラーやバイアスを証明している実験について、ほぼ全て事前に見知っていた。それでいて、学生達は、[実験で指摘されてもいる]バイアスに自身がハマっているという当然の帰結には、疑うことなく「自身を例外化した」とのことである。このようなことになってしまう理由の1つは、内省を行うことでバイアスに気付くことができ(そして、バイアスについて知っているという事実だけで、影響から免疫を得られる)との誤った信念を保持しているからなのだ。もう1つの理由は、ほとんどの人が、生活におけるほぼ全領域で、自身を過大評価してしまうという、別の有名な認知バイアス故である。[自身だけは]バイアスから逃れることができるという思い込みは、この偏在している過大評価バイアスの一例だ。心理学者達は、[自身を例外化してしまう]このバイアスを『バイアスの盲点』と指摘している。中国の農民達の迷信深さを嘆くのは簡単なことだ。しかし、自分自身については、それはそれ、これはこれと考え、あっさりと別の話にしてしまう。

私を俎上に載せると、大学教授で、哲学科で教鞭を取っている。現キャリアを達するのに、論理学、議論分析学、確率論を学び、教えてきた。気質の一端は合理主義だとは自覚している。小学校の3年頃には、同級生たちに『ミスター・スポック3 』と呼ばれ始めた。以後、チェスクラブに入った後、コンピュータープログラムを行い、最終的には論理学と哲学にたどり着いた。『認知バイアス』についての心理学の文献を幅広く読んできてもいる。『確証バイアス』とは何であるのかとか、『確証バイアス』がどのようにして特徴的に具現化するのか、といった事例は十分に見知っているつもりだった。もっとも、何年か前のある日、『確証バイアス』について調べるテストを受けたことで、自身も最も初歩的な罠にハマっている事に気づいてしまったのだ。以下は、人間の合理的能力を混乱させるようなテスト問題を生み出す天才、ピーター・ウェイソンによって創られたテストである。

試験官:これから、連続した3つの数字を示します。数字を生成したルールを推測してみてください。答えを決める前に、あなたは3度、私に質問することが可能です。質問は以下に限定することとします。あなたは3つの数字を示して、私はその示した数字が、ルールに合っているかどうか返答します。

私:了解した。面白そうだ。すっごく得意だったマスターマインド4 にちょっと似てるね。

試験官:では、組み合わせは2、4、6です。

私:わぉ、簡単そうじゃん。ウォーミングアップってことかな。ってことで、6、8、10はどう?

試験官:はい。ルールに合ってます。

私:うーむ、了解。22、24、26はどう?

試験官:はい。ルールに合ってます。

私:了解。バカバカしい。もう最後の質問は必要なさそうだが、一応、100、102、104は?

試験官:はい。ルールに合ってます。

私:よっしゃ! ルールは「3つの偶数数字の昇り順並び」だね。

試験官:いいえ。それはルールに合ってません。

私:聞き間違い? もう一度言ってくれ!

試験官:いいえ。それはルールに合ってません。

私:いったい何が正しいルールなんだ?

試験官:ルールは「昇り順のあらゆる3つの数字」です。

私:3、5、7でも、ルールを満たすと言いたいのか?

試験官:はい。

私:2、67、428でもルールを満たしている?

試験官:はい。

私:オーマイガー! 俺ってバカじゃん。

以上によって、私は『確証バイアス』を真剣に捉えねばならないと教訓を得ることになった。仮説を立て、それを定量化することを求められた時、私は、最初に見出したパターンに即座に飛びつき、自説を補強するような証拠ばかり目に付くようになった。一方で、反証の試みを完全に失念していたのだ。一度でも『偶数の並び』が脳裏に定着してしまうと、『奇数の並び』を、[試験官に]提示して「いいえ」の答えを引き出す事[で自説の『偶数並び』を補強する事]を、まったく思い付かなくなってしまったのだ。「否定事実を考える」ことに完全に失敗した次第である。事実、3度目の質問を問う前に、一瞬戸惑ったのをハッキリ覚えている。「聞かねばならない別の質問があるのでは?」ではなく、「有用な全質問」をもう使い切ってしまった、と考えて戸惑ってしまったのだ。私を少なからずの困惑に陥れたのは、たった1、2回で十分なのに、なぜ質問の機会を3度与えられのだろう、と考えてしまった事だった。

確証バイアスを調べるこのテストにおいて、特徴的要素として見出されているのが、単に「人は願望に沿って考えてしまう」といった事実以上の、人の認知過程である。人は、自身のお気に入りの考えを補強する証拠だけを見出してしまうとか、信じたいものだけを見てしまう、といった話はお馴染みだ。しかし、以上実験が示しているケースは、私が最初の仮説を発見するのに、いっさいの先入観を必要としなかった事にある。我々の合理的思考には、単純にして巨大な盲点が存在するのだ。私の「6、8、10」というルール推測の提示に、試験官は「はい」と回答している。この回答は、私が提示した仮説「3つの偶数数字の昇り順並び」を補強することになっている。ここで問題になるのは、「試験官の『はい』」は、[私が提示しなかった]別の多くの仮説も補強しているのだ。私の仮説「3つの偶数数字の昇り順並び」を確定させるには、「別の多くの仮説」がルールに不適合であることを示さねばならない。そして、私は失敗に至った。酷い、呆れ返るような失敗を犯している。これは、人々が、リュウ女史の奇跡的な回復を、法輪功の神聖な力によるものと信じてしまう問題ととまったく同じである。

この事を考えると、我々の直感的判断がなぜ事象の正確な認識に失敗してしまうのかが、容易に分かるだろう。人の瞬間的な認知が、特に得意にしているものの一つが、パターンの再認識能力だ。チェスのグランドマスターや、経験豊富な医師や、ベテランの消防士を際立たせているものが、このパターンの再認識能力である。彼らは凡人には見ることができない過去に見たパターンを即座に再発見することができる。不幸なことに人間の脳は、過去に見たパターンの再発見を行うように非常に活性化されている。脳は、何も存在しない様な状況でも、そこにパターンを見てしまう傾向を持っているのだ。この傾向が病的な領域にまで至れば、『アポフェニア5 』と呼ばれることになる。しかし人間の水面下を統べる思考の傾向としては、この傾向はいたるところに存在しているのだ。たとえば、ほとんどの人は、ランダムなコイン投げやサイコロ転がしを見せられた時、「これはランダムでない――なぜなら非常に多くの『連続』が含まれているからだ」と強く主張することになる。アップルは、アイポッドの『シャフル機能』について、「『ランダムな順番』であるべきなのに特定のアーティストをえこひいきしている」と主張するユーザーによる、偏執的な不満を大量に受けることになった。

人は一般的に『ランダム』について、直感的な理解を欠いているので、ありそうにない『偶然の一致』に遭遇することで、常々驚かされることになる。心理学者達の何人かが示唆しているのが、自然環境において純粋なランダム事象の発生はあまり一般的でないため、人間はこの『ランダム事象』を見出す能力を得る利益を特に必要としなかった、故にこの能力は発達しなかった、という説である。よりありえる端的な説明が、『間違えた肯定(存在しない事実を、存在すると考えてしまうパターン)』は、『間違えた否定(存在する事実を、存在しないと考えてしまうパターン)』より、進化的コストが格段に低い可能性である。そうつまり、自然選択は、[過去に見た]パターンへ非常に高い感受性を発揮する一方で、[見たことがないパターンの発見へは]とりわけ低く特化することになる認識システムを、選好してきたことになる。[サバンナ地方等でサーバルのような]捕食動物に襲われ[「た、たべないでくださいー」と逃げ]る可能性がある環境においては、草木がガサガサ動くような事ですら潜在的脅威として扱う[進化的な]対価を支払うようになる。何もないのに、『おびえて』逃げ出すようになる[進化的]コストは、なにがしかの明らかな[危険的]徴候を無視して八つ裂きにされることより、非常に安価なのだ。なので、我々は、なんらかのパターンを見ると、非常な興奮状態に陥る傾向にある。「自分は間違えているかもしれない」と考えるのは、自然に浮かぶ思考ではない。それは、自動制御的な認識システムを、理性によって解除し手動制御に強制移行する行為なのだ。

※訳注:訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。

  1. 訳注:カナダの心理学者。邦訳に『心は遺伝子の論理で決まるのか』等がある []
  2. 訳注:行動心理学者。2002年にノーベル経済学賞を受賞している。 []
  3. 訳注:SFテレビドラマ『スタートレック』に登場する、合理的思考が特徴の戦艦の副長。「船長、それは非論理的です」が口癖。 []
  4. 訳注:出題者によって隠されたピンの色を推理によって当てるボードゲーム、 []
  5. 訳注:無作為や無意味な情報の中から、規則性や関連性を見出してしまう知覚作用を指す、心理学用語。 []