ブラッドフォード・デロング「明治維新:《ユートピアへの蝸牛の歩み:長い20世紀の経済史》抜粋」

[Bradford DeLong, “The Meiji Restoration: A Probable In-Take for ‘Slouching Towards Utopia?: An Economic History of the Long 20th Century’“, Grasping Reality with at Least Three Hands, July 26, 2018]

この文章の難点は,日本が首尾よくたどった第二次世界大戦以前の道筋をこれできっちり語り切れた気がしないところだ.中国の失敗譚はうまくできたんだけど.…いや,まあそれはともかく


世界大戦以前,中国の真逆だったのが日本だ.

17世紀序盤に,関ヶ原の戦いで徳川家が対立勢力を決定的に打ち負かし,実効支配を打ち立てた.徳川家康は,征夷大将軍の位を天皇に認めさせ,さらに内政と軍事の実権をすべて天皇から剥奪した.こうしてできた新体制は,息子の秀忠と孫の家光により盤石となった.江戸(いまの東京)を首都として徳川幕府は2世紀半にわたって日本を支配した.

ごく初期,17世紀前半には,徳川幕府は南方すなわちフィリピンに目を向けたことがあった.そのほんの1世紀前まで,フィリピンは独立王国だった.そこへヨーロッパ人が上陸した.最初に商人たちがきて,さらに宣教師たちが続いてやってきた.〔キリスト教への〕改宗者たちは,ヨーロッパの影響を下支えする有効な基盤になった.宣教師たちのあとにやってきたのは,軍隊だった.こうして,1600年までにスペインがフィリピンを支配するにいたる.

徳川幕府は日本国内の潜在的な対抗勢力と臣下たちを支配できる点には自信があった.他方で,ヨーロッパ人たちがもつ科学技術・軍隊・宗教の力に抵抗できるかどうかには自信がなかった.

そして日本は鎖国される.貿易は長崎の港に限定され,ごく少数の船舶が出入りを許された.海外から帰国した日本人臣民は処刑され,許可された区域外で見つかった外国人も処刑された.キリスト教は禁じられた.ただ,歴代の徳川将軍たちが採用した外国の慣習がひとつある:磔刑だ――キリスト教の棄教を頑として拒んだ者たちにふさわしい処罰だと彼らは考えたのだ.

2世紀半にわたって,徳川は日本をおおむね平和に治めた.人口は増加し,米栽培の生産性は向上した.美術と工芸は開花した.貿易は栄えた.サムライ階級の軍事技能は衰退し,日本の科学技術はますますヨーロッパのはるか後塵を拝するようになった.そして,日本はヨーロッパの植民地にならなかった.

平和,比較的に広まった識字能力,職人・商人たちの関心を政治や大土地所有による成功ではなく経済による成功に向けさせることに傾注した身分制度,かつて敵対し屈服して臣下となった大名たちが富も力ももちすぎないようのぞんだ徳川の中央政権,これらが準マルサス的な繁栄につながった.非常に大きな非農民階級(おそらく人口の4割という工業以前の農耕社会としては巨大な集団)を支える小作人たちには重税が課された.小作人たちは,非常に貧しく栄養不足だったらしい:労働階級と小作人の成人男性は平均身長 157cm,成人女性は 145cm だったようだ.また,賃金が低かったため,木材・金属・資本・土地といった物質を節約する方向に技術発展が進んだ.灌漑システムが整えられ,裏作ができるようになった(油糧種子・小麦・綿・砂糖).ロバート・アレンの主張によると,各地の大名たちは自藩にさまざまな産業を誘致すべく競争に励んだそうだ.また,同じくアレンによれば,たとえば生糸の進歩はよりすぐれた機械の開発によってではなく,よりすぐれた蚕によって到来したのだという.

とはいえ,小作農経済を基盤にして経済と社会は大いに栄えた.1868年の明治維新で徳川時代が終焉を迎えたとき,京都・大阪・東京にはあわせて200万の人々がいた:人口の6分の1はまぎれもない都市住民だったわけだ.成人男性の半数は読み書きができた:東京には600以上もの書店があった.

識字と都市化によって,科学技術能力がのびる素地が用意された.ロバート・アレンは,長崎〔佐賀藩〕の藩主・鍋島直正と,彼が主導した西洋式大砲の製造工場の物語を語っている.鍋島の配下たちは,オランダ語を習得して,さらにライデンの製造工場〔反射炉〕の技術書を翻訳し,これを模造しようとした:「1850年に,彼らは反射炉の建造に成功し,その3年後には大砲の鋳造にとりかかっていた.1854年に長崎のグループが当時最先端の元込め式アームストロング砲をイギリスから輸入し,模造品の製造をはじめた.1868年までに,日本には8基の反射炉が稼働して鉄を精錬していた(…)」

1851年にアメリカ大統領はペリー代将に日本との国交樹立の指令を下す.1853年に,アメリカの軍艦が東京湾に進入した.徳川幕府がこれまでの政策を変更して貿易をはじめるべきという彼らの主張は単純そのものだった:「もしもこばむならアメリカの艦隊は東京を焼き払う」というのが彼らの主張だった.徳川幕府はこれに屈して,模索をはじめる.もはや西洋列強のまえに鎖国が選択肢たりえない世界でどう乗り切っていくか,その方法の模索だ.そして1868年に徳川幕府は政変によって転覆される.これが「明治維新」だ.

理屈のうえでは,1000年以上も前に初期の将軍たちに先祖が明け渡した直接統治を天皇がとりもどしたことになっている――それで,これを「維新」(restoration; 王政復古)と呼ぶ:

将軍徳川慶喜みずからがこれを願いでたのを受けて,彼の統治権力を返還する許可が下された(…)ことを日本の天皇は宣言する.以後,我々が内政・外交の万事において最高権威をふるう.その帰結として,これまで条約を締結するにあたって用いられてきた大君の称号にかわって天皇の称号が用いられねばならない.外交問題を扱うにあたっての任官は我々によって執り行われる.この宣言を条約締結国の諸代表に承認せられることが望ましい.〔英語からの重訳〕

こうして,1872年までにすべての藩は天皇に従属し,サムライ階級の構成員200万人は補償として公債が与えられた――その公債も,一世代のうちにインフレによって事実上失われてしまう.とはいえ,教育水準の高かった彼らと子息たちは軍隊の士官・役人・教師・行政官・起業家となった.支配権は,名士たちがさまざまに組んだ連合のあいだを渡り歩いた――なかでも際立つのが初期の「明治の六傑」(“Meiji Six”) だった:森有礼,大久保利通,西郷隆盛,伊藤博文,山縣有朋,木戸孝允の面々だ〔「十傑」または「三傑」は聞くけれど「六傑」は耳慣れない;なにかおわかりの方はコメントで教えてください〕.彼らは,西洋の科学技術の吸収に関心を向けつつ,日本の文明と独立を維持しようとした:「富国強兵」をおしすすめるための「和魂洋才」が唱えられた.

その後,西洋の制度が次々に採用されていく:知事,官僚制度,新聞,東京のサムライ方言にもとづく言語の標準化,文科省,義務教育,徴兵制,政府による鉄道の敷設,国内の関税障壁撤廃と全国市場の成立,時刻の統一,グレゴリウス暦の採用――こうした制度が1873年までにすべて出そろう.代議制による地方政府は1879年に樹立.二院制(新規に創設された貴族制をともなう)と立憲君主制は1889年に確立.1890年までに,学齢期の児童の8割が少なくとも入学するまでになっている.

明治維新以前にも制度と文化の潮流に抗して近代化と工業化を推し進めることのできたごくわずかな人物はいた.たとえば中国の李鴻章がそうだった.日本には,そうした人物が幾人もいた.「明治の六傑」に数えられる1人に,倒幕派の長州出身の旧名・林利助がいる(1841年10月16日~1909年10月26日).父親が水井武兵衛の養子となり,その水井も伊藤弥右衛門の養子となったため,伊藤博文に名をあらためる.この2段階の養子縁組で,伊藤は社会的階層を大きく駆け上ることになる――とはいえ,それでも林利助あらため伊藤博文の身分は下級武士にすぎなかった.下級武士は長州藩が農民から徴収した年貢を当てにするどころではなく,自分で生計を立てねばならなかった.農民を監視するのではなく,自らも農民同然に働かねばならなかった.十代の伊藤博文は〔吉田〕寅次郎の松下村塾に学ぶ.ここで伊藤は武芸や政治,そして尊皇攘夷を身につけてゆく――尊皇攘夷とは「天皇をうやまい蛮族を駆逐すること」を意味する.1863年に,長州藩の首脳陣は,ヨーロッパの制度と科学技術を是が非でも学ぶ必要があると判断し,ついては――違法ながら――有望な若者5名〔「長州五傑」〕を日本からひそかに送り出してヨーロッパ留学させることに決めた.

伊藤博文はイギリス到着まで130日間,ペガサス号で甲板員として働き,イギリスではユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンに学んだ.伊藤は留学をたった6ヶ月で切り上げ,長州にもどると西洋との敵対政策をやめるよう執拗に論じた:日本は弱く,制度も科学技術も彼我の差はあまりに大きい.22歳にして藩命として課せられた計画をみずから変更し,帰国するや長州藩の政策に反論する.ここから,伊藤という人物についていくらかわかるだろう:問題がどれほど重大だと考えていたか,持論にどれほど自信をもっていたか,長州藩とその首脳陣に伊藤がどれほど高く評価されていたか.

明治維新の1868年に,伊藤は26歳だった.1870年には,伊藤はアメリカにいて通貨と銀行制度を学んでいる.1871年序盤には,伊藤は日本にもどって封建的な年貢をあらためて国民税制に転換する法制を執筆している.1871年の暮れには,伊藤は2年間の岩倉使節団に参加している.1873年の伊藤博文は初代工部卿に就任し,西洋の科学技術をできるかぎり多くリバースエンジニアリングする使命に取り組み,電信網・街灯・紡績工場・鉄道・造船所・灯台・鉱坑・製鋼所・ガラス工場・帝国工科大学などの建設をすすめていく.

1878年,伊藤博文は,後ろ盾である大久保利通が暗殺されて内務卿の役目を受け継いでいる.1881年,伊藤は同世代の大隈重信を政争により政府から追放し,非公式に日本の宰相となる.1882年~83年,伊藤は18ヶ月をついやしてアメリカ・スペイン・イギリス・ドイツの憲法を研究し,帰国して日本の憲法制定委員会の委員長となる.

また,1885年に伊藤博文は李鴻章と天津条約の交渉に当たり,朝鮮を中立化する〔日本・清の双方が朝鮮半島から撤兵することに合意した〕.だが,1895年には伊藤は首相として日清戦争にのぞむ.ヨーロッパ製軍艦 11隻,日本製軍艦2隻,そしてプロイセン軍人ヤーコプ・メッケルに訓練された軍隊で,戦争は短期で終結した.大连市にある中国の主要拠点である要塞と港――旅順口――は日本軍の正面攻勢により一日で陥落する.陥落後に,3日にわたる虐殺がなされ,2000名の中国人が殺された.日本軍の法務官たちはこの虐殺を中国側の「挑発」に応じた「相互的なもの」として正当化した.日本は朝鮮と台湾を保護領として獲得する.

1895年に中国との戦争に首尾よく勝利したことで,朝鮮と台湾は日本の保護領となる.1899年に日本政府は治外法権を撤廃する――治外法権とは,ヨーロッパ人が日本の裁判と法律から免れるということだ.1902年,北太平洋での勢力維持を模索していたイギリスと日本は日英同盟を結ぶ.日本とロシアはお互いに満州に勢力圏を広げて衝突し,やがて1905年の日露戦争にいたる.日本は軍事力の行使まで危機拡大に積極的になり,他方のロシアも同じく危機拡大を望んだ.ロシア帝政の閣僚たちは「短期決戦」によって皇帝への支持は堅固になると信じていた.日本側が決定的勝利を得たことで,満州は日本の勢力下におかれることとなる.

1905年に伊藤は韓国統監府の初代統監に就任.1907年に伊藤は韓国の内政問題の支配権をにぎる.1909年に伊藤は朝鮮のナショナリスト安重根に暗殺される.

その後,1910年に朝鮮は公式に併合される.さらに,第一次世界大戦でドイツに宣戦布告したことで,それまでドイツが植民地にしていた太平洋の島々すべてが日本の支配下におかれた.

ロバート・アレンの考えでは,1900年以前に工業社会を首尾よく発展させた国々は4つの前提条件のみを創出することに傾注していたという:その4つの条件とは,鉄道で結ばれた国内市場,義務教育をとおして国民全員が読み書きできること,投資銀行によって貯蓄を資本に活かすこと,揺籃期にある国内産業とエンジニアリングの共同体をイギリスの工業輸出との競争という強風から保護する関税を設けること.

明治の日本は,輸入品に5パーセント以上の関税をかけることを不平等条約によって禁じられていた.だが,ここでも政府が介入をためらっていない.民間企業に関するかぎり,政府は「勝者を選別する」ことよりも勝者を認めることに終始した――そして勝者に支援を与えた.工部省は日本の鉄道と電信網が整備されるとともに,日本人技術者をできるかぎり迅速に育成すべく学校を創設する.また,できるかぎり国内の供給業者を頼った.

明治の日本に銀行はなかった.あったのは,ガーシェンクロン〔経済学者・歴史学者〕のいう資本動員の役目を担うことをいとわない政府だった.また,産業に参入する意欲をもつ非常に豊かで開明的な商人の一族〔財閥〕もいた:三井,三菱,住友,安田だ.

アレンのいう初期産業化の「標準モデル」で前提条件となる投資銀行と関税障壁が欠けているのを埋め合わせるこの2つの営為のどちらでも,「富国強兵」というスローガンの「富国」よりも「強兵」の方が重視された.明治維新をすすめた武士出身の政治家たちはエンジニアリングの共同体を産み出す産婆役を担ったが,それが市民経済にとってどれほど有用なものになるか当人たちが推し量っていたとは思えない.彼らがもっぱら関心を注いだのは,日本を防衛し鉄鋼と蒸気の時代の帝国を征服するための兵站を用意することだった.山村耕造が記しているように:

軍需工場や官営造船所その他の近代工場は西洋の科学技術と技能の吸収・伝播の中心地として非常に効果を上げた(…).[さらに]「強兵」政策と戦争によって(…),造船・機械・工作機械の分野で(…)しばしば資金・技術の両面で悪戦苦闘していた民間企業に需要が提供され,その存続が安泰となった.

明治維新から10年間で,4つの主要軍需工場とその周辺設備,3カ所の官営造船所は,近代式軍隊の必需品供給に全面的に取り組んだ(…).1877年に東京の軍需工場は小火器や大砲の修理設備を整え,さらに爆薬を製造したり,工場で利用するもっと単純な手動機械を製作したりした.それからほんの7年後の1884年,同工場にはベルギー・フランス・ドイツの技師と職長たち,輸入機械,2,094名の従業員がそろい,小火器や弾丸の製造,もっと大きな大砲の修理ができる体制が整っている(…).横浜と築地につくられた海軍の軍需工場もこれに劣らない能力を備えようとしていた(…).

1880年代序盤,いまだ綿織物産業が明治経済に存在感を示していなかった頃に,こうした軍需工場・造船所・周辺設備は全体としておよそ1万人の従業員を雇用していた.一方,木造船を製造する民間の小さな造船所や「いまだにもっぱら『機械時代以前の』機械をつくったり使ったりしていた」工場で働いていた従業員は 3,000名に満たなかった.(…)

輸入した機械を使用する国有の鉱坑・工場がそのまま定着すれば悲惨な事態となったかもしれない.そうした事例は時代と場所を問わず枚挙にいとまがない.だが,日本政府はすばやく路線を変更した.1880年代に,みずからの経営能力を証明してみせた企業に,工業施設を払い下げたのだ.労働力を節約するよう設計された海外の機械に直面した日本の民間部門の起業家たちがとった利発な対応を,アレンは賞賛している――日本では,まだ労働力はきわめて安上がりだった:「日本人は(…)西洋の科学技術の設計をあらためて,自分たちの低賃金経済でコスト効率のよいものに仕立てた.製糸業に携わっていた商家の小野一族は,築地に製糸工場を建設する(…)使用したのはヨーロッパ製品に案を得た機械だったが(…)そうした機械は金属製ではなく木製で,動力は蒸気機関ではなくクランクを回す人力だった.このように西洋の科学技術を仕立て直すのは,「諏訪式繰糸機」にも見られるように,日本で一般的に行われていた(…).」

だが,明治維新期に構造変化は多くなかった.1910年になってもなお,製造業は GDP の5分の1しかしめていなかった.主要産業は織物産業で,あとは茶栽培や手工業だった.1900年代の日本は産業化途上の文明にすぎなかった.

ところが,日本はそれまでに異例なことを成し遂げていた:北大西洋のエリート集団と温暖な気候のヨーロッパからの移住者たちがつくった経済の外部に,工業技術を十分に移転してのけたのだ.

それ以来,政治家・経済学者をはじめとしてありとあらゆる人々が,日本が成し遂げたことはいったいどういうことで,その理由はなんだったのかを明らかにしようと試み続けている.

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  1. 非常に面白いですね。
    日本の大学で近代史を教えている先生より詳しい。
    たとえば自分が習った先生は、
    「富国強兵」や「殖産興業」は言うけれど、
    その中身、具体的に築地に工廠があって2000名を超える工員がいたなんて言わなかった。
    富岡製糸場で女工がひどい目に遭っていたというような「負の側面」が強調されていて、とてもつまらなかった。

    明治時代は、大変な需要を政府主導で作り上げて
    経済成長してきたんだなと思うと
    明治の先人は偉大だなと改めて思いました。

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