「テッド・ノードハウスへのインタビュー:“脱成長”は気候変動への対策とならない」(2021年5月21日)

現代の環境倫理思想のほとんどは、戦後に始まった大量消費への、エリート層による反発です。エリート達は、大量消費社会に対して「誰もができるようになったのだから、それは悪いことに違いない」と考えたのです。どうやってエリート意識を確立し、差別化を図ればよいのでしょう? 1つの方法が、「大衆が食べている食べ物や、大衆が住んでいる郊外の型抜きされたような家は、私たちにふさわしくない。大衆は皆、羊である。我らは創造的で知的で思慮深い前衛階級であり、大衆を未来に導く存在ある」と言うことでした。

Interview: Ted Nordhaus on ecomodernism
Words by Nick Whitaker & Saloni Dattani
by Works in progress Issue 4, 20th May 2021

テクノロジーと環境は、友情関係にあるだろうか? それとも敵対してるだろうか? 本誌のニック・ウィテカーとサロニ・ダッターニが、ブレイクスルー・インスティチュートの所長であるテッド・ノードハウスと、気候政策、活動主義、環境現代主義(エコモダニスト)について幅広い議論を行った。

テッド・ノードハウスは、気候問題に対してテクノロジーによる解決を目指す環境政策シンクタンク、ブレイクスルー・インスティテュートの創設者兼エグゼクティブ・ディレクターであり、“Break Through : From the Death of Environmentalism to the Politics of Possibility(ブレークスルー:死亡した環境主義から可能性ある政治へ)”と“An Ecomodernist Manifesto(環境現代主義者によるマニフェスト)”の著書である。

――気候問題に取り組んでいる活動家達の中には、「脱経済成長」や「人口抑制」をハッキリと、あるいはそれとなく主張する人が多いように思えます。こういった活動家らは、何が正しくで、何が間違えていると思いますか?

脱経済成長や人口抑制の視点は、気候変動の解決策を考える上で間違った方法であるだけでなく、実際には逆効果だと思います。現在、地球上には80億人近くの人がいる現実があるのです。人口増加率は低下していますが、地球人口は最終的には90〜100億人程度になると考えられています。

人口増加が停滞した大きな原動力は、経済成長に他なりません。しかし、「脱経済成長論者」はこれを絶対に認めないでしょう。この総人口の衰退は、数百年前には農村で農耕生活をしていた全人類が、都市に移住し、工業的で近代的な生活様式に移行し始めた時から始まっています。

人口動態の変遷は、人々が農村や農耕地を離れることで、自動的に起こります。都市に移った家族にとって、子供は農作業への使役手段から、人的資本となります。子供の数は減り、子供の将来の福利厚生のために、より多くの資源が投資されることになります。そして、子供達は、教育を受けるようになります。このような推移――子供はもはや必須労働力でなくなり、多額の投資が必要な存在になること――によって、出生率は低下します。実際、世界のほとんど地域で、出生率は低下を続けています。今後の基本的な人口動態ですが、今世紀の後半のどこかでピークに達し、その後は減少に転じることが予測されています。すると、今度は減少が様々な課題を生むでしょう。

農耕地から都市への移行は当時に、様々な種類の資源消費や炭素排出を増加させます。なぜなら、この移行は、物質的な生活水準が格段に向上させるからなのです。近代化のための物質的なインフラには、道路、下水制度、鉄道、近代的住宅などがありますが、これらを導入には膨大なエネルギーが必要とされています。また、人は食物連鎖の上位にいるため、多くのタンパク質を摂取していますが、これも〔資源消費や炭素排出〕に影響力を与えます。

これら全ては、人類発展の観点からは良いことです。おかげで、こうしてZOOMで会話できますからね。他にも、水を汲んできたり、木を集めたり、畑の手入れをする、といった数百年前までだと、人間が労働のほとんどを捧げてきた行為に時間が割かれることがありません。

現代行われている、環境問題の議論に目を向けると、環境保護主義者は、いろんな物事を一緒くたにして処理したがる願望があるように思えます。しかし、これは間違いでしょう。典型的な環境保護主義者は、日常レベルでは農産物の直売所に出向いたり、「私たちはグリーンエネルギーを求めている」と言ったりしています。これは間違いなく可視化されていますよね。ところが、彼・彼女らのほとんどは、「僕たち・私たちはみんなで農場に帰って暮らすべきなんだ」とは言いません。少なくとも、それは避けるべきである、との自意識はまだ持ってるわけです。もっとも、彼・彼女らは支離滅裂な部分も多く抱いています。彼・彼女らは、「テクノロジーでは私たちを救うことはできない」と言いながら、次の瞬間に風力や太陽光発電の将来性について語るわけですから。環境保護団体の中には、ワインを1~2杯飲みながら「う~ん、人口問題について本当に何かしないといけないですねぇ」と言う人が沢山います。

現代の環境倫理思想のほとんどは、戦後に始まった大量消費への、エリート層による反発です。エリート達は、大量消費社会に対して「誰もができるようになったのだから、それは悪いことに違いない」と考えたのです。どうやってエリート意識を確立し、差別化を図ればよいのでしょう? 1つの方法が、「大衆が食べている食べ物や、大衆が住んでいる郊外の型抜きされたような家は、私たちにふさわしくない。大衆は皆、羊である。我らは創造的で知的で思慮深い前衛階級であり、大衆を未来に導く存在にある」と言うことでした。

なので、プラスチック製ストローのような類のあらゆる消費に、多くの道徳的意味が付与されていきました。ビデオゲームはいかなる意味においても環境に悪い、といった言説も存在しています。同僚の一人が、車で片道1時間かけてハイキングに行けば、一日中ビデオゲームをするよりも温室効果ガスを圧倒的に排出することを数字で実証しました。ところが、ハイキングが環境にとってどれだけ悪いのかを、道徳的に語る人はいません。エリート達の環境に関する行動を見てみれば、彼らは地球上で最も資源を消費する人々でありつつ、消費と近代化がいかに酷いかの議論を常に生産していることが分かります。

――人口、経済成長、気候変動などで議論の中心となっているのが「予測」です。これで、気候変動についての「予測」はどのように行われてきたのでしょう? また「気候モデル」についてどのようにお考えですか? 予測において容易な点、あるいは困難な点はありますか?

人類は、モデルについていろいろ議論してきました。何よりも優先されてきた議論が「モデルはどのように成功してきたか」です。過去30年強で2~3度の温暖化を私達は観察してきており、この数度の温度変化を予測するモデルがいろいろ作られたわけですが、これらモデルが「予測に成功してきたかどうか」は真の問題ではないのです。問題となっているのは、「今後50年、60年、70年に渡って、これらモデルが有効であり続けられるか」にあるのです。50~70年の長期の時間軸では、気温変化の観点で、〔一見成功している過去30年予測モデルの微小な温度予測誤差が〕将来の時点での大きな違いとして可視化され始めます。

最新のいろいろなモデルを見れば、〔50~70年後の〕気温上昇は2~5℃となっています。今度のIPCCのレポートでは、〔50~70年で〕二酸化炭素が2倍になった場合の温暖化の範囲を2.0~4.5℃と予測している思われます。これはあまりに大きな振れ幅です。すべてのモデルは、こういった振れ幅を示しています。つまり、現存するモデル群を使って、二酸化炭素の排出量が2倍になったと仮定し、2100年や2070年における「モデルの精度はどうなっているのか?」と問えば、大半のモデルは定義上間違えていることになります。誤差が大きすぎるのです。2℃と示しているモデルも、5℃と示しているモデルも、全て間違えている可能性があるわけです。多くのモデルが間違えているわけですね。

今日のモデルを検証する作業で興味深いのは、最新のモデルは、〔過去の〕単純なモデルより結果が良くないことです。人類は気候科学を40年行ってきましたが、モデルの性能が向上した証拠はありません。温室効果ガスを大気中に放出されれば相当量の温暖化が起こるとの基本的でほぼ確立された物理的原則はあります。そして〔放出によって〕フィードバックが起こるとの証拠は存在しています。フィードバックは、最終的に数倍に増強されるかもしれませんし、逆に抑制されるかもしれません。つまり、大気中の温室効果ガスが2倍になれば、おそらく2~3℃の温暖化が起こるでしょう。この時、フィードバックが抑制されれば、温度上昇は2℃近くなるかもしれませんし、逆にフィードバックが増強されれば上昇は3℃近くなるかもしれないのです。むろん温暖化ガスの排出量自体の推移についても、大きな不確実性が存在しています。

なので、正直なところ、モデルが正しいかどうかという、とてつもなくくだらない議論が延々続いているのです。モデルは間違えているのだろうか? モデルに途絶はあったのだろうか? 途絶はなかったのだろうか? この手の議論は、実際の問題から途絶した別次元からの証拠に基づいて行われています。一方で、活動家コミュニティや、活動家と親しく関わっている科学者達は、十全に理解・確立された科学――「温室効果ガスが増えると温暖化が進む」という事実に、「〔温暖化は〕人類社会に破滅的な影響を与えるだろう」との事実を優先的に混同させているように思えます。しかしこれに、科学的なコンセンサスはまったくないのです。彼らは、〔確立された科学に〕「緑のイデオロギー」や「政治的・政策的アジェンダ」と混ぜ合わせようとしています。他方、保守派や気候変動に懐疑的な人たちは、「不確実性があるのだから、モデルは間違っているだろう。何も分かってないだろうから、何もすべきでない」と言っています。〔何もしないことの〕リスクは間違いなく存在しているのですが、これは数値化できないのです。

気候変動はどれほど過敏なのか。気候変動が実際に人間社会に影響を与える場合、地域や領域の規模がどこまで表出されるのか。これらは何もわかっていません。温暖化において、過去に観察された1℃の気温上昇ではなくて、〔この先〕2~3℃上昇すると想定するなら、それに対して人間社会がどの程度回復力を持ってるかは何もわかっていません。また、本当に温暖化を止めるには、実際に温室効果ガスの排出を根本レベルでゼロにしないといけませんが、それによって、実際のケイパビリティや経済的コストがどのくらいになるのかも分かっていません。最終的に〔排出量は〕ほとんどゼロに近づける必要がありますがね。

――気候モデルにおけるラディカルな技術革新について、もっと良い方法ががあると思いますか?

いいえ、ないと思います。モデルの技術革新自体が大きな不確実性の1つだからです。物理モデルから、気候感度のコスト、気候影響のコスト、気候緩和のコストを考慮した総合評価モデルに移行すれば、モデルは解決不可能な巨大な不確実性を孕みます。これらモデルは、適切に使用されていれば有用かもしれませんが、ほとんどの場合は役に立ってくれません。モデルが教えてくれるのは、〔様々なコスト〕が将来の結果に対していかに過敏であるか、そして現実において過敏であることですね。

モデルは3つのことに過敏です。まず1つ目。温室効果ガスの水準、つまり大気中の二酸化炭素や温室効果ガスの2倍になった場合に、どの程度の温暖化が起こるかの過敏性です。次に2つ目。モデルは「被害指数」と呼ばれるものに過敏です。これは、世界レベルの温暖化がどのような水準であっても、それが人間社会のコストにどのよう転化されるかの指数ですね。そして3つ目が、テクノロジー変化スピートへの過敏性です。

基本的これら3つの要素全てにおいて、不確実性は非常に大きく、これを複雑なモデル化で突き詰めていくと、大抵はでっち上げになってしまうのです。気候感度を選び、被害指数を選び、テクノロジー変化率を選べば、どんな総合評価モデルであっても、好きな結果を引き出すことができます。気候問題を、何も行動を起こす必要がない些事にしたいのなら、気候感度を低くし、被害指数を低くし、テクノロジー変化率を高くします。2030年までに世界全体で排出量を半減させないと温暖化の上昇率は1.5℃を超えてしまう、気候変動は地球滅亡の危機になる、と言いたい場合は、気候感度を高くし、被害指数を高くし、テクノロジー変化率を低くすればよいのです。これで大惨事、つまり絶滅レベルの事象となります。

モデルは、〔温暖化に〕最も過敏に反応する要素は、以上の3要素であるとの事実以上は教えてくれないのです。もっと掘り下げてる人もいますが、結局はこの3要素について、皆で終わりのない議論をやっているだけですね。人によっては「割引率」と呼ばれているものを論じています。これは、経済的な富を、現在と将来の価値でどう評価するかを問う数値です。私は、以下2つの理由から、この割引率を重視したいと考えています。1つ目は、持続的な経済成長を前提とすると、将来の人間社会は現在よりはるかに豊かになるということです。つまり、低い社会的割引率を選択した場合、基本的には、将来の経済成長の悪化を避けるために、現在の経済成長を放棄することになり、放棄の代償を非常に貧しい人に求めることになります。

2つ目の理由は、選好が明示化されることです。「私たちを仮想の立場に置いて」気候変動を止めるようと決めた場合の、割引率をどうするかについて議論することができるわけですね。現実世界を見渡せば、〔仮想の立場に自身を置かずに〕政策立案者も一般市民も非常に高い割引率を選択しています。つまり、〔現状では〕将来の〔温暖化の悪化による〕経済成長の悪化を回避するために、現在の経済成長率を犠牲することに皆消極的です。私達は一般人として、遠い将来のリスクと現在のコストや利益を天秤にかけて、実際に〔割引率の〕決断を下しているわけです。そして、その決断はほぼいかなる時も非常に明白です。すると、環境経済学者や生態経済学者の中には「一般人は間違えている。私のモデルに、非常に低い割引率をインプットしてみれば、2100年の気候変動を食い止めるためには、今日の膨大な資金を使うことが必要とされている」と言う人さえいます。繰り返しになりますが、こういう〔脅し〕は机上の空論です。こんなことをしても、誰も実際に何も行動しないでしょう。

――私たちは、新しいエネルギー源を必要としつつ、既存のエネルギーが安価になるのを求めているように思えます。あなたの見解では、新しいエネルギー源と、既存のエネルギー源、どちらが過小評価されていて、どちらが過大評価されているのでしょうか?

私は長年にわたって、原子力を支持してきました。原子力は、人類社会の長期的な持続可能性のために重要なテクノロジーだと考えています。ただ、現役世代の、原子力発電では、長期的な持続可能性の役割を果たせないでしょう。原子力を愛する人たちは、愛のあまり太陽光や風力を敵視し悪質で幻想だと考えています。ただ私はそうは思いません。これらは、脱炭素社会の実現に向けて、重要な役割を果たすテクノロジーだと思いますね。ただ、この2つのテクノロジーで、すべてを賄うことは到底不可能です。風力や太陽光の可能性を完全に引き出してから、エネルギー技術と(現在化石燃料を使って行われている様々なことに)新しいエネルギーを使うために必要な様々な技術とを区別しないといけません。例えば、バッテリーはエネルギー技術ではなく、エネルギー貯蔵技術です。バッテリーはガソリンやガスのようなエネルギーの運搬体ですね。すると、石炭は、エネルギー源であると同時に、エネルギー運搬体になります。

電気そのものは、さまざまなエネルギー源から生み出されるエネルギー運搬体です。エネルギー生産の面では、あまり多くの〔将来の〕選択肢はありません。〔エネルギー生産の選択肢として〕化石燃料はありますが、私達はこれを排除しようとしています。もっとも、ゼロカーボンの未来に向けて、化石燃料から炭素を回収できれば、化石燃料を使い続けることができるでしょう。バイオマスのように燃焼可能な〔エネルギー〕もありますが、バイオマスが本当にカーボンニュートラルなのかどうかについては大きな議論があります。実際、私達の住む世界において、バイオマスはカーボンニュートラルではないと私は思っています。

また、自然エネルギーの流れの利用する、風力、水力、太陽光、波力といったものがあります。他にも、原子力や地熱といった、地球から生み出されるエネルギーを利用するものもあります。現行だと、フラッキング(水圧破砕法)技術を利用して、流水を地下に送り込み、〔地球深部の熱によって〕流水を加熱し、蒸気発電するアイデアもあります。

しかし、全体的に見て、それほど多くのソースがあるわけではありません。すべてとは言わないまでも、おそらくほぼ全てのソースが必要になるでしょう。私は、炭素回収と原子力のどちらかがなければ、現代の経済を実質的ゼロカーボンにすることはできないと思います。炭素回収と原子力の両方に、他のソースを足すことがおそらく必要になると思います。実現可能な多くのことを行う必要があります。ただ、それでもゼロカーボンの達成は難しいでしょう。

――炭素回収・貯留だけでなく、もっと広範にジオエンジニアリング [1] … Continue reading を追求すべきだろうか、との問題もあります。今後の環境政策において、ジオエンジニアリングは重要な役割を果たすと思いますか?

多くの人がジオエンジニアリングの役割――それが可能であるかどうか、どんな点で実現可能かどうか――について答えを出そうとしているのを私は知っています。緊急事態に備えるために、ジオエンジニアリングがどこまで可能かを明らかすべきでしょう。そのために、何をしなければならないのか、どのようにすればよいのかで、ある程度の把握は必要だと思います。実際には、ジオエンジニアリングの実現可能性は非常に低いと思いますが…。世界の一部は目覚めて、差し迫った大惨事を止めないといけない〔故にジオエンジニアリングが必要である〕、との考えがありますが、これは問題になっていないと思いますね。

ジオエンジニアリングについて私が興味を持っているのは、非常に限定的かつ段階的に使用を始めるやり方です。例えば、地域や地方レベルで年次の気温の変動をスムーズにし、気候を非常に緩やかな水準に安定させるために、わずかな使用は可能かもしれません。これは、何年もかけて試行錯誤しながら、少しずつ学んでいくことができるでしょう。もしかしたら、100年後、200年後に、ある程度の気候の維持したい思った場合にジオエンジニアリングは有効かもしれません。〔現状のような〕炭素排出を続けている場合だと、ジオエンジニアリングの主要目的は、本当に一時的な手段に留まることになります。

想像してみてください。炭素排出がゼロな状態で温暖化が3℃進んだ未来の世界で、〔人類が気候を〕1950年の水準に戻そうと決めたとします。未来世界では、1950年の気候に戻すためにジオエンジニアリングの使用を開始することはできますが、これは常にジオエンジニアリングを行わなければ維持できない気候ではないのです。〔炭素排出のゼロを達成した〕2150年になって、〔短期的目標として〕気候を1950年水準にして安定を図るために、硫黄粒子などを大気中に注入し続け、大気のバランスを維持して、ジオエンジニアリングを利用することは可能です。しかし、持続的に2050年の温度にしたいのであれば、大気中から大量の炭素を除去する必要があります。2100年から1950年の水準に移行する場合だと、炭素の除去量は膨大なものになるでしょう。

なので、私としてはジオエンジニアリングについて、何とも言えません。未来の人類の対処法〔としてのジオエンジニアリング〕について知っておくことは有益だと思います。私はいつも、将来の不確実や複雑性を克服するために、多くの選択肢を確保しておくことは良いことだと考えています。環境保護団体の一部当事者は、ジオエンジニアリングについて議論したり研究したりするだけでもモラルハザードを引き起こし排出量削減に取り組む決意を損なう、との馬鹿げた主張を行っています。炭素除去が、公の場で話題になるようになったのはここ5年のことで、それ以前はどのくらいの量の炭素除去が必要なのかはほとんど関心事に上がっていませんでした。環境保護論者たちは、炭素除去やジオエンジニアリングが話題になる何十年も前から、大惨事が目前に迫っていると喧伝してきましたが、当時の人々が要求していた規模の対策は誰も行いませんでした。もともとのモラルハザード批判は、実は気候変動への適応に焦点を当てて行われていました。

アル・ゴアやビル・マッキベンのような人は今になって「太陽光ジオエンジニアリングの議論はモラルハザードを引き起こしている」と言っていますが、90年代にさかのぼれば、彼らは「気候変動への適応論は、モラルハザードを引き起こしている」と言っていたのです。今では「いや、我々は実際に気候変動への適応に焦点を当てなければならない。気候は変化していくのだから、それに対処しなければならない」と、突如として気候適応がモラルハザードでなくなったのです。実際、「気候変動に適応するために私達がしなければならない全てのことが、気候変動問題への市民の関心を高め、市民の気候変動の緩和要求を高めることになる」と彼らは言うに違いありません。正直なところ、太陽光ジオエンジニアリングや炭素除去に焦点が当てられている限り、本当にモラルハザード論が有効になってしまっていると思います。しかし、これまでのモラルハザード論は、〔モラルハザードを引き起こした〕何の証拠もありませんでした。

――環境への影響を減らすために、炭素税のような政策手段を使う必要があると考える人と、新しい画期的なテクノロジーに焦点を当てるべきだと考える人の間には隔たりがあるように思えます。これは妥当な区分だと思いますか? また、これを先に進める方法はあるのでしょうか?

気候変動に関するほとんどの議論がそうであるように、こういった区分はひどく還元的な議論ですね。まず第一に、「急進的なテクノロジー革新は、政策実現性を担保していない」と仄めかされていますが、むろんそんなことはありません[ニヤリ]。テクノロジー革新がR&D(研究開発)と呼ばれるのには理由があります。単なる研究ではないのです。テクノロジー使用側に立っている人々をかなり厳密に定義して、彼らがR&Dとして想定しているものに実際に目を向けてみても、そこには多くの政策が担保されています。率直に言って、テクノロジーは初期段階では、多くのデモンストレーションと展開導入を伴うことが多いのです。

これ〔テクノロジー解決は政策可能性を担保していないとの批判〕は、過去の環境問題からの遺物にすぎませんし、現代の環境運動がどの時代に由来しているのかを表しています。アメリカとヨーロッパでは、60年代後半から70年代前半にかけて、大気汚染防止法法(Clean Air Act) などの古典的な規制措置によって、〔環境運動は〕基礎的な成果を上げてきました。これは、パイプの端に、スクライバー(気体洗浄装置)や汚染防止技術装置を取り付けて、パイプから出てくるものを規制する措置です。しかし、こういった〔テクノロジー〕では気候変動を解決することはできなかったのです。気候変動は、〔古典的な規制措置とは〕異なる問題だからです。化石燃料は、経済的近代化(社会的・経済的な近代化)の中に組み込まれており、さまざまな形態となって流通しているからです。炭素は、何らかの〔テクノロジー的〕対策をとろうにも、捕獲するのが難しく、膨大な量があります。SOxやNOxなどの古い公害問題とは違うのです。

気候変動とそれにまつわる環境政策のアジェンダを見てみれば、2つの要素から成り立っていることがわかります。1つ目は、70年代に行われた、化石燃料を規制して、化石燃料をなくそうとしたアプローチです。化石燃料は希少性があり、枯渇不足してしまうので、風力や太陽光や電気自動車を使わなければならないというものです。これは気候変動とは無関係であり、歴史的経緯も間違えていたことが明らかになっています。2つ目は、90年代から2000年代にかけてのアプローチで、これは公害防止とは関係ありませんでした。炭素を汚染物質として規制するアプローチで、全環境保護団体がこれに夢中になっていました。

「イノベーション」と「規制」を対立させる議論――今では「イノベーション対〔既存テクノロジーの〕展開導入」と呼ばれていますが、この〔対立議論の内容が推移した〕事実に、主流の環境団体が、当初の議論を、後に歪曲させたのを見て取ることができます。『ブレークスルー:環境主義の死』を私が執筆し、研究所を創設した頃に遡ってみると、私達が言っていたのが、「規制や税によってグローバル経済をゼロカーボンに至らせることは不可能である」とのラディカルな主張でした。アル・ゴアがなんと言おうと、必要なテクノロジーは出揃っておらずテクノロジー革新が大きなネックとなっていたのです。私たちは、規制や炭素税にも役割があるが、根本的に必要とされているのはテクノロジー変化とテクノロジー革新である、と主張していました。すると、環境保護団体の多く人が、「お前達は、研究と開発と言っているだけで、政策については何も語っていない。既存テクノロジーの展開導入を義務付ければいいんだよ」と攻撃してきました。彼ら環境保護団体が主張していのが、既存テクノロジーの展開導入を義務付けるために、炭素キャップや税の利用が必要とされいる、というものでした。私達は、「既存テクノロジーの展開導入者」と対立する「テクノロジーの研究&開発者」のレッテルを貼られました。

しかし実際に、私達が常に言っていたのが、「テクノロジー革新は、公共政策を通じて、テクノロジーの習得学習が可能な規模で展開導入されるべきである」といったものでした。私達の提案への反対派は「〔お前らの提唱〕政策は、必ず失敗する。虜になってしまうからだ。エネルギー省に多額の予算を与えても、彼らはそれを無駄遣いしてしまうだろう。今あるテクノロジーを義務化するだけで良いんだ。そうすれば、もっと優れたテクノロジーが魔法にように湧いてくる」と言っていました。私達はこの議論の勝利しました。15年ほど前にそう〔規制による温暖化対策〕言っていた人たちが、今では「いや、いや、いや、補助金とさまざまな公共投資を使って、今のテクノロジーの展開導入が必要とされているのです」と言うようになりました。なので、皆がグリーン・ニューディールの話をするとき、実際に遡上に上げられているのは、その規模と具体的な方法になっています。
〔訳注:ここは非常に分かりづらいが、ノードハウスらは「地球温暖化に対応するために、規制や税だけでなく公共投資等で既存のテクノロジーを展開導入することで新しいテクノロジー革新を生まねばならない」と産業政策に近い政策を主張していたのに対して、旧来からの環境保護団体は「規制や税だけを手段に、既存のテクノロジーを展開導入すれば良い」と主張していた事実を指しているのではないかと思われる。現状のグリーンニューディール等の大規模な公共投資の実現によって、ノードハウスらは「我々が勝利した」と考えているようである。〕

ある意味で、これは前途有望です。パラダイムシフトはこのように起こるわけですね。今、皆で議論しているのは、バイデンがグリーンインフラとグリーンテクノロジーに数百兆ドルを投資するかどうか、そしてそれが議会を通過させることができるかどうかです。〔バイデンの政策で〕規制の要素はごく一部に留まるでしょうね。炭素キャップや税金のような経済に上限を課すような政策は存在しないようです。

――持続可能性(サステイナビリティ)という概念をどのように考えればよいのでしょうか?

持続可能性は、私自身もたまに使うことがありますが、とても曖昧で手垢のついた概念です。「持続可能性」という言葉が、「人間社会を維持するためには、なんらかの自然の限界がある」と示唆している限りにおいて、私はナンセンスだと思いますね。私達は、この地球上の自然環境を改変し、1万年前、10万年前はおろか、100年前、1000年前でさえも維持できなかったような数の人間を支えてきました。もちろん、人間が利用できるエネルギーの量には理論上の限界がありますが、今はまだその限界には達していません。

安価でクリーンなエネルギーがあれば、結果的に他のすべてを解決することができます。持続可能性に関して、私は別の枠組みを提案したいのです。私達が望んでいるのは、大勢の人間が物質的に快適で豊かな生活を送り、想像力や夢を追い求め、何か良い生活のアイデアを追求できるようになることだと思います。今日ここに座っている私たちからすれば、2100年の平均的な人や誰かが何を望んでいるのかを知ることとや、深い進化的な生態系の遺産をできるだけ維持する方法(これらは常に人間の介在よって形成されており今度もそうであり続けるでしょう)を思いつくのは、非常に困難です。これらの達成は、最終的に、私たちが炭素を除去し、ジオエンジニアリングを行うことで地球を1950年か1850年の気候にすることが意味されているかもしれませんし、マンモスを復活させるかもしれません、グレートバリアリーフを遺伝子操作してそれを温かい海に供給できるようになるかもしれません。他にもあるでしょう。ただ、現時点だと私には分かりません。

私は、未来を生きる人々に、選択肢、選択権、主体性、自らの意思決定を行う能力を与えたいのです。それを「持続可能性」と呼ぶかどうかは分かりませんが、選択肢・選択権・主体性・決定能力を与えることが、後世の人々のために、私達が創り出すべき未来だと思います。これを可能とするには、知識基盤、テクノロジー基盤、財産基盤、資源基盤を構築すれば実現することができるでしょう。私たちは、適時対応でき民主的で、トレードオフの関係にあるものを常にうまく処理できるように機能する制度を保持しているのでしょうか? これこそ、私たちが追求すべき未来だと思うのです。

――エコモダニスト(環境現代主義)運動の次の展開は何ですか?

運動は様々な形で成長していると思います。私はいつも「千の花を咲かせましょう」アプローチをとっています。環境現代主義の中には社会主義者と自由主義者がいて、近代化、発展、成長、テクノロジー、そしてそれらがどう環境に役立つかのかいう点で、健全な緊張感を生んでいると思います。環境現代主義は、非常に発展途上の様々な組織を持っていると思います。ブレイクスルー・インスティチュートはそのうちの一つで、おそらく最初のものでしょう。私たち以外にも、環境現代主義的な活動をしている人や、程度の差こそあれ環境現代主義的な考え方をしている人はもっとたくさんいますし、今後も増えていくことでしょう。私たちの活動について考えた時、私は新興国でこうしたネットワークや制度を構築する能力をもっと高めたいと思っています。そこで、人類と環境の未来のほとんどが決定されることになると思います。

私たちは今、非常な過渡期にあると思います。先進工業国のの政治は様々な形で変化しています。今や、保守主義は、過去40、50年に見られたような姿でなくなっています。興味深いこどに、左派も同じだと思います。この様々な変化が、どのように整理され、環境現代主義がその世界にどのように適合するかはまだ未知数です。

私は誰よりも、バイデンが気候変動に対して何をしようとしているか興味があります。気候変動の問題で、持続可能な連合はありえるのだろうか? トランプ以降の右派政党はどうなるのか? これらがどのように展開するかによって、環境現代主義の作用のあり方も変わってくると思うのです。

画像はUnsplash所属のMarek Piwnickiによるものである。

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1 訳注:「地球工学」とも訳される。二酸化硫黄を待機中に放出することで人為的に温暖化を低下させるような、工学的手法によって地球温暖化に対応しようとするアプローチ。
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