アレックス・タバロック 「ポール・サミュエルソン ~インデックス・ファンドの誕生を後押しした産婆役~」(2011年9月3日)/タイラー・コーエン 「ミルトン・フリードマン ~通貨先物の生みの親~」(2006年11月17日)

●Alex Tabarrok, “Samuelson and the Birth of the Index Fund”(Marginal Revolution, September 3, 2011)


ジョン・ボーグル(John Bogle)がウォール・ストリート・ジャーナル紙に優れた記事を寄稿している。ポール・サミュエルソンならびにインデックス・ファンドの歴史がテーマとなっているが、この話題は、実務に対する理論の貢献を物語るまたとない例の一つだと言えるだろう。

サミュエルソンの論文 “Challenge to Judgment” が私の目に留まったのは、これ以上ない絶好のタイミングだった。Journal of Portfolio Management誌の創刊号(1974年秋号)に掲載されたこの論文で、サミュエルソンは次のような要望を語っていた。「S&P500指数と連動する(自己資金だけが元手の)ポートフォリオを試しに組んでみようじゃないかと手を上げるところが出てきてもよさそうなものだ。やり手と評判のガンマン(ファンドマネージャー)の腕前を測るのに使える大まかな比較対象(ベンチマーク)をこしらえるっていう、ただそれだけのためにも。」

私は、サミュエルソンの「挑戦」に応じないわけにはいかなかった。・・・(略)・・・

ボーグルは、(1976年に)個人投資家向けで初となるインデックス投信「ファースト・インデックス・インベストメント・トラスト」を発足したが、スタート当初は、集まった資金が目標を大きく下回り、失敗同然とも言える状況だった。発足当初に集まった資金は1130万ドル(目標額の10分の1以下)に過ぎず、1130万ドルではS&P500指数を構成している500銘柄すべて(それぞれの銘柄を100株ずつ?)を買うには足りなかったのである。投信の販売を引き受けた証券会社からは「もうおやめになってはいかがでしょうか」とアドバイスされ、ウォール街では「ボーグルの愚行」(“Bogle’s Folly”)をあざ笑う声が聞かれたが、ボーグルはあきらめずに辛抱した。

私が発足したインデックス・ファンドが資金集めに乗り出そうとしているらしいとの噂に対して、メディアで最も熱狂的なコメントを寄せたのはサミュエルソンその人だった。サミュエルソンは、ニューズウィーク誌の1976年8月号のコラムで、かつての自分の「挑戦」に応じる動きが遂に現れたことの喜びを語っている。「予想していたよりも早かったが、私が声に出して語った願い事が叶えられたようだ。どうやら、近々マーケットに参入するらしいのだ。出来上がったばかりのパリパリの設立趣意書によると、そのインデックス・ファンドの名前は、『ファースト・インデックス・インベストメント・トラスト』というらしい」。 このインデックス・ファンドは、資力の乏しい個人投資家にも門戸を開いており、「そのポートフォリオは、マーケット全体(S&P500指数)と連動し、販売手数料も取らず、売買委託手数料は蓄えられ、資産の組み替えの頻度も、運用管理費用(信託報酬)も、できるだけ抑えられるという話だ。・・・(略)・・・そして何よりも大事なことは、ポートフォリオ全体から得られるその時々の利回りの変動をできるだけ抑えながら、平均利回りをできるだけ高めるために、可能な限り幅広い資産に分散投資するところにある」。

・・・(略)・・・S&P500指数との連動を目指して資産を運用している(「ファースト・インデックス・インベストメント・トラスト」の後継である)「バンガード500インデックス・ファンド」の資産残高は、現在のところ総額で2000億ドルに上っており、株式ファンドとしては世界最大規模を誇っている(世界第二位はバンガード・トータル・ストック・マーケット・インデックス・ファンドであり、その資産残高は1800億ドル)。世の投資家たちは、財布の中から持ち金を引っ張り出してインデックス・ファンドに票を投じてきたわけであり、それは今も変わらないのだ。

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●Tyler Cowen, “Milton Friedman, a father of financial futures”(Marginal Revolution, November 17, 2006)


レオ・メラメド(Leo Melamed)が、つい先日(2006年11月16日に)亡くなったミルトン・フリードマンとのエピソードを語っている [1] 訳注;ただし、メラメドの記事はフリードマンが亡くなる前に書かれたもの。

ブレトンウッズ体制の崩壊が確実なものとなった時のことだが、「通貨先物」(通貨の先物取引)のアイデアを支持するかどうかを、フリードマンに直接聞いてみたことがある。フリードマンは、何のためらいも見せずにそのアイデアを気に入り、通貨先物の誕生を知的な面から支えることになる論文を書き上げたのであった。1971年の12月のことだ。その論文は、大労作と呼べるような代物ではなかった。数多くの脚注と、長々とした参考文献リストに彩られた、何百ページにも及ぶ論文という意味での大労作ではなかった。世界を代表するこの経済学者は、語るべきことをわずか11ページの中にそっくり詰め込んだのである。“The Need for Futures Markets in Currencies(pdf)”(「外国為替市場における先物取引の必要性」)と題されたその論文は、「通貨先物」は必需品として受け入れられる可能性を秘めた将来性のあるアイデアの一つであることを、これ以上望めないほどの学術的な信憑性を持って裏付けている。色んな機会にこう語るものだ。『フリードマン教授は、私のアイデアに信憑性を与えてくれました。フリードマン教授がそうしてくれなければ、私のアイデア(「通貨先物」)は現実のものとはならなかったことでしょう』。どうしてそう言えるのかというと、フリードマンの論文を見せさえすれば、政府の役人や銀行の頭取、シカゴ・マーカンタイル取引所を根城とするブローカーたちに、「通貨先物」というアイデアには価値があることを納得させることができたからである。

「フリードマンは、『起業家的な経済学者』(起業家の顔を併せ持つ経済学者)だ」とはタバロックの持論〔拙訳はこちら〕だが、メラメドが紹介しているエピソードはその格好の実例だと言えるだろう。メラメドによるもっと詳しい話はこちらを参照されたい。

伸縮的な為替レート(変動相場制)は実に有効な仕組みだというフリードマンの主張は、今も昔もその通り正しい。しかしながら、フリードマンは、為替レートが時折よくわからない理由で続伸ないしは続落する期間が長引く可能性(為替レートのlong swing現象)を過小評価していた面があり、この点については間違っていたと言えるだろう。しかしながら、そのような可能性(為替レートが時折よくわからない理由で続伸ないしは続落する期間が長引く可能性)があるために、フリードマンが予想していた以上に、通貨先物やオプションがその効果を発揮した面もあり、何ともねじれた話ではある。

(追記)フリードマンの業績に対するマンキュー(Gregory Mankiw)のコメントはこちら、クリング(Arnold Kling)のコメントはこちらを参照されたい。PrestoPunditブログでフリードマン関連の記事のリンクがまとめられているが、例えば、こちらを参照されたい。こちらの記事では、「フリードマンは『大きな政府』の友だった」という誤解を招くような主張が述べられている。この主張の是非については、ロジャー・ダグラス(Roger Douglass)ヴァーツラフ・ハヴェル(Vaclav Havel)をはじめとしたその他大勢に、どう思うか尋ねてみればいいだろう。

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1 訳注;ただし、メラメドの記事はフリードマンが亡くなる前に書かれたもの。
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