サイモン・レンルイス「いまは失敗を批判すべき時ではない?」(2020年4月20日)

[Simon Wren-Lewis, “Now is not the time?” Mainly Macro, April 20, 2020]

このポストは4月19日付 Sunday Times 記事の前に書かれた文章で,あの記事を踏まえて少し書き換えてある.政府がおかしたとくに深刻な失敗は,事態を追いかけて見ている人たちなら誰でも知っていたことだ.この記事では時系列をおいかけるのではなく,なされた失敗の種別に注目する.


「いまはその時ではない」というフレーズは,このところよく耳にする(ただし疑問符なしで).このフレーズを口にしている人たちの全員というわけではないが,いまの政権に共感している人たちがこう言っているのが目立つ.「後知恵で『ああすればよかった』という話をするのはいまではない,それよりも人命を救うことに集中する必要がある」と彼らは言う.

この言い分に一理ある理由はおわかりだろう.リソースは有限だ.私たちにしてみれば,政治家たちには過去の行動(の欠如)で自己弁護を繰り広げるよりはいまなすべきことをやるのに傾注していてほしいところでもある.こういう筋道で考えていくと,「批判することで人命を危険にさらすコストが生じうる」とまで言うようになるかもしれない.

だが,これ以外にも視点はある.そちらの方が,もっと説得力があると私は思っている.もしも,過去の失敗がなされた理由を考えて学ぶ手間を政府がとらないでいたら,また失敗を繰り返す恐れがある.政府はおのずと守りの姿勢をとりがちになるものだ.だったら,こうした失敗は,発生した時点で公に認識されなくてはならない.少しばかりニュアンスを加えた言い方をすれば,もしも過去の失敗が特定の心の姿勢,優先事項どうしの特定のバランスの取り方から来ているのだとしたら,そうした姿勢やバランスの取り方で政府がまた失敗をおかすことにつながるだろう.

過去についていま考えるべき強い理由は,まだある.右派の評論家たちが「都市封鎖の実施を急ぎすぎた」と主張しているのが,その理由だ.(もちろん,こうした主張をする際に,「いまは批判をしている場合ではない」という例の主張が省みられることはない.) 私見では――そして専門家の圧倒的多数の意見でも――こうした主張はナンセンスで,またしても理論にもとづく論拠をもちだすふるまいを繰り返しているのだと見て無視すべきだ(たとえば,ジョナサン・ポーツがここで述べていることを参照).だが,周知のとおり,現政権は,この方面からくる主張にとりわけ左右されやすい

経済を閉めるのをあまりに強く忌避したことが重要な要因となって,イギリスの都市封鎖(ロックダウン)の強制を致命的に遅らせることにつながったのではないかと,強く疑うことができる.2月3日に,首相は自由貿易についてこう述べている:

「コロナウイルスのような新たな疾患が引き金となってパニックが発生し,医学的に合理的な範囲を超えて,現実の経済に不必要な打撃を与える地点にまで市場の隔離を進めたいとの熱望が生まれるリスクがあります.そのような事態が起きた時点で,世界のどこかの政府が少なくとも交易の自由を強く支持する意欲をもち,クラーク・ケントの姿をとっていた国も,眼鏡を外して電話ボックスに駆け込み,力みなぎるスーパーマンの出で立ちとなって,地球上に暮らす人々がお互いに自由に売り買いできる権利の守護者として登場することが,人類には必要となるのです.」

このように国どうしの交易を維持したがる心情が,国内での交易に向けられるとどうなるか,想像に難くない.

もちろん,首相は「医学的に合理的」なことについて語ってはいる.だが,周知のとおり,周りの国々で起こっていたことを政権は無視したし,イギリス科学界の多くの人々が叫んでいたことも無視したし,WHO が推奨していたことも無視したし,「ウイルスを無視して経済活動を継続させてかまわないだろう」という考えを強く支持する算段でいた.

この方針で,どれほどの人々が亡くなったことだろう? 計算方法は何通りもある:そのなかから,ひとつだけ挙げておこう.説得力のある文章だ.だが,さまざまな計算方法がありながらも,結論は同じだ.政府がほんの11日早く検査・追跡・隔離の方針を放棄して都市封鎖を実施していれば,亡くなった人々の大半は救われていただろう,というのが共通の結論だ.ここでいう「大半」とは,だいたい死者のうち 2/3 ~ 3/4 だ.それだけの人々が死なずにすんだということだ.では,なぜ「11日」か.実際に都市封鎖が始まった日から4週間さかのぼった時点で,イギリスで発生しうる死者数の規模についてジョン・エドモンズ率いるチームから政府は警告を受けていた.もし,政府がそこから行動に移っていれば,もっと多くの人たちが救えただろう.

〔都市封鎖の是非について〕「科学〔の見解〕が変わった」と政府が主張するとき,その言葉が本当に意味しているのは,科学者たちのほぼ全員がそろって勧告をするようになって無視できなくなるまで,ずっと待っていたということだ.もっと早くからなにか手を打つよう懇願していたイギリスの科学者たちを,政府は無視していた.イタリアの科学者たちが「我々の失敗をイギリスも繰り返してしまいかねない」と言っていたのも,政府は無視した.経済を保護することよりも人命を救うことを優先する政治家ならば,もっと早くに行動していただろうことは,想像に難くない.それどころか,想像する必要すらない.世界中に,そういう政治家たちも現にたくさんいるからだ.

こんな風に言う人もいるだろう――「ワクチンが登場するまで,政府が途方もない失敗をしたかどうか,たしかなことはわからない.なぜなら,時期尚早な都市封鎖を実施すれば,危険な第二のピークを招きかねないからだ.」 この言い分は成立しない.来るかもしれない次のピークまでの時間に,そのピークを制御できるように準備できるからだ.イギリスがもともと試みていた検査・追跡・隔離がうまくいかなかったのは,うまくいくようにするための十分なリソースも助成支援も投入されなかったからだ.冬までに,次はこうならないように準備を整えることができる.さらに,その態勢が失敗しても,すぐさま再び都市封鎖を行える.これまでの事例に見られる指数関数的な増加の数学から,すばやく二度の都市封鎖を強制すれば,1度きりの都市封鎖を始めるのを数週間遅らせるのに比べて死者数はかならず少なくなる.また,一度きりの都市封鎖を遅れて始めると,その期間が長くならざるをえない.

ここで,政府の失敗をあらためて取り上げる件に話につながる.政府の失敗を取り上げるのは,繰り返さないようにするためだ.イギリスで発生した超過死者数の大半は,政府の不作為によるものだ.経済活動を継続させたいという意向によって,政府が行動をとらない方向に影響がはたらいたのだとしたら,妥当な検査・追跡・隔離の体制がつくられる前に都市封鎖(ロックダウン)が解除されたり,検査・追跡・隔離の体制を機能させるために必要な追加の行動を政府がとらずにおわったりする恐れがある.それどころか,政府がそうしたアプローチをまったくとろうとしない場合すらありうる.

だが,政府がおかした失敗はそれだけではない.第二の失敗は,医師・看護師など病院で働く人々や患者たちにとっても,介護施設に暮らす人々とその介護者たちにとっても,悲惨なものとなった.イギリスがパンデミックに襲われかねないことに政府は気づいていた.2月3日の演説(および他の情報)から,これはわかっている.当時,パンデミックへの対応策として政府がどんな計画をもっていたにせよ,病院や介護施設で予防策をとるのが道理だった:検査能力を拡充し,〔マスクなどの〕個人防護具の需要増加に備え,追加の人工呼吸器を発注するといった準備をとるのが理にかなっていた.

集団免疫戦略をとる場合ですら,集団免疫には体の弱い人々や高齢者を守る狙いがあり,それを可能にするためには彼らを介護している人々がウイルスに感染していないか定期的にふるいにかけなくてはならない.介護者たちには,病院のスタッフと同様に個人防護具が必要だ.当然,必要な人工呼吸器はもっと多くなる.2月にとられた対応は,全面的に不十分だった.それは,のちの出来事が証明している.保健省の高い職位にある人物が匿名で『サンデータイムズ』に語っているとおりだ:

「我々はただ静観するばかりでした.いつでも,パンデミックは全国的なリスクのなかでも最上位に位置づけられています――いつでもです.ところが,いざパンデミックが発生すると,我々はのろのろと事態を注視するばかりだったんです.イギリスはドイツのようにもやれたはずなのに,実際には自分たちの無能と傲慢と緊縮によって破滅的な事態になりました.」

こうした対応不足の結果として介護施設でどれほどの人々がなくなったのか,個人防護具の不足でどれほど多くの医療スタッフが苦しんでいるのか,私にはわからない.いまにいたってもなお個人防護具の供給が不十分だという状況から,この政府がおかした3つ目の失敗が明らかになる.それは,ものごとを正しく行えないという失敗だ.この失敗は,別の失敗に起因するのかもしれない.勘違いした驕りという失敗だ.

驕りは,EU 離脱ですでにおなじみだ.なんといっても,EU 離脱は,現首相の内閣を定義する特徴だ.「EU から離脱してもイギリスはなんら経済的打撃を受けない」という考えは,驕りだった.国民投票で EU にとどまる結果となっていた場合に達していただろう水準に比べて,所得はすでに少なくとも 2% 下回っている.「交渉なき離脱」をイギリスがやれるというのも驕りなら,移行期を延長できないままに継続しているのも驕りだ.David Edgerton が言っているように,〔パンデミック対応の失敗と〕EU 離脱とのつながりは,驕りにとどまらないかもしれない.上記の『サンデータイムズ』記事からは,「交渉なき離脱」の準備のために,パンデミック対応計画と訓練が一部できなくなったらしいことがうかがえる.

おそらく,個人防護具に関する EU の制度から便益をえる機会を1度ならず3度までも無視することになったのも,驕りだろう.「個人防護具は〔一般論として〕不測の事態に対応するのに必要だと考えていた数量あればよく,用心して追加購入すべき理由はない.検査能力の拡充も同様だ」と考えるのにいたったのも驕りだ.静観というアプローチを放棄するまでの彼らの不作為によって人命が失われたのを示すのに2つの研究が必要になったのも,驕りゆえだ.

今回のパンデミックに次の段階で,現政権の失敗ゆえに失われる人命がこれ以上増えないことを願おう.だが,繰り返し失敗した政治家たちの集団を信頼できるだろうか? なにもしないことで数千人の人命を失わせた集団が,今後パンデミックが継続するなかで,数ヶ月にわたってものごとを正しくやれると信頼できるだろうか? 前兆は,よくはない.無策によって数千人もの市民を死に至らしめるなど,およそ政府がなしうる過誤のなかでもとりわけ深刻だ.もっとも安全な道筋は,現政権に,他のもっと有能な人々に道を譲ってもらうことかもしれない.

だが,もちろん,そんなことは起きないだろう.

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