サイモン・レン=ルイス「アマチュア科学者としてのジャーナリスト」

[Simon Wren-Lewis, “The journalist as amateur scientist,” Mainly Macro, November 4, 2017]

ポール・ローマーが2種類の言説についてここで語っている.政治的な言説と科学的な言説の2種類だ.この区別を使って,ローマーはいま経済学者たちがやっている営みのいろんな側面を批判している.ここでは,同じことをジャーナリズムについてやってみたい.

政治的な言説では,味方する陣営が選ばれ,じぶんの陣営にとって好ましいことを推し進めようとする.ちょうど,学校のディベートみたいなもので,こうした議論ではじぶんが押し立てたい視点に都合がいい証拠だけを考慮する.一方,科学的な言説ではそれぞれの証拠をそれじたいとして考慮する.なにかを押し立てようとは狙わずに,証拠にもとづいて評価し,なんらかの結論を導く.だからといって,科学者たちも自説を主張しなくなるわけではない.ただ,そうした主張は,関連するあらゆる証拠を考慮することにもとづいてなされる.いつでも正しい〔じぶんたちの〕陣営,かならず間違ってしまう〔相手の〕陣営,などというものはない.

もちろん,どんな科学者も「どんな証拠が関連してくるか」についてさまざまな取捨選択はやっている.そうした選択は,既存の理論に影響を受ける.理想的には,じぶんが好む理論が新たな証拠を前にして変更されることがありうるわけだが,とはいえ科学者もしょせんは人間であって,長らく支持してきた理論に矛盾する証拠をなかなか受け入れようとしないこともたまにある.ただ,じぶんの名を上げてくれる新しいアイディアを探している若い科学者はいつだっている.科学的方法は時の経過とともに機能する.そのおかげで,今日の我々の状況にあるわけだ.

ここで論じたいのは,「ジャーナリストはアマチュア科学者のようなものであるべき」ということだ.なぜ「アマチュア」かと言えば,ジャーナリストたちの仕事はゼロから始まるのではなくすでにある専門知識を探し出すことで成り立っている部分があるからだ.ジャーナリストたちは科学者とちがって,毎度記事を書くたびに調査・研究するような時間もリソースも持ち合わせていない.よく「調査報道」という言葉が使われるけれど,ふつう,それが言わんとしているのは,ひとつの記事を書くのに何週間かかけるということだ.一方,ここで考えているジャーナリスト像は,1日しか時間をかけられない人たちだ.ここで大事な点は,「調べ物をいっさいしないうちに考えたじぶん好みの筋書きにハマる証拠だけを探そうとするのではなく,証拠で筋書きがかたちづくられていくようにすべき」ということだ.

たとえば,EU 移民とその便益について記事を書こうとしているとしよう.ジャーナリストなら,EU 移民の失業率が生まれながらの国民より低いという点に気づいてしかるべきだ.移民の状態をわるく見せたいジャーナリストなら,「仕事がない移民の数は,ブリストルなみの都市人口に匹敵する」とでも書くかもしれない.こうして証拠を取捨選択することで(生まれながらの国民の数字がどうなっているのかを伏せることで),単純な欺瞞ができあがる:大半の人は,「仕事をもたない」と「失業中」とを混同して,たとえばよろこんで子供の養育をしている人たちも「仕事をもたない」人たちだということを見失ってしまう.

「そんなの当たり前じゃないか」と思う人もいるかもしれない――「少なくとも一般紙の記者として働いているジャーナリストならわかりきったことだろ.」 そういう向きに申し上げれば,上記の例は『テレグラフ』がやった実例だ.これを論じた本ブログのポストでは,『フィナンシャルタイムズ』経済編集者のツイートを引用した.彼に言わせると,あらゆるジャーナリストは(かくいうこのわたくしめも含めて)なんらかの立場をとってその立場を支持する事実を取捨選択しているそうだ.

実は,ジャーナリズムにはさらに3つ目の種類がある.こちらは「曲芸型言説」とでも呼べそうだ.バランスがとれているように見えるようにいつもはげんでいるからだ.「『地球の形状:立場わかれる』型ジャーナリズム」と呼ばれることもある.特定の立場をとっていないように見えるのがその長所だが,この長ったらしい別名からわかるように,まったく科学的ではない.この種のジャーナリズムは,「1週間に35,000ユーロがブリュッセルに流れ込んで NHS に使われているらしい」という主張が「異論含み」だと伝えて,まったくのデタラメだということを伝えない.その点で,情報にとぼしく,誤解を招くタイプのジャーナリズムだ.一方,科学的な報道は情報を提供し,誤解を避ける.この一連のツイートでは,『ニューヨークタイムズ』のとくにひどい実例について Eric Umansky が語っている.もちろん,曲芸型ジャーナリズムの方が安易だし,厄介ごとをさけていられる.

曲芸型ジャーナリズムには,「じぶんがバランスをとりたいと願っている両陣営を定義する」という典型的な特徴をもつ副作用がある.そのため,合意型ジャーナリズムになりやすい.この種のジャーナリズムはどちらかの陣営の政治家によって合意なるものが定義される.それのどこがどう問題なのか知るには,国民投票以降に EU 離脱が BBC によってどう論じられ報道されてきたか見てみるだけでいい.

このポストを書き始めたとき,ちょうどニック・ロビンソンのスティーブ・ヒューレット記念講義をめぐる論争の最中だった.たしかに,あの論争が〔左派系政治ブログの〕The Canary のような団体(機会さえあれば BBC を批判しがちな団体でもある)ばかり取り上げてる一方で,何百万人もの読者に政治報道を送り出している自明な存在を取り上げずにいるのは奇妙ではある.だが,報道メディアで日々議論されているのはそうした一般紙であって,The Canary ではない.左派系ソーシャルメディア・ジャーナリズムの隆盛は,曲芸型ジャーナリズムが副産物としてもたらす合意定義の結果だ.この1年あまりにわたって,曲芸型ジャーナリズムは対立する片方の陣営を労働党指導部ではなく議会指導部だと定義してきた.

おそらく多くのジャーナリストはこう言うのではなかろうか――「ジャーナリストにアマチュア科学者たれというキミのアイディアはいまのご時世では現実的にうまくいかない.ジャーナリストには,時間もリソースもほとんどなきにひとしいんだから.」 だが,私が思い描いているもの(アマチュア科学者としてのジャーナリズム)は,『フィナンシャルタイムズ』が日夜やっていることとそれほど大きくちがわない.放送メディアで同じことをやっているジャーナリストの一例に,クリス・クックがいる.ただ,科学より曲芸にかたむいているといってジャーナリスト個々人を非難するのはまちがいだ.彼らが働いている組織がそうなるよう求めているのだから.

講義につづいてメディアでおきた議論から想像される論調とちがって,ニック・ロビンソンの講義そのものはもっと機微が細かくてずっと興味深い.たとえば,Facebook がニュースを選別する方法の問題点を彼は「これだ」とつきとめている.同じ問題点は,Zeynep Tufekci がこの TED Talk でもっとくわしく論じている.ただ,彼が論じ損ねている自明な存在が2つある:ひとつは前にもここで言及したことのある,ますます政治色を強めている右派系報道機関の役割,もうひとつは科学的ジャーナリズムと曲芸型ジャーナリズムの衝突だ.彼はこの衝突にふれないまま両者を賞賛している.[1]


原註 [1]: 国民投票直前の EU 離脱をめぐる論争で述べたコメントを彼が振り返っているが,そこにこの明らかな実例が見つかる.彼は誇らしげに「35,000ユーロ」の話がデタラメだと語ったと言っているのだが,そのあとこう付け加えている:

「余談ながら,同時に,EU 残留派の主張する『イギリスのあらゆる世帯は〔残留によって〕年間4,300ユーロ得をする』という話も誤解を招くし検証不可能だとも,私は語っていました」

これは最悪の曲芸型ジャーナリズムだ.たしかに BBC は「年間 4,300ユーロ」という数字が「誤解を招く」と考えていた.だが,それもひとえに経済学者に取材しなかったからにすぎない.取材すれば,「いえ,そんなことはないですよ」と言われたはずだ.ここには,よきアマチュア科学者になりそこねた実例がある.だが,それよりわるいのは,こうしてぎこちなくバランスをとろうとすることで,EU 残留キャンペーンの中心的な主張が「1週間に35,000ユーロ」と同類の扱いになってしまう点だ.もちろん,両者は同類ではない.

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