スコット・サムナー「医療について語るレヴィットについて語るクルーグマン」

Scott Sumner “Krugman on Levitt on healthcare” (TheMoneyIllusion, 17 May, 2014)


スティーブン・レヴィットが行った、医療に関するいくぶん馬鹿げた表面的ないくつかのコメントについて、クルーグマンが記事[邦訳]で批判している。デヴィッド・キャメロンとの議論の中で、レヴィットは無償医療を車が無料の市場になぞらえた。当然ながら医療市場は、この比喩には含まれていないいくつかの非常に重要な点において自動車市場とは異なっている。この比喩が役に立たないのではなくて(これはなぜアメリカがこんなにもたくさん医療に支出しているのかを説明するのに役立つ)、それよりも問題なのはこれが議論の出発点に過ぎないのであって、問題を総括するのに有用ではないということだ。

だからクルーグマンはこの点について正しいのだが、次のコメントは読んで私はPCの前で叫びだしたくなってしまった。

アメリカでは,比類ないほど民営化された制度をやっていて,ただ比類ないほど高くついてる [1]訳注;この引用部はoptical_frog氏の訳を使わせて頂いているが、最初の一文だけサムナーの論旨に合わせて少々改めている。 .その一方で,医療の品質を示す指標は全体として,アメリカが質の面で優位にあるなんて示してはいない.これに照らしてみれば,「医療分野で民間市場はひどいはたらきをする」って命題は経験に裏付けられていることが証拠からしっかりと見て取れる.

「比類ないほど民営化された制度」だって?半分近くの医療費支出が政府によってなされている制度が?残り半分の多くは民間とは名ばかりの保険会社によってなされているのに?「民間」健康保険の費用の40%近くが政府の補助金によって賄われていることを思い出してほしい。そしてどの医療行為が保険適用の対象となるかを政府の規制当局が決めていることや、医療産業への参入を政府が統制していることも。これが「比類ないほど民営化された制度」と呼ばれるものだろうか?アメリカとヨーロッパの両方において医療制度は社会化されていて、ヨーロッパ人は私たちよりも制度内の多大な無駄を避けるのに優れているというだけだ。アメリカの「民間」保険と呼ばれるものと「公的」保険制度と呼ばれるものの両方とも、ヨーロッパにおけるものよりも遥かに高くついているのだ。

レヴィットが、賢明な人全てがそうであるように、アメリカの医療制度についても反対していることについてクルーグマンは触れていない(とても大きな見過ごしだ)。この医療制度はほんとうにどうしようもないものなのだ。自動車の比喩は一面において有用だ。もし消費者に対して何かを「無償」にした上で、支出をうまい形で規制しないのであれば、膨大な超過支出がもたらされることとなる。それならヨーロッパの制度は、それほどの過剰支出もなしにどうやって「無償」医療を行っているのだろうか。答えは単純だ。彼らは医療行為を配給しているのだ。そして私たちも同じことをやらなければならなくなるだろう。

本当の選択肢はアメリカの制度とヨーロッパの制度の間にあるのではなくて、人々が自分のポケットから支払うシステム(例えばシンガポール)とそうでない制度(アメリカとヨーロッパ)の間にあるのだ。もちろんながらクルーグマンはそうした類のグラフは見せない。それは彼の主張の正反対を証明するものとなるからだ。シンガポールの医療への支出はずっと少ない。事実、彼はシンガポールを自分のグラフに含めることさえしていない。どうしてなんだろうね?(全ての国がそうであるように、確かにシンガポールも医療費を規制している。しかしそれはクルーグマンのグラフが対象としているところではない。)

自由市場改革について語っているとき、クルーグマンはとても信用が置けない。良い結果などないのにアルゼンチンとメキシコはチリのネオリベラルな改革を採用した、と彼が(2007年に)主張したことを思い出してほしい。彼はナオミ・クライン [2]訳注;反グローバル化の主張で有名なカナダ人ジャーナリスト の本から情報を得ているんじゃないだろうか。

今回のクルーグマンの記事では、次の点にも目を引かれた。

他にも,信念だけによりかかった自由市場原理主義がまた息を吹き返してる様子はあれこれと見うけられる.これについてはこのあとすぐ書くとして,この7年間で世界に起きたことをまるっきり無視して「市場はいつでもいちばんよく知ってる」って考えに舞い戻ろうとする試みの徴候を,このところいくつか目にしてる.

この7年間で世界に起きたことをまるっきり無視する試み?これで私が想起するところはなんだろうか。多分これだ。

ほらまただ。私は笑い、泣き、2006年の完全な再現だと感じた。当局の措置が「住宅ローン信用を緩和する」ことを目指すものとして礼賛する今週の金融情報誌を読んでいる際のことだ。本当のところ起きているのは、銀行や投資家への信じがたいまでの贈り物によって、ファニー・メイとフレディ・マックが今や、ホラー映画さながらに死からの蘇りを公式に完了したということだ。住宅バブル2が自分の近くの近所の映画館で上映されるだろうね。間もなく上映されることを投資家が銀行への道すがらずっと笑っている横でさ。

連邦住宅金融庁の新たな長官であるメル・マットは、月曜日に就任以来初となる公式演説を行い、フレディとファニーを畳み込むという考えは死んだということを明らかにした。実際、住宅販売に潤滑油をたらす両者の役割が高まるということを掲げたのだ。記事の見出しは相次いで、住宅ローンを借りるのが簡単になり、経済にとって何と素晴らしいことだろうかという安堵の息をついた。住宅市場の混乱を作り出すのを手助けした金融ジャーナリストたちの詮索心の欠如と同じもの、すなわち銀行規制当局がいうのだから正しいに違いないというものが、その醜悪な頭を再びもたげ始めている。

(中略)

貸出基準の引き下げ。必要支払い能力の廃止。不採算の貸出を始めた銀行への恩赦。そしてとりわけても、可能なあらゆる手段を用いて停滞する市場と停滞する経済に火をつけるという圧力、及び政府からの青信号、これらは住宅バブルを招いた2001年当時の状況にあった要素全てだ。

おかしなことに、リベラル派のブログ界では大した怒りがあるようには見えない。たぶん金融危機を引き起こしたと進歩派が(2008年に)主張したところの「規制のない」住宅制度を復活させていると非難されているのが、議会とホワイトハウスにいる民主党だからなのだろう。

References

References
1 訳注;この引用部はoptical_frog氏の訳を使わせて頂いているが、最初の一文だけサムナーの論旨に合わせて少々改めている。
2 訳注;反グローバル化の主張で有名なカナダ人ジャーナリスト
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