タイラー・コーエン「統計的差別が社会的に最適ないしベイズ合理的な水準よりも強いのはなぜか」

[Tyler Cowen, “Why statistical discrimination is higher than is either socially optimal or Bayesian rational” Marginal Revolution, August 16, 2018]

制度の中にあるのが軽度の統計的差別だけであるとしよう。統計的差別とは、偏見ではなく、単に特定の仕事で一部の集団が他の集団より成功する確率が高い、という社会的判断だ。たとえば、大多数の人は、女性がNBA(訳注:全米バスケットボール協会のこと。MBAではない。為念)に入れるとは思ってないだろうが、だからと言ってそれが偏見だとは筆者は思わない。

だがここで、さらなる仮定を導入してみよう。世の中には評価の階層が複数あって、各階層の人や組織は、人材発掘者、師匠、指導者として成功していると思われたいと願っている。高校はよい大学に入る学生を育てたい。大学は最高の大学院に入るか最高の職に就く学生に投資したい。会社は、たとえ他社であってもいいから、CEOに昇進するような社員を雇いたい。などなど。そしてこの「ゲーム」には階層が10段階あるとしよう。

各段階には、意図的かどうかはともかく、固有の「統計的差別税」が課せられる。たとえば、CEOの段階では、女性に対する(軽度の)統計的差別があるとしよう。未来のCEOを雇って育てたいと願う会社は、低い地位であっても女性を雇う確率は低くなるだろう。これは意識的なバイアスかもしれないし、違うかもしれない。たとえば、その会社は特定の性格的特徴を持った人を探すことにしていて、その特徴は何らかの理由で女性にはあまり見られない特徴なのかもしれない。そのような会社は単純に、優れた人材を発掘する会社として賞賛されるような決断をするだろう。

大学も同じような要因を考えて判断するだろうし、高校もそうするだろうし…、以下同文となる。均衡状態では、このゲームの10段階すべてにおいて、意識的なバイアスがあるかないかに関わらず、差別せよという神の御心にしたがって、部分的な「統計的差別税」が課せられる。

これは読者にもお馴染みなのではないか? これはミクロ経済学で言う二重/多重限界化のジレンマにちょっと似ている。「差別税」の量は、各段階で累積される。ちょうど中世の貴族たちが運河の通行税を何重にもかけたように。当初の軽度の統計的な差別は、落選に関わるような多数の段階で適用されることにより、突然軽度なものではなくなる。(二重限界化の問題からわかるように、各供給者は、制度内の他のところで貿易の利益に対して課されるマークアップ(つまり「税」)の影響を計算に入れていない)。

だから、制度内の誰もが利己的に行動したとすると、仮に「ベイズ合理的」な統計的差別の水準が5パーセントの割引だとしても、被差別集団に対する実効税率はこれよりはるかに大きくなる可能性がある。

そしてもちろん、このような「税」は、効率はおろか正義にとっても有害なレベルで、被差別集団のやる気を失わせるだろう。

(この議論の役に立つ質問をAnecdotal氏からいただいた)。

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