ダグラス・アーウィン 「1937-38年の景気停滞をもたらした原因は何か?」(2011年9月11日)

●Douglas Irwin, “What caused the recession of 1937-38?“(VOX, September 11, 2011)


このたびの金融危機が1929年-1932年の大恐慌(the Great Depression)を再演するような事態に陥らずに済んだのは、政策当局による迅速な政策対応のおかげだった。しかしながら、1937-38年の再演を避けることはできるだろうか? 世界経済の足取りが再び鈍化する様子を見せている中、本稿では、新たな切迫感を持って「1937-38年の景気停滞をもたらした原因は何か?」という問いに取り組み、1937-38年の景気停滞の原因としてしばしば見過ごされがちな政策決定――1936年12月にアメリカ財務省が行った決定(金の流入をすべて不胎化する決定)――について説明する。

1937-38年の景気停滞は、時に「大恐慌の最中における景気停滞」(“the recession within the Depression”)と呼ばれることがある。1937-38年にアメリカ経済を景気停滞が襲ったのは、大恐慌からの回復が未だ不完全で、失業率が依然として非常に高い水準にとどまっていた時期のことだった。1937-38年の景気停滞は、それまで景気回復基調にあった経済に対して破滅的なほどの規模で冷や水を浴びせることになった。1937-38年の景気停滞下では、実質GDPが11%ポイント低下し、鉱工業生産が32%ポイントも低下することになったのである。1937-38年の景気停滞は、20世紀中にアメリカが経験した景気停滞のうちで(1929-32年、1920-21年に次ぐ)3番目に深刻な停滞だったのだ。

1937-38年の景気停滞の原因としてしばしば指摘されるのが、財政・金融政策の引き締めである。クリスティーナ・ローマー(Romer 2009)をはじめとした幾人かの論者によると、1937-38年の景気停滞は、経済が依然として弱々しい中にあって早まったかたちで景気刺激策から手を引くことの危険性を例証しており、目下の状況にとっても大きな関連を持つ歴史上のエピソードとのことだ。

しかしながら、1937-38年の景気停滞をめぐっては、ちょっとしたミステリーが存在する。景気停滞の原因として頻繁に指摘される2つの政策決定――財政赤字の縮小(財政緊縮)、ならびに、預金準備率をそれまでの2倍の水準に引き上げたFRBの決定――は、実際に観察された規模の生産量の落ち込みをもたらすに足るだけの効果を備えているようには見えないのである。例えば、クリスティーナ・ローマー(Romer 1992)も述べているように、生産量の落ち込みの多くの原因を財政政策の変化に求めるのは「非常に困難であろう」 [1]原注;カリー・ブラウン(E. Cary Brown)のかの有名な論文(Brown … Continue reading。また、預金準備率をそれまでの2倍の水準に引き上げたFedの決定を対象にした研究の大半――最新の研究としては、Calomiris et al(2011)を参照せよ――では、預金準備率の引き上げは、民間の銀行に対してそれほどインパクトを持たなかったと結論付けられている。当時、民間の銀行は大量の超過準備を抱えていたこともあって、預金準備率の引き上げ後に準備預金を積み上げようとする動きは大して見られなかったのである。

「財政緊縮」と「預金準備率の引き上げ」という2つの要因によっては1937-38年の景気停滞を完全には説明できないとなると、一体他に何がそれを説明できるのだろうか? 1937-38年の間に、深刻な貨幣的なショック(monetary shock)が生じたことは疑いない。以下の図1に示されているように、1934年から1936年にかけてマネーサプライ(M2)は年率およそ12%の伸びでコンスタントに増加していたが、1937年初頭に入ると突然その伸びがストップし、同年の後半にはその伸び率はマイナスにさえなっているのである。しかしながら、この貨幣的なショックは、預金準備率の引き上げに起因するものではなく、しばしば見過ごされがちな財務省による1936年12月の決定――金の流入をすべて不胎化する決定――にその原因があったのである。

  図1  アメリカにおけるマネーサプライ(M2);1934-39年

IrwinFig1(1)

1934年1月にドルと金(ゴールド)が金1オンス=35ドルの交換レートで再ペッグされ、アメリカは実質的に金本位制に復帰することになる。マネタリーベースの85%に相当する量の金準備が保有されることになり、金準備の増減に伴ってマネタリーベースも増減することになった。1930年代中頃のアメリカには大量の金が流入し、それに伴って金融政策が緩和されることになった。金の流入に伴う金融緩和は、この間の景気回復を支えた主要な要因であった――この点については、Romer(1992)を参照せよ――。

しかしながら、ルーズベルト政権がインフレの加速を懸念し始めるや、財務省は1936年12月に金の流入をすべて不胎化する決定を下した。金が流入してきてもFedが供給する準備預金が自動的に増えないように――準備預金が増えると、やがてマネタリーベースやマネーサプライの増加につながる――、新たに流入してきた金を休眠勘定(inactive account)に繰り入れるようにしたのである [2] 訳注;金不胎化政策の具体的な手続きについては、Irwin(2011)のpp. 254を参照のこと。。その結果として、金の流入にもかかわらずマネタリーベースは増加せずに、一定の水準に保たれることになったのである。

1937年の春になると景気が鈍化し始め、秋には景気停滞下にあることが一目瞭然となった。1938年2月に財務省は誤りを認めて、金を不胎化する政策を取り止めることを決定した。1938年4月に財務省は出口戦略に乗り出し、「休眠中の」金準備の非不胎化を始める――「休眠勘定」に繰り入れられていた金をFedが保有する金準備に振り替えて、Fedに準備預金を拡大させる――ことになる。そして1938年6月に景気回復が始動することになったのである。

金不胎化政策がマネタリーベースに及ぼした効果は、以下の図2に示されている。図2によると、1934年から1936年にかけて、金準備もマネタリーベースも一貫して増加していることがわかる。しかしながら、1937年に入ると、金準備はそれまで同様に増加し続けているものの、金不胎化政策のためにマネタリーベースは一定の水準に保たれることになった。不胎化されなかった(Non-sterilized)金準備 [3] 訳注;マネタリーベースの裏付けとして利用できた金準備は、1938年4月に財務省が金準備の非不胎化に乗り出すまで一定の水準に保たれることになったのである。

 図2  アメリカにおけるマネタリーべースと金準備;1934-39年

「金不胎化政策」と「預金準備率の引き上げ」がそれぞれマネーサプライに対して及ぼした効果は、次のように分解して考えることができるだろう。すなわち、金不胎化政策は、マネタリーベースに対する作用を介してマネーサプライに影響を及ぼした一方で、預金準備率の引き上げは、貨幣乗数に対する作用を介してマネーサプライに影響を及ぼすことになったと考えられるのだ。私が執筆したばかりの論文によれば(Irwin 2011)、1937年にマネーサプライの伸びに生じた急ブレーキを説明する上では、貨幣乗数の変化よりも、マネタリーベースの変化の方がずっと重要であったことが見出されている [4] … Continue reading

1937年の後半から1938年の中頃にかけて、アメリカへの金の流入がストップ(停止)することになったが、この事実についても簡単に説明しておこう。金の流入が突然ストップした原因の一部は、ルーズベルト政権が景気後退に対処するために再度――1933年の初頭に、大恐慌から抜け出すために実施されたのと同じように――ドルの切り下げに乗り出すのではないかと投資家らが恐れを抱いたためだった――当時の金融市場では、「一度だけ僕をだましたなら君の恥、二度も僕をだましたのなら僕の恥」(“Fool me once, shame on you, fool me twice, shame on me”)との見解が広がっていた――。しかし、1938年9月にヒットラーがチェコスロバキアに領土の割譲を要求した――いわゆる「ミュンヘン危機」――のがきっかけで、ヨーロッパで戦争が勃発することになるのではないかとの恐れが広がるようになると、再びアメリカへ向けて金が大量に流入し始めることになったのである。

過去の過ちを避けるつもりであれば、過去の過ちの中身について正確に評価することが重要だ。1937-38年の景気停滞があそこまで深刻になった原因は、「財政緊縮」や「預金準備率の引き上げ」のせいではなかった。その原因は、財務省が決定した「金不胎化政策」にあったのであり、金の不胎化に伴って生じた「貨幣的なショック」は決して穏やかなものではなかった。金不胎化政策の結果として、マネタリーベースの伸び率はゼロ%にまで落ち込むことになったのである。Fedに対して大恐慌下における稚拙な政策運営を叱責する非難の矢が向けられることがあるが、こと1937-38年の景気停滞下において生じた貨幣的なショックに関しては、その責任は財務省にあったのである。

1937-38年の景気停滞はとうの昔の出来事ではあるが、このエピソードは今もなお、政策への教訓を投げ掛けている。景気回復の足取りが鈍いにもかかわらず、インフレーション――今と同じように、1937-38年当時もインフレ率は極めて低かった――に対する予防的な金融引き締め(pre-emptive monetary strike against inflation)に乗り出せば、その結果として破滅的な景気停滞がもたらされかねない。1937-38年の景気停滞は、そのような教訓を示唆しているのだ。

<参考文献>

●Brown, E Cary (1956), “Fiscal Policy in the ‘Thirties: A Reappraisal(JSTOR)”, American Economic Review, 46: 857-879.
●Calomiris, Charles W, Joseph Mason, and David Wheelock (2011), “Did Doubling Reserve Requirements Cause the Recession of 1937-1938? A Microeconomic Approach”, NBER Working Paper No. 16688, January(ungated版はこちら(pdf)).
●Irwin, Douglas A (2011), “Gold Sterilization and Recession of 1937-38(pdf)”, Working paper.
●Romer, Christina D (1992), “What Ended the Great Depression?(pdf)”,Journal of Economic History,52:757-784.
●Romer, Christina D (2009), “The Lessons of 1937”, The Economist, 18 June.

References

References
1 原注;カリー・ブラウン(E. Cary Brown)のかの有名な論文(Brown 1956)では、生産量の落ち込みのうちで財政政策の変化によって説明できる割合は、4分の1以下であると結論付けられている。
2 訳注;金不胎化政策の具体的な手続きについては、Irwin(2011)のpp. 254を参照のこと。
3 訳注;マネタリーベースの裏付けとして利用できた金準備
4 訳注;つまりは、1937年にマネーサプライの伸びに急ブレーキをかけた要因としては、(マネタリーベースに影響を及ぼした)金不胎化政策の方が、(貨幣乗数に影響を及ぼした)預金準備率の引き上げよりも重要だったということ
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