ピーター・ターチン「ロシア革命の意義」(2017年11月7日)

The Significance of the Russian Revolution
November 07, 2017 by Peter Turchin

今日は、ロシア十月革命の百周年記念日だ。ボリシェヴィキによって率いられた、暫定政府への武装蜂起は、1917年11月6・7日(ユリウス暦では10月24・25日)に始まり、翌日夜の、冬宮 [1]訳注:ウィンター・パレス、冬宮殿とも呼ばれる、ロシア皇帝が冬季に滞在していたネバ川沿いにあった宮殿。 への襲撃でクライマックスに達している。

十月革命は、まさに地球規模の意味を持つ出来事、『世界を揺るがした10日間』であった。まず、壊滅的な影響をロシアにもたらしている。1917年の2つの革命(二月革命と十月革命)は、血塗られた内戦であり、スターリンの独裁体制を確立させ、ロシア社会に甚大な犠牲を課した。犠牲は、人口動態的なものであり(何千万人もの人々が、殺害され、飢餓と病気で死亡し、労働収容所への収監と移住を強要されている)、文化的なものでもあった(例えば、ロシア正教への弾圧による帰結)。

革命は長期的な影響をもたらしたが、全てが否定的な影響だったわけではない。崩壊寸前のロシア帝国を、ソビエト連邦へと変貌させ、1945年以後、ソ連は2つの超大国内の1つとなっている。最も重要なのが、ロシアは、革命前には第一次世界大戦期の敗戦国の1つであったが、第二次世界大戦はソ連が勝利したことである。この勝利は、私の両親や祖父母の世代に甚大な犠牲を強いたが、私の世代はその犠牲の恩恵を受けている。実際、もしドイツが勝利していたら、私は科学者になれなかっただろう――良くても、私の世代は、文盲の農奴として、ドイツ人の大領主に捧げられていただろう(これは誇張ではない。ウィキペディアの記事をチェックして欲しい)。祖父母の犠牲と引き換えに、私達の世代(1960~70年代に育った世代)は、後から見てみれば、20世紀中の最も幸せな(そして最も健康的な)世代となっている。1970年代後半にソ連から追放された反体制主義者の息子 [2]訳注:ターチンのこと。ターチンの父親は、ソ連内で反体制の自由主義運動を行ったことで、ソ連を追放されている。 による評価としては、奇妙に聞こえるかもしれない。しかしながら、これは私の主観的な記憶だけに基づいているのではなく、「住民の幸福」に関する客観的データによっても裏付けらている。

1917年10月の影響は、ロシアを超えて、国外へも大きく波及している。ロシア革命は中国の共産主義者達を鼓舞しており、アジアで最も重要な(そして、おそらくだが21世紀の後半において世界で最も重要な)国家を変貌させている。中国革命は、最終的に、100年に及ぶ国家崩壊期を終息させ、中国を世界の大国の地位に押し上げている。むろん、今日においては、「中国共産党」の実態は「中国資本主義党」かもしれない。それでも、中国の王朝交代期において、清王朝の後を継ぎ、現在君臨する「紅の王朝」を誕生させたのは、中国革命に他ならない。

1917年の革命は、アメリカに、間接的ではあるが重要な影響を与えているが、あまり評価されていない。私はこの論題を、“Ages of Discord(不和の時代)”の中で扱っている。手短に言えば、「“労働者第一主義の国”の脅威は、アメリカの支配者層に、ニューディール期における一連の改革(経済成長の果実を、資本家と労働者の間で平等に分配されるよう保証する改革)の採用を強要させる重要な役割を果たした」ということだ。従って、第二次大戦後のアメリカの繁栄は、間接的ではあるが、ロシア革命の強力な帰結である。

最後に、1917年の革命は、第二次大戦後のヨーロッパを変貌させている。ヨーロッパ(とドイツ)を東西に分割させたのだ。しかしながら、この分裂はまた、西ヨーロッパを統合させてもいる。ソビエト帝国の東側への進出がなかったなら、ヨーロッパの統合プロジェクトがここまで進んだかとうかは疑わしい。そして、ソビエト帝国が消滅すると、欧州統合もほころび始めている。このブログで詳しく書いてきたように、現代のヨーロッパが崩壊傾向にあることには複数の原因がある。そして、崩壊の複合的要素の中でも、ソ連と、ソ連が引き起こした革命は、重要要因になっている。

References

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1 訳注:ウィンター・パレス、冬宮殿とも呼ばれる、ロシア皇帝が冬季に滞在していたネバ川沿いにあった宮殿。
2 訳注:ターチンのこと。ターチンの父親は、ソ連内で反体制の自由主義運動を行ったことで、ソ連を追放されている。
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