ブランコ・ミラノヴィッチ「『資本主義だけ残った』の著者が明かす四つの重要な裏テーマ」(2019年9月24日)

Capitalism, Alone: Four important–but somewhat hidden–themes
Tuesday, September 24, 2019
Posted by Branko Milanovic

〔訳注:本エントリで紹介されているミラノヴィッチの書籍“Capitalism, Alone”は、『資本主義だけ残った――世界を制するシステムの未来』〔西川美樹訳、みすず書房、2021年〕として邦訳出版されている〕

この記事では、私の著書“Capitalism, Alone”から、重要だが、すぐには見えてこないであろう四つのテーマを解説する。本記事ではやや抽象的で哲学的な問題を手短に解説しているが、書籍の方は読者やレビュアーの関心を引きそうな、もっと話題性のあるテーマを多く含んでいる。

裏テーマ(1):資本主義は現代における唯一の生産様式である

イギリスが主導した前回のグローバリゼーションの最盛期には、世界は資本主義と、労働者の隷属化に特徴を持つ様々な封建制度、あるいは封建制に近い制度によって共有されていた。1848年にオーストリア=ハンガリー帝国で強制労働が廃止され、1861年にロシアで農奴制が廃止され、アメリカでは1865年に奴隷制が廃止され、ブラジルでは1888年になってようやく奴隷制が廃止されたが、インドでは土地に縛られた労働が存続し、中国でもインドほど過酷ではないが土地に縛られた労働が存続していた。その後、1917年以降になってから、資本主義は共産主義と世界を共有することになった。共産主義は、ピーク時には世界人口のほぼ三分の一を占めていた。資本主義が生産の組織化において、優位な制度であるだけでなく、唯一の制度となったのは、1989年以降のことである(本書の第1章)。

裏テーマ(2):共産主義の世界史的役割

資本主義(という社会を組織する「経済」的な方法)が世界中に存在しているからといって、「政治」体制がどこでも同じように組織されるとは限らない。政治体制の起源は非常に異なっている。中国やベトナムでは、共産主義は「固有の資本主義」を導入するための道具であった(後述)。このように、資本主義の「起源」、つまり資本主義の「成立過程」が各国で異なることが、今日、少なくとも二種類の資本主義が存在する理由を明らかにしている。私は、地球全体を覆い尽くす単一の資本主義が存在するとの考えには疑いを持っている。

起源の違いという点を理解するためには、世界史における共産主義の役割の問題、つまり20世紀をどう解釈するか(ヒストワール・レゾネ [1]histoire raisonee … Continue reading )から始める必要がある(第3章、付録A)。

20世紀を物語るには、主要な方法が二つある。自由主義とマルクス主義である。いずれも、ロシアの哲学者ベルジャーエフの用語でいうところの「エルサレム」〔ゴールは同じでも、それぞれにとってその意味合いは異なる〕を目指す考え方である。両者ともに、世界が後進国から先進国へと発展し、「豊かな社会」に至ると考えている点では同じだ。ただ、終着点を自由資本主義と民主主義とするか、共産主義とするかに違いがある。

どちらの物語も、20世紀を解釈する上で大きな問題を抱えている。自由主義的な物語では、第一次世界大戦の勃発を説明できない。第一次大戦は、資本主義の普及、(平和的な)貿易、国家や個人間の相互依存など、表向きは紛争を嫌う自由主義的な主張からすれば、決して起こってはならないことであり、また、当時の先進資本主義諸国全てを巻き込んだ最も破壊的な戦争は絶対に起こらないはずである。第二に、自由主義的な物語は、ファシズムと共産主義を本質的に自由民主主義への道における「過ち」(袋小路)として扱い、なぜこの二つの「過ち」が起こったのかという理由をあまり説明しない。このように、戦争の勃発と二つの「袋小路」についての自由主義的な説明は、個々の主体や特異な出来事の役割を強調した、その場しのぎのものが多い。

第一次世界大戦(資本主義の最高段階としての帝国主義)とファシズム(弱体化したブルジョワが左翼革命を阻止しようとした試み)の両方の説明において、マルクス主義的な20世紀の解釈の方がはるかに説得力がある。しかし、マルクス主義の見解では、1989年の共産主義体制の崩壊を全く説明できず、したがって、世界史における共産主義の役割を説明することができない。厳格なマルクス主義の世界観では、共産主義の崩壊は、権利を求めてブルジョア革命を経験した封建社会が、突如「退行」して農奴制と三階級の身分制度を復活させたかのような説明がつかない忌まわしい出来事である。そのため、マルクス主義は20世紀の歴史を説明するのを諦めた。

〔マルクス主義が〕これを説明するのに失敗した理由は、社会経済の形成が継承されることに関して、標準的なマルクス主義の枠組み(私が西側発展経路〔WPD、the Western Path of Development〕と呼んでいるもの)と、貧しい国や植民地化された国の〔経済発展の〕進化とを、マルクス主義が意味のある形で一切区別していなかったことにある。古典的なマルクス主義は、WPDがどういった場合に適用できるかを真剣に問うことはなかった。貧しい国や植民地化された国は、先進国の発展に時間差を伴って追随するだけであり、植民地化や帝国主義の実践によって、自国の社会を資本主義化すると〔古典的マルクス主義では〕考えられていた。これは、アジアにおけるイギリスの植民地主義の役割に対するマルクスの明確な見解であった。しかし、植民地主義は、このような世界的な任務を果たすにはあまりにも弱く、香港、シンガポール、南アフリカの一部など、〔経済が〕自己完結型の小規模領域でのみ資本主義を導入することに成功した。 [2]マルクスの発展段階論に基づけば、搾取的な植民地政策は結果的に、世界規模で植民地を資本主義に発達させるはずだった。

植民地化された国々において、社会的・民族的解放の両方を実現させたのが、共産主義の世界史的な役割であった(先進国では民族的解放の必要性がなかったことに注意)。両方の革命を成功させることができたのは、共産主義政党か左翼政党だけであった。民族革命は、政治的な独立とイコールとなっていた。社会革命は、経済成長を抑制する封建的な制度(法外な高利を取る地主の力、土地に縛られた労働力、男女差別、貧困層への教育機会の欠如、宗教の道徳的堕落など)の廃止を意味していた。こうして、共産主義は〔WPDによる西洋式の資本主義ではなく〕「固有の資本主義」を発展させる道を開いたのである。共産主義は機能的には、植民地化された第三世界の社会では、西洋で国内ブルジョアジーが担ったものと同じ役割を果たした。「固有の資本主義」は、封建的な制度が一掃されて初めて確立されるからである。

共産主義を簡潔に定義すれば以下となる:共産主義とは、後進国や植民地化された社会に封建制を廃止させ、経済的・政治的独立を取り戻させ、「固有の資本主義」を構築させた社会システムである。

裏テーマ(3):資本主義の世界的な支配は、倫理的に問題のある人間の特性のおかげで可能になった(そして、資本主義は逆にその特性を悪化させている)

(モンテスキューが示したように)商業化と富の更なる拡大は、多くの点で私たちのマナーをより洗練させたが、(マンデヴィルが示したように)この洗練は伝統的に悪徳とみなされてきたもの、すなわち快楽、権力、利益への欲望を利用して行われてきた。悪徳は、超商業的な資本主義が「生まれる」ために必要なものでありつつ、〔逆に〕資本主義によって支えられてもいる。(スミスとヒュームが示したように)哲学者たちが悪徳を認めるのは、それ自体が望ましいからではなく、悪徳の限定的な行使を認めることで、物質的な豊かさというより大きな社会的利益を達成できるからである。

しかし、超商業化された世界で許容される行動と、正義、倫理、恥、名誉、メンツといった伝統的な概念との間には、偽善に満ちた隔たりがある。金銭を代償に、言論の自由を放棄したり、上司に面従腹背することは、公然と許容はされていない。そのため、事実を、嘘や現実否認で隠蔽する必要が生じる。

本書(第5章)より。

「生産と分配を組織化する最高かつおそらく唯一の方法としての資本主義の覇権は、まさに絶大であるかに見える。これに挑むものはまだ見えてこない。資本主義がこの立場を獲得できたのは、利己心や財産の所有欲に訴えかけることで人びとを組織化し、分散したかたちで富を生みだし、地上の人間の平均的生活水準を何倍も高めたることができたからだ——ほんの1世紀前までは空想話にすぎないと思われていたことだ。

だがこの経済的な成功は、もっと良い暮らしを送り、もっと長生きできる一方で、それに比して道徳のみならず幸福すら増えることがないといった矛盾をさらに深刻なものにした。物質的に豊かになればなるほど、人々のお互いに対する態度や行動はより良いものになった。基本的なニーズ、またそれを遥かに超えるものが満たされれば、ホッブズのいう「万人の万人に対する闘争」に従事する必要もなくなった。人々の態度はもっと洗練されたものになり、人々はもっと思慮深くなった。

ところが、外側に磨きがかかったのと引き換えに、多くの日常の個人的な物事においてすら、人はますます私利私欲でのみ動くようになってきた。資本主義があまねく成功し成功したことの証ともいえる資本主義の精神は、人びとの私的生活に深く浸み込んだ。家庭生活や親密な関係にまで資本主義が広がったのは、犠牲や思いやり、友情や家族の絆といったものに対する数世紀にわたる考えとは相容れないことだった。だからこそ、こうした規範のすべてが利己心に取って代わられたことをおおっぴらに認めるのは容易ではなかった。この居心地の悪さが、偽善のはびこる余地を広く生みだした。かくて資本主義が目に見えて成功をおさめるにつれて、私たちの私的生活に、半端な真実(ハーフ・トゥルース)〔意図的に真相の一部しか明かさない説明〕がはびこるようになったのだ。」

裏テーマ(4):資本主義のシステムは変えられない

超商業的な資本主義の支配が確立されたのは、我々が永続的に自身の物質的条件を改善し続け、より豊かになり続けたいという欲求を持っていたからである。そして資本主義はこの欲求を最大限に満たす。その結果、金銭的な成功を頂点とする価値体系が形成された。お金を「信仰」すれば、他の伝統的で差別的なヒエラルキーの要素を排除することができるので、多くの意味で望ましい進化を遂げたのである。

資本主義は、その存続のために自ら成長し、常に新しい分野や新しい製品を生み出して拡大していく必要がある。しかし、資本主義は外部のシステムとして私たちの外に存在するのではない。個人、つまり私たちが、日常生活の中で資本主義を生み出し、資本主義に新たな活動の場を提供している。その営みのあまり、我々は家を資本に、自由な時間を資源に変えてしまった。このように、(以前は非常に私的であった活動を含め)ほとんどすべての活動が異常なまでに商品化されたのは、金銭獲得を頂点とする価値体系が内在化されたためである。そうでなければ、今のところ商品化可能なものはほとんどすべて商品化されていないだろう。

資本主義が拡大するためには「強欲」が必要である。強欲は私たちに完全に受け入れられている。経済体制(economic system)と価値体系(system of values)は相互に依存しており、また相互に強化し合う。私たちの価値体系は、超商業化された資本主義の機能と拡大を可能にする。そうすると、経済体制の変化は、それを支える価値体系の変化なしには考えられない。その価値体系の変化も、経済体制によって促進され、その〔変化した〕価値体系によって、私たちは日々の活動の中、快適に過ごしている。このような価値観に変化をもたらすことは、今のところ絶対に不可能と思われる。以前にも試みられたことはあるが、最も不名誉な失敗に終わった。私たちは資本主義の中に閉じ込められている。そして、私たちは日々の活動によって資本主義を支援し、強化しているのである。

〔訳注:本サイトの『資本主義だけ残った』に関するエントリは以下となっている。
ブランコ・ミラノヴィッチ「『資本主義だけ残った』:フランス語版出版に際して、マリアンヌ紙によるインタビュー」(2020年9月11日)
ブランコ・ミラノヴィッチ「『資本主義だけ残った』:ブルガリア語版出版記念インタビュー」(2020年12月26日)
ブランコ・ミラノヴィッチ「『資本主義だけ残った』ギリシャ語版出版記念インタビュー」(2021年1月16日)
ブランコ・ミラノヴィッチ「『資本主義だけ残った』よくある批判への回答:アリッサ・バティストーニの書評について」(2021年5月14日)
ブランコ・ミラノヴィッチ「『資本主義だけ残った』世界の芸術家の役割」(2021年2月8日)
ブランコ・ミラノヴィッチ「『資本主義だけ残った』 いくつかのマルクス主義的論点:ロマリック・ゴダンの書評への返答」(2020年10月4日)

References

References
1 histoire raisonee ヒストワール・レゾネ。社会的文脈の中での個人への関心と、歴史的に不可欠な文化や関心の記述を特徴とする17世紀フランスで生まれた歴史書のジャンル。
2 マルクスの発展段階論に基づけば、搾取的な植民地政策は結果的に、世界規模で植民地を資本主義に発達させるはずだった。
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