マイルズ・キンボール 「自然状態における所有権」(2017年9月24日)

●Miles Kimball, “John Locke: Property in the State of Nature”(Confessions of a Supply-Side Liberal, September 24, 2017)


実は私は、「イーグルスカウト」〔日本語版ウィキペディアでの説明はこちら〕の取得者の一人だったりする。母親に尻を叩かれて、仕方無しにボーイスカウトに入団したのだが、最終的には「イーグルスカウト」の称号を手にするまでになったわけだ。ボーイスカウトも最近になって、ホモフォビア(同性愛嫌悪)の姿勢を見直した(同性愛者の入団を認めるようになった)ようで、今後は堂々と「私はイーグルスカウトの取得者です」と宣言できようというものだ。

ボーイスカウトに所属すると、キャンプをしたり、ハイキングに出かけたりする機会が多くなるが、それは同時に、ジョン・ロックが言うところの「自然法」が適用される場に巡り合う機会が多いことも意味することになる。みんなで連れ立って道を歩いていると、目を引く物体が落ちているのに気付く。その物体を誰かが拾う時に、ジョン・ロックが言うところの「自然法」が適用されることになるのだ(ただし、道に落ちている物体を拾うのが法律(実定法)で禁じられていないことが前提なのは言うまでもない)。一人の少年(A君)が綺麗な石ころを拾ったとしよう。A君が拾うまでは、その石ころは「彼(A君)のもの」ではなかったわけだが、別の少年(B君)がA君の手から石ころを無理矢理奪い取ったとしたら、その後にはどんな展開が待っているだろうか? 「B君が僕の石ころを盗んだ」。A君はそう訴えることだろうし、周りにいる他の少年たちもA君に味方することだろう。

道に落ちている物体に対する所有権を主張できるのは、その物体を一番最初に見つけた人物だろうか? それとも、一番最初にその物体を手にした(拾った)人物だろうか? ボーイスカウトの団員たちの間では、そのような問いを巡ってしばしば論争が繰り広げられる。その答えやいかに? 大抵のケースでは「一番最初に見つけた人物」に分がある、というのが私の考えだ。その理由は? 『何らかのモノに対する所有権の帰属を左右するのは「労働」なり』というジョン・ロックの見解に沿うように思われるからだ。「労働」の主要な部分が(誰よりも早く)「見つける」こと(あるいは、「それ僕の」と真っ先に所有権を主張すること)によって占められているようであれば、その物体を「見つけた」段階で所有権を確定するに十分ということになるだろう。その一方で、「見つける」だけでは不十分で、それに加えて、地面から「拾い上げる」という努力が費やされることがどうしても必要というケースもあるかもしれない。その場合は、一番最初に拾った人物に分があることだろう。

「天然の恵み」に「労働」を付け加えた人物にその「所有権」が帰属する、というのがジョン・ロックが『統治二論』の中で表明している原理だが、詳しくは、以下に引用する『統治二論』「第二編 市民政府について」(第5章 「所有権について」)の第28節を味読されたい。

ナラの木の下に落ちているドングリを拾って食べた人物にしても、森の中に入ってリンゴを木の枝からもぎ取って食べた人物にしても、天然の恵みを自分一人で独占したことになる。彼がドングリなりリンゴなりを食べて得た栄養が彼のものであることは、誰も否定できない。さて、問うとしよう。ドングリなり、リンゴなりが「彼のもの」となったのはいつ? 胃の中で消化が始まった時? 口に入れた時? 食べるために煮た時? 家に持ち帰ってきた時? それとも、拾った(もぎ取った)時? 彼がドングリを拾った(リンゴをもぎ取った)段階では、そのドングリ(やリンゴ)はまだ彼のものではないなんてことになれば、その後に続くどの段階でも、ドングリ(やリンゴ)は彼のものになりようがないことは明白である。拾うという労働が、「彼のドングリ」と、「みんなのドングリ」(全人類の共有物)との間に区別を設けることになる。拾うという労働によって、万物の母たる自然が授ける以上の何ものかがドングリに付け加わり、それがために、そのドングリは彼の私有財産となったのである。「彼は、そのドングリ(やリンゴ)に対して何らの権利も有しない。彼は、そのドングリを盗んだも同然だ。というのも、そのドングリを自分のものにするにあたって、他のみんな(全人類)から同意を取り付けていないのだから」。そのように異を唱える者が出てくるだろうか? 全人類の共有物を独り占めするのは窃盗行為。そういうことになるのだろうか? 何かを自分のものとするためには、他のみんなの同意が必要。そういう決まりになっていたとしたら、神が豊穣な天然の恵みを授けてくれたにもかかわらず、人類は餓死して絶滅してしまっていたことだろう。複数のメンバーの間で契約によって共有されている土地(共有地)があるが、その土地にある天然の恵みを自然のままの状態から取り出すと、そこに所有権が生じることになる。そうでなければ、共有地は何の役にも立たないことだろう。さらには、共有地の一部から何を取り出すにしても、共同所有者全員の同意は必要ない。共同所有者全員の同意がなくとも、私が共有地の中から取り出すものは何であれ――私の馬が食す草にしても、私の召使が刈り取る芝生にしても、私が掘り出す鉱石にしても――、私のもの(私の所有物)となる。共有地の中に手付かずのまま置かれていた天然の恵みを取り出すという「私の労働」が、それらに対する「私の所有権」を確立するに至ったのである。

ボーイスカウトの団員たちは、法律にも、憲法にも――それ絡みのメリットバッジ(勲章)もあるとは言え――あまり詳しくないのが普通だ。しかしながら、彼らも、ジョン・ロックが言うところの「自然法」――天然の恵みのうちで、何がどういう理由で自分のものになるかを規定する原理――については、よく理解しているようだ。

「ジョン・ロック」シリーズの他のエントリーも見逃すなかれ。これまでのエントリーは、こちらにまとめてある。

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