ラルス・クリステンセン 「ベッカー死すとも経済学帝国主義は死せず」(2014年5月5日)

●Lars Christensen, “Gary Becker has died. Long live economic imperialism!”(The Market Monetarist, May 5, 2014)


ウクライナ情勢をめぐって緊張が高まりを見せる中、私の頭の中では、地政学的なリスクがマーケットや経済に対してどのような影響を及ぼすだろうかという疑問が渦巻いていた。何が起きているかを理解することと、その出来事を経済学的な観点から理解することとは別物だ。地政学的な緊張の高まりだったり、テロ攻撃だったりは、投資や消費といった経済面での決定にどのような影響を及ぼすのだろうか?

あなたならどう答える? アドホックな説明を持ち出してくるというのが大方の傾向だが、私はそのような立場には与(くみ)しない。どのような出来事であれ、まずは合理的選択理論の立場から迫ってみるというのが私が常日頃から心掛けているアプローチだ。ビールの値付けだったり、フットボールの観戦チケットに対する需要だったりを理解するために経済学者が使っているツールは、自爆テロだったり、地政学的な緊張がマーケットに及ぼす影響だったりを分析するためにも使えるし、使われるべきなのだ。

・・・というのが、ノーベル経済学賞受賞者であり、先日の土曜日に83歳で逝去した、ゲーリー・ベッカー(Gary Becker)が発信し続けたメッセージだ。

ベッカーがノーベル経済学賞を受賞したのは1992年。その受賞理由は、「ミクロ経済学のツールの応用範囲を拡げた――ミクロ経済学のツールを使って、市場の外における行動(nonmarket behaviour)を含めて、幅広い分野にわたる個人ならびに集団の行動に分析を加えた――」功績にあったのだ。

空港でのセキュリティチェックと「差別の経済学」

「市場の外にある世界」も含めて、世の中のありとあらゆる出来事に関する私の思考に最も大きな影響を及ぼした経済学者の一人が、ベッカーだ。ちょっと変わった状況に遭遇すると、ベッカーのアイデアがよく頭に思い浮かぶものだ。

つい最近で言うと、コペンハーゲン空港でセキュリティチェック〔拙訳はこちら〕を受けた時がそうだった。コペンハーゲン空港には、「Expressトラック」とかいう特別なセキュリティレーンが設けられている。ファスト・トラック(優先レーン)のようなものだ。おそらくは、離陸間近の飛行機に乗り遅れそうな乗客のセキュリティチェックをさっさと済ませるために設置されているのだろう。あるいは、車椅子の乗客向けなのかもしれない。しかしながら、ふと記憶を遡ってみると、かくいう私も――飛行機に乗り遅れそうなわけでもなかったし、車椅子に乗っていたわけでもないのに――これまでに何度もExpressトラックに誘導された経験があるのだ。つい数週間前もそうだったのだが、その時に頭によぎったのが「統計的差別」というアイデアだった。

統計的差別とは何か? 従業員の人事査定の例を使って説明すると、一人ひとりの従業員のスキルに関する情報を細かく収集しようとすると、大きなコストがかかるかもしれない。そうだとすると、従業員の「人種」に応じて――統計的なデータによると、白人には仕事のできるやり手が多いようだ。というわけで、白人だから昇進させるとしよう/黒人だから昇進はさせないでおこう・・・といったように――差別的な処遇をした方が、コストも節約できて会社にとっては合理的となるかもしれない。ベッカーは、統計的差別というアイデアの生みの親ではないが、「差別の経済学」のパイオニアであることは間違いない。差別に関する彼の研究は、1971年に出版された出色の一冊である『The Economics of Discrimination』にまとめられている。

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ところで、私がExpressトラックに誘導されることが多いのは、どうしてなのだろうか? その答えが、統計的差別だ。旅路ではスーツを着用することが多いのだが、「出張慣れしたビジネスマン」のような見た目をしているに違いない。セキュリティチェックを行う空港職員は、私の姿を一目見て、次のような判断を瞬時に下しているのだろう。「この人物は、出張慣れしたビジネスマンであり、セキュリティチェックも慣れてるはずだ。そうだとすれば、こちらのレーンに呼んでチェックしても、大して時間はかからないだろう」 。まったくもって合理的な判断だ。というのも、私は空港でのセキュリティチェックには慣れっこだからだ。

Expressトラックでセキュリティチェックを受けながら、ゲーリー・ベッカーについて思いを馳(は)せていた。彼の教えについて思いを馳せていた。市場の外で起こる現象を合理的選択理論を使って理解しようと努めるベッカーの姿に思いを馳せていたのだ。

恐怖心の経済学

毎月かなりの数のワーキングペーパーに目を通しているのだが、一番最近読んだ――正確には、再読した――ワーキングペーパーの著者の一人というのが、偶然にもベッカーだった(ヨナ・ルービンシュタインとの共著論文)。論文のタイトルは、“Fear and the Response to Terrorism: An Economic Analysis(pdf)”(「恐怖心と、テロへの反応:経済学的な分析」)。「恐怖心の経済学(あるいは、恐怖心の心理学)に合理的選択理論の立場からメスを入れる」ことが狙いだという。

どうしてこの論文を再読したかというと、ウクライナを舞台とする地政学的な緊張の高まりが中東欧の経済やマーケットにどんな影響を及ぼしそうかを深く理解したいと考えたからだ。

以下に論文のアブストラクト(要旨)の一部を引用するが、ウクライナを舞台とする地政学的な緊張の高まりについて思いを馳せながら読んでいただきたいと思う。

本稿では、テロの脅威が一人ひとりの感情に及ぼす影響だけではなく、恐怖心が主観的な信念や一人ひとりの行動に及ぼす歪曲効果 [1] … Continue readingについても明示的に考慮する。さらには、感情をコントロールする一人ひとりの能力も考慮に入れる。コストをかければ、恐怖心をコントロールできるようになるが、恐怖心をコントロールする術を身につけるためにどれだけの労力を費やすかはインセンティブに影響される。感情をコントロールする術を身につけることで得られる見返り [2] … Continue reading の大きさは人によって異なる(それゆえ、恐怖心をコントロールする術を身につけるためにどれだけの労力を費やすかも人によって違ってくる)ため、差し迫った脅威に対する反応も人によって違ってくることだろう。・・・(略)・・・教育やメディアの報道も重要な役割を果たしている。平日に自爆テロが発生し、そのニュースがメディアで報じられると、人々――とりわけ、学歴が低い層やバスをたまにしか利用しない層――の行動は大きく変化するものの [3] … Continue reading、自爆テロが休日の前日や週末に起きるようだと、その影響はほぼ皆無なのだ [4] … Continue reading

ウクライナとロシアとの間で地政学的な緊張が高まっているにもかかわらず、国際金融マーケットにはこれまでのところ比較的軽微な影響しか及んでいないが、ベッカー&ルービンシュタインの二人の「恐怖心」論文は、その理由を探る助けとなるかもしれない。ロシアとウクライナの二国だけに話を限定すると、地政学的な緊張の高まりが国内のマーケットにかなり大きな影響を及ぼしていることは確かだが、世界全体の株式市場に目を転じると、当初のうちこそ「フィアー・ファクター(fear factor)」の影響が感じられたものの、その「ショック」も瞬く間に退いていった感がある。

実のところ、「恐怖心」論文で展開されている論理は、ベッカー流の「差別の経済学」と似ているところがある。ベッカー流の「差別の経済学」では、一人ひとりが、差別に対するその人なりの「選好(好み)」(“taste”)を持つ可能性が想定されている。例えば、ユダヤ人や黒人を嫌う(恐れる)経営者がいるかもしれないが、そのような「好み」(「恐れ」)にはコストが伴う。その経営者は、能力のある人物が求人に応募してきても、その人物が「ユダヤ人だから/黒人だから」という理由で採用を拒む可能性がある。しかし、ライバル企業の経営者が人種的な偏見を持たないようであれば、レイシストの経営者に採用を拒まれた人物を雇うことになるだろう。つまり、レイシストの経営者は、(能力のある働き手をライバル企業に奪われるために)利潤の低下というかたちで、自らの好み(人種差別)の代償を払わねばならないのだ。

それと同じように、地政学的なリスクに対して「非合理的な恐れ」をいつまでも抱くことにもコストが伴う。ウクライナの危機が国際金融マーケットに及ぼす影響を理解する上では、そのことをおさえておくことが極めて重要となるに違いない。

経済学帝国主義よ、永遠なれ!

これまでの話は、ベッカーが私の思考に及ぼしている影響のほんの数例に過ぎない。それも、つい最近の例に過ぎない。過去にも目を向けると、1990年代後半の経験が思い出される。当時の私は、デンマークの経済産業省で「移民の経済学」について研究していて、コペンハーゲン大学で「移民の経済学」がテーマの講義も受け持っていた。その時にベッカーの研究に集中的に向き合う機会があったのだが、あの時にベッカーから受けた影響はかなり大きなものだった。

「お前は、経済学帝国主義(economic imperialism)の支持者なのか?」と問われたら、喜んで「そうだ」と認めることだろう。ベッカーから学んだこと、それは、経済学の手法(合理的選択理論)は、世の中で起こる大抵の出来事――株価の決定、自爆テロ、政治家が愚かな決定をする理由、そしてスポーツについても――を理解するために使えるツールだということだ。そのことを例証しているのが、Amazonから今日到着したばかりの本――『The Numbers Game』――だ。この本では、経済学の手法を使ってフットボールに分析が加えられている(アメリカの読者のために注意しておくと、ここでのフットボールはサッカーのことだ)。

きっとベッカーも同意してくれると思うが、コーチが解任された場合にチームの成績にどんな影響が及ぶかを理解したければ、合理的選択理論を応用する必要がある。「心理学」ではなく、「合理的な選択」こそが重要な鍵を握っているのだ。

合理的選択理論の適用範囲の広さに気付かせてくれたゲーリー・ベッカーに感謝。ベッカー、どうもありがとう。

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(追記)ベッカーについて論じている記事をいくつか紹介しておこう。あわせて参照されたい。

Greg Mankiw: Very Sad News

Peter Lewin: Gary Becker: A Personal Appreciation

David Henderson: Gary Becker, RIP

Bloomberg: Gary Becker, Who Applied Economics to Social Study, Dies at 83

Reuters: Nobel-Winning Economist Gary Becker Dies at 83

Chicago Tribune: Nobel-prize winning economist Gary Becker dead at 83

Fox News: Gary Becker, University of Chicago Economics Nobel Laurete, Dies at Age 83

Peter Boettke: Gary Becker (1930-2014) — An Economist for the Ages

Mario Rizzo: Gary Becker (1930 – 2014): Through My Austrian Window

Russ Robert/Café Hayek: Gary Becker, RIP

References

References
1 訳注;主観的なリスク評価と客観的なリスク評価を乖(かい)離させる効果。例えば、テロに対する恐怖心ゆえに、テロに遭遇するリスクが実際(=客観的なリスク)以上に高く見積もられる可能性がある。
2 訳注;感情をコントロールする術を身につけるために多くの労力を費やした人ほど、感情のコントロールが巧みになり、テロなどの脅威に遭遇するリスクの評価が正確になる(主観的なリスク評価と客観的なリスク評価の乖離が小さくなる)。
3 訳注;論文では、イスラエルで発生した自爆テロが具体的な事例として取り上げられており、自爆テロが市民のバス利用に及ぼす影響が検証されている。
4 訳注;イスラエルでは、土曜日と休日は、新聞の休刊日。そのため、休日の前日や週末に自爆テロが起きても、翌日は休刊日なのでそのニュースが新聞で報じられることはない。
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