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ジョセフ・ヒース「『反逆の神話』刊行15周年インタビュー」(2019年5月9日)

[Joseph Health, “The Rebel Sell at 15,” In Due Course, May 9, 2019]

アンドリューとぼくの共著で出した『反逆の神話』でおもしろいのは,スペインでベストセラーになったことだ.この前,刊行15周年で Manuel Mañero にインタビューを受けた:”15 años después, la contracultura gira a la derecha.” 省略なし全文の英語版をこちらに掲載しよう(質問には著者両名が答えた.)
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ジョセフ・ヒース「ワクチン接種は集合行為問題だ」(2015年2月5日)

Joseph Heath, “Vaccination is a collective action problem“, (In Due Course, February 5, 2015)

何週間か前、集合行為問題の理屈を理解することは多くの人にとって難しい、という投稿を書いた(ホッブズの難しいアイディア)。集合行為問題とは、人々のやりとりがよくない結果にいたるのだが、だれもそれを止める動機を持たない、という状況のことだ。

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ジョセフ・ヒース「ホッブズの難しいアイディア」(2014年12月15日)

Joseph Heath, “Hobbes’s difficult idea” (In Due Course, December 15, 2014)

ポール・クルーグマンの「リカードの難しいアイディア」は私のお気に入り論文のひとつである。そこでは、どうして人々が「比較優位」の概念を理解するのがこれほど大変なのかの理由が述べられてい。比較優位ほどひどい状況ではないとは言え、「集合行為問題」も理解が難しい概念であるということを最近思い知らされ。この概念は比較優位よりもう少し長い歴史があが、集合行為問題を「ホッブズの難しいアイディア1 」と呼んでも歪曲にはならないだろうと思っている [Read more…]

  1. 訳注:ホッブズは、人間が各人の欲望の赴くままに行動すると「万人の万人にたいする戦争状態」となって悲惨なことになってしまうので、人間は国家の支配に服して各人の権利が制限されることで逆説的により幸福になると考えた。この考えは集合行為問題の萌芽と言える。 []

ジョセフ・ヒース「男の子差別文化」(2018年3月26日)

Joseph Heath, “How our culture treats boys” (In Due Course, 26 March 2018)

子供たちが少し大きくなったので、以前ほどThe Children’s Placeで買い物をしなくなった。だが先日そこで買い物をすることがあり、我々の文化が男の子たちに向けて発しているメッセージの類が気がかりになった。The Children’s Placeが何か知らないひと向けにいうと、それは洋服屋だ。ウェブページの表示はいつも同じ。ページは真ん中で分かれ、女の子用が片方に、男の子用がもう片方にある。これはその時々にどんなものが男の子用と女の子用それぞれに売られているか比較するのに、そしてどんな思い込みが性別に付随しているのか考えるのに、都合がよい。 [Read more…]

ジョセフ・ヒース「規制について真剣に考えてみよう」(2014年7月7日)

●Joseph Heath, “Thinking seriously about regulation”(In Due Course, July 7, 2014)

私はちょうど今、ダニエル・カーペンターのReputation and Power: Organizational Image and Pharmaceutical Regulation at the FDAという本を読み終えた。この本の全てが素晴らしかったというわけではないけれども、アメリカ食品医薬品局(FDA)の歴史についての700ページの本にしてはかなりよかった。私がこの本を手に取ったのは、去年の秋の3カ月間で、2人がこの本を私に勧めたからである。もしそれが本当に驚くべき本でないならば、2人の人がそれぞれに私のところに来て「FDAについての700ページの本を読むべきだ」と言うのは何の偶然なのだろう、と思ったのである。

彼らが私にこの本を進めていた理由は、私が行政の裁量とそれが公務員によって処理される方法に関心があったからである(ここを参照)。これは、私が政府の執行部で持つようになった一般的な関心の一部であり、執行部が規範的政治哲学において深刻に理論づけが不十分であるという見解に沿っている。

しかし、カーペンターの本は、プロジェクトの一環としてもっと興味深い。そのプロジェクトは、アメリカの学者グループ(トービン・プロジェクトの多くの人たち)による、規制についてもっと真剣に考えようとし、過去50年間の規制をめぐる議論を支配してきた、いわゆる「公益」と「レント・シーキング」あるいは「規制の虜」の理論との間に、古くさくて高度に定型化された対立を破ろうとする最近の試みである。

ここで、大まかにどのように古くさい議論が機能してきたかを紹介しよう。「公益」の理論によると、規制は市場の失敗への対応によって生じる。市場競争は、なんらかの一連のルールに従って行われる。最小限のものは、財産権と契約法によって定義されたものである。しかしながら、多くの場合においてこれらの規則は健全な形態、すなわち全ての者への利益を生み出す競争を促進するのには不十分である。所有権のシステムの不完全さは企業が公害のような負の外部性を生み出すのを許すかもしれない。あるいは、情報の非対称性は、消費者に、もし彼らがよく情報を与えられていたとしたら購入しないものを購入するように導くかもしれない。そして、賢明で慈悲深い政府は、市場参加者がこれらの戦略を採用するのを防ぐために、規則を調整したり新しい規則を導入したりすることによって介入するだろう。その意図は、NHLのようなスポーツ団体がゲームを改善するためにルールを調整するときとは異なるものではない(私の好きな例は、2008年にホッケーに”ショーン・エイヴリー・ルール“を導入したものである)。

これはしかし、実証的な記述というよりは、規制がどのように機能すべきかについての規範モデルに過ぎない。国が何らかの規制を導入すれば公共の利益になりうるというストーリーだ。よって重要な実証的、制度的疑問が無数に湧き上がる。現実の政治家や官僚は完全に賢明ではな、く、情報は完全でなく、完全な善意の人物でもない。彼らがどうして「公共の利益」を認識できるのだろうか。また、法制化にあたり彼らが促進させるべきインセンティブはどんなものであるべきだろうか。このように、現実世界の規制は、「公共の利益」理論が推奨するように最適化されたものとは程遠いと考えるべき理由は明らかにたくさんあるのだ。

したがって、「公益」という見方について疑いの余地はかなりあるのであり、どれほど公益の考慮が実際に規制上の意思決定に情報を与えるのかについて程度の差はある(確かに、制度理論としての「公益」観の素直な支持者を見つけることは困難である。これはおそらく最も近い)。しかし、現実世界の規制に関する経験に基づいた懐疑論をもたせるこれらの疑いの追求というよりはむしろ、規制国家の批判者が惹かれたのは、ばかげたネガティブな風刺である、いわゆる「規制の虜」理論である。この見解によると、規制は公共の利益に関するものでは全くなく、逆に、どこからでも公衆に対する陰謀である。規制は、組織化された利益団体が競争を制限したり非生産的移転を達成しようとしたりするために政府の強制力を利用しようとするから存在する。小規模で集中した利害関係は、より拡散した集中していない利害関係よりも集団行動の能力が大きいため、成功する。

この「レント・シーキング」の見方に沿えば、カナダの乳製品供給管理システムのようなものはまったく規制による介入である。カナダの乳製品供給管理システムは生産と同様に酪農業への参入を規制しており、それによって価格を上げ割り当てを有している農家に対してレントを生み出している。このレントは、オープンな市場競争の条件下に比べてより高い価格を乳製品に対して支払っている消費者からの非生産的移転を示している。農家はこのレントを持ち逃げすることができるのは、彼らは組織化されているのに対し消費者は組織化されておらず、それゆえにこのシステムを取り除こうとする恐れがあるいかなる政治家も、高度に組織化され持続的な抗議を受ける恐れがあるからである。一方で、消費者は、単に、一リットルの牛乳のために「あまりにも多く」ドルを支払うことによっては十分に扇動されず、その結果そのことについて何もしない。(実際に、カナダにおける酪農のカルテルに対して実際にロビー活動をしていると私が聞いた唯一の組織化されたグループは、カナダの大手ピザチェーンである。というのは、彼らは非常に多くのチーズを購入しているからである。他の集中的な利益に対して効果的に行動するためには集中的な利益が必要である、という一般的な点を確認しておく。)

乳製品の供給管理の政治において見ることができるように、明らかに「レント・シーキング」理論には一理ある。しかし、この理論を一般化し、環境や消費者保護の法律を含む全ての規制が同じ一般的なパターンに従っているというのは、かなり乱暴な主張である。さらに、「規制の虜」という話は40年以上にわたり規制緩和の根拠として右派の政治家によって用いられてきたけれども、彼らのうちどれだけの者がそれを実際に信じているのかは定かではない。なんと言っても、権利を持つ人々が規制監督に関心を持っていれば、規制当局に任命されている人たちについて、彼らの任命者が規制された利益からできるだけ離れていることを確かめるために、慎重になるかもしれないと思うだろう。しかし右派の政党は、産業界と非常に密接な関係にある人々で政府機関を満たそうとし、まさにその反対のことをしようとする傾向がある。それによって、規制の虜を積極的に促すように見える。

思うに、この理由の一部は、「規制の虜」理論には規制を改善する方法に関する理論が実際にはないということである。規制は、この理論の中心では、単なるレント・シーキングの実践であるので、唯一の解決策は規制の撤廃である。「より良い規制」は、この観点からは、言葉の上で矛盾しているものである。これは、規制当局に対するある種の不健全なシニシズムを奨励している。

ここで、この古い議論から一歩前進して、様々な形態の市場の失敗を修正するために規制のために緊急のニーズがあるが、そのような規制を制定するための正しい方法で政府の機構を調整することは容易ではない、viz.という賢明な見解を採用するとしよう。すると、この機構が特定の利益集団によって虜にされ、それゆえに規制介入の意図を覆す危険が常にある。そうすると、一連のかなり簡単で実用的な質問をしたくなるかもしれない。例えば、どのようにして規制が実際に交易に資していることを保証しようとしているのか、どのように規制の虜が発生し、そしてどのような条件が規制の虜をより発生しやすく、あるいはより発生しにくくするのか、政府機関が規制の虜になった場合をどのように見分け、どのようにその状況を修復できるのか、どのような力が規制機関を公益の権限を推進する上で、より効果的またはより効果を少なくするのかなどである。

これらがトービン・プロジェクトのグループが議論していた問題である(例えばこれ)。驚くべきことに、これらの問題に関する真剣な実証研究は事実上全く行われていない。(規制の虜理論の支持者は、実証研究ではなく、先験的な推論の合成にほぼ完全に頼っていた。すなわち、彼らは、経済学に準ずるモデルのセットから規制の虜の現実性を単に「演繹」していたのである。)

FDAに関するカーペンターの本はこの広い現在の考えにフィットしており、その点で非常に重要である。私は彼の明示的な理論的概念であるviz.の「力」と「評判」が特に啓発的であるとは感じなかった。しかしながら、彼の暗黙のフレームワークは非常に興味深かった。彼の中心的な確信は、組織文化が、FDAのような機関が新しい状況に直面し調査する際に、すなわち産業を扱う際に積極的、妨害主義的、対立的、懐柔的、無関心的などになるかどうかを決定する際に、非常に強力であるということのように思われる。

たとえば、私はサリドマイド事件に関するカーペンターの議論から、非常に多くを学んだ。私はその話の概要を知ってはいたが、FDAのおかげでアメリカ合衆国ではサリドマイドによって引き起こされた先天異常は一件もなかった。一方、アメリカ市場でサリドマイドの承認を拒否した科学者(フランシス・ケルゼイ)は少し運が良かった。というのは、サリドマイドが先天異常を引き起こしたと疑う特別な理由はなかったのだ。彼女は、主にはその薬を推薦した企業を信用しておらず、一連のはるかに小さな問題について懸念していたため承認を先延ばしにしたのである。彼女は十分長い間承認を遅らせたが、先天異常はその薬が広く用いられていたヨーロッパで現れ始めた。このことによって彼女は国家的な英雄となり、FDAはその後の少なくとも20年間は、事実上揺らがぬ特権と権威を与えられた。

レートリル/アミグダリン(あんずの核に由来する急性の癌の療法)の販売を却下したことに対する、70年代にFDAが耐えた公的な圧力についての興味深い議論もある。この話は、基本的には、FDAが企業の大々的な公的なキャンペーン(大規模な密輸ネットワークの開発や死に瀕している他ならぬスティーブ・マックイーンの有名人の圧力などを含む)に抵抗したが、大規模な研究によって薬が効果がないことがわかったとき、究極的に非難が不当であった、というものである。このことが後に、最初のプラチナがベースの化学療法剤が承認のために提出されたときに懐疑的な方向に向かい、迅速な承認のための公的圧力に直面して抵抗する傾向を強めた(これは間違ったことであった)。そこで繰り返しになるが、どのように組織が振る舞ってきたのかを理解する鍵は、その組織の歴史を観察することである。

全体的に見れば、私は、この本を読んだ人は誰も、規制の仕組みの一般的な説明として、規制の虜理論を真剣に受け止めることはできないと考える。非常に明確に理解されることは、FDAは、公共の利益がどこにあるのか、それがその任務をどのように解釈するかについての実質的な裁量という、常に強い独立した概念を常に持っているということである(私の目的のためにいえば、1962年に明示的な権限を受ける以前の、政府機関が薬の有効性に対する研究へのコミットメントを正当化する方法の議論は、特に興味深いものである)。カーペンターはFDAが業務をうまくやっているかまずくやっているかについて実はどちらの立場にもついていない。私の疑念は、彼がFDAの承認プロセスがどれほどフラストレーションが溜まるものかを控えめに表現しているということである。それにもかかわらず、その本はFDAがどのようにその業務を行なっているのか――たとえばFDAが素早く動くのかゆっくりと動くのかや、法律第一主義なのか柔軟なのかや、積極的なのか受動的なのかなど――を決定する力についての非常に素晴らしい像を提供した。この点において、カーペンターの著書は、これまで非常に欠けているものであった、規制の対象についての重大な学識の一例である。

ジョセフ・ヒース「法人税減税:誰が得するの?」(2014年5月30日)

Corporate tax cuts: cui bono?
Posted by Joseph Heath on May 30, 2014 | Uncategorized

NDP(新民主党)1 が法人税率を上げることをアナウンスするたびに、批判者達はそのアナウンスに対して激しい叱責を毎度加えている。批判者達は、「法人への税は、実際には法人へ課税されることにならない。なぜなら、課税される法人は、課せられた税を安易に他者に転嫁することが可能なのだ(例えば、消費者への値上げの形態を取るかもしれないし、労働者の賃下げの形となるかもしれない)」と指摘している。しかも、この手の批判者達は、法人税増税がこうして諸刃の剣になっている論点を指摘するのを躊躇することはめったにないでは仮に、法人が法人税のような税を実際に負担しないのなら、諸刃の剣になる要点は何なのだろう? 事実、カナダ進歩保守党は、オンタリオ州において現段階で打ち出している政治要綱で、法人税の劇的な削減を要求している。3.5%削減することで、11.5%から8%にするというものである。(新民主党が政治要綱で要求している1%の引き上げより、数字として相当に大きい)。なぜ保守党員は、この論題で新民主党よりも、はるかに大騒ぎしているのだろう?

この件に深入りする前に、新民主党へのこの手の批判には、税負担の概念に関わる重要な論点が潜んでいることを言及せねばならない。政府に税を納めた人は、必ずしも税を負担しているわけではないという税負担の事実の反映がある。税を納めた当人は租税負担を他の誰かに転嫁することが可能になっているかもしれないからだ。つまり、「X税」と呼ばれているような何らかの税は、実際にXに税を課したことを意味するとは限らない。例えば、所得税は、必ずしも所得に課される税ではない。

貯蓄が〔課税対象から〕免除されている場合――RRSP2 や TFSA3 によって――平均的な人にとっては、実質的には所得ではなく、むしろ消費に税が課されたことになる(なぜなら「収入-貯蓄=消費」だからだ)。同様に、法人に課される税も必ずしも法人に課される税とは限らない。例えば、HST/GST4 は、技術的には法人に課される税である。なぜなら、HST/GSTを課せられた法人は、政府に税を納めねばならない。しかし、我々はこれを消費税と呼んでいる。なぜなら、税を課せられた法人は例外無く負担を消費者に転嫁するからだ。よって基本的な論点として、なんらかの税が「法人税」と呼ばれていても、実際には法人に税が課されていることを意味しないことが重要な事実なのだ。

すると疑問が生じることになる。法人に課された税は実際に法人が負担する税でないなら、なぜ法人(ないし「財界」)は法人税の高さを気に病むのだろう? まさにGSTのように、法人税は他者に転嫁されることになるのにだ。たとえ法人が消費者か労働者に転嫁することができなかったとしても、最悪時には株主に転嫁されることになるわけである。(この場合原則的には、収益を税負担に当てることで、株主の取り分である配当金が減らされることになる)。そして、大企業が自社の株主が受け取る純粋な配当利回り率に多大な関心を寄せている、と想定する根拠は特に存在しない。配当利回り率が競合他社と似たような水準にある限り、企業経営者はそれがどのくらい高いのかに多大な時間を割いて気に病んでいる蓋然性は低い以上事実が示唆しているのが、企業は収益への課税率について無関心であるはずなのだ(同様に、企業はGSTの高低水準の在り方についても無関心であるはずだ)。

ここまでを総括してみると、不可解な謎が生み出されることになる。保守派は、なぜこうも法人税の削減に熱心なのだろう? という謎だ。「政府は悪であり、ビジネスは善である」といった単なるイデオロギーや、税の死重損失に関する一般的な不平を超える何らかがあるわけである。法人税減税から誰が本当に利益を得るているのかを知るのは困難だ。

しかしながら、利益を受ける一つの有力な支持層が存在する。本当の大金持ちカナダ人達(便宜上トップ1%くらいとしよう)だ。彼らは大規模公的企業の株を保持しているだけでなく、自身の財産を管理するために私的企業も保有している。富裕層は、租税処置から自身の収入を守ることを主目的に――最優先されているのは、退職後の蓄えを守るための達成手段として――この手の自前の企業を創設しているのだ。結果的に、法人税率は、富裕層の収入(特に投資収益)の大部分に課される個人向け適用の税率にもなっている。これがどのように機能しているのか理解することは、富裕層が法人税減税にここまで強く賛成している理由を理解するのに必須なのだ。

概要をおおざっぱに描写してみよう。あなたはオンタリオ州に在住していて、年に50万ドルの収入を得ているとしよう。まず最初にあなたが悟らねばならないのは、T4収入5 は、ごく普通の人のためのものであるということだ。T4収入を適用している人は〔最富裕層には〕まったくいない。なぜだろう? T4が適用された場合のあなたは、収入に課される税金を払う以外の選択の余地はほぼ存在しないからだ。さらに、課税後の実質的な控除もほとんどない。なので、収入が15万ドル以上に差し掛かり始めると、あなたは所得をT4適用外へと切り替える方法を探し始めることとなる。(例えば、あなたは「従業員」ではなくて、「コンサルタント」として契約し働くようになるとか)。そこで、あなたは会社を作り(安価で簡易なのだ)、その自社法人に雇われている立場になる。さらに〔仕事先から〕直接お金を受け取る代わりに、自社に支払ってもらうようにする。これは「所得のより税効率モデルへのシフト」と呼ばれている。

お金が自分の会社に入るようになったら、あなたは自身に(累進課税の限界税率が作動に至る)136,270ドル前後の給与の支払いを始める。136,270ドルより少し多い場合は、あなたはRRSPの積立金とTFSAを限界まで使い切ることが可能だ。さて次は、会社に残ったお金に創意を働かせる番だ。配偶者はあなたの所得を下回っているだろうか? 彼女を(一応、彼女にしておく)自社で簿記担当として雇用しよう。幼い子供はいるだろうか? 乳母には定額所得から育児代を出していけない(育児控除はばかばかしいほど低いのだ)。彼女を「エグゼクティブ・アシスタント」として自社に雇わせよう。子供が大学行くために家を出たら? 子供らの家賃を払ってはならない。自社で分譲マンションを購入して、子供らを「財産管理人」として雇おう。さて、車も2台目を購入してはならない。自社付けで購入しよう。休暇にも出かけないように。会社支払いの出張旅行に出かけよう。創意の制約はあなたの想像力の限界だ(もちろん、大雑把に解釈された法も一応は限界だ)。

しかしながら、こういった「創意」全て執り行え終えたとしても、自社にまだお金が残っている可能性がある。最高の累進税率が適応された所得税を支払わないと引き出すことができないお金だ。ということで、何をすればよいのだろう? あなたは、駄菓子屋の外で、顔をガラスに押し付けて店内を凝視している子供のように、消費できない全てのお金を座視している立場にある。お金は非常に間近にあるが、非常に離れてもいる…。あなたは既に、RRSP積立金を限界余地まで使い切っている。何をすべきだろう?

さて、あなたができることの1つが、お金を自社内にプールしておいて、どこかに投資することだ。これにはたった一つ問題が存在している。もしあなたが自社内にお金をプールしておいたら、それは「利益」とみなされてしまうのだ。なので、あなたはそれに課された法人税を支払わないといけない――州と連邦政府の合算の率で(低く見積もると)15.5%となる。後々、あなたがそのお金を引き出した場合――お金を使おうとする時は最終的に引き出す必要性がある――引き出したお金に課せられる所得税を支払わねばないらない。しかもおそらく最高限界税率でだ。それでも、利益は得られるのだろうか?

あなたが退職後のための貯蓄を目的にしているのなら、計算してみると、利益が存在することが判明するのだ。どういうことなのだろう? 投資の運用利回りにおける複利の効果故である。もしあなたが、お金を〔自社内にプールせず〕引き出して投資運用するしよう。その場合は、最初に引き出した時点でお金に46.4%の所得税を支払わねばならない。その後、あなたは引き出して得たお金を再投資すると、その投資収益の総額に46.4%のキャピタルゲイン税が課せられ再度支払うことになる6 。以上ケースとは別に、あなたは自社内にお金をプールするとしよう。この場合、最初に15.5%の法人税を支払うことになる。その後、プールした収入を再投資すると、投資収益の総額に毎年15.5%の法人税が課せられ支払うことになる。さらに最終的に自社からお金を引き出した時に、46.4%の所得税を支払うことになる(退職後にあなたの収入が低下していた場合、46.4%より若干低くなるなるかもしれない)。この複利の効果、つまりお金を15.5%の低い税率によって、自社内で「育てる」メリットは、(最初の法人収益に、最後の〔自社から引き出した〕所得への)二重課税のデメリットを上回るのだ。

ここまでの指摘事実が事実上意味しているのが、私企業は無限に積立可能で柔軟な払い戻し制度を備えた巨大なRRSPのようなものとして基本的に機能していることにある。

この事実はまた、非常に裕福な人が、法人税率にとりわけ敏感である理由も説明してくれる。非常に裕福な人が、所得税から退職時の収入を保護するために私企業を利用する方法は、複利の効果に依存することで、法人税率の値は増幅されて影響を与えることになっている――税率の小さな変更が、個人所得を自社内にプールする節税メリットに非常に大きな効果をもたらすのだ。言うまでもないが、このような私企業内に非常に多額の大金を保管している最富裕層は大量に存在している。このことが、富裕層を法人税減税の主たる私的受益層に至らしめているのである。

※免責条項:本エントリいかなる場合においても、節税アドバイスとして解釈すべきではなく、脱税詐欺についての助言も行っていない。カナダにおいて最も高い収入を得ている人々が行っている、納税義務の最小化の方法の1つを単純化して説明しているだけである。

※訳者による注釈は〔〕で括っている

 

  1. 訳注:カナダの左派政党。再分配を重視した政策を訴えることが特徴。 []
  2. 訳注:”Registered Retirement Saving Plan”(登録退職貯蓄基金)の略。一般的勤労者が定年後の為に貯蓄することを支援目的にした各種税制融合措置。所得の一部をRRSPに適用して貯蓄すると、貯蓄分を課税対象から免除することが可能となっている。 []
  3. 訳注:”Tax-Free Saving Account”の略。主に勤労中間層の個人を対象にした、金融投資からの利益への減税を中心にした資産形成の優遇措置制度。日本におけるNISAと似たような制度である。 []
  4. 訳注:それぞれ”Harmonized Sales Tax”及び”Goods and Service Tax”の略。カナダにおける政府・州政府による物品・サービス等に課せられる売上税。日本における消費税とほぼ同じである。 []
  5. 訳注:カナダでは所得・収入をT以下の数字で分類しており、T4は通常の給与所得の分類。T4に分類された所得は源泉徴収された上で、厳格な課税が適用される。 []
  6. 訳注:カナダのキャピタルゲイン課税は、投資収益の半額に所得税の税率が適用される。 []

ジョセフ・ヒース「少年とセックスと本とビデオゲーム」(2017年8月2日)

Boys, sex, books, video games
Posted by Joseph Heath on August 23, 2017 | gender

教育者のほとんどが気づいていることがある。それは我々の社会において男の子が本を読まなくなっていることだ。「文学の危機」とまで呼んでしまうのは少し大げさかもしれない。それでも、男の子が本を読まなくなっている現象は現在進行であり、問題でもある。私には12歳の男の子と13歳の女の子がいるので、親としてここ数年にかけて、この現象を注視してきた。おかげで文学の中でもYA(ヤングアダルト:若年層向け)文学分野で何か起こっているのかを、私の同世代の誰よりも精通することにもなったのである。よって以下、この分野におけるいくつかの観察事例だ。

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ジョセフ・ヒース「社会構築主義:基礎編」(2018年5月26日)

Social constructivism: the basics

Posted by Joseph Heath on | philosophy

筆者の同僚のジョルダン・ピーターソンがこれほどの有名人になった理由の一つは、彼の批評の多くがあまりにも難解だからだ。ピーターソンの論争は、(このようなたとえ話が許されるなら)ナイフでの白兵戦に銃を持ち込む奴のように見えることが一度ならずあった。このことは、ピーターソンの社会構築主義に関するさまざまな議論で特に顕著であり、その中には「樽の中の魚を撃つ」(訳注:アホらしいほど簡単な、という意味の慣用的比喩)ような質の議論もあった。その主な理由は、何かが「社会的に構築された」と言うことが何を意味するのか、そして、それが政治的に何を意味するのかについて、学者や運動家を含む多くの人たちが実際に混乱していることにある。

筆者は哲学者かつ批判理論家として、このことに多少の責任を感じている。というのも、このような概念を飯のタネにしている筆者たちは、その意味を十分に説明してこなかったからだ。とりわけ筆者たちは、ジェンダーや人種のような何らかの性質や属性が「社会的に構築された」のなら、それは簡単に変えられるということだ、という印象を与えることを許してきた。この思想こそが、多くの人々の心の中で、「社会正義を守る」ということと「すべてが社会的に構築されたものだ」(あるいは「すべてが社会的に構築されたと信じたい」)ということを、密接に結びつけてきた。そして、学者たちが社会構築主義のテーゼを、有力な証拠に基づいてというより、政治的理由で信じたいから支持したため、社会科学には無視できない歪みが生じた(筆者の「規範的な社会学の問題について」という以前の記事を参照)。

実際問題として、社会的に構築されたものの多くは、簡単に変えることはできない。だが、それを説明するには、社会構築主義者の主張の基礎と、それがどうして政治色を帯びたかを理解する必要がある。世の悲惨の多くが、人間同士が互いをどのように扱うかから生じる、というのは一般的に見られることだ。ゆえに、このような悲惨をなんとかしたいと願う人は、人々の行動パターンを変えられるかどうか、という疑問にはまる。場合によっては、その答えは明らかにイエスだ。例えば、その行動が他者から学んだものであるなら、それを教えないだけで変えられるし、社会規範によって押し付けられたものであるなら、そのような社会規範の押し付けをやめればよい。だが、それ以外の場合には、答えがノーであることも十分にありうる。なぜなら、人間性の中には、体質的な「生物学的に決定された」ように見える側面もあるからだ。読者がもし、自分の子供を贔屓しないような人たちのユートピアを構想しているとしたら、それはおそらく失敗する。

これが基本的に20世紀の遺伝対環境の大論争、つまり、私たちが目にする「人間性」のうちのどの程度が学習の結果であり、どの程度が生得的なのか、のテーマであることは言うまでもない。この論争の最終的な結果として、「すべてどちらでもある」という結論が幅広く受け入れられた。より厳密に言えば、「生物学的」と「社会的」の間に線を引く理論的な基準はない、ということだ。なぜなら、人間は環境(他の人間を含む)の中で成長するが、そこでは常に、発生予定と環境条件の間のフィードバックが起こっているからだ。たとえば、人間には明らかに、言語学習や会話のための生物学的な適応がある(喉頭の位置のような肉体的適応もあれば、領域に特化した高速学習のような認知的適応もある)。生後18か月の幼児と交流した人にとって、人間の脳には言語学習の能力が「組み込まれている」、という印象を持たないことは難しい。だが。言語は生物学的ではなく、文化的な人工物であり、社会環境の一部だ。さらに、そこには明らかに慣習的な要素(語彙や文法の相)も含まれているので、異なる社会環境で育った子供は互いに理解できない言語を学ぶことになる。そしてもちろん、孤独や極端なネグレクト状態で育った子供は、(たとえば、孤独の中で育った蜘蛛が、それでも複雑な蜘蛛の巣を作ることができるのとは異なり)自分で言語を再発明することはない。

このような遺伝・環境論争の解決は、不幸なことに、両陣営をやや満足させすぎた。というのも、「遺伝」側は「すべてどちらでもある」を事実上「なんでも生物学的なものとして扱ってよい」と解釈したし、「環境」側は「なんでも社会的なものとして扱ってよい」という意味に解釈したからだ。むしろ正しい結論は、両者の間には連続性があって、より生物学的なものもあれば、より社会的なものもある、というものだった。あるいは、少し厳密に言えば、人間の発達経路には、他よりより強く「水路付け」されており、社会や環境によって変えにくいものがあるということだ。(たとえば、地球上の他のあらゆる哺乳類と同様に、人間は生物学的に、「生得的」な食べ物の好き嫌いを持つが、それは他の多くの哺乳類ほど確固としたものではない。つまり、社会的学習や慣れによって変えることができる。人間の味覚は「獲得味覚」なのだ。だが、味覚の中には、他よりも獲得の難しいものもある。たとえば、「食糞」は通常、自己超越ではなく精神病の症状として扱われる。だからこそ、獲得味覚の開拓に社会的エネルギーを注いできた文化は、生物学的なデフォルトの設定に近いメニューに行きつく代わりに、多かれ少なかれ「構築された」メニューに行きつく。)

もちろん、特定の性質の発達がどの程度「水路付け」されており、ゆえに、その経路をずらすにはどの程度の社会化の努力が必要になるか、というのは科学の問題だ。不幸なことに多くの人には、この問題に対する公平な判断を妨げるような強い政治的動機がある。なんらかの不正義に関わるような性質があるときは常に、多くの人はその性質が変わって欲しいと願うがゆえに、その性質が「生物学的」ではなく「社会的」なものであると信じたがる。このことはさまざまな帰結を生む。おそらく、そのうちより目立つのは、社会科学に蔓延するとんでもなく不公平な立証責任の割り当てだが、日常的な議論においても、「生物学的」な説明の支持者は常に、自分たちの主張を立証するため「社会的」な説明をすべて排除するし、「社会的」な説明の支持者は通常、「生物学的」説明の可能性をすべて排除するのはおろか、自分たちの主張に証拠を提示する義務があるとすら考えない。たとえば、子供のジェンダーの差の観察結果に関しては通常、観察された差は社会化の結果であるという純粋に仮説的な説明によって、生物学的な説明は論破されたと見なされる。(この種の哲学文献に関しては、ジェシー・プリンツの「Beyond Human Nature(人間性を越えて)」という本を参照。哲学者は特に変な仮説的な例を思いつくように訓練されており、その結果、生物学は私たちの生活とはさまざまな側面とは完全に無関係だと自分自身を納得させることは簡単だと思っている。ついでに言えば、これが正しい自己認識の方向への一歩であることはめったにない)。

その結果、教育のある人たちの典型的な思想では、政治的動機による手の込んだ希望的観測に基づいて、人間の行動に対する社会的な影響(学習、制度など)を過大評価するという事態になった。これが「政治的に正しい(訳注:『ポリコレ』な)」科学の台頭につながった。これこそが、ピーターソンが存分に指摘して論破している相手だ。たとえば、ピーターソンはまず、性差別だけでなく「性自認」に基づく差別も禁ずると言う、カナダ人権法の拡張に関する論争に加わることで注目を集めた。「性自認は生物学的な性とは違うし、生物学的な性では決まらない」みたいなことをよく言われるが、この文の中の「決まる」という言葉が何を意味するのかは、立ち止まって考える価値がある。

社会科学者は、相関係数0.3~0.4程度の関係に注目することが珍しくない。ジェンダーの場合、人口の99%以上の性自認は、そのまま生物学的性に対応している。これで生物学的に「決ま」らないというなら、何が生物学的に決まると言うのか? とピーターソンは問う。生物学的決定論とは、特定の遺伝子型が常に、100%の事例で、特定の表現型を生み出すという意味ではありえない。たとえば、私たちの指の数には発生的な側面があって、6本指になる人もいれば、指を何本か切り落として5本より少なくなる人もいると言う事実にも関わらず、両手には5本の指があるという事実は「生物学的に決定された」と見なされている。だから、上の文で援用されている生物学的決定論の暗黙の定義(相関係数1が必要)にしたがえば、生物学的に決定されたものなどないことになる。このことは、性とジェンダーとの間には極めて強い関係があるという明白な事実から、注意を逸らす役割を果たす。

同時に、「ジェンダー」は社会的構成概念だが、「性」は違う、ということもまったく矛盾していない。シモーヌ・ド・ボーボワールが「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と言ったとき、彼女が見ていたのは、「女」や「男」に関する私たちの一般的な理解には、大量の学習行動が関わっているらしいということだった。通常、子供の時に起こるのは、生物学的性を利用して人口を2つの分類(「男性」と「女性」)に分け、その後、それぞれを異なる方法で社会化して、2つの異なる社会的役割(「男」と「女」)を占めるようにする、ということだ。少女は座った時に足を組むように教わるが、少年は教わらないかもしれない。その結果、男女は異なる行動をするようになる。だが、このことは、生物学的性ではなくジェンダーロールの帰結として正しく説明される。その行動を簡単に変えられるとか忘れられるとかいう事実は、それが生物学的性質ではなく社会的役割によることを強く示唆する。

性とジェンダーを区別することに意味がある理由の一端は、二分類間の強い相関関係から、社会的な役割の諸相は生物学的に決まっているとみなしてしまう人が多いことにある。(言い換えれば、人々が、実際には社会的な役割による社会的行動のさまざまな側面を説明するために、生物学的性に訴えることにより、ジェンダーが見えなくなってしまうということだ。まさに性とジェンダーとのほぼ完全な相関関係のおかげで、反例に直面することは滅多になく、この誤りは気付かれない)。また、「男性」や「女性」に分類することが難しい生物学的状態で生まれてきて、歴史的にどちらかのジェンダーに恣意的に割り振られてきた人たちもいるし、ベースとなる生物学的な曖昧さはないものの、割り当てられたジェンダーに不満をもって、ジェンダーロールを切り替えようとする人もいる、ということも注目する価値がある。

大きな問題は、もちろん、この役割の内容を変えることができるか、変えられるとすればどの程度変えられるか、ということだ。期待を変えることはできるか? 新たな役割を作ることはできるか? 役割を完全に捨てることはできるか? 社会構築主義のテーゼが正しいとすれば、その答えは「イエス」である、と多くの人が誤って見なしている。何かが「発達上水路付けされていない」と証明されるということは、私たちは何でもやりたいことができ、変化に対する抵抗があるとすれば、それは人間性ではなく、社会の「保守的」「反動的」な要素から来ているはずだ、ということを意味している。

この問題点を理解するため、宗教のアナロジーを考えてみよう。宗教は明らかに文化的なものであり、そして明らかに作られたものでもある。(もし誰もが、つまり有神論者と無神論者の双方が同意できることがあるとすれば、それは、宗教的信仰は一般に虚偽であるということだ。この点に関する有神論者と無神論者の唯一の違いは、有神論者はこの一般化に一つの例外(この場合は自分自身の信仰)を認めるが、無神論者は例外を認めないということだ)。ともあれ、宗教が作られたものだという事実から、新たな宗教を作ることは簡単だと結論する人もいるかもしれない。そして実際に多くの人がそれに挑戦した。だが、彼らが気づいたのは、新たな「啓示」をでっち上げたり、新たな儀式の体系を発展させたりすることはそれほど難しくないが、幅広く普及させることはほとんど不可能だということだ。

言い換えれば、やっかいなのは社会への普及なのだ。その理由の一端は、人間の注意や記憶には、生物学的起源の強力なバイアスがかかっていて、特定の種類の物語に他より説得力を感じてしまうことにある。(パスカル・ボイヤーは「神はなぜいるのか(Religion Explained)」の中で、新たな「迷信」をでっちあげて広めようとすることで、より「定着」する迷信と、無視されてすぐ忘れられる迷信の差がどこにあるかを理解しようとする、魅力的な実験について説明している)。

児童書にも同じような構造がある。児童書は文字通り毎年何千点も出版される(自分の子供のためにこのような単純な本を読むことに時間を費やした人たちは、ある時点で、「こんなのなら自分にも書ける」と思うようになる)。だが、児童書の市場は競争が激しい。実際に成功するのは一握りだ。それを選ぶシステムは、実質的に自然選択の一種だ。では、(訳注:この自然選択にとっての)「環境」とは何か? 人間の認知、特に社会化されていない人間の脳の変幻自在なバイアスだ。児童書の「フロイト的」な読み方にあれほど説得力があるのはそのためだ。それは著者が心の中で密かに思っているからではない。このようなテーマこそが、特定の物語が共感を呼び、記憶され、語り継がれる原因だからだ。

これは奇しくも、世界の偉大な宗教や聖典に、まだ完全に解明されていない深い真実が含まれている、とピーターソンが考える理由でもある。このような特定の物語は共感を呼び、生物学的な深いレベルで私たちに訴えかける。だからこそそのような物語は成功し、時を越えて語り継がれる。このような物語がそれほど強い共感を呼ぶのはどうしてか、実際にはわかっておらず、それを追求することによって、私たち自身について学ぶ余地が大いに残っている。(筆者はむしろ、このような物語には、深遠な知恵というより、他のコンテキストに適応した学習ヒューリスティックスへの「誤射」が関わっている、と考えることが多い。つまり、ある人にとっての深い真実は、別の人にとっては恣意的な認知バイアスである、ということ)。

このようなことのすべてが、社会制度をどの程度簡単に変えられるかについて、著しい制約を課している。たとえば「家族」は、ある面では極めて柔軟な社会制度だ。家族は、社会によって極めて違う構成で存在し、養子のような慣習によってかなり恣意的に拡張することができる。そして、社会改革者たちは、文字通り何千年もの間、折に触れて家族を廃止しようと試みてきたが、それでも成功しなかった。それは制度が、哺乳類の心理学に深く根差した、極めて覆すことの難しい性質である感情と行動の素因のセットを、組織化し水路付けしているからだ。実現できたのはせいぜい(カトリックの司祭や中国帝室の宦官のような)「不妊のカースト」を作ることだけであり、それは不安定なことが多かった。対照的に、プラトンの「国家」に出てくる「守護者」のような仕組みは、数え切れないほど試されてきたが、決してうまくいかなかった。

この点に関して、1960年代の反体制文化であるコミューン運動は、ためになる教訓を残している。アメリカでは一時、5千を超えるコミューンが活動しており、多かれ少なかれ過激なさまざまな「生活の実験」を行っていた。筆者の友人の一人は、「共同子育て集団」の一員として数年を費やした。これは、男性5人と女性5人が、生物学的な親を区別することなく、子供を作ることを決めて集団で育てる団体だ。(その計画の中には、誰が生物学的な親かを子供に教えず、10人全員を親として扱い、全員が子供一人一人の世話や教育に関与するということも含まれていた)。これはすべて屈辱的な失敗に終わり、数年のうちに喧嘩別れした。彼らの多くは家庭裁判所のやっかいになる羽目になり、親権や面会権を求めてお互いを訴えた。

おそらくコミューン運動に関して最も衝撃的なのは、やろうとしたことのほとんどすべてが失敗したという事実だ。彼らが行った文字通り数千の実験、実質的に生活のあらゆる側面における社会関係を組織するさまざまな方法の、ほぼすべてが崩壊した。情けないことに、数年以上存続できることが実証されたコミューンは、強い宗教志向を持つコミューン(つまりカルト)と、官僚化することを選び成文法や形式的な意思決定手続きを導入したコミューンとの、2種類だけだった。言い換えれば、コミューン運動が実証することになったのは、人々がお互いを信頼して仲良くできる方法は、すでに社会の本流で採用されている方法だけだった、ということだ。

では、これらを全部ひっくるめた結論は何か? それは、人類は多くの面で極めて柔軟な種であり、社会的学習に強く依存し、行動規範を押し付けることにより社会的相互関係を大幅にコントロールできるが、同時に、社会関係に対し特定の方向にバイアスをかけている進化心理学や生物学的に継承された素因のセットによって、ときにはむしろ驚くほど強い制約を受けている、ということだ。だからこそ、私たちが素朴に「人間性」だと思うことの多くは、実際にはまったく生まれつきではなく社会起源であるにもかかわらず、多くの場合、変化には驚くほど強い抵抗があるのだ。

繰り返すに耐える点はもう一つある。この分析は、「進歩的左翼」が、なぜどのように危険になりうるかを理解するのに役立つ。左翼を自認する人たちの多くは、自分たちを道徳的に立派な人だと思っているので、自分たちに何か悪いことができるとは想像することすら難しい。だからこそ、左翼、あるいは、少なくとも左翼に幅広く支持された政府が、20世紀の歴史の中で7千万~1億人の自国民を殺したということは思い出す価値がある。その原因の大部分は、彼らの追求した政治的なユートピア計画が、ほとんどの人たちの能力を超えたレベルの向社会的行動を示すことを個人に求めたという事実にあった。このような計画が失敗したり抵抗に直面したりし始めたとき、政府は「人間性」の限界に直面したということを認める代わりに、「反革命」「ブルジョワ」「反動的」要素のようなスケープゴートを探し、計画の邪魔をしたという責任を押し付けた。その結果は悲劇的だった。

これこそが、「社会構築主義」の話題が一部の人をピリピリさせる理由だ。問題は、私たちは、一方で正義を求め、他方で人間性に制約されているということだ。この両者の関係を原理的に考える方法を、あるいは、前者を後者に合理的に統合する方法を、私たちはまだ定式化できていない。この問題を、ジークムント・フロイトはきわめて明確に認識しており、「文化への不満」という著作の結論の中で、彼が「文化の超自我」と呼んでいるものに対して次のような批判を展開している:

文化の超自我も人間の心の構成という事実に十分に配慮せずに命令するだけで、人間がその命令に従うことができるかどうかは、考えてみようともしないのである。超自我は、人間の自我は、命じられたことは心のプロセスとして何でも実行できるし、自我は自分のエスに無制限な支配を及ぼすことができることを前提としているのである。しかしこれは間違った考え方であり、いわゆる正常な人間においても、エスを無制限に支配することはできないのである。もしもエスを無制限に支配するように求めるならば、個々の人間は反抗するか、神経症になるか、それとも不幸になるしかないのである。『隣人を汝みずからのごとくに愛せよ』という命令は、人間の攻撃欲動の拒絶としてはもっとも強いものである。これは文化的な超自我がいかに人間の心理を理解せずにふるまっているかを示す傑出した実例なのである。この命令は実行できない。このような形で愛を<水増し>することは、愛の価値を引き下げるだけで、苦難を取り除くことにはならないのである。しかし文化はこうしたすべての状況を無視してしまう。命令にしたがうのが困難であればあるほど、その命令を実行した者は称賛に値すると訴えるだけなのである。
(「文化への不満」ジークムント・フロイト著、中山元訳)

この問題に関する思想が、前世紀の間に多少なりとも進歩したとは、筆者には思えない。

ジョセフ・ヒース「税が税でない場合とは? 炭素税vs.炭素価格」(2014年7月19日)

When is a tax not a tax? Carbon taxes vs. carbon prices
Posted by Joseph Heath on July 19, 2014 | economy, environment

『炭素税』のアイデアと、それを「税」と呼ぶにふさわしいかどうかに関しては、カナダにおいて全国的に一定の混乱があるようだ(例えばココ)。炭素税のような政策的枠組みを支持者する人たち(私も含む)は、これを『炭素価格付け』制度と呼んできた。『炭素税』とその他多くの「従来の税制度の枠組み(所得税や消費税)」との相違点を強調するためである。(そして右派による「あらゆる税は悪である」誹謗監視網を避ける為でもある)。このことは、「炭素価格付けの政策的枠組み」への反対者達(現政権や、言及するまでもない右派マスコミ内の政権の忖度野郎ら)を、「炭素価格付けは税である」と執着することに至らしめてしまった。実際、現職の環境大臣は、政権のマントラ「炭素価格付けは、単なる税ではない、森羅万象への課税である」を輪読する機会を決して逃さない。(前任の環境大臣は「あらゆる形態の炭素価格付けは、炭素税である」と口角泡を飛ばしていた。)

このようなしつこい主張には、市場経済の基礎原理への非常に深刻な誤解が実質的に内在されている。誤解を晴らすために、『炭素価格付け』は実のところ価格付け制度であって、税ではないことを示してみたい。この「価格付け制度であって、税ではない」という見解を拒否している人は、混乱しているか、意図的に混乱を流布している。大抵は混乱しているのだ。そして、混乱している人の典型的理由は、税金について長年費やして大騒ぎしておきながら、価格とは何であるかについて深く考えてみたことがまったくないからなのだ。

なので、「税は何をもってして税と呼ばれるに値するのか?」といった本題に入る前に、「価格とは何であるのか?」、「我々はなぜ価格を保持しているのか?」といった最初の基本原理に立ち返るところから話を始めてみたい。なぜ「価格」なんてものが存在しているのだろう? それは市場経済の2つの根元的な構成要素の直接的な帰結だ。「財産権」と「契約」である。古典的財産権は、「独占権」という中心的な特徴を持っている――財産権は、財の所有者に対して、所有財を他人が使用したり、財の享受を阻止する権利を付与しているわけである。例えば、私が特定区画の土地を所有しているとしよう。すると、私は他人がその土地を歩くのを規制する権利を有していることになるわけだ。車を所有してる場合、他人がその車を運転することや、車に危害を加えることを禁止する権利を有していることになる。1杯のコーヒーを所有している場合、他人がそのコーヒーを飲むのことや、それへ唾を吐くのを禁止する権利を有していることになる。以下続く…。

もし何者かが、私の土地を徘徊したくなったり、私の車を運転したくなったり、私のコーヒーを飲みたくなったら、実際何が起こるだろう? 大抵の場合、その何者かは、私の許可を求めて、自有財産の使用権や享受権を「誘因」として提供しての説得が必要になる。これこそが、契約に基づいた交換の原理原則である。あなたが(私のコーヒーを飲むような)通常は財産権の侵害と見なされるような行為に私が許可を与えるとすれば、あなたは私が欲するものをお返しとして与えるわけである――まあつまりは、あなたは私に支払いを行うわけだ。ここで「価格」が登場するわけである――「価格」とは、財産権の放棄や譲渡条件といった、諸個人の他者との同意が確認再表示された用語なのだ。

ここで言及しておかねばならない重要なことがある。この価格を巡る全過程において、国家が非常に重要な役割を担っていることだ。諸個人は、どんな場合であれ自身が望む取引を自由に締結できるという意味において、価格への自由決定権を有している。あなたは、私のニワトリを所望し、代わりに一袋のニンジンを支払う契約を結んだしよう。にもかかわらず、私はニワトリを与えたのに、あなたは私にニンジンを手渡さなかったとする。この場合、私は、国家に訴えることで、あなたにニンジンの支払いを強制させることができる。あなたが私の土地に不法侵入し、私のニワトリを殺害したとしよう。この場合も同様に、私は異議申し立てし、国家を通じて「賠償」支払いを強制させることが可能となっている。賠償金額は基本的に、裁判官か陪審員による最適推定値とり、あなたはその「賠償」を支払わねばならないだろう。賠償の履行によって、私がニワトリの殺害を許可をしたのと同じ状態になることが目的となっている。つまり、全ての価格は、財産権と契約の関係に応じて執行される法制度の産物であるという意味において「人工的」なのである。

こういった価格協定全体の中核には、究極的なまでに重要な道徳概念が位置している。それは、諸個人がなんらかの行為を決定する場合、自身の行動が他者に及ばす影響を考慮に入れねばならないという、道徳概念だ。もし私が土地の一角を利用しているとしよう。すると、他者はその土地を利用することができないことが意味されている。もし私がニンジンを食べたとしよう。すると、他者はそのニンジンを食べることができないことが意味されている。森羅万象を財産権に分割することは、こうした自身の行動が他者に及ばす影響を自明化する方法の1つとなっている。私が他者の土地やニンジンに対して支払いを負っているという事実があるなら、他者もその土地を利用したかったり、食べたがっている事実の反映なのだ。そして、私が財を得るために負っている支払い総額は、私がその財を使用ないし消費すれば、他者にどれくらい不遇を引き起こすかの直接的な役割を果たすことになっているのだ。(標準的な厚生経済学における)「最適」価格によるなら、個人の支払い総額は、『社会的費用』と正確一致するものであるとされている。『社会的費用』とは、いわばその個人の所有ないし消費が、他者にもたらした不遇なのだ。

市場についてこのような方法で考えることは、私が価格付けの「謝罪」モデルと呼んでいるものを引き起こすことになる――「謝罪モデル」とは、もし人が何らかに料金を支払った場合、その人は自身の消費によって不便を感じたすべての人に謝罪していると考えねばならない、との考え方だ。

今度あなたがスターバックスで1杯のコーヒーを買うときには、バリスタにこう言っている自分を想像してほしい。「ごめんなさい、他のことができた時間に、私にコーヒーを滝れてもらって。他の方々にもどうか伝えてくれませんか、同じようにお詫びしていたと。オーナーさん、地主さん、船会社さん、コロンビアの農家の方々にも。この1ドル75セントが困難の全ての対価です。どうかあなた方で分けてください」。
ジョセフ・ヒース『資本主義が嫌いな人のための経済学』( p. 160)

このような私の書き方、ジョーク、ないし一介のカナダ人による奇矯な経済学理解に聞こえるかもしれない。しかしそうではないのだ。これは、市場経済における価格機能の実際の在り方を正確に表記したものであり、資本主義における道徳の中心的な基礎もまた同様なのだ。

価格制度の根底にあるこういった単純な原理から始めることで、環境保護規制は、同じ原理のほんの小さな拡張を表していることにすぎないことを容易に理解することが可能となっている。あなたは、破棄したい生ゴミを持っていて、私の私有地に投棄処分したがっているとしよう。あなたの投棄は、私からすれば私有地からの享受を減少させることになるだろう。なので当然のことながら、私はあなたを止めるために、財産権の行使が可能となっている。あなたが私の私有地へ生ゴミを投棄するなら、私への金銭支払が必要となっているわけである。だがしかし、あなたは賢明になり、投棄する代わりにゴミは燃やすと決めたとしよう。燃やした結果、悪臭の煙が今や私の土地を漂うことになり、さらなる度合いでもって私有地からの私の享受は減少することになる。不幸なことに、こうなってしまっても、財産権は私を守ってくれないのだ。私有地上の大気まで「保持」していないからである。つまり、私有地の周りにフェンスを建設することは簡単なのだが、大気まで囲い込むことは非常に難しいわけだ。ただ補足しておくと、このように財産権行使の限定的な事例を挙げることで、〔人はなんらかの行為を行う場合、他者への影響を常に考慮せねばならない〕道徳的原理こそがこの件の本質にあるのだ、と言いたいわけではない。道徳的原理はここでは純粋に二の次的な問題に過ぎない。もっともそれでも、基本的な道徳的原理はやはり変わらず重要である――つまりは、あなたはなんらかの行動を行う前には、その行動が他者にコストを課す事について、考慮しないといけないのだ。論を戻そう。もしあなたが、私の私有地からの享受を減らすようなことを行えば、あなたは私への支払い義務が生じる。故に、私はあなたを裁判所に連れていき損害賠償を強いることが可能となっている。そこでは、私が自身の私有地上の大気汚染を許可するのに、あなたは私に幾ら支払わなければならないのかが、裁判官よる最適推定価格として再提示されることになるだろう。

もし、煙が私の私有地上だけを漂うのではなく、他の人達の私有地上にも、薄いモヤとして漂って底流し、土壌が汚染されるような事になれば何が起こるのだろう? 我々は、民事訴訟を「集団行動」として組織し、あなたに賠償金支払いを強要するのが可能になっている。ただ、民事訴訟のような組織化を行えば、甚大なコストがかさむだろう。法廷で本当に争ってしまった場合はどうなるかは言うまでもない。なので、国家によるシンプルに罰金を課すような取り決めの行使が、前もっての解決手段として許容されているわけである――生ゴミのようなものを燃やしたい人皆に課される罰金だ。こういった取り決めは、汚染の生成による「社会的費用」の反映となっている。ここまで検討での重要な論点、それは国家が「社会活動」に価格付けを行っていることにある。不完全性が無い市場や私的所有制度によって帰結されるに至った市場価格と、国家によって行われる社会活動への価格付けの達成は、〔同じ社会的価値反映の〕単に異なる方法にすぎない。(ロナルド・コースによって提唱された、有名にして若干の間接的な論点である)。

重要な論点がもう一つある。国家が〔価格付け制度から得た〕お金で何をするかは、どうでもよい論点なのだ。諸個人が意志決定を行う時、様々な選択肢を比較検討するが、その時諸個人が向き合うことになる費用には選択肢それぞれの社会的費用が反映しているはずだ、というのが価格システムのコア概念だ。この価格システムのコア概念によって、社会的に最適な意志決定が形成されるので、我々は市場を尊重するのである。国家が汚染に価格付けを課すことは、この最適意志決定が社会的に達成されることとなる。国家が、価格付けで得た資金を後に全て無駄遣いしようとしまいと、まったくどうでもよいのだ。

すると「税」とは何なのだろう? 今日の保守派の言及論点に従うなら、政府の歳入を上げるものは何であれ「税」となっている。これは定義として漠然としすぎていることは明白だ。政府が公債を売るのは、税を課したことにはならない。同じく、政府が公的保有している土地の売却を決定し、その売却が歳入を生んだとしても、その土地を購入した人に税が課されたことにはならない。政府が土地を売ったときに行っているのは、「税を課す」などではなく、「土地を価格付けしている」のである。右派政権は、しばしば減税を行いつつ、減税による歳入不足を補うために〔公的サービス等の〕使用料の値上げを行おうとする――その際、右派政権は主張する、「我々は増税しない公約に留意している」と。これも似たような言説である。(そう例えば、右派政権が低い固定資産税の維持に固執したことで、地方自治体の水泳教室の価格が上昇するかもしれない。しかしながら、これも実際には増税ではない。政府は単に水泳教室を販売しているだけであり、民間企業と同じことを行ってるに過ぎないからだ。)

すると、税を税にしているものは何なのだろう? 税の最も重要な特徴は(私の考える限りでは)、歳入を上げる目的に課せられているものであり、行動を変じる目的には課されはいない。所得税が最適事例だ。所得税の主要目的は、単に歳入を上げることにあり、人の収入動機を挫くことにあるわけではない。消費税も同様だ。経済学者達が、多くの時間を費やして税の「歪み」効果について悩んでいるのには理由がある。それは、税のインセンティブ効果が、望ましい社会行動様式に反した特徴となり具現化してしまうことにある。なので、効率的税制度の究極目標は、この「歪み」をできる限りに最小化することにある。故に、経済学者にとっての理想的な税は、「人頭税」(ないし「税の個人支払いの一元化」)となっている。人頭税や一括支払い税を課せられる人は、その税を逃れたり、支払いを最小化する方法がまったく存在しないからだ。そして、人頭税や一括支払い税は、人の行動を変ずることなく歳入を上げるからでもある。これとは別に、経済学者達に好まれる税制度に、『奢侈税』や『資源使用量』のような、”エコノミック・レント(経済的上乗せ利益分)”に課す税もある。これらもまた、行動を変ずることなく、歳入を上げるからだ。(ただ、これらがなぜ好まれるかの詳細な説明するならやや複雑なものとなる…)。

ここまで説明したことで、保守派が一様に税に敵意を持っている一方で、財の利用手数料や価格には敵意を持っていない理由がおわかりいただけだろうか。穏健右派は、税の「歪み」効果による社会的効率の損失を理由に、税に反対してわけである。極右派が税に反対するのは、税が国家の歳入を上げるメカニズムの代表事例だからなのだ。そして、極右派は、国家の歳出そのものに原則的に反対している。(概して、こういった保守派の税への反対は、あらゆる種類の再分配、すなわち「不相応な利得」への強い反対に基いている。故に、政府が提供する水泳教室を使用者に請求するのは、使用者は受け取ったサービスに応じて金銭支払いを行っているだけなので、保守派的には万事問題無しなのである。一方で、政府が個人に固定資産税を課すのは万事問題有りなのである。なぜなら、個人が受け取る地方自治の公共サービス――警察による治安維持、道路整備、降雪除去、等々…――は、税支払いの対価と正確に一致する保証がないからなのだ。〔税金を支払うことになる保守派は〕自身のお金の一部がサイフォンで吸い上げられているのでないか、自身のお金が公共サービスが受けるべきでない人にも与えられているのでないか、と常々戦々恐々しすることになるようだ。どうも保守派の多くは、誰かが不相応な利得のようなものを享受する可能性に悩まされるくらいなら、公共サービスは無いほうがいっそ良いとのことらしい。)

『価格付け制度』は、税とは対照的に、まさに行動を変えることに目的がある。価格は、人々の様々な行為(消費行為、自身の使用行為、使用行為から他者を排除する、等々…)を抑止する意図を持っている。人が本当に価格付けられたものを必要としない限りは…。つまり、人にとってその価格付けられたものからの便益が、他者への損失を十全なまでに上回らない限り、価格は人の行為への抑止意図を発揮するわけである。これは、ほとんどの財の価格が、市場によって決定されていることを我々が受け入れている理由となっている。どういうことなのだろう? 競争市場は、私的利益を社会的費用としての価格に均衡水準化する最適な制度だからなのだ。この見解は少し奇妙に聞こえるかもしれない。私があなたにニンジンを売った場合、私個人が意図しているのは、単にお金を作ることにあり、私的利益と社会的費用を均等化させようなどとは意図していないからだ。しかしながら、価格制度を私的意図の観点から考えてしまうことは、間違えた考え方なのである。個人が何を意図してようと争点はそこにはない。問題になっているのは、諸個人はニンジンに自由に価格付けを行えることにある――逆に考えれば、ニンジンには法的に価格が定められていないことが争点になっている。ニンジン対して諸個人が価格を自前で設定させられていること、これこそがこの争点化している問題の解答だ。「価格を自前で設定させられていること」は、高い慨然性をもってして、我々を価格を私的利益と社会的費用の均等化作業に至らしめることになる。

この見解を敷衍させると、政府が国有地の一部を売った場合も、政府自体の目的はお金を作ること(つまり歳入を上げること)にあり、政府自体は私的利益と社会的費用の均等化を目的にしてはいないことになる。それいて、国有地の売却は税にならないのだろうか? 私が独自定義で悶着してるだけなのだろうか? なんらかの価格が税であるかどうかは、その価格がいったい何に基いて定められているのかに依存している、と私は論じたいのだ。競争的な市場価格によって地価が計測され、売買が試行されている場合、私は単に「土地が価格付けられている」と言うだろう。対照的に、例えば、土地を非常な高価格で売ることを目的に、土地の供給余地が制限されているような土地の専売権行使が存在しているとしよう――香港政府が行っているようなやり方である。この場合は、土地を購入する人(例えば不動産ディベロッパー)に「課税する」という言い方が妥当になる、と私は考える。政府が「市場」価格で土地を売る場合、以上の専売権行使の場合とは異なり、歳入を上げるという事実は、幾分だが付随的な事柄にすぎない。例え、政府が国有地の売却収益を翌日に気まぐれに散財したとしても、その土地を最適利用できる人に資された保証として、「土地を価格付けして売却した」ことに重要論点があることは損なわれない。

ここまで、微妙な論点にこだわっているように思えるかもしれない。しかし、この論点を、環境問題に適用した場合、それは明白かつ直接的に適用妥当案件となるのだ。二酸化炭素を排出することは、(国境を越えたグローバルな温暖化のメカニズムを介することで)コストを他者に押し付ける行動の完璧なまでの典型事例となっている。それでいて、現行の財産権は、二酸化炭素排出コストの他者への転嫁を防ぐ仕組みにはなっていない。つまり、財産権や契約の古典的メカニズムは〔他者転嫁した排出コストを反映して〕価格を引き上げるようには至っていないのである。それでいて、価格付けの「謝罪」モデルの観点から考えてみれば、大気中へ二酸化炭素の排出を行った人は、排出によって不便をかけた全ての人に謝らなければならないのは明白である。二酸化炭素を排出した人が謝罪を負っていない現実は、財産権のシステムが政府の専制的制限下にあり〔排出コストまでカバーしていない〕ことに起因している。つまり、大気が問題領域になっても、人は財産権を行使して解決する手段を有していないのだ。

別途手段を検討してみよう。諸個人が集まり、二酸化炭素を排出している人々に補償を要求するのも、法外にコストがかかるだろう。さらなる別途手段、二酸化炭素排出を「違法行為」として扱う解決策も、「財産権」による解決策と同じく効果的ではないだろう。よって人が温室効果ガスを排出する場合、他者にどれくらい賠償せねばならないかの決定のお鉢が、国家に回ってくることになる。なので政府は、なんらかの費用便益分析(例えばスターン・レビュー)にコミットした上で、「炭素価格」を課すことになる。費用便益分析は、人が二酸化排出を欲したとし、さらにその排出の影響を受けた人々が集まって協議し同意が行われたと仮定した場合の市場価格基づいて設定される。ここで政府が一連の政策に課した「炭素価格」――それを我々はそれを「炭素税」と呼んでいるのだ。

繰り返させてもらうが、こういった政策枠組みを「価格」として考えることは、政策が歳入を上げる重要性が、二の次になる事実の反映となるのだ。たとえ、国家が炭素価格付けの政策枠組みからの全ての歳入を気まぐれに散財したとしても、この政策は実地される価値を持つ――どういうことか?――国家がこの政策を実地している環境下では、人は意志決定を行う場合、その意思決定が他者に課すことになるあらゆるコストを考慮することが強要されるようになるからである。実にこれこそが、数回前の選挙において、自由党が「グリーン・シフト」を提唱していた理由だ。提唱政策では、炭素税は、同等規模の所得税減税を組み合わせた課税政策と紐付けられていた。政策を包括的に履行すれば、歳入は中立になっていたわけである(故に、「シフト」と呼ばれていた)。グリーン・シフト政策の目的は、より効率的な経済的インセンティブを作り出すことにあって、歳入を上げることにはなかった。言い換えるなら、「炭素価格」の試算にあったのだ。

この歳入の中立性こそが、「炭素価格付け」に反対している党の方針に面従腹背している経済に精通している保守派が、悪辣な不誠実さを患っている理由だ。経済に精通している保守派は知っているわけである。もし人々が市場経済の根底にある基礎的な原理を受け入れ、さらに気候変動が人為的であることの科学的なコンセンサスを真実だと考えた時、「グリーン・シフト」や、炭素価格付けのような政策に、一般的に反対することに、筋の通った論拠が単純に存在しなくなってしまうことを。保守党支持者達がこういった政策に反対している事実は、(酪農産業の供給管理への加担と極めて似通っている)愚存な政治的ご都合主義の行使――自由市場の基礎的な原理への毀損に立脚している。不幸なことに保守党支持者達は、この問題では自縄自縛に陥っており、適切な政策の提示が不可能になってしまっているのだ。

ここまで語ってきたこと全て、国家が価格の調整を試みる際に手数料を課すような政策に適切な名前(例えば、ピグー税)を思いつける人からすれば、マズい考えではないだろう。例示してみると「有料道路制度」、我々はそれを「通行料」と呼んでおり――「税」と呼ぶより正鵠を射ている。貿易制限の場合、我々は「税」ではなく「義務」と呼んでいる。なので、炭素価格付け政策の枠組みは、炭素「課徴金」とでも呼ぶのがおそらく適切なのだろう。ただ、上記の通行料、税、義務、課徴金といった様々な様態を広く包括した用語があればより適切かもしれない。

※訳者による注釈は〔〕で括っている

ジョセフ・ヒース「なんでも人種化に抗して」(2018年4月25日)

[Joseph Heath, “Against the racialization of everything,” In Due Course, April 25, 2018]

私も含めていろんな学者が飽きもせず繰り返し語ってきたように,人種は社会的な構築物だ.だが,こう語る多くの人たちは,社会的構築物ですよとそっけなく語ってすませて,そのあとは人種が永遠不変の自然種であるかのように扱いつづける.私に言わせれば,人種が「構築物であること」を強調する要点は,人種がそれ抜きですませられない社会的カテゴリではないことを強調するところにある.人種というのは,個々人の素性や対人的なやりとりの特定の側面を切り取る独自の方法だ.だが,ものごとの切り取り方なら他にもあるし,必ず人種という切り取り方をしなくてはいけないわけでもない.こう考えると,どんな場面であっても,いったい今ものごとを切り取るのに人種が最善の方法なんだろうかと問うのは理にかなっている.問題は,カテゴリとしての人種が本当にその場面で重要なことをうまくとらえるのかどうかだ.
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