経済学101は主に皆様の寄付によって賄われています。温かい支援をお待ちしています

マーク・ソーマ 「消費経済の歴史は想像以上に古い?」(2005年9月8日)/ アレックス・タバロック 「自壊する絵 ~本物のアーティストがここに~」(2018年10月6日)

●Mark Thoma, “The Consumer Driven Economy”(Economist’s View, September 08, 2005)


消費経済(消費者主導の経済)の歴史は思っていたよりも古いようだ。


上の画像は大英博物館が公表した「嘘っぱち」の洞窟壁画。大英博物館に展示されていた作品で原始人がショッピングカートを押す姿が描かれている。作者は匿名の「アート・テロリスト」ことバンクシー(Banksy)。大英博物館に無断でこっそり置いていったという。・・・(略)・・・〔全文はこちら1

——————————————————————————————————-

●Alex Tabarrok, “Banksy is the Real Deal”(Marginal Revolution, October 6, 2018)


Hyperallergic: 金曜日の夜にロンドンで開催されたオークションでバンクシーの作品が「自壊」した

競売大手のサザビーズが取り仕切るオークションの午後の部の締め括りとして登場した(バンクシーの代表作である)『少女と風船』(2006年制作)。「95万3829ポンド(約1億4000万円)!」という印象的な掛け声とともにオークションは終了。

キャスターライン・グッドマンギャラリーの創業者であるロバート・キャスターライン(Robert Casterline)もオークション会場にいた一人。我々の取材に対して落札直後に何が起こったかを説明してくれた。「オークションの終了を告げる小槌が打ち鳴らされた瞬間でした。額縁の内側から警報音が鳴り響いてきたんです」。会場は「大混乱」。

「百万ドルを超える値で落札され、私も含めて聴衆の面々が席に座ろうとしたその時です。絵が突然動き出したんです」とキャスターライン。作品が収められている額縁もバンクシー本人が用意したものであり、シュレッダーが仕掛けられていたという。作品が落札されるやシュレッダーが作動して絵をバラバラに裁断し出したというのだ。「はじめのうちはすっかり混乱して何がなんだかわかりませんでしたが、しばらくすると興奮に襲われて震えましたね」とキャスターライン。

サザビースの現代アート部門(欧州地域)の責任者を務めるアレックス・ブランクチク(Alex Branczik)がアート・ニュースペーパーの取材に応じているが、どうやら彼も会場にいた一同と同じくらい仰天したようだ。

バンクシーって天才だね。

  1. 訳注;リンク切れ。ちなみに、バンクシーが件の作品を大英博物館に無許可で置き去ったのは2005年のことだが、今現在は晴れて「許可を得て」大英博物館に置かれているとのこと。大英博物館にて開催中の展覧会(会期は2018年9月6日~2019年1月20日)で正式な作品として展示されているらしいのだ。 []

マーク・ソーマ 「アートとしてのお金」(2005年12月8日)

●Mark Thoma, “Money as Art”(Economist’s View, December 08, 2005)


秀でた交換手段たるためにはいくつかの原理(条件)を満たさねばならない。標準化が容易である(品質にバラツキがない)こと、その価値を計測するのが容易であること、一般受容性を備えている(誰からも広く受け入れられる)こと、持ち運びが容易であること、貯蔵可能であること、耐久性を備えていること、分割可能であること、その数量を容易にコントロールできること。スイス紙幣(フラン紙幣)の新デザイン案は「一般受容性」の原理に抵触する可能性がある。

Swiss distressed over currency redesign”, Bloomberg News:

スイス中が騒然としている。新たに導入される予定の紙幣に胎芽や赤血球が描かれる可能性があるためだ。新紙幣のデザイン案は「ぞっとするばかりです」と語るのはヴェレーナ・グラフ氏。今はもう引退しているが、かつて銀行で文書管理を担当していた人物だ。・・・(略)・・・「私なら人間が描かれている旧紙幣を使い続けるでしょうね」。新紙幣のデザイン案は今年(2005年)の11月に・・・(略)・・・中央銀行(スイス国立銀行)主催のデザインコンペでグランプリを獲得したものだ。・・・(略)・・・「紙幣はスイスという国の名刺に他なりません」。そう語るのはジャン=クリストフ・アマン(Jean-Christophe Ammann)氏(66歳)。フランクフルトモダンアート美術館の前館長であり、デザインコンペの審査委員長を務めた人物だ。・・・(略)・・・しかしながら、審査委員会が下した判断は国民の意見を代弁したものとは限らない。スイスで銀行員として働くビジネスマンの必読紙となっているノイエ・チュルヒャー・ツァイトゥング紙は・・・(略)・・・新紙幣のデザイン案には「お金が備えるべきエロティシズム」が欠けていると断じている。・・・(略)・・・審査委員会は(チューリッヒ在住のアーティストである)マヌエル・クレブス(Manuel Krebs)氏の案に軍配を上げたが、クレブス氏の案が新紙幣のデザインとして採用されるかどうかはまだ決まっていない1。1991年にも新紙幣の導入に伴ってデザインコンペが開催されているが、その際は三等賞のデザインが新紙幣のデザインとして採用されるに至っている。・・・(略)・・・「原則としては紙幣にはスイスの国柄を象徴する何かが描かれるべきでしょうね。その『何か』として人間(スイスを代表する歴史上の人物)を描いてはダメということになれば代わりに何を描けばいいでしょうか? 山だとかチーズだとかでしょうか?」と語るのはチューリッヒ在住のコンピュータープログラマーであるトマス・ブルウィーラー氏。・・・(略)・・・(デザインコンペでグランプリを獲得したクレブス氏による)10フラン紙幣のデザイン案では表面に球形の惑星が描かれており、裏返すと同じく球形の赤血球が描かれている。(クレブス氏による) 100フラン紙幣のデザイン案では表面に胎芽、裏面に世界地図がそれぞれ描かれており、脳の図柄の透かしも入っている。(デザインコンペの審査委員長を務めた)アマン氏は語る。「スイスではお金に特別な地位が付与されています。数字と署名入りのグラフィックアートという地位です」。・・・(略)・・・

  1. 訳注;最終的にクレブス氏の案は却下され、新紙幣のデザインには次点の案が採用されることになった。 []

マーク・ソーマ 「あれから四半世紀 ~25周年を迎えたローマーモデル~」(2015年10月3日)

●Mark Thoma, “‘The Romer Model Turns 25’”(Economist’s View, October 03, 2015)


ジョシュア・ガンズ(Joshua Gans)のブログより1

The Romer Model turns 25”:

Endogenous Technological Change”(「内生的な技術変化」)と題されたポール・ローマーの論文がJPE誌(ジャーナル・オブ・ポリティカル・エコノミー誌)に掲載されたのは25年前の今月(1990年10月)のことだ。引用回数は2万回を超えており、経済学の論文の中でも過去25年の間で最も影響力のある論文の一つとなっている。技術変化(生産性の上昇)というのは天から降ってくるようなもの(外生的な変化)なんかではなく、新たな知識の創造(新しいアイデアの発見)に向けて資源が割り振られることを通じて引き起こされる。そのことを知識の創造に向けた資源の割り振り(配分)に影響を及ぼすインセンティブ構造を詳らかにした上で曖昧なところを残さないかたちでモデル化したのがローマーの1990年論文。論文の内容を手短に要約するとそうなるだろう。同様の試みは過去にもあったし――そのあたりのあらましは2006年に出版されたデビッド・ウォーシュの傑作を参照されたい――、ローマーと時を同じくして対抗馬となるモデルを作り上げた面々(アギオン、ホーウィット、グロスマン、ヘルプマン、アセモグル、ワイツマンなど)もいた。しかしながら、経済学者の尻に火をつけて長期的な経済成長の再調査――その再調査は十年単位に及ぶ息の長い取り組みとなったが、学生時代の私もその流れに乗らせてもらったものだ――に向かわせる起爆剤となったのはローマーのモデルだったのだ。

内生的成長理論の分野におけるモデルの開発は今も続けられているが、そのような最近の試みに対してローマーが批評を加えていることについてはしばらく前に取り上げた。ローマーの標的となっているのはロバート・ルーカスらによって練り上げられている一連のモデルだ。ルーカスらのモデルではローマーの1990年論文によって代表される従来の内生的成長モデルとは異なった想定が置かれている。ローマーらのモデルでは「不完全競争」が想定されている一方で、ルーカスらのモデルでは「完全競争」が想定されているのだ。この話題を蒸し返すのはやめておくが、一言だけ述べておきたいことがある。(1990年の論文で産声を上げた)「ローマーモデル」は断じて数学的ではないというのがそれだ。ローマーの1990年論文は言うまでもなく理論研究に属するものではあるが、どの数式についてもどの前提についてもその根拠が注意深く検討されている。数式による説明と同じくらい言葉による説明にスペースが割かれている。モデルはどのように振る舞うか? モデルがこのように振る舞うのはなぜか? かような結論が導かれるのはなぜか? 「ローマーモデル」はそのあたりのことがすっきりと了解できる仕様になっているのだ。

この後に「ローマーモデル」の詳細な解説が続くが、その後にガンズは次のように問いかけている。

内生的成長理論の研究が一時に比べて下火になったのはなぜなのだろうか?

締めの言葉は以下の通り。

まとめるとしよう。「ローマーモデル」は経済成長の研究を大きく前進させる節目となった偉業である。経済理論上のモデルとしてうっとりするほどの美しさを備えた作品である。しかしながら、やるべきことはまだ残っている。新たな知識(アイデア)が次々と積み重なるようにして経済成長がもたらされるように、経済成長の研究の世界でも知識の累積的なプロセスが働いてゆくゆくは残された課題が解決に向かうことを願ってやまない。

  1. 訳注;ちなみに、ガンズに触発されるかたちでローマー本人も自身のブログで1990年の論文を回顧している(計7回にわたるシリーズ物;巻頭を飾るエントリーはこちら)。 []

マーク・ソーマ 「『ピン工場』と『見えざる手』との相克 ~クルーグマンによる『Knowledge and the Wealth of Nations』の書評~」(2006年5月3日)

●Mark Thoma, “Krugman: Review of ‘Knowledge and the Wealth of Nations,’ by David Warsh”(Economist’s View, May 03, 2006)


ポール・クルーグマンがデビッド・ウォーシュの新刊(『Knowledge and the Wealth of Nations』)の書評を物している(ちなみに、ウォーシュの本では経済成長論における「規模に関する収穫逓増」の役割がテーマとなっている)。興味深い内容だ。

The Pin Factory Mystery, Review of ‘Knowledge and the Wealth of Nations,’ by David Warsh”, Review by Paul Krugman, Sunday Book Review, NY Times:

経済学のアイデアは現実世界を形作る上で大きな役割を果たす。かのジョン・メイナード・ケインズも語っているように、「いかなる知的影響からも自由だと信じ込んでいる実務家も今は亡き過去の経済学者の奴隷である(受け売りをしている)に過ぎないことが往々にしてあるのだ」。そうだとすると、経済学上の数々のアイデアがいかなる社会的な背景や人的なネットワークを通じて生み出されるに至ったかを詳らかにする一般向けの書籍がたくさんあってもよさそうなものだが、その数は不可解なほど少ない。ジェームズ・ワトソンの『二重螺旋』やジェームズ・グリックの『ファインマンさんの愉快な人生』(リチャード・ファインマンの伝記)の経済学版は長らく書かれぬままという有様なのだ。 

その溝を埋めるべくデビッド・ウォーシュが渾身の力を込めて上梓した労作が『Knowledge and the Wealth of Nations』だ。本書では1970年代後半から1980年代の後半にかけて経済学の世界に旋風を巻き起こした(ものの、一般世間ではほとんど気付かれていない)「知的革命」の顛末が物語られている。「その革命の重要性はいかほどのものだったのか?」という問題についてはまた後ほど触れるとしよう。最終的な到着地点についての評価は各人各様ではあろうが、ウォーシュが本書を通じてアダム・スミスの昔から現代までにわたる経済思想の世界――および経済学者の生き様――への実に魅力的な旅に読者を誘ってくれることだけは疑いない。・・・(略)・・・本書が抱える些細な欠陥をあげつらうのは後に回してまずは本書の美点に目を向けるとしよう。

1776年に経済理論の中心部に「大いなる矛盾」が埋め込まれることになった。1776年というのはアダム・スミスの『国富論』が出版された年にあたるが、ウォーシュの口から語られるのはその「大いなる矛盾」――ウォーシュ本人による表現では「『ピン工場』と『見えざる手』との相克」――をめぐる物語だ。アダム・スミスは『国富論』の中で「分業」を通じて生産性が急上昇する可能性を一方で強調している。そのことを例示するために持ち出されているのがかの有名なピン工場の話だ。ピンの製造工程を細分化した上で従業員一人ひとりに別々の作業を割り当てる。従業員らは割り当てられた個別の作業に専念(特化)することになるわけだが、そうしたほうが(製造工程を細分化せずに)従業員一人ひとりにピン作りをはじめから終わりまですべて任せる場合よりも結果的にずっと多くのピンが作られるというわけだ1。その一方で、スミスは『国富論』の中で「見えざる手」の役割も強調している。市場経済には利己心を公共の利益に結び付ける力が備わっている可能性があることに誰よりも早く気付いたのはスミスだった。市場には各人をして「本人の意図していない目的の促進に向けて見えざる手」に導かれるかのように振る舞わせる力が備わっているというわけだ。

「『ピン工場』と『見えざる手』との相克」と言われてもなんでそうなる(両者が対立する)かはあまり判然としないかもしれない。そのあたりの事情を詳しく説明するとこういうことだ。ピン工場の寓話は「規模に関する収穫逓増」(以下、「収穫逓増」と省略)に関する物語でもある。ピン工場の規模が大きくなるほど分業の余地も大きくなり、それに伴ってその工場で働く従業員一人あたりに換算したピンの生産量も増える可能性があるというわけだ。その一方で、「収穫逓増」は産業の独占化を促す圧力ともなる。その理由は大会社ほど生産規模を拡張する余裕があるために「規模の経済性」の恩恵を受けられる(財一単位あたりの生産費用(平均費用)を低く抑えられる)可能性が高いからだ。「収穫逓増」が成り立つ産業では大会社が中小の企業を市場から追いやり、その結果としてその産業は少数の大会社によって支配される傾向にあるのだ。

しかしながら、「見えざる手」の力が十全に発揮されるためには産業内に数多くのライバル企業がひしめいていて互いに競争し合っていなければならない。独占力を行使し得る(価格に影響を及ぼし得る)企業がいてはならないのだ。「自由な市場に任せておけば何もかもうまくいく」という発想の背後には(「収穫逓増」ではなく)「収穫逓減」という前提が控えているのだ。

2世紀あまりもの長きにわたり、経済思想の世界では「収穫逓減」という前提が幅を利かせる一方で、「ピン工場」の寓話は目立たない舞台裏に追いやられる格好となっていた。それはなぜか?

ウォーシュも説明しているように、その理由はイデオロギーにではなく数学的に取り扱うのが楽な道を選ぼうとする経済学者に特有の姿勢に求められる。経済学の世界では思い付いたアイデアを厳密かつ明瞭に表現する道が探られ、そのために数字や方程式の助けを借りるというのが常だった。「収穫逓減」という前提に拠って立つアイデアはエレガントなフォーマリズム(数学的な推論)との相性がバッチリだった一方で、「収穫逓増」という前提――「ピン工場」の寓話――に拠って立つアイデアを数理モデルのかたちで表現するのは困難極まりなかったのである。

とは言え、「収穫逓増」は現実のあちこちに観察される見逃し得ない現象であり、時代が下るにつれてその存在感はますます高ままる一方だった。例えば、鉄道なんかは「収穫逓増」の特徴を備えていることがあまりにも明らかだった。そこで経済学者としても「ピン工場」の寓話を経済学の本流の中に組み込もうと試みはした。それも一度や二度の話ではなく何度も何度も試みた。 しかしながら、その試みは毎度のごとく失敗に終わった。「ピン工場」の寓話を十分な厳密さを備えた(数理モデルの)かたちで表現することは出来ず終いだったのである。この点についてウォーシュはケネス・アロー(Kenneth Arrow)――「見えざる手」の伝統にがっちりと連なる業績によりノーベル経済学賞を受賞した人物――による次のような言葉を引用している。曰く、「収穫逓増は経済思想という土壌の下に流れる『地下水』のようなものだ。その流れが絶えることは無いものの、日の目を見ることも滅多に無い」。

『Knowledge and the Wealth of Nations』の前半部は「地下水」としての収穫逓増に的を絞った経済思想史という趣を備えている。偉大な経済学者のお歴々――その多くは収穫逓増の重要性をよくよく承知していたにもかかわらず――がいかにして収穫逓増を経済分析の中から排除しようと試みたか。本書ではその模様が跡付けられている。さらには、収穫逓増を厳密なかたちでモデル化できないとすれば責めを受けるべきは「厳密さ」の方だと結論付けて数式に頼らない言葉による説明を心掛けた・・・ものの周囲の経済学者からは無視されるに至った一部の経済学者――その筆頭はジョセフ・シュンペーター(Joseph Schumpeter)――の姿も語られている。・・・(略)・・・そして本書の後半部では「地下水」としての収穫逓増が遂に地表に湧出するに至るまでの軌跡が辿られている。

経済学を生業とする研究者の世界を本書ほど見事に描き出した例にはこれまで出くわしたことがない。その世界に生きるのは頭は切れるが時としてエキセントリックな(風変わりな)顔も覗かせる面々。(ニュース専門放送局の)CNBCで放映される番組で簡素なデザインのスーツを身にまとって経済問題を論じるコメンテーターとは似ても似つかない面々。そんな面々が生きる世界は格式ばらない雰囲気に包まれてはいるが、激しい出世競争が繰り広げられる世界でもある。セミナーで発表した一本の論文のおかげで若い男女が一躍学界のスターに踊り上がる。そんな可能性が秘められている世界なのだ。

1970年代後半からおよそ十年の間に一連の若手研究者を一躍スターの座に押し上げるきっかけとなった出来事の多くには「収穫逓増」が何らかのかたちで関わっている。「ピン工場」の寓話を(経済学者仲間のお眼鏡に適うに十分なだけ)厳密なかたちで語る術が遂に発見されたのだ。その結果として経済学のあちこちの分野――産業組織論に国際貿易論、経済発展論、都市経済学――が大きく変貌を遂げることになったのである。

ウォーシュはその大転換のドラマを実に見事な手さばきで伝えている。・・・(略)・・・しかしながら、欠陥もいくつかある。収穫逓増を国際貿易論の分野に持ち込んだ一連の経済学者――当の私もその中の一人――の研究も過分な扱いをしてもらっているが、ウォーシュによる説明には微妙ではあるが重大な間違いが含まれているのだ。

ウォーシュがそのようなちょっとした手抜かりを犯している原因は収穫逓増の応用の中でも経済成長論への応用を一番肝心なものと見なしており、そのために(国際貿易論をはじめとした)その他の分野への応用については比較的興味が薄いためなのであろう。ウォーシュはポール・ローマーによる(収穫逓増と経済成長との関わりがテーマの)1990年の有名な論文に経済学者のものの見方をぐるりと一変させた回転軸の役割を担わせているのだ。

「ローマーの1990年論文」と言えば傑出した業績であり、できれば私が書きたかったと思える論文の一つだ。・・・と経済学者が同僚に送る最大級の讃辞を惜しみなく捧げたいところだが、ウォーシュが言うほどローマーの件の論文が重大な役割を果たしたかというとそうとは思わないし、収穫逓増が経済成長に関する我々の理解を大幅に変えたかというとその点もはっきりしない。実のところ、ウォーシュ本人も大いに譲歩しているようだ。彼は本書の中で次のように述べている。「『知識の経済学』の革新なる。その結果として何が変わったろうか? 『大して変わりはない』というのがどうやらその答えであるように思える」。

おっと、気にするなかれ。高度な知性のやり取りが繰り広げられるドラマを味わいたい。(ケインズの言葉を借りると)「良くも悪くも危険な」アイデアの起源を是非とも知りたい。本書はそんな御仁のための一冊だ。

  1. 訳注;「そこで、ここに一例として、とるにたりない小さい製造業ではあるけれど、その分業がしばしば世人の注目を集めたピン作りの仕事をとってみよう。この仕事(分業によってそれはひとつの独立の職業となった)のための教育を受けておらず、またそこで使用される機械類(その発明をひきおこしたのも、同じくこの分業であろう)の使用法にも通じていない職人は、せいいっぱい働いても、おそらく一日に1本のピンを作ることもできなかろうし、20本を作ることなど、まずありえないであろう。ところが、現在、この仕事が行なわれている仕方をみると、作業全体が一つの特殊な職業であるばかりでなく、多くの部門に分割されていて、その大部分も同じように特殊な職業なのである。ある者は針金を引き伸ばし、次の者はそれをまっすぐにし、三人目がこれを切り、四人目がそれをとがらせ、五人目は頭部をつけるためにその先端をみがく。頭部を作るのにも、二つか三つの別々の作業が必要で、それをとりつけるのも特別の仕事であるし、ピンを白く光らせるのも、また別の仕事である。ピンを紙に包むのさえ、それだけで一つの職業なのである。このようにして、ピン作りという重要な仕事は、約18の別々の作業に分割されていて、ある仕事場では、そうした作業がすべて別々の人手によって行なわれる。・・・(略)・・・私はこの種の小さい仕事場を見たことがあるが、そこではわずか10人が仕事に従事しているだけで、したがって、そのうちの幾人かは、二つか三つの別の作業をかねていた。・・・(略)・・・それでも精出して働けば、一日に約12ポンドのピンを全員で作ることができた。1ポンドのピンといえば、中型のもので4000本以上になる。してみると、これらの10人は、1日に4万8千本以上のピンを自分たちで製造できたわけである。つまり各人は、4万8千本のピンの10分の1を作るとして、一人あたり一日4800本のピンを作るものとみてさしつかえない。」(アダム・スミス(著)/大河内一男(監訳)『国富論 Ⅰ』(中公文庫), pp. 10~12) []

マーク・ソーマ 「サマータイム(の期間延長)は省エネにつながるか?」(2007年3月11日)

●Mark Thoma, “Does Relabeling the Hours of the Day Save Energy?”(Economist’s View, March 11, 2007)


ティム・ハーブ(Tim Haab)がEnvironmental Economicsブログでサマータイムに関する話題を取り上げている。

Are Daylight Savings Time Energy Savings a Myth?” by Tim Haab:

アメリカでは今年(2007年)からサマータイムの期間が(約1ヶ月間ほど)延長されることになる。省エネが狙いであり、サマータイムの期間延長に伴って電力消費量が1%ほど削減される見込みという触れ込みだ。しかしながら、カリフォルニア大学バークレー校に籍を置く研究チームの訴え(最新の研究結果)1によるとそのような触れ込みは間違いのようだ。論文のアブストラクト(要旨)を以下に引用しておこう。

「エネルギー価格の高騰や環境(自然環境)への配慮が主たる動因となって省エネのためにサマータイムの期間を延長しようと検討する国の数が増えている。・・・(略)・・・サマータイムの効果に関する先行研究は実証的な証拠ではなくシミュレーションモデル(外挿法による予測)に依拠している場合が多く、本稿ではそのような先行研究の結果に異議を申し立てる。本稿では(先行研究の多くとは異なり)擬似実験の機会――2000年のシドニーオリンピックの開催に合わせてオーストラリアの一部の州だけでサマータイムの期間が延長された(サマータイムの開始時期が他の州よりも2ヶ月だけ早められた)ケース――を利用してサマータイムの省エネ効果を検証する。本稿では30分ごとの電力消費量や電気料金に関するパネルデータや気象状況に関する詳細なデータを利用しているが、(2000年のシドニーオリンピック開催に伴うオーストラリアでの)サマータイムの期間延長は電力需要を抑制するには至らなかったとの結果が見出された。それに加えて本稿では先行研究の検証にも乗り出している。先行研究の中でも一番精緻なシミュレーションモデルにオーストラリアのデータを当てはめてみたところ、件のシミュレーションモデルではサマータイムの期間延長に備わる省エネ効果(電力消費量を抑制する効果)が過大に見積もられる傾向にあることが判明した。本稿で得られた一連の結果に従うと、アメリカで近々実施される予定になっているサマータイムの期間延長は省エネにはつながらない可能性があることが示唆されることになる。」

一つだけはっきりさせておくと、上で言及されている研究では導入済みのサマータイムに若干の修正を加える(例えば、サマータイムの開始時期を現状よりも3週間ほど早める)結果として省エネにつながるかどうかが問題にされているのであって、サマータイムそれ自体の省エネ効果(サマータイムを導入する場合としない場合とで電力消費量に違いが出るかどうか)が問題とされているわけではない。ともあれ、ロサンゼルス・タイムズ紙に寄せられた以下の投書2が問題の核心をうまく突いているだろう。

サマータイムは多くの人々――私もそのうちの一人です――のムード(心持ち)には影響を与えるでしょうが、それとは別にどんなふうにして電力の節約につながると言うんでしょうか? 夜間の電力使用が減る代わりに早朝の電力使用が増えるとしたら電力の節約にはなりませんよね。時間帯に限らず(日が暮れた後だろうが日が明ける前だろうが)闇は闇なんです。— ロバート・D・ハーツフェルド(カリフォルニア州バンナイズ在住)

夏の半ばともなると話も違ってくることだろう。多くの人が目覚める頃には外も明るくて気温も高いだろうから。

  1. 訳注;学術誌に掲載されたバージョンはこちら。 []
  2. 訳注;リンク切れ。 []

マーク・ソーマ 「政府は年がら年中問題を起こしてるわけじゃない ~ペニシリンが量産されるまで~」(2010年11月2日)

●Mark Thoma, ““Government Isn’t Always the Problem””(Economist’s View, November 02, 2010)


政府も時に解決役を務めることがある。

Maxine Udall:・・・(略)・・・政府が問題解決の重要な一翼を担った例の中で個人的にお気に入りなのはペニシリン――大勢の命を救った抗生物質――が開発されるに至るまでの顛末だ。

時は1940年、(イギリスの)オックスフォード大学に籍を置くハワード・フローリー(Howard Florey)とエルンスト・チェーン(Ernst Chain)の二人がアオカビの培養液から粉末状の化学物質(ペニシリン)の抽出に成功。そして連鎖球菌を注入した8匹のマウスを使ってすかさず実験に乗り出す。8匹のうち4匹だけにペニシリンを投与したところ、いずれも急速な勢いで快方に向かう(その一方で、ペニシリンを投与されなかった残りの4匹は間もなくすべて死亡)。「エウレカ!(見つけたぞ!)」。誰もがそう叫ぶかもしれない。その後は知っての通り・・・でしょ?

いや、違う。全然違う。

フローリーとその仲間はペニシリンとマウス実験の結果を携えてイギリスやアメリカ、カナダにある有名どころの製薬会社を訪問して回った。しかしながら、どの会社もペニシリンの量産技術を開発するために金を出そうとは言いたがらなかった。新薬として売り出し中のサルファ剤の効き目が(細菌の抵抗力が高まるのに伴って)弱まりつつある兆候が見え出したというのがその主な理由。ペニシリンもはじめのうちは効力を発揮するかもしれないが、しばらくすると(サルファ剤のように)効き目が失われてしまうかもしれない。そうなったら(ペニシリンへの)需要は先細る一方。「利益は出ますかね?」と(製薬会社の)幹部陣のもっともな突っ込み。

それでは一体どのようにしてペニシリン(および後続の数多くの抗生物質)は広く行き渡るようになったのだろうか? ここで登場するのが米政府だ。米軍もちょっと加勢した。今にも戦争が始まろうとしている時だ。新たな抗生物質がもたらしてくれるやもしれぬ恩恵に無関心でいられるだろうか? 何しろ先の大戦(第一次世界大戦)で命を落とした兵士のうちおよそ半数は感染症が原因で逝ってしまったのだから。

ペニシリンの量産を実現するだけではなくその効能を4倍も高めることに成功したのは――それも驚異的なスピードで――米農務省に勤務する公務員の科学者集団だった。想像してごらんよ。官庁にお勤めの科学者様が素早く手際よく何かをお作りになる。そしてその何かに改良まで施してくださって我々下々の民の生活を楽にしてくださるというんだよ。・・・(略)・・・米国の納税者(が支払う税金)と米政府が助け舟を出してくれなければ、民間部門と「市場」にすべてが委ねられていたとしたら、ペニシリンの開発は暗礁に乗り上げて我々のもとに届かずじまいとなった(世に出回ることもなかった)ことだろう。・・・(略)・・・

マーク・ソーマ 「リバタリアンの面々がマルクスを読むべき理由」(2017年6月28日)

●Mark Thoma, “Why Libertarians Should Read Marx”(Economist’s View, June 28, 2017)


クリス・ディロー(Chris Dillow)のブログ記事より。

Why libertarians should read Marx” by Stumbling and Mumbling

「わざわざマルクスを読む気にはなれない」と語るのはクリスティアン・ニーミエッツ(Kristian Niemietz)。そんな彼を説き伏せてみようと思うが果たしてうまくいくかどうか。

本題に入る前に指摘しておくべきことがある。それは何かというと、ニーミエッツも含めたリバタリアンの面々はマルクスの意外な面を知って驚かされることが多いに違いないということだ。例えば、マルクスは計画経済について驚くほどわずかしか語っていない。計画経済を是とする議論を聞きたければむしろ右派のヒーローたるロナルド・コースにお伺いを立てるべき(pdf)なのだ。また、マルクスはある面で資本主義を讃えてさえいる。『共産党宣言』の中から引用すると、資本主義は「商業の計り知れない発展」を支え、「エジプトのピラミッド、ローマの水道、ゴチック式の大聖堂をはるかにしのぐ驚異を成し遂げた」というのだ。まだある。マルクスが「事実」に対して大いに注意を払っていることを知ればきっと驚くに違いない。『資本論』第一巻の最初の何章かを読み終えればその後には膨大な量の実証研究の山に出くわすことだろう。さらには、マルクスと社会民主主義者との間には多くの違いがある――その中でも特に重要な違いはマルクスは(社会民主主義者とは違って)国家統制主義者ではないという点だ――ことにも触れておくべきだろう。

次に指摘しておくべきはマルクスと結び付けられるアイデアの多くは先人の思想を精緻化したものという面が強いということだ。例えば、ポール・サミュエルソンはマルクスを指して「地味なポスト・リカーディアンの一人」と呼んでいる。労働価値説にしても、階級間の所得分配だとか利潤率の長期的な低下傾向だとかに対する関心にしても、マルクス主義的であると同時にリカード主義的とも形容できるのだ(利潤率の低下傾向(pdf)は近年の低成長や設備投資の低迷を説明する格好の要因の一つだと思われるが、今回はこの点については深入りせずに済ませるとしよう)。

リバタリアンの面々がマルクスを読むべき理由をまとめると以下の三点に集約されるのではないかというのが私の考えだ。

まず一つ目の理由。マルクスは経済の歩みを歴史的なプロセスとして捉えようとした。マルクスにとっての重大問題の一つは「世に蔓延るあれやこれやは一体どこからやってきたのか?」というものだった。

・・・(中略)・・・

リバタリアンの面々がマルクスを読むべき二つ目の理由は所有権の形態と技術進歩との関係に関するマルクス流の考えにある。

・・・(中略)・・・

リバタリアンの面々がマルクスを読むべき三つ目の理由は「自由」に対するマルクスの姿勢にある。

・・・(中略)・・・

まとめるとこう言えるだろう。リバタリアンの面々がどうしてマルクスを読むべきなのかというと、己の考え(リバタリアニズム)を磨き上げる助けになるに違いない疑問をマルクスから引き出すことができるからである。一部の層の所有権を侵害する(否定する)結果として成り立つに至った資本主義というシステム。そのシステムを擁護すると同時に(資本主義というシステムの内側で暮らす)一人ひとりの所有権を守れと訴える。そんなことって可能だろうか?(辻褄が合っていると言えるだろうか?) 「自由」に対する世人(一般大衆)の支持を取り付けるにはどのような物質的な生活環境(下部構造)が必要となるだろうか? 新しいテクノロジーは世人の思想(信念)の形成にいかなる影響を持つだろうか? 現状の市場構造(その具体的な有り様は政府によって規定されることは言うまでもない)は経済成長の促進につながるだろうか? その答えが仮に「ノー」だとすれば、現状の市場構造を変えるにはどうすればいいのだろうか? 現状の市場はあくまで「形式的な自由」を保障するに過ぎないのだろうか? それとも市場は「実体的な自由」――マルクスが追い求めた自由――1の拡張にも貢献しているのだろうか? 市場を「実体的な自由」により一層親和的な方向に持っていくことは可能だろうか? 市場は「自由」の享受を約束する舞台なのだろうか? それとも一方の階級が他方の階級を搾取して抑圧する道具に過ぎないのだろうか? 等々。

論敵の立場を劇画化して嘲るような党派心から距離を置きさえすれば、マルクスの残した仕事にじっくりと向き合うことでリバタリニアニズムの彫琢という対価が得られるに違いないと思われるのだ。

*『資本論』第一巻の読み方としてはまずは10章からスタートしてそこから順番に読み進め、最後まで目を通したら1章に戻る(1章から順に9章まで読む)というのがお薦めだ。

  1. 訳注;「実体的な自由」が保たれている状態=一人ひとりの人間が己の潜在的な能力を高められる機会(あるいは自己実現や自己表現の機会)が保たれている状態、という意味で使われている。 []

マーク・ソーマ 「マルクス vs. コース」(2012年11月21日)

●Mark Thoma, “Marx vs Coase”(Economist’s View, November 21, 2012)


今日は車を長時間運転せねばならないのだが、出発するのに手間取ってしまった。というわけでブログに時間を割く余裕はないので目に付いた記事をいくつか足早にパパッと紹介するとしよう。今回のエントリーではクリス・ディロー(Chris Dillow)のブログ記事を紹介しておくとしよう。

Marx vs Coase: experimental evidence” by Stumbling and Mumbling

企業は不確実性に対処するための効率的な制度。ロナルド・コースはそのように考えたが、別の見方もある。マルクス主義者の信じるところでは、企業というのは資本家が労働者を搾取するための道具ということになる。一体どちらの見方が正しいのだろうか? エルンスト・フェール(Ernst Fehr)率いる研究チームが最新の論文でこの問題に対する実験を通じた証拠を提供している。

・・・(中略)・・・

フェールらによる実験結果によると、雇用契約を結んだ被験者間でのやり取りが一回限りである場合にはプリンシパル(雇い主)役を務めた被験者のうち51%がエージェント(従業員)役を務めた被験者を搾取するに至った(搾取の発生率は51%)という。「(雇い主が手にする)権力1は労働者(従業員)を搾取するために行使され得るというマルクス主義者のアイデアは絵空事ではない」というのが彼ら(フェールら)の結論だ。

・・・(中略)・・・

ところが、雇用契約を結んだ被験者間でのやり取りが何度も繰り返される場合には搾取の発生率は21%にまで落ち込んだという。その理由は? 雇い主(の役を務めた被験者)が「私(我が社)は公平な人間(会社)です」との評判を打ち立てたいと願ったからである。そのような評判を打ち立てることができれば働き手が「この相手(会社)となら雇用契約を結んでもいい」と乗り気になってくれる可能性があるのだ。

フェールらの論文は至ってシンプルな内容ではあるものの、次のような疑問に取り組むための枠組みを提供してくれてもいる。「マルクス的な企業の代わりにコース的な企業が蔓延りがちなのは一体どのような状況だろうか?」2という疑問がそれだ。

公平性を追い求める強固な規範が社会に広く行き渡っている状況というのが考え得る答えの一つ(一つ目の答え)。・・・(略)・・・企業が「善良な」雇い主という評判を打ち立てたいと駆り立てられている状況というのが他に考え得る答え(二つ目の答え)だ。労働市場が完全雇用に近い状態にあるほど企業は「善良な」雇い主という評判を勝ち取りたいと願うことだろう。というのも、労働市場が完全雇用に近い状態にあると人材を確保するために他の企業と争わねばならなくなるからだ。

労働組合の力が強いというのが三つ目の答えとして考え得る状況だ。・・・(略)・・・このことは強力な労働組合は一国経済に好ましい影響を及ぼす可能性を秘めているという私見を補強してくれることにもなる。

四つ目の答えというのも考え得る。労働者が搾取的な雇用契約を撥ね付けることを可能にする外部機会――(生活保護などの)福祉給付がその一例――が確保されている状況というのがそれだ。

資本主義の擁護者の多くは福祉給付のような制度(四つ目の答え)には批判的な様子だが、その様を眺めていると彼ら(資本主義の擁護者)はコース的な企業が蔓延することよりも資本家の権力(労働者の搾取を可能とする権力)を維持することに心惹かれているのではなかろうかと思われてならないものだ。

  1. 訳注;従業員に対してどの職務を割り当てるかをある程度裁量的に決めることができる権限 []
  2. 訳注;「労働者(従業員)が搾取されずに済むのは一体どのような状況だろうか?」とも言い換えられるだろう。 []

マーク・ソーマ 「『白衣の男』と計画的陳腐化」(2014年10月9日)

●Mark Thoma, “‘The Light Bulb Cartel and Planned Obsolescence’”(Economist’s View, October 09, 2014)


今日は忙しくてブログまでなかなか手が回らないのだが、とりあえず目に留まった記事をいくつか急ぎ足で紹介しておくとしよう。今回取り上げるのはティモシー・テイラー(Timothy Taylor)のブログエントリーだ。

The Light Bulb Cartel and Planned Obsolescence”:

1951年に製作された『白衣の男』(主役を演じたのはアレック・ギネス)は愉快なSFコメディ映画というにとどまらず、テクノロジーや「計画的陳腐化」についてのよく練られた物語でもある。アレック・ギネス演じる主人公の研究員(シドニー)はまったく新しい画期的な繊維の開発に成功する。汚れもしなければ擦り切れもしない究極の繊維。この繊維のおかげで今後は洋服代や洗濯代が節約できるようになるに違いない。そんな未来像を心に描くシドニー。シドニーが発明した繊維は当初のうちこそ世間から驚きをもって迎えられたものの、瞬く間に風向きが変わってシドニーに対する風当たりは強まる一方に。「シドニーが発明した繊維を素材とする衣服が商品化されてしまったら倒産待ったなしだ」と恐れる繊維・衣服業界の重鎮たち。繊維会社の工場で働く労働者たちも「我々の職が失われてしまう」と戦々恐々。「我々の職も失われる」と洗濯(クリーニング)を生業とする面々も追随する。エンディング間近の場面で登場人物の一人がしかめ面で指摘する。製品の出来が良すぎると商売はうまく回っていかない。曰く、「あれやこれやの発明はその後どうなったと思う? 切れ味が落ちないカミソリの刃だとかほんのわずかの燃料で水上を疾走する車だとかはどうなったと思う?1
 
企業の経営陣が売り上げを伸ばすために製品の質をあえて落とす決断を下した(「計画的陳腐化」に手を染めた)「これぞ」という例を現実の中から探すとなるとなかなか難しい。現実の市場に出回るのは「低品質で低価格」の製品かあるいは「高品質で高価格」の製品かのいずれかというのが通例であり、企業による商品化の決定には消費者の声(世間の人々が何を買いたいと思うか)が大いに反映されるものなのだ。しかしながら、「計画的陳腐化」の実例もないわけではない。マルクス・クライエフスキー(Markus Krajewski)がIEEE Spectrum誌の2014年10月号でその一例を詳しく取り上げている。題して “The Great Lightbulb Conspiracy: The Phoebus cartel engineered a shorter-lived lightbulb and gave birth to planned obsolescence”(「白熱電球をめぐる大陰謀:ポイボス・カルテルによる計画的陳腐化の試み ~『白熱電球の寿命を縮めよ!』~」)。〔以下続く

  1. 訳注;そんな夢のような発明はどれもこれも結局のところは(消費者が買い替えをする必要がなくなりそのために会社の業績悪化を招くと懸念されて)商品化されずに終わったんだよ(そして君が発明したその繊維も同じく商品化されないことだろう)、という趣旨のコメントが後に続く。 []

マーク・ソーマ 「iPodってどこ製?」(2007年6月28日)

●Mark Thoma, “Hal Varian: Who makes the iPod?”(Economist’s View, June 28, 2007)


iPodはどこで作られているのだろうか? iPodを作っているのは誰なのだろうか? ハル・ヴァリアン(Hal R. Varian)がニューヨーク・タイムズ紙に寄稿した論説の中でかような問いに対する答えを探る試みを紹介している。

An iPod Has Global Value. Ask the (Many) Countries That Make It.” by Hal R. Varian, Economic Scene, NY Times:

アップル社のiPod(アイポッド)を作っているのは誰なのだろうか?・・・(略)・・・アップル社ではない。というのも、アップル社はiPod本体の製造をアジアに本社を構える数ある企業――例えば、Asustek(エイスーステック)にInventec Appliances(インベンテック・アプライアンシズ)にFoxconn(フォックスコン)――に外注しているからだ。

しかしながら、今しがた列挙した三社だけでiPodの製造に関わる企業のリストが埋め尽くされるわけではない。・・・(略)・・・Asustek(エイスーステック)にしてもInventec Appliances(インベンテック・アプライアンシズ)にしてもFoxconn(フォックスコン)にしてもiPodの最終的な組み立てを受け持っているに過ぎないのだ。iPodは全部で451種類の部品から構成されているが、個々の部品の製造は一体どうなっているのだろうか? 個々の部品はどこ(どの国)で製造されているのだろうか? 一体誰(どの企業)が製造しているのだろうか?

原価計算の手法を使ってこの問いの調査に立ち上がったのがカリフォルニア大学アーバイン校に籍を置く三名の研究者(pdf)――グレッグ・リンデン(Greg Linden)、ケネス・クレイマー(Kenneth L. Kraemer) ジェイソン・デドリック(Jason Dedrick)――だ。

・・・(中略)・・・

iPodの生産プロセスを細分化された工程の連なりとして捉えることにしよう。それぞれの工程ではインプット(例えばコンピューターチップとまっさらな電子基板)がアウトプット(チップが実装された電子基板)に変換される。インプットの価格(費用)とアウトプットの価格(価値)の差がそれぞれの工程で生み出される「付加価値」であり、それぞれの「付加価値」はその工程を受け持つ企業が立地する国に割り振られることになる。

ねじやボルトといった汎用品は競争が熾烈な産業で製造されており、世界中どこででも製造可能だ。それゆえ、その利幅(付加価値)は極めて小さく、iPodの最終的な価値(小売販売価格)への貢献もごく些細なものにとどまる。その一方で、ハードディスク(HDD)やコントローラチップのような特製品(特化部品)の付加価値はねじやボルトのような汎用品のそれよりもずっと大きい。

リンデン&クレイマー&デドリックの三人の推計によると、(一台のiPodに内蔵されている)東芝製のハードディスク(HDD)は73ドルの価値を備えており、その製造には総額およそ54ドルの部品(インプット)と労働が投下されている。つまりは、東芝はアウトプットたるハードディスクに19ドルの価値(+人件費)を付け加えているわけだ。東芝は日本を拠点とする企業なので東芝製のハードディスクに備わる19ドルの「付加価値」の帰属先は日本ということになる。

リンデン&クレイマー&デドリックの三人は他の部品に関しても同様の計算を繰り返し、・・・(略)・・・iPodの生産プロセスの個々の工程でどれだけの「付加価値」が生み出され、それぞれの「付加価値」がどの国に帰属するかを逐一追跡しようと試みた。決して簡単な作業ではないが、・・・(略)・・・極めてはっきりしていることがある。iPodに備わる「付加価値」の最大の帰属先は米国(米国内で販売されるiPodに関しては特にそう)ということだ。

iPodの小売販売価格(最終的な価値)は299ドル。そのうち163ドル(の「付加価値」)は米国企業(およびそこで働く労働者)に帰属するというのがリンデン&クレイマー&デドリックの三人の推計結果だ。163ドルのうち(米国内の)流通・小売業者が生み出す付加価値が75ドルでアップル社が生み出す付加価値は80ドル。残りの8ドルは米国内の部品メーカーに帰属する。iPod本体の価値(299ドル)のうちで日本が生み出す付加価値は26ドル(そのうちの大半は東芝製のハードディスクによるもの)で韓国が生み出す付加価値は1ドルに満たない。

リンデン&クレイマー&デドリックの三人の調査ではiPod一台の生産に要する部品がすべて捕捉されているわけではなく、補足し切れていない部品の費用に(iPod一台の生産に要する)人件費を加えると合計でおよそ110ドルになるという。リンデン&クレイマー&デドリックの三人はiPod一台の生産に要する人件費を国別に割り振る試みにも乗り出す心積もりのようだが、・・・(略)・・・どうやらそう簡単にはいかなそうだ。

(iPodの生産プロセスのような)国境を越えた複雑な生産プロセスの実態を従来の貿易統計を使って要約しようとすると無理が生じる可能性がある。「付加価値」という観点からすると中国はiPodの価値のうちでわずか1%程度しか寄与していないとしても、中国で組み立てが完了したiPodが米国に輸出されると従来の貿易統計では二国間(米中間)での貿易収支でおよそ150ドル分の貿易赤字(対中赤字)が発生することになるのだ。

突き詰めると、「iPodを作っているのは誰なのだろうか?」「iPodはどこで作られているのだろうか?」という問いへの簡潔な答えなんてないということになろう。・・・(略)・・・iPodの真の価値は個々の部品に宿っているわけでもなければ、個々の部品を寄せ集めることによって生み出されるわけでもない。iPodの価値の大部分はその概念(発想)とデザインにある。iPodに備わる(299ドルの)価値のうちで80ドルもの付加価値――iPodの製造・販売を支えるサプライチェーンのうちで単独で生み出す付加価値としては群を抜いて最大の数値――がアップル社に帰属するのもそれゆえなのだ。

451種類の部品(そのうちの大半は汎用品)を組み合わせて一つの価値ある商品にまとめ上げるアイデアを思い付いたのがアップル社であり、アップル社に集った切れ者集団だ。彼らはiPodを製造してはいないかもしれないが、思い付きはした(生み出しはした)。 結局のところ肝心なのは新たなアイデアを思い付くかどうかなのだ。