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ダニ・ロドリック「資本規制に対する的外れな批判」(2008年3月8日)

●Dani Rodrik, “Nonsensical arguments against capital controls”(Dani Rodrik’s weblog, March 08, 2008)

この間、私とアルビンド・スブラマニアンがフィナンシャル・タイムズに記事を寄稿した時もそうだったのだが、誰かがフォーマルな場で「資本規制」という言葉を口にするたびに、そうした考えは狂っているという反論が山ほど返ってくる。彼ら反対論者は、政策立案者が、国境を超える資本移動を食い止めようとする政策に手をつけるべきでないと繰り返し唱えている。しかし彼らの主張をよく見てみると、驚くほど根拠に乏しく、相互に矛盾していることが分かる。

ここではそうした中で典型的な反論を見ていく。

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ダニ・ロドリック 「市場と国家は補完的」(2007年6月25日)

●Dani Rodrik, “Markets and states–and the survey says…”(Dani Rodrik’s weblog, June 25, 2007)


リスク回避的な(リスクを嫌う)人ほど、自由貿易よりも保護主義(貿易の制限)を好む傾向にある。その人がどこに住んでいようと、それは変わらない。しかし、リスク回避的な人が(政府支出の対GDP比で測って)政府規模の大きな国に住んでいると、保護主義に傾斜する(保護主義を好む)程度は弱まる。アンナ・マリア・メイダケヴィン・オルークリチャード・シノットの三人の共著論文1で、そのような目を見張る発見が報告されている(ちなみに、アンナ・マリア・メイダは、私の教え子であり、一緒に論文を書いた経験もある)。彼らの論文では、ヨーロッパおよびアジアの国々(計18カ国)で実施された聞き取り調査の結果が利用されている。リスク回避的な人が政府規模の大きな国に住んでいると、保護主義に傾斜する程度が弱まるのはなぜなのか? その理由は、政府規模が大きな国に住んでいる人は、(政府が提供する手厚いセーフティーネットのおかげで)グローバル化がもたらすリスクから守られていると感じるためではないか、と三人は推測している。そのことを裏付けるように、聞き取り調査の対象となっている国の中で、リスク回避的な態度が保護主義に結び付く程度が一番弱かったのは(政府規模が一番大きい)スウェーデンという結果になっている。 [Read more…]

  1. 訳注;この論文の概要については、本サイトで訳出されている次の記事を参照されたい。 ●アンナ・マリア・メイダ&ケヴィン・オルーク 「大きな政府とグローバリゼーション;政府と市場の補完的な関係」(2020年3月14日) []

ダニ・ロドリック 「アルバート・ハーシュマンを再読して」(2007年11月1日)

●Dani Rodrik, “Re-reading Albert Hirschman”(Dani Rodrik’s weblog, November 01, 2007)


アルバート・ハーシュマンを讃える講演(pdf)の準備をしながら、この「知の巨人」の作品としばし向き合う機会を久しぶりに持った。私の研究関心からするといささか皮肉なのだが、ハーシュマンの作品の中でも、経済発展に焦点を合わせた専門的な研究よりも、『Exit, Voice and Loyalty』(邦訳『離脱・発言・忠誠』)や『The Passions and the Interests』(邦訳『情念の政治経済学』)のような、大局的な視野に立って書かれた著作――昔からずっとお気に入りの二冊――の内容の方にずっと詳しい自分がいることに改めて気付かされた。 [Read more…]

ダニ・ロドリック 「私の経歴」(2016年5月26日)

●Dani Rodrik, “I’m profiled…”(Dani Rodrik’s weblog, May 26, 2016)


私の経歴がIMFの季刊誌である「Finance&Development」で紹介されている。こちら(pdf)がそれだ。執筆しているのは、プラカシュ・ラウンジャニ(Prakash Loungani)。私の過去が遡って探られており、本人でさえも忘れてしまっている小ネタも盛り込まれている。書き出しの部分を引用させてもらうとしよう。

「市場」vs「国家」。その勝者は「市場」。そのようなかたちで、はっきりと決着がついたかのように思われた1990年代初頭。ソ連が解体し、ベルリンの壁も崩壊。それに伴って、経済や政治といった分野における庶民の活動に介入する、国家の役割に対して疑問符が付せられることになったのである。民主主義と資本主義が世界中を覆うのに伴って、「退屈な」時代が到来することになる(今後の歴史は、「退屈な」ものになる)だろう。政治学者のフランシス・フクヤマがそのように宣言したのは1992年のこと。経済学者の間でも、「市場」に対する評価は――元々高かったが――さらに一段と高まることに。自由市場が世界中に広まるのを擁護したミルトン・フリードマンに対して、ローレンス・サマーズのような左派寄りの経済学者でさえも、「渋々ながらの称賛」を送ったほどなのだ。

しかしながら、ハーバード大学に在籍する、経済学者のダニ・ロドリックは、その列に加わろうとはしなかった。グローバリゼーション――貿易や金融取引を通じて、国家間の経済統合が深化するプロセス――は、行き過ぎてしまっているかもしれない。ロドリックは、1997年に出版された研究報告書で、そのように警告したのである。経済学者の間で共有されているグローバリーゼーションに対する楽観論と、グローバリゼーションに抵抗を覚える「大多数の庶民を突き動かす直感」との間には、「大きなギャップ」がある。同書の中でロドリックはそのように指摘している。同じく同書では、「共和党の大物政治家」であるパット・ブキャナンが「『経済ナショナリズム』の看板を掲げて(1996年の)米国大統領選に出馬し、貿易障壁を設けるとともに、移民の受け入れも制限せよ、と力強く訴えた」エピソードも取り上げられている(20年後の2016年に、共和党から立候補したトランプがまったく同じ看板を掲げて大統領選に挑んだことは御存知の通り)。

自由貿易の恩恵は、経済学者の目にも、それ以外の面々の目にも、同じように明白なものとして映るかというと、そうじゃないとのロドリックの指摘は、先見の明があったと言えるし、資本移動の完全自由化(国境を越えた資本の移動に一切規制を課さないこと)に対するロドリックの懐疑論は、今では、通念(正統的な見解)の一つとなるに至っている。いわゆる「ワシントン・コンセンサス」に対するロドリックの論難も成果を上げ、経済成長を下支えする処方箋は一つには限られないとの認識が、IMFや世界銀行といった国際機関だけでなく、各国の政府の間にまで広まる結果となっている。「(どんな場合にも通用する)万能薬なんて無い」(“one size does not fit all”)との言い回しが決まり文句として広まるようになったのは、ロドリックの功績という面が少なからずあるのだ。ウォール・ストリート・ジャーナル紙の元記者であり、現在はブルッキングス研究所ハッチンズセンターでディレクターを務める、デイビット・ウェッセルは次のように述べている。「当時はロドリックの言い分がどこまで正しいのか、みんなよくわかってなかったんですよ」。

ちなみに、ラウンジャニは、(Finance&Development誌の)同じ号に(ジョナサン・オストライとデビッド・ファーセリと連名で)「新自由主義は買い被られてる?」と題された別の記事も寄稿している。

IMFを代表する雑誌の、それも同じ号に、私の詳しい経歴に加えて、金融のグローバル化を批判する記事が同時に掲載ときたもんだ。一体全体どうなっちゃってるんだろうね?