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タイラー・コーエン 「絵画の『完璧』な複製が可能になったとしたら」(2004年5月31日)

●Tyler Cowen, “What if paintings were fully reproducible?”(Marginal Revolution, May 31, 2004)


ファビオ・ロハス(Fabio Rojas)がこちらのエントリー〔拙訳はこちら〕で名画の出来のよい「コピー」は安くで――オリジナル(原画)よりも格段に安い値段で――手に入ると指摘しているが、チャールズ・マレー(Charles Murray)も同様の主張を展開している

どんなサイズの絵画であれ原寸大の「完璧」なコピーを作り出すことを可能にするテクノロジーは既に存在している。色の明度や一本一本の線を「完璧」に再現するというだけにとどまらない。まったく同じキャンバスだったり石膏ボードだったりに素早い筆使いで生み出された三次元の凹凸や質感を「完璧」に再現することもできるし、ニスを塗って出る光沢だって――お望みならばひび割れ(亀裂)だって――「完璧」に再現できるのだ。「完璧」という言葉にはさらに別の意味も込められている。世界の中でも選りすぐりの目利きで最上の訓練を積んでいるアーティストでもどちらがオリジナルでどちらがコピーかを五分五分の確率でしか見抜けないという意味でも「完璧」なのだ。

テクノロジーの現状が誇張されている面はあるものの、「絵画が録音された曲のようになったとしたら(絵画の複製が曲を録音するのと変わらないくらい容易になったらとしたら)どうなるだろうか?」という問いそれ自体は依然として重要だ。 [Read more…]

タイラー・コーエン 「精巧な3Dの複製画はアート市場の撹乱要因となるか?」(2013年8月26日)

●Tyler Cowen, “Will accurate 3-D reproductions disrupt art markets?”(Marginal Revolution, August 26, 2013)


アムステルダムからこんなニュースが届いている。

オランダのアムステルダムにあるゴッホ美術館が最先端のコピー技術である3Dプリント技術を活用して所蔵するゴッホの秀作数点の「三次元」の複製画の作成に乗り出している。同美術館の館長を務めるアクセル・リューガー(Axel Rüger)氏は語る。「次世代の複製画と言えるでしょうね。3次元の世界に足を踏み入れたわけですから。素人目にはオリジナル(原画)と見分けがつかないことでしょう。ただし、素人でも絵に詳しいようであれば注意深く目を凝らせば見分けられるでしょうね」。

「三次元」の複製画のお値段は1点2万2000ポンド1。名画が印刷されたポストカードやポスターに比べると値が張るが、ロシアのオリガルヒ(新興財閥)やアメリカの億万長者が数千万ポンド払ってでも手に入れたいと思うような作品に接することができる機会を少しでも増やしたいというのがゴッホ美術館としての願いとのこと。

これまでに3Dスキャナーでの複製に成功した(ゴッホの)作品は以下の通り。『花咲くアーモンドの木の枝』(1890年制作)、『ひまわり』(1889年制作)、『収穫』(1888年制作)、『荒れ模様の空の麦畑』(1890年制作)、『クリシー大通り』(1887年制作)。ゴッホの全作品を網羅した3D版のカタログの作成も計画されているとのことだ。

パソコンの画面越しでは「三次元」の複製画の出来栄えを判断するのは難しいが、少なくとも現段階では騙されない(オリジナルと複製画を見分けられる)自信がある。50ドル賭けてもいい。仮に騙されるようでも(オリジナルと複製画の見分けがつかないとしても)、私には(複製画を手に入れるために)2万2000ポンドもの大金を払う気はないね。記事の全文はこちら。複製画も一点だけ紹介されている。そうそう。絵画(をはじめとした芸術作品)の精巧な複製が技術的に可能になった場合にどんな展開が予想されるかをタバロックとの共著論文でしばらく前に分析した(pdf)ことがあったっけ。

情報を寄せてくれたのはTed Gioia。ツイッター上でお気に入りの一人だ。

  1. 訳注;2013年8月当時の為替レートは1ポンド=150円前後だったので、1ポンド=150円で計算すると2万2000ポンド=330万円ということになる。 []

タイラー・コーエン「美術書ってどれくらい売れてる?」(2004年4月15日)

Tyler Cowen, “How well do art books sell?“(Marginal Revolution, April 15, 2004)

答えはシンプルだ。美術書はあまり売れない。写真集やハウツーものを除いて、2003年[アメリカで]最も売れた美術書はロス・キング著「システィナ礼拝堂とミケランジェロMichelangelo and the Pope’s Ceiling)」で、5万5693部売れた。アメリカでは一万部以上売れた美術書は、写真集とハウツーものを除いて、他に4冊しかなかった。驚くべき事実は、私が見る限り、ボーダーズやバーンズ&ノーブルといった一般的な大型書店で我々がどれだけたくさんの美術書を見つけることができるかだ。もちろん、そのうちの多くは出版社に返却されてしまうのだが。これら美術書は読者を、ウォルマートではなく本屋で、小説「ダヴィンチコード」を買うように導いていく。

アメリカに比べて人口が少ないにもかかわらず、イギリスでは美術書はもっと人気がある。イギリスで最も売れた美術書は、ティツィアーノのカタログだが、6万部を売り上げた。

これはウェブでは読めないが、The Art Newspaperの2004年4月号の記事「Big Market but Few Books Bought」から。

タイラー・コーエン 「人目に晒され過ぎたせいで魅力が損なわれた芸術作品」(2004年9月12日)

●Tyler Cowen, “Artworks ruined by overexposure”(Marginal Revolution, September 12, 2004)


洞察力に満ち溢れているジェームス・トウィッチェル(James Twitchell)が「人目に晒され過ぎた(目にする機会が多すぎる)せいで魅力が損なわれた芸術作品」のリストをまとめている。

1. レオナルド・ダ・ヴィンチ作の『モナ・リザ』

2. グラント・ウッド作の『アメリカン・ゴシック』

3. エマヌエル・ロイツェ作の『デラウェア川を渡るワシントン』

4. いわゆる『ホイッスラーの母』1

5. いわゆる『ムンクの叫び』2(本作品はつい最近(2004年8月に)所蔵先の美術館から盗まれてしまったが、そのおかげで芸術作品としての魅力が高まることになるかどうかはいずれ判明することだろう)

ギルバート・スチュワートの手になるジョージ・ワシントンの肖像画もリストに加えたいところだ。モンドリアン柄のバッグやらシャンプーボトルやらも出回っているが食傷気味だね。トウィッチェルが語るには、「モネ、ピカソ、ドガ、セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホ。こういった面々の作品も陳腐になりつつある」とのこと。どんな作品か気になる人は自分でググって調べること。リンクなんか貼って「人目に晒され過ぎ」問題の片棒を担ぎたくはないからね。 [Read more…]

  1. 訳注;ジェームズ・マクニール・ホイッスラー作の『灰色と黒のアレンジメント 第1番 画家の母の肖像』 []
  2. 訳注;エドヴァルド・ムンク作の『叫び』 []

タイラー・コーエン 「ヨーロッパの芸術作品の中で過小評価されている傑作四選」(2012年5月16日)

●Tyler Cowen, “Four underrated European masterworks”(Marginal Revolution, May 16, 2012)


1. ラヴェンナ(特にサン・ヴィターレ聖堂)のモザイク

2. モンレアーレ大聖堂:(イタリアの)シチリア島にあるノルマン建築様式の教会

3. マティアス・グリューネヴァルト作のイーゼンハイム祭壇画(所蔵先はフランスのコルマールにあるウンターリンデン美術館)

4. (ドイツの)ヴュルツブルクのレジデンツ(司教館)を彩るティエポロの作品

いずれの作品もモナ・リザよりもはるかに好きだったりする。いずれも芸術の歴史に名を残す傑作の中でも最良の部類に入るのではないかというのが私なりの偏った嗜好に照らした判断だ。どれについても言えることだが、鑑賞するために巡礼の労をとるに値するだけの価値を備えている。

タイラー・コーエン 「モナ・リザのモデルは誰?」(2004年6月28日)

●Tyler Cowen, “Who was the Mona Lisa?”(Marginal Revolution, June 28, 2004)


モナ・リザのモデルはフィレンチェの裕福な絹商人の妻(リザ・デル・ジョコンド)。通説はそうなっているが、本当のところは恋煩いのミラノ公妃であったイザベラ・ダラゴナこそがモナ・リザのモデルに違いない。(オーストラリアの)アデレード在住の歴史家であるマイケ・フォクト=リュールセン(Maike Vogt- Luerssen)氏はドイツではじめられた17年に及ぶ研究の結果としてそのような結論に至ったという。

モナ・リザが悲しげなのはどうしてなのだろうか?

「イザベラがミラノにやって来て結婚したのが1488年の終わり頃でしたが、それに伴って彼女は大問題を抱えることになったんです。従兄にあたる結婚相手は美男でしたが酒乱でそれに夜の営みの面でも問題を抱えていた(インポだった)ようなんです」。

イザベラは美術史家の間でモナ・リザのモデルではないかと長らく噂されてきた対抗馬の一人だが、イザベラ説を支持する証拠は日に日に増えているようだ。詳しくはこちらの全文を参照してもらいたいが、あれこれの証拠についても論じられている。モナ・リザの微笑みの謎に科学的な観点から切り込もうとする試みについてはこちらの記事を参照のこと。

タイラー・コーエン「レオナルド・ダ・ヴィンチって過大評価されてるんじゃない?」(2017年10月18日)

Tyler Cowen, “Is Leonardo da Vinci overated?“(Marginal Revolution, October 18, 2017)

モナリザは史上最高の芸術品と言うわけではないし、絵描きとして、マンテーニャやピエロ・デラ・フランチェスカといった世間ではあまり知られていない画家に比べてレオナルドは大して上手いとは思えないし、ティツィアーノに比べたら随分下だ。ミケランジェロのダヴィデ像のような素晴らしく魅力的な芸術作品もないし、彼が受注した依頼品のあまりに多くは未完成のままか、若しくは描き始められさえもしなかった。彼の手稿は豊かな想像力を見せてくれるが、大動脈弁について以外に実用的な知識は大して含まれていないし、GDPを押し上げたわけでもなければ読む価値があるわけでもない。彼の科学のほとんどは、彼の時代を考慮しても、理論的に弱い。ミラノで宮廷インプレサリオ1 として働くには満足しすぎていたし、比較優位を踏まえたうえで自分の才能をどう生かすかまったくわからないというように見えた。

思いついたアイディアを記憶に残るようなスケッチに描き表すのが、レオナルドの最も卓越した才能であり、これについては彼に匹敵する者はいない。

それに加え、「ミラノの貴婦人の肖像」は、愛くるしささえも伴って、とても素晴らしく描けている。

レオナルド・ダ・ヴィンチ入門書として、ウォルター・アイザック氏の書籍をお勧めする。私のレオナルドについての意見は変わらないが。

  1. 現代で言うところのアートプロデューサー。中世イタリアでオペラなどの公演を運営する者の名称。レオナルド・ダ・ヴィンチはミラノ公爵に仕えていた時代に演劇や野外劇を手がけている。 []

タイラー・コーエン 「電話の歴史が投げかける教訓」(2004年5月10日)/「『The Phone Book』 ~アメリカの大統領の中でホワイトハウスの執務室に電話を初めて持ち込んだのは誰?~」(2010年11月30日)

●Tyler Cowen, “Telephone history: lessons for today”(Marginal Revolution, May 10, 2004)


アメリカがマスメディアやテレコム(遠距離通信)の分野で世界を牽引するリーダー国になった経緯を知りたいと思ったことはあるだろうか? その疑問に真っ向から取り組んでいる出色の一冊がポール・スター(Paul Starr)の手になる『The Creation of the Media』(「メディアの創造」)だ。注目すべき指摘の一例を引用しておこう。

フランス当局による政策は・・・(略)・・・電話の普及に不利に働くものだった。フランス政府は電話という通信インフラの開発に公費を投じるのを嫌がり、その代わりに民間の事業者にわずか5年間という期限付きでの営業許可証を発行するという道を選んだ。1879年のことである。民間部門に新ビジネスに伴うリスクを背負わせておいて様子見をしよう。国でその事業を引き継ぐ(国営化する)だけの価値があるかどうかを5年をかけて見極めようという魂胆だった。民間の資本は損を被る可能性がある一方で、電話というメディアは儲かるということが仮に判明したら政府に横入りされるというわけだ。結果はどうだったかというと、民間による投資は当然のように手控えられることになった。1885年になるとフランス政府は自ら長距離通信網の建設に乗り出したが、設備投資の額は抑えられることになった。整備済みの電信網が陳腐化するのを少しでも遅らせようとしたのである。その4年後には民間の通信業者の国有化に乗り出した。そのような行動に出たのはなぜかというと、電話サービスの改善に向けて国を挙げて取り組むぞという前向きな決意を示すためではなく、国が独占している電信事業の土台が掘り崩されるのを防ごうという後ろ向きの懸念が理由となっていたのである。

・・・(中略)・・・

1895年の段階における電話の普及率を国別に比較すると、アメリカでは208人に一台の割合で電話機が普及していた一方で、・・・(略)・・・フランスでは1216人に一台の割合にとどまっていた。・・・(略)・・・1927年にベル電話会社は長距離電話のタイムラグは平均すると1.5分程度との調査結果をまとめているが、パリ-ベルリン間の長距離電話となるとタイムラグは1時間以上にもなったのである。

結論: 政治家がVoIP(IP電話)の規制について何か言っているようだったら上に引用したエピソードを思い出すべし。

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●Tyler Cowen, “*The Phone Book*”(Marginal Revolution, November 30, 2010)


アメリカの大統領の中でホワイトハウスの執務室に電話を初めて持ち込んだ(執務室にある机の上に電話を設置した)のはハーバート・フーバー。1929年のことである。ホワイトハウスの敷地内に電話が持ち込まれたのはさらに昔に遡る。(第19代アメリカ合衆国大統領である)ラザフォード・ヘイズが国内でもかなり早い段階で1878年に官邸内にある電信室に電話を設置したのがはじまりである。しかしながら、当初のうちはホワイトハウスにある電話が使われることは滅多になかった。(ヘイズの判断で官邸内の電信室に電話が設置された)当時のアメリカでは電話の持ち主はごく少数に限られていたからである。ワシントンD.C.にある世帯を対象として作成された最初の電話帳にもホワイトハウスの電話は登録されているが、シンプルに「No.1」(電話番号は「1」)とだけ記載されている。

先日(2010年11月に)発売されたばかりの興味深い一冊である『The Phone Book: The Curious History of the Book That Everyone Uses But No One Reads』(「電話帳:誰もが利用するが誰も読みはしないかの本の奇妙奇天烈な歴史」)からの引用だ。著者はアモン・シェイ(Ammon Shea)。

タイラー・コーエン 「『我が陣営は劣勢に立たされている』 ~焦燥感をにじませる左右両陣営~」(2016年3月22日)

●Tyler Cowen, “How both sides can believe they are losing”(Marginal Revolution, March 22, 2016)


近時の社会情勢に対する左派なりの回顧にしても右派なりの回顧にしても、その物言いには「我が陣営は劣勢に立たされている」との焦燥感がにじんでいるという共通点がある。「そんなの額面通りに受け取れるか。マーケティング戦略の一環に過ぎない」との反論も可能だろう。優勢な陣営の人間が書く本をわざわざ読もうという気になるだろうか? 優勢な側の関連組織に寄付でもして支援してやろうという気になるだろうか?

だがしかし、どちらの陣営も(左派も右派も)本気で「我が陣営は劣勢に立たされている」と信じ込んでいる可能性もあるのではないか。私にはそう思われるのだ。

まずは左派の思考回路を解剖するとこうだ。政府は世の問題を解決する能力を備えている(左派による大前提)。にもかかわらず、世の中を見回すとあちこちに問題が溢れている。「我が陣営が劣勢に立たされている何よりの証拠じゃないか!」1・・・となるわけだ。

次に右派の思考回路を解剖するとこうだ。政府は問題を引き起こす元凶だ(右派による大前提)。ところで、世の中を見回すとあちこちに問題が溢れている。「我が陣営が劣勢に立たされている何よりの証拠じゃないか!」2・・・となるわけだ。

・・・と語るのはアーノルド・クリング(Arnold Kling)

  1. 訳注;世の中に問題が溢れているのは「問題解決人」たる政府を引っ張り出すことができていないためであり、政府の出動を求める我が陣営の主張が聞き入れられていない証拠だ、という意味。 []
  2. 訳注;世の中に問題が溢れているのは「問題の元凶」たる政府が好き放題しているためであり、政府の手を縛ることを求める我が陣営の主張が聞き入れられていない証拠だ、という意味。 []

タイラー・コーエン 「右派、左派、自己責任 ~憎きあいつらの地位が高まるのを許してなるものか~」(2008年7月26日)

●Tyler Cowen, “Move on — this isn’t true here”(Marginal Revolution, July 26, 2008)


一部の人―――決して全員じゃないよ――の政治的な行動を説明する素朴なモデルを思い付いたのでその概要を述べさせていただくとしよう。政治的なイデオロギーの背後には特定の集団の(社会内での)地位が高まるのを許してなるものかという無意識の衝動が時として控えているように思われるのだ。

まずはいわゆる「右派(右翼)」の側から取り上げるとしよう。右派の中には「不平屋」(のように我が目に映る)連中が気に食わないという人がいる。「不平屋」の地位が上がるなんてことはどうしたって許せない。そのため、「不平屋」の口から不平不満が吐かれるたびに反論しなければ気が済まず、「不平屋」が不平不満の根拠として挙げる事由の一切合財を論破しようと躍起になる。

不平屋が「景気が悪くて云々かんぬん」と愚痴をこぼすと、「いや、景気は絶好調だ」とか「景気はそのうちすぐに良くなる」と反論する。不平屋が「公的な給付金の額を増やして欲しい」と(泣き言を漏らす弱者を代弁して)訴えると、「予算を切り詰めて行政のスリム化を図らなきゃいけない」との反論が(右派陣営から)返ってくる。「景気は好調」との前言は一時的に引っ込められて、「財政規律」の必要性を説く声が前面に出てくることになる。

翻っていわゆる「左派(左翼)」の側はどうだろうか。左派の中には一種の「能力主義」に入れ込んでいる人がいる。資本主義社会で「お金」が幅を利かせているのは不公平極まりないと感じており、「お金持ち」(富裕層)の地位が上がるなんてこと――とりわけ、頭が良くて徳のある人たちよりも地位が上になるなんてこと――はどうしたって許せない。そのため、「お金持ち」の望みがそれほど強く反映されない「原則」の擁護に力を尽くすことが重要になってくる。そのような原則のうちで当今流行なのが「平等主義」だが、世界中の(海外に暮らす)最貧困層の生活水準を引き上げることよりもアメリカ国内の「お金持ち」の暮らしをその他の同胞のそれに近づけることに注目が寄せられがちな傾向にある。

幸福度研究によるとお金で買える幸福の量には限度がある(年収が増えると幸福度も高まる傾向にあるが、年収がある一定水準を超えると幸福度は上昇しなくなる)らしい。そのような研究結果が報告されると左派の間で一気に取り沙汰されることになる。「『お金持ち』は実はそんなに幸せじゃないんだ」というわけでお金持ちの降格(地位の下落)につながるわけだ。保守派(右派)に属する人々は幸福度が比較的高い。多くの再分配政策は受益者の幸福度をそれほど高めない。そんなことを示す研究結果(幸福度が上昇しなくなる年収額はかなり低いことを示す研究結果もある)が報告されると左派の間で幸福度研究の話題は一転して口にされなくなる。さらには、「格差」であれば何もかもが左派の批判の対象となるわけではない。お金持ちの地位の向上につながらないような「格差」――例えば、外見(美貌)だとか10代での性交渉体験だとかといった面での格差――であれば左派からの強い批判に晒されることはない。

右派の一部から「自己責任」という価値観が強調されるのはどんな時かというと、「不平屋」の地位の引き下げに利用できる時だ(「自業自得なのにどうして不満を訴えるんだい?」)。翻って左派の一部から「自己責任」という価値観が強調されるのはどんな時かというと、不祥事を起こした大企業(の経営陣)への罰を求めるなどして「お金持ち」の地位の引き下げに利用できる時だ。「自己責任」なる価値観については誰もが首尾一貫しているかというと、そうはなっていないのだ1

これまでの話の流れからすると、右派は「お金持ち」の仲間と見なされる一方で――実際のところは左派の方が金持ちだとしてもだ――、左派は「不平屋」の仲間と見なされる――実際のところは右派の方が文句を言ってばかりだとしてもだ――ことだろう。右派も左派もどっちも金を持ってるじゃないか。どっちも「学のある不平屋」じゃないか。そんな意見もあることだろう。ミャンマーでお米を作っている農家と比べたら、どっちも似た者同士に見えてくることだろう。

かような罠にすっぽりと嵌り込んでいる面々にとっては(右派かあるいは左派の)どちらの「(学のある)不平屋」により嫌悪感を抱くかを見極めることにすべてがかかっている。どちらの味方につくかを一旦決めてしまえば、その選択が果たして賢かったかどうかは時とともに徐々に明らかになってくることだろう。

皆がみんなかような無意識の衝動に駆られているわけではないというのは幸運なことだ。とは言え、仮にかような衝動の持ち主が増えたとしてもそのことについてブーブー言う(不満を漏らす)つもりはないけどね。

  1. 訳注;自分の都合に合わせて「自己責任」論を持ち出す、という意味。 []