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ジョセフ・ヒース「将来世代に負担を残すなと言っている人は、嘘を付いてる冷笑家? それともバカなだけ? 永遠の疑問」(2015年1月25日)

Cynicism or stupidity? the eternal questionPosted by Joseph Heath on January 25, 2015 | environment, politics

先日ダボスで、財務大臣のジョー・オリバーはカナダは均衡財政を維持する決意を表明した。オリバーは、均衡財政を世代間の公平性に関したよくある言い回しの「道徳的的問題」として説明してみせた。「我らの子供ら、孫らに、今日の我らが負っている歳出を負担させることは、間違えていると皆さんも考えているでしょう…」

しかしながら、学があるほとんどの人がご存じなように、これは経済的誤謬である。一家総出でレストランで食事して、食べ終えてから、親は勘定をばっくれて、子供たちに支払わせるようなものではない。政府がお金を借りた場合は、〔簿記上の金融〕資産と負債が共に生み出され、このどちらもが将来世代に引き継がれることになる。つまり「我らの子供らや孫ら」を含めても状況はそのままなのだ(例えば、ある人がカナダの貯蓄債権を相続したとする。するとその人は〔債権から〕歳入を受け取る。一方で、別の誰かがその歳入への支払いに応じねばならない税負担を相続することになる)。これは、同一世代内での分配効果を持つことになるが、世代を跨いでの分配効果は持たない。唯一の世代を跨いだ問題は、我々が、今貯蓄するか、それとも消費すべきにあり、金利がゼロに近い場合は、この問いに答えるのはそれほど難しくない。

一方、読者は、本物の道徳的問題が提起されている案件を存じだろうか? 世代間の公平性における本当の問題だ? 気候変動である。私は、我らの子供らや孫らに、今日の我らが生成している炭素排出を負担させるのは間違えている、と思っている。そう、我々の会計的慣習によって将来世代に負担をかけているように見えるだけの政府債務と違い、大気汚染はリアルな将来世代への負担だからだ。おまけに、大気汚染では、我々は今の消費のコストを全て負担せずに、将来の世代に付けを回している明白な事例となっている。すると、オリバーの発言はどう解釈すればよいのだろう? 現政府は、世代間の公平性を含む「道徳的」問題に対して、即座に、しかも信念に基づいて行動することを約束している。そしてそれでいて、〔その政府を代弁する〕オリバーが関心を示している「道徳的」問題は、ほぼ完全に政府の会計的慣習による虚構にすぎないのだ。一方で、政府の一員であるオリバーは、我らの時代における世代間の公平性の最も差し迫った問題〔気候変動〕を完全に無視しているわけである。いやそれどころか、オリバーは、水面下でひたすらこの問題の解決策のあらゆる可能性を破棄することに邁進すらしている。

確実なのは、将来世代は、ほぼ間違いなく我らを呪うだろうし、もしかしたら我らの墓に唾を吐きかけたりさえするかもしれない。しかしながら、どうしてこんなことになっているのだろう? 将来世代を怒らせる可能性が高いのは、我らが残した財政赤字だろうか? それとも我らが、将来世代が幸せで生産的な生をこの惑星上で送るのが難しくなるように地球の大気組成を変えてしまうことだろうか? どちらなのだろう? この疑問が、ハーパー政権の行動とコミュニケーション戦略を熟考する時に、重要な論点として私に関心を向けさせることになり、いつも自問自答することになっている。オリバーは愚かなのだろうか?――つまり、彼は本気で公的債務の最も基礎的な特徴を理解していない可能性だ。それとも、オリバーは冷笑的なだけだろうか?――例えば、彼は、自身が文字通り真実でないことを話していることを理解しているが、ほとんどの人がそれを真実だと考えているので、こうするのが自身の立場を守る良い方法だと理解している可能性だ。

私は毎度、「冷笑・利己主義」こそが相応しい解釈とする考えに引き寄せられることになる。もしかしたら、こんな結論に至るのは、私が慈悲深いだけかもしれない。一方で、これがどれだけ並外れて冷笑・利己的なのか考えてるみるべきだ。オリバーは、世代間の公平性という観点では、政府の赤字は関係ないことを知っているわけである。 実際にオリバーにあるのは,政府を小さくすることを志向する確固たる決意だ。なので、政府の歳入が低下すれば、歳出をカットすることで、政府の規模を小さくする機会をオリバーに与えることになる。「赤字は不道徳」という考え方は、「小さな政府」論(これはアピールするのが難しい)を唱えることなく、政府規模の縮小を大衆にアピールする便利な手段になっているのだ。

これはすっかり当たり前のやり方になってしまっている。 非常に皮肉なのが、我々が実際に深刻な世代間公平性の問題に直面していることだ。気候変動という形で。 ハッキリ言おう。気候変動という形態を取った深刻な世代間の公平性の問題に、我々自身が向き合っている有り様のことである。我らは、 気候変動問題において子供らの為に正しい行いを行うのに失敗しているだけでなく、正反対なことをしてしまっている。 すなわち、我々の将来世代の厚生に関する道徳的関心が、ハーパー政権にとって何の重要性にもなっていないことは明白だ。もし我々が関心を持っているのなら、連邦政府の新しい炭素税によって産み出された全歳入をどう使うべきかについて議論をすることになっているだろう。これこそが、オリバーの凡庸な冷笑的発言を、より深い領域の冷笑性に至らしめているものである。

最後にちょっとした楽しい頭の体操。世の中には、気候変動について我らは特に心配しなくてよいと示唆している言説が多く存在している――そういった言説はどういうわけか物事は(何もしなくても)勝手にうまくいく、とされている。 「気候変動に対して何もしなくてもよい」との言説を何か1つ選んで、同じ理屈で「政府の赤字を無視してもよい」と言えてしまわないものを見つけてみよう。

アンドルー・ポター「サッカーのダイビング問題の解決方法」(2018年6月22日)

How to solve the problem of diving in soccer
Posted by Andrew Potter on June 22, 2018 | culture

ワールド・カップの別側面、ダイビング(ないし「シミュレーション」)というやっかい事が美しい試合に悪影響を与えているとの別の関心が沸き立っている。4年ごとに、普段は競技に無関心なニワカサッカーファン達が熱狂し、そのニワカ達は突如皆して、世界最高のサッカー選手達の一角に多量のイカサマ師がいることに気づくことになるのだ。

今回のワールド・カップもいざ滞りなく始まったのだが、1週間経過した後、突っ伏し倒れ、身悶え、苦悶、転げ回り、体のくねらせ、倒れ込む、といった騙すような選手の虚動によって試合が定期的に中断する恒例行事が起こることになった。この恒例行事を受けて、我々は毎度の疑問に至る:もしなんらかの対処があるならそれは実行可能だろうか? と。

まず最初に、ダイビングは目新しいことではない。非常に長い間、試合の一部を司ってきている。 ウィキペディアにはあきれてしまうが、当たり前のようにこの件についての項目がある。

しかしながら、次に皆がダイビングを悪いと思っているわけでもないのだ。グローブ&メイル紙のテレビ評論家ジョン・ドイルは2大会前の記事で、ダイビングは完全に許された行為であり、ダイビングへの文句は、北米辺境民の「独断性、公平性の狭い解釈、スポーツマンシップ、マチョズム」といったこの教区の信仰フレーズに過ぎない、と断言している。

不幸なことに、選手の多くも〔このドイルの見解に〕賛成している。世界のベストプレイヤーの一部は、悪名高く、悪びれないダイバーだ。過去から今へと続くエース潜水夫リストには、アリエン・ロンッベン、ルイス・スアレス、クリスティアーノ・ロナウド、ユルゲン・クリスマンらが含まれている。もっともジョン・ドイルとは異なり、FIFAとUEFAは、ダイビングをいかさま行為の一種として扱うように強く要求している。なので1999年から両組織は、反ダイビング・ミッションに取り組んでいる。しかしながら、ほとんど成功していない。

最近のVoxのダイビングに関する新しい研究の論文が示しているように、ダイビングの問題は、それがランダムに起こっていなことにあるのだ。ダイビングはランダムではなく、非常に合理的な行為であるということが研究者によって発見されている:ダイビングは、全得点の1/4以上がセットプレイからなる総得点が低いスポーツにおいてメリットを最大限引き出すための、審判を標的にした戦略なのだ(今回のワールド・カップでも、ここまでのところ、全得点の半分以上がセットプレーとなっている。)

ダイビングを解決すべき問題とするなら、可能な対処法は何かあるだろうか? 別の見方をするなら、ダイビングを合理的な戦略にしてしまっている今のインセンティブ構造を変えることは可能なのだろうか?

2つの標準的な解決先が考案されている。1つ目は、セットプレイ(特にペナルティ・キック)の反則を取るのを今より厳しくすることだ。2つ目は、ダイビングで騙した選手に、イエローカードないし即刻退場のペナルティを課すことだ。1つ目の解決策は、試合のあり方を根本的に変えてしまうことになるかもしれないので、ホッケーでのゴールの大きさの変更や、バスケットボールでのゴールリングの高さを変更と同じ理由で反対されるかもしれない。

2つ目の選択肢に関しては、Voxの記事で指摘されているように、審判がイカサマ行為を判定することは、審判に多大なプレッシャーを背負わせることになり、これは「本当の負傷を無視したり、悪質なスライディングタックルを罰しなくなる審判なんて審判なんかじゃない」となってしまう。

個人的には、悪質な非接触ダイブを行った選手を退場させるのには賛成だ。しかも、プレイヤーがイカサマ行為を行ったかどうかの判別が難しい、との言説が広まっていることに少なからず驚いている。いかさまの判別は実際には難しくない。2009年の研究では、シミュレーション行為の4つの判別基準が発見されてる。「弾道学的連続性の欠如」(ダイブの方向と大きさの、自然な接触動作からの矛盾)や、「接触の一貫性の欠如」(例えば:向こうずねを蹴られた選手が、自身の頭を抱える)などが含まされている。上記2つの判別基準は、プロサッカーの速いスピードでも、見抜くのは非常に容易だ。

しかしながら、最も常習的で、明らかな尺度がある。それは、選手が頭部を後ろに傾け、胸を前方に押し出し、腕を上げ、地面から両足を離す為に両脚を膝から曲げた「矢を射る弓兵ポーズ」を取った場合だ。これは、躓いた反応としてあまりに不自然であり、このポーズを取った選手は誰であれ、ハッキリ接触でイカサマを働いている。本当にバランスを崩した人が、このようなやり方で反応することは絶対にありえない――肉体が〔このような反応を〕許容しないからだ。ただそれでも、審判はこのイカサマに何度も騙されている。ひょっとしたら、審判は著名な億万長者のアスリートを詐欺師だと告発するような人間になりたくないのかもしれない。

ビデオ・リプレイの使用は、この問題に対処可能な方法だ――ブラジルの現在のスター選手ネイマールは、コスタリカ戦でこざかしい芝居を行うことで、PKを獲得することに成功したが、その後にビデオ判定に基づいて無効となり無駄足となった。しかしながら、反則をビデオで判定、特にスローモーションで判定するのは、装置の本来の性質からは非常に問題ある対処法なのだ(これは別件として追加のエントリをアップする予定だ)

するとどんな対策を行うべきだろう?

まだ試みられていない1つの解決策がある。しかもこれは試合のあり方を変更する必要はないものだ。さらに好都合なことに、この解決策は誰かを嘘つきや詐欺師呼ばわりする必要がない。これはそういった〔ネガティブ呼ばわりの〕まさに正反対――ファウルを受けたと申告言動を行った選手を、最大限配慮して扱うやり方となっている。

この解決策は以下のようなものだ:もし選手が耐えがたい負傷を追ったかのような言動を行ったのなら、その時はその選手を重篤な負傷を追ったものとして扱い、機械的に「インジュリー・タイム・アウト(負傷による退出)」を命じるのだ。もし選手が非常に激しい肘打ちや蹴りや躓きを受け、文字通り苦痛で転げ回っていたら、その時は選手の安全の為に無事かどうかの確認に時間を割く必要があることには依存はないだろう。この処置によって、退出した選手が所属するチームはフリーキックを得るもしれないが、そのチームは選手の再プレイまでの(例えば退出した選手がピッチサイドで5分待機する)コストを支払うことになる。

別の激しい接触によって2回目の退出となる選手は、復帰するには〔前回の退出と合わせて〕ピッチサイドで合計10分間待機することを考慮しなければならなくなる。もちろん、退出した選手は控えの選手と交代することが可能だが、チームは選手交代枠を失うことを意味するだろう。繰り返すが、この対策の導入は、詐欺を行ったとの理由で選手を非難するものではない――負傷の表明の額面通りに受け取るわけだ。

この対策は、本当に負傷している選手を罰してしまうリスクを冒してしまうかもしれない。ただ、シンプルな理由からそのリスクは否定できる:負荷が激しい競争的状況で激しく一時的にエキサイトしているアスリートは、文字通り痛みを感じないのだ。競争スポーツをプレイしたことがあったり、非常にアドレナリンが沸騰する活動(カヌーでの急流下り、スカイダイビング、軍事戦闘)に没頭したことがある経験がある人なら誰でも、活動中は痛みを感じないことを知っているはずだ。このような状況下の人は、筋肉を裂傷したり、靱帯を損壊したり、手足を傷つけてたり、深い切り傷を負ったり、銃創を受けたとしても――自覚すらないのだ。

なので、アスリート、特にワールド・カップの熱狂的な雰囲気の中でプレイしている選手が、敵選手とのわずかな接触を受けて苦痛から地面に横たわり文字通り身悶えしているのなら、2つの可能性しか存在しない:1つ目は、その選手が本当に非常に深刻な負傷を負っている可能性だ。この場合はドクターによる対処が必要となる。2つ目可能性、それは選手がいかさまを行っている場合だ。上記の両ケースともに、ピッチサイドで5分浪費させれば、即解決だろう。

以上対策は一度実施されれば、、サッカーのダイビングをほぼ即座に終わらせることになるだろう。

ステファニー・ケルトン教授来日及び研究会開催のお知らせ

常日頃より、一般社団法人経済学101に温かいご支援ありがとうございます。

このたび昨今話題の経済理論であるMMT(現代金融理論もしくは現代貨幣理論)の主唱者の一人で、ニューヨーク州立大学ストーニー・ブルック校で教鞭を取られているステファニー・ケルトン教授の来日が決定しました。

ケルトン教授の来日プロジェクトに対して、以前からMMTの翻訳紹介を行っている当法人は様々な形で協力を行わせていただいております。

来日されるケルトン教授はシンポジウム等の様々な催しにご参加される予定です。現在2019年6月18日時点で、2019年7月16日開催の京都大学の藤井聡教授が主催されるシンポジウムが公表済みです。

翌日17日13時30分からは立命館大学経済学部と経済学部の松尾匡教授が主催する「MMTの経済理論をどうとらえるか」と題した研究会を立命館東京キャンパスを開催します。この研究会に当法人も共催という形で参加させていだくことになりました。研究会への登壇ゲストとして、明治大学准教授の飯田泰之先生、駒沢大学准教授の井上智洋先生の登壇が現時点で確定済みです。他にも著名なエコノミストの方やMMTに詳しい方のゲストが来られる予定となっています。

研究会の開催にあたり、当サイトをご愛読されている読者の方々をご招待させていだくことになりました。応募の申し込み日は6月23日17時開始、経済101で確保した定員枠は30名を予定させていただいています。応募者多数の場合は、経済学101の寄付者の方を優先した上での、抽選を行います。優先順位は、①以前からの寄付者の方、②今回寄付してくださる方、③寄付者以外の方、の順番となります。応募者が多数となった場合は、追加の定員枠を確保の上、同キャンパス内の別教室を使用しての音声(もしくは動画付き)中継を検討させていただいています。追加応募枠の詳細は決定しだいお伝えさせていだく予定です。なお、定員多数の場合は寄付者の方でも抽選となる可能性があります。予めご了承ください。応募方法は、23日17時に以下リンク先の応募用のフォームにて受け付ける予定となっています。皆さまの応募をお待ちしております。
https://dnfb.f.msgs.jp/webapp/form/21297_dnfb_88/index.do

次に、研究会にケルトン教授への質問を募集します。MMTについての疑問等、ケルトン教授に直接聞きたいご質問があれば、本エントリへのコメント欄、経済学101のtwitterアカウントにレスポンスやDMで質問したい内容をお寄せください。寄せられた質問内容を抜粋し、責任をもってケルトン教授に伝えさせていただく予定です。ただ来日まで時間が差し迫っているため、いただいたご質問を十分にお届けすることができない可能性があります。その際は申し訳ありません。

勉強会内容は、以上で募集した読者の方から質問や登壇される先生方からの事前の質問や疑問を元に行わせていただく予定となり、若干の予備知識が必要となる可能性があります。参加者の方には事前に当日の勉強会内容のご参考になると思われるブログのエントリや参考文献等をご提示させていだくかもしれません。お手数でなければ事前にお目を通していただけますと、当日の理解が深まるかと思われます。

なお、現時点で、ケルトン教授サイドの著作権の関係により研究会の動画の公開予定はありません。

その他詳細は本エントリ下部のフライヤー画像もご参照いただけると幸いです。

参加とは別件で本イベントにお問い合わせがある方は、本エントリ末のメールアドレスにご連絡をよろしくお願いいたします。

最後となりますがこの様な催しを行うことがでるのも、ひとえに一般社団法人経済学101を応援してくれる読者の皆様のおかげであり、重ねてとなりますが常日頃よりのご支援誠にありがとうございます。もし今回の研究会が一定の成功を収めることができれば、同様の催しを以後も行えたらと考えております。それでは今後も一般社団法人経済学101をよろしくお願いします。

一般社団法人経済学101
問い合わせ先: event@econ101.jp

※追記:昨日の告知の際、定数枠の記載にミスがありました。正確には当サイトを通じての応募者枠は30名となっています。

※追記2: 本イベントへの多数の参加申込をいただき、誠にありがとうございます。 6月30日(日)現在、おかげさまで既に定員を超えるお申し込みをいただいております。応募者多数のため、参加申込締め切りは7月4日(木)21:00とさせていただきます。ご了承いただくこと、よろしくお願いします。

※追記3: 本イベントの申し込みは 7月4日(木)21:00 で締め切らせていただきました。ご応募ありがとうございました。

※追記4:本イベントは無事終了しました。

ジョセフ・ヒース「法人税減税:誰が得するの?」(2014年5月30日)

Corporate tax cuts: cui bono?
Posted by Joseph Heath on May 30, 2014 | Uncategorized

NDP(新民主党)1 が法人税率を上げることをアナウンスするたびに、批判者達はそのアナウンスに対して激しい叱責を毎度加えている。批判者達は、「法人への税は、実際には法人へ課税されることにならない。なぜなら、課税される法人は、課せられた税を安易に他者に転嫁することが可能なのだ(例えば、消費者への値上げの形態を取るかもしれないし、労働者の賃下げの形となるかもしれない)」と指摘している。しかも、この手の批判者達は、法人税増税がこうして諸刃の剣になっている論点を指摘するのを躊躇することはめったにないでは仮に、法人が法人税のような税を実際に負担しないのなら、諸刃の剣になる要点は何なのだろう? 事実、カナダ進歩保守党は、オンタリオ州において現段階で打ち出している政治要綱で、法人税の劇的な削減を要求している。3.5%削減することで、11.5%から8%にするというものである。(新民主党が政治要綱で要求している1%の引き上げより、数字として相当に大きい)。なぜ保守党員は、この論題で新民主党よりも、はるかに大騒ぎしているのだろう?

この件に深入りする前に、新民主党へのこの手の批判には、税負担の概念に関わる重要な論点が潜んでいることを言及せねばならない。政府に税を納めた人は、必ずしも税を負担しているわけではないという税負担の事実の反映がある。税を納めた当人は租税負担を他の誰かに転嫁することが可能になっているかもしれないからだ。つまり、「X税」と呼ばれているような何らかの税は、実際にXに税を課したことを意味するとは限らない。例えば、所得税は、必ずしも所得に課される税ではない。

貯蓄が〔課税対象から〕免除されている場合――RRSP2 や TFSA3 によって――平均的な人にとっては、実質的には所得ではなく、むしろ消費に税が課されたことになる(なぜなら「収入-貯蓄=消費」だからだ)。同様に、法人に課される税も必ずしも法人に課される税とは限らない。例えば、HST/GST4 は、技術的には法人に課される税である。なぜなら、HST/GSTを課せられた法人は、政府に税を納めねばならない。しかし、我々はこれを消費税と呼んでいる。なぜなら、税を課せられた法人は例外無く負担を消費者に転嫁するからだ。よって基本的な論点として、なんらかの税が「法人税」と呼ばれていても、実際には法人に税が課されていることを意味しないことが重要な事実なのだ。

すると疑問が生じることになる。法人に課された税は実際に法人が負担する税でないなら、なぜ法人(ないし「財界」)は法人税の高さを気に病むのだろう? まさにGSTのように、法人税は他者に転嫁されることになるのにだ。たとえ法人が消費者か労働者に転嫁することができなかったとしても、最悪時には株主に転嫁されることになるわけである。(この場合原則的には、収益を税負担に当てることで、株主の取り分である配当金が減らされることになる)。そして、大企業が自社の株主が受け取る純粋な配当利回り率に多大な関心を寄せている、と想定する根拠は特に存在しない。配当利回り率が競合他社と似たような水準にある限り、企業経営者はそれがどのくらい高いのかに多大な時間を割いて気に病んでいる蓋然性は低い以上事実が示唆しているのが、企業は収益への課税率について無関心であるはずなのだ(同様に、企業はGSTの高低水準の在り方についても無関心であるはずだ)。

ここまでを総括してみると、不可解な謎が生み出されることになる。保守派は、なぜこうも法人税の削減に熱心なのだろう? という謎だ。「政府は悪であり、ビジネスは善である」といった単なるイデオロギーや、税の死重損失に関する一般的な不平を超える何らかがあるわけである。法人税減税から誰が本当に利益を得るているのかを知るのは困難だ。

しかしながら、利益を受ける一つの有力な支持層が存在する。本当の大金持ちカナダ人達(便宜上トップ1%くらいとしよう)だ。彼らは大規模公的企業の株を保持しているだけでなく、自身の財産を管理するために私的企業も保有している。富裕層は、租税処置から自身の収入を守ることを主目的に――最優先されているのは、退職後の蓄えを守るための達成手段として――この手の自前の企業を創設しているのだ。結果的に、法人税率は、富裕層の収入(特に投資収益)の大部分に課される個人向け適用の税率にもなっている。これがどのように機能しているのか理解することは、富裕層が法人税減税にここまで強く賛成している理由を理解するのに必須なのだ。

概要をおおざっぱに描写してみよう。あなたはオンタリオ州に在住していて、年に50万ドルの収入を得ているとしよう。まず最初にあなたが悟らねばならないのは、T4収入5 は、ごく普通の人のためのものであるということだ。T4収入を適用している人は〔最富裕層には〕まったくいない。なぜだろう? T4が適用された場合のあなたは、収入に課される税金を払う以外の選択の余地はほぼ存在しないからだ。さらに、課税後の実質的な控除もほとんどない。なので、収入が15万ドル以上に差し掛かり始めると、あなたは所得をT4適用外へと切り替える方法を探し始めることとなる。(例えば、あなたは「従業員」ではなくて、「コンサルタント」として契約し働くようになるとか)。そこで、あなたは会社を作り(安価で簡易なのだ)、その自社法人に雇われている立場になる。さらに〔仕事先から〕直接お金を受け取る代わりに、自社に支払ってもらうようにする。これは「所得のより税効率モデルへのシフト」と呼ばれている。

お金が自分の会社に入るようになったら、あなたは自身に(累進課税の限界税率が作動に至る)136,270ドル前後の給与の支払いを始める。136,270ドルより少し多い場合は、あなたはRRSPの積立金とTFSAを限界まで使い切ることが可能だ。さて次は、会社に残ったお金に創意を働かせる番だ。配偶者はあなたの所得を下回っているだろうか? 彼女を(一応、彼女にしておく)自社で簿記担当として雇用しよう。幼い子供はいるだろうか? 乳母には定額所得から育児代を出していけない(育児控除はばかばかしいほど低いのだ)。彼女を「エグゼクティブ・アシスタント」として自社に雇わせよう。子供が大学行くために家を出たら? 子供らの家賃を払ってはならない。自社で分譲マンションを購入して、子供らを「財産管理人」として雇おう。さて、車も2台目を購入してはならない。自社付けで購入しよう。休暇にも出かけないように。会社支払いの出張旅行に出かけよう。創意の制約はあなたの想像力の限界だ(もちろん、大雑把に解釈された法も一応は限界だ)。

しかしながら、こういった「創意」全て執り行え終えたとしても、自社にまだお金が残っている可能性がある。最高の累進税率が適応された所得税を支払わないと引き出すことができないお金だ。ということで、何をすればよいのだろう? あなたは、駄菓子屋の外で、顔をガラスに押し付けて店内を凝視している子供のように、消費できない全てのお金を座視している立場にある。お金は非常に間近にあるが、非常に離れてもいる…。あなたは既に、RRSP積立金を限界余地まで使い切っている。何をすべきだろう?

さて、あなたができることの1つが、お金を自社内にプールしておいて、どこかに投資することだ。これにはたった一つ問題が存在している。もしあなたが自社内にお金をプールしておいたら、それは「利益」とみなされてしまうのだ。なので、あなたはそれに課された法人税を支払わないといけない――州と連邦政府の合算の率で(低く見積もると)15.5%となる。後々、あなたがそのお金を引き出した場合――お金を使おうとする時は最終的に引き出す必要性がある――引き出したお金に課せられる所得税を支払わねばないらない。しかもおそらく最高限界税率でだ。それでも、利益は得られるのだろうか?

あなたが退職後のための貯蓄を目的にしているのなら、計算してみると、利益が存在することが判明するのだ。どういうことなのだろう? 投資の運用利回りにおける複利の効果故である。もしあなたが、お金を〔自社内にプールせず〕引き出して投資運用するしよう。その場合は、最初に引き出した時点でお金に46.4%の所得税を支払わねばならない。その後、あなたは引き出して得たお金を再投資すると、その投資収益の総額に46.4%のキャピタルゲイン税が課せられ再度支払うことになる6 。以上ケースとは別に、あなたは自社内にお金をプールするとしよう。この場合、最初に15.5%の法人税を支払うことになる。その後、プールした収入を再投資すると、投資収益の総額に毎年15.5%の法人税が課せられ支払うことになる。さらに最終的に自社からお金を引き出した時に、46.4%の所得税を支払うことになる(退職後にあなたの収入が低下していた場合、46.4%より若干低くなるなるかもしれない)。この複利の効果、つまりお金を15.5%の低い税率によって、自社内で「育てる」メリットは、(最初の法人収益に、最後の〔自社から引き出した〕所得への)二重課税のデメリットを上回るのだ。

ここまでの指摘事実が事実上意味しているのが、私企業は無限に積立可能で柔軟な払い戻し制度を備えた巨大なRRSPのようなものとして基本的に機能していることにある。

この事実はまた、非常に裕福な人が、法人税率にとりわけ敏感である理由も説明してくれる。非常に裕福な人が、所得税から退職時の収入を保護するために私企業を利用する方法は、複利の効果に依存することで、法人税率の値は増幅されて影響を与えることになっている――税率の小さな変更が、個人所得を自社内にプールする節税メリットに非常に大きな効果をもたらすのだ。言うまでもないが、このような私企業内に非常に多額の大金を保管している最富裕層は大量に存在している。このことが、富裕層を法人税減税の主たる私的受益層に至らしめているのである。

※免責条項:本エントリいかなる場合においても、節税アドバイスとして解釈すべきではなく、脱税詐欺についての助言も行っていない。カナダにおいて最も高い収入を得ている人々が行っている、納税義務の最小化の方法の1つを単純化して説明しているだけである。

※訳者による注釈は〔〕で括っている

 

  1. 訳注:カナダの左派政党。再分配を重視した政策を訴えることが特徴。 []
  2. 訳注:”Registered Retirement Saving Plan”(登録退職貯蓄基金)の略。一般的勤労者が定年後の為に貯蓄することを支援目的にした各種税制融合措置。所得の一部をRRSPに適用して貯蓄すると、貯蓄分を課税対象から免除することが可能となっている。 []
  3. 訳注:”Tax-Free Saving Account”の略。主に勤労中間層の個人を対象にした、金融投資からの利益への減税を中心にした資産形成の優遇措置制度。日本におけるNISAと似たような制度である。 []
  4. 訳注:それぞれ”Harmonized Sales Tax”及び”Goods and Service Tax”の略。カナダにおける政府・州政府による物品・サービス等に課せられる売上税。日本における消費税とほぼ同じである。 []
  5. 訳注:カナダでは所得・収入をT以下の数字で分類しており、T4は通常の給与所得の分類。T4に分類された所得は源泉徴収された上で、厳格な課税が適用される。 []
  6. 訳注:カナダのキャピタルゲイン課税は、投資収益の半額に所得税の税率が適用される。 []

ジョセフ・ヒース「少年とセックスと本とビデオゲーム」(2017年8月2日)

Boys, sex, books, video games
Posted by Joseph Heath on August 23, 2017 | gender

教育者のほとんどが気づいていることがある。それは我々の社会において男の子が本を読まなくなっていることだ。「文学の危機」とまで呼んでしまうのは少し大げさかもしれない。それでも、男の子が本を読まなくなっている現象は現在進行であり、問題でもある。私には12歳の男の子と13歳の女の子がいるので、親としてここ数年にかけて、この現象を注視してきた。おかげで文学の中でもYA(ヤングアダルト:若年層向け)文学分野で何か起こっているのかを、私の同世代の誰よりも精通することにもなったのである。よって以下、この分野におけるいくつかの観察事例だ。

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ジョセフ・ヒース「税が税でない場合とは? 炭素税vs.炭素価格」(2014年7月19日)

When is a tax not a tax? Carbon taxes vs. carbon prices
Posted by Joseph Heath on July 19, 2014 | economy, environment

『炭素税』のアイデアと、それを「税」と呼ぶにふさわしいかどうかに関しては、カナダにおいて全国的に一定の混乱があるようだ(例えばココ)。炭素税のような政策的枠組みを支持者する人たち(私も含む)は、これを『炭素価格付け』制度と呼んできた。『炭素税』とその他多くの「従来の税制度の枠組み(所得税や消費税)」との相違点を強調するためである。(そして右派による「あらゆる税は悪である」誹謗監視網を避ける為でもある)。このことは、「炭素価格付けの政策的枠組み」への反対者達(現政権や、言及するまでもない右派マスコミ内の政権の忖度野郎ら)を、「炭素価格付けは税である」と執着することに至らしめてしまった。実際、現職の環境大臣は、政権のマントラ「炭素価格付けは、単なる税ではない、森羅万象への課税である」を輪読する機会を決して逃さない。(前任の環境大臣は「あらゆる形態の炭素価格付けは、炭素税である」と口角泡を飛ばしていた。)

このようなしつこい主張には、市場経済の基礎原理への非常に深刻な誤解が実質的に内在されている。誤解を晴らすために、『炭素価格付け』は実のところ価格付け制度であって、税ではないことを示してみたい。この「価格付け制度であって、税ではない」という見解を拒否している人は、混乱しているか、意図的に混乱を流布している。大抵は混乱しているのだ。そして、混乱している人の典型的理由は、税金について長年費やして大騒ぎしておきながら、価格とは何であるかについて深く考えてみたことがまったくないからなのだ。

なので、「税は何をもってして税と呼ばれるに値するのか?」といった本題に入る前に、「価格とは何であるのか?」、「我々はなぜ価格を保持しているのか?」といった最初の基本原理に立ち返るところから話を始めてみたい。なぜ「価格」なんてものが存在しているのだろう? それは市場経済の2つの根元的な構成要素の直接的な帰結だ。「財産権」と「契約」である。古典的財産権は、「独占権」という中心的な特徴を持っている――財産権は、財の所有者に対して、所有財を他人が使用したり、財の享受を阻止する権利を付与しているわけである。例えば、私が特定区画の土地を所有しているとしよう。すると、私は他人がその土地を歩くのを規制する権利を有していることになるわけだ。車を所有してる場合、他人がその車を運転することや、車に危害を加えることを禁止する権利を有していることになる。1杯のコーヒーを所有している場合、他人がそのコーヒーを飲むのことや、それへ唾を吐くのを禁止する権利を有していることになる。以下続く…。

もし何者かが、私の土地を徘徊したくなったり、私の車を運転したくなったり、私のコーヒーを飲みたくなったら、実際何が起こるだろう? 大抵の場合、その何者かは、私の許可を求めて、自有財産の使用権や享受権を「誘因」として提供しての説得が必要になる。これこそが、契約に基づいた交換の原理原則である。あなたが(私のコーヒーを飲むような)通常は財産権の侵害と見なされるような行為に私が許可を与えるとすれば、あなたは私が欲するものをお返しとして与えるわけである――まあつまりは、あなたは私に支払いを行うわけだ。ここで「価格」が登場するわけである――「価格」とは、財産権の放棄や譲渡条件といった、諸個人の他者との同意が確認再表示された用語なのだ。

ここで言及しておかねばならない重要なことがある。この価格を巡る全過程において、国家が非常に重要な役割を担っていることだ。諸個人は、どんな場合であれ自身が望む取引を自由に締結できるという意味において、価格への自由決定権を有している。あなたは、私のニワトリを所望し、代わりに一袋のニンジンを支払う契約を結んだしよう。にもかかわらず、私はニワトリを与えたのに、あなたは私にニンジンを手渡さなかったとする。この場合、私は、国家に訴えることで、あなたにニンジンの支払いを強制させることができる。あなたが私の土地に不法侵入し、私のニワトリを殺害したとしよう。この場合も同様に、私は異議申し立てし、国家を通じて「賠償」支払いを強制させることが可能となっている。賠償金額は基本的に、裁判官か陪審員による最適推定値とり、あなたはその「賠償」を支払わねばならないだろう。賠償の履行によって、私がニワトリの殺害を許可をしたのと同じ状態になることが目的となっている。つまり、全ての価格は、財産権と契約の関係に応じて執行される法制度の産物であるという意味において「人工的」なのである。

こういった価格協定全体の中核には、究極的なまでに重要な道徳概念が位置している。それは、諸個人がなんらかの行為を決定する場合、自身の行動が他者に及ばす影響を考慮に入れねばならないという、道徳概念だ。もし私が土地の一角を利用しているとしよう。すると、他者はその土地を利用することができないことが意味されている。もし私がニンジンを食べたとしよう。すると、他者はそのニンジンを食べることができないことが意味されている。森羅万象を財産権に分割することは、こうした自身の行動が他者に及ばす影響を自明化する方法の1つとなっている。私が他者の土地やニンジンに対して支払いを負っているという事実があるなら、他者もその土地を利用したかったり、食べたがっている事実の反映なのだ。そして、私が財を得るために負っている支払い総額は、私がその財を使用ないし消費すれば、他者にどれくらい不遇を引き起こすかの直接的な役割を果たすことになっているのだ。(標準的な厚生経済学における)「最適」価格によるなら、個人の支払い総額は、『社会的費用』と正確一致するものであるとされている。『社会的費用』とは、いわばその個人の所有ないし消費が、他者にもたらした不遇なのだ。

市場についてこのような方法で考えることは、私が価格付けの「謝罪」モデルと呼んでいるものを引き起こすことになる――「謝罪モデル」とは、もし人が何らかに料金を支払った場合、その人は自身の消費によって不便を感じたすべての人に謝罪していると考えねばならない、との考え方だ。

今度あなたがスターバックスで1杯のコーヒーを買うときには、バリスタにこう言っている自分を想像してほしい。「ごめんなさい、他のことができた時間に、私にコーヒーを滝れてもらって。他の方々にもどうか伝えてくれませんか、同じようにお詫びしていたと。オーナーさん、地主さん、船会社さん、コロンビアの農家の方々にも。この1ドル75セントが困難の全ての対価です。どうかあなた方で分けてください」。
ジョセフ・ヒース『資本主義が嫌いな人のための経済学』( p. 160)

このような私の書き方、ジョーク、ないし一介のカナダ人による奇矯な経済学理解に聞こえるかもしれない。しかしそうではないのだ。これは、市場経済における価格機能の実際の在り方を正確に表記したものであり、資本主義における道徳の中心的な基礎もまた同様なのだ。

価格制度の根底にあるこういった単純な原理から始めることで、環境保護規制は、同じ原理のほんの小さな拡張を表していることにすぎないことを容易に理解することが可能となっている。あなたは、破棄したい生ゴミを持っていて、私の私有地に投棄処分したがっているとしよう。あなたの投棄は、私からすれば私有地からの享受を減少させることになるだろう。なので当然のことながら、私はあなたを止めるために、財産権の行使が可能となっている。あなたが私の私有地へ生ゴミを投棄するなら、私への金銭支払が必要となっているわけである。だがしかし、あなたは賢明になり、投棄する代わりにゴミは燃やすと決めたとしよう。燃やした結果、悪臭の煙が今や私の土地を漂うことになり、さらなる度合いでもって私有地からの私の享受は減少することになる。不幸なことに、こうなってしまっても、財産権は私を守ってくれないのだ。私有地上の大気まで「保持」していないからである。つまり、私有地の周りにフェンスを建設することは簡単なのだが、大気まで囲い込むことは非常に難しいわけだ。ただ補足しておくと、このように財産権行使の限定的な事例を挙げることで、〔人はなんらかの行為を行う場合、他者への影響を常に考慮せねばならない〕道徳的原理こそがこの件の本質にあるのだ、と言いたいわけではない。道徳的原理はここでは純粋に二の次的な問題に過ぎない。もっともそれでも、基本的な道徳的原理はやはり変わらず重要である――つまりは、あなたはなんらかの行動を行う前には、その行動が他者にコストを課す事について、考慮しないといけないのだ。論を戻そう。もしあなたが、私の私有地からの享受を減らすようなことを行えば、あなたは私への支払い義務が生じる。故に、私はあなたを裁判所に連れていき損害賠償を強いることが可能となっている。そこでは、私が自身の私有地上の大気汚染を許可するのに、あなたは私に幾ら支払わなければならないのかが、裁判官よる最適推定価格として再提示されることになるだろう。

もし、煙が私の私有地上だけを漂うのではなく、他の人達の私有地上にも、薄いモヤとして漂って底流し、土壌が汚染されるような事になれば何が起こるのだろう? 我々は、民事訴訟を「集団行動」として組織し、あなたに賠償金支払いを強要するのが可能になっている。ただ、民事訴訟のような組織化を行えば、甚大なコストがかさむだろう。法廷で本当に争ってしまった場合はどうなるかは言うまでもない。なので、国家によるシンプルに罰金を課すような取り決めの行使が、前もっての解決手段として許容されているわけである――生ゴミのようなものを燃やしたい人皆に課される罰金だ。こういった取り決めは、汚染の生成による「社会的費用」の反映となっている。ここまで検討での重要な論点、それは国家が「社会活動」に価格付けを行っていることにある。不完全性が無い市場や私的所有制度によって帰結されるに至った市場価格と、国家によって行われる社会活動への価格付けの達成は、〔同じ社会的価値反映の〕単に異なる方法にすぎない。(ロナルド・コースによって提唱された、有名にして若干の間接的な論点である)。

重要な論点がもう一つある。国家が〔価格付け制度から得た〕お金で何をするかは、どうでもよい論点なのだ。諸個人が意志決定を行う時、様々な選択肢を比較検討するが、その時諸個人が向き合うことになる費用には選択肢それぞれの社会的費用が反映しているはずだ、というのが価格システムのコア概念だ。この価格システムのコア概念によって、社会的に最適な意志決定が形成されるので、我々は市場を尊重するのである。国家が汚染に価格付けを課すことは、この最適意志決定が社会的に達成されることとなる。国家が、価格付けで得た資金を後に全て無駄遣いしようとしまいと、まったくどうでもよいのだ。

すると「税」とは何なのだろう? 今日の保守派の言及論点に従うなら、政府の歳入を上げるものは何であれ「税」となっている。これは定義として漠然としすぎていることは明白だ。政府が公債を売るのは、税を課したことにはならない。同じく、政府が公的保有している土地の売却を決定し、その売却が歳入を生んだとしても、その土地を購入した人に税が課されたことにはならない。政府が土地を売ったときに行っているのは、「税を課す」などではなく、「土地を価格付けしている」のである。右派政権は、しばしば減税を行いつつ、減税による歳入不足を補うために〔公的サービス等の〕使用料の値上げを行おうとする――その際、右派政権は主張する、「我々は増税しない公約に留意している」と。これも似たような言説である。(そう例えば、右派政権が低い固定資産税の維持に固執したことで、地方自治体の水泳教室の価格が上昇するかもしれない。しかしながら、これも実際には増税ではない。政府は単に水泳教室を販売しているだけであり、民間企業と同じことを行ってるに過ぎないからだ。)

すると、税を税にしているものは何なのだろう? 税の最も重要な特徴は(私の考える限りでは)、歳入を上げる目的に課せられているものであり、行動を変じる目的には課されはいない。所得税が最適事例だ。所得税の主要目的は、単に歳入を上げることにあり、人の収入動機を挫くことにあるわけではない。消費税も同様だ。経済学者達が、多くの時間を費やして税の「歪み」効果について悩んでいるのには理由がある。それは、税のインセンティブ効果が、望ましい社会行動様式に反した特徴となり具現化してしまうことにある。なので、効率的税制度の究極目標は、この「歪み」をできる限りに最小化することにある。故に、経済学者にとっての理想的な税は、「人頭税」(ないし「税の個人支払いの一元化」)となっている。人頭税や一括支払い税を課せられる人は、その税を逃れたり、支払いを最小化する方法がまったく存在しないからだ。そして、人頭税や一括支払い税は、人の行動を変ずることなく歳入を上げるからでもある。これとは別に、経済学者達に好まれる税制度に、『奢侈税』や『資源使用量』のような、”エコノミック・レント(経済的上乗せ利益分)”に課す税もある。これらもまた、行動を変ずることなく、歳入を上げるからだ。(ただ、これらがなぜ好まれるかの詳細な説明するならやや複雑なものとなる…)。

ここまで説明したことで、保守派が一様に税に敵意を持っている一方で、財の利用手数料や価格には敵意を持っていない理由がおわかりいただけだろうか。穏健右派は、税の「歪み」効果による社会的効率の損失を理由に、税に反対してわけである。極右派が税に反対するのは、税が国家の歳入を上げるメカニズムの代表事例だからなのだ。そして、極右派は、国家の歳出そのものに原則的に反対している。(概して、こういった保守派の税への反対は、あらゆる種類の再分配、すなわち「不相応な利得」への強い反対に基いている。故に、政府が提供する水泳教室を使用者に請求するのは、使用者は受け取ったサービスに応じて金銭支払いを行っているだけなので、保守派的には万事問題無しなのである。一方で、政府が個人に固定資産税を課すのは万事問題有りなのである。なぜなら、個人が受け取る地方自治の公共サービス――警察による治安維持、道路整備、降雪除去、等々…――は、税支払いの対価と正確に一致する保証がないからなのだ。〔税金を支払うことになる保守派は〕自身のお金の一部がサイフォンで吸い上げられているのでないか、自身のお金が公共サービスが受けるべきでない人にも与えられているのでないか、と常々戦々恐々しすることになるようだ。どうも保守派の多くは、誰かが不相応な利得のようなものを享受する可能性に悩まされるくらいなら、公共サービスは無いほうがいっそ良いとのことらしい。)

『価格付け制度』は、税とは対照的に、まさに行動を変えることに目的がある。価格は、人々の様々な行為(消費行為、自身の使用行為、使用行為から他者を排除する、等々…)を抑止する意図を持っている。人が本当に価格付けられたものを必要としない限りは…。つまり、人にとってその価格付けられたものからの便益が、他者への損失を十全なまでに上回らない限り、価格は人の行為への抑止意図を発揮するわけである。これは、ほとんどの財の価格が、市場によって決定されていることを我々が受け入れている理由となっている。どういうことなのだろう? 競争市場は、私的利益を社会的費用としての価格に均衡水準化する最適な制度だからなのだ。この見解は少し奇妙に聞こえるかもしれない。私があなたにニンジンを売った場合、私個人が意図しているのは、単にお金を作ることにあり、私的利益と社会的費用を均等化させようなどとは意図していないからだ。しかしながら、価格制度を私的意図の観点から考えてしまうことは、間違えた考え方なのである。個人が何を意図してようと争点はそこにはない。問題になっているのは、諸個人はニンジンに自由に価格付けを行えることにある――逆に考えれば、ニンジンには法的に価格が定められていないことが争点になっている。ニンジン対して諸個人が価格を自前で設定させられていること、これこそがこの争点化している問題の解答だ。「価格を自前で設定させられていること」は、高い慨然性をもってして、我々を価格を私的利益と社会的費用の均等化作業に至らしめることになる。

この見解を敷衍させると、政府が国有地の一部を売った場合も、政府自体の目的はお金を作ること(つまり歳入を上げること)にあり、政府自体は私的利益と社会的費用の均等化を目的にしてはいないことになる。それいて、国有地の売却は税にならないのだろうか? 私が独自定義で悶着してるだけなのだろうか? なんらかの価格が税であるかどうかは、その価格がいったい何に基いて定められているのかに依存している、と私は論じたいのだ。競争的な市場価格によって地価が計測され、売買が試行されている場合、私は単に「土地が価格付けられている」と言うだろう。対照的に、例えば、土地を非常な高価格で売ることを目的に、土地の供給余地が制限されているような土地の専売権行使が存在しているとしよう――香港政府が行っているようなやり方である。この場合は、土地を購入する人(例えば不動産ディベロッパー)に「課税する」という言い方が妥当になる、と私は考える。政府が「市場」価格で土地を売る場合、以上の専売権行使の場合とは異なり、歳入を上げるという事実は、幾分だが付随的な事柄にすぎない。例え、政府が国有地の売却収益を翌日に気まぐれに散財したとしても、その土地を最適利用できる人に資された保証として、「土地を価格付けして売却した」ことに重要論点があることは損なわれない。

ここまで、微妙な論点にこだわっているように思えるかもしれない。しかし、この論点を、環境問題に適用した場合、それは明白かつ直接的に適用妥当案件となるのだ。二酸化炭素を排出することは、(国境を越えたグローバルな温暖化のメカニズムを介することで)コストを他者に押し付ける行動の完璧なまでの典型事例となっている。それでいて、現行の財産権は、二酸化炭素排出コストの他者への転嫁を防ぐ仕組みにはなっていない。つまり、財産権や契約の古典的メカニズムは〔他者転嫁した排出コストを反映して〕価格を引き上げるようには至っていないのである。それでいて、価格付けの「謝罪」モデルの観点から考えてみれば、大気中へ二酸化炭素の排出を行った人は、排出によって不便をかけた全ての人に謝らなければならないのは明白である。二酸化炭素を排出した人が謝罪を負っていない現実は、財産権のシステムが政府の専制的制限下にあり〔排出コストまでカバーしていない〕ことに起因している。つまり、大気が問題領域になっても、人は財産権を行使して解決する手段を有していないのだ。

別途手段を検討してみよう。諸個人が集まり、二酸化炭素を排出している人々に補償を要求するのも、法外にコストがかかるだろう。さらなる別途手段、二酸化炭素排出を「違法行為」として扱う解決策も、「財産権」による解決策と同じく効果的ではないだろう。よって人が温室効果ガスを排出する場合、他者にどれくらい賠償せねばならないかの決定のお鉢が、国家に回ってくることになる。なので政府は、なんらかの費用便益分析(例えばスターン・レビュー)にコミットした上で、「炭素価格」を課すことになる。費用便益分析は、人が二酸化排出を欲したとし、さらにその排出の影響を受けた人々が集まって協議し同意が行われたと仮定した場合の市場価格基づいて設定される。ここで政府が一連の政策に課した「炭素価格」――それを我々はそれを「炭素税」と呼んでいるのだ。

繰り返させてもらうが、こういった政策枠組みを「価格」として考えることは、政策が歳入を上げる重要性が、二の次になる事実の反映となるのだ。たとえ、国家が炭素価格付けの政策枠組みからの全ての歳入を気まぐれに散財したとしても、この政策は実地される価値を持つ――どういうことか?――国家がこの政策を実地している環境下では、人は意志決定を行う場合、その意思決定が他者に課すことになるあらゆるコストを考慮することが強要されるようになるからである。実にこれこそが、数回前の選挙において、自由党が「グリーン・シフト」を提唱していた理由だ。提唱政策では、炭素税は、同等規模の所得税減税を組み合わせた課税政策と紐付けられていた。政策を包括的に履行すれば、歳入は中立になっていたわけである(故に、「シフト」と呼ばれていた)。グリーン・シフト政策の目的は、より効率的な経済的インセンティブを作り出すことにあって、歳入を上げることにはなかった。言い換えるなら、「炭素価格」の試算にあったのだ。

この歳入の中立性こそが、「炭素価格付け」に反対している党の方針に面従腹背している経済に精通している保守派が、悪辣な不誠実さを患っている理由だ。経済に精通している保守派は知っているわけである。もし人々が市場経済の根底にある基礎的な原理を受け入れ、さらに気候変動が人為的であることの科学的なコンセンサスを真実だと考えた時、「グリーン・シフト」や、炭素価格付けのような政策に、一般的に反対することに、筋の通った論拠が単純に存在しなくなってしまうことを。保守党支持者達がこういった政策に反対している事実は、(酪農産業の供給管理への加担と極めて似通っている)愚存な政治的ご都合主義の行使――自由市場の基礎的な原理への毀損に立脚している。不幸なことに保守党支持者達は、この問題では自縄自縛に陥っており、適切な政策の提示が不可能になってしまっているのだ。

ここまで語ってきたこと全て、国家が価格の調整を試みる際に手数料を課すような政策に適切な名前(例えば、ピグー税)を思いつける人からすれば、マズい考えではないだろう。例示してみると「有料道路制度」、我々はそれを「通行料」と呼んでおり――「税」と呼ぶより正鵠を射ている。貿易制限の場合、我々は「税」ではなく「義務」と呼んでいる。なので、炭素価格付け政策の枠組みは、炭素「課徴金」とでも呼ぶのがおそらく適切なのだろう。ただ、上記の通行料、税、義務、課徴金といった様々な様態を広く包括した用語があればより適切かもしれない。

※訳者による注釈は〔〕で括っている

ジョセフ・ヒース「アレク・ノーヴの偉大な一節」(2015年6月10日)

Great sentences: Alec Nove
Posted by Joseph Heath on June 10, 2015 | economy, environment

私は最近、アレク・ノーヴの”The Economics of a Feasible Socialism (revisted)“(『実現可能な社会主義の経済学[改訂版]』)をパラパラとめくって、20年前にアンダーラインを引いた箇所をチェックしていた。この本はおそらく、私の物事への考え方を根源レベルで変じさせた、十数冊の内の一冊だ。今から見ても、以下の一節は傑出している。

外部性は、所有の分離によって生じるのではない、意志決定単位の分離によって生ずるのである。

この短い一節は巨大な示唆に富んでいる。私が読んだ20年前時点では、こういった考えが、これほど明晰に、そして力強い説得力でもって表現されているのを見たことがなかった。資本主義の病理のいくつかは、企業の所有構造要素や、利潤への志向によって生じるのではなく、意思決定の分散化から生ずるにすぎないことが示唆されている。私に言わせると、このノーヴの見解、全ての環境保護論者が、理解し、把握する必要があるものだ。その中でも特に、資本家による企業所有を、生産者協同組合へと移行させることによって、環境に関して何か成し遂げられることができると考えている環境保護論者にとって必要だ。(ちなみに、この一説が含まれているチャプター「社会主義とソビエトの経験」は卓越した読書価値がある。)

ジョセフ・ヒース「なぞなぞ:リバタリアンとペドフィリア(小児性愛者)の共通点ってなーんだ?」(2014年4月22日)

What do libertarians and pedophiles have in common?
Posted by Joseph Heath on April 22, 2014 | political philosophy

答え:インターネット登場前には、こんなに沢山いると誰も知らなった。

オーケー。このなぞなぞは、読者の注意を引くために即興で創り上げたちょっとしたジョークだ。このジョーク、今回の議論の調子を伝えるためにをやらかさせてもらった。要は、今回の議論、リバタリアニズムの批判を行うが、教義や主義そのものに言及しない感じの批判になっている。はっきり言ってしまえば、属性批判的なリバタリアニズム批判をやってみたい。もっと正確に言わせてもらうなら、信者の典型例の観察を行うことで、リバタリアニズムを間接的に批判したいわけだ。

この批判を達成するために、新しいコンセプトを紹介したい。ぶっちゃけるに、『自制心(セルフ・コントロール)貴族』と私が呼んでいる特定集団の人々について話したい。

この考えは非常にシンプルだ。一部の人は、他の人達よりも「自制心」に優れているのである。私の例を挙げてみたい。私は妻を心から愛しているのだが、時に妻は私を恐怖の存底に叩き込むことになる。数か月前のことだ。妻は、市販の統計分析ソフトに料金を支払うのが嫌になったので、代わりにオープンソースソフトウェアのを学ぶことを決心した。妻は、いくつかの無料のオンラインのコースに申し込み、それから毎日、仕事後の晩に、Rのプログラミングの細かい仕様を講師が解説するチュートリアルビデオの視聴に1時間ほど費やすようになった。妻は、多量の問題一式に取り掛かり、月末にはそれを基本的にマスターしてしまった。

私を畏怖させたもの、それは妻の「自制心」の行使量である。仕事場での長い1日を終えてから帰宅し、それから統計ソフトのプログラミングの自習に1時間費やすのである。こんなことをするのは、私には到底無理だ。端的に私には妻のような凄い自制心がないからである。ただこう言っておいて何だが、私も平均的な人よりは強い自制心を持っているはずなのだ。何せ、私は大変な労力を割いて本を書いており、完成に至るまでの何年もの忍耐力を必要としている。

なので、妻と私は共に自制心の行使に関しては、人口の上位10%帰属にある、とおそらく断言できる。この上位10%に帰属する集団のことを、私は『自制心貴族』と呼んでいる。この貴族クラブメンバーであることは、社会において巨大な便益を得ることになっている――有名な「マシュマロ・テスト1 」によっても示されている通りだ。この巨大な便益は、「自制心」が、社会の諸領域に普遍的に適応する非常に安定的な個人性質として発現することに由来している。(例えば、妻と私は、25年以上もクレジットカードを、限度額未満の金額しか使用したことがない。)我々の社会において、「自制心」は、その能力の保持者に、単に富を与える以上に、多くの実利をもたらしているだろう――自制心は、人生の非常に多くの領域(健康、教育、ダイエット、財テク、人間関係、キャリア開発、犯罪の自己抑止、等々…)で利点をもたらすからである。

博士課程を修了した大抵の人は、この自制心では最高水準にある。大学に留まり続けることは、〔人生における〕満足感を延期するための強い忍耐力を必要とするからだ。人文科学のようにあまり形式化されていない分野の博士号を持っている人は、確実にこの自制心を持っている。
(学部の院生が博士号取得試験2 に合格した後、私はいつも彼らに「ほの暗い下宿に今すぐに戻るのだ! そして二年後に自著を抱えて帰還したまえ!」と声掛けしている。冗談のようだが、あながち冗談ではない。哲学の博士論文執筆には基本的に総計でこのくらいはかかるのだ。もちろん、このような種類の仕事は、皆に適性があるわけではない。ただ博士課程を完遂できないとすれば、それは「知性の欠如」によるものではない、「自制心の欠如」によってのみ起こりうるのである。)

『自制心貴族』の一員であることを自覚しているが故であるが、社会における「個人の自由」に関する諸問題について考える際には、ある種の特権階級の話だと想定するとピンとくるのである。私は非常に強い「自制心」を持っているので、「個人の自由」領域の拡張によって、平均的な人よりも、非常に多くの便益を得る立場にある。なので、24時間営業の酒屋は、私にとっては素晴らしいが、他の人にとっては良し悪しがあることを、私的には認識している。また、私は新しいTFSA3 プログラムについて熱心な関心を寄せているが、その関心が一般的に共有されていないことも認識している――TFSAの主な便益は、富裕層ではなく、『自制心貴族』に流れ込むからだ。

ここまでの話が、リバタリアニズムとどう関係するかだって? (漫然かつ暗黙裡に、個人の自由を他の政治的権利より優先するような教義に基づいている)リバタリアニズムの学問的支持者達全ては、『自制心貴族』の一員であることが、重要な論点なのだ。現に、この手のリバタリアニズムの支持者が推奨している政治概念は、他者よりも、自身に非常に広範に便益をもたらすものとなっている。それでいながら、ほとんどの事例で、彼らは自身がエリートであり社会の支配的なグループの一員であることで〔自身の推奨政策から〕偏って利益を得る立場にあることを認識していない。なので、彼らは非常に無邪気に自身の政治概念を推奨している。リバタリアン想定だと、「自由」は、全ての人に平等に便益を与えるものとなっている。(もしくは、リバタリアン想定では、「自由」の拡張が一部の人に便益を与えない場合は、その人が、十分な自制心の行使に失敗したことになっている。つまり完全なる自己責任である。)

経済学を背景に持つたぐいのリバタリアンは、この観点では最悪の傾向を示している。経済学者が方法論的仮定として導出している「合理的エージェント」モデルは、絶対的完全な自制心を保持しているエージェントの明示化に寄っているからだ。(例えば、ミルトン・フリードマンの恒常所得仮説。この仮説では、銀行の貯蓄残高とか、信用限度がどのくらいなのかというような事象は、影響を与えないはずだと明示されている。そうだったらいいののだけどねぇ!)

結果的に、経済学の薫陶を受けた人がなんらかの政策問題について考えると、誰もが完全な自制心を持つことを前提条件にした概要分析をよく挙げることになる。このような観点だと、生活保護給付が月単位になっているような制度は、不思議に思えるかもしれない。なぜ生活保護給付を税制度に組み込むことで一元化しないのだろうか? とか、単に年度始めに一度だけ総額を高額給付しないのだろうか? とか不思議に思えるようである。
(現実世界に住んでいる人なら誰でも、この質問には容易に答えられるでしょう? しかしながら、確実にある種の経済学者――「合理的エージェント」入り毒々ジュースを常時ラッパ飲みしている人――にとっては、答えは正真正銘の謎に思えるようである。)

生活保護の給付を単年度の一括支払いに変更することを、真剣に検討してる人はさすがにいない。しかしながら、確定給付型年金制度を、拠出ベースの年金制度や定期貯蓄に置き換えるような事案は、人によっては検討している。そしてこういった事案の検討時に、(完全な自制心を前提条件に置いている)経済学者のバイアスは、深刻なまでに議論を歪めているように見える。

自制心の不平等な分配に注意を向けることを始めると、すぐにリバタリアニズムのある特徴が見いだされる。私は長年に渡って、リバタリアン達の、国家権力による単一ないし複合的な規範の押しつけへの批判や、個人の自由余地のさらなる拡大を目的とした国家権力の抑圧を縮小する要求を聞くことに、少なからず時間を浪費してきた。しかしながら、彼らの批判を聞いてきた長い年月全てにおいて、この手の〔国家による規範や権力の〕縮小によって自身が便益を得るのを想定していない事案を要求するリバタリアンにはついぞ出会ったことがない。

例えば、銃の所有権を擁護する類のリバタリアンは、銃を所有していたり、銃の所有を欲するような類の人である傾向がある。本物のリバタリアンであるなら、銃所有の要求如何によらず所有権を擁護するだろうし、ことによると銃犯罪の犠牲者になる可能性が平均以上になろうとも所有権を擁護するはずだ。本物のリバタリアンであることは、自己利益の促進のために単なる修辞的なカモフラージュとして「自由」という言葉を使用することにあるのではない。純粋な価値として「自由」を掲げることを意味しなければならないはずだ。

毎度の経済に関してだと、リバタリアンの議論は常に同じ趣をまとっている。例えば、公的保険制度を嫌うリバタリアンは、自前の民間健康保険制度を自由に選択できるように望んでいる。しかしながら、この手の議論を行う類のリバタリアンは、常に民間の健康保険を既に購入してる類の人である。この手の事例は枚挙にいとまがない。

ここまでの見解を適切に表している優れた風刺がある(どこで見たまではちょっと思い出せないが、たしかニューヨーカーに掲載されていた風刺漫画だったはずだ)。風刺漫画ではマンハッタン在住の富裕層の女性が、貧しい人に対して不平を述べていた。

富裕層の女性曰く:
「貧乏な人がお金がないことについてしょっちゅう文句を言ってるのが、私には不思議なのよね。私なんて、まったくお金を使わないで何日も過ごすことがしょっちゅうあるのよ」
ここで、彼女の夫が突っ込んで言う:
「マイハニー。それはね、君の運転手が全て支払っているからだよ」

この話の教訓。それは人は一度十分なお金を所有してしまえば、それは見えなくなってしまうことにある。つまり、人は一度富裕になると、お金で困っている人の視点で世界を見る能力を失ってしまうのだ。「自制心」に関しても同じだ。『自制心貴族』のメンバーは、自身が「自制心」を多量に保持しているのを当然視している。その結果、彼らは「自制心」を欠いている人の視点で世界を見るのが非常に困難になっている。故に、彼らは多くの事例で、自身帰属の狭い社会階層だけに便益をもたらすであろう政治的概念の推奨に日々費やすことになる。しかしながら、そのことに決して気が付かないのだ。

※訳者による補足・注釈文章は基本的に〔〕で囲っている。

  1. 訳注:子供時代の「自制心」の強さが、将来の成功の多くの要素に強い相関があることが示された研究。当初の実験では、子供にマシュマロを見せた上で、一定時間食べるを我慢させて「自制心」の強さを計測したことから、このような名称が付いている。 []
  2. 訳注:英米の大学等で博士課程を経た後に受ける試験。試験に合格すると授業に出席せずに博士論文を書く権利がもらえる。 []
  3. 訳注:カナダにおける個人の金融投資収益の税免除制度のこと。日本のNISAとほぼ同じ制度である。 []

ジョセフ・ヒース「ナオミ・クライン、追記その1」(2015年4月4日)

Naomi Klein postscript no. 1
Posted by Joseph Heath on April 4, 2015 | economy, environment, public policy

ナオミ・クラインの新書『これが全てを変える』を読んでいた際、書籍内の多くの言説に驚かされた。ただそれらの内のいくつかは、主な批評対象から若干逸脱していたので、2週間前に書いた書評からは割愛させてもらった。しかし、それら割愛箇所は言及する価値のあるものでもある。特にこの新著と過去著作(『ショック・ドクトリン』『ブランドなんかいらない』を含む)との論理的整合性についてだ。(我々アカデミアの住人が好むかなり面倒なやり方の1つがある。それは研究対象該当者の著作を全て読み込み、「全著作がどのように関連しているのか?」という疑問にしつこく煩悶するのだ。「ノンアカデミシャンの著作を扱う際には、そのやり方はアンフェアだ」と何人かの人に指摘された。しかし我慢できないのでやってしまおうかと思う。

『これが全てを変える』について、クラインのファンの多くが最初に気付くのが、前著『ショック・ドクトリン』との間に存在する、巨大な対立的矛盾だろう。実際、一般読者には、クラインは過去の自著で語っている内容のほとんどを前言撤回しているように見えるかもしれない。この問題点はハッキリ明白になってしまっているので、実際クラインは、正反対の立場を表明してしまっていることに、「私は矛盾していない」と言い訳を試みて疑いを晴らそうと、序章のかなり部分を浪費している。ただ驚くまでもないが、私が見る限り、この弁明部分は説得力ゼロである。

ともかく、まずは『ショック・ドクトリン』に話題を戻してみよう。『ショック・ドクトリン』の発売時、私はこの本について何も言及していない。大まかな理由を挙げるなら、書籍は困惑させるようなものでしかなかったからだ。実のところ、私は、この本の修辞表現の構造〔著者が執筆・文章化することで意図等を適切表現すること〕がどのように混乱してるのかまでは把握することができなったのである――私が見ることができたのは、クラインが何かを試みてていることであり――クラインの立ち位置が混乱していることだけは端的に見いだすことはできた。基本的に、クラインは右派批判を行っている。右派は(ハリケーン、インフレーション、金融危機のような)様々な危機を悪用し、通常の状況下にある人々には受け入れがたい社会への急進的な変革を強要した、との理由からである。今から見れば、彼女が批判する「ショック・ドクトリン(ショック療法)」には2つの要素がある。まず最初の要素は、「戦略」だ。「戦略」とは以下のようなものである。ショック・ドクターは、まず前もって「青写真」を策定する。それから人々を脆弱化させたり、呆然とさせたり、パニックにさせるような様々な危機の到来まで待つ。この時点で抵抗者達は最も弱体化しているので、ショック・ドクターは、自らのプランを強要する機会として悪用するわけである。2つ目の要素は、右派が推進していた特殊な「アジェンダ」だ。財減税、貿易自由化、公共サービスの民営化、市場インセンティブ導入による非市場部門の再編成、等々である。

この「ショック・ドクトリン」実施の最適事例として挙げられているのが、ハリケーン・カトリーナ後のニューオリンズの学校制度の再編成である。ニューオリンズの学校群は多くの近隣住民の支援と共存していたが、ハリケーンで破壊されることになった。なので、ほぼ全ての制度が再編成の必要性に迫られ、急進的な変革を行う機会が立ち上がることになっている。この機会は、チャーター・スクールの支持者によって好機として捉えられ、多くの伝統的な学校を撤去するやり方で制度の再編成が実地されることになった。

このハリケーン後の学校の再編成や他のショック・ドクトリンの事例に、クラインは「アジェンダ」と「戦略」の双方をもってして不可としていたのは、今や明白であろう。ところが、クラインは、「ショック・ドクトリン」を批判するのに際し、ほとんでアジェンダ批判よりも、戦略批判に費やしているのである。ショック・ドクターの戦略を、特筆すべき悪行であり、公明でなく、邪悪であるかのように批判している。しかし、このように考えると奇妙な事になってしまう。それはこの手の戦略は、本来政治的価値を持ちえないはずであり――左派がこのような戦略を行わない、と夢想してしまうのはありえないだろう。それどころか、この手の戦略は、左派によって発明されており――それは「ボルシェヴィズム」と呼ばれ、共産主義政党が20世紀を通じて行ったきたものだ。青写真を作成し、それからなんらかの危機がやって来るまで潜んで(あるいは「機が熟す」まで)待ち、権力奪取のための大義名分を用意しておく。これが共産主義政党の戦略の本質だったわけだ。同様の戦略は、穏健左派によって、大恐慌への対応として、現代福祉国家の土台を作る際にも「非常に効果的」に実施されている。いずれの場合も、市民が以前は受け入れる用意があるもの以上のラディカルな変革が、危機が利用されることで成立している。

『ショック・ドクトリン』について驚くべきことがある。それは、(私の見た限り)クラインは、左派がこの戦略を効果的――ないし悪用してきてことを、まったく認識していないことにある。クラインによって描かれているエピソードは、おそらく全て左派によって生み出された戦略であり、それらを右派が採用して使用するのを学んだ事例群なのである。しかし彼女はこの事を認識していない。いやそれどころか、クラインは、これらを右派によって独自に企まれ実行された戦略であるかのように提示すらしているのだ。これは顕著な自明的誤りとして私を驚かさせ、この本への関心を霧散させることになったのである。思うに、クラインは右派のアジェンダに関して不平を述べたいなら、戦略批判に数百ページも費やすよりも、単にアジェンダに不平を言うだけにすべきだったのだ。私が見る限り、〔こういった戦略は〕左右どちらのイデオロギー側によっても普遍的に使用されているのだから。

ともかく、こういった見解に基づいて、気候変動に関するクラインの取り組みが示されている。彼女の中心的な主張は、「気候変動は巨大で、急を要し、惑星的危機である。そして、それに効果的に対応する為に、我々は、通常時には肯定できないような、根元的な社会変革を広範囲に渡って行わなければならない」そうである。オーケイ。〔危機の鳴らし方が過去のクラインのものと〕お馴染みでしょう? ただクラインの名誉のために言っておくと、彼女は現在の推奨事項と以前酷評していた「ショック・ドクトリン」との類似性には気づいているのだ。実際、彼女は自身が行おうとしているものを「逆向きのショック・ドクトリン」の一種であるとさえ主張している。

気候変動に対処する活動家達はまた、人民による逆向きショック・ドクトリンのようなものの従事者でもあります。活動家達は、災害(特に気候に関する災害)の直後は、新たな経済を構築する最適機会の一つであることを既に学んでいるのです。何千万もの死者を出し何十億ドルもの被害をもたらした『ハリケーン・サンディ』や台風『海燕』のような大災害が繰り返されることは、私たちの今日のシステムへの甚大なコストにかかわることとなり、公衆への劇的な教訓と至らしめるのです。そして、公衆を、気候変動危機への単なる対処療法ではなく、根本に立ち向かうラディカルな変革へと駆り立てることになります。(p.405-6)

「良き危機」には誰であれ抵抗できないようじゃないか! クラインは、深刻な危機を巧みに利用し、ラディカルな変革を達成する能力は、「革新派はどのように使用すれば良いか馴染んでいたのに…」と嘆いてさえいるのである。

大規模な危機のさなかに、社会・経済的正義に関して大きな成果を勝ち取ってきた民衆運動の豊富な歴史があるのです。そのなかでも最も目を引くものに、1929年の市場崩壊後のニューディール政策と、第二次世界大戦後の数え切れない社会政策を挙げることができるでしょう。(中略) 私は確信しているのです、気候変動は、これらより大きな規模の歴史的機会として再び具現化することに。(中略) ショック・ドクトリンの究極的発現(〔搾取層による〕新資源の強奪と抑圧の狂乱)などとは違う、「人民によるショック」、つまりは下層からの吹き上げを、気候変動は可能とするのです。(p.10)

なるほど。で、クラインが批判している「ショック・ドクトリン」と、今や彼女が推奨するに至った「逆向きのショック・ドクトリン」との違いは正確には何なのだろうか? クラインに言わせると最初の違いは、「ショック・ドクトリン」は、独裁的な手法を課されたものであり、彼女が推奨している一連の変革は、大規模な民衆の動員を通じて全て民主的に達成されるものである、とのことらしい。

以下より詳細に読み説いてみようじゃないか。2番目の(そしてより根本的な違い)は、単純なものだ。前者はクラインが悪いと考えるアジェンダに適応しているものであり、一方で後者は彼女が良いと考えるアジェンダに適応しているものである。

(右派の「ショック・ドクター」は緊急事態(本物であろうと、捏造であろうと)につけ込んで、より危機をもたらす政策を私たちに強要するのに対して、ここまでページを割いて議論してきたような種類の変革はまさに正反対な結果となるはずなのです。それは、私たちが一義的に直面している深刻な危機の根本原因を取り除くことになるでしょう。そして、私たちに降り懸かるであろうものよりも暮らしやすい気候をもたらすでしょうし、現状よりはるかに公正な経済をもたらすはずです。(p.10)

このような言及方法は「良きショック・ドクトリンは私が賛成する物事を支持するものであり、一方の悪しきショック・ドクトリンは私が賛成しない物事を支持するものである」といった端的な気まぐれでしかないと私には思える。クラインが推奨するアジェンダの内容に目を瞑り、百歩譲ってアジェンダをまあありとするなら、〔彼女が批判しているショック・ドクトリンの〕戦略、要するに戦略の横暴さややり口をもってして争点化できるだろうか? 言い換えるなら、クラインの新刊の核心は何なのだろう?

つまり、「悪いショック・ドクトリンは権威主義的」であり、「良いショック・ドクトリンは民主的である」と定義付けて考える事は可能だろうか? この定義も、(ニューオーリンズの学校制度改革は、選任された公務員に着手されており、同じようにニューディール政策も、選任された公務員によって実行されていると考えると)出発点から、曖昧なものでしかない。しかも、本の後半部では、彼女はこの事を完全に失念しているのである。そこではジオエンジニアリング1 を、気候変動への対策として提唱している人達を、「自分勝手なショック・ドクトリン推奨者」として断固批判している(p.276-7)。この項目では、クラインは、大衆が実際に正しい位置にいることを気にしているようだ。

「もしジオエンジニアリングが実行されれたなら、冷静に考える十分な時間もないままに、集団パニックを騒擾することはほぼ確実なのです。 (中略) 深刻な緊急事態の渦中では、誰もが集団パニックの思考に捕らわれると考えるしかないでしょう? 私にはとんでもないことに思えます。(中略) ショック・ドクトリンは、このように作動するのです。深刻な危機による絶望下においては、あらゆる種類の理性的な反論を霧散しさせ、万事のハイリスクな言動を一時的であれ許容されてしまうように思えるのです。急激な変化の渦中にも、私たちは自身で価値判断を行わねばなりません。ジオエンジニアリングによって生じるであろう将来の倫理的問題やリスクを理性的に評価することは、危機的な雰囲気においては範疇外にあります」(p.276-7)

私は、ここにおいて奇しくもクライン同意することになるのである――たしかにジオエンジニアリングの支持者が提案しているものは、信じられないくらいリスキーなのだ。相違点を挙げるなら、クラインの支持しているものも同様に信じられないくらいリスキーなことにある。なので、クラインが大衆へ自説の押しつけを試み、「危機を悪用している」という点において、彼女は、他のショック行商人とまったく同じである。(注視すべきは、クラインは自身の見解を「人民のショック・ドクトリン」と呼称しているが、端的にそうなっていないことにある。現時点で「人民」の圧倒的多数は、クラインの提唱しているものをまったく支持していない。なので、少なくとも現時点では、クラインの提唱しているものは、エリートや前衛主義者の見解と同じでしかないである。)

クラインが推奨している気候変動問題の解決策は、どんな趣旨でリスキーなのだろうか? 私が考えるに、彼女の提唱は二つの様相において、リスキーな解決策となっている。まず最初に、クラインは気候変動問題に間接的に取り組もうとしている点にある。結果的に、クラインが提唱する改善案の有効性は、紆余曲折した因果関係に依存することになってしまっている。このことは前回のエントリでも触れたが、詳しく言及してみよう。以下のクラインの論旨を検討してみてほしい。

すると、なんらかの世界観や自明とされているイデオロギーを変革するのはどうすればよいのでしょう? ひとつは、根源的な政策論争によって正しい選択を相乗することです――単に法律を変えるのを目的にするのでなく、人々の思考パターンを変革するのです。つまり考え方を根本から変えるような変革です。これが意味するのは、例えば最小限の炭素税を勝ち取るのは過少な価値でしかないでしょう。最低所得補償の要求のために大連合を形成べきなのです。これまで議論してきたように、最低所得補償は、労働者に環境汚染エネルギーの仕事を拒否する言行を可能するだけではないのです。普遍的な社会的セーフティネットを求める議論の過程そのものが、諸価値を巡る声高の討論空間を開くことになるのです。価値とは、経済成長や企業利益などよりも、私たちが相互信頼に基づいて負うべきなんらかであったり、総体的価値観の尊重にあるのです。

ここでのクラインの言及内容に着目されたい――環境保護の達成のために究極的に行うべきこととして、我々はしばらくの間、環境対策を一時停止してでも、貧困層の収入の増加に集中しなければならない、とのことらしい。ただツッコませてもらうなら、クラインが提唱している「最低所得補償」から「気候変動の緩和」へと至る因果関係の連鎖は、信じられないくらい間接的で紆余曲折しているのだ。私的見解だが、この箇所で仮定されている因果関係の連鎖は、純粋かつ100%希望的観測である。私の評価に同意しない人でも、最低所得補償を課す政策に、気候変動の対策を関連付ければ、多くの物事が悪化する可能性があり、非常にハイリスクなアプローチであることは、認めるに違いない。(例えば、最低所得補償で新しい収入を得た人は、SUVを買うかもしれない――これは、過去に行われていた「汚染エネルギーの仕事」に、その人が従事することとほとんど一緒である。)

ただ、再低所得補償の優先は最悪事ではない。二つ目の、彼女が推奨している「脱成長(p.88)」政策こそ、気候変動危機への信じられないくらいリスキーな対処方法だ。これはつまるところ、GDPの規模を縮小させる婉曲表現の一種にすぎない。意味するところは、(おそらくだが)経済を、実質的にゼロ成長に均衡するように抑え込むようにデザイン調整された手法従事によって、長期の不況を引き起こすような政策の実行である。今やクラインは、数百万の労働者を低生産性セクターに移動させることを(p.126-7)計画している。そしておそらくだが、労働時間を削ること(p.93)で、この「脱成長」政策は失業を産まずに実行可能である、と夢想しているのだ。クライン計画絵図によるなら、一般的な一個人は、緩慢で絶え間のない(10年以上にわたっておおよそ年率2%の)実所得の低下を経験することになる。(こういった政策の推奨者は誰も具体的な数字を提供しないので、私は、彼らの想定像を推察させてもらった)。さらに引き続いて、永続的な所得の停滞となるだろう。(おそらく、技術変化も起ることになり、その生産性向上を受けて、総生産を増加させないことを確保する必要も生まれるだろう。なので脱成長政策は、労働時間の削減を履行するような方法によっても、達成せねばならないことになるだろう。)

所得の縮小ないし停滞状態の継続に並行して、クラインは、民間セクター消費を、公的セクター消費に大規模に移行させることも提案している。この政策の資金調達に、個人所得税の大幅な増加を手段として想定しているようだ。またもや、クラインは具体的な数値を示さないのだが、彼女の話しぶりからは、脱成長政策後のGDPの1/4ほどを移行することを欲しているように読めるのである。加えて、彼女は貧困層への巨額の再分配も夢想している。ここでも大雑把な概算が行われているが、平均的な人がおおよそ20%の賃金をカットを容認することを、クラインは欲しているように読めるのである。しかも二度と賃金上昇が起こらないことを確約させ、平均的な所得税率を約25%上げる合わせ技によってである。(なので、カナダの平均所得税率は30%から55%になる)。さらに忘れてはならないのが、これらクラインの提案全ては、「民主的に達成される」と想定されていることにある。有権者がこういった政策に、一度だけでなく、何度も投票するであろう、と想定されているのだ。

「脱成長」の提唱者達――クラインだけでなく、ピーター・ビクターも同様だが――に関して私を驚かせてきたものに、彼らが、このような平均所得の減少願望と、経済的不平等の縮小願望との間に、対立・葛藤関係をいっさい見出していないことがある。彼らは、人々が再分配の増加に同時して、自身の収入の低下を支持するのを期待しているのである。これは、私を形容できない困惑に至らせ――このような主張への根源レベルでの不審を表す言葉を探して苦闘することになる。このような主張が実現した世界は存在するのだろうか? 可能なのだろうか? かつて実現したことがあるのだろうか?

現実世界において、経済不況は、政治的混乱の顕著な増大に強く関連している。他方において、経済成長は、再分配を非常に容易にするのである。端的な理由を挙げるなら、経済成長下における所得移転は、所得を移転拠出することになる人には純粋な損失として現れず、(はるかにより抽象的な)亡失利益として現れるからなのである。福祉国家が経済成長を背景に創り出されたことは、偶然ではないのだ。(政治政策における、経済成長効果の一般的見解に関しては、ベンジャミン・フリードマンの『経済成長とモラル』を参照してほしい。)

私にとって自明に思えるものに、(経済に負の総和を作り出すことによる)脱経済成長戦略は、徴税と再分配の両面において、巨大な抵抗を拡大するであろうことがある。このような抵抗の拡大による限定条件下では、脱経済成長政策は、極右政党への支持増大という危険な形での反動を産むかもしれない。

結果的に、この本でクラインが推奨しているものと、ジオエンジニアリングの熱狂的支持者が推奨しているものの間には、端的に何の道徳的違いもないように私には思えるのである。後者は工学万能主義であり、一方クラインは社会主義的ユートピアにすぎない。しかしながら、両者共に、気候変動問題の解消に関して、冒険的で、実証されておらず、潜在的に危険な政策に、自らの希望を賭けようとしている。おまけに、クラインが、自身のアジェンダは民主的に達成されるであろう、と考えていることに関しては非現実的なものとして驚かざるをえない。左派が保守政党を政権から追い出す方法が、皆目分からない国に未だにいるのにだ。

※訳者による注釈は〔〕で括っている

  1. 訳注:地球規模の工学手法で人為的に地球温暖化に対応する政策。空気・大気中の二酸化炭素を人工的に貯蔵して大気中のCO2濃度を低下させる、二酸化硫黄を大気中に放出し太陽光の放射を減少させるといった政策が代表的。 []

ジョセフ・ヒース「なぜ我々はかくも怒り狂っているのか? 保守政権に怒る人々と、保守政権に怒る人々に怒る人々」(2015年10月10日)

Why u so mad?
Posted by Joseph Heath on October 10, 2015 | Canada, elections

〔訳注:本エントリは、スティーブン・ハーパーが首相を務めるカナダ保守党が政権与党であった、2015年のカナダの下院の総選挙直前に書かれたものである。〕

先日、ブログの共同執筆者達によって書かれた〔保守党の選挙戦術を批判する〕公開書簡に関して、私はなんとも複雑な感情を抱えている。(結局、私も署名したわけだが…)。スティーブン・ハーパーを嫌う人は目立って沢山いるわけだが、「スティーブン・ハーパーを嫌う人」を嫌う人もまた沢山いる。なので、私が今に至るも確信しているのが、レックス・マーフィー1 はこの公開書簡に関して痛烈な批判を行うであろう。「587人もが署名した公開書簡は、大学における『ポリティカル・コレクトネス』と『集団浅慮』の暴走による帰結である」とか。他の批判者は、この公開書簡を、「単なる党派性」「ローレンシャン2 のエリート達の狂乱」その他もろもろのものとして片付けるに違いない。

公開書簡を「単なる党派性」の論題として扱ってしまえば、全ての政策論題がこのように関心を引きつけおらず、非常に多くの人々を激怒させてはいない事実の反映から逸脱することになる。カナダ保守党の政治要綱に、カナダの大学人達によって幅広く反対されている多くの事例があるというのは間違いない。例えば、『高級品の税額控除』は、この国のほとんど全ての経済学者から強く反対されている。しかしながら、経済学者達によるこの税額控除への大規模な公開書簡は顧みられていない。言い換えるなら、大学人達によるハーパー政権への激怒は端的にいつもの党派性や政治性とは異なっているのだ。保守党による選挙戦術として、マイノリティ集団に対する敵意の駆り立てのようなものが存在する。非常に攻撃的なものや、私が指摘した『一線を超えた』等である。そういうわけで、非常に多くの人々が激怒しているわけである。

繰り返させてもらうが、多数の保守党の擁護者達が、人々がハーパー政権に激怒している理由に関して、あらん限りの風変わりな理論を持ち出すであろう。示唆させてもらうなら、我々の立ち振舞から奇矯さを読み解くために、我々には精神科医による治療が必要である、等である。しかしながら、〔多くの人々がハーパー政権に怒っているように見えるのには〕極めて明晰な説得的事実が存在するのだ。以下が、十全に説明可能な単純なグラフだ。

CBCによる投票コンパスアンケート調査に答えた私の結果だ。4つの政党の主要政策論題が図示されている。政治的見解に関する一連の質問の解答に基いており、私は左上に位置付けされている。(ところで、もし私がこの場所に置かれたことに驚いた人がいるなら、私自身も驚いたのである)。ともあれ、この図おける関心事全ては、政党がどこに位置しているかにある。私の位置付けはどうでもいい。可視化されているのは、本質的に同じ投票先として3つの政党が競合していることと、保守党が右の分野に完全に単独で存在していることである。

今現在、我々が感じているフラストレーションは、有権者のほぼ70%が、左上1/4区画〔社会的革新・経済的左派〕に投票するとされている事に起因している。保守党に現ポジションが与えられている限り、今回の選挙は、単独の統一された中道左派政党があれば、たやすく政権交代が実現するだろう。しかしながらもちろん、もし本当に単独の統一された中道左派政党があれば、保守党はこのポジションにはいないでもあろう。

より知的なタイプの人々に特にフラストレーションを与えているものは、もし選挙で政策論題に焦点が絞られていれば、〔中道左派の〕票分離を克服するのは難しくないであろうことにある。その場合、新民主党とカナダ自由党への両投票者達は、より現実的になることで、自身の選挙区において、保守党に対して勝利するチャンスを最大化するよう候補者を支持するだろう。なぜなら、大きな絵図を見た場合の政策ということになれば、2つの政党間に端的にあまり違いがないのである。中道左派の2政党の分断の解消が困難である理由は、「党派性」「政治的アイデンティティ」「指導者の個人的資質」「候補者誰がしの父親からの遺恨」エトセトラ、エトセトラ…の要因からである。

いずれにせよ、大学人が不愉快である理由を理解するのに、風変わりな理論は必要ない。この件で、「エリート達」は通常のカナダ人の手が届かない場所にいるわけではない。それどころか、「エリート達」の立ち位置は、中庸の投票者に極めて似通っている。

投票が割れていることで追加言及するなら、Ali Kashaniによる動向が定まっていない選挙区に関する最近の研究に関心を示したい。新民主党とカナダ自由党の票分離が投影された結果、保守党候補の選出されている選挙区が存在する。特にAliが分析しているのは、現在、保守党がリードしている16の選挙区だ。そこでは、新民主党とカナダ自由党が合算されれば、保守党に十分に打ち勝つことができる。ただ、そこでは、新民主党とカナダ自由党の双方において、どちらかが際立って他候補の足を引っ張ることになっている。(なので公平に戦えるように、Aliは、8つの選挙区でカナダ自由党は新民主党に投票すべきであり、残りの8つの選挙区で、新民主党はカナダ自由党に投票すべきである、と分析している。)

この記事は、全てを読了することを推奨したい。

※訳注:訳者による注釈・補足は〔〕で括っている
※訳注:タイトルを直訳すると『なぜ我々はかくも怒り狂っているのか?』となるが、当時のカナダの保守政権を巡る論争に関して、日本語読者は馴染みが少ないと考え、副題を追加している。

  1. 訳注:カナダの公共放送であるCBCのニュースキャスター。アカデミアの象牙の塔ぶりを揶揄したり、やや保守寄りの言論を行うことで有名。 []
  2. 訳注:カナダ北西部の高原地帯の名称だが、付近にカナダの有名大学が多数存在している。 []