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ジョセフ・ヒース「法人税減税:誰が得するの?」(2014年5月30日)

Corporate tax cuts: cui bono?
Posted by Joseph Heath on May 30, 2014 | Uncategorized

NDP(新民主党)1 が法人税率を上げることをアナウンスするたびに、批判者達はそのアナウンスに対して激しい叱責を毎度加えている。批判者達は、「法人への税は、実際には法人へ課税されることにならない。なぜなら、課税される法人は、課せられた税を安易に他者に転嫁することが可能なのだ(例えば、消費者への値上げの形態を取るかもしれないし、労働者の賃下げの形となるかもしれない)」と指摘している。しかも、この手の批判者達は、法人税増税がこうして諸刃の剣になっている論点を指摘するのを躊躇することはめったにないでは仮に、法人が法人税のような税を実際に負担しないのなら、諸刃の剣になる要点は何なのだろう? 事実、カナダ進歩保守党は、オンタリオ州において現段階で打ち出している政治要綱で、法人税の劇的な削減を要求している。3.5%削減することで、11.5%から8%にするというものである。(新民主党が政治要綱で要求している1%の引き上げより、数字として相当に大きい)。なぜ保守党員は、この論題で新民主党よりも、はるかに大騒ぎしているのだろう?

この件に深入りする前に、新民主党へのこの手の批判には、税負担の概念に関わる重要な論点が潜んでいることを言及せねばならない。政府に税を納めた人は、必ずしも税を負担しているわけではないという税負担の事実の反映がある。税を納めた当人は租税負担を他の誰かに転嫁することが可能になっているかもしれないからだ。つまり、「X税」と呼ばれているような何らかの税は、実際にXに税を課したことを意味するとは限らない。例えば、所得税は、必ずしも所得に課される税ではない。

貯蓄が〔課税対象から〕免除されている場合――RRSP2 や TFSA3 によって――平均的な人にとっては、実質的には所得ではなく、むしろ消費に税が課されたことになる(なぜなら「収入-貯蓄=消費」だからだ)。同様に、法人に課される税も必ずしも法人に課される税とは限らない。例えば、HST/GST4 は、技術的には法人に課される税である。なぜなら、HST/GSTを課せられた法人は、政府に税を納めねばならない。しかし、我々はこれを消費税と呼んでいる。なぜなら、税を課せられた法人は例外無く負担を消費者に転嫁するからだ。よって基本的な論点として、なんらかの税が「法人税」と呼ばれていても、実際には法人に税が課されていることを意味しないことが重要な事実なのだ。

すると疑問が生じることになる。法人に課された税は実際に法人が負担する税でないなら、なぜ法人(ないし「財界」)は法人税の高さを気に病むのだろう? まさにGSTのように、法人税は他者に転嫁されることになるのにだ。たとえ法人が消費者か労働者に転嫁することができなかったとしても、最悪時には株主に転嫁されることになるわけである。(この場合原則的には、収益を税負担に当てることで、株主の取り分である配当金が減らされることになる)。そして、大企業が自社の株主が受け取る純粋な配当利回り率に多大な関心を寄せている、と想定する根拠は特に存在しない。配当利回り率が競合他社と似たような水準にある限り、企業経営者はそれがどのくらい高いのかに多大な時間を割いて気に病んでいる蓋然性は低い以上事実が示唆しているのが、企業は収益への課税率について無関心であるはずなのだ(同様に、企業はGSTの高低水準の在り方についても無関心であるはずだ)。

ここまでを総括してみると、不可解な謎が生み出されることになる。保守派は、なぜこうも法人税の削減に熱心なのだろう? という謎だ。「政府は悪であり、ビジネスは善である」といった単なるイデオロギーや、税の死重損失に関する一般的な不平を超える何らかがあるわけである。法人税減税から誰が本当に利益を得るているのかを知るのは困難だ。

しかしながら、利益を受ける一つの有力な支持層が存在する。本当の大金持ちカナダ人達(便宜上トップ1%くらいとしよう)だ。彼らは大規模公的企業の株を保持しているだけでなく、自身の財産を管理するために私的企業も保有している。富裕層は、租税処置から自身の収入を守ることを主目的に――最優先されているのは、退職後の蓄えを守るための達成手段として――この手の自前の企業を創設しているのだ。結果的に、法人税率は、富裕層の収入(特に投資収益)の大部分に課される個人向け適用の税率にもなっている。これがどのように機能しているのか理解することは、富裕層が法人税減税にここまで強く賛成している理由を理解するのに必須なのだ。

概要をおおざっぱに描写してみよう。あなたはオンタリオ州に在住していて、年に50万ドルの収入を得ているとしよう。まず最初にあなたが悟らねばならないのは、T4収入5 は、ごく普通の人のためのものであるということだ。T4収入を適用している人は〔最富裕層には〕まったくいない。なぜだろう? T4が適用された場合のあなたは、収入に課される税金を払う以外の選択の余地はほぼ存在しないからだ。さらに、課税後の実質的な控除もほとんどない。なので、収入が15万ドル以上に差し掛かり始めると、あなたは所得をT4適用外へと切り替える方法を探し始めることとなる。(例えば、あなたは「従業員」ではなくて、「コンサルタント」として契約し働くようになるとか)。そこで、あなたは会社を作り(安価で簡易なのだ)、その自社法人に雇われている立場になる。さらに〔仕事先から〕直接お金を受け取る代わりに、自社に支払ってもらうようにする。これは「所得のより税効率モデルへのシフト」と呼ばれている。

お金が自分の会社に入るようになったら、あなたは自身に(累進課税の限界税率が作動に至る)136,270ドル前後の給与の支払いを始める。136,270ドルより少し多い場合は、あなたはRRSPの積立金とTFSAを限界まで使い切ることが可能だ。さて次は、会社に残ったお金に創意を働かせる番だ。配偶者はあなたの所得を下回っているだろうか? 彼女を(一応、彼女にしておく)自社で簿記担当として雇用しよう。幼い子供はいるだろうか? 乳母には定額所得から育児代を出していけない(育児控除はばかばかしいほど低いのだ)。彼女を「エグゼクティブ・アシスタント」として自社に雇わせよう。子供が大学行くために家を出たら? 子供らの家賃を払ってはならない。自社で分譲マンションを購入して、子供らを「財産管理人」として雇おう。さて、車も2台目を購入してはならない。自社付けで購入しよう。休暇にも出かけないように。会社支払いの出張旅行に出かけよう。創意の制約はあなたの想像力の限界だ(もちろん、大雑把に解釈された法も一応は限界だ)。

しかしながら、こういった「創意」全て執り行え終えたとしても、自社にまだお金が残っている可能性がある。最高の累進税率が適応された所得税を支払わないと引き出すことができないお金だ。ということで、何をすればよいのだろう? あなたは、駄菓子屋の外で、顔をガラスに押し付けて店内を凝視している子供のように、消費できない全てのお金を座視している立場にある。お金は非常に間近にあるが、非常に離れてもいる…。あなたは既に、RRSP積立金を限界余地まで使い切っている。何をすべきだろう?

さて、あなたができることの1つが、お金を自社内にプールしておいて、どこかに投資することだ。これにはたった一つ問題が存在している。もしあなたが自社内にお金をプールしておいたら、それは「利益」とみなされてしまうのだ。なので、あなたはそれに課された法人税を支払わないといけない――州と連邦政府の合算の率で(低く見積もると)15.5%となる。後々、あなたがそのお金を引き出した場合――お金を使おうとする時は最終的に引き出す必要性がある――引き出したお金に課せられる所得税を支払わねばないらない。しかもおそらく最高限界税率でだ。それでも、利益は得られるのだろうか?

あなたが退職後のための貯蓄を目的にしているのなら、計算してみると、利益が存在することが判明するのだ。どういうことなのだろう? 投資の運用利回りにおける複利の効果故である。もしあなたが、お金を〔自社内にプールせず〕引き出して投資運用するしよう。その場合は、最初に引き出した時点でお金に46.4%の所得税を支払わねばならない。その後、あなたは引き出して得たお金を再投資すると、その投資収益の総額に46.4%のキャピタルゲイン税が課せられ再度支払うことになる6 。以上ケースとは別に、あなたは自社内にお金をプールするとしよう。この場合、最初に15.5%の法人税を支払うことになる。その後、プールした収入を再投資すると、投資収益の総額に毎年15.5%の法人税が課せられ支払うことになる。さらに最終的に自社からお金を引き出した時に、46.4%の所得税を支払うことになる(退職後にあなたの収入が低下していた場合、46.4%より若干低くなるなるかもしれない)。この複利の効果、つまりお金を15.5%の低い税率によって、自社内で「育てる」メリットは、(最初の法人収益に、最後の〔自社から引き出した〕所得への)二重課税のデメリットを上回るのだ。

ここまでの指摘事実が事実上意味しているのが、私企業は無限に積立可能で柔軟な払い戻し制度を備えた巨大なRRSPのようなものとして基本的に機能していることにある。

この事実はまた、非常に裕福な人が、法人税率にとりわけ敏感である理由も説明してくれる。非常に裕福な人が、所得税から退職時の収入を保護するために私企業を利用する方法は、複利の効果に依存することで、法人税率の値は増幅されて影響を与えることになっている――税率の小さな変更が、個人所得を自社内にプールする節税メリットに非常に大きな効果をもたらすのだ。言うまでもないが、このような私企業内に非常に多額の大金を保管している最富裕層は大量に存在している。このことが、富裕層を法人税減税の主たる私的受益層に至らしめているのである。

※免責条項:本エントリいかなる場合においても、節税アドバイスとして解釈すべきではなく、脱税詐欺についての助言も行っていない。カナダにおいて最も高い収入を得ている人々が行っている、納税義務の最小化の方法の1つを単純化して説明しているだけである。

※訳者による注釈は〔〕で括っている

 

  1. 訳注:カナダの左派政党。再分配を重視した政策を訴えることが特徴。 []
  2. 訳注:”Registered Retirement Saving Plan”(登録退職貯蓄基金)の略。一般的勤労者が定年後の為に貯蓄することを支援目的にした各種税制融合措置。所得の一部をRRSPに適用して貯蓄すると、貯蓄分を課税対象から免除することが可能となっている。 []
  3. 訳注:”Tax-Free Saving Account”の略。主に勤労中間層の個人を対象にした、金融投資からの利益への減税を中心にした資産形成の優遇措置制度。日本におけるNISAと似たような制度である。 []
  4. 訳注:それぞれ”Harmonized Sales Tax”及び”Goods and Service Tax”の略。カナダにおける政府・州政府による物品・サービス等に課せられる売上税。日本における消費税とほぼ同じである。 []
  5. 訳注:カナダでは所得・収入をT以下の数字で分類しており、T4は通常の給与所得の分類。T4に分類された所得は源泉徴収された上で、厳格な課税が適用される。 []
  6. 訳注:カナダのキャピタルゲイン課税は、投資収益の半額に所得税の税率が適用される。 []

ジョセフ・ヒース「少年とセックスと本とビデオゲーム」(2017年8月2日)

Boys, sex, books, video games
Posted by Joseph Heath on August 23, 2017 | gender

教育者のほとんどが気づいていることがある。それは我々の社会において男の子が本を読まなくなっていることだ。「文学の危機」とまで呼んでしまうのは少し大げさかもしれない。それでも、男の子が本を読まなくなっている現象は現在進行であり、問題でもある。私には12歳の男の子と13歳の女の子がいるので、親としてここ数年にかけて、この現象を注視してきた。おかげで文学の中でもYA(ヤングアダルト:若年層向け)文学分野で何か起こっているのかを、私の同世代の誰よりも精通することにもなったのである。よって以下、この分野におけるいくつかの観察事例だ。

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ジョセフ・ヒース「税が税でない場合とは? 炭素税vs.炭素価格」(2014年7月19日)

When is a tax not a tax? Carbon taxes vs. carbon prices
Posted by Joseph Heath on July 19, 2014 | economy, environment

『炭素税』のアイデアと、それを「税」と呼ぶにふさわしいかどうかに関しては、カナダにおいて全国的に一定の混乱があるようだ(例えばココ)。炭素税のような政策的枠組みを支持者する人たち(私も含む)は、これを『炭素価格付け』制度と呼んできた。『炭素税』とその他多くの「従来の税制度の枠組み(所得税や消費税)」との相違点を強調するためである。(そして右派による「あらゆる税は悪である」誹謗監視網を避ける為でもある)。このことは、「炭素価格付けの政策的枠組み」への反対者達(現政権や、言及するまでもない右派マスコミ内の政権の忖度野郎ら)を、「炭素価格付けは税である」と執着することに至らしめてしまった。実際、現職の環境大臣は、政権のマントラ「炭素価格付けは、単なる税ではない、森羅万象への課税である」を輪読する機会を決して逃さない。(前任の環境大臣は「あらゆる形態の炭素価格付けは、炭素税である」と口角泡を飛ばしていた。)

このようなしつこい主張には、市場経済の基礎原理への非常に深刻な誤解が実質的に内在されている。誤解を晴らすために、『炭素価格付け』は実のところ価格付け制度であって、税ではないことを示してみたい。この「価格付け制度であって、税ではない」という見解を拒否している人は、混乱しているか、意図的に混乱を流布している。大抵は混乱しているのだ。そして、混乱している人の典型的理由は、税金について長年費やして大騒ぎしておきながら、価格とは何であるかについて深く考えてみたことがまったくないからなのだ。

なので、「税は何をもってして税と呼ばれるに値するのか?」といった本題に入る前に、「価格とは何であるのか?」、「我々はなぜ価格を保持しているのか?」といった最初の基本原理に立ち返るところから話を始めてみたい。なぜ「価格」なんてものが存在しているのだろう? それは市場経済の2つの根元的な構成要素の直接的な帰結だ。「財産権」と「契約」である。古典的財産権は、「独占権」という中心的な特徴を持っている――財産権は、財の所有者に対して、所有財を他人が使用したり、財の享受を阻止する権利を付与しているわけである。例えば、私が特定区画の土地を所有しているとしよう。すると、私は他人がその土地を歩くのを規制する権利を有していることになるわけだ。車を所有してる場合、他人がその車を運転することや、車に危害を加えることを禁止する権利を有していることになる。1杯のコーヒーを所有している場合、他人がそのコーヒーを飲むのことや、それへ唾を吐くのを禁止する権利を有していることになる。以下続く…。

もし何者かが、私の土地を徘徊したくなったり、私の車を運転したくなったり、私のコーヒーを飲みたくなったら、実際何が起こるだろう? 大抵の場合、その何者かは、私の許可を求めて、自有財産の使用権や享受権を「誘因」として提供しての説得が必要になる。これこそが、契約に基づいた交換の原理原則である。あなたが(私のコーヒーを飲むような)通常は財産権の侵害と見なされるような行為に私が許可を与えるとすれば、あなたは私が欲するものをお返しとして与えるわけである――まあつまりは、あなたは私に支払いを行うわけだ。ここで「価格」が登場するわけである――「価格」とは、財産権の放棄や譲渡条件といった、諸個人の他者との同意が確認再表示された用語なのだ。

ここで言及しておかねばならない重要なことがある。この価格を巡る全過程において、国家が非常に重要な役割を担っていることだ。諸個人は、どんな場合であれ自身が望む取引を自由に締結できるという意味において、価格への自由決定権を有している。あなたは、私のニワトリを所望し、代わりに一袋のニンジンを支払う契約を結んだしよう。にもかかわらず、私はニワトリを与えたのに、あなたは私にニンジンを手渡さなかったとする。この場合、私は、国家に訴えることで、あなたにニンジンの支払いを強制させることができる。あなたが私の土地に不法侵入し、私のニワトリを殺害したとしよう。この場合も同様に、私は異議申し立てし、国家を通じて「賠償」支払いを強制させることが可能となっている。賠償金額は基本的に、裁判官か陪審員による最適推定値とり、あなたはその「賠償」を支払わねばならないだろう。賠償の履行によって、私がニワトリの殺害を許可をしたのと同じ状態になることが目的となっている。つまり、全ての価格は、財産権と契約の関係に応じて執行される法制度の産物であるという意味において「人工的」なのである。

こういった価格協定全体の中核には、究極的なまでに重要な道徳概念が位置している。それは、諸個人がなんらかの行為を決定する場合、自身の行動が他者に及ばす影響を考慮に入れねばならないという、道徳概念だ。もし私が土地の一角を利用しているとしよう。すると、他者はその土地を利用することができないことが意味されている。もし私がニンジンを食べたとしよう。すると、他者はそのニンジンを食べることができないことが意味されている。森羅万象を財産権に分割することは、こうした自身の行動が他者に及ばす影響を自明化する方法の1つとなっている。私が他者の土地やニンジンに対して支払いを負っているという事実があるなら、他者もその土地を利用したかったり、食べたがっている事実の反映なのだ。そして、私が財を得るために負っている支払い総額は、私がその財を使用ないし消費すれば、他者にどれくらい不遇を引き起こすかの直接的な役割を果たすことになっているのだ。(標準的な厚生経済学における)「最適」価格によるなら、個人の支払い総額は、『社会的費用』と正確一致するものであるとされている。『社会的費用』とは、いわばその個人の所有ないし消費が、他者にもたらした不遇なのだ。

市場についてこのような方法で考えることは、私が価格付けの「謝罪」モデルと呼んでいるものを引き起こすことになる――「謝罪モデル」とは、もし人が何らかに料金を支払った場合、その人は自身の消費によって不便を感じたすべての人に謝罪していると考えねばならない、との考え方だ。

今度あなたがスターバックスで1杯のコーヒーを買うときには、バリスタにこう言っている自分を想像してほしい。「ごめんなさい、他のことができた時間に、私にコーヒーを滝れてもらって。他の方々にもどうか伝えてくれませんか、同じようにお詫びしていたと。オーナーさん、地主さん、船会社さん、コロンビアの農家の方々にも。この1ドル75セントが困難の全ての対価です。どうかあなた方で分けてください」。
ジョセフ・ヒース『資本主義が嫌いな人のための経済学』( p. 160)

このような私の書き方、ジョーク、ないし一介のカナダ人による奇矯な経済学理解に聞こえるかもしれない。しかしそうではないのだ。これは、市場経済における価格機能の実際の在り方を正確に表記したものであり、資本主義における道徳の中心的な基礎もまた同様なのだ。

価格制度の根底にあるこういった単純な原理から始めることで、環境保護規制は、同じ原理のほんの小さな拡張を表していることにすぎないことを容易に理解することが可能となっている。あなたは、破棄したい生ゴミを持っていて、私の私有地に投棄処分したがっているとしよう。あなたの投棄は、私からすれば私有地からの享受を減少させることになるだろう。なので当然のことながら、私はあなたを止めるために、財産権の行使が可能となっている。あなたが私の私有地へ生ゴミを投棄するなら、私への金銭支払が必要となっているわけである。だがしかし、あなたは賢明になり、投棄する代わりにゴミは燃やすと決めたとしよう。燃やした結果、悪臭の煙が今や私の土地を漂うことになり、さらなる度合いでもって私有地からの私の享受は減少することになる。不幸なことに、こうなってしまっても、財産権は私を守ってくれないのだ。私有地上の大気まで「保持」していないからである。つまり、私有地の周りにフェンスを建設することは簡単なのだが、大気まで囲い込むことは非常に難しいわけだ。ただ補足しておくと、このように財産権行使の限定的な事例を挙げることで、〔人はなんらかの行為を行う場合、他者への影響を常に考慮せねばならない〕道徳的原理こそがこの件の本質にあるのだ、と言いたいわけではない。道徳的原理はここでは純粋に二の次的な問題に過ぎない。もっともそれでも、基本的な道徳的原理はやはり変わらず重要である――つまりは、あなたはなんらかの行動を行う前には、その行動が他者にコストを課す事について、考慮しないといけないのだ。論を戻そう。もしあなたが、私の私有地からの享受を減らすようなことを行えば、あなたは私への支払い義務が生じる。故に、私はあなたを裁判所に連れていき損害賠償を強いることが可能となっている。そこでは、私が自身の私有地上の大気汚染を許可するのに、あなたは私に幾ら支払わなければならないのかが、裁判官よる最適推定価格として再提示されることになるだろう。

もし、煙が私の私有地上だけを漂うのではなく、他の人達の私有地上にも、薄いモヤとして漂って底流し、土壌が汚染されるような事になれば何が起こるのだろう? 我々は、民事訴訟を「集団行動」として組織し、あなたに賠償金支払いを強要するのが可能になっている。ただ、民事訴訟のような組織化を行えば、甚大なコストがかさむだろう。法廷で本当に争ってしまった場合はどうなるかは言うまでもない。なので、国家によるシンプルに罰金を課すような取り決めの行使が、前もっての解決手段として許容されているわけである――生ゴミのようなものを燃やしたい人皆に課される罰金だ。こういった取り決めは、汚染の生成による「社会的費用」の反映となっている。ここまで検討での重要な論点、それは国家が「社会活動」に価格付けを行っていることにある。不完全性が無い市場や私的所有制度によって帰結されるに至った市場価格と、国家によって行われる社会活動への価格付けの達成は、〔同じ社会的価値反映の〕単に異なる方法にすぎない。(ロナルド・コースによって提唱された、有名にして若干の間接的な論点である)。

重要な論点がもう一つある。国家が〔価格付け制度から得た〕お金で何をするかは、どうでもよい論点なのだ。諸個人が意志決定を行う時、様々な選択肢を比較検討するが、その時諸個人が向き合うことになる費用には選択肢それぞれの社会的費用が反映しているはずだ、というのが価格システムのコア概念だ。この価格システムのコア概念によって、社会的に最適な意志決定が形成されるので、我々は市場を尊重するのである。国家が汚染に価格付けを課すことは、この最適意志決定が社会的に達成されることとなる。国家が、価格付けで得た資金を後に全て無駄遣いしようとしまいと、まったくどうでもよいのだ。

すると「税」とは何なのだろう? 今日の保守派の言及論点に従うなら、政府の歳入を上げるものは何であれ「税」となっている。これは定義として漠然としすぎていることは明白だ。政府が公債を売るのは、税を課したことにはならない。同じく、政府が公的保有している土地の売却を決定し、その売却が歳入を生んだとしても、その土地を購入した人に税が課されたことにはならない。政府が土地を売ったときに行っているのは、「税を課す」などではなく、「土地を価格付けしている」のである。右派政権は、しばしば減税を行いつつ、減税による歳入不足を補うために〔公的サービス等の〕使用料の値上げを行おうとする――その際、右派政権は主張する、「我々は増税しない公約に留意している」と。これも似たような言説である。(そう例えば、右派政権が低い固定資産税の維持に固執したことで、地方自治体の水泳教室の価格が上昇するかもしれない。しかしながら、これも実際には増税ではない。政府は単に水泳教室を販売しているだけであり、民間企業と同じことを行ってるに過ぎないからだ。)

すると、税を税にしているものは何なのだろう? 税の最も重要な特徴は(私の考える限りでは)、歳入を上げる目的に課せられているものであり、行動を変じる目的には課されはいない。所得税が最適事例だ。所得税の主要目的は、単に歳入を上げることにあり、人の収入動機を挫くことにあるわけではない。消費税も同様だ。経済学者達が、多くの時間を費やして税の「歪み」効果について悩んでいるのには理由がある。それは、税のインセンティブ効果が、望ましい社会行動様式に反した特徴となり具現化してしまうことにある。なので、効率的税制度の究極目標は、この「歪み」をできる限りに最小化することにある。故に、経済学者にとっての理想的な税は、「人頭税」(ないし「税の個人支払いの一元化」)となっている。人頭税や一括支払い税を課せられる人は、その税を逃れたり、支払いを最小化する方法がまったく存在しないからだ。そして、人頭税や一括支払い税は、人の行動を変ずることなく歳入を上げるからでもある。これとは別に、経済学者達に好まれる税制度に、『奢侈税』や『資源使用量』のような、”エコノミック・レント(経済的上乗せ利益分)”に課す税もある。これらもまた、行動を変ずることなく、歳入を上げるからだ。(ただ、これらがなぜ好まれるかの詳細な説明するならやや複雑なものとなる…)。

ここまで説明したことで、保守派が一様に税に敵意を持っている一方で、財の利用手数料や価格には敵意を持っていない理由がおわかりいただけだろうか。穏健右派は、税の「歪み」効果による社会的効率の損失を理由に、税に反対してわけである。極右派が税に反対するのは、税が国家の歳入を上げるメカニズムの代表事例だからなのだ。そして、極右派は、国家の歳出そのものに原則的に反対している。(概して、こういった保守派の税への反対は、あらゆる種類の再分配、すなわち「不相応な利得」への強い反対に基いている。故に、政府が提供する水泳教室を使用者に請求するのは、使用者は受け取ったサービスに応じて金銭支払いを行っているだけなので、保守派的には万事問題無しなのである。一方で、政府が個人に固定資産税を課すのは万事問題有りなのである。なぜなら、個人が受け取る地方自治の公共サービス――警察による治安維持、道路整備、降雪除去、等々…――は、税支払いの対価と正確に一致する保証がないからなのだ。〔税金を支払うことになる保守派は〕自身のお金の一部がサイフォンで吸い上げられているのでないか、自身のお金が公共サービスが受けるべきでない人にも与えられているのでないか、と常々戦々恐々しすることになるようだ。どうも保守派の多くは、誰かが不相応な利得のようなものを享受する可能性に悩まされるくらいなら、公共サービスは無いほうがいっそ良いとのことらしい。)

『価格付け制度』は、税とは対照的に、まさに行動を変えることに目的がある。価格は、人々の様々な行為(消費行為、自身の使用行為、使用行為から他者を排除する、等々…)を抑止する意図を持っている。人が本当に価格付けられたものを必要としない限りは…。つまり、人にとってその価格付けられたものからの便益が、他者への損失を十全なまでに上回らない限り、価格は人の行為への抑止意図を発揮するわけである。これは、ほとんどの財の価格が、市場によって決定されていることを我々が受け入れている理由となっている。どういうことなのだろう? 競争市場は、私的利益を社会的費用としての価格に均衡水準化する最適な制度だからなのだ。この見解は少し奇妙に聞こえるかもしれない。私があなたにニンジンを売った場合、私個人が意図しているのは、単にお金を作ることにあり、私的利益と社会的費用を均等化させようなどとは意図していないからだ。しかしながら、価格制度を私的意図の観点から考えてしまうことは、間違えた考え方なのである。個人が何を意図してようと争点はそこにはない。問題になっているのは、諸個人はニンジンに自由に価格付けを行えることにある――逆に考えれば、ニンジンには法的に価格が定められていないことが争点になっている。ニンジン対して諸個人が価格を自前で設定させられていること、これこそがこの争点化している問題の解答だ。「価格を自前で設定させられていること」は、高い慨然性をもってして、我々を価格を私的利益と社会的費用の均等化作業に至らしめることになる。

この見解を敷衍させると、政府が国有地の一部を売った場合も、政府自体の目的はお金を作ること(つまり歳入を上げること)にあり、政府自体は私的利益と社会的費用の均等化を目的にしてはいないことになる。それいて、国有地の売却は税にならないのだろうか? 私が独自定義で悶着してるだけなのだろうか? なんらかの価格が税であるかどうかは、その価格がいったい何に基いて定められているのかに依存している、と私は論じたいのだ。競争的な市場価格によって地価が計測され、売買が試行されている場合、私は単に「土地が価格付けられている」と言うだろう。対照的に、例えば、土地を非常な高価格で売ることを目的に、土地の供給余地が制限されているような土地の専売権行使が存在しているとしよう――香港政府が行っているようなやり方である。この場合は、土地を購入する人(例えば不動産ディベロッパー)に「課税する」という言い方が妥当になる、と私は考える。政府が「市場」価格で土地を売る場合、以上の専売権行使の場合とは異なり、歳入を上げるという事実は、幾分だが付随的な事柄にすぎない。例え、政府が国有地の売却収益を翌日に気まぐれに散財したとしても、その土地を最適利用できる人に資された保証として、「土地を価格付けして売却した」ことに重要論点があることは損なわれない。

ここまで、微妙な論点にこだわっているように思えるかもしれない。しかし、この論点を、環境問題に適用した場合、それは明白かつ直接的に適用妥当案件となるのだ。二酸化炭素を排出することは、(国境を越えたグローバルな温暖化のメカニズムを介することで)コストを他者に押し付ける行動の完璧なまでの典型事例となっている。それでいて、現行の財産権は、二酸化炭素排出コストの他者への転嫁を防ぐ仕組みにはなっていない。つまり、財産権や契約の古典的メカニズムは〔他者転嫁した排出コストを反映して〕価格を引き上げるようには至っていないのである。それでいて、価格付けの「謝罪」モデルの観点から考えてみれば、大気中へ二酸化炭素の排出を行った人は、排出によって不便をかけた全ての人に謝らなければならないのは明白である。二酸化炭素を排出した人が謝罪を負っていない現実は、財産権のシステムが政府の専制的制限下にあり〔排出コストまでカバーしていない〕ことに起因している。つまり、大気が問題領域になっても、人は財産権を行使して解決する手段を有していないのだ。

別途手段を検討してみよう。諸個人が集まり、二酸化炭素を排出している人々に補償を要求するのも、法外にコストがかかるだろう。さらなる別途手段、二酸化炭素排出を「違法行為」として扱う解決策も、「財産権」による解決策と同じく効果的ではないだろう。よって人が温室効果ガスを排出する場合、他者にどれくらい賠償せねばならないかの決定のお鉢が、国家に回ってくることになる。なので政府は、なんらかの費用便益分析(例えばスターン・レビュー)にコミットした上で、「炭素価格」を課すことになる。費用便益分析は、人が二酸化排出を欲したとし、さらにその排出の影響を受けた人々が集まって協議し同意が行われたと仮定した場合の市場価格基づいて設定される。ここで政府が一連の政策に課した「炭素価格」――それを我々はそれを「炭素税」と呼んでいるのだ。

繰り返させてもらうが、こういった政策枠組みを「価格」として考えることは、政策が歳入を上げる重要性が、二の次になる事実の反映となるのだ。たとえ、国家が炭素価格付けの政策枠組みからの全ての歳入を気まぐれに散財したとしても、この政策は実地される価値を持つ――どういうことか?――国家がこの政策を実地している環境下では、人は意志決定を行う場合、その意思決定が他者に課すことになるあらゆるコストを考慮することが強要されるようになるからである。実にこれこそが、数回前の選挙において、自由党が「グリーン・シフト」を提唱していた理由だ。提唱政策では、炭素税は、同等規模の所得税減税を組み合わせた課税政策と紐付けられていた。政策を包括的に履行すれば、歳入は中立になっていたわけである(故に、「シフト」と呼ばれていた)。グリーン・シフト政策の目的は、より効率的な経済的インセンティブを作り出すことにあって、歳入を上げることにはなかった。言い換えるなら、「炭素価格」の試算にあったのだ。

この歳入の中立性こそが、「炭素価格付け」に反対している党の方針に面従腹背している経済に精通している保守派が、悪辣な不誠実さを患っている理由だ。経済に精通している保守派は知っているわけである。もし人々が市場経済の根底にある基礎的な原理を受け入れ、さらに気候変動が人為的であることの科学的なコンセンサスを真実だと考えた時、「グリーン・シフト」や、炭素価格付けのような政策に、一般的に反対することに、筋の通った論拠が単純に存在しなくなってしまうことを。保守党支持者達がこういった政策に反対している事実は、(酪農産業の供給管理への加担と極めて似通っている)愚存な政治的ご都合主義の行使――自由市場の基礎的な原理への毀損に立脚している。不幸なことに保守党支持者達は、この問題では自縄自縛に陥っており、適切な政策の提示が不可能になってしまっているのだ。

ここまで語ってきたこと全て、国家が価格の調整を試みる際に手数料を課すような政策に適切な名前(例えば、ピグー税)を思いつける人からすれば、マズい考えではないだろう。例示してみると「有料道路制度」、我々はそれを「通行料」と呼んでおり――「税」と呼ぶより正鵠を射ている。貿易制限の場合、我々は「税」ではなく「義務」と呼んでいる。なので、炭素価格付け政策の枠組みは、炭素「課徴金」とでも呼ぶのがおそらく適切なのだろう。ただ、上記の通行料、税、義務、課徴金といった様々な様態を広く包括した用語があればより適切かもしれない。

※訳者による注釈は〔〕で括っている

ジョセフ・ヒース「アレク・ノーヴの偉大な一節」(2015年6月10日)

Great sentences: Alec Nove
Posted by Joseph Heath on June 10, 2015 | economy, environment

私は最近、アレク・ノーヴの”The Economics of a Feasible Socialism (revisted)“(『実現可能な社会主義の経済学[改訂版]』)をパラパラとめくって、20年前にアンダーラインを引いた箇所をチェックしていた。この本はおそらく、私の物事への考え方を根源レベルで変じさせた、十数冊の内の一冊だ。今から見ても、以下の一節は傑出している。

外部性は、所有の分離によって生じるのではない、意志決定単位の分離によって生ずるのである。

この短い一節は巨大な示唆に富んでいる。私が読んだ20年前時点では、こういった考えが、これほど明晰に、そして力強い説得力でもって表現されているのを見たことがなかった。資本主義の病理のいくつかは、企業の所有構造要素や、利潤への志向によって生じるのではなく、意思決定の分散化から生ずるにすぎないことが示唆されている。私に言わせると、このノーヴの見解、全ての環境保護論者が、理解し、把握する必要があるものだ。その中でも特に、資本家による企業所有を、生産者協同組合へと移行させることによって、環境に関して何か成し遂げられることができると考えている環境保護論者にとって必要だ。(ちなみに、この一説が含まれているチャプター「社会主義とソビエトの経験」は卓越した読書価値がある。)

ジョセフ・ヒース「なぞなぞ:リバタリアンとペドフィリア(小児性愛者)の共通点ってなーんだ?」(2014年4月22日)

What do libertarians and pedophiles have in common?
Posted by Joseph Heath on April 22, 2014 | political philosophy

答え:インターネット登場前には、こんなに沢山いると誰も知らなった。

オーケー。このなぞなぞは、読者の注意を引くために即興で創り上げたちょっとしたジョークだ。このジョーク、今回の議論の調子を伝えるためにをやらかさせてもらった。要は、今回の議論、リバタリアニズムの批判を行うが、教義や主義そのものに言及しない感じの批判になっている。はっきり言ってしまえば、理性より感情に訴えたリバタリアニズム批判をやってみたい。もっと正確に言わせてもらうなら、信者の典型例の観察を行うことで、リバタリアニズムを間接的に批判したいわけだ。

この批判を達成するために、新しいコンセプトを紹介したい。ぶっちゃけるに、『自制心(セルフ・コントロール)貴族』と私が呼んでいる特定集団の人々について話したい。

この考えは非常にシンプルだ。一部の人は、他の人達よりも「自制心」に優れているのである。私の例を挙げてみたい。私は妻を心から愛しているのだが、時に妻は私を恐怖の存底に叩き込むことになる。数か月前のことだ。妻は、市販の統計分析ソフトに料金を支払うのが嫌になったので、代わりにオープンソースソフトウェアのを学ぶことを決心した。妻は、いくつかの無料のオンラインのコースに申し込み、それから毎日、仕事後の晩に、Rのプログラミングの細かい仕様を講師が解説するチュートリアルビデオの視聴に1時間ほど費やすようになった。妻は、多量の問題一式に取り掛かり、月末にはそれを基本的にマスターしてしまった。

私を畏怖させたもの、それは妻の「自制心」の行使量である。仕事場での長い1日を終えてから帰宅し、それから統計ソフトのプログラミングの自習に1時間費やすのである。こんなことをするのは、私には到底無理だ。端的に私には妻のような凄い自制心がないからである。ただこう言っておいて何だが、私も平均的な人よりは強い自制心を持っているはずなのだ。何せ、私は大変な労力を割いて本を書いており、完成に至るまでの何年もの忍耐力を必要としている。

なので、妻と私は共に自制心の行使に関しては、人口の上位10%帰属にある、とおそらく断言できる。この上位10%に帰属する集団のことを、私は『自制心貴族』と呼んでいる。この貴族クラブメンバーであることは、社会において巨大な便益を得ることになっている――有名な「マシュマロ・テスト1 」によっても示されている通りだ。この巨大な便益は、「自制心」が、社会の諸領域に普遍的に適応する非常に安定的な個人性質として発現することに由来している。(例えば、妻と私は、25年以上もクレジットカードを、限度額未満の金額しか使用したことがない。)我々の社会において、「自制心」は、その能力の保持者に、単に富を与える以上に、多くの実利をもたらしているだろう――自制心は、人生の非常に多くの領域(健康、教育、ダイエット、財テク、人間関係、キャリア開発、犯罪の自己抑止、等々…)で利点をもたらすからである。

博士課程を修了した大抵の人は、この自制心では最高水準にある。大学に留まり続けることは、〔人生における〕満足感を延期するための強い忍耐力を必要とするからだ。人文科学のようにあまり形式化されていない分野の博士号を持っている人は、確実にこの自制心を持っている。
(学部の院生が博士号取得試験2 に合格した後、私はいつも彼らに「ほの暗い下宿に今すぐに戻るのだ! そして二年後に自著を抱えて帰還したまえ!」と声掛けしている。冗談のようだが、あながち冗談ではない。哲学の博士論文執筆には基本的に総計でこのくらいはかかるのだ。もちろん、このような種類の仕事は、皆に適性があるわけではない。ただ博士課程を完遂できないとすれば、それは「知性の欠如」によるものではない、「自制心の欠如」によってのみ起こりうるのである。)

『自制心貴族』の一員であることを自覚しているが故であるが、社会における「個人の自由」に関する諸問題について考える際には、ある種の特権階級の話だと想定するとピンとくるのである。私は非常に強い「自制心」を持っているので、「個人の自由」領域の拡張によって、平均的な人よりも、非常に多くの便益を得る立場にある。なので、24時間営業の酒屋は、私にとっては素晴らしいが、他の人にとっては良し悪しがあることを、私的には認識している。また、私は新しいTFSA3 プログラムについて熱心な関心を寄せているが、その関心が一般的に共有されていないことも認識している――TFSAの主な便益は、富裕層ではなく、『自制心貴族』に流れ込むからだ。

ここまでの話が、リバタリアニズムとどう関係するかだって? (漫然かつ暗黙裡に、個人の自由を他の政治的権利より優先するような教義に基づいている)リバタリアニズムの学問的支持者達全ては、『自制心貴族』の一員であることが、重要な論点なのだ。現に、この手のリバタリアニズムの支持者が推奨している政治概念は、他者よりも、自身に非常に広範に便益をもたらすものとなっている。それでいながら、ほとんどの事例で、彼らは自身がエリートであり社会の支配的なグループの一員であることで〔自身の推奨政策から〕偏って利益を得る立場にあることを認識していない。なので、彼らは非常に無邪気に自身の政治概念を推奨している。リバタリアン想定だと、「自由」は、全ての人に平等に便益を与えるものとなっている。(もしくは、リバタリアン想定では、「自由」の拡張が一部の人に便益を与えない場合は、その人が、十分な自制心の行使に失敗したことになっている。つまり完全なる自己責任である。)

経済学を背景に持つたぐいのリバタリアンは、この観点では最悪の傾向を示している。経済学者が方法論的仮定として導出している「合理的エージェント」モデルは、絶対的完全な自制心を保持しているエージェントの明示化に寄っているからだ。(例えば、ミルトン・フリードマンの恒常所得仮説。この仮説では、銀行の貯蓄残高とか、信用限度がどのくらいなのかというような事象は、影響を与えないはずだと明示されている。そうだったらいいののだけどねぇ!)

結果的に、経済学の薫陶を受けた人がなんらかの政策問題について考えると、誰もが完全な自制心を持つことを前提条件にした概要分析をよく挙げることになる。このような観点だと、生活保護給付が月単位になっているような制度は、不思議に思えるかもしれない。なぜ生活保護給付を税制度に組み込むことで一元化しないのだろうか? とか、単に年度始めに一度だけ総額を高額給付しないのだろうか? とか不思議に思えるようである。
(現実世界に住んでいる人なら誰でも、この質問には容易に答えられるでしょう? しかしながら、確実にある種の経済学者――「合理的エージェント」入り毒々ジュースを常時ラッパ飲みしている人――にとっては、答えは正真正銘の謎に思えるようである。)

生活保護の給付を単年度の一括支払いに変更することを、真剣に検討してる人はさすがにいない。しかしながら、確定給付型年金制度を、拠出ベースの年金制度や定期貯蓄に置き換えるような事案は、人によっては検討している。そしてこういった事案の検討時に、(完全な自制心を前提条件に置いている)経済学者のバイアスは、深刻なまでに議論を歪めているように見える。

自制心の不平等な分配に注意を向けることを始めると、すぐにリバタリアニズムのある特徴が見いだされる。私は長年に渡って、リバタリアン達の、国家権力による単一ないし複合的な規範の押しつけへの批判や、個人の自由余地のさらなる拡大を目的とした国家権力の抑圧を縮小する要求を聞くことに、少なからず時間を浪費してきた。しかしながら、彼らの批判を聞いてきた長い年月全てにおいて、この手の〔国家による規範や権力の〕縮小によって自身が便益を得るのを想定していない事案を要求するリバタリアンにはついぞ出会ったことがない。

例えば、銃の所有権を擁護する類のリバタリアンは、銃を所有していたり、銃の所有を欲するような類の人である傾向がある。本物のリバタリアンであるなら、銃所有の要求如何によらず所有権を擁護するだろうし、ことによると銃犯罪の犠牲者になる可能性が平均以上になろうとも所有権を擁護するはずだ。本物のリバタリアンであることは、自己利益の促進のために単なる修辞的なカモフラージュとして「自由」という言葉を使用することにあるのではない。純粋な価値として「自由」を掲げることを意味しなければならないはずだ。

毎度の経済に関してだと、リバタリアンの議論は常に同じ趣をまとっている。例えば、公的保険制度を嫌うリバタリアンは、自前の民間健康保険制度を自由に選択できるように望んでいる。しかしながら、この手の議論を行う類のリバタリアンは、常に民間の健康保険を既に購入してる類の人である。この手の事例は枚挙にいとまがない。

ここまでの見解を適切に表している優れた風刺がある(どこで見たまではちょっと思い出せないが、たしかニューヨーカーに掲載されていた風刺漫画だったはずだ)。風刺漫画ではマンハッタン在住の富裕層の女性が、貧しい人に対して不平を述べていた。

富裕層の女性曰く:
「貧乏な人がお金がないことについてしょっちゅう文句を言ってるのが、私には不思議なのよね。私なんて、まったくお金を使わないで何日も過ごすことがしょっちゅうあるのよ」
ここで、彼女の夫が突っ込んで言う:
「マイハニー。それはね、君の運転手が全て支払っているからだよ」

この話の教訓。それは人は一度十分なお金を所有してしまえば、それは見えなくなってしまうことにある。つまり、人は一度富裕になると、お金で困っている人の視点で世界を見る能力を失ってしまうのだ。「自制心」に関しても同じだ。『自制心貴族』のメンバーは、自身が「自制心」を多量に保持しているのを当然視している。その結果、彼らは「自制心」を欠いている人の視点で世界を見るのが非常に困難になっている。故に、彼らは多くの事例で、自身帰属の狭い社会階層だけに便益をもたらすであろう政治的概念の推奨に日々費やすことになる。しかしながら、そのことに決して気が付かないのだ。

※訳者による補足・注釈文章は基本的に〔〕で囲っている。

  1. 訳注:子供時代の「自制心」の強さが、将来の成功の多くの要素に強い相関があることが示された研究。当初の実験では、子供にマシュマロを見せた上で、一定時間食べるを我慢させて「自制心」の強さを計測したことから、このような名称が付いている。 []
  2. 訳注:英米の大学等で博士課程を経た後に受ける試験。試験に合格すると授業に出席せずに博士論文を書く権利がもらえる。 []
  3. 訳注:カナダにおける個人の金融投資収益の税免除制度のこと。日本のNISAとほぼ同じ制度である。 []

ジョセフ・ヒース「ナオミ・クライン、追記その1」(2015年4月4日)

Naomi Klein postscript no. 1
Posted by Joseph Heath on April 4, 2015 | economy, environment, public policy

ナオミ・クラインの新書『これが全てを変える』を読んでいた際、書籍内の多くの言説に驚かされた。ただそれらの内のいくつかは、主な批評対象から若干逸脱していたので、2週間前に書いた書評からは割愛させてもらった。しかし、それら割愛箇所は言及する価値のあるものでもある。特にこの新著と過去著作(『ショック・ドクトリン』『ブランドなんかいらない』を含む)との論理的整合性についてだ。(我々アカデミアの住人が好むかなり面倒なやり方の1つがある。それは研究対象該当者の著作を全て読み込み、「全著作がどのように関連しているのか?」という疑問にしつこく煩悶するのだ。「ノンアカデミシャンの著作を扱う際には、そのやり方はアンフェアだ」と何人かの人に指摘された。しかし我慢できないのでやってしまおうかと思う。

『これが全てを変える』について、クラインのファンの多くが最初に気付くのが、前著『ショック・ドクトリン』との間に存在する、巨大な対立的矛盾だろう。実際、一般読者には、クラインは過去の自著で語っている内容のほとんどを前言撤回しているように見えるかもしれない。この問題点はハッキリ明白になってしまっているので、実際クラインは、正反対の立場を表明してしまっていることに、「私は矛盾していない」と言い訳を試みて疑いを晴らそうと、序章のかなり部分を浪費している。ただ驚くまでもないが、私が見る限り、この弁明部分は説得力ゼロである。

ともかく、まずは『ショック・ドクトリン』に話題を戻してみよう。『ショック・ドクトリン』の発売時、私はこの本について何も言及していない。大まかな理由を挙げるなら、書籍は困惑させるようなものでしかなかったからだ。実のところ、私は、この本の修辞表現の構造〔著者が執筆・文章化することで意図等を適切表現すること〕がどのように混乱してるのかまでは把握することができなったのである――私が見ることができたのは、クラインが何かを試みてていることであり――クラインの立ち位置が混乱していることだけは端的に見いだすことはできた。基本的に、クラインは右派批判を行っている。右派は(ハリケーン、インフレーション、金融危機のような)様々な危機を悪用し、通常の状況下にある人々には受け入れがたい社会への急進的な変革を強要した、との理由からである。今から見れば、彼女が批判する「ショック・ドクトリン(ショック療法)」には2つの要素がある。まず最初の要素は、「戦略」だ。「戦略」とは以下のようなものである。ショック・ドクターは、まず前もって「青写真」を策定する。それから人々を脆弱化させたり、呆然とさせたり、パニックにさせるような様々な危機の到来まで待つ。この時点で抵抗者達は最も弱体化しているので、ショック・ドクターは、自らのプランを強要する機会として悪用するわけである。2つ目の要素は、右派が推進していた特殊な「アジェンダ」だ。財減税、貿易自由化、公共サービスの民営化、市場インセンティブ導入による非市場部門の再編成、等々である。

この「ショック・ドクトリン」実施の最適事例として挙げられているのが、ハリケーン・カトリーナ後のニューオリンズの学校制度の再編成である。ニューオリンズの学校群は多くの近隣住民の支援と共存していたが、ハリケーンで破壊されることになった。なので、ほぼ全ての制度が再編成の必要性に迫られ、急進的な変革を行う機会が立ち上がることになっている。この機会は、チャーター・スクールの支持者によって好機として捉えられ、多くの伝統的な学校を撤去するやり方で制度の再編成が実地されることになった。

このハリケーン後の学校の再編成や他のショック・ドクトリンの事例に、クラインは「アジェンダ」と「戦略」の双方をもってして不可としていたのは、今や明白であろう。ところが、クラインは、「ショック・ドクトリン」を批判するのに際し、ほとんでアジェンダ批判よりも、戦略批判に費やしているのである。ショック・ドクターの戦略を、特筆すべき悪行であり、公明でなく、邪悪であるかのように批判している。しかし、このように考えると奇妙な事になってしまう。それはこの手の戦略は、本来政治的価値を持ちえないはずであり――左派がこのような戦略を行わない、と夢想してしまうのはありえないだろう。それどころか、この手の戦略は、左派によって発明されており――それは「ボルシェヴィズム」と呼ばれ、共産主義政党が20世紀を通じて行ったきたものだ。青写真を作成し、それからなんらかの危機がやって来るまで潜んで(あるいは「機が熟す」まで)待ち、権力奪取のための大義名分を用意しておく。これが共産主義政党の戦略の本質だったわけだ。同様の戦略は、穏健左派によって、大恐慌への対応として、現代福祉国家の土台を作る際にも「非常に効果的」に実施されている。いずれの場合も、市民が以前は受け入れる用意があるもの以上のラディカルな変革が、危機が利用されることで成立している。

『ショック・ドクトリン』について驚くべきことがある。それは、(私の見た限り)クラインは、左派がこの戦略を効果的――ないし悪用してきてことを、まったく認識していないことにある。クラインによって描かれているエピソードは、おそらく全て左派によって生み出された戦略であり、それらを右派が採用して使用するのを学んだ事例群なのである。しかし彼女はこの事を認識していない。いやそれどころか、クラインは、これらを右派によって独自に企まれ実行された戦略であるかのように提示すらしているのだ。これは顕著な自明的誤りとして私を驚かさせ、この本への関心を霧散させることになったのである。思うに、クラインは右派のアジェンダに関して不平を述べたいなら、戦略批判に数百ページも費やすよりも、単にアジェンダに不平を言うだけにすべきだったのだ。私が見る限り、〔こういった戦略は〕左右どちらのイデオロギー側によっても普遍的に使用されているのだから。

ともかく、こういった見解に基づいて、気候変動に関するクラインの取り組みが示されている。彼女の中心的な主張は、「気候変動は巨大で、急を要し、惑星的危機である。そして、それに効果的に対応する為に、我々は、通常時には肯定できないような、根元的な社会変革を広範囲に渡って行わなければならない」そうである。オーケイ。〔危機の鳴らし方が過去のクラインのものと〕お馴染みでしょう? ただクラインの名誉のために言っておくと、彼女は現在の推奨事項と以前酷評していた「ショック・ドクトリン」との類似性には気づいているのだ。実際、彼女は自身が行おうとしているものを「逆向きのショック・ドクトリン」の一種であるとさえ主張している。

気候変動に対処する活動家達はまた、人民による逆向きショック・ドクトリンのようなものの従事者でもあります。活動家達は、災害(特に気候に関する災害)の直後は、新たな経済を構築する最適機会の一つであることを既に学んでいるのです。何千万もの死者を出し何十億ドルもの被害をもたらした『ハリケーン・サンディ』や台風『海燕』のような大災害が繰り返されることは、私たちの今日のシステムへの甚大なコストにかかわることとなり、公衆への劇的な教訓と至らしめるのです。そして、公衆を、気候変動危機への単なる対処療法ではなく、根本に立ち向かうラディカルな変革へと駆り立てることになります。(p.405-6)

「良き危機」には誰であれ抵抗できないようじゃないか! クラインは、深刻な危機を巧みに利用し、ラディカルな変革を達成する能力は、「革新派はどのように使用すれば良いか馴染んでいたのに…」と嘆いてさえいるのである。

大規模な危機のさなかに、社会・経済的正義に関して大きな成果を勝ち取ってきた民衆運動の豊富な歴史があるのです。そのなかでも最も目を引くものに、1929年の市場崩壊後のニューディール政策と、第二次世界大戦後の数え切れない社会政策を挙げることができるでしょう。(中略) 私は確信しているのです、気候変動は、これらより大きな規模の歴史的機会として再び具現化することに。(中略) ショック・ドクトリンの究極的発現(〔搾取層による〕新資源の強奪と抑圧の狂乱)などとは違う、「人民によるショック」、つまりは下層からの吹き上げを、気候変動は可能とするのです。(p.10)

なるほど。で、クラインが批判している「ショック・ドクトリン」と、今や彼女が推奨するに至った「逆向きのショック・ドクトリン」との違いは正確には何なのだろうか? クラインに言わせると最初の違いは、「ショック・ドクトリン」は、独裁的な手法を課されたものであり、彼女が推奨している一連の変革は、大規模な民衆の動員を通じて全て民主的に達成されるものである、とのことらしい。

以下より詳細に読み説いてみようじゃないか。2番目の(そしてより根本的な違い)は、単純なものだ。前者はクラインが悪いと考えるアジェンダに適応しているものであり、一方で後者は彼女が良いと考えるアジェンダに適応しているものである。

(右派の「ショック・ドクター」は緊急事態(本物であろうと、捏造であろうと)につけ込んで、より危機をもたらす政策を私たちに強要するのに対して、ここまでページを割いて議論してきたような種類の変革はまさに正反対な結果となるはずなのです。それは、私たちが一義的に直面している深刻な危機の根本原因を取り除くことになるでしょう。そして、私たちに降り懸かるであろうものよりも暮らしやすい気候をもたらすでしょうし、現状よりはるかに公正な経済をもたらすはずです。(p.10)

このような言及方法は「良きショック・ドクトリンは私が賛成する物事を支持するものであり、一方の悪しきショック・ドクトリンは私が賛成しない物事を支持するものである」といった端的な気まぐれでしかないと私には思える。クラインが推奨するアジェンダの内容に目を瞑り、百歩譲ってアジェンダをまあありとするなら、〔彼女が批判しているショック・ドクトリンの〕戦略、要するに戦略の横暴さややり口をもってして争点化できるだろうか? 言い換えるなら、クラインの新刊の核心は何なのだろう?

つまり、「悪いショック・ドクトリンは権威主義的」であり、「良いショック・ドクトリンは民主的である」と定義付けて考える事は可能だろうか? この定義も、(ニューオーリンズの学校制度改革は、選任された公務員に着手されており、同じようにニューディール政策も、選任された公務員によって実行されていると考えると)出発点から、曖昧なものでしかない。しかも、本の後半部では、彼女はこの事を完全に失念しているのである。そこではジオエンジニアリング1 を、気候変動への対策として提唱している人達を、「自分勝手なショック・ドクトリン推奨者」として断固批判している(p.276-7)。この項目では、クラインは、大衆が実際に正しい位置にいることを気にしているようだ。

「もしジオエンジニアリングが実行されれたなら、冷静に考える十分な時間もないままに、集団パニックを騒擾することはほぼ確実なのです。 (中略) 深刻な緊急事態の渦中では、誰もが集団パニックの思考に捕らわれると考えるしかないでしょう? 私にはとんでもないことに思えます。(中略) ショック・ドクトリンは、このように作動するのです。深刻な危機による絶望下においては、あらゆる種類の理性的な反論を霧散しさせ、万事のハイリスクな言動を一時的であれ許容されてしまうように思えるのです。急激な変化の渦中にも、私たちは自身で価値判断を行わねばなりません。ジオエンジニアリングによって生じるであろう将来の倫理的問題やリスクを理性的に評価することは、危機的な雰囲気においては範疇外にあります」(p.276-7)

私は、ここにおいて奇しくもクライン同意することになるのである――たしかにジオエンジニアリングの支持者が提案しているものは、信じられないくらいリスキーなのだ。相違点を挙げるなら、クラインの支持しているものも同様に信じられないくらいリスキーなことにある。なので、クラインが大衆へ自説の押しつけを試み、「危機を悪用している」という点において、彼女は、他のショック行商人とまったく同じである。(注視すべきは、クラインは自身の見解を「人民のショック・ドクトリン」と呼称しているが、端的にそうなっていないことにある。現時点で「人民」の圧倒的多数は、クラインの提唱しているものをまったく支持していない。なので、少なくとも現時点では、クラインの提唱しているものは、エリートや前衛主義者の見解と同じでしかないである。)

クラインが推奨している気候変動問題の解決策は、どんな趣旨でリスキーなのだろうか? 私が考えるに、彼女の提唱は二つの様相において、リスキーな解決策となっている。まず最初に、クラインは気候変動問題に間接的に取り組もうとしている点にある。結果的に、クラインが提唱する改善案の有効性は、紆余曲折した因果関係に依存することになってしまっている。このことは前回のエントリでも触れたが、詳しく言及してみよう。以下のクラインの論旨を検討してみてほしい。

すると、なんらかの世界観や自明とされているイデオロギーを変革するのはどうすればよいのでしょう? ひとつは、根源的な政策論争によって正しい選択を相乗することです――単に法律を変えるのを目的にするのでなく、人々の思考パターンを変革するのです。つまり考え方を根本から変えるような変革です。これが意味するのは、例えば最小限の炭素税を勝ち取るのは過少な価値でしかないでしょう。最低所得補償の要求のために大連合を形成べきなのです。これまで議論してきたように、最低所得補償は、労働者に環境汚染エネルギーの仕事を拒否する言行を可能するだけではないのです。普遍的な社会的セーフティネットを求める議論の過程そのものが、諸価値を巡る声高の討論空間を開くことになるのです。価値とは、経済成長や企業利益などよりも、私たちが相互信頼に基づいて負うべきなんらかであったり、総体的価値観の尊重にあるのです。

ここでのクラインの言及内容に着目されたい――環境保護の達成のために究極的に行うべきこととして、我々はしばらくの間、環境対策を一時停止してでも、貧困層の収入の増加に集中しなければならない、とのことらしい。ただツッコませてもらうなら、クラインが提唱している「最低所得補償」から「気候変動の緩和」へと至る因果関係の連鎖は、信じられないくらい間接的で紆余曲折しているのだ。私的見解だが、この箇所で仮定されている因果関係の連鎖は、純粋かつ100%希望的観測である。私の評価に同意しない人でも、最低所得補償を課す政策に、気候変動の対策を関連付ければ、多くの物事が悪化する可能性があり、非常にハイリスクなアプローチであることは、認めるに違いない。(例えば、最低所得補償で新しい収入を得た人は、SUVを買うかもしれない――これは、過去に行われていた「汚染エネルギーの仕事」に、その人が従事することとほとんど一緒である。)

ただ、再低所得補償の優先は最悪事ではない。二つ目の、彼女が推奨している「脱成長(p.88)」政策こそ、気候変動危機への信じられないくらいリスキーな対処方法だ。これはつまるところ、GDPの規模を縮小させる婉曲表現の一種にすぎない。意味するところは、(おそらくだが)経済を、実質的にゼロ成長に均衡するように抑え込むようにデザイン調整された手法従事によって、長期の不況を引き起こすような政策の実行である。今やクラインは、数百万の労働者を低生産性セクターに移動させることを(p.126-7)計画している。そしておそらくだが、労働時間を削ること(p.93)で、この「脱成長」政策は失業を産まずに実行可能である、と夢想しているのだ。クライン計画絵図によるなら、一般的な一個人は、緩慢で絶え間のない(10年以上にわたっておおよそ年率2%の)実所得の低下を経験することになる。(こういった政策の推奨者は誰も具体的な数字を提供しないので、私は、彼らの想定像を推察させてもらった)。さらに引き続いて、永続的な所得の停滞となるだろう。(おそらく、技術変化も起ることになり、その生産性向上を受けて、総生産を増加させないことを確保する必要も生まれるだろう。なので脱成長政策は、労働時間の削減を履行するような方法によっても、達成せねばならないことになるだろう。)

所得の縮小ないし停滞状態の継続に並行して、クラインは、民間セクター消費を、公的セクター消費に大規模に移行させることも提案している。この政策の資金調達に、個人所得税の大幅な増加を手段として想定しているようだ。またもや、クラインは具体的な数値を示さないのだが、彼女の話しぶりからは、脱成長政策後のGDPの1/4ほどを移行することを欲しているように読めるのである。加えて、彼女は貧困層への巨額の再分配も夢想している。ここでも大雑把な概算が行われているが、平均的な人がおおよそ20%の賃金をカットを容認することを、クラインは欲しているように読めるのである。しかも二度と賃金上昇が起こらないことを確約させ、平均的な所得税率を約25%上げる合わせ技によってである。(なので、カナダの平均所得税率は30%から55%になる)。さらに忘れてはならないのが、これらクラインの提案全ては、「民主的に達成される」と想定されていることにある。有権者がこういった政策に、一度だけでなく、何度も投票するであろう、と想定されているのだ。

「脱成長」の提唱者達――クラインだけでなく、ピーター・ビクターも同様だが――に関して私を驚かせてきたものに、彼らが、このような平均所得の減少願望と、経済的不平等の縮小願望との間に、対立・葛藤関係をいっさい見出していないことがある。彼らは、人々が再分配の増加に同時して、自身の収入の低下を支持するのを期待しているのである。これは、私を形容できない困惑に至らせ――このような主張への根源レベルでの不審を表す言葉を探して苦闘することになる。このような主張が実現した世界は存在するのだろうか? 可能なのだろうか? かつて実現したことがあるのだろうか?

現実世界において、経済不況は、政治的混乱の顕著な増大に強く関連している。他方において、経済成長は、再分配を非常に容易にするのである。端的な理由を挙げるなら、経済成長下における所得移転は、所得を移転拠出することになる人には純粋な損失として現れず、(はるかにより抽象的な)亡失利益として現れるからなのである。福祉国家が経済成長を背景に創り出されたことは、偶然ではないのだ。(政治政策における、経済成長効果の一般的見解に関しては、ベンジャミン・フリードマンの『経済成長とモラル』を参照してほしい。)

私にとって自明に思えるものに、(経済に負の総和を作り出すことによる)脱経済成長戦略は、徴税と再分配の両面において、巨大な抵抗を拡大するであろうことがある。このような抵抗の拡大による限定条件下では、脱経済成長政策は、極右政党への支持増大という危険な形での反動を産むかもしれない。

結果的に、この本でクラインが推奨しているものと、ジオエンジニアリングの熱狂的支持者が推奨しているものの間には、端的に何の道徳的違いもないように私には思えるのである。後者は工学万能主義であり、一方クラインは社会主義的ユートピアにすぎない。しかしながら、両者共に、気候変動問題の解消に関して、冒険的で、実証されておらず、潜在的に危険な政策に、自らの希望を賭けようとしている。おまけに、クラインが、自身のアジェンダは民主的に達成されるであろう、と考えていることに関しては非現実的なものとして驚かざるをえない。左派が保守政党を政権から追い出す方法が、皆目分からない国に未だにいるのにだ。

※訳者による注釈は〔〕で括っている

  1. 訳注:地球規模の工学手法で人為的に地球温暖化に対応する政策。空気・大気中の二酸化炭素を人工的に貯蔵して大気中のCO2濃度を低下させる、二酸化硫黄を大気中に放出し太陽光の放射を減少させるといった政策が代表的。 []

ジョセフ・ヒース「なぜ我々はかくも怒り狂っているのか? 保守政権に怒る人々と、保守政権に怒る人々に怒る人々」(2015年10月10日)

Why u so mad?
Posted by Joseph Heath on October 10, 2015 | Canada, elections

〔訳注:本エントリは、スティーブン・ハーパーが首相を務めるカナダ保守党が政権与党であった、2015年のカナダの下院の総選挙直前に書かれたものである。〕

先日、ブログの共同執筆者達によって書かれた〔保守党の選挙戦術を批判する〕公開書簡に関して、私はなんとも複雑な感情を抱えている。(結局、私も署名したわけだが…)。スティーブン・ハーパーを嫌う人は目立って沢山いるわけだが、「スティーブン・ハーパーを嫌う人」を嫌う人もまた沢山いる。なので、私が今に至るも確信しているのが、レックス・マーフィー1 はこの公開書簡に関して痛烈な批判を行うであろう。「587人もが署名した公開書簡は、大学における『ポリティカル・コレクトネス』と『集団浅慮』の暴走による帰結である」とか。他の批判者は、この公開書簡を、「単なる党派性」「ローレンシャン2 のエリート達の狂乱」その他もろもろのものとして片付けるに違いない。

公開書簡を「単なる党派性」の論題として扱ってしまえば、全ての政策論題がこのように関心を引きつけおらず、非常に多くの人々を激怒させてはいない事実の反映から逸脱することになる。カナダ保守党の政治要綱に、カナダの大学人達によって幅広く反対されている多くの事例があるというのは間違いない。例えば、『高級品の税額控除』は、この国のほとんど全ての経済学者から強く反対されている。しかしながら、経済学者達によるこの税額控除への大規模な公開書簡は顧みられていない。言い換えるなら、大学人達によるハーパー政権への激怒は端的にいつもの党派性や政治性とは異なっているのだ。保守党による選挙戦術として、マイノリティ集団に対する敵意の駆り立てのようなものが存在する。非常に攻撃的なものや、私が指摘した『一線を超えた』等である。そういうわけで、非常に多くの人々が激怒しているわけである。

繰り返させてもらうが、多数の保守党の擁護者達が、人々がハーパー政権に激怒している理由に関して、あらん限りの風変わりな理論を持ち出すであろう。示唆させてもらうなら、我々の立ち振舞から奇矯さを読み解くために、我々には精神科医による治療が必要である、等である。しかしながら、〔多くの人々がハーパー政権に怒っているように見えるのには〕極めて明晰な説得的事実が存在するのだ。以下が、十全に説明可能な単純なグラフだ。

CBCによる投票コンパスアンケート調査に答えた私の結果だ。4つの政党の主要政策論題が図示されている。政治的見解に関する一連の質問の解答に基いており、私は左上に位置付けされている。(ところで、もし私がこの場所に置かれたことに驚いた人がいるなら、私自身も驚いたのである)。ともあれ、この図おける関心事全ては、政党がどこに位置しているかにある。私の位置付けはどうでもいい。可視化されているのは、本質的に同じ投票先として3つの政党が競合していることと、保守党が右の分野に完全に単独で存在していることである。

今現在、我々が感じているフラストレーションは、有権者のほぼ70%が、左上1/4区画〔社会的革新・経済的左派〕に投票するとされている事に起因している。保守党に現ポジションが与えられている限り、今回の選挙は、単独の統一された中道左派政党があれば、たやすく政権交代が実現するだろう。しかしながらもちろん、もし本当に単独の統一された中道左派政党があれば、保守党はこのポジションにはいないでもあろう。

より知的なタイプの人々に特にフラストレーションを与えているものは、もし選挙で政策論題に焦点が絞られていれば、〔中道左派の〕票分離を克服するのは難しくないであろうことにある。その場合、新民主党とカナダ自由党への両投票者達は、より現実的になることで、自身の選挙区において、保守党に対して勝利するチャンスを最大化するよう候補者を支持するだろう。なぜなら、大きな絵図を見た場合の政策ということになれば、2つの政党間に端的にあまり違いがないのである。中道左派の2政党の分断の解消が困難である理由は、「党派性」「政治的アイデンティティ」「指導者の個人的資質」「候補者誰がしの父親からの遺恨」エトセトラ、エトセトラ…の要因からである。

いずれにせよ、大学人が不愉快である理由を理解するのに、風変わりな理論は必要ない。この件で、「エリート達」は通常のカナダ人の手が届かない場所にいるわけではない。それどころか、「エリート達」の立ち位置は、中庸の投票者に極めて似通っている。

投票が割れていることで追加言及するなら、Ali Kashaniによる動向が定まっていない選挙区に関する最近の研究に関心を示したい。新民主党とカナダ自由党の票分離が投影された結果、保守党候補の選出されている選挙区が存在する。特にAliが分析しているのは、現在、保守党がリードしている16の選挙区だ。そこでは、新民主党とカナダ自由党が合算されれば、保守党に十分に打ち勝つことができる。ただ、そこでは、新民主党とカナダ自由党の双方において、どちらかが際立って他候補の足を引っ張ることになっている。(なので公平に戦えるように、Aliは、8つの選挙区でカナダ自由党は新民主党に投票すべきであり、残りの8つの選挙区で、新民主党はカナダ自由党に投票すべきである、と分析している。)

この記事は、全てを読了することを推奨したい。

※訳注:訳者による注釈・補足は〔〕で括っている
※訳注:タイトルを直訳すると『なぜ我々はかくも怒り狂っているのか?』となるが、当時のカナダの保守政権を巡る論争に関して、日本語読者は馴染みが少ないと考え、副題を追加している。

  1. 訳注:カナダの公共放送であるCBCのニュースキャスター。アカデミアの象牙の塔ぶりを揶揄したり、やや保守寄りの言論を行うことで有名。 []
  2. 訳注:カナダ北西部の高原地帯の名称だが、付近にカナダの有名大学が多数存在している。 []

ラジブ・カーン「ピーター・ターチンへの10の質問:『歴史の方程式』は存在するか?」(2010年2月10日)

10 questions for Peter Turchin
POSTED ON FEBRUARY 10 2010 BY RAZIB KHAN

ピーター・ターチンは、生態学、進化生物学、ならびに数学を修め、コネチカット大学で教鞭を取っています。彼は5冊の本の著者です。その内の3冊『国家興亡の方程式』、”Secular Cycles”(『長期の世代循環』) 、”War and Peace and War”(『戦争と平和と戦争』)は、新分野「クリオダイナミクス(歴史動力学)」から得られたモデルの概説試案となっています。私は、『国家興亡の方程式』と”War and Peace and War“(『戦争と平和と戦争』)に書評を書いています。以下がターチンへの10の質問です。

Q1:あなたの最初の研究分野は、定量的な生態学でした。なにが、あなたを歴史動態のモデル化に転向させることになったのでしょう?

ある時点となりますが、生物個体群の動態における大きな問題の大部分が解決されている、ないしまさに解決されようとしているということを、私はハッキリ理解することになったのです。なので、私は”Complex Population Dynamics“(複合的な生物個体群の動態)に関する本を書くことになり、考えていた上記の問題の答えの統合を行いました。そして、よりやりがいのある分野への探索を始めることになりました。そこで判明したのが、まだ数学化されていない最後の科学分野は歴史である、ということです。まず最初に考えていたのが、単純に歴史の動態に関して幾つかの数学的モデルを書き出すことでした。趣味としてですよ。しかし、いったんこれをやってみたら、モデルの予測が、実データでテストできるかどうか見てみたくなったのです。非常に驚いたことに、歴史の進展に関しては、多くの定量的データが存在することが分かりました。つまり、モデルと理論のテストを行う事が、顕著に可能であることが判明したわけです。その結果、この件で、私の主目的は、机上の計算や、よりの厳密化を行うことよりも、「実証可能性」となりました。「私の理論は実データでテストできるか」が最優先興味になったわけですね。

Q2:あなたは、「クリオダイナミクス(歴史動力学)」という新分野の最前線にずっといます。新分野が必要なのでしょうか? 経済学者達が既に、「クリオメトリクス(計量経済史)」の最前線にいて、自前の理論的フレームワークを保持しているように思われるのです。あなた特有のフレームワークの付加価値は何になるのでしょう?

私は、「クリオダイナミクス(歴史動力学)」が必然だと確信しています。歴史の進展は非常に複雑です。経済的要素だけでなく、人口統計的、社会的、政治的、思想的、気候的、そしてその他多くの要素が関わっているのです。なのでおそらく、人は大規模な学問的分野にまたがるようなアプローチでもって歴史に相対すべきなのでしょう。科学的手法に従うようになることが、社会科学の最終到達点なのです。私は経済学者達に多くの敬意を払っていますが、多くの点で彼らは、歴史を扱って進捗をもたらすのを困難としています。例えば、最近まで、経済学者達は、「合理的経済人が破産するモデル」を扱いかねてきました。別の問題もあります。伝統的な経済学の理論は、あまりにも均衡に焦点を当てすぎています。このことは、経済学者に歴史の動態を扱いづらくさせているのです。この両障壁は、今や解体されつつありますが、未だに経済学者達は、「クリオダイナミクス・コミュニティ」の最前線にはいません。クリオダイナミクス(歴史動力学)は、歴史社会学者、人類学者、そして政治学者からなる非常に大きな領域を代表しているのです。

Q3:学問分野からの観点となりますが、あなたの研究に、最も肯定的な反応はどの分野からでしたか? また最も否定的な反応はどの分野からでしたか?

肯定的な反応は、上記に列挙した分野からありましたね。具体的には、歴史社会学、社会人類学と文化人類学、政治学、経済歴史学と社会歴史学、人口統計学です。否定的な反応は、これまでのところ実際にあまりありませんでした。主たる防衛的メカニズムは、私たちを無視することですね。歴史学者の95%が行っていることです。私にとって、気にするような事ではありません。実は、嬉しい驚きもありました。歴史社会学者と(推定)5%の歴史学者から肯定的反応が返ってきたことです。クリオダイナミクス(歴史動力学)の時代が到来している、ということなのでしょう。因みに、私たちは、今年、査読付き論文雑誌を始めています。

Q4:あなたがソ連で生まれたという事実は、歴史を科学的研究するというコンセプトを見開くことなったかもしれない、と私は推察しています。人類の過去を科学的に記述し、未来の予測を試みる、といったマルキストの思想形成のような、歴史の可視化を行えたのではないか、と。あなたの今の知的関心と、文化的背景の関係はあると考えていますか? それともないのでしょうか?

はい、ロシア的背景は、私の知的関心への強い貢献要因だと思います。しかし否定しておくと、マルキシズムは関係ありません。あなたに知って欲しい事があります。私が、歴史研究を始める前に、マルクス主義を完全に拒絶していた事です。これは私の家族的背景に由来してます。(私の父は、ソ連における人権活動家であり、1970年代後半に海外追放されているのです)。つい最近ですが、社会科学の研究者になったことで、私はマルクスの特定の洞察の価値を理解し、理論に組み入れることを習得しました。しかし、どんなに想像たくましくしても、私はマルキストではありません。ロシア的要素は(私が信奉する限り)、ロシア人は広大な思索家になる傾向、といった行動に現れます。ドストエフスキーが一度言っていたと思うのですが、「ロシア人の心は非常に広い。広すぎるくらいだ。俺はできるなら縮めたいよ」1 と。なのでロシア人は宇宙理論を生み出す傾向を持っています。(『ロシア宇宙主義』と今や呼ばれようになった、哲学一派すら存在します)。自身の研究において試みているのが、このロシア的傾向性と、アングロ・サクソンの実用性・経験主義の融合なのです。

Q5:あなたは、自身の学説で集団淘汰モデルを打ち出しています。しかしながら、私がなじんでいる限りあなたの研究内容は、文化的集団淘汰に焦点を絞っています。サミュエル・ボウルズによって提唱されている、狩猟採集民に関する血縁レベルの集団淘汰についてどう考えていますか? そしてそれの、農業的個体群への適応可能性についてはどう考えていますか?2

私が考えるに、集団淘汰メカニズムは、遺伝レベルと文化レベル双方で機能します。そして、もちろん遺伝と文化の相互作用に基づいたものとなります。この遺伝と文化による混合要因は、初期人類の進化においては、主に遺伝的要素が働いていました。現代は、文化的要素がより強く働くことになっています。しかしながら、遺伝的進化は未だに継続しています。なので、今日においても淘汰作用が、100%文化的ということありえないでしょう。私のクリオダイナミクスのサイトに査読前原稿があります。そこで私は、超大規模な社会性(数百万単位の個人が協力的な集団を形成する我々の能力)の進化に焦点を当てています。そして、そこでの私の主たる着眼点は、文化的集団淘汰です。

私たちが期待すべきでないことが1つあります。遺伝子と文化の間に綺麗に線引が行えるようになることです。この2つの情報伝達による共進化が、進化が作用する要所なのです。

Q6:あなたの農業社会を基盤にした政治形態の盛衰モデルについてです。モデルで、あなたは「高次の民族」アイデンティティの生成に関しては、制度的宗教の重要性を強調しているように思われます。歴史学者達によって言及されてきた歴史上の奇妙な現象の1つがあります。それは、世界的宗教の台頭が、紀元前600年から西暦600年の間に起こっており、さらにこの期間の後には、多数の宗教の台頭が比較的低位安定になった現象です。あなたは、この現象のパターンに関してなんらかの説明言説を保持していますか? それとも、説明すべきものは何もないのでしょうか?

事実、これは歴史における最も印象的なパターンの1つですね。そしてこの現象は、私の理論に非常にきれいに適応します。私自身に繰り返させるよりも、読者には私の最近の論文を読むことを勧めます。以下のURLに論文の再刊行版が掲載されています。
http://cliodynamics.info/PDF/Steppe_JGH_reprint.pdf
p.201からの「枢軸時代3 」の私の解説を読んでみてください。そこから続けて、「枢軸時代」期間の中東の部分(p.209)をチェックしてみてください。

Q7:レイ・ファンの著作”China: A Macro History“(『中国:マクロの歴史』)で言及されている事実に私は依拠しているのですが、それによると、中国では王朝と王朝の間の空位期間が、年代を経るごとに短くなっていっている、とのことです。これは、あなたの歴史進展のモデルによって説明可能でしょうか?

はい、可能です。世界の他の地域でも、同じ観察現象となって現れてるとのことです。ビクター・リーバーマンの著作”Strange Parallels“(『不思議な類似性』)の、最近出版された2巻によるとですが。思うに、国家の運営能力が文化的に進化しているという事例は、非常に説得力があります。おのおのの新国家は、白紙から始まっていません。過去の様々な試みの中で開発された政治統合の技術を既に備えているのです。結果として、政治形態の規模と統合は、時間とともに増大する傾向となります。そして、空位の期間は短くなっていくのです。

Q8:あなたは、歴史をまたいだ高次の民族的フロンティアの重要性に着目しています。
旅行とコミュニケーションが容易になった現代世界においては、空間的な境界線の価値は減っているように思えます。なので、文明はいくぶんですが、相互に入れ替えされていると思うのです。(例えば、第3世界における西洋人の飛び地居住、西洋社会へのイスラム教徒のディアスポラ(離散集住)、アフリカにおける中国人、等々…)。高次の民族的フロンティアの概念は、このような現在の状況にも転用可能ですか?

私は可能だと考えていますが、現段階では完全に根拠のない推測ですね。さきほど言及したビクター・リーバーマンは、別の際立ったアイデアを保有しています。それは、現代ヨーロッパ人の実態は「外見が白いアジア人」だというものです。どういうことかと言いますと、西暦1500年以後、文化進化の主要な中心地が、〔中央アジアの〕ステップ地帯のフロンティアから、ヨーロッパ人達の植民フロンティアへとシフトしたということです。 私たちは、おそらくいまだにこのシフトした同時代にいるのでしょう。だから、最も激しい文化進化が行われているのは、西洋社会が他の社会に侵略的影響を与えている地域ですね。

また忘れてはならないのが、民族・宗教的ディアスポラ(離散集住)は、近代性による発明ではないことです。より重要なことに、今日における情報流通は、その場限りではありません。なので、(イラクから数千キロ離れている)サウジアラビアに住んでいるような人が、アブグレイブ4 に関するニュースをリアルタイムで見ることができる。しかもおそらく視覚的なデータで。そして、その人は、イスラム原理主義ゲリラになることを決心するわけです。よって、私は、この基礎的な動力は未だに展開していると推測しています。しかも、この動力は、現在のコミュニケーション以前の動力と違い空間的に限定されていないのです。

Q9:現代のポスト・マルサス的世界についてです。過去の長期の世代循環から、我々が得ることができる、なんらかの洞察は存在するのでしょうか?

私の研究中の仮説は、「人口層構造理論」、「エリートの過剰生産」、「国家財政の脆弱性」の3つのメカニズムのうちの2つが、現実世界では引き続き機能しているというものです。次の質問の答えを参照してみてください。

Q10:あなたの次の大きなプロジェクトは何ですか?

私が今研究している主要プロジェクトは、1780年から現在までのアメリカ史における人口層の構造分析です。なので、上記の質問9で少し言及した仮説を、実証分析で裏付けるられるかどうかの検証を行う予定ですね。

※※訳注:訳者による注釈・補足は〔〕で括っている
※訳注:タイトルを直訳すると『ピーター・ターチンへの10の質問』となるが、馴染みの無い分野の記事内容と考え副題を追加している。
※訳注:本インタビューが行われた後、2016年に、ターチンは2冊の本を刊行している。”Ultrasociety: How 10,000 Years of War Made Humans the Greatest Cooperators on Earth“(『超社会性:戦争の1万年はいかにして人類を地球上でいまだかつてない協調者に仕立て上げたのか』)はQ5で言及している「超大規模な社会性(数百万単位の個人が協力的な集団を形成する我々の能力)の進化」を扱ってる。”Ages of Discord“(『不和の時代』)は、Q10で言及されている研究をまとめたものである。それぞれの本で扱われている内容の日本語による概略は、ココココココで読むことが可能。
※訳注:邦訳がない書籍は、原題の直後に訳者による便宜上の邦題を追加している。

  1. 訳注:『カラマーゾフの兄弟』の登場人物のセリフを指すと思われる。正確には「いや実に人間の心は広い、あまり広過ぎるくらいだ。俺は出来る事なら少し縮めてみたいよ」(岩波文庫版より)である。 []
  2. 訳注:訳注:『集団淘汰』という言葉に関しては、数十年前にほぼ棄却された後に、近年また別の形で復活していることに注意する必要がある。ここでカーンとターチンが話題にしているのは、後者の近年復活した『集団淘汰』のことではないかと思われる。
    古典的『集団淘汰』とは70年代頃までの、多くの生物学者の共通見解であった、群れ同士のあいだで行われる生存競争が進化を左右する、といった説である。この説は、個体間の利他行動が進化する理由を説明しやすい。個体がたがいに助けあう群れは、そうでない群れより生存に有利だと考えられるからである。しかし現実の生物は、群れ内部の個体間競争に勝つため、群れ全体にとっては損害となる進化をすることが珍しくなく、この説にそぐわない事実が多く指摘されることになった。
    そのため60年代半ばにハミルトンの包括適応度説(いわゆる『利己的遺伝子説』)が出現し、進化の基本単位を遺伝子とする血縁淘汰等での説明が主流となった。このことで、アリやハチの巣にみられるような利他行動の進化がこの説で説得的で説明されるようになり、集団淘汰説は廃れていくことになった。
    しかしハミルトン説で説明できるのは血縁者間の利他行動だけなので、人間が非血縁者同士でも助けあうよう進化した理由は、今に至るも大きな謎として残されている。ターチンが研究している、人間の超大規模な社会性の発達等である。この謎の解明の目的にさまざまな説が唱えられているが、その中には集団淘汰的発想を復活させるものも多い。人間だけなんらかの理由で集団淘汰により進化したとする説もあれば、遺伝子ではなく文化の進化が疑似集団淘汰的に起こるとする説や、遺伝子と文化の共進化という現象を想定する説もある。 []
  3. 訳注:哲学者カール・ヤスパースによって提唱された時代区分の名称。紀元前500年前後に、今にいたるも影響を与えている宗教や哲学思想が、世界各地で別個に同時多発的に発生した現象を指す時代区分 []
  4. 訳注:イラクのバグダッド近郊にあるアブグレイブ刑務所のことと思われる。イラク戦争渦中に、この刑務所を占拠したアメリカ軍は、ここで捕虜の虐待を行っており、マスメディアに報じられたことでアメリカ軍への批判が寄せられることになった。 []

ラジブ・カーン「デーヴィッド・フラムへの10の質問:ネオコンインサイダーかく語りき」(2017年2月1日)

10 Questions For David Frum
POSTED ON FEBRUARY 1, 2017 BY RAZIB KHAN

Q1:あなたのツイッターを見ている限り、自身をネオコンと見做しています。もしそうなら、ネオコンであるということは、どのような意味を持つのでしょうか?

より正確に言うなら、他人から見て分かりやすそうな分類方法なので、「ネオコン」名札を受け入れている、という感じですかね。私自身は、この言葉を、イデオロギー的な表現というより、経歴を表す用語として長い間見做してきました。これは私見となりますが、両大戦間期に生まれ、ニューディールの自由主義者として生い立ちを始め、後の1960年代と1970年代の社会激変の渦中に右派に主旨替えした特定集団の人達の説明として使用されてきました。アーヴィング・クリストル、ジェームズ・Q.ウィルソン、ダニエル・パトリック・モイニハンといった人でしょうか。これは、私の半生記にはまったくもって適応しないでしょう。しかしながら、長い年月を経ることで、この用語の形成に当てはまる人達が抱く信条の多くの要素を、私も共有するに至ったのです。信条とは、以下のようなものを含んでいます。

a)「社会保険制度は、自由市場社会を、弱めるよりも安定させる」との信条。
b)社会科学の手法と洞察への尊重
c)自由な世界秩序への責務は、アメリカの超越さとリーダーシップによって担われている。

Q2:ほぼ間違いないでしょうが、先進国における自由民主主義の見通しに関して、いくぶん悲観的な時代に、私たちは生きています。しかしながら、1930年代と違い、既存の思想に取って代わるようなイデオロギー共有が存在しないように思えるのです。今の時代は、朦朧としたままに過ぎ去ってしまうのでしょうか? それとも、なんらかの新しい思想運動の出現が、我らの時代の覇権的な制度として、自由民主主義に取って代わるのでしょうか?

イスラム世界を除けば、今はなんらかのイデオロギーの時代ではないでしょう。自由民主主義への主要なオルタナティブは、独占的権威主義ですかね。それは、人の熱狂に火をつけるような信条制度ではないでしょう。しかし、それは確実に力強く、堅牢で、効果的な制度ではあります。そして、この制度は、財産を既得保持してる人々には、強く魅力があるものなのです。

Q3:古代中国等においては、技術や能力に基いて選別された官僚の統治と、良き人格や美徳を信条とする為政者の統治、どちらが良いのか、といった議論がありました。ファリード・ザカリア1 らは、1960年代に前後してアメリカの政治制度が為政者の統治から官僚のそれに移行し、その事は私たちの民主主義の堅牢性の在り方に長期に渡って影響を及ぼしているであろう、と示唆しています。まず聞きたいのが、今日の私たちは、官僚の統治下にあると同意されますか? そして、もしそうであるなら、こういった官僚統治は、私たちを反自由主義に向かわせることになるかもしれないと考えていますか?

私たちが官僚の統治下にある、といった考えには同意できませんね。しかし、選挙で選ばれた政治当局者は官僚のアドバイスに依存するところが大きい、といった考えはハッキリ認めざるをえないでしょう。

Q4:あなたはカナダ人です。歴史的偶然性をひとまず置いておくなら、カナダの英語圏はアメリカ合衆国から独立しているべきである、といった考えを正統化することはできますか? 両国の深い文化的違いが、アメリカ人には理解できないような政治的独立を正統化するような根拠になっているのでしょうか?

独立すべきとか、統合されてるべきとか、言い出したのは誰かしら? 「あるがままに依拠している唐変木」とでも? 非常に多くのカナダの独立を正統化する事象があります。歴史の偶然性を理由にした…。ほとんどが歴史的偶然性によるものでしょう。優れて正統な理由がないのなら、あなたもこの件を弄ばないほうが良いですよ。

Q5:2000年代後半に、あなたは保守運動への参加に際して、なんらかの不和を抱えていましたよね。少なくとも、所属していた集団への掟破りらしきものを始めています。(例えば、あなたは、民主党の医療制度改革に対して、反対するより、調停擁護に回っています)。これは徐々なる転向なのですか? それとも「君子豹変」した瞬間があったのでしょうか?

当初は極めて徐々でしたね、その後に非常に突発的なものとなりました。私が1990年代初期に関心を持っていたのは、中産階級の生活水準に何か悪い事が起こっているという断片事実でした。これは今や、当たり前に認められている事実でしょう。当時、これは極めて異端な思想だったのですよ。少なくともウォールストリート・ジャーナルの社説面などでは。その時、わたしはそこで働いていました。このことは、大規模移民によるネガティブな効果に、私の関心を向かわせました。より異端的な思想でしょうが。

私にとって物事が急速に進み始めたのは、ハリエット・マイヤーズ2 が最高裁判事に指名されたことです。ホワイトハウスでの執務経験から、私は彼女を若干知っていました。彼女は多くの点で、優れた人でした。しかし、その指名は、驚くほど不適切なものだったのです。それは、誰にとっても自明であるべきでした。それは、誰にとっても自明だったのです。しかし、私たちのうちのほんの数人――ローラ・イングラハム3 が最初の門外の人ですね――しか敢えて異議言及しなかったのです。同調圧力が非常に険悪に深化していることを渦中で気付くのは、楽しいことではありませんでした。

次に、2008年の金融危機が到来することになりました。まずジョージ・W・ブッシュ政権によって、後にオバマ政権によって、積極的な政策措置が行われました。危機が加速度的に伝染し、グローバル経済が崩壊するのを防ぐ為に必要な措置だったでしょう。この危機の渦中、主流の保守派は、イデオロギー的な戒律に固執し、それは贔屓目に見ても見当違いなもので、最悪に考えれば大惨事になる可能性にあるものでした。その後に続くことになった長い悲惨な不況下において、保守派の解決策は、非人道的で、道理に反し、危険なまでに不安定だと、私には思えました。1930年代以来、最も長期にわたった失業の蔓延状態の期間においてさえ移民を拡張しようとした、『ギャング・オブ・エイト法案4 』試みなどを、保守派の間違いに含めることができるでしょう。トランプは、この期間の保守派の間違いが招いた代償の一部でしょう。私にはそう思われます。

しかしながら、遡ることができるなら、これら間違いの総ては、イラク戦争時の私の経験に突き当たります。そこでも大部分が間違えていました。集団浅慮5 が原因です。私は個人的に、二度とそのような集団浅慮の一翼にならないことを決心していました。

Q6:あなたは自著”Dead Right“(『死んだ右派』)において、ナショナリストが、将来の共和党の最も有力な構成要素になると示唆していました。ただ、あなたはこの予測を好んでいないようでした。この一世代において、これは正しくなかった予測のように思えます。政策的方向性において、共和党は未だに国際主義のままです。キリスト教的構成要素も、象徴性とレトリックとして未だ多くの注目を引きつけています。ドナルド・トランプが共和党をどこに連れて行こうとも仔細関係なく、2016年の大統領選は、ナショナリズムの勝利を予兆しているように思えるのです。1990年代に、ナショナリズムとポピュリズムが、1世代先の将来世代に輝かしい未来をもたらしそうだと、何か見いだせていましたか?

私が見出していたものですか…。それは、経済成長の可能性鈍化と移民の加速ですね。この組み合わせは、過去において幸せに終わったことはけっしてありませんでした。そして、今においても幸せに終わりそうにもないでしょう。

Q7:私たちを取り巻く世界を理解するには、2つの異なった方法があります。1つ目は、定量科学の形をとっています。統計回帰と仮説を扱う分野ですね。もう一方は、より心象に基づいたものです。史実に基づく物語的要素や、膨大な個別事象と事実を扱う分野です。もし何かあるとすればですが、あなたは政治学のような分野から何を学んでいきましたか? 政治学は規則的なモデルと、経験的なデータセットを扱っています。そして、あなたは歴史学のような分野からは何を学んできましたか? 歴史学は、物語的要素を論点化しています。

政治学から学ぶべきことはたくさんありますね。しかしながら、自身の思索は、歴史学と法学によって形成されていると認識しています。私は、歴史学と法学を最も体系的に学びました。歴史学において重要なことは、歴史が教えるくれるものと、そうでないものを区別することにあります。いわゆる「歴史の教訓」は、実際には非常に曖昧な指針です。私の好きだった先生は、「歴史は決してそれ自身を繰り返しません。細部に感心を払わない人にそう見えるだけなのです」と生徒たちに話していました。歴史の本当の価値とは、どのような経緯を経て今の時代に至ったのかであったり、現在の受難に我らをどのように位置づけるかを、深く理解することにあるのです。

Q8:次なる世代が、脱勤労世界の出現を見るかもしれないと同意されますか? もし同意されるなら、そのような世界における労働の過剰共有への、あなたの支持する解決策は何でしょうか?
(例えば、普遍的なベーシックインカム、それとも大規模な公的雇用プロジェクトなどがあります)

率直に言って、そのような世界は疑わしいですね。やるべき仕事は常に存在しています。人が仕事を行う為に、訓練され、インセンティブが与えられている限りは…ですが。

Q9:私たちは人間遺伝子工学とゲノム工学が大規模に進歩している時代に生きています。これら研究成果の詳細について論評する事よりも、私が興味があることがあります。それは、ワシントンDC内外の政治政策に関わるインテリ達が、大学内と民間セクターで起こっているこの研究成果に気づいてたり、関心があるのか、それともないのか、ということなのです。政治政策部署において、自然科学は分野の専門家に任せるべき論題として見做されているのでしょうか? もしくは、自然科学は、政治政策知見をより幅広くすることに、貢献したり影響を与えていますか?

自然科学は、政治的な審議においては、痛ましいほどわずかな影響しか及ぼしていません。申し訳ありませんが、こう言うしかありません。

Q10:若い頃からあなたの思想形成に影響を与え続けている、一冊の本は何でしょうか? 自身の例を挙げさせてもらうなら、マット・リドレーの1999年の本『ゲノムが語る23の物語』です。

たった一冊だけですか? それも若い頃の? 私が見出したのは、小説や詩が人の心に長い間留まるということです。以下引用の一文が、私たち皆に、いくばくかの慰めを与えるかもしれないですね。

「どんなに賢い人でも」と彼は私に言った、「若い頃のある時期に、あとから思い出して不快になって消してしまいたいと思うような言葉を口にしたりそんな生活を送ったりしたことのない人はいません。でも、それを一から十まで後悔する必要はありません。だって、曲がりなりにも賢いと言われる人間になれるかどうかは、そこに最終的に辿り着く前に、滑稽な人間やおぞましい人間になるという化身の段階をすべて通ったか否かにかかっているんですから。上流社会の人たちの息子や孫にあたる人たちね、そういう若者たちは家庭教師から精神の高貴さとか精神的な気品とかを中学のときから教え込まれるんですよ、私の知る限りで言えば。たぶんこういう若者たちが人生から削らなくてはならないものは何もありません。彼らは自分が言ったことを活字にもできるし、署名をすることもできるかもしれない。しかし、哀れな精神の持ち主だし、純理派(ドクトリネール)の無力な末裔にすぎません。こういう人の見識などマイナスに働く不毛なものです。そもそも見識というのは誰かから受け取るものではありません。それは自分で見つけなくてはならない。しかも、誰も代わってくれない道、誰も免除してくれない道を自分で歩いてからのことです。見識というものがひとつのものの見方だからです。あなたが素晴らしいと感じる生活やあなたが尊いと思う態度は、一家の父親や家庭教師に準備されたわけではありません。最初は周囲にはびこる悪いものや凡庸なものに影響されて、いろいろ違う形を取るのですね。そうした生活や態度が表しているのは戦いと勝利にほかなりません。若い頃自分の姿がどうだったかはもう判然としないけれど、いずれにしても不快なものだということはわかります。それでも、否定されるべきではないんです。だって、それは私たちがほんとうに生きてきた証であり、人生と精神を統括しているさまざまな規則に従って、画家で言えば、アトリエの生活とか芸術上のグループと言った生活上の月並みな要素から、それを超える何かを引き出してきた証左なのだから」

※訳注:訳者による注釈・補足は基本的に〔〕で括っている
※訳注:デーヴィッド・フラムはアメリカでは非常な有名人と思われるが、日本では著名でないと思われるため、副題を追加している。
※訳注:最後にフラムが引用している文章は、プルーストの『失われた時を求めて』の第2篇「花咲く乙女たちのかげに」の第2部の登場人物のセリフである。本エントリの引用箇所は光文社古典新訳文庫版から引用をさせてもらっている。

  1. 訳注:1964年生まれ、インド出身のアメリカで活躍するジャーナリスト。国際政治を題材にした著作で有名。邦訳書籍に『民主主義の未来――リベラリズムか独裁か拝金主義か』『アメリカ後の世界』等がある []
  2. 訳注:1940年生まれの弁護士。ジョージ・W・ブッシュがテキサス州知事時代の法律顧問を務め、ブッシュの大統領就任後は、大統領法律顧問に就任している。ブッシュによって最高裁判事に指名されるが、縁故採用、主な専門が企業間訴訟であったこと、等を理由に共和党内でも異論を呼び、上院承認前にマイヤーズ自身が大統領の指名を辞退することで事態の収拾を図る事となった。 []
  3. 訳注:アメリカで最も人気があるとされる保守系ラジオのパーソナリティ。 []
  4. 訳注:2013年に上院に提出された『国境安全、経済機会、および移民近代化法』のこと。共和党マケイン上院議員を筆頭に超党派の議員8人よって上院に提出されたため『ギャング・オブ・エイト法案』とも呼ばれている。国境警備の強化等と引き換えに、不法滞在の移民の永住権確保や、若年層移民への永住権の付与、移民の家族呼び寄せの迅速化等への道を開く法案。本法案は反対も多く、上院通過後に審議中となっている。 []
  5. 訳注:グループシンクとそのままカタカナ表記されることもある、集団による討議等で不合理な意思決定が行われることを意味する用語。 []

ジョセフ・ヒース「アメリカのナクバ:社会が無惨にも分断を抱え堕落してしまった『理由』」(2017年3月14日)

American Nakba
Posted by Joseph Heath on March 14, 2017 | politics, United States

私は最近、「スティグマ化」を扱った論文を書き終えた(ここで読む事が可能だ)。論文では、「貧困の文化」を巡って左派と右派の間で激しい応酬になっている論題の幾つかも扱うことになった。下層階級の人達は、自己破壊的な行動に従事する傾向にあるわけだが、そういった行動に対して「どこまで自己責任を追わねばならないのか」とか「どこまで自己責任を適用させるべきなのか」といった言説にまで関心を向けさせてもらっている。以上関心から、私は保守派による文化批判を読むことになり、デーヴィッド・フラムの本“How We Got Here: The 70’s: The Decade that Brought You Modern Life”(『我々は現状にどのように至ったのか:70年代』)にたどり着くことになった。この本は、発売した時に漠然と関心を寄せていたが、当時は読書するまでには至らなかったのだ。しかし書架からこの本を取り出した時に、読むのを楽しみしてることを自覚したのである。理由を挙げるなら、フラムは(保守政権の役職から排除されて以来)過去5年ないしそれ以上にわたって、アメリカの社会状況において、一貫して興味深い言説の主だったことにある。ただ、読み終えて、あまりに悪書であることに、驚愕することになった。悪書である原因の一端は、この本が2000年(すなわち、けっこう過去)に出版されている事にある。そして、フラムは、この本の出版期に比べて非常に賢明になってはいるようだ。さしあたり、下記では、一つの驚くべき一節に焦点を絞りたい。そこでフラムは、アメリカの自動車メーカーが、自社の従業員に関して悩まされたいくつかの事例を取り上げている。アメリカにおける製造業の黄金期とされている時代である。

フォードの組み立てラインでは、1970年には労働者の1/4が職放棄したのです。フォードとGMでは、1961-1970年にかけて無断欠勤が倍増しています。特に、1969-1970年には、非常に急激に増加することになりました。1970年の春、GMでは、5%の労働者が常に無断欠勤状態だったのです。金曜日と月曜には、労働力の10%までもが欠勤となって現れています。GMの最もトラブルを抱えていた工場(ボルティモアのシボレー製造工場)においては、常習的欠勤者は、1966年の典型日では3%でしたが、1970年には7.5%に上昇することになっています。不満を抱えていた労働者達は、製造車(特に高級モデル)を故意に破壊するに至ったのです。当時のフォーチューン紙は「ネジはブレーキドラムに残されており、取り付け金具は泥除け区画に溶接されたままであり(これは、なぜか発見が困難で、運転時に常にガタガタを引き起こさせることになった)、塗装には剥がれ傷があり、室内装飾は破れていた」と報道しています。(p.21)

さらに「1977年の159社へののアンケート調査では、調査開始の1952年からのいかなる時期よりも、職への不満が発見されました」と続けている。フラムは言及していないが、70年代初期のアメリカの組み立てラインの労働者間では、薬物使用も非常に蔓延していたことも、製造品質の顕著な衰退にも寄与していたのである。
(因みに、私は、アメリカ車の熱狂的なマニアに、価値があるモデルとそうでないモデルを解説してもらった事がある。価値割合は労働者の薬物中毒割合に大雑把であるが基づいている、とのことである。因みに、だいたい60年代後半くらいで、価値があるモデルとそうでないモデルの分岐点になっているそうだ。)
ともかくとして、個人的にこの事案で蒸し返す価値があるとすれば、皆がメキシコと中国から返ってきて欲しい「素晴らしき製造業」は、アメリカにあった時点で、現実的には素晴らしいものと当時は考慮されていなかった事にあるだろう。

「フォードの組み立てラインでは、1年に労働者の1/4が職放棄している!」
フラムにとってこの労働者の職放棄事例は、書籍内では「70年代の堕落した世代批判」として広く関連付けられて提示されることになってる。ここにおいて重要なのは、(いかなる時であれ)人の記憶事実と、該当人物による実際の過去の経験事実は、まったく異なっている事にある。
(この点で、記載しておく必要があるのが、フラムは1960年生まれであることだ。彼によって回想された70年代においては、彼は基本的には当時10歳代だったことを意味しているのだ。)

個人的にフラムの本で一番驚いたのが、「反動保守思想」の異常なまでの典型的事例だったことにある。フラムは、どうでもよい不満を執拗に繰り返しているのだけだと言ってもよいだろう。因みに、私も70年代はダイッキライだったのだが、フラムの不満とはまったくの別途理由からである。この本は、70年代に起こったとされている、アメリカが道義を失ったり、高い理想を裏切ってしまったり、堕落に至ってしまった出来事の、長~い長い個別単言リストにすぎない。奇妙な点を挙げるなら、フラムは「反動保守思想の公式」に異常なまでに厳密に固執しつつも、自身はテンプレを表明してしまっていることに無自覚に見えることにある。つまりは全体的な読書感は、ハーレークインロマンスなのだ。しかも、既にハーレークイン様式の書籍が大量に存在することをまったく知らない作家によって書かれたハーレークインロマンスである。読者にとって「お決まり文句」や「手垢に塗れた安易な手法」にすぎないものが、著者的には「衝撃的な新しい洞察」や「新しい切り口の解説」として表現されているのである。

この本の特異性をいろいろ考えた事で、私はマーク・リラ1 の近著『難破する精神 世界はなぜ反動化するのか』を読むに至った。リラの本は、この反動保守のテンプレ反応の論題で、優れた洞察をいくつも含んでいる。『反動保守』の思想は表明される全ての場合において、どれも似たようなテンプレートに従うのを、リラは巧く説明することに成功している。リラは本書において、進歩的左派と反動的保守派の対称性に立脚して議論を進めている。進歩的左派と反動的保守派は、理想的(ないし少なくとも劇的に改善された)社会のビジョンにコミットしているという事で、似通ってはいる。しかしながら、進歩的左派は、将来にこの理想を位置づけ、その方向に物事を推し進めようと邁進することになる。対照的に、反動的保守派は、この理想を過去に位置づけることになる。反動的保守派によると現代社会が、理想にまったく似ていないという事実は、堕落が起こってしまった帰結として説明されることになっており、「堕落は(特定時期のとある時に)起こったに違いなく、この堕落の渦中に、社会は『道を失い』理想から逸れてしまったのだ」とされているのだ。したがって、反動的保守派は、しばしば、進歩的左派と同じようなユートピアを目指す政策プログラムを支持することになる。そして、反動的保守派は、自身のプログラムを〔左派と同じであると〕認識することに失敗することにもなる。なぜなら、反動的保守派は、それを、「革新」としてではなく、過去の状態の「復興」として想定しているからなのだ。「復興」を達成する為に、反動的保守派が採用する、中心戦略の一つが、「文化批判」や「衰退の神話」となる。そこでは、大衆は自身がいかに間違えていたかを悟り、真実の道に人は帰還する希望込みでの「堕落の物語」が語られることになる。

今現在、この反動保守派の堕落の物語の創話において、フランスは、おそらく世界の最先端にいる。リラは、エリック・ゼムール2 の”Le suicide francais”(『フランスの自殺』)と、イスラム原理主義者の基本的な神話を比較検討した上で、本質的に似たような構造を有しているとして、興味深い主張を展開している。今日の状況において、反動保守の思想構造を理解することは、現在のイスラム原理主義達の思想を理解するのにも絶対的に必要であると、リラは主張しており、以下のように語っている。

今日のムスリム世界では、失われた「黄金時代」への信仰が、最も有力で重要なものとなっています。ムスリム世界の人々は急進的イスラム主義の文献を非常に深く読み込むことで、神話の魅力を絶賛するようになっているのです。彼らが魅了されている神話とは以下のようなものとなっています。
預言者ムハンマドの到来前の世界は、無知の時代、すなわちジャヒリーヤに陥っていた。〔当時中東にあった〕偉大な帝国は、多神教の不道徳に沈んでおり、〔そこに住まう〕キリスト教徒は生を否定する修道的禁欲主義を発達させており、アラブ人は迷信を信じている酔っぱらいにしてバクチ打ちにすぎなった。このような状況で、ムハンマドは、神による最後の啓示を伝える器として選ばれ、ムハンマドの啓示を受け入れたあらゆる個人や大衆の道徳を高めることになったのである。預言者ムハンマドに従った者たちと、初期の数人のカリフは、神の意思の完全な伝承者達であり、神の法に基いて新しい社会の建設を始めることになる。しかしながら、驚くほどあっという間に、この創設世代による聖なる力は失われることになった。そしてそれは、二度と回復されることはなかったのだ…。(p.140)

このイスラム原理主義者達の神話を現在にまで進めれば、大雑把であるが以下のように語られているとのことである

〔西欧による〕近代の植民地政策の狙いは、イスラム教徒を完全に宗教的戒律から離れさせた上で転向に追い込み、さらに不道徳な世俗的秩序を課すことにあった。新たなる十字軍は、戦場でムスリムの聖戦士と相対することよりも、近代科学やテクノロジーの小道具を単純に提供することで、ムスリムを魅了することを目的にしていたのだ。イスラム教徒が神を捨て、神の正統なる支配から逃れれば、西欧の新たなる十字軍は満足し、小道具をイスラム教徒に与える。世俗的近代の邪なる力は、ムスリム世界のエリート達に、「発展」への魅了として作用し、即座に効果を発揮する。この邪なる力は、女児を含むエリートの子供たちを、世俗の学校や大学に通わせることとしても、容易に作用するのである。ムスリム世界の世俗の暴君的権力者もまた、西欧と手を組みその支配下に入ることで、イスラム教の信仰を抑圧し、エリート層の世俗化を促進することになる。これら(世俗主義、個人主義、物質主義、道徳的無関心、専制政治)の影響力は全て重なり合い、新たなジャヒリーヤを到来させた。全ての信仰深いイスラム教徒が苦闘せねばならないジャヒリーヤなのだ。預言者ムハンマドもまた、7世紀の夜明け時には、苦闘している。預言者ムハンマドは、〔世俗化等に〕妥協せず、寛大にならず、民主化を行わず、発展を追い求めなかった。ムハンマドは、神の声を話し、神の法を制定した。なので、我々は彼の神聖なる規範に習うべきなのだ。(p.142)

リラによると、「こういった原理主義者の神話には、イスラム教徒の独自性がほぼ存在しない」とのことである。これは、反動保守のテンプレートが現れている端的な一事例だろう。リラは「この原理主義者の神話には、今日のイスラム思想の歴史・神学的理論をもってしても、「抗体」としてほぼ機能しえない」と主張している。

「抗体」は、この事象を扱うには最適な用語だと私も考えている。反動保守派による文献を読んでいると、同じテンプレートが何度も何度も登場するのに出くわすことになる。しかしながら、それらは皆、異なる時代、異なる社会のものなのだ。故にそれらを、精神を侵食するウィルスのようなものであると見做さないのは難しい。崇拝者が異常に感動する「奇跡的なヒーリングの物語」である。少なくともこれらは、大規模な誤謬の一種ではあろう。しかして追記しておくと、我々が保持する伝統や習慣には、過去回帰の魅了への抗体が一応備わっているのである。なので、フラムは、自身の本の最後から2番目のパラグラフで、70年代以前の時代も偉大な時代でなかったことを、若干ではあるがしぶしぶ認めて表明している。

一般的な物事において半世紀前の方が良いというのは、事実ではないでしょう。多くの面において物事はより悪かったのです。つまり、より軍国主義的であり、技術進歩は低く、国家はより抑圧的で、寛容さは低く、組合活動は活発であり、人道性は低く、偏向的な思想は蔓延していたのです。過去を懐かしむノスタルジアは、間違えています。そして仮に間違いでなくとも、ノスタルジアは、最も脆弱で無益な感情であり、敗北者における麻薬であり、無力な言説にすぎないのです。しかしながら、〔70年代以前は〕概して物事が良くなかったとしても、個別にはいくつかの物事は良かったのです。人が家庭や国家により忠誠を表明する時代であり、人がより読書をし互いに話し合う時代であり、人が自身のセクシャリティを抑制している時代であり、大学教授や学芸員が知性や芸術的基準を高めることを恐れていない時代であり、移民達が急速にアメリカ化されると期待されている時代であり、人が皆マイナスの感情でもって訴訟を起こさない時代であり、これらは良きことだったのです。(p.356)

上記のパラグラフは、興味深いの矛盾の混合体である。少なくとも、フラムによって言及されている物事と、その物事がどのように言及されているかの関係においては緊張的対立を孕んでいるのだ。引用箇所の2つめの文の中で、仰々しくそれでいて適当に羅列されている過去の「悪かった」とされている物事と、最後の文中にあるやけに詳細で感情的に「良かった」されている物事の一覧を比較してみてほしい。ノスタルジアに関しては(脆弱で、無用で、敗北主義で、無力だと)独特の強い糾弾が行われる一方、過去への極端なまでに都合の良い懐古主義的な見解のリストとも、突き合わせてみてほしい。フラムが、〔良き事として〕列挙されている2つ目のリストの項目のいくつかをマイナス評価してみれば、1つ目のリストで列挙されてる〔悪い事の〕いくつかを取り除く対価となるかもしれない、といった可能性をまったく考慮していないことにも着目していただきたい。(例えば、移民が「急速にアメリカ化」される期待が低下している様な状況では、アメリカは「寛容な」世相になっている可能性等である)。いずれにせよ、最後の文の論調が明示しているのは、フラムを実質的に魅了しているのが、何世紀にもわたって反動保守の思想家達を魅了してきた信仰でしかないということであろう。それでいて、フラムは、反動保守の信仰告白として受け取られる可能性を少なくとも自認してもいるので、そう解釈されてしまうことから逃れようとする生半可な試みで、このパラグラフは全体的に構成されてもいる。ここでフラムは、喚き立てる反動保守主義者では知的に尊敬されないと考え、少なからず何か別のこと提示せねばならないとの認識を示しているわけである。

さて、以下はこの件で、フラムに本についての最後の私的見解となる。「この本は基本的に、70年代に起こったあらゆる悪い出来事の個別単言リストにすぎない」と私が上で言ったのは、けっして冗談などではない。リストの品質に関しては、私が過去に読んだこの手の著作物で中でも、特筆して非論理的である産物であることで推察されたい。フラムが話題にしている悪い物事だが、全てにおいて彼はその物事の説明を試みないままに、単に話題から話題へと飛び回ることになっている。「説明」とは、その物事が起こった理由とか、物事の関係者の思惑が何であったとか、社会変化の幅広い流れの何が悪い物事の一部に位置づけられているのか、などである。以下がそのリストになる。
「裏切り者達はベトナム戦争を敗北させ」「人々は教会に行かなくなり」「女性は娼婦となり」「エゴイスト達は離婚し」「犯罪はコントロール不可となり」「アメリカ人達は訴訟にあけくれ」「裁判官たちは狂った判決を出すようになった」まだまだ続く…。
この本の最後の数ページで、読者は、フラムがなんらかの説明をすることや、これらの物事がなぜ起こったのかの熟考を拒否している理由を発見することになる。理由は、保守派が犯しがちな誤謬の別の一般的なテンプレとなって現れている。保守派が犯しがちな他の誤謬とは、「人の行動や態度の理由に、広範な説明のようなものを提示してしまう事は、行動や態度を甘やかす事を包括してしまう」といった考え方である。言い換えるなら「物事に対しては、個別個人に自己責任を付与させるために、説明めいた言辞を避けなければならない」とされている考え方である。
(これは私の「スティグマ化」論文で扱っている論題でもある)。フラムは以下のように語っている。

1970年代のアメリカに起こった様々な出来事がなんらかの巨大な世界的要因の産物であったとしましょう――たとえば避妊薬の発明による不可避な結果だったとか、第一次世界大戦の後遺症だったとか、「近代性」と呼ばれる何かだったとか――もしそうであるなら、我々は許されますかね? 我らの現なる実行以外に、何かを行いうる事は可能でしたかね? 我らの継続してきた出来事以外に、何か行いうる事は可能ですかね? なんらかの形の別の完全なるベストに至る結果を行うことはできましたかね? 男女のコントロールを超えた偉大なる歴史の力が、1970年代を具現化させたのはたしかに真実かもしれないですよ。それでも1970年代の発現は、個人の選択だったのです。それはあくまでの一個人が引き起こしたのであって、人が関与できない社会の力などではなかったのです。あくまで一個人が、ヘロインを買う為に街角で老母から強盗を行ったのです。そして、法の執行の緩和させることで、路上強盗という政策の代償に変じさせたのも、とある特定の人々や集団だったのです。特定の人々は、南ベトナムに弾薬と燃料の供給を拒否することで、おそらく戦争の流れを変じさせたのです。他の特定の人々は、アメリカに来た移民達が英語ではなくスペイン語で教育されるべきだと決定しました。さらにまた別の特定の人々は、アラブ諸国が価格統制の拡張によって石油の禁輸措置行おうとした時、価格統制を撤廃させずに、それを許容する選択を行ったのです。これらは全て「選択」であり、「選択」が全ての結果をもたらしたのです。他の「選択」が取られた可能性もあり、それは別の結果をもたらしていたでしょう。(p.351-352)

私は哲学者なので、以上の言説は、驚嘆すべき不合理の連なりにしか思えない。人気あるポストモダニズムの核心的信念の一つが、悪しき政治状況は、悪しき形而上学概念群の帰結であるとされている――なので、人が保持している悪しき形而上学的信念を矯正することでもってすれば、人はなんらかの形で進歩的左派にすっかり変じる、といったものとなっている。このポストモダニズムの見解は、不誠実さとご都合主義の両輪となり、私を常々驚かさせてきた(「ハンマーを持てば全てが打つべき釘に見えてしまう」というやつである)3 。他方で、上記の文章内におけるフラムをまさに、悪しき形而上学的見解の犠牲者として見做すことが可能だ。犠牲者として完全なる知的衰弱に陥っている。基本的に、フラムは世界について何も理解しようとはしないのである。異常に薄っぺらい表層理解を超えることは一切ない。なぜなら、人の行動を理解してしまうと、行動の説明が必須になってしまう。そして一度でも、人の行動が説明されてしまったら、関与した個々人が、その行動に際して自由選択を行ったことを否定していることになってしまう。そして、人の自由選択が否定された時には、人の道徳的責任の否定に直結してしまうからなのである。

ウギョエー!

誰かマジで、フラムにコンパティビリティズム4 の概念を解説してやるべきだ…(ヒュームでカントでもお好きにどうぞ)。

いずれにせよ、上記文章に、今日の保守の反知性主義の源泉の一つを見ることが可能だろう。例示して考えてみよう。〔今日の保守によると〕犯罪の「原因」は、犯罪者が法破りする意思決定に起因する、とされている。なるほど。しかしながらこう考えると、70年代に始まり、今世紀になって消え去ったアメリカ合衆国を襲った巨大にして尋常な恐ろしい犯罪の大波は、説明可能なのだろうか?
(ニューヨークの殺人率は1963年には10万人あたり7人だったが、1973年には22人に跳ね上がることになっている。1983年には、10万人あたり23人に、1993人には27人に上昇することになった。2003年になって、7人まで急低下することになっている。)
〔保守派の見解に従うなら〕この犯罪の大波現象は、何千人もの人々が突如自発的に人殺しを開始するようになり、続く2世代にわたって突如自発的に人殺しを継続し、そしてある日、人々は、突如自発的に人殺しを止めたということになるのだろうか? 説明としては、まったくもって非合理的で無益な言説だ。明白に、ここで保守派の分析は「規範的社会学」の行使となって現れている。――(人に自己責任を付与したい願望といった)道徳的関心が、分析に先入観をもたらし、強引な説明を課すことを許容してしまっているのである。この場合も、まったく説得力がない(自己勝手で、非説得的な選択)産物でしかない。いずれにせよ、こういった反動保守派の見解の全てが、自由意志と道徳に関する多くの度し難い混乱に明白に動機づけられている。

ちなみに、私がフラムの本にあまりに手厳しいとお感じの場合は、単なる一人の大学教授として、高い知的水準の維持を高めることに努めている、と見做すことで甘受していただきたい…。

※訳注:訳者による注釈・補足は基本的に〔〕で括っている
※訳注:タイトルを直訳すると「アメリカのナクバ」となるが、「ナクバ」は日本人には一般的でない単語と思われるので、副題を追加している。
「ナクバ(NAKBA)」とは、アラビア語で「大惨事」の意味する言葉。転じて、1948年のイスラエルの建国で大量にパレスチナ難民が発生した歴史的事件に対して、パレスチナ人達は屈辱を伴ってこの言葉を使うようになった。
転じて、アメリカにおいて保守派を中心に「70年代の様々な社会現象によって、アメリカ社会は堕落・分裂してしまった」との趣旨で「アメリカのナクバ」と呼ばれることがある。

 

  1. 訳注:1956年生まれのアメリカの政治学者。コロンビア大学教授。政教分離の研究等で有名。邦訳書籍に『シュラクサイの誘惑』『神と国家の政治哲学』等がある []
  2. 訳注:フランスの右派の作家・ジャーナリスト。ジャン=マリー・ルペンが「信頼できるジャーナリスト」と名を挙げたことで有名。 []
  3. 訳注:「ハンマーを持った人にはあらゆる事象が打つべき釘に見えてしまう」つまり「なんでも説明できるが故に何も説明できていない」といった考えを表す欧米でよく使われる比喩表現 []
  4. 訳注:コンパティビリティズム:「柔らかい決定論」と訳されることもある、自由意志と決定論が両立する哲学上の立場。 []