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テレサ・フィンリー,ラファエル・フランク, ノエル・ジョンソン, ステリオス・マイカロプーロス 「革命の経済的帰結: 1789年フランス革命からのエビデンス」(2017年12月2日)

Theresa Finley, Raphael Franck, Noel Johnson, Stelios Michalopoulos, “Economic consequences of revolutions: Evidence from the 1789 French Revolution“, (VOX, 02 December 2017)


政治革命は短期的な経済変化につながる速足の体制転換をもたらすことが多いが、その長期的帰結はさほど明らかではない。ある人はいう、革命は資本主義的市場の成長への地盤を固めるのだ、と。またある人はいう、革命はその性質上政治的なものであって経済的帰結は限定的だ、と。本稿は、フランス革命からの広範なエビデンスを活用しつつ、革命の影響というものが国や時代によって大きく異なる旨を示してゆく。制度変化・格差・長期的経済発展。本分析は発展途上国にとっての懸案であるこれら三者の関係を詳らかにする。

革命そして暴力的政権交代は、「アラブの春」 といったごく最近の事例であれ、「1789年フランス革命」 といった遠い過去の出来事であれ、アカデミック界隈から多くの関心を寄せられてきた。これらの大きな政治的断絶は、影響をこうむった社会の政治と経済の軌道における変曲点だと認識されているのだ。

しかしながら、こうした分水嶺的な事件は、該当人口の大多数の生活条件にも諸般の長期的帰結をもたらすものだったのか、またそうした帰結あったならばいかなる形でもたらされたのか、これらの点については諸説紛糾しているのが現状だ。さて、本稿でフォーカスを合わせるのは 「1789年フランス革命」 である。色々な意味で、フランス革命はこれら問題を検証するさい覗き見るべき理想的なレンズだといえる。記録資料が比較的豊富に存在するだけでなく、発生から十分な時が経過しているので、革命政策の中・長期的な影響の双方を評価することが可能だからだ。

フランス革命の経済的帰結

フランス革命の経済的遺産に関する大半の研究は、ふたつの対立する陣営に分かれる。一方にあるのは、フランス革命の担ったフランス経済を近代へと誘う役割を強調する一連の研究である。この役割は、封建制度の撤廃・法制度の単純化・商業と工業にたいする伝統的支配と財政的障壁の縮減 に顕現している。こうした視点は、Thiers (1823-1827)、Guizot (1829-1832) またMarx (1843 [1970]) といった思想家を嚆矢としながら、20世紀と21世紀においてもJaurès (1901-1903)、Soboul (1962)、Hobsbawm (1990) などの広い意味で左寄りの学者をとおしてその脈絡を保ってきた。彼らはフランス革命を、工業や商業におけるブルジョアの利害の、土地所有貴族にたいする勝利と見る。ごく最近でも、土地再分配を扱ったRosenthal (1988) や、フランス革命のドイツにおける帰結を扱った Acemoglu et al. (2011) といった実証研究が、この見解に信憑性を与えている。

他方で、こちらはもっぱら古典自由主義的ないし保守的な知識人だが (例: Taine 1876, 1893、Cobban 1962、Furet 1978、またはSchama 1989)、イングランドやドイツといった先進工業国と比較して、フランスは1914年になるまでもっぱら農業的なままだった点を重視する人達がいる。彼らの主張では、フランス革命は貴族とブルジョワジーのあいだの経済的利害の違いによって動機付けられたものではなく、むしろ政治革命なのであって、これに社会経済的な反響が付随したのだという。フランス革命はじつのところ 「反資本主義的」 だった (Cobban 1962)、またそう考えればこそ19世紀をつうじてフランスに農業国的特徴がしぶとく残ったことも説明できる、とこのように彼らは訴える。

本稿執筆者の一部による近年の実証研究は、これら互いに背馳する見解の融和を図るもので、革命政策がフランスの各県 (departments: 合衆国の 郡 counties に相当する行政区分 – フランス革命期に創出) にたいし相異なる影響を及ぼした経緯にフォーカスを当てている。一方の研究はフランス革命初頭に起きた教会財産の没収・競売を利用したもので (Finley et al. 2017)、他方の研究は1792年の夏以降に加速した亡命者 (émigrés) の逃避行動にフォーカスを当てつつ、地方エリート構成の変化が経済パフォーマンスにもたらした帰結を評価している (Franck and Michalopoulos 2017)。われわれはいずれの研究においても、農業用土地保有の分布が19世紀と20世紀をとおしての経済発展の形成において担った、時間-変化的な役割を強調している。

フランス革命期における教会財産の再分配

1789年11月2日にフランスの憲法制定国民議会 (French Constituent Assembly) で決定された法律により、全ての教会財産が没収され競売をとおして再分配された。続く5年間で、70万件を超える教会領 (ecclesiastical properties) – フランス領土の約6.5%に相当 – が、歴史学者Georges Lecarpentier (1908) の言う 「フランス革命で最も重要な事件」 において売却されたのである。

Finley et al. (2017) では、場所により大幅に異なる教会財産没収状況を利用することで、制度改革の成功にたいする初期段階の財産権配分の重要性を調べた。つづいて本実証分析は、Bodinier and Teyssier (2000) が収集した革命による教会保有地没収の高度に細分化されたデータを、1841年から1929年にかけて継続的に執り行われた幾つかの農業サーベイ調査のデータと結合した。本データセットはフランスにおける (86県の中の) 62県の194区 (districts) をカバーする。図1が示す通り、これら区に占める教会領の割合は0%から40%と様々であった。

図 1 土地の没収

さて結果だが、競売に掛けられた教会保有地が多い地域圏 (regions) ほど19世紀における土地格差が大きいことが判明した。それだけでなく、この富の偏りが19世紀中期までには農業生産性および農業投資の水準の相対的な高さと結び付くに至っていたことも明らかになった。具体的には、再分配された教会保有地が10%多い区は、小麦生産における生産性が25%高く (図2を参照)、パイプ製造業者が約1.6倍になっており (干拓・灌漑のプロジェクトで使われた)、休閑地は約3.8%少なかった。なお本論文では、いくつかの実証戦略を施行することで識別力の向上をめざしている。そうした戦略には、12の地域圏-固有効果についての調整、ジャガイモ収穫量を用いたプラシーボ分析の実行、12世紀に確立された司教領 (bishoprics) にたいする各区の近接性に依拠した操作変数分析の実施 などが含まれる。

図 2 小麦収穫量

本研究はさらに、革命による土地の再分配が農業生産性に及ぼした有益な影響が19世紀の流れの中で徐々に落ち込んでいったことも明らかにしている。これは図3に図示した。この結果は、封建制につきものだった財産権の再配分にまつわる取引コストを、その他の区も徐々に克服していったことと整合的である。

図 3 革命による没収が農業生産性に及ぼした継時的な影響

フランス革命期の移住の影響

フランス革命期に見られた封建制終焉のもうひとつの側面が、亡命者の逃避行動である。10万人を超える個人が革命の暴力から逃れるためフランスを離れたのだが、これら個人は大方が 「旧体制 (Old Regime)」 の支持者だった。図4に図示したのはGreer (1951) が収集したデータだが、1789年から1799年にかけての各県における亡命者の空間的分布を示している。移住率の差異のうち外生的と考えてよさそうなものを確保する目的で、本稿執筆者のうちの2人 (Franck and Michalopoulos 2017) は、1792年夏のあいだの気温ショックに関する地方的差異を利用している。この年、第二革命として知られる革命的暴力の波が、ルイ16世の幽閉そして1792年9月21日における第一共和制の宣言において最高点を迎える。われわれが取った識別戦略のロジックは、経済状況の差異と暴力加担の機会費用をリンクさせた関連文献の、優れた発展に負っている。気温ショックが農業産出量を減少させた限りで、(18世紀フランス人の主食であった) 小麦の価格上昇は、フランス人口における相対的に貧しい階層のあいだでは騒擾を激化させ、それにより衰退する君主勢力を支持する富裕層のあいだでは移住を増幅させたはずである。図5が示すところ、大きな気温ショックを経験した県では人口中で移住した人の割合がじっさいに大きくなっていた。なお、ここでの気温ショックは、1972年夏の気温の、標準的な諸気温水準からの偏差を二乗した値で代用している。

図 4 フランスの県ごとに見た、人口に占める亡命者の割合および1972年夏の気温                             出典: Greer (1951)

図 5 第二革命期における各県の亡命者割合および気温ショック (1972年夏)

図6に図示したのが本研究の主たる成果だが、移住が後続する200年間の比較的発展に及ぼした、非-単調的な影響が露わになっている – 移住度の高い県は一人あたりGDPが19世紀のあいだ相対的にかなり低くなっていたが、このパターンは20世紀をとおして逆転する。より精確にいえば、ひとつの県の人口に占める亡命者の割合が0.5%増加すると、1860年には一人あたりGDPが12.7%減少していたのが、2010年には一人あたりGDPが8.8%増加するようになったのである。

図 6 亡命者の割合が 1860年・1930年・1995年・2000年・2010年 の一人あたりGDPに及ぼした影響 〔本稿には1860年と2000年の分しか掲載されていない〕

この逆転の原因は部分的には農業用土地保有の構成変化に帰しうる。本研究は19世紀中期以降に継続的に執り行われた農業に関するフランスの国勢調査を活用し、移住度の高い県では今日に至るまで大規模土地所有者が相対的に少なかったことを明らかにしている。大規模私有地の優勢のこうした退潮、そして小農民の伸長が、機械化の少なさを介して農業生産性にマイナスの影響を与えたのである。

本研究はさらに、19世紀をとおして移住度が高かった県では、人口に占める富裕な個人の割合が、亡命者の相対的に少なかった地域圏と比較してかなり小さかったことも明らかにしている。十全の財産の持った個人が、資本集約的な生産の時代における一定の臨界量に達していなかったこと。これも19世紀をとおして移住度が高かった県に見られた工業化水準の低さを説明するものかもしれない。とはいえ、1881-1882年にかけて国家としてのフランスが無償義務教育の制度化を成し遂げたあと人的資本の蓄積が起こったのは、これらの初期段階で立ち遅れていた県であり、これが20世紀後半における相対的に大きな所得に結実したのである。

フランス革命・格差・成長

全体的にいって、われわれが行った最近のふたつの実証研究 (Finley et al. 2017, Franck and Michalopoulos 2017) は、Galor and Zeira (1993) とGalor and Moav (2004) の理論研究との関連性を持つ。これら理論研究は、富の格差が発展の過程において非-単調的な役割を担うことを主張する。成長が物理的資本の蓄積に駆動されており、資本市場が不完全なばあい – それがまさに19世紀だったのだが -、より少ない個人の手の内により大きな富が集中することが成長には有益なのである。逆にいえば、資本市場の不完全性が存在するのなら、人的資本が成長の駆動力となったときにこそ、より小さな富の格差をとおし、教育を受けた労働者のより大きなプールが実現可能になる。

フランス各地の構造的変容と教会保有地再分配の水準、そして移住の激しさ。本研究はこれらをつなぐひとつのリンクを明らかにすることで、1789年革命の経済的遺産に新たな光を当てた。より一般的にいうなら、本分析は発展途上国にとって – 歴史的にもまた今日的にも – 問題であるところのもの、すなわち 制度変化・格差・長期的経済発展 の関係をめぐる懸案、これを詳らかにするものとなった。

参考文献

Acemoglu, D, D Cantoni, S Johnson, and J A Robinson (2011), “The consequences of radical reform: the French Revolution”, American Economic Review 101(7): 3286-3307.

Bodinier, B and E Teyssier (2000), “L’événement le plus important de la révolution, la vente des biens nationaux”, Société des études robespierristes et Comité des travaux historiques et scientifiques, Paris, France.

Cobban, A (1962), The social interpretation of the French Revolution, Cambridge University Press, Cambridge, UK.

Finley, T, R Franck, and N D Johnson (2017), “The effects of land redistribution: evidence from the French Revolution”, Working paper, George Mason University.

Furet, F (1978), Penser la révolution française, Gallimard, Paris, France.

Franck, R, and S Michalopoulos (2017), “Emigration during the French Revolution: consequences in the short and longue durée”, NBER Working Paper 23936.

Galor, O, and O Moav (2004), “From physical to human capital accumulation: inequality and the process of development”, Review of Economic Studies 71(4): 1001-1026.

Galor, O, and J Zeira (1993), “Income Distribution and Macroeconomics”, Review of Economic Studies 60(1): 35-52.

Greer, D (1951), The incidence of the emigration during the French Revolution, Gloucester, MA: P. Smith.

Guizot, F (1829-1832), Histoire générale de la civilisation en Europe depuis la chute de l’empire romain jusqu’à la révolution française, Paris: Pichon et Didier.

Hobsbawm, E J (1990), Echoes of the Marseillaise: two centuries look back on the French Revolution, London: Verso Books.

Jaurès, J (1901-1903), Histoire socialiste de la Révolution française.

Lecarpentier, G (1908), La vente des biens écclésiastiques pendant la révolution française, Paris: Alcan.

Marx, K (1843 [1970]), Critique of Hegel’s Philosophy of Right, Cambridge University Press, Ed. Joseph O Malley.

Mathiez, A (1922-1924), La Révolution française, Paris: Librairie Armand Colin.

Rosenthal, J-L (1988), The fruits of revolution. Property rights, litigation and French agriculture, 1700-1860, Cambridge, UK: Cambridge University Press.

Schama, S (1989), Citizens: a chronicle of the French Revolution, New York: Random House.

Soboul, A (1962), Histoire de la Révolution française, Editions Sociales, Paris.

Taine, H (1876-1893), Les origines de la France contemporaine, Paris: Bouquins [2011].

Thiers, A (1823-1827), Histoire de la révolution française, Paris: Lecointre et Durey.

原註

[1] 両研究の発見を織り合わせるなかで本稿執筆者の一部が明らかにしたところ、地方エリートが教会財産の没収からどれだけの利を得られたかは、フランス革命期にどれだけの移住が見られたかに決定的に依存していた (Franck and Michalopoulos 2017)。具体的にいうと同研究は、移住が土地集中度に及ぼしたマイナスの影響が、より多くの教会保有地が競売に掛けられたエリア、ほかならぬこのエリアにおいて増幅していたことを明らかにした。

マルセル・ファシャン, アナ・ヴァーシュ, ペドロ・ヴィセンテ「投票行為とピア効果」(2018年3月3日)

Marcel Fafchamps, Ana Vaz, Pedro Vicente, “Voting and peer effects“, (VOX, 03 March 2018)


投票率は、政治面でひとびとを代表した政府を選出するにあたり、大変重要である。しかし投票率は、数多くの社会規範や自らが選挙の要となる票 (pivotal vote) を投ずる可能性にも左右される。本稿では、モザンビークにおける2009年選挙での投票率増加をねらったあるキャンペーンの実証データを利用して、これらふたつの経路にピア効果が及ぼす影響の形態を検討してゆく。本研究結果は、情報把握度と政治関心に対する正のピア効果を明らかにしたが、他方では投票率に対する負の効果も浮き彫りとなった。後者はおそらく、全体的な投票率が増加するにつれ自分の票が問題となる見込みが薄くなることに投票権者が気付いてしまうため生ずる効果だと考えられる。

人はなぜ投票するのか? 投票権者が政治的選出過程に参加することの個人レベルの合理性はこれまでしばしば疑問視されてきた – 決定票を投ずる人物でないかぎり、投票行為は投票結果にまったく影響しないのだから (例: Feddersen 2004)。しかしながら、誰も投票していないのに選挙アウトカムだけは有権者の選好を反映している、などということもありそうにない。そこからの帰結として、投票行為が市民的義務の一種と見做されることもままある。とはいえ、一部の国 (例: ベルギー・ブラジル・ペルー) が投票行為を法的な義務としているのは確かだが、ほとんどの国はそうしていない。したがって選挙参加の水準は、投票行為に関してその時々に機能している社会規範、ならんで投票権者が自ら決定票を投ずる人物になる確率をどのていどと見込んでいるかに左右されると考えられる。そしてこれら双方に影響を及ぼす可能性があるのが、ピアからの感化作用なのだ。

1980年代中頃以降、政治選挙の数は世界中で増加してきたが、投票率のほうは急激な低落に見舞われている (World Bank 2017: 228)。こうした傾向がとりわけ著しいのがサブサハラアフリカだが、2010-15年のギャラップ世界世論調査によると、同地で選挙の公正性を信じている人は人口の45%に満たないという。モザンピークはこの悩ましい現象を如実に描き出してくれる。1994年に初めて選挙が開催されたが、そこでの投票率は88%だった。以後、モザンビーク解放戦線 (FRELIMO) とその後援を受けた大統領候補者が全ての国政選挙で勝利を収めており、その得票率のほうも時とともに増加している。そして投票率は、初めての選挙から10年後の2004年の時点で、36%にまで落ち込んでしまっていた。

モザンビークにおける投票率増加キャンペーン

こうした傾向を逆転させる試みとして、2009年の選挙期間中、投票権者教育キャンペーンの効果の研究をめざす無作為化対照試験が実施された。キャンペーンをつうじて選挙過程への信頼を再び確立し、これにより投票率を増加させることができれば、というのがねらいだった。数字を額面通りに受け取るならば、キャンペーンは功を奏した。平均的すると、キャンペーンをつうじて処置地域の投票率は5%増加したのである (Aker et al. 2017)。キャンペーンはみっつの異なる形態で実施された。ひとつ目は、該当選挙に関わる中立的な情報にフォーカスした無料新聞の配布である。ふたつ目は、テクストメッセージによるホットラインで、選挙関連問題があれば市民はここに通報することができた。みっつ目は、該当選挙に関わる情報を供給するリーフレットとテクストメッセージをつうじた、市民教育だった。

以上のフォローアップを行った論文 (Fafchamps et al. 2018) で我々は、この介入の成功が部分的には正のピア効果に由来するものなのかを検討した – というのも、もし市民が市民的義務を果たすために投票しているのなら、同教育キャンペーンはこの義務をより顕出的にすることで投票参加への社会的圧力を創出している可能性があるからだ。我々は各村落内部においてキャンペーンが惹起したピア効果、これにフォーカスを絞り、キャンペーンの効果が、同村落においてキャンペーンの対象となった個人と社会的ないし地理的に近しい人物について相対的に強くなっているかを調べた。結果変数としては、投票行動・情報把握度・政治関心 に関する個人レベルのサーベイ調査測定値、および政治参加に関する行動測定値を活用した。ピア効果の推定にあたり、我々は社会と地理の近接性に関するみっつの測定値を用いた。第一は 親族関係 (kinship) であり、これは該当村落でサンプルとなった人のうち回答者と親族関係にある者の比率に対応する。第二は 世間話 (chatting) であり、これは該当村落でサンプルとなった人のうち回答者が頻繁に会話する者の比率に対応する。第三に 地理的近接性 (geographical proximity) であり、これは回答者の住居と該当村落でサンプルとなった他の人の住居との平均距離 (を負にした値) で代用した。

ピア効果の影響

予想されていた通り、教育キャンペーンは平均的に見て投票率を増加させていた (Aker et al. 2016)。ところがこの効果は〔近接性の値が大きいという意味で〕中心的な個人ほど小さくなっていたのである。我々は、投票参加に対する負のピア効果を明らかにした。これと対照的に、情報把握度と政治関心に対するピア効果は正であり、キャンペーンの平均的効果と軌を一にしている。

我々の解釈では、これら発見は政治参加にコストがかかるモデルと整合的である。この枠組みにおける投票行為は、選挙過程に影響を与える確率だけでなく、市民意識といった非-手段的な動機からも誘発されうる。選挙の信用性に関する情報提供をつうじて、キャンペーンは投票権者に選挙過程の公正性を信じてもらおうとした。そうすることで、キャンペーンは市民意識の昂揚も引き起こしたかもしれない。両効果はともに投票行為を促進する性格のもので、キャンペーンの平均的な効果とも軌を一にしている。ところがピア効果は投票行為に対するこの正の影響を緩和してしまう可能性がある。それは中心的な投票権者が、キャンペーンのおかげで投票率が増加するので、政治的に容認可能な選挙結果を得るために自分の票が必要となるていどは少なくなると気づいてしまったばあいである。そうした状況では、これら投票権者は他の人の政治参加にフリーライディングする意思決定を行うかもしれない。

モザンビークでは、2009年選挙で誰が勝利するかについて疑問の余地はなかった。したがって投票権者は自らが選挙結果を決する要となるなどとは予想のしようがなかったはずだ。それでもなお、投票権者が、該当村落の投票率やどれほどの票差を付けての勝利かといった、その他の選挙アウトカムを気に掛けていた可能性はあるだろう。投票率の低さや票差の小ささが政府への不服を示すものと解釈される余地はある – むしろありそうだとさえいえる。こうした解釈は回り回って何らかの形の懲罰 (例: 地方公共財供給の削減) につながるかもしれない。このような政治環境にあっては、選挙の要であるというのは、もはや選挙の勝者を決す票を投ずることと同義ではない; ここで要であるというのは、それを下回ればコミュニティが報復に直面する閾値を上回るように、投票率ないし票差を動かすことを意味するのである。本データが示唆するところ、票差に基づくこの要の論理はモザンビークにおける政治参加決定因子のひとつであった。本実証データは、選挙参加に対する負のピア効果を要の論理をとおしたフリーライディングと見る我々の解釈を裏付けている。

以上の研究結果から投票権者教育キャンペーンの設計に関する幾つかの含意が得られる。社会的ネットワークが、選挙への関心といったソフト面でのアウトカムに対する処置効果を増幅する傾向を持つのは確かだが、それは投票意図に関する情報を周知させることで投票率を減衰させ、それによりフリーライディングを惹起しかねないのである。

参考文献

Aker, J C, P Collier, and P C Vicente (2017), “Is information power? Using mobile phones and free newspapers during an election in Mozambique”, Review of Economics and Statistics 99(2): 185-200.

Fafchamps, M, A Vaz, and P Vicente (2018), “Voting and peer effects: Experimental evidence from Mozambique”, Economic Development and Cultural Change, (forthcoming).

Feddersen, T (2004), “Rational Choice Theory and the Paradox of Not Voting”, Journal of Economic Perspectives 18(1)” 99-112.

World Bank (2017), World Development Report 2017: Governance and the Law, IBRD/The World Bank, Washington DC.

 

 

アンドレス・ロドリゲス・ポーセ「問題外の土地の逆襲」(2018年2月6日)

Andrés Rodríguez-Pose, “The revenge of the places that don’t matter“, (VOX, 06 February 2018)


恒常的な貧困、経済的な衰退、機会の欠乏。これらは凋落する地域に不満を引き起こすものである。ところが政策立案者は、成功した集積経済 (agglomeration economies) こそが経済ダイナミズムを突き動かしているのであり、都市再生政策はすでに失敗したと考えている。本稿では、こうした不満のために、これら 「問題外の土地 (places that don’t matter)」 の多くが政治的ポピュリズムの波及という形で反旗を翻している旨を論ずる。こうした動向は、社会的というよりむしろ強い領域的 (territorial) な基盤を持っている。いま求められるのは、潜在性を汲み上げることで、これら 「問題外の」 土地に住む人達に機会を提供するための、より優れた領域的開発政策である。

2008年10月16日、当時シンクタンクCentreForumで働いていた経済学者のティム・レウニグが、リバプールの大聖堂に姿を現した。そして、不安と困惑に包まれたリバプール人の聴衆に告げた。経済的にいえば、かれらが生まれ育った街の時代は、すでに終わっているのだと。イングランド北部の市や郡は 「国内平均や英国で最も成功している町に立ち遅れ」 ており 「都市再生政策は町の再生に [すでに] 失敗している」(Leunig 2008)。

イングランド北部では歴代の政権が開発の促進をめざし大規模な公的支出を行ってきた。しかし、結果は惨憺たるものだった。繁栄を謳歌するイングランド南部と凋落にあえぐ北部の経済的ギャップは、むしろ広まっていたのである (Martin et al. 2016)。開発政策は機能しておらず、したがって停滞や凋落が見られる英国内のこうしたエリアについて、開発戦略の再考が必要となった (Leunig 2008)。

そこで提案された解決策は至ってシンプルなものだった。まず、同国地域であって繁栄を謳歌し活発な展開を見せているところ (ロンドンと南東部) に注力する。つぎに、「リバプール、サンダーランド、等々といったところに住む人達」(Leunig 2008) が、供給された機会から利益を得るため、もっと豊かな土地に移動する。

レウニグは自ら聴衆の面前に姿を現した。この聴衆は、礼節は守るとはいえ基本的に敵意に満ちたものだったろうから、かれの示した勇気は相当なものだといえよう。しかしながら、そんなレウニグも気づいていなかったことがある。それはかれに先立つあるいは後を追う多くの学者も同じなのだが。つまり人々にたいし、かれらがどんな場所で生活し、どんな場所に帰属感を抱いているかなど問題外なのだと告げれば、きっと反発を生むだろうということだ。

ところが世界規模の反発は予想されていなかった方面からやってきたのである。近年 「問題外の」 土地の一部では、置き去りにされた、機会も無ければ将来の見通しも立たないといった感情に抗って、投票権を使った反乱に踏み切るところが増えている。個人間の格差にフォーカスした研究者 (Piketty 2014など) は、こうした反発 – その前例はタイや一部のラテンアメリカ諸国にすでに見られていた (Roberts 1995) – は、富裕層と貧困層の対立となると予測していたかもしれない。しかし実際に起きたのは、立ち遅れや凋落の見られる地域が、繁栄を謳歌している地域と異なる投票を行うという事態だったのだ。

以上のような問題外の土地の逆襲 (Rodríguez-Pose 2018) をわれわれは、英国の2016年ブレクジット投票、合衆国の2016年ドナルド・トランプ選出、2016年オーストリア大統領選挙、2017年フランス大統領選挙、2017年ドイツ総選挙に見いだすことができる。この逆襲は、最も活発な街や地域の繁栄を助けてきた、経済と社会の安定を転覆させかねない気勢を示している。

図 1 選挙における問題外の土地の反発

出典: Rodríguez-Pose (2018).

果たしてこれは驚きか?

世界規模のポピュリズム勃興の相はつとに出ていたのだという主張は今後も絶えないだろうが、政治家や主流派大学人はまだ驚きから立ち直っていない。かれらにとってポピュリズムのこのような膨張はまったく不意打ちだった。ポピュリズムの権力への上昇にも、それが突き付ける挑戦にも、後手後手となった。幾つか例外はあれ、われわれは誤ったタイプの負の外部性に注目し、ある重要な形の格差を見落としてきた。移動に関する個人の能力と意欲を過剰に見積りつつ、数多くの立ち遅れエリアの経済的潜在性を見落とし、あるいは無視してきたのである。

  • 誤ったタイプの負の外部性。経済地理学や都市経済学の研究が明らかにするところ、集積 (agglomeration) は、それがもたらすあらゆる利点の代償として、さまざまな負の外部性を惹起する可能性がある。従来われわれは、高い地代・混雑・汚染をそこでの主な負の外部性と見做してきた。これらが発展を窒息させる原因となりうるのは確かだが、これまでのところ本当のコストは多くの非集積エリアにおける予想外の社会経済的困窮だった (それが実際のものであれ、あくまでそうした認識に留まるのであれ)。
  • 領域的格差をほとんど関連性のないものと見做していること。ポピュリズム流行以前の格差懸念は、もっぱら個人間の格差をめぐるものだった (Sassen 2001, Piketty 2014)。1970年代以降、富は、ピラミッドの上部に位置し、いよいよ極一部となってゆく個人のもとに集中しつづけており、社会における経済的二極化の激化を生じさせている。だが、ブレクジット投票や、ドナルド・トランプおよびエマニュエル・マクロンの選出について、個人間格差が決定的な役割を果たした旨を示すエビデンスはほとんど存在しない。ポピュリズムが最も支持されていたのは最貧困層のあいだではなく、長い期間にわたり凋落に苦しんでいた貧困地域や貧困エリアの組み合わせだった。反発しているのは問題外の土地であって、「問題外の人達 (people that don’t matter)」 ではなかったのである。個人間格差も依然として問題だが、体制への挑戦は放置されてきた領域的格差から来ている。
  • 個人の移動能力と移動意欲を過剰に見積もっていること。 ティム・レウニグがリバプール人に南東部への移動を奨励した時、つまるところかれは都市経済学における前提を表明していたのである。すなわち、移動能力はタダだと。あるいは少なくとも、職を得るチャンスが限られている土地に留まるより、移動のほうが好ましいと (Kline and Moretti 2014)。しかし移動能力を奨励し、あるいは活発なエリアでの住居確保を容易化しても、そうしたエリアへの移動者数は増加しそうにないようである。立ち遅れや凋落の見られる地域に留まる人達が転居することは、生活する土地への愛着・年齢・十分な技能や資格の欠乏など、他にもあろうがこうした理由のために、なさそうなのではないか。
  • 立ち遅れや凋落の見られるエリアにおける経済的潜在性の見落としていること。問題外の土地はしばしば 「錆びついた地帯 (rustbelts)」 や 「飛行機で上から眺めるだけの州 (flyover states)」 と形容されてきた。経済学者の主張によると、「貧困あるいは非生産的な土地を助成するのは、貧しい人達に資源を移転する手法としては不完全である」(Kline and Moretti 2014)。とはいえ、立ち遅れや凋落の見られるエリアであっても、経済的な潜在性がまったく無いところはほとんどない。かつて立ち遅れていたエリアの多くは今や牽引地域となっている。これにたいし、以前の牽引地域が凋落する例も時折あった。Barca et al. (2012) の主張によると、「中堅エリアおよび立ち遅れエリアの活用されていない潜在性を汲み上げることは、総合的成長を阻害しないばかりか、実に地方レベルと国レベル、双方の成長を向上させる可能性がある」 のである。さらに、支援を必要としている土地から、より大きな繁栄を謳歌しより活発でもある土地へと関心をシフトさせれば、見捨てられた空間に困窮と怨恨が生じ、投票権をとおした逆襲の種を蒔くことになる。

問題外の土地の逆襲に対処する

問題外の土地の逆襲 – ポピュリズムの急速な勃興に反映されたそれ – は、現在の経済政治体制にたいする深刻かつ現実的な挑戦の現れである。賭金は大きい。しかし解決策は僅かだ。

何もしないというオプションはない。この問題の根にある領域的格差は今後も拡大を続け、社会・政治・経済の領域での緊張を高めるだろうから。国内移住が実行可能なのは、レウニグの提案にもあるように、十分な技能を持つ者に限られると思われる。

複数の大規模な集積区に賭けるのも、安全ではない。先進国でも、成長の原動力として大都市がつねに最も活発だとはいえない (Dijkstra et al. 2013)。発展途上国では、成長なき都市化がいよいよ常態と化している (Jedwab and Vollrath 2015)。

権力を脱中心化しつつ発展度の劣る街や地域へ委譲する方策にも、残念な経済アウトカムが出ている (Rodríguez-Pose and Ezcurra 2010)。既存の社会政策と福祉政策に固執すれば、恒久的に依存的な人口集団と領域が生じかねず、これが経済成長を停止させ社会と政治の緊張の高まりにつながる可能性もある。

最も現実的なオプションを提示するのは、立ち遅れ凋落するエリアに向けた開発政策である。これは政策の量の増加ではなく、政策の質の向上を意味する。こうした政策は各領域の潜在的発展性の最大化をめざすものとなるだろう。それは理論とエビデンスの堅牢な基礎づけをもち、人間基盤アプローチと土地基盤アプローチを結合しながら、地方の利害関係者に自らの未来をよりコントロールできるような力を持たせる (empower) ものとなるだろう (Iammarino et al. 2017)。

こうした政策で関連リスクを減少できる保証は無いが、それでも個人や労働者が豊かに栄えるための機会を向上させる絶好のチャンスにはなる。こうした政策オプションを無視すれば、経済的発展機会を迂回したあげく、問題外の土地の逆襲が経済・社会・領域をめぐる長引く軋轢として完全に正当化されてしまうような世界に漂着してしまうかもしれない。こうした事態は、われわれの現在と未来の厚生の礎たる、経済・社会・政治の基盤を侵食せずにはいないだろう。

 

参考文献

Barca, F, P McCann, and A Rodríguez-Pose (2012), “The case for regional development intervention: place-based versus place-neutral approaches”, Journal of Regional Science 52(1): 134–152.

Dijkstra, L, E Garcilazo, and P McCann (2013), “The economic performance of European cities and city regions: Myths and realities”, European Planning Studies 21(3): 334-354.

Iammarino, S, A Rodríguez-Pose, and M Storper (2017), “Why regional development matters for Europe’s economic future”, Directorate-General for Regional and Urban Policy working paper 07/2017, European Commission.

Jedwab, R and D Vollrath (2015), “Urbanization without growth in historical perspective”, Explorations in Economic History 58: 1-21.

Kline, P and E Moretti (2014), “People, places, and public policy: Some simple welfare economics of local economic development programs”, Annual Review of Economics 6: 629–62.

Leunig, T (2008), “The regeneration game is up“, The Guardian, 13 August.

Martin, R, A Pike, P Tyler, and B Gardiner (2016), “Spatially rebalancing the UK economy: The need for a new policy model”, Regional Studies 50(2): 342-357.

Piketty, T (2014), Capital in the twenty-first century, Harvard University Press.

Rodríguez-Pose, A (2018), “The revenge of the places that don’t matter (and what to do about it)”, Cambridge Journal of Regions, Economy and Society 11(1): forthcoming.

Rodríguez-Pose, A, and R Ezcurra (2010), “Does decentralization matter for regional disparities? A cross-country analysis”, Journal of Economic Geography 10(5): 619-644.

Sassen, S (2001), The global city: New York, London, Tokyo, Princeton University Press.

 

エドワード・グレイザー, ジャコモ・ポンツェット「投票ブースにおける根本的誤謬」(2017年9月18日)

Edward Glaeser, Giacomo Ponzetto, “Fundamental errors in the voting booth“, (VOX, 18 September 2017)


つとに心理学者は、我々がひとびとの行為を状況よりも生得的な特性に過剰帰属させてしまうことを実証してきた。本稿では投票者としての我々がこの「根本的帰属誤謬 (fundamental attribution error)」に陥るとき、政治家の成功を、再当選に値するような属人的特性へと過度に結び付けてしまうことを示す。この誤りには通常時における政治家のインセンティブを改善する可能性がある。とはいえ本理論は、制度改革の欠乏や、報道の自由にたいする要望の減少ならびに独裁制の選好といった粗雑な制度的選択も説明する。

2017年4月、トルコの投票権者は現職のレセップ・エルドアン大統領の権力を相当に強化する憲法レファランダムに賛同した。モスクワとマニラでは、権威主義的な指導者が強力な大衆的支持のもとで統治を行っている。直近の合衆国大統領選挙でも、多くのアメリカ人がこれらと似通った流儀のリーダーシップへの嗜好を顕わにした。

政治理論家とくらべると、多くの投票権者は行政権力にたいする制約への関心が遥かに薄いように見えるが、それは何故だろうか? 1930年代のドイツ・オーストリア・ハンガリー・スペインにおいて、あれほど多くの市民が独裁制への要求を表したのは何故だろうか? 大衆的な権威主義受容のひとつの説明として、投票権者は 「根本的誤謬」 に陥っているというというものがある。投票権者はこの誤謬に導かれ、政治家の挙動はインセンティブや状況などではなく、生得的な特性によって決定付けられていると信ずるようになる。この誤謬に導かれた投票権者は、民主制インセンティブの価値を過小評価し、優れた成果を収めている現職者の生得的な性質を過剰評価するようになる。

根本的帰属誤謬

心理学者はほぼ50年もの長きにわたって、つぎの前提を裏付けるエビデンスを整備してきた。すなわち、傍観者はアウトカムの原因を、状況的要因ではなく、生得的な属人的特性に帰す傾向があるという前提だ。なお、ここでいう状況的要因には運不運とインセンティブの両方がふくまれる。嚆矢的研究のなかでJones and Harris (1967) は、被験者にたいし、カストロを支持するエッセイ、カストロに反対するエッセイ、これら両方の執筆を命じた。その上で観察者には、執筆者はカストロの支持に回るよう指示されている旨が伝えられた。それでもなお、観察者は執筆者にたいし生得的なカストロ支持感情を認めたのである。

固定した属人的属性の役割を過剰に強調する傾向はあまりに基本的なものなので、それは 「根本的帰属誤謬 (fundamental attribution error)」 と呼ばれるようになっている (Ross 1977)。この仮説のニュアンスをめぐって心理学者はしばしば論争を繰り広げてきたが、投票権者が現職者にたいし、過剰な評価を与えたり、現職者のコントロール外で起きた出来事について非難したりすることについては、ほとんど疑問の余地がないようだ。Wolfers (2007) の発見によると、アメリカの投票権者は、恵まれた産業トレンドや石油価格高騰といった幸運な経済変動の分も現職知事の評価につなげていたという。

我々の新たな論文では、この 「根本的誤謬」 を古典的な政治エイジェンシーモデルに導入しつつ、それにより独裁制を支持する意欲の過剰、および権力への制約 (たとえば自由で独立した報道) を確保すべく闘争する意欲の過小がうまく説明できることを示した (Glaeser and Ponzetto 2017)。なにより投票権者にはこの誤謬に抗うべき理由がほとんどない。その原因は、投票権者には政治知識に投資するインセンティブがほとんどないことと、短期的に見るならばこの誤謬は便益ももたらし得ること、この両方である。

政治エイジェンシーと独裁制への要望

じつのところ根本的帰属誤謬には、政治家が通常の状況で直面するインセンティブを強化するという陽の側面がある。合理的な投票権者は、望ましからぬ成果が運不運やその他の一時的な状況を反映している可能性が十分あることを理解している。そのため、かれらは凡庸な成績も寛容に受け入れるかもしれないが、こうした寛容性は政治家に凡庸であれと勧めるものともなりうる。根本的帰属誤謬に陥っている投票権者は、成果の乏しさを全面的に政治家その人に帰責するので、失態の選挙的コストを引き上げ、行動の改善を誘発する。

通常時には、この半合理的性も無害あるいは有益でさえあるかもしれないが、憲法の書き変えが行われる場面では、根本的誤謬のコストは膨大になりかねない。ちょうどナチスドイツの時代にその可能性があったように。優れた成果を収めており、もっと恒久的な権力を自らに与えるように規則を書き変えたがっている政治家、これを考えて見よう。現実には、この現職者の成績は運不運とインセンティブの組み合わせを反映したものだろう。そしてこのインセンティブを生みだすのは再当選を求めるかれの願望である。ところが根本的帰属誤謬に導かれた投票権者は、この指導者の成功が生得的で不変の能力と善意のおかげだと考える。能力と善意は、一時的に選出されているにすぎないこの指導者が恒久的な独裁者となれば、この先も力を持ち続けるだろう。

合理的な投票権者ならば、制約無き権力は腐敗するだろうこと、指導者の成績にしても選挙インセンティブが無くなってしまえば劣化してゆくだろうことを認識しているはずだ。しかし根本的帰属誤謬に陥っているとき、投票権者は指導者の過去の成績が未来の卓越を保証すると信じ込んでいる。かれらが信頼しているのは人物であり、制度ではない。だから民主制を廃止し、「大人物 (big man)」 で挿げ替えることをすんなりと受け入れるだろう。

専門性にたいする投票権者の不信

合理的な投票権者は、経済的な出来事を解釈して、リーダーシップから運不運の影響を腑分けすることの難しさを理解する。その帰結として、かれらは好況と不況の原因の腑分けを助けてくれる独立した専門家や報道の自由に価値を見いだす。ところが、最近のある世論調査の発見によると、アメリカ人の53%、そしてトランプ支持投票者の71%は、「政府の為すべきことは、所謂 『専門家』 よりも一般的なアメリカ人のほうが良く理解している」 との意見に同意している (Edwards-Levy 2016)。

根本的帰属誤謬はこの専門性への不信も説明する。誤謬に陥った投票権者は独立的な専門家の必要性をほとんど認めない。自分の経済的困難は、ホワイトハウスが無能なのか、かれらの運命に無関心なのか、そのどちらかの反映だと信じているからで、労働需要の広範なシフトを反映したものだとは考えていない。根本的帰属誤謬に陥った投票権者は、国を動かしているものの正体を自分は知っていると自信過剰なまでに信じ込んでいる – つまり政治的リーダーシップの質だ。その帰結として、かれらはシグナルからノイズを分離する試みにほとんど価値を認めないのである。

大衆的政策の誤り

根本的帰属誤謬は投票権者の政策選好を説明する手掛かりにもなる。たとえば交通の分野だと、この誤謬は投票権者をして、他の人の行動は比較的固定したものであって、インセンティブの結果ではないと信じ込ませる。その帰結として、かれらはピグー税により有害な行動が実際に削減できることを疑うだろう。中心的な都市における渋滞課金 (congestion charge) といった古典的なピグー税と直面したとき、投票権者は支払う料金が高くなるという陰の側面は認めるだろうが、移動時間の削減という陽の側面は認めないだろう。

初めスウェーデンの投票権者はストックホルムにおける渋滞課金に敵対的だった。しかし2006年になると、試験的に料金が導入される。ドライバーは交通量の削減を体感し、レフェランダムが開催されると、中心的都市の住人はこの課金を支持した。この世論のシフトにたいする説明としては、投票権者は初め課徴金が行動を変化させる力を疑っていたが、ドライバーがこのインセンティブの変化にどのように対応するかを目の当たりにして考えを改めたというのが、最も自然である。

ドライビングパターンは比較的固定していると考えているばあい、投票権者は新しい交通インフラストラクチャーの便益を過剰評価することにもなるだろう。かれらは同じ交通量がより大きな道路空間にわたり拡散されると期待し、その帰結として自らに便益があると考える。初めDowns (1962) が主張し、つづいてDuranton and Turner (2011) が実証的に示したように、車両走行距離 (vehicle miles travelled) は高速道路の敷設にともない急速に増加する。その帰結として、新たな高速道路の便益もドライブの増加のために急速に消滅してしまう。この行動反応の予見を怠ることで、投票権者は敷設を過度に好み、課金にたいし過度に懐疑的になる。

結論

経済学者は、人はインセンティブに反応するという思想を注入されている。マクロ経済学の基礎クラスでは、物価の行動に作用する形態を学生に教え込む。だからおそらく我々は驚くべきではないのだ。経済学者ならぬ人が、つまり物価を行動に結び付ける数々の曲線を何ヶ月もかけて潜り抜けた経験などない人達が、人間の行動はもっと不可変的なものだと信じていたとしても。

根本的帰属誤謬が投票権者をミスリードしているならば、憲法の変更はゆっくりと、そしてその時の現職者のキャリアとは切り離して行われるべきだ。投票権者は指導者の生得的な性質を誤って過剰評価するのだから、どんな指導者による独裁制でも支持する可能性があるのだが、それでもなお、平均的な指導者は 「玉石混淆 (mixed bag)」 だと正しく理解しているので、抽象的な地平では独裁制に反対するかもしれない。その帰結として、投票権者は現任の大統領を利する憲法の変更について考察するばあいには、誰とは知らぬ将来の大統領を利する憲法の変更について考察するばあいより、はるかに誤謬に陥りやすくなる。憲法の変更は、それが現職者の助けにならないくらい十分にゆっくりとしたものならば、誤謬を回避できる可能性が高くなる。往々にしてそうであるように、時間は合理的意思形成の友なのである。

根本的帰属誤謬が通常の政策立案をめぐる意思形成を妨げる傾向は、政策実験の増加をつうじて覆しうる。ストックホルムの住人は渋滞課金がドライブ量を削減することを理解するようになった。それはかれらが渋滞への価格付けを経験したからだ。大型高速道路の敷設など、施策の中には実験に向かないものも一部ある。そうしたばあいは近過去からのエビデンスを強調することが、我々の取り得る最善の方策となる。

根本的帰属誤謬はあらゆる専門家にたいする警告を含んでいる。それは報道機関の専門化か、大学研究機関の専門化かを問わない。たとえ我々が我々の知識に確信を抱いているにせよ、一般の投票権者はそうではない。その帰結として、我々は絶えず自分達の価値を証し立ててゆかなければならないのだが、おそらくその最善の手段は、もっと多くの客観的な事実を提供し、イデオロギーの提示はもっと少なくすることである。

参考文献

Downs, A (1962), “The law of peak-hour expressway congestion”, Traffic Quarterly 16(3): 393-409.

Duranton, G and M A Turner (2011), “The fundamental law of road congestion: Evidence from US cities,” American Economic Review 101(6): 2616-2652.

Edwards-Levy, Ariel (2016), “Americans don’t think the government needs ‘experts’”, Huffington Post, 12 December.

Glaeser, E L and G A M Ponzetto (2017), “Fundamental errors in the voting booth”, CEPR Discussion Paper No. 12206.

Jones, E E and V A Harris (1967), “The attribution of attitudes”, Journal of Experimental Social Psychology 3(1): 1-24.

Ross, L (1977), “The intuitive psychologist and his shortcomings: Distortions in the attribution process”, Advances in Experimental Social Psychology 10: 173-220.

Wolfers, J (2007), “Are voters rational? Evidence from gubernatorial elections”, mimeo, University of Michigan.

 

ジョン・ダニエルソン 「暗号通貨が腑に落ちない」(2018年2月13日)

Jon Danielsson, “Cryptocurrencies don’t make sense“, (VOX, 13 February 2018)


どうも暗号通貨というものは、貨幣と投資の新しいより優れた姿だと想定されているらしい – 未来のやり方というわけだ。しかしながら本稿執筆者には、暗号通貨の趣旨がいまいち掴めない。既存の不換紙幣や優れた投資に幾らかでも勝るものだとは思えないのだ。

これまで私は暗号通貨の趣旨を理解しようと努めてきたが、成功していない。暗号通貨は喫緊の金融安定性問題ではないのかもしれない (den Haan et al. 2017) が、私にはそもそもが解らないのである。

そんな私にも分かる範囲でいうと、どうも暗号通貨はつぎの要素を組み合わせた何かなのだと想定される:

  • 一種の貨幣;
  • 投資;
  • プライバシーとセキュリティーとエフィシエンシーを提供してくれる何か;
  • 以上とは別の、新しくて魔法のようで神秘的な何か。愚かなためか、あるいは年をとりすぎたためか、これが私には理解できないのだが。

暗号通貨は貨幣なのか?

われわれは何のために貨幣を必要とするのか? ポイントは3つある:

  • 取引の円滑化;
  • 価値の貯蔵;
  • 最後の貸付 (lending of last resort).

ならば如何なる形の貨幣であれ、これら基準に照らして評価すべきだろう。

われわれは歴史の中で様々な物を貨幣として用いてきた。貝殻、煙草、銀、金。これらは皆、稀少な実物資産であって、その使用者たちにとっては価値があり、小型の物が入手可能だったので取引も容易に行えた。

だがもはやそうした貨幣を持つ国はいない。これに代えて現在われわれの用いているものが不換紙幣である。内在的な価値を一切持たない通貨。政府の印刷した紙きれ。その量は金融システムをとおして増幅されている。それが価値を有するのは何故か。ひとえに政府がそれに価値があることを保証するからである。

信用のある近代的中央銀行が発行した不換紙幣は、金といった実物資産に遥かに勝る。その理由としては、不換紙幣の供給は経済に最も良く資するように調整し得るのであり、ある種の自然資源の生産に支配されている訳ではないという点に負うところが少なくない。ところが暗号通貨の量はこれと同じように調整することができない。

もちろん、政府には不換紙幣を濫用しこれを過剰に印刷することへの誘惑がある。ちょうど不換紙幣の一番初めの創出者である中国の政府が13世紀に行ったように。もっと最近だと、1970年代のスタグフレーションも各国中央銀行が悪しき貨幣管理者だったために起きたのだった。

当時の各国政府は信用できないものだったので、幾人かの思想家が自由金融制度を提言した。たとえば1977年のハイエク。現在の暗号通貨の論争の先駆けをなす議論である。それでもなお、金融政策の進歩のおかげで結局われわれは1980年代までには比較的安定的な貨幣を手にすることとなった。

さて、暗号通貨は前述の貨幣の基準をどの程度満たしているのか?  その基準とは: 価値の貯蔵・取引の簡便・最後の貸付、この3点であった。

まず取引の用途に関して、暗号通貨は大幅に劣る。現金での取引にはコストが掛からないし、即時的である。電子取引は非常に安価に済み、これも即時的であり、如何なる額面でも行い得る。

ところがビットコインは取引に一時間以上も時間が掛かる。コストは最低でも25ドル。そして然程匿名的でもない。そう、たしかに暗号通貨の中にはもっと多くのエフィシエンシーやプライバシーを約束するものもある。しかし、よしそうであっても、ビットコインでさえ受領 (accept) してくれる人が見つかるまでに長い時間がかかる可能性があるなか、ましてや競合通貨を用いるとなれば必要となる時間はそれより遥かに長くなる。それに加え、暗号通貨で取引できる最大額など、不換紙幣で取引できる最大額とくらべれば、大人と子供だ。

では価値の貯蔵はどうか? 暗号通貨も不換紙幣もともに何ら内在的価値はない。重要なのは信頼性 – すなわち、時が経っても該当貨幣がその価値を保持してゆくだろうという期待である。

不換紙幣についていうと、各国中央銀行は年あたり2%の減少率でその価値を安定的に保つことにコミットしている。主要な中央銀行はトラッキングエラーを長い時間にわたり小さく保つことにかなり成功してきた。

ビットコインその他の暗号通貨はこの点で大きく劣る。これら通貨の価値はものの数日のスパンで倍化しあるいは半減する。自分の保有する暗号通貨は翌週もその価値を保つだろうなどと、およそ確実性をもって述べ得る者はいない。月や年のスパンについては言わずもがなである。暗号通貨を保有する者がいるなら、それは投機目的でそうしているのであって、価値の貯蔵のためではない。

かくして、危機の最中に金融機関にたいする流動性供給を行う最後の貸付 (LOLR) が置き去りにされる。これはウォルター・バジョットが1873年に著した1866年危機の分析この方、中央銀行の本質的機能の1つとなってきた。LORLが最後に用いられたのは2008年。無論、この先もいずれ再び必要とされるだろう。こうした融資枠 (facility) は、いずれの暗号通貨にも存在しない。

暗号通貨が貨幣であるとしても、それは既存の不換紙幣に遥かに劣るものである。

暗号通貨は投資か?

暗号通貨は不換紙幣とそろって 「ポンジ・スキーム」 と呼ばれてきた。「ポンジ・スキーム」 は、既存投資家への支払が新規投資をもってなされる投資、と定義される。暗号通貨も不換紙幣もこの定義に当て嵌まらない。

しかし、そもそも暗号通貨は投資なのだろうか? それは投資という語で何を言わんとするかによる。

株式や債券の価値は、適切な形で現在価値に割り引いた将来所得を反映している。暗号通貨や不換紙幣はそうではない。こちらには何ら内在的価値がない。こちらの価値を生みだすのは、まず稀少性、そしてマイニング費用または政府の約束である。とはいえマイニングは埋没費用であって、将来所得の約束ではない。

暗号通貨が価値を保つ理由は、現在われわれがそれに認めているのと同じ価値、あるいはそれを上回る価値を、将来他の人も認めるとわれわれが期待しているからに他ならない。ちょうど切手の蒐集と同じだ。切手の価値はどこから生まれるのか。それは稀少性、そして将来の投資家は現在のわれわれより大きな価格をそれに与えるだろうという期待、この2つからである。

暗号通貨が投資であるとしても、それは株式や債券とは形態が異なる。それは切手の蒐集も投資であるというのと同じ意味での投資なのである。

しかしながら、よしそうだとしても、大抵の人は少額を除き不換紙幣を直接に価値の貯蔵に用いてない。最も控えめにいって、不換紙幣は銀行口座や国債の形で保持することができ、こちらは利子が付くのである。政府そのものと同じくらい安全な投資。一定の安定した利率におけるこの様なリスク無しに近い貸付の可能性。これが暗号通貨には無い。

だから暗号通貨が投資だとしても、それは不換紙幣や株式や債券よりも、切手や籤引券に近いものである。

信用性

不換紙幣の内在的価値は政府と貨幣管理を担う中央銀行の信用性に裏付けられている。

各国中央銀行は独立的でありかつ相当な政治的庇護を与えられているが、これは不換紙幣の信用性の確保にとって本質的である。ベネズエラをはじめ、金融政策の直近の動向を無視している国は、そのために痛い目をこうむっている。

中央銀行の独立性・政治的庇護・運営手腕の評判、これが鍵だ。連邦準備制度の現議長であるジェローム・パウエルは、官僚的組織の一員としては世界最大の権力を握っている。合衆国統合参謀本部議長であるジョセフ・ダンフォード海兵隊大将の兵器庫の中には核兵器が収められているかもしれないが、それでもかれはトランプ大統領に従う立場にある。ジェローム・パウエルは違う。

各国中央銀行にたいするわれわれの信頼はフリードリヒ・ハイエクが前述の論文を記してから相当に高まってきたが、あるいはもっと高くなっているはずだったのかもしれない。とはいえ、私は不換紙幣の詳細なパフォーマンス統計を数十年間も遡って、これをダウンロードすることもできる。貨幣供給量も知っているし、これまで実施されてきた政策ツールも知っているのだから、そこから自分の見解を決めることも可能だ。暗号通貨やその他の活動に関する統計の情報は遥かに確保し難く、その歴史もずっと短い。

ユーロとドルの価値はECBやFedの信用性に支えられている。暗号通貨において、それは素性の知れぬ何らかの実体や手続きの信用性なのである。

どの暗号通貨とくらべても、私は先進経済国の中央銀行のほうを遥かに強く信頼している。

プライバシーとセキュリティー

かくしてプライバシーとセキュリティーが置き去りになる。

現金は100%匿名である。しかし一定の窃盗のリスクに曝されている。電子取引は匿名ではないが、より安全である。

一部の暗号通貨は匿名性を約束しているが、最も良く知られているビットコインは違う。ごく一部のユーザーしか持っていないような技能を用いて自分の足跡をじつに注意深く隠蔽しないかぎり、違う。その理由は、ビットコインチェーン上の取引記録が変更や削除できず、したがって検索可能なものになっているからだ。

ところで、暗号通貨投資家から窃盗の通報が無い日は無いのである。一番良いのは、自分のプライベートキーは外部から物理的に遮断したそれ用の使い捨て的ラップトップに保存するようにすることで、助言としてはこれに尽きる。

現金と電子マネーもまた窃盗の危険に曝されている。それでもなお、現金取引にはプライベートキーなど全く不要だし、電子現金 (electronic cash) 取引もキーの重要性はずっと小さい。われわれを保護してくれる多層セキュリティーが存在するのである。専門家ではないユーザーが用いるばあいであっても不換紙幣は、そうした人が基本的な警戒を怠らないかぎり、非常に安全なのである。

私はオンラインバンキングならば外部から物理的に遮断したそれ用の使い捨て的ラップトップに頼らなくともかなり安心感を持てる。

暗号通貨が窃盗の危険を免れ得るのは、入念な警戒を怠らぬ専門家が用いたばあいだけだ。われわれが暗号通貨に手を出したために被害者となる可能性は、現金や電子マネーとくらべ遥かに高い。

だから…

暗号通貨は大抵の不換紙幣や投資に劣る。しかもプライバシーやセキュリティーも提供しない。

私がこれを暗号通貨の唱道者に言うと、かれらは通常つぎの2通りの反応を見せる – つまり、私は暗号通貨を理解していない、あるいは暗号通貨には私が見過ごしている新しくて素晴らしい性質がある、ということになる。

私に分からないことは沢山あるが、暗号通貨の仕組みを理解するためにはこれまで一定の努力を注いできたつもりだ。しかしながら、全ての仕組みを知悉して、つまり全てのオタク的な技術的詳細を把握して、そのうえでなお、それが何を意味しているのか見当もつかないということもある。

例として人間の存在をあげよう。物理学や化学や生理学の全てを知り尽くし、分子や臓器が働く仕組みを理解することは可能だが、それでもなお私は一個人についてはこれっぽっちも知りはしないのである。

暗号通貨も同じだ。仕組みの詳細を知ること即ちその経済機能の理解ではない。

暗号通貨は一種の宗教あるいはカルトにより近いのであって、合理的な経済現象ではない。それは自らの起源神話さえ持っている。正体の掴めないサトシ・ナカモト。

読者諸氏からの啓蒙を待ちつつ。

参考文献

Bagehot, W (1873) “Lombard Street: A Description of the Money Market“.

den Haan, W, M Ellison, E Ilzetzki, M McMahon, R Reis, (2017) “Economists relaxed about Bitcoin: New CFM-CEPR expert survey on cryptocurrencies, the financial system, and economic policy“, VoxEU.org, 21 December.

Hayek, F A (1977), “Free-Market Monetary System“.

 

贾瑞雪, 下松真之, ダーヴィド・セイム 「中国では誰がトップ政治家になるのか?」(2013年8月20日)

Ruixue Jia, Masayuki Kudamatsu, David Seim, “Who becomes a top politician in China?“, (VOX, 20 August 2013)


経済と政治におけるパワーとは裏腹に、中国における指導者選出過程の詳しい実態は謎に包まれている。中国指導者の選出過程に関する新たな研究を提示する本稿では、中国共産党が (独裁政権につきものの) 忠誠的だが能力の無い指導者の選出を – 職務転換 (job rotation) および昇進の党内システムをとおして – 回避してきたことを示唆する。これまで同システムは、公務就任者のペアが共に働くことをとおして信頼構築を行うことを助け、これによりトップ政治家が信用できる部下のあいだから最も有能な人物を抜擢できるようにしてきたのである。

2012年11月、中国では新たな国家政治指導部が中国共産党中央委員会総書記・習近平のもと職務に就任した。ところで同年のそれにさきだつ時期には、来る新政権指導部の候補者として有望視されていた薄熙来が、党から除名されている。

民主的選挙が存在しない環境で中国政治家が辿ったかくも異なる運命。これをいかに説明すべきか? 人口最多国であり、国際政治においてもいよいよ影響力を増す中国だが、それにもかかわらず、彼の国のトップ政治家が候補者のプールからいかなる過程をへて選出されているのかについて、我々はほとんど知るところがない。過去数十年間の目を見張る経済パフォーマンスは、この問題の重要性をいや増すばかりである。これまでのところ中国では、経済成長を触発するような人物、あるいは少なくとも中国経済の発展の妨げとはならない人物が統治者として選ばれてきたが、同国の非民主的政治システムはどのような形でそうした選出を行ってきたのだろうか?

中国における政治家選出を取り上げたこれまでのアカデミックな研究は2つの陣営に分かれる。一方では、Li and Zhou (2005) などの学者が中国の省指導者 – 北京で将来トップ政治職に就く可能性のある候補者のプール – の昇進の決定因子を精査したうえで、省の経済成長が省指導者の昇進チャンスとポジティブに結び付いていることを明らかにしている。こうした実証成果の示唆するところでは、中国におけるトップ政治家の選出は、能力主義に基づいているのである。他方、Shih et al. (2012) はこの能力主義説への反証を提示しつつ、公務就任者のなかでも、トップ指導者とのコネクションがある者ほど中国共産党の階層組織においてより高い序列を与えられていることを明らかにし、縁故主義が選出過程で鍵を握る決定因子の1つである旨を示している。

新研究: 社会的コネクションと申し分なき経歴

われわれの最近の研究 (Jia et al 2013) はこれら2つの対立する見解の仲立ちを試みるものである。中国政治家の経歴データを1993-2009年にかけての経済統計値と併せて分析した結果、中国のトップ政治家となっているのは、1つ前の世代のトップ政治家と社会的コネクションがあり、かつ、比較的序列の低い政治職を担当していた時の業績が卓越していた人物であることが判明した。

現職トップ指導者との社会的コネクションのみでは、政治家として十分な業績がないかぎり、輝かしい将来は保証されない。トップ政治家層とのコネクションがなければ、政治の仕事で卓越していてもそれだけで彼らの一員として迎えられるかは定かでない。換言すれば、社会的コネクションと業績は、中国における政治的昇進の決定因子として補完的 (complementary) に働いているのである。

本研究では中国政治家のあいだの社会的コネクションを測定するにあたり、公にされているCVを用いている。ある政治家のペアが、かつて中国政府または中国共産党の同じ部門で同じ時期に一緒に働いていたばあい、このペアをコネクション有りとしてコード化した。よく知られた話だが、二人の前総書記・江沢民と胡錦涛はともに、ひとたび中国の指導者と成り果せるやそれぞれ自らの以前の同僚達を昇進させている。事実、我々のデータでもこれらコネクションが把捉されている: すなわち、上海市政府で形成された江沢民のコネクション、中国共産主義青年団 (Communist Youth League) で形成された胡錦涛のコネクションである。こうしたデータを用いて、各政治家につき中国共産党中央政治局常務委員会 (Politburo Standing Committee) メンバーのいずれかとコネクションが有るか無いかを測定した。なお同委員会は中国共産党における最高意思決定機関にあたり、中国のトップ政治家職への昇進を管轄する。

政治家の業績を測定するにあたっては、関連文献に倣い、中国31省 (31 provinces of China) の政治的指導者にフォーカスを絞っている (ここでいう省には、チベットなど5つの自治区、および上海など4つの市もふくまれる)。これら政治家については、かれらが担当する省の経済成長をもってその業績とすることができる。過去二十年間にわたる北京のトップ政治家は、その多くが省政府の運営を担った経験を持っている。事実、習近平は福建省と浙江省で、胡錦涛は貴州省とチベット自治区で、江沢民は上海市で、それぞれかつて指導者を務めている。中国における単独与党としての中国共産党の正当性がひとえに経済成長の達成に掛かっている点に鑑みれば、省のGDP成長こそが多々あるなかでも省指導者の業績の指標として最も重要になってくるのも想像に難くない。

そこで我々は、1993-2009年期間を対象に、社会的コネクションと省の経済成長が省指導者の昇進とどう結び付いているのかを分析することにした。図1に示すのが本研究の鍵たる発見である。横軸は、各省に内在的な差異 (例: 沿岸省では誰が運営にあたるばあいでも成長が比較的早い) および各年に内在的な差異 (例: 1997年のアジア金融危機以降は経済成長が国全体で減速した) を考慮したのちの、相対的な経済成長業績を表示している。数字の1は三分位の最下位、2は中間、3は最高位をさす。各グループにつき昇進率をプロットしたが、こちらも各省と各年度の差異の条件下での値である。右の縦軸にある0は、該当昇進率が平均値であることを意味する。実線は中国共産党中央政治局常務委員会とのコネクションの有る省指導者の昇進率を表示している; 点線はそうしたコネクションの無い者である。

図 1. 中国の省指導者の昇進にかかるコネクションと業績の補完性

コネクションが有る者と無い者の差は業績で三分位トップに属す者のあいだでは極めて鮮やかである。現職トップ指導者とのコネクションが無いばあい、このグループに属する者でも昇進チャンスは経済成長業績で劣る者とほぼ同等になる。しかしコネクションが有る者のあいだでは、このグループに属する者が北京のトップ政治職に昇進する可能性は、業績で下位2グループに属する者を相当に上回っている。図が示すように、コネクションが有って業績トップ三分位に属する者の昇進率は、それ以外の者よりも約9%ポイント高い。平均昇進率がおよそ7%ポイントなので、この差はかなり大きい。

コネクションの有る省指導者は成長の著しい省に割り当てられているのではないか、あるいはそう疑われる方もいるかもしれない。図1の棒グラフは、省指導者であってコネクションが有る者の度数分布を示すものだが、これら人物は3つの成長カテゴリに分かれる (左の縦軸は、コネクションの無い者をふくむ全ての省指導者にたいする比率を表示)。図が表すところでは、コネクションが有ることは必ずしも高い経済成長を含意していない。たしかに省指導者は、コネクションの有る者も無い者も、観測可能な特性につき幾つもの側面で異なる。だがしかし、こうした差異では、図1に観察される相関パターンが説明されない。最も重要な点だが、過去および未来の中国共産党中央政治局常務委員会メンバーとコネクションが有る者についても、同委員会現職メンバーがかつて働いていた政府部門で自らも働いていたがその時期が異なる者とのコネクションが有る者についても、同様の昇進パターンは見られない。こうしたコネクションではなく、意思決定権力を現在持っている人物と共に働いたことがある事実、これこそが違いを生むのである。

図1の考え得るもう1つの説明は、省の経済成長自体が実質的なコネクションを表すものなのだというものである。我々の研究では、省指導者がかつて中国共産党中央政治局常務委員会メンバーと共に働いたことがあるか、この点しか観察していない。だが、共に働いたことは必ずしも関係の良さを含意しない。実際にコネクションの有る者だけは昇進を約束されているのだが、そのことを粉飾するためこうした人達は中央政府から省経済推進の支援を受けている、というのが実態なのかもしれない。しかしながら、こと観測可能なコネクション強度 (共に働いた年の数、年齢の差) に関するかぎり、実証データはこの可能性を支持しない。つまり、コネクションの有る政治家が統治する省の経済成長は、こうしたコネクション強度の尺度によって然程異ならないのである。

残る問題は、中国でのトップ政治家選出においてコネクションと業績の補完性が見られる理由である。我々の主張では、これはコネクションがトップ政治家にたいする部下の忠誠を醸成する役割を果たしているためだ。中央政府を効率的に運営するため、北京のトップ政治家は、業績によって才覚が証明されている人物を昇進させることを好むだろう。他方でトップ政治家に好ましいのは、自らの政治生命の危険とならない人物でもあるはずだ。社会的コネクションはこの後者を確保するものかもしれない。かくして、コネクションが有る者のあいだに限っては、業績が昇進アウトカムを予告するのである。コネクションと業績の補完性は、省指導者であって、コネクションの有る中国共産党中央政治局常務委員会メンバーが自らよりかなり年長である者について、相対的に強くなっている。1990年代以降、中国は10年毎に最高政治指導部の世代刷新を経験している (最後の刷新は2012年)。同世代の政治家は中国におけるより高位の職を獲得すべく競争関係にあるが、異なる世代の公務就任者のあいだにはそうした関係がない。そこからの帰結として、省指導者がコネクションの有るトップ指導者のなかでもより年長の者にたいしより多くの忠誠を表すというのは、ありそうなことである。

コネクション

非民主主義国の統治者は、高官に就くべき公務就任者を選出する際、しばしば有能性と忠誠心のトレードオフに直面する (Egorov and Sonin 2011)。有能な政治家では現職指導者の権力が危うくなると見込まれるならば、忠誠的だが無能な公務就任者のほうが好まれることとなり、結果として独裁政権下においても統治の質は落ちる。本研究が示唆するのは、まさに中国がこのような罠を回避するのに用いてきた方法なのかもしれない。中国共産党内部の職務転換と昇進のシステムは、公務就任者のペアが共に働くことをとおして信頼醸成を行うことを助け、これによりトップ政治家がこうしたコネクションの有り、信用できる部下のプールから、最も有能な人物を選び出すことを可能にしているのだ。

参考文献

Egorov, Georgy, and Konstantin Sonin (2011), “Dictators and Their Viziers: Endogenizing the Loyalty–competence Trade-off”, Journal of the European Economic Association 9(5), 903-930.

Jia, Ruixue, Masayuki Kudamatsu and David Seim (2013), “Complementary Roles of Connections and Performance in the Political Selection in China”, CEPR Discussion Paper, no 9523.

Li, Hongbin, and Li-An Zhou (2005), “Political Turnover and Economic Performance: the Incentive Role of Personnel Control in China”, Journal of Public Economics 89(9-10), 1743-1762.

Shih, Victor, Christoper Adolph and Mingxing Liu (2012), “Getting Ahead in the Communist Party: Explaining the Advancement of Central Committee Members in China”, American Political Science Review 106, 166-187.

 

 

エルネスト・ダル・ボ, フレデリコ・フィナン, ウルレ・フォルケ, トーシュテン・パーション, ヨハンナ・リクネ 「政治的淘汰と包摂的能力主義への道」

Ernesto Dal Bó, Frederico Finan, Olle Folke, Torsten Persson, Johanna Rickne, “Political selection and the path to inclusive meritocracy“,(VOX,  26 April 2017)


古代アテネ人は公職に就任する者を決定するのに籤引を用いた。しかし、有能性 (competence) と公平な代表 (fair representation) の間にはトレードオフの関係があるとの主張が、寡頭主義者からなされたのもちょうどその頃 (そしてそれ以来ずっと) だった。本稿では、認知能力やリーダーシップ能力に関するスウェーデンの人口データの活用をとおし、スウェーデンの民主制が、有能であり、しかも、あらゆる生の在り方を代表するような人々による統治を実現している旨を論ずる。スウェーデンの包摂的能力主義は、選挙民主制が代表性と有能性の間の緊張を回避する手掛かりとなる可能性を示唆する。

BC411年の夏のこと、ある市民の一団がアテネの民主制に異を唱える寡頭制 クーデタ を敢行した (Kagan 1987)。政治的内乱と、シチリア人に敗北を喫した近時の経験とを背景に、これら蹶起人は、アテネに優れた統治を施しうるのは、大規模な民主的合議体ではなく、選り抜きの少数指導者集団であるとの意を固めていたのである。こうして誕生した寡頭制政権は短命に終わるが、それに続いたのは古典的なアテネ民主制の復活ではなく、「五千人の国制 (Constitution of the Five Thousand)」 と呼ばれる混合政体であり、これも引き続き最貧層の市民を権力から排斥するものだった。

民主制と寡頭制のこの緊張関係はすでにその頃までに、匿名の 「老寡頭主義者 (Old Oligarch)」 なる人物の手にかかる小冊子のなかで雄弁に論じられていた。それによると、民主制はあまりに多くの出自の低い者に権力への接近を許してしまい、才覚や徳の点で劣った統治を生み出しているのだという (Kagan 1969)。この老寡頭主義者の不満は選挙に向けられたものではなかった。それは当時籤引で行われていた、公職の割当に対するものであった。アテネの民主制ハードウェアとして最も特徴的なものは、投票箱ではなく、クレロテリオン (kleroterion) – すなわち名前を選出し、公職に割り当てる、粘土から作られた無作為選出装置だ。とはいえ老寡頭主義者は公平な批評家でもあった。つまり彼は、籤引による公職の割当が、下層階級の代表を確保するにあたって選挙よりも優れたものだと認めている。しかし彼の主張によると、籤引制度は重用され過ぎているし、またアテネの国制は有能性が極めて重要となる軍事的司令官などの役職については異なる手法を採用しているにもかかわらず、この選出制度は有能性を十分に考慮していないのである。

抽選 (籤引) による公務就任者の選出。そして有能性と公平代表の間にトレードオフの関係があるとの認識。これらはアテネ民主制が消滅した後にも残った。例えば、中世のフィレンツェ共和国は、権門勢家に対する明示的な公職制限と籤引を併用していた。Brucker (1962) は彼のフィレンツェ政治研究にこう書き記している。「籤引による公務就任者の選出手法は、政治能力や政治手腕をほとんど重視しておらず、むしろ凡庸性を奨励する傾向があった」 と。

ブレクジットレファレンダムと合衆国選挙は以上のような民主制の利点と限界に関する議論を再び呼び起こした。これら2つの投票は愚かな選択 (incompetent choices) を生んだと考える者は多い。他方、こうした投票結果は、自らが十分に代表されていないと感じている社会集団に後押しされた政治的ラディカリズムの一環だったのだと主張もある。一連の議論をとおし、抽選もまた再び日の目を見ることとなった。Van Reybrouck (2016) は最近の書籍のなかで、この手法ならばエリート層と投票権者のギャップを橋渡しできるのではないかと論じている。

広範な代表と有能な政治的リーダーシップの双方に価値を認めるのであれば、複数政党の並立する選挙民主制によって得られるものは何か、この点を問い直してみるのが有益と思われる。広範な代表 (これを確保するにあたっては抽選が助けになるだろう) と、有能な統治 (こちらについては抽選も役に立たないだろう)。この二者間の緊張関係を回避する手立てはないのだろうか? とはいえ、この問いに対する実証的な回答を見つけるのは難しい。一社会において政治家がどのように選出されているか、またこれら政治家が彼らの代表する人口とどの程度似通ったものなのか。これを見定めようと思うなら、我々にはまず、市民と政治家についての、有能性と代表性の尺度が必要となるだろう。しかしこうした情報を体系的に収集している国はほとんど存在しない。

我々の最近の研究では、1998年から2010年にかけての、スウェーデンの全体人口、およびスウェーデンで選挙に当選した全ての政治家を扱った行政データを分析している (Dal Bó et al., 近刊)。これらデータは、学歴や所得などといった – ミスリーディングの可能性は否めないとはいえ – 有能性を計るさいに一般的に用いられる様々な尺度を含んでいる。しかし我々の研究では3つの尺度にフォーカスすることにした。1つめは 「収入スコア」 で、これはBesley et al. (近刊) による方法論に基づき算出した。スウェーデン人の男性については、さらに 「認知スコア」(IQ) および 「リーダーシップスコア」(性格類型) も、兵役データに基づき測定した。

代表性の測定にあたっては、本データが持つもう1つの特筆すべき特徴に依拠している – すなわち家族内や世代にわたって個人を関連付けする機能だ。こうして政治家の両親の社会階級に関する情報が確保できた。この情報を活用することで、社会的な代表は政治階級の有能性の低下をともなうという老寡頭主義者の主張を検証できるようになった。

相対的に見て政治家は有能なのか?

まず初めに、これまでスウェーデンで政治家として選出された人物の有能性は、平均的にいって、籤引に基づき選出されたような場合と同じくらいなのか、それより優れている、あるいは劣るのか、この点を問うた。

「逆淘汰 (negative selection)」 によりむしろ無能性が導かれる可能性があるといっても、一部の経済学者は驚かないだろう。政界に進出しようとするさいに直面する機会費用は、能力のある個人ほど高くなる。そこで、能力の無い者が公的生活の大勢を占める事態も生じ得る (Caselli and Morelli 2004)。

さて前述の問いに答えよう。すなわち、市町村議会議員 (municipal council members) として歩み始め、市町村長 (mayors) や国会議員 (national legislators) へと進んで行く政治家は、強い正の淘汰をへて選出されているのである。図1には、リーダーシップ・認知・収入に関する有能性測定値、および学歴の分布を示した。太い中空の棒線はスウェーデン人口における分布である。最も薄い棒線は、市町村議会議員の候補者となったものの当選しなかった個人。続くグレーの棒線は当選した市町村議員候補者に対応する。最も右の2つの棒線はそれぞれ市町村長と国会議員である。

各政治家タイプについて特徴の分布をみると、スウェーデン人口における分布と比べ、右側にシフトしていることがわかる。したがって政治家は平均的な市民よりも適性があるといえる。また、同様のシフトは市町村議会議員候補者・市町村議会議員・市町村長・国会議員 の分布にも確認できる。我々の研究では、これらパターンをエリート層が就くような別の職種と比較しているが、市町村長は中規模企業 (被雇用者が25名から250名の企業) のCEOと同レベルの有能性を持っていることがわかった。

図1 スウェーデン人口と対比した政治家の有能性

出典: スウェーデンの人口データに基づき著者が作成

しかし、有能性が政治権力とともに単調に増加する傾向は、次の3つの異なる体制により生じてきた可能性がある:

  • エリート主義: エリート層の一員であること (富裕な権門勢家への所属) は権力へのアクセスを与える。政治家が有能そうに見えたとしても、それはエリート層の一員であることが能力と相関しているためであって、正の淘汰は寡頭制政治がもたらす偶然の結果にすぎない1
  • 排斥的能力主義: 政治は有能性の篩にかける。しかし、もし有能性が社会経済的地位の相対的な高さと相関しているなら、能力主義的人員募集体制には相対的に低位の社会集団を排斥する副次的効果がある。
  • 包摂的能力主義: 政治は有能性に基づき選別をおこなう。しかしそれは、仮に平均的に見てエリート層が有能性に関する優位をもっていたとしても、広範な社会部門を代表しうる。

正の淘汰はエリート主義の反映か?

エリートの地位が政治的成功を牽引していたのだとすると、家族的な (したがって社会的な) 出自の如何によっては、個人の有能性 (能力) も本人が選出されるかどうかにさほど関わらなくなってしまうだろう。

しかし家族的出自如何によっては、個人の有能性に関する特徴は非常に大きく関わってくる。図2上段の行は、市町村議員とその兄弟姉妹の認知・リーダーシップ・収入スコア分布を示す。3つ全ての特徴について、政治家の分布は明らかに右側にシフトしている。家族内での選別は、3つ全ての特徴に関して政治家と平均的市民との間に見られる差異全体の70%から80%を説明する。図の中段および下段の行は、市町村長と国会議員についてその兄弟姉妹と比較したものだが、ここでも類似の分布がみられる。敢えていうならば、むしろ家族内選別のパターンはより大きな権力を持つ政治家ほど強くなっている。

図2 兄弟姉妹と対比した政治家の有能性

出典: スウェーデンの人口データに基づき著者が作成

図2が示すように、選別は純粋なエリート主義に基づくものではない。しかしそれは依然として排斥的能力主義と両立するものかもしれない。つまりスウェーデンは政治家たるに値する有能な人物を選出しているかもしれないが、それでもこうした個人がエリート層の出身である可能性はある。能力というものには、恵まれた社会的出自と正の相関があるからだ (スウェーデンでさえ、これが実情となっている)。

スウェーデンは包摂的能力主義の国か?

もしスウェーデンが包摂的能力主義の国であるなら、スウェーデンは有能な人物を高い地位に就けながらも、広い代表性を維持していることになる。この問いに答えるべく、我々は政治家の社会的出自を調査した。そのさい着目したのが、1979年における彼らの父親達の所得分布だ。理屈からすれば、全体国民人口に対応するパーセンタイルの形で表した所得分布は、0.01水準で一様になるはずであることに注意されたい。

図3の左パネルは、2011年時点で活動していた政治家に関する所得分布を示す (これら政治家は2010年に当選した者で、図中の所得は彼らの政界進出に先立つもの)。明瞭に見て取れるように、この歪んだ分布は、政治家はその平均以上の能力を反映し、高い収入を得る傾向があることを示している。同図はさらに、政治家は平均的な人より大きな機会費用に直面するにもかかわらず、あえて政界に進出していることを示唆する。次に右パネルだが、これはかなり印象的だ。図は、2011年度の政治階級の父親達 – 1979年に測定したものなので、父子はちょうど同じくらいの年代にあたる – が、平均的にはけっして高給取りではなかったことを示している。実際のところ、彼らの所得パーセンタイル分布は、全人口における一様分布に非常に近い。換言すると、政治家の社会的出自に目を向けるならば、全体人口と同じ所得分布が確認できるのである。スウェーデンの政治家は有能なだけでなく、あらゆる生の在り方を代表してもいる。スウェーデンは包摂的能力主義の国だといってよさそうだ。

図3 政治家とその父親達の所得分布

出典: スウェーデンの人口データに基づき著者が作成

民主制と徳

BC411年のクーデタの後、寡頭主義者が最初に実行したことの1つは、アテネにおける公務就任者の賃金撤廃だった。近代経済学者ならば、こうした政策は有能な人物に政界進出を敬遠させるものだと考えるだろう。これでは機会費用の補償がないわけだから。しかしアテネの寡頭主義者はそれとは異なる理論を持っていた。公の問題に時を惜しまず尽力する余裕があるのは富裕層のみであるから、賃金を撤廃すれば政治家の有能性を高めることができる、これが彼らの考えだった。どちらの理論が正しいのかは、アテネ人がスウェーデンのような包摂的能力主義を生み出す条件を満たしていたのかに掛かっている。

スウェーデンでは、有能な人物が市政に時を惜しまず尽力している。市政職は – クーデタ後のアテネと同様 – (大部分が) 無給なのにもかかわらず。しかも職務に邁進している人物に、エリート層がとびぬけて多いわけでもない。以上が示唆するのは、選挙民主制によっても、きわめて有能なリーダーを選出しつつ、しかも抽選を採用した場合に期待される人口代表的なリーダーシップを維持できることだ。

これは勿論、民主制なら常に望ましいアウトカムにつながるとの旨をいうものではない。しかし選挙民主制は、古代ギリシアこの方、社会の観察者を悩ませてきた代表性と有能性の緊張関係を回避する手立てにはなりそうだ。今回の研究結果は、社会の持つどういった性質が以上のようなアウトカムを生み出しているのかについてのさらなる調査を促すものとなった。

集者注: 本稿は研究の要旨であり、オックスフォード大学出版によるQuarterly Journal of Economicsに近日掲載される論文  “Who Becomes a Politician?” から図を引用している。本稿で使われた図の再利用許可については、journals.permissions@oup.comに連絡のうえ、元論文を参照されたい。

参考文献

Besley, T, O Folke, T Persson, and J Rickne (forthcoming), “Gender Quotas and the Crisis of the Mediocre Man: Theory and Evidence from Sweden,” American Economic Review.

Brucker, G (1962), Florentine Politics and Society, 1343-1378, Princeton, NJ: Princeton University Press.

Caselli, F and M Morelli (2004), “Bad Politicians,” Journal of Public Economics 88: 759–782.

Dal Bó, E, F Finan, O Folke, T Persson, and J Rickne (forthcoming), “Who Becomes a Politician?” Quarterly Journal of Economics.

Kagan, D (1969), The Outbreak of the Peloponnesian War, Ithaca, NY: Cornell University Press.

Kagan, D (1987), The Fall of the Athenian Empire, Ithaca, NY: Cornell University Press.

Van Reybrouck, D (2016), Against Elections: The Case for Democracy, London: Bodley Head.

原註

[1] 選挙民主制においても、エリート主義の可能性の考察は無駄ではない。あのアテネ人にしてすら、寡頭制の要素には世論を勝ち取り影響力を確保するうえで有利な点があろうと考えていた; ペリクレスもしばしば民衆扇動をしていると非難を受けたのである。共和制ローマにおいてもパトリキによる同様の戦術が繰り返し観察された。共和制ローマでは、金と名声によって支持を購うことができたのだった。

モーガン・ケリー, コーマック・Ó・グラーダ 「産業革命初期の帆走速力」(2018年1月27日)

Morgan Kelly, Cormac Ó Gráda, “Speed under sail during the early Industrial Revolution“, (VOX, 27 January 2018)


経済史家のあいだでは (海事史家について事情は異なる) 海事テクノロジーは19世紀中期になって鉄製蒸気船が登場するまでの300年間概して停滞的であったという見方がコンセンサスとなっている。しかしこのコンセンサスがもっぱら依拠するのは、貨物運送コストや航海の長さの変化といった間接的な尺度なのである。これにたいし本稿では、様々な風模様での船舶の速力が時間の経過とともに向上してきた過程に直接目を向ける。英国船舶の速力は1750年から1830年にかけて (もともとの水準が低かったとはいえ) 当初速力の半分にほぼ相当する分の上昇をみた。これは船体の銅板被覆加工、および木製のジョイント・ボルトから鉄製のそれへの移行に負うものである。

産業化突入以前の世界において、数百平方ヤードに広がる軟帆 (canvas sails) をもつそれは、無生物エネルギーを利用する最も効率的な手段であった。すなわち帆船は、19世紀中頃に至るまで西欧世界において欠くべからざる運送テクノロジーであった。こうした船舶の性能向上には軍事的にも商業的にも強いインセンティブがあったことに鑑みれば、Douglass North (1968) の労作以後、経済史家 (海事史家について事情は異なる) のあいだで、19世紀中頃に鉄製蒸気船が登場するまでの300年間海事テクノロジーは概して停滞的だったとの見方がコンセンサスとなっていることは意外かもしれない。

海洋テクノロジーの進歩を測定しようとするこれまでの試みは、貨物運送コストや航海の長さの変化といった要素に着目した、間接的なものにとどまっていた (Solar 2013)。我々の新たな論文ではこれと異なるアプローチを採用し、様々な風模様における船舶の速力が時とともに向上してきた過程に直接目を向けた (Kelly and Ó Gráda 2018)。

今回こうした試みが可能になったのは、野心的ながら不完全な形で終わったCLIWOCと呼ばれる気候学プロジェクトのおかげである (Wheeler et al. 2006)。同プロジェクトは、1750年から1850年にかけての海洋気候状況を、英国・オランダ・スペイン 船舶の航海日誌から28万エントリ分もの記録を収集することで再構成しようという試みだった。これら記録のおかげで該当船舶の所在地・風速・進行方向 に関する日毎の情報が得られるので、一隻の船舶が特定の日にどのくらいの速さで帆走していたかを推定することが可能となる。

図1は、ナポレオン戦争に数十年さきだつ時期の英国海軍 (British Royal Navy) および東インド会社の船舶について日毎の所在地を点示したものである。ここに見られる幾つかの大きな円は、卓越風および卓越海流に乗ったこれら船舶が取った航路だ。赤道上での速力の低さは、その辺りに点が集中している様子から見て取れる。またアフリカ大陸の南端でも、船舶が喜望峰の周りを東向きに進む難しいところで同様の状況が覗われる。

図 1 英国船舶の日毎の所在地

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図2 (非線形的な可能性もある 年度・所在地・風況 のあいだの交互作用を考慮するため、一般化したランダムフォレスト法により推定) は、東インド会社船舶の速力が、戦時中は船団を組んで帆走するため落ち込みが見られるものの、1750年から1830年にかけて向上してきた過程を示している。とはいえ、これら船舶の帆走がそもそも遅かったことも確認できる。1820年代になってさえ和風や疾風時で – 夏の北大西洋における通常の海況 – 5ノットから7ノット程度しか出せていなかったのである。

図2 様々な風速における東インド会社船舶の帆走速力

[訳注: gentle breeze=軟風; moderate breeze=和風; fresh breeze=疾風; strong breeze=雄風]

同様の改善は英国海軍の船舶にも見られたが、対応するオランダとスペインの船舶では事情が異なる。事実、オランダ船舶は1790年になっても1600年の頃と同様に東インド会社船舶の後塵を拝すばかりであり、搭乗者や船員は典型的な航海においてさえすし詰めの環境と熱帯病のためにその5%強が命を落としていた。

英国船舶に見られる以上の相当な改善はどうすれば説明が尽くのか? 1780年代の飛躍は船体の銅板被覆加工に負うもので、これが海藻やフジツボ類による汚損を防止した。また期間全体にわたり帆と索具のたゆまぬ改善も見られた。1790年以降の大きな貢献は、木製に代わる鉄製のジョイント・ボルトの利用増加 (および船楼の段差をもつ従来型の甲板に代わる、防水ハッチ付き平甲板の採用) に由来する。これにより構造的により強固であって、比較的強い風の中でも安全な帆走が可能な船舶が実現した。

また我々はニューヨーク行きおよびニューヨーク発の [英国の] 国営郵便船 (Post Office packets) が必要とした帆走時間に関する記録も入手できた。役人や船員によって密輸 (また時には海賊行為) の隠れ蓑にされることもしばしばあったとはいえ、これら船舶の性能にも時とともに緩やかな向上が見られた。ところが1820年代にアメリカの民間郵便船が登場すると状況は一変する。1840年までに郵便船は1750年とくらべておよそ50%早い速力での帆走を達成するのである ([快走帆船ともよばれる] クリッパー船はこれの50%分早い速力で帆走していた – [クリッパー船]「チャンピオン・オブ・ザ・シーズ (the Champion of the Seas)」 が丸一日のあいだ平均19ノットで帆走したのが1854年。この記録はその後130年間破られることはなかった)。

最も若い世代についていえば、18世紀後期の産業革命はそれが何であれ革命的なものではなかったのであり、イノベーションにせよコットン・製鉄・蒸気といった初期段階で小規模だった部門に限られ、その他の部門は停滞状態から抜け出せずにいたのだ、というのがこれまで経済史家のあいだで支配的な見解となってきた。しかしいま、英国経済全体をとおして広範な進歩が生じた経緯を取り上げた文献がいよいよ増えている。そうした進歩が見られた部門は実に多岐にわたり、陶器・製鋼・印刷および製紙・水力・ガス灯・懐中時計・工作機械などがあるが、本稿で取り上げた海運もその1つなのである。

参考文献

Kelly, M, and C Ó Gráda (2018), “Speed under Sail during the Early Industrial Revolution”, CEPR Discussion Paper 12576.

North, D C (1968), “Sources of Productivity Change in Ocean Shipping, 1600-1850”, Journal of Political Economy 76, 953–970.

Solar, P M (2013), “Opening to the East: Shipping between Europe and Asia, 1780-1830”, Journal of Economic History 73, 625–661.

Wheeler, D, R Garcia-Herrera, F B Koek, C Wilkinson, G P Können, M R Prieto, P D Jones, and R Casale (2006), “CLIWOC, Climatological database for the world’s oceans: 1750 to 1850”, Brussels: European Commission.

フリオ・J・アライアス, ニコラ・ラチェテラ, マリオ・マチス 「道徳的嫌悪感の解明をめざして: 合衆国腎臓移植市場のケース」(2016年10月15日)

Julio J. Elias, Nicola Lacetera, Mario Macis, “Understanding moral repugnance: The case of the US market for kidney transplantation” (VOX, 15 October 2016)

臓器の販売をはじめ、ある種の 「忌まわしき取引 (repugnant transactions)」 は、そこから見込まれる相当の潜在的効率性向上効果にもかかわらず、道徳的見地から禁止されている。本稿は、サーベイ準拠実験を活用し、合衆国の腎臓調達システムにおける道徳性-効率性トレードオフに対する世間の認識を解明しようという試みである。サーベイ回答者は効率性の上昇と引き換えにならばより強い嫌悪感 (repugnance) も容認することが明らかになった。こうした調査結果は、道徳・倫理上の考慮事項と並んで効率性への配慮が存在する可能性を示唆する。

あなた、あるいはあなたの愛する人が、いま腎疾患に苦しんでいるとしよう。そうした場合、ドナーから腎臓提供を受けるほうが透析を受けるより数段好ましい – 提供を受ければ期待余命もクオリティオブライフも向上するし、あなたにとっても医療システムにとってもお金の節約になる。ところが親戚縁者や友人知人あるいはドナーバンクにも全く移植適合者が見つからない – 合衆国でも他の諸外国でも、あまりにありふれたシナリオである。しかし、金銭的補償と引き換えになら腎臓を提供してもよいという人がいる。あなたの側には要求額の支払いに異存はないので、そう言う意味では取引が成立すれば以前より好ましい状態になれるはず。ドナーの側もまた然り。しかしながら、偶々イランに住んでいるというのでなければ (Ghods and Savaj 2006)、あなたは取引締結を許されないだろう。こうした取引を、アルヴィン・ロスは 忌まわしき (repugnant) との形容詞をもって定義する – 何故ならば、道徳的懸念から個人や社会はこうした類の取引の成立に反対し、たとえ直接の当事者達がその取引から便益を得る場合であってもなお譲らないからである (Roth 2007)。

道徳的嫌悪感が感じられている活動や取引は数多く存在するし、そうした感覚がこれら活動を禁止あるいは制限する法律の形を取るに至っているケースもままある。例を挙げれば、売春・商業的代理母・ヒトの卵子や血漿の販売、またある種の肉の売買・ある種の生産物に対する価格付けなどがこれに当たる。以上のものにせよ、それ以外のものにせよ、忌まわしき取引に対する姿勢は国や時代によって様変わりする; 例えばかつては年季奉公契約 (indentured servitude contract)も許されていたが、現在これは全面的に禁止されているし、逆に生命保険契約などは過去においては不道徳だと見做されていたのだった。

このように、様々な嫌悪感への配慮は、我々が目にする市場や取引の形態に重要な影響を及ぼし、政策・市場設計の足枷ともなり得るのである。

腎臓市場: 嫌悪感に由来する規制と費用

腎臓移植市場というのは、嫌悪感ゆえに締結を許されている取引がこうむる制約や、そうした限界につきまとう費用を示す好例の1つである。例えば合衆国の関連システム – 移植不適合と判明した存命の潜在的ドナー・レシピエントペア達が、引き続き移植適合となるようなドナー・レシピエントのペアを探すもので、移植待ち時間の短縮になる – は腎臓取引を許可しているが、金銭的補償は連邦法により禁止されている。1984年全米臓器移植法 (National Organ Transplant Act of 1984) というのがあって、「有価約因 (valuable consideration)」 を対価に、ヒトの臓器を移植用に譲渡することは禁止されており、違反者は5万ドル以下の罰金、5年以下の自由刑、またはその併科を以て処罰されることになる。

金銭的補償により腎臓および臓器一般の供給量増加が期待できる、と一部の学者は推定しているが、もしそうであるなら、こうした取引の禁止は、見込まれる増加分が上限となるとはいえ、代償を伴うものである。合衆国では、毎年およそ3万5千人の新規患者が腎臓移植を必要とするようになるのだが、腎臓1個の確保ができる者は約1万7千人に過ぎない (Held et al. 2016)。最近の推定値が示すところによると、追加的臓器移植がある毎に約20万ドルの直接的節約効果を生む; 期待余命およびライフクオリティ増分の価値を加算すれば、腎臓レシピエント毎の社会的便益は110万ドルに上昇する。そこで、合衆国における腎臓供給不足の総費用は毎年約200億ドルほどと推定されることになる。

とはいえ、もし人口集団が本当にこの嫌悪感を共有し、それを侵し難い聖なる価値だと考えているのならば – つまり、他の考慮事項と引き換えに手放すことの出来ない物だと見做しているのであれば – 先ほど言及した様な禁止やそれに付随する費用もまた正当化されよう。文化や道徳に関わる信念は社会結束における重要因子であり、そうした要素として、それ自体が厚生を向上させる力を持っている; とりわけ、社会に深く根差した原理原則の尊重が、支払システム如何による潜在的効率性向上の考慮に優越する場合などは十分考えられるだろう。

しかしながら、金を払って臓器を購入することに対する道徳的反対の詳細、またとりわけ、効率性への配慮 (そうした取引が生み出す余剰) といったその他の因子はあるべき腎臓取引形態をめぐる個人の立場とそもそも関連しているのか、関連しているのならそれは如何なる形でなのかといった点について、実情を知らせる実証データは全く存在しないのである:

  • ドナーに対する金銭支払いを拒絶する態度は何に突き動かされているのか?
  • 支払いに反対する立場はどこまで非妥協的なものなのか?
  • 情報の問題は関係しているのか?
  • 金銭支払いが道徳的に問題含みと見做されているとしても、金銭の支払いによって移植用腎臓の供給量がそれほどまで増加するのならばと、無償ドナーシステムではなく有償ドナーシステムへの選好を個人が表明しはじめるような、一定の有限量は存在するか?

嫌悪感の解明に向けて: 実験的アプローチ

我々が最近実施したサーベイ準拠選択実験は、以上の問いに取り組みつつ、幾つかの腎臓調達システム代替案における道徳性と効率性とのトレードオフの定量化を試みるものだ。結果、確かにドナーへの支払いを許すシステムは支払無しのシステムよりも強い道徳的懸念を生じさせるが、多数派の個人は、十分に大きな追加的移植を生み出すのであれば、嫌悪感の強いシステムであっても容認するようになることが判明したのである。

嫌悪感-効率性トレードオフ

我々はAmazon Mechanical Turk を介して2,918名の合衆国住居者をリクルートした。参加者には、合衆国における臓器調達・割当状況の概略を紹介したうえで、不特定者に向けた生体腎臓提供の増加をめざす次の3つの調達システム案について一考を求めた:

  1. 無償ドナーに依拠し、割当てのほうも患者の医学的状態・年齢・臓器提供者待ちリスト上にいた時間等々により決定される優先順位ルールを基準とするシステム (現行システムに相当)。
  2. 割当ては同様の優先順位決定アルゴリズムに基づくが、ドナーとなった者は公的エージェンシーから2万ドルを受け取る、というシステム。
  3. 個人レベルの私的取引システムであって、ドナーとなった者が臓器レシピエントから (ポケットマネーで、あるいは個人加入保険を通す等して) 2万ドルを受け取るというもの。

以上の情報を確認したのち、被験者にこれらシステムの道徳性に関する意見を、哲学や生命倫理研究の分野で強調されている倫理問題 (例: Delmonico et al. 2002) の観点から表示してもらった。その際に尋ねたのは、各システムの 威圧度・搾取度・患者に対する不公正度・ドナーに対する不公正度・人間の尊厳に対する背反度 についての考え、さらに各システムが回答者の価値観からどの程度ズレているかに関する全体的な評価である。

続いて回答者に、各システムが移植用腎臓調達の点で所定の効率性をもたらすものと想定したうえで、自身が好ましいと考えるシステムを選択してもらった。まずこれら3つのシステムの効率性レベルが無作為に決定され、つぎにそこから1つのシステムを選択する流れとなる。各参加者にはこの一連の作業を、順次3回行ってもらった。

さてその結果だが、無償ドナーシステムは嫌悪感が薄いとの評価を受けた – つまり個人は、その大部分が、同システムに対する道徳的懸念を表明しなかったのだ。残る2つの有償ドナーシステムは概して無償ドナーシステムより高い嫌悪感評価を受けた。しかしながら、システムが公的エージェントによる支払を予定しているのか、それとも私的取引を締結した患者による支払を予定しているのかによって大きな差が見られ、後者が最も嫌悪感の強いシステムという結果になっている。

選択全体に目を向けるなら、この結果から、回答者が嫌悪感と効率性の特定の組合せを選択する確率は、効率性水準と共に上昇し、嫌悪感と共に減少したことが分かる。回答者はしたがって効率性の優れた選択肢、および嫌悪感が少ない見做す選択肢を選好したわけだが、そうした選択を通して、これら2つの性質の間に一般的なトレードオフ関係が在ることもまた認めたのである。

離散選択モデルを活用し、こうしたトレードオフの大きさの推定を試みたところ、年間腎臓供給量が約6%ポイント増加するならば、メディアン回答者も公的エージェントによる臓器ドナーへの支払のほうを良しとするようだ; これは約2千個の追加的腎臓供給に相当し、不足をおよそ11%削減、納税者にとって年間2億5千万ドルもの節約となる。

しかしながら、私的取引に基づくシステムを容認する場合、メディアン回答者は、1万個もの追加腎臓調達に相当する約30%ポイントの供給増加 (不足の50%超を削減する量である)、したがって納税者にとって12.6億ドルもの節約効果があることを要求するようだ。この推定トレードオフの差はどうやら公的エージェンシーによる有償ドナーシステムのほうが、我々が調査に組み入れた全ての道徳的観点について、私的取引システムよりも嫌悪感が薄いと見做されたという事実に由来するようである。具体的にいうと、参加者は公的エージェンシーシステムを無償ドナーシステムと同程度に 「患者に対し公正」 と評価したが (両システムはともに同じ優先順位ルールに基づいて患者への臓器割当てを行う)、他方で (全くの市場ベースで割当てが行われる) 私的取引は極めて不公正であると見做されたのだ。

母集団の中には、「義務論的」 選好を持つがゆえ命を救われる人の期待数とは無関係に一貫して支払許可に靡かない者から、道徳的問題を考えるにあたって効率性に重きを置く 「帰結主義者的」 個人に至る不均一性が存在した。この不均一性は、回答者の社会-人口学的特性とは一般的にいって関連が見られなかったが、心理学の領域で典型的に用いられる道徳的ジレンマ群をとおして測定した様々な態度 (attitudes) との間には相関が見られており、したがってこうした選択の中心にあるものが倫理的見解である旨を示すさらなる実証データが得られた。

結論

「我々は 『忌まわしき取引』 という現象をより良く理解しつつ、さらにこれと取り組んでゆく必要がある。こうした取引が市場や市場設計に対する重要な制約として働いている場合も珍しくないのだ」[1] と、アルヴィン・ロスは強調する。腎臓ドナーに対する支払の禁止は同現象の重要な一例だ。本研究は、嫌悪感に関わる考慮事項に基づいた個人の選択が予測可能な形で効率性情報に反応すること、また、そうであっても倫理的見解がなおこうした選好に極めて重要な影響を与えていることを示唆する。

そのため、以上の様なセンシティブな論題について実証データを供給しつつ研究を推し進めてゆくことが、さらなる実態把握や、人口集団が現実に抱いている選好に基づいた政策設計の改善に結実する可能性もあるだろう。特に臓器ドナーおよびその家族への規制付き支払システムを導入するケースにつき、今回の実証成果は、経済的インセンティブから期待し得る潜在的便益を社会に知らしめることが実際にこうした取引の容認度に影響を及ぼすことをとりわけ強く示すものとなっている。

個人の選好はどうやら倫理的考慮事項に加えて期待される効率性によっても左右されるようである。パイロット試験をとおして様々な設定でのアウトカムを検証すれば、人口集団が自らの選好する臓器調達・割当システムを決定する能力の向上が期待できるだろう。

参考文献

Becker, G S & Elias, J J (2007) “Introducing incentives in the market for live and cadaveric organ donations”, The Journal of Economic Perspectives, 21(3): 3-24.

Delmonico, F et al (2002) “Ethical incentives—not payment—for organ donation”, New England Journal of Medicine, 346(25).

Ghods, A J and S Savaj (2006) “Iranian model of paid and regulated living-unrelated kidney donation”, Clinical Journal of the American Society of Nephrology, 1(6): 1136-1145.

Elias, J J, N Lacetera and M Macis (2015) “Sacred values? The effect of information on attitudes toward payments for human organs”, Papers and Proceedings of the American Economic Review, 105(5): 361-65.

Elias, J J, N Lacetera and M Macis (2016) “Efficiency-morality trade-offs in repugnant transactions: A choice experiment”, NBER, Working Paper No 22632.

Held, P J, F McCormick, A Ojo and J P Roberts (2016) “A cost‐benefit analysis of government compensation of kidney donors”, American Journal of Transplantation, 16(3): 877–885.

Roth, A E (2007) “Repugnance as a constraint on markets”, Journal of Economic Perspectives, 21(3): 37-58.

原註

[1] http://hbswk.hbs.edu/item/repugnant-markets-and-how-they-get-that-wayを参照

エウジェニオ・プロト, アルド・ラスティチーニ, アンディス・ソフィアノス「社会はなぜ協力するのか」(2018年1月19日)

Eugenio Proto, Aldo Rustichini, Andis Sofianos, “Why societies cooperate“, (VOX, 19 January 2018)


協力行動を生み出す性質としては次の3つがよく挙げられる – 優しい気性・優れた規範性・知能。本稿ではあるラボ実験の結果を報告する。この実験ではさまざまなプレイヤー集団が協力の学習から利益を得ている。本実験をとおし、知能こそが、社会的に結束した協力的な社会にとっての第一義的条件であるという考え方への、非常に強力な裏付けが得られた。他者にたいする温かな感受性や優れた規範性には、小さく一過性の効果しか存在しないのである。

社会交流において、協力行動を決定付けるもの、あるいは我々をして自分自身だけでなく、我々の隣人にも便益のある形で活動することを可能にするものは何か? こうした隣人は、同国人でもあれば、この同じ惑星で共に生きる人でもあろう。「気になりますよ」 との言葉ばかりでなく、自分自身とともに他の人の生活も良くするような我々の行動を誘い出すのは、一体何なのか?

換言すれば、我々を実際的な (effective) 社会的動物にするものは何か?

経済学者をはじめとする社会科学者は数多くの説明を提示してきた。協力は温かな感受性に由来するのかもしれない。そうであるなら他者へ思い遣りは我々に寛大かつ協力的な行動を動機づけるものとなり得る。この議論によると、結束力のある社会とは、優しく寛大な感受性が我々の活動を触発している社会なのである (Dawes and Thaler 1988, Isaac and Walker 1988, Fehr and Gaechter 2000, Fehr and Schmidt 1999, Falk et al. 2008, 等々)。

他方、優れた規範性と制度こそが社会的に有用な行動の大枠を提示するという説も存在する。この解釈によると、調和ある社会は、一貫して守られる優れた規範性と信頼 (Putman 1994, Coleman 1988, among others)、あるいは過去より受け継がれ現在うまく機能している制度に、その基礎をもつことになる (Acemoglu et al. 2001, 等々)。

最後に、洞察力に富む利己心が我々を導き、良き市民たらしめている可能性もある。この説によると、社会に協力が生まれるのは、人々が自らの活動の社会的帰結を予測しうるほどには賢い時、となる。ここでいう社会的帰結には他者にとっての帰結も含まれる。

最近の論文 (Proto et al., 近刊) で、我々はこれら3つの説を実験により検証した。結果、知能こそが社会的に結束した協力的な社会にとっての第一義的条件であるという考え方への、非常に強力な裏付けが得られた。温かな感受性や優れた規範性も一定の効果を持つが、それは一過性かつ小さなものである。

優しい気性・優れた規範性・知能

本実験は幾つかのゲームに依拠している。ゲームは一定のルール群からなるもので、これらルール群は2名の人物にたいし一定の利得を割り当てるものだが、その利得はプレイヤー双方の選択に掛かっている。このゲームは複数回繰り返されるので、これら2名のプレイヤーは互いに再び顔を合わせると知っていることになる。この繰り返しがあるので、各プレイヤーはそれまでの回に相手プレイヤーが取った行為に応じた対応をすることが可能となる。

本研究における繰り返しには無作為終了 (random termination) を採用しており、その頻度は実験者によってコントロールされている。続行確率が高いほど社会交流も長くなる。またこれら繰り返しゲームは非ゼロサムゲームである。換言すれば、協力的な – 相互に便益のある – 行動の余地が残されている。とはいえ自己中心的な、相互に損害を及ぼす行動についても同上だ。これは我々が実生活のなかで最も頻繁に経験する社会交流を反映したもので、大変重要な点である。

続いて2つの 「町 (cities)」、つまり被験者の集団を設定した。これら2つの集団は次の3つの特徴のうち1点で異なるものである: 優しい気性・優れた規範性・知能。我々が特に注目したのは、被験者が協力行動を選択した頻度であり、この頻度を協力率と呼ぶ。

我々は何種類かのゲームを調べた。はじめに取り上げたのは囚人のジレンマである。囚人のジレンマを一回限りのゲームとして行うならば、相手プレイヤーが何を選択するとしても、裏切り (相手プレイヤーと協力しない) のほうが利得は大きくなる。しかしゲームが無限回繰り替えされるならば、協力行為が各人にとって最適となる可能性がある。そのばあい両プレイヤーが全ての回に協力する均衡がうまれるかもしれないが、それは逸脱があるとその後に裏切りの均衡に逆行してしまう恐れがあるからだ。なお、この均衡において、現在の利得 (プレイヤー一名が裏切ったばあい、より大きくなる) と長期的利得 (こちらでは同プレイヤーが裏切ったばあい、より小さくなる) とのあいだのトレードオフがある点に注目されたい。

知能

知能の測定には、被験者のレーヴン漸進的マトリックステストにおける成績を利用した。一方の集団における被験者がもう一方の集団よりも高い知能をもっているように集団を設定すると、相対的に知能の高い側の集団は協力することを学習し、ほぼ完全な協力を達成することが確認された。相対的に知能の低い被験者からなる集団の側では、協力率が初期水準より低下している (図1)。

1 高/低-知能被験者集団が無作為終了型の繰り返し囚人のジレンマをプレイした時の協力率

: プレイヤーはレーヴン漸進的マトリックステストの結果を用いて集団に割り当てられている。

優しい気性

次に我々は、被験者の協調性 (agreeableness) 水準に従って2つの集団を設定した。この協調性というのは 「性格5因子 (Big 5)」 の1つであり、ポジティブな社会的傾向性 (信頼と寛大さ) の水準を計測したものである。図2にこれら2つの集団が無限回繰り返し囚人のジレンマをプレイした時の協力率を示した。これら2つの協調性集団には協力率にはっきりとした違いが存在しない。

図 2 高/低-協調性被験者集団が無作為終了型の繰り返し囚人のジレンマをプレイした時の協力率

: プレイヤーは性格5因子の1つに関する質問紙の結果を用いて集団に割り当てられている。

優れた規範性

最後に我々は、社会規範の遵奉水準の点で区別される集団を設定した。その特定にあたっては誠実性 (conscientiousness) を用いた。この誠実性は、秩序だっている・あてになるに・自己規律および良心性 (dutifulness) を示す といった傾向により定義されるもので、これも性格5因子の1つである。図3にこれら2つの被験者集団における協力率を示した。見られるように、高-誠実性集団は協力を増加させるというよりむしろ、低-誠実性集団とくらべ協力することを学習するのが遅くなっている。この結果が示唆するのは、社会規範の順守水準の相対的な高さは協力水準の相対的な高さの保証にならないことである。本分析が示唆するところ、こうした事態が生じた理由は、高度に誠実な被験者は自らの選択につきあまりに警戒的であるためだ。このことが完全な協力への収斂を遅らせたのである。

図 3 高/低-誠実性被験者集団が無作為終了型の繰り返し囚人のジレンマをプレイした時の協力率

: プレイヤーは性格5因子の1つに関する質問紙の結果を用いて集団に割り当てられている。

より単純なゲームにおける知能の影響

協力ないし協力することの学習にたいする知能の作用形態につき更なる知見を得るため、我々は2つの知能集団に、もっと単純な、現在の利得と長期的利得とのあいだに一切トレードオフが存在しないゲームを幾つかプレイしてもらった。1つ例を挙げれば、鹿狩りゲーム (stag hunt game) である。このゲームではプレイヤーは鹿と兎のいずれを狩るか決定しなくてはならない。鹿を狩るばあい、相手プレイヤーも鹿を狩るならば利得が高くなるが、相手プレイヤーが兎を狩るばあいの利得は低い。兎を狩るばあいは、相手プレイヤーの決断いかんに関わらず、中ほどだが確実な利得が得られる。

プレイヤーが一度きりしか顔を合わせないのならば、鹿を狩るのが最適となるのは、相手プレイヤーも鹿狩りを選ぶだろうと予想しているばあいのみである。しかしこのゲームが繰り替えされるばあい、ひとたび鹿狩りでの協調に至れば、両プレイヤーにとってもはや敢えて兎狩りを決定することの利益は長期的にも短期的にも存在しなくなる。図4に鹿狩りにおける協調率を示す – 見られるように、高/低-知能集団のあいだに然したる違いは無い。両集団は鹿狩りに協調することを素早く学習しており、その後自らの行動を変化させていない。男女の争い (Battle of the sexes) も短期と長期の利得のあいだにトレードオフが無いゲームだが、こちらでも同じ結果が得られている。

図 4 高/低-IQ被験者集団が不定回繰り返し鹿狩りゲームを別のラボセッションで行った時の、鹿狩りでの協調率

: プレイヤーはレーヴン漸進的マトリックステストの結果を用いて集団に割り当てられている。

目標無視

1つの仮説は、短期と長期の利得のあいだにトレードオフが存在しないゲームでは、知能が協力状況に及ぼす影響が小さくなる、というものだ。これはDuncan et al. (2008) によって明らかになった、相対的に低-知能の個人が非戦略的選択において見せる目標無視 (goal neglect) と似通った影響である。同研究において著者らは、知的な人ほどすでに選択された戦略をより一貫して適用する傾向があることを実験的に示した。我々の実験でも、短期的な目標が長期的目標と齟齬を来すようなゲームをプレイした時、自らの長期的目標を蔑ろにし、利得を減らす失敗をしてしまう個人が時折現れた。図6は被験者の犯した失敗を示すもので、知能を分位点ごとに分けて表示している。

図 5 繰り返し囚人のジレンマゲームにおける戦略の適用に際し被験者が犯した失敗(IQ分布分位点ごと)

: 「失敗 (errors)」 は、それまでの回に被験者が協力しているばあいの裏切りと定義した。

参考文献

Acemoglu, D, S Johnson and J A Robinson (2001), “The colonial origins of comparative development: An empirical investigation”, American Economic Review 91(5): 1369-1401.

Coleman, J S (1988), “Social Capital in the Creation of Human Capital”, American Journal of Sociology 94: S95-S120.

Dawes, R M and R Thaler (1988), ‘‘Cooperation’’, Journal of Economic Perspectives II: 187–197.

Duncan, J, A Parr, A Woolgar, R Thompson, P Bright, S Cox, S Bishop, and I Nimmo-Smith (2008), “Goal neglect and Spearman’s g: competing parts of a complex task”, Journal of Experimental Psychology: General 137(1): 131-148.

Falk, A, E Fehr, U Fischbacher (2008), “Testing theories of fairness—Intentions matter”, Games and Economic Behaviour 62(1): 287-303.

Fehr, E and K Schmidt (1999), “A theory of fairness, competition, and cooperation”, Quarterly Journal of Economics 114: 817–868.

Fehr, E and S Gaechter (2000), “Cooperation and Punishment in Public Goods Experiments”, American Economic Review 90(4): 980–994.

Isaac, M R and J M Walker (1988), ‘‘Group Size Effects in Public Goods Provision: The Voluntary Contribution Mechanism’’, Quarterly Journal of Economics 103(1): 179–199.

Proto, E, A Rustichini, A Sofianos (forthcoming), “Intelligence, Personality and Gains from Cooperation in Repeated Interactions“, Journal of Political Economy.

Putnam, R D (1994), Making Democracy Work: Civic Traditions in Modern Italy, Princeton University Press.